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2025年12月14日 (日)

右京さんの口癖

書く方が悪い場合もあるのですが、そうでなくても、生徒たちの反応を見ていて、彼らが難しいと言う文章が出てくることがあります。まず、話題が子どもにとって縁遠いものである場合ですね。関心もないので面白いわけがなく、難しいと思うのは当然でしょう。次に、使われている言葉が抽象的であったり、外来語が多く使われたりしている場合。そういうときは、文章の終わりに語注が付いているのですが、難しく感じることに変わりがないようです。もう一つは、文章の展開の仕方。これは筆者が下手な場合も意外に多いのですが、逆にうまい人が、奇をてらいすぎるのか大胆な飛躍をしてみせることもあります。この三つがそろった論説文が出たら、生徒たちはおそらく半分も読まないうちにチーンと言って爆死してしまいます。

希の国語科講師がテストをつくる場合、極力そういう文章を避けます。ただし、カンムリ模試は例外。入試に合わせて、あえて変な文章を出すこともあります。公開テストのレベルでは、むちゃな論理展開のものもないし、主張は比較的わかりやすいはずです。文章がわかるというのは、結局言いたいことが伝わったということですから、細かいところを気にする必要は本来ありません。たしかにテストでは主張にからんだ問題とは別に、そういう細かいことを問うものも実際にはあります。生徒がテスト直しを出してくることがありますが、言いたいことがつかめているか、ポイントになる問題が正解できていれば、基本的にはほめてやります。要旨や主題がとらえられていれば読む力はあるということですから。

では、読む力をつけるためにはどうすればよいでしょうか。基本は数多くの文章に接するということでしょう。多読・乱読は有効です。ひっかかるところが出てくれば、どういうことだろうと考えることで力がつくのですが、実際には考えてもわからないことが多いので、無理しなくても構いません。「読書百遍意自ずから通ず」というのは同じ文章を読むということですが、ちがう文章でも、たくさん読んでいけば、なんとなく「読むコツ」みたいなものが身についてきます。一冊ずつ読むのではなく、何冊もの本を並行してよむのもよいかもしれません。飽きてきたら別の本に移る、というやり方ですね。一時期、横溝正史の小説を何冊かそういう並行的読書でやってしまい、ストーリーがごちゃごちゃになったことがあります…。ちがうジャンルのものがおすすめです。図書館で毎回七、八冊ぐらい借りてきて、二週間後の期日まで並行方式で読んでいますが、文系人間なので科学的な読み物はどうしても少なくなります。地学も好きではなかったのですが、『ブラタモリ』で出てくる岩石や段丘の話はおもしろいし、NHKの科学番組も非常に興味深いときがあります。結局は話のもっていき方や見せ方、要するにプレゼンの仕方で面白くもつまらなくも見せてしまうのですね。

私たちの授業も同様で、同じ単元、題材、文章を扱いながら、面白い授業を展開させる講師と、残念ながらそうならない講師がいます。また、同じ講師が同じことをしゃべりながらも、クラスによって反応が大きく変わることがあります。これらはちょっとした違いなのですね。微妙な違いが大きな差を生む。落語など、しゃべる言葉はほぼ同じなのに、名人ならどっと受け、前座は全く受けません。その場のふんいきというのが大きいのでしょう。寄席では、前座から始まって少しずつ笑いが増えていき、客が笑う態勢になっていきます。「客席があたたまる」というやつです。そこへ真打ちが絶妙の呼吸でしゃべるから、どっと受ける。みんなが笑うとつられて笑い、ますます笑う態勢ができあがっていきます。

笑ってやるものか、と構えているところに出て行っても、なかなか笑ってもらえない。「つかみが大事」とよく言いますが、すべると終わりです。テレビのワイドショーでスタジオに客がいる場合、前説がうまいと本番での反応がよくなります。放送局に勤めていた友人が若いころ前説をやっていたそうですが、やはり大阪出身という強みか、すごく受けがよかったそうです。どういう話し方をすれば受けるのか、聞き手が興味を持つのは、どういう話の展開になっているときなのか、そういうことが直感的にわかっているのでしょう。たとえば、出来事を時系列で並べても面白くもなんともありません。「正岡子規が、それまでの俳諧連歌の発句だけを独立させて俳句と名付けた」という事実をそのまま述べても面白くありません。「松尾芭蕉って、生涯俳句をいくつ作ったと思う?」というところから始めると、いろいろ答えが出てきますが、「ゼロ」と答えるとみんなびっくりします。実は芭蕉がやっていたのは俳諧連歌であって、発句を独立させて発表したものが一千ぐらいあるのだけれど、そのころは俳句とは呼ばれていなかった。明治になってから正岡子規が俳句と言い出したのだから、芭蕉には俳句を作っているという意識はなかったはず、と説明すると、なるほどと言ってくれます。

高浜虚子が師匠の正岡子規から受け継いだ『ホトトギス』という俳句雑誌の編集をしていたときに、子規の東大時代の友達である英語教師に小説を書いてみろ、とすすめたら自信がないと言う。俺が直してやるから、と言って『ホトトギス』に発表した作品の名前、知ってる? 『吾輩は猫である』と言うんやけど…と話すと面白く感じてもらえますが、漱石を主語にすると面白い話にならない。順序をちょっと工夫するだけで話の印象が大きく変わり、面白く感じてもらえます。

ではどういう状態が「面白い」なのか。目の前がパッと明るくなるイメージなので、華やかで明るい感じを表す言葉のようです。そこから、興味を感じてわくわくするような意味や、こっけいに感じて朗らかに笑うような意味になっていったのでしょう。古語としての「をかし」や「あはれ」も意味が変化していきました。「をかし」は知的な興味を感じる様子、物事を客観的にとらえながらも心ひかれる感じです。そこから「こっけい」や「奇妙」の意味に変化したのでしょう。一方「あはれ」は物事と一体化して、しみじみと心動かされるというところから、「かわいそう」という意味に変化していったようです。変化の筋道を知ると味わい深いものがあります。「変化の筋道」と書いていて「演歌の花道」という番組名と似ていると、しょうもないことが気になるのが、ぼくの悪いくせ。

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