達人の文章
「アンパンマン」は男性という設定なので「マン」ですが、登場するキャラも男性なら「~マン」で、女性キャラの名は「~マン」ではないようになっているようです。全部チェックしたわけではないので、断定はできませんが…。もちろん、「アンパンマン」が「アソパソマソ」になったら性別云々以前に意味不明です。ただ生徒の答案を見ていると、「ン」と「ソ」、「シ」と「ツ」の区別がつかないものが間々見られます。多少はやむをえないでしょうが、区別できるように意識してほしいものです。「安物」の外国製商品の説明書には、「ち」と「さ」、「ぬ」と「め」など、それはアカンやろというミスがあります。「…してくだちい」と書かれていると、声に出して読みたくなります。日本語がまったくわからず、形だけで判断すればそうなるのもやむをえないのでしょう。「お好み焼き」の看板が「おぬみ焼き」に見えたりすることがありますが、これは「くずし字」になっているだけで、まちがっているわけではありません。
「万葉仮名」というものがあります。「うめのはなちる」を「宇米能波奈知流」と表記するやり方です。要するに「当て字」ですね。意味は関係なく、音だけを借りてきているのだから、同じ音ならちがう字でもかまわないわけで、適当に漢字を選んで使っています。平仮名は漢字のくずし字から生まれたものですが、元になる漢字が複数ある場合も出てきます。「か」が「加」だけでなく「可」から生まれたり、「こ」も「古」から生まれたりしています。「変体仮名」と呼ばれるものです。「仁」から生まれた「に」という字しか知らないと、「尓」のくずした字で書かれていたりする古文書は読めません。
それでなくても、古文書は読めないものです。まず、字そのものが判別できない。特に手紙などでは「被下度候」をさらにくずして書かれたりします。そうなると、読み慣れていない者には意味不明です。さらに、もともと手紙では、お互い同士でなければ通じない内容を、「的確」とは言えないような表現で書いたりするので、活字になっていても意味がわからない。当て字も多いし。前に触れた『稲生物怪録』も手紙に近い文体なので読みにくいものでした。
それにしても、信長が秀吉の妻にあてた手紙が残っていたりするのは面白いなと思いますし、文豪の全集には書簡の部がはいっていたりします。プライバシーもへったくれもありません。不適切にもほどがある。ただ、死んだ人にはプライバシー権はないのですね。たしかに歴史上の人物を研究するうえでプライバシーを気にしていたら何もできなくなります。生きているときに表沙汰にされたら激怒しそうなものでも、死んでしまえば反撃できません。作家ならプライバシーの切り売りをしているところもあるのでやむをえないところもあるでしょう。そうでない著名人には、いい迷惑ですね。ただ反対に、その人の知られざる魅力が発見されることがあるかもしれません。歴史上の人物に対する一面的な見方をひっくり返してもらえることもあるでしょう。信長の手紙にしても、非常に細やかな心配りのできる人だったことをうかがわせるものがあります。秀吉を「はげねずみ」と呼んでおり、「サル」ではないのも面白い。光秀を「きんか頭」と言っていることも有名です。だいたい戦国武将は兜をかぶって闘うので、頭がむれてハゲになりやすいし、わずかばかり残った髪の毛でまげを結うのは難しかった、という話もあります。
鎧兜をあわせれば20キロぐらいあると言います。それで走り回ったり、壕を泳いで渡ったりするのですから、昔の日本人はなかなかすごかった。平安時代の十二単だって相当重かったはずです。米俵をいくつも持ち上げている女性の写真とか見ると、バランスをとる感覚もさることながら、やはり力持ちが多かったのかも? 栄養状態を考えても今の日本人ほど恵まれていなかったと思うのですが…。身長にしたって150センチぐらい。西洋人とは比べものにならなかったはずです。
その日本人の中でも、大男よりも小さな者のほうが評価が高い場合があるのも奇妙です。「大男総身に知恵がまわりかね」とか、相撲でも小兵力士の人気が高かったりします。箱庭なんてものもミニチュアですから、日本人は小さいものが好きだったのでしょうか。電化製品でも、どんどんコンパクトにしていきました。文芸でもわずか十七文字にまで切り詰めたものが好まれます。その究極が「以心伝心」で、理想はしゃべらなくても伝わるということです。テレパシーというのともちがいますね。瞬間的にふんいきとしてつかめるという状態です。ただ、境遇や立場を同じくしたり、長年ともに暮らしていたりする者が特殊な状況にさらされた、というのなら顔を見ただけで伝わることもあるでしょうが、現実には難しい。できるだけ切り詰めた表現を使うのも、ある程度は可能ですが、正確に伝わっているかというと心許ない。
逆に、言葉を駆使して伝えようとしても伝わらないことがあります。説明文で筆者の言いたいことが伝わらない場合、読者と筆者のどちらに責任があるのでしょうか。意外に筆者の伝え方が下手なだけ、という場合もありそうです。世の中には説明の下手な人というのがいるのですね。そして、そういう人に限って自分が下手であることに気づいていない。反対に、頭がよすぎて伝わらないこともあります。筆者にとっては自明のことでも、読者にとっては論理の飛躍になる場合です。養老孟司の文章などはその典型かもしれません。難しいことを言ってやろうという意識はおそらくないでしょうから。
世の中は、あえて難しい言葉や外国語(カタカナで書いているが「外来語」にはなっておらず,日本語としては扱えない段階の言葉)を使って「高尚」ぶる人もいるようです。専門家がどうしても専門用語を使う必要のある場合はあるでしょう。しかし、「わかっている人」なら、その言葉の意味や使い方についてコメントするはずです。難しいことを難しく書くのは二流で、一流の人は難しいことをわかりやすく書く、と言います。この文章のように、中身のないことをわかりにくく書くのは、もはや達人と言えます。




