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2025年11月の2件の記事

2025年11月30日 (日)

達人の文章

「アンパンマン」は男性という設定なので「マン」ですが、登場するキャラも男性なら「~マン」で、女性キャラの名は「~マン」ではないようになっているようです。全部チェックしたわけではないので、断定はできませんが…。もちろん、「アンパンマン」が「アソパソマソ」になったら性別云々以前に意味不明です。ただ生徒の答案を見ていると、「ン」と「ソ」、「シ」と「ツ」の区別がつかないものが間々見られます。多少はやむをえないでしょうが、区別できるように意識してほしいものです。「安物」の外国製商品の説明書には、「ち」と「さ」、「ぬ」と「め」など、それはアカンやろというミスがあります。「…してくだちい」と書かれていると、声に出して読みたくなります。日本語がまったくわからず、形だけで判断すればそうなるのもやむをえないのでしょう。「お好み焼き」の看板が「おぬみ焼き」に見えたりすることがありますが、これは「くずし字」になっているだけで、まちがっているわけではありません。

「万葉仮名」というものがあります。「うめのはなちる」を「宇米能波奈知流」と表記するやり方です。要するに「当て字」ですね。意味は関係なく、音だけを借りてきているのだから、同じ音ならちがう字でもかまわないわけで、適当に漢字を選んで使っています。平仮名は漢字のくずし字から生まれたものですが、元になる漢字が複数ある場合も出てきます。「か」が「加」だけでなく「可」から生まれたり、「こ」も「古」から生まれたりしています。「変体仮名」と呼ばれるものです。「仁」から生まれた「に」という字しか知らないと、「尓」のくずした字で書かれていたりする古文書は読めません。

それでなくても、古文書は読めないものです。まず、字そのものが判別できない。特に手紙などでは「被下度候」をさらにくずして書かれたりします。そうなると、読み慣れていない者には意味不明です。さらに、もともと手紙では、お互い同士でなければ通じない内容を、「的確」とは言えないような表現で書いたりするので、活字になっていても意味がわからない。当て字も多いし。前に触れた『稲生物怪録』も手紙に近い文体なので読みにくいものでした。

それにしても、信長が秀吉の妻にあてた手紙が残っていたりするのは面白いなと思いますし、文豪の全集には書簡の部がはいっていたりします。プライバシーもへったくれもありません。不適切にもほどがある。ただ、死んだ人にはプライバシー権はないのですね。たしかに歴史上の人物を研究するうえでプライバシーを気にしていたら何もできなくなります。生きているときに表沙汰にされたら激怒しそうなものでも、死んでしまえば反撃できません。作家ならプライバシーの切り売りをしているところもあるのでやむをえないところもあるでしょう。そうでない著名人には、いい迷惑ですね。ただ反対に、その人の知られざる魅力が発見されることがあるかもしれません。歴史上の人物に対する一面的な見方をひっくり返してもらえることもあるでしょう。信長の手紙にしても、非常に細やかな心配りのできる人だったことをうかがわせるものがあります。秀吉を「はげねずみ」と呼んでおり、「サル」ではないのも面白い。光秀を「きんか頭」と言っていることも有名です。だいたい戦国武将は兜をかぶって闘うので、頭がむれてハゲになりやすいし、わずかばかり残った髪の毛でまげを結うのは難しかった、という話もあります。

鎧兜をあわせれば20キロぐらいあると言います。それで走り回ったり、壕を泳いで渡ったりするのですから、昔の日本人はなかなかすごかった。平安時代の十二単だって相当重かったはずです。米俵をいくつも持ち上げている女性の写真とか見ると、バランスをとる感覚もさることながら、やはり力持ちが多かったのかも? 栄養状態を考えても今の日本人ほど恵まれていなかったと思うのですが…。身長にしたって150センチぐらい。西洋人とは比べものにならなかったはずです。

その日本人の中でも、大男よりも小さな者のほうが評価が高い場合があるのも奇妙です。「大男総身に知恵がまわりかね」とか、相撲でも小兵力士の人気が高かったりします。箱庭なんてものもミニチュアですから、日本人は小さいものが好きだったのでしょうか。電化製品でも、どんどんコンパクトにしていきました。文芸でもわずか十七文字にまで切り詰めたものが好まれます。その究極が「以心伝心」で、理想はしゃべらなくても伝わるということです。テレパシーというのともちがいますね。瞬間的にふんいきとしてつかめるという状態です。ただ、境遇や立場を同じくしたり、長年ともに暮らしていたりする者が特殊な状況にさらされた、というのなら顔を見ただけで伝わることもあるでしょうが、現実には難しい。できるだけ切り詰めた表現を使うのも、ある程度は可能ですが、正確に伝わっているかというと心許ない。

逆に、言葉を駆使して伝えようとしても伝わらないことがあります。説明文で筆者の言いたいことが伝わらない場合、読者と筆者のどちらに責任があるのでしょうか。意外に筆者の伝え方が下手なだけ、という場合もありそうです。世の中には説明の下手な人というのがいるのですね。そして、そういう人に限って自分が下手であることに気づいていない。反対に、頭がよすぎて伝わらないこともあります。筆者にとっては自明のことでも、読者にとっては論理の飛躍になる場合です。養老孟司の文章などはその典型かもしれません。難しいことを言ってやろうという意識はおそらくないでしょうから。

世の中は、あえて難しい言葉や外国語(カタカナで書いているが「外来語」にはなっておらず,日本語としては扱えない段階の言葉)を使って「高尚」ぶる人もいるようです。専門家がどうしても専門用語を使う必要のある場合はあるでしょう。しかし、「わかっている人」なら、その言葉の意味や使い方についてコメントするはずです。難しいことを難しく書くのは二流で、一流の人は難しいことをわかりやすく書く、と言います。この文章のように、中身のないことをわかりにくく書くのは、もはや達人と言えます。

2025年11月16日 (日)

スーパーパーソン

「一瓢を携えて」式の作文教育は意外に正解なのかもしれません。自由に書け、と言われてもなかなか書けないけれど、「型」があれば書けるものです。基本は型に多く触れること、つまり、たくさん読むことです。特に音読は有効です。視覚と聴覚の両方から認識され頭の中にはいってきます。昔から『論語』の素読がなされていたのはそういう理由もあるでしょう。

『論語』は「子曰く」で始まりますが、「曰く」の読みは「いわく」と「のたまわく」の両方があります。敬語にするかどうかの違いなので、どちらでもよいのですね。では、「有朋自遠方来不亦楽乎」をどう読むか。「朋あり。遠方よりきたる…」なのか、「朋遠方よりきたるあり」なのか「朋の遠方よりきたるあり」なのか。第一案は「友達がいて、その友達がやってきた」という感じ、第二案は「友達が遠方からやってくるというできごとがあった」、第三案は第二案と同じともとれるし、「の」を「同格」と考えれば「友達で、遠方からやってくるというのがいた」ともとれます。微妙に違ってくるのですが、大意は同じです。意味さえ通じればよいのであって、細かいニュアンスの違いはここではどうでもよいことです。

ふだんの言葉では、「は」と「が」の使い分けのように、細かい違いを意識していることがあります。聞いているほうも、そういうことに注意すると、伝える側の微妙な意図がうかがえます。「静けさ」と言うか、「静寂」と言うか、あるいは「しじま」と言うかによって、意味よりも味わいの違いが生まれます。こういう違いは、他言語に翻訳するときにきちんと伝わるのでしょうか。伝えたくても限界があるかもしれません。特に韻文となると、リズムを伝えるのは至難の業ですし、言葉の奥にこめられた意味やニュアンスは伝えられないでしょう。「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」の表面的な意味は伝えられても、「いにしへの奈良の都」と「けふ九重」が対比されており、「九重」が「宮中」の意味を表すとともに、遠い奈良から、京都の「ここの辺」に運ばれてきたという感動、「八重」と「九重」の対比、さらにはその前の「奈良」の「な」の音から「七、八、九」の並びの面白さはどうやって翻訳すればよいのでしょうか。

逆に英語の小説を日本語に翻訳したとき、単に言葉を置きかえただけでは済まないことがあるでしょう。二つの別の単語に同じカタカナのふりがなをつけて、これは駄洒落ですよ、ということを表している場合があります。その手を使えないときは括弧つきで駄洒落の解説をしている時もあります。これは日本の小説を英語に翻訳する場合も同じことをしているのでしょうね。ただ、もともと漢字で書いていたか、ひらがなで書いていたか、そのちがいは伝えられません。

では、日本人はそのちがいをどうやって感じ分けられるのか。結局は経験をどれだけ積むかということでしょう。つまり、読書量の差は相当大きいものがあるということです。逆に言えば、読みの深さはもともと持っている力ではなく、経験によって養われるものであるということになります。映画のように、文字を使わないものであっても、見る人によって解釈の深さは変わります。解説、評論によって、なるほどと思えることがあります。

岡田斗司夫が『火垂るの墓』で節子が死んだ後の清太が無表情になっていることを解説しています。宮崎駿なら表情やせりふで心情を語らせるけれど、高畑勲は無表情によって悲しみを表現していると。さらに、多くの観客はその無表情を「悲しみを抑えている」と解釈して、けなげな清太に感情移入して泣くのですが、岡田斗司夫は、そうではなく清太の「人間性」が壊れたのだと解説します。そう言われると、「たしかに」と思ってしまいます。それは、そう言われて納得できるだけの「体験」があるのからなのですね。たとえ間接的な体験であっても、そういうことってあるよなあと思えるだけの土台となる体験を持っているのです。いつ、どこで体験したのかは忘れていますが。だいたい、ほとんどの知識は、「いつ、どこで」身につけたかは忘れても、たしかに頭の中に残るものなのですね。6年のテキストにも載っている向田邦子の文章で、「空谷」という言葉を覚えた時のことが書かれていますが、こういうのはまれで、ある言葉をいつ覚えたかは記憶には残っていません。でも、覚えた言葉はいつのまにか自分の語彙になっています。

向田邦子の文章はよく入試に出ますが、出しやすい理由の一つは、構成がうまいということです。もちろん文章もうまいし、せりふも深い。脚本の場合も、橋田壽賀子のような「ベタ」なものも書けるのがすごいです。向田邦子は亡くなってもう何十年もたちましたが、今の脚本家にも女性が多くなっており、うまいなと思える人もたくさんいます。原作者ともめた人もいたけれど…。マンガにしても女性が大活躍です。男性作家が描きそうな『鬼滅の刃』も『鋼の錬金術師』も女性です。骨太の社会派ドラマを女性が書いていてもなんらおかしくありません。だいたい日本では、紫式部の時代から女性作家が活躍していたのですね。入試に出る文章の出典を見ていても、女性によるものが年々増えているような気がします。昨今では各方面で「女流」という冠がとれてきたようです。

「女優」という言葉も消えていくのでしょうか。このあたりはフェミニズムとも関係しそうですが…。「ヒーロー」「ヒロイン」という言葉は消えないのでしょうか。特に「ヒーロー」という言葉には「英雄」の要素があるので、文句をつける人が出てきそうですが、どうなんでしょう。たまに、「女性ヒーロー」なんて言葉を見ることもありますが、これは「ヒロイン」とはちがうのですかね。「ヒロイン」という言葉には「添え物的要素」があるのかもしれません。「スーパーマン」に対して「スーパーウーマン」というのがありました。「マン」を「人」ではなく「男」とするなら、「スーパーウーマン」という言葉が出てくるのも当然ですが、男と女の区別をするのもよくないという立場に立つなら「スーパーパーソンと言うべきなのか。ただ、「パー」が連続して出てくることになって、語感がよくないなあ。

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