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2025年11月16日 (日)

スーパーパーソン

「一瓢を携えて」式の作文教育は意外に正解なのかもしれません。自由に書け、と言われてもなかなか書けないけれど、「型」があれば書けるものです。基本は型に多く触れること、つまり、たくさん読むことです。特に音読は有効です。視覚と聴覚の両方から認識され頭の中にはいってきます。昔から『論語』の素読がなされていたのはそういう理由もあるでしょう。

『論語』は「子曰く」で始まりますが、「曰く」の読みは「いわく」と「のたまわく」の両方があります。敬語にするかどうかの違いなので、どちらでもよいのですね。では、「有朋自遠方来不亦楽乎」をどう読むか。「朋あり。遠方よりきたる…」なのか、「朋遠方よりきたるあり」なのか「朋の遠方よりきたるあり」なのか。第一案は「友達がいて、その友達がやってきた」という感じ、第二案は「友達が遠方からやってくるというできごとがあった」、第三案は第二案と同じともとれるし、「の」を「同格」と考えれば「友達で、遠方からやってくるというのがいた」ともとれます。微妙に違ってくるのですが、大意は同じです。意味さえ通じればよいのであって、細かいニュアンスの違いはここではどうでもよいことです。

ふだんの言葉では、「は」と「が」の使い分けのように、細かい違いを意識していることがあります。聞いているほうも、そういうことに注意すると、伝える側の微妙な意図がうかがえます。「静けさ」と言うか、「静寂」と言うか、あるいは「しじま」と言うかによって、意味よりも味わいの違いが生まれます。こういう違いは、他言語に翻訳するときにきちんと伝わるのでしょうか。伝えたくても限界があるかもしれません。特に韻文となると、リズムを伝えるのは至難の業ですし、言葉の奥にこめられた意味やニュアンスは伝えられないでしょう。「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」の表面的な意味は伝えられても、「いにしへの奈良の都」と「けふ九重」が対比されており、「九重」が「宮中」の意味を表すとともに、遠い奈良から、京都の「ここの辺」に運ばれてきたという感動、「八重」と「九重」の対比、さらにはその前の「奈良」の「な」の音から「七、八、九」の並びの面白さはどうやって翻訳すればよいのでしょうか。

逆に英語の小説を日本語に翻訳したとき、単に言葉を置きかえただけでは済まないことがあるでしょう。二つの別の単語に同じカタカナのふりがなをつけて、これは駄洒落ですよ、ということを表している場合があります。その手を使えないときは括弧つきで駄洒落の解説をしている時もあります。これは日本の小説を英語に翻訳する場合も同じことをしているのでしょうね。ただ、もともと漢字で書いていたか、ひらがなで書いていたか、そのちがいは伝えられません。

では、日本人はそのちがいをどうやって感じ分けられるのか。結局は経験をどれだけ積むかということでしょう。つまり、読書量の差は相当大きいものがあるということです。逆に言えば、読みの深さはもともと持っている力ではなく、経験によって養われるものであるということになります。映画のように、文字を使わないものであっても、見る人によって解釈の深さは変わります。解説、評論によって、なるほどと思えることがあります。

岡田斗司夫が『火垂るの墓』で節子が死んだ後の清太が無表情になっていることを解説しています。宮崎駿なら表情やせりふで心情を語らせるけれど、高畑勲は無表情によって悲しみを表現していると。さらに、多くの観客はその無表情を「悲しみを抑えている」と解釈して、けなげな清太に感情移入して泣くのですが、岡田斗司夫は、そうではなく清太の「人間性」が壊れたのだと解説します。そう言われると、「たしかに」と思ってしまいます。それは、そう言われて納得できるだけの「体験」があるのからなのですね。たとえ間接的な体験であっても、そういうことってあるよなあと思えるだけの土台となる体験を持っているのです。いつ、どこで体験したのかは忘れていますが。だいたい、ほとんどの知識は、「いつ、どこで」身につけたかは忘れても、たしかに頭の中に残るものなのですね。6年のテキストにも載っている向田邦子の文章で、「空谷」という言葉を覚えた時のことが書かれていますが、こういうのはまれで、ある言葉をいつ覚えたかは記憶には残っていません。でも、覚えた言葉はいつのまにか自分の語彙になっています。

向田邦子の文章はよく入試に出ますが、出しやすい理由の一つは、構成がうまいということです。もちろん文章もうまいし、せりふも深い。脚本の場合も、橋田壽賀子のような「ベタ」なものも書けるのがすごいです。向田邦子は亡くなってもう何十年もたちましたが、今の脚本家にも女性が多くなっており、うまいなと思える人もたくさんいます。原作者ともめた人もいたけれど…。マンガにしても女性が大活躍です。男性作家が描きそうな『鬼滅の刃』も『鋼の錬金術師』も女性です。骨太の社会派ドラマを女性が書いていてもなんらおかしくありません。だいたい日本では、紫式部の時代から女性作家が活躍していたのですね。入試に出る文章の出典を見ていても、女性によるものが年々増えているような気がします。昨今では各方面で「女流」という冠がとれてきたようです。

「女優」という言葉も消えていくのでしょうか。このあたりはフェミニズムとも関係しそうですが…。「ヒーロー」「ヒロイン」という言葉は消えないのでしょうか。特に「ヒーロー」という言葉には「英雄」の要素があるので、文句をつける人が出てきそうですが、どうなんでしょう。たまに、「女性ヒーロー」なんて言葉を見ることもありますが、これは「ヒロイン」とはちがうのですかね。「ヒロイン」という言葉には「添え物的要素」があるのかもしれません。「スーパーマン」に対して「スーパーウーマン」というのがありました。「マン」を「人」ではなく「男」とするなら、「スーパーウーマン」という言葉が出てくるのも当然ですが、男と女の区別をするのもよくないという立場に立つなら「スーパーパーソンと言うべきなのか。ただ、「パー」が連続して出てくることになって、語感がよくないなあ。

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