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2021年3月22日 (月)

日本の呂布

名前の印象と実態が乖離しているのはよくあることですが、改名するだけでイメージが変わることもあります。昔、「山岳部」というクラブの部長をしていたことがあったのですが、部長権限で名称変更を申請して見事に認められました。その名も「ハイキング部」。女子部員が全くいなかったのが、改名した途端、入部希望者が続出しました。それまではリュックサックに石をつめこんでガニ股で運動場を歩くような野暮の極致のようなトレーニングをしていたのですが、それもなしにして、パラダイスのようなクラブ活動でした。

「皿洗い」を「ディッシュ・ウォッシャー」と言うと高度な技術を要する仕事のように思えますが、これは名前を変えても実質いっしょ、というパターンですね。「オレオレ詐欺」が「振り込み詐欺」に変わり、さらに「振り込め詐欺」に変わりましたが、これも実質いっしょです。しかも「振り込め」は言いにくい。変える必要があったのかなあ。ことば狩りによって変えさせられるのはもっといやですね。一部の意見にすぎないのに、一見正論で反駁しにくいのがむかつきます。弱者の味方のようなふりをして、実は傲慢な押しつけをしているからむかつくのでしょう。

「~屋」というのも差別だと言って、ことば狩りされているようです。たしかに「床屋」とは最近言わなくなりましたが、こういうことばが消えると『浮世床』の意味もわかりにくくなります。落語のネタにもなっており、私は小学生のころ、「姉川の合戦」をこの話で知りました。浅井長政の裏切りにあった信長が家康とともに浅井・朝倉連合軍と戦う、という有名な合戦であるということも知らずに名前だけをおぼえたのですね。落語って偉大だなあ。真柄十郎左衛門直隆という武将が登場するのですが、昔はこういうマイナーな武将でも知名度は高かったのでしょうね。講談や軍記物にしばしば登場する朝倉家の家来ですが、映画の『クレヨンしんちゃん』にも、真柄直隆がモデルとなった人物が登場していました。

浅井家は大河ドラマでもいつのまにか「アザイ」と発音されるようになりました。「尼子」も昔は「アマコ十勇士」と言っていたのですが、今は「アマゴ」に統一されたようですね。十人とも名前が「~介」になります。最も有名なのが山中鹿之助、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った人です。その子が伊丹で商売を始めたのが鴻池家の始まりだとか。尼子氏が毛利に滅ぼされて落ち武者となってたどり着いた先の村がのちに「八つ墓村」と呼ばれるようになった、というのは横溝正史の小説です。

尼子氏に滅ぼされた塩冶という一族がいます。塩冶氏の家来赤穴宗右衛門という武士が旅先の加古川で病に倒れ、丈部左門という学者に看病してもらいます。病が治ったあと、主家が滅んだという噂を聞いて確かめに行きたい、と言われて左門はもしそうであるならそんなところに残ってもしょうがない、是非とも帰ってこいと言います。赤穴宗右衛門は九月九日、菊の節句に帰ってくると約束して旅立つのですが、尼子方にとらえられて牢獄へ。友との約束を果たすためには生身の体では無理なので、魂魄となって帰ってきた、という話が上田秋成『雨月物語』の中の「菊花の約」です。高校生のときにこれを読んだ私は古典の教師に、この二人は「そういう」仲かと尋ねたら「するどいな」と言われました。そういう視点でこの物語を読めば純愛小説ですね。

『雨月物語』の文章は平安時代の物語を模したもので擬古文と呼ばれるものですが、江戸時代のものであるせいか、それほど難解ではなく、非常に読みやすい名文です。同じ江戸時代のものでも、西鶴の文章はくせが強く、読みにくい。文語体をベースにしながらも口語体を取り入れた雅俗折衷文体と言われるものです。西欧風のものを目指した明治初期の文学界の風潮に対し、明治もなかごろになると国家意識の高まりとともに復古主義的な傾向が強くなり、西鶴が再評価されます。その代表が尾崎紅葉ですが、『火垂るの墓』で有名な野坂昭如の文章も西鶴に似ているような気がします。

馬琴の『八犬伝』はその点かなり読みやすいものの、いかんせん登場人物が多すぎます。源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという『椿説弓張月』は原文を通して読んだことがないのですが、題名がいい。馬琴の題名センスはさすがです。弓の名人為朝が主人公なので,半月を表す「弓張月」にかけています。為朝は生まれつき乱暴者で、父為義に九州に追放されますが、なんと九州一円を制覇して鎮西八郎と名乗ります。「椿説」は「珍説」つまりめずらしい話というだけでなく「チンゼイ」と読めば「鎮西」に通じます。

為朝の弓は五人張りと言います。「五人がかりで張る弓」ということで、四人で弓を曲げ、残る一人が弦をかけて作るらしい。「三人張り」でも六十キロの腕力が必要だと言われるので、「五人張り」は百キロぐらいの腕力が必要になってくるのでしょうか。義経は小柄だったらしく、使っている弓もヘロヘロだったそうです。それが敵にバレると笑い者になるので、海に弓を落としたとき、泳いでわざわざ取りにいったそうな。それにひきかえ為朝は、4歳のときに牛車をひっくり返したというから、ただ者ではありません。保元の乱のときは17歳、もちろん数え年ですが、そのときすでに身長は2メートル超え、強弓を持ち続けたせいか、左腕が右腕よりも10センチ以上長かったといいます。持っている太刀は三尺五寸、ふつうの太刀より一尺長く、さらに例の五人張りの弓を持っていました。放った矢は敵の鎧を貫き通し、さらにもう一人をしとめ、矢1本で二人串刺しにしたといいます。武勇に優れていただけでなく、頭も悪くないようで、兄義朝に「兄に弓を引くか」と言われても、「おまえは父親に弓引いているではないか」と言い返したそうです。結局は戦いに敗れ、二度と弓が引けぬように腕の腱を切られて伊豆大島へと流罪となります。腕の傷が治ると、なんと三人張りの弓が引けるまでに回復して再び暴れ回り、この強弓を使って、300人が乗った軍船に射かけた矢は見事に命中、船はたちまち沈んでしまいましたとさ。まさに日本の呂布という感じですな。

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