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2021年4月 4日 (日)

梅安は緒形拳

弓の名手といえば那須与一。源氏と平家の「屋島の戦い」で、平家が立てた扇の的を見事射落としたことで有名ですが、それ以外のことについては詳しい記録がなく、ほとんど謎の人物です。さらに、このエピソードのあと、どういうことが起こったかもあまり知られていないのではないでしょうか。那須与一の腕前に感激したのでしょうか、舟の中から、50歳くらいの男が出てきて、扇の立ててあったところで踊りはじめます。伊勢三郎義盛に命ぜられた与一は男を射抜き、男はまっさかさまに落ちたとか。源氏方は、大いに盛り上がりますが、平家方は静まり返った、という、なんだか後味の悪い話です。

中国にも当然、弓の名人がいます。最も有名なのは李広でしょう。前漢の将軍で、三代の帝に仕えた名将です。匈奴と戦うこと、七十回以上と言います。匈奴からは漢の飛将軍と恐れられました。ただ出世にはめぐまれなかったようで、老骨にむち打って出陣しても後方に回され、道案内がいないせいで戦いに遅れて、大将軍に責められ自害してしまいます。この李広が若いとき、母を虎に食われ、必死になって虎を探し求め、弓で射たところ、実はそれは虎に似た石でした。「石に立つ矢」「一念岩をも通す」の語源ですね。三国志の名将、太史慈も弓の名人でした。孫策の配下として山賊の討伐をしていたとき、はるか遠くの砦で、山賊の一人が木を持って、孫策と太史慈を罵倒していました。太史慈は弓を引き絞って放つと、矢は賊の持っていた木に突き刺さり、さらに手の甲まで貫通していたそうですが、こちらの話はいかにもありそうです。

中島敦『名人伝』は、紀昌という男の話です。天下一の弓の名人になろうと志を立て、飛衛という人に弟子入りします。まず、瞬きをするなと教えられた紀昌は機織の台の下にもぐって、目の上すれすれのところで機が織られる様子を見つめつづけました。やがて、火の粉が入っても目をつぶらず、目を見開いたまま熟睡できるようになりました。ついには蜘蛛がまつ毛の間に巣を作ったとか。次に、視ることを学べと言われた紀昌はシラミを髪の毛でつなぎ、じっと睨みつづけます。シラミが馬のように見えるようになったとき、矢を放つと、シラミの心臓を貫きました。ほんまかいな。次は矢の速うちです。第一の矢が的にささると、続く矢が次々と前の矢の尻に命中し、百本の矢が一本に連なりました。しかし、紀昌は、飛衛がいるかぎり、天下第一の名手にはなれないと考えます。ついに飛衛を襲ってしまうのですが、飛衛も矢を放ちます。二人の矢は、お互いの真ん中で命中し合い、地に落ち、決着がつきません。マンガです。

飛衛は、紀昌の気持ちを新たな目標へ向けさせるため、ある老師を尋ねよと告げます。紀昌は、その老人に「不射之射」を教えられます。足元の石がぐらつく絶壁の上に立った老師は、見えない矢を、見えない弓につがえ、ひょうと放ちます。すると、トンビが一直線に落ちてきました。何年かのち、山からおりてきた紀昌の顔は無表情で、以前のような負けず嫌いの精悍な面構えはなくなっていました。天下一の弓の名人となって戻ってきた紀昌は「至射は射ることなし」と言って、弓を手にすることはありませんでした。死ぬ少し前のある日、紀昌が知人の家に行くと、ひとつの器具がありましたが、どうしても名前も用途も思い出せません。家の主人に尋ねると、主人は「古今無双の射術の名人が、弓を忘れ果てたのか」と驚きます。その後しばらく都では、画家は絵筆を隠し、楽人は弦を断ち、工匠は定規を手にすることを恥じたといいます。

弓矢にかかわる日本のエピソードとしては『大鏡』にある話が面白い。藤原道長が若い頃、めずらしく兄道隆の家に遊びに来ます。息子の伊周が弓の練習をしているところで、いっしょにやらないかと勧められた道長が応じたところ、伊周の射抜いた矢の数が道長に二本及びませんでした。道隆も周りの者も「あと二回、延長だ」と言うので、道長はこれにも応じるのですが、内心ムッとしたのでしょう、「道長の家から帝が生まれるものならこの矢当たれ」と言って射ると見事に命中します。そのあと伊周はびびってしまい、大きく的をはずしてしまいます。道隆家と道長家がどうなったか、その後の結果を知っているだけに、作り話だとしてもこのエピソードは興味深いものがあります。

道長には従兄弟にあたる公任は三船の才で知られる有名人です。いろいろな面で優れており、器用だったのでしょう。道長の父兼家が、おまえたち兄弟は公任の足下にも及ばないと嘆いたとき、みんなうなだれたのに、道長は「俺は公任の顔をふんでやる」と言いました。公任は中納言どまりでしたから、まさしく道長は公任の上に立ち、頭をふんだことになります。でも、兄貴たちだって同様に出世しているのですね。ただ道長のようなセリフが吐けなかっただけ。こういう有名人のエピソードはのちに大物になったからなるほどと思うのですが、出世しそこなった奴でも、同じセリフを吐いていたかもしれません。高校時代の同級生が、「芭蕉が見たのは美しい景色だけか。芭蕉だって旅の途中でドブ川を見たにちがいない。」と言いましたが、芥川の警句のようで、なかなか鋭い。彼が大物になっていたらこのことばも後世に残るのになあ。残念です。

父親が大事にしている桜の木を切って正直に謝ったワシントンのエピソードだって、よく考えればだれにでもありそうな、しょうもない話です。ワシントンが初代大統領になったから、このエピソードが有名になっただけでしょう。希学園でも数々の武勇伝を残している者がいますが、のちに有名人になったときにはエピソードとして語られるのかもしれません。こういうエピソードの使い方がうまかったのは司馬遼太郎です。本当かどうかわからない話でも、タイミングよく語られると、なるほどと思ってしまいます。秋山好古(テレビでは阿部寛)の「騎兵とは何か」を説明するときのエピソードを「余談ながら」とやられると、オオッと思います。語り口のうまさでしょうが、こういうのは池波正太郎もやはりうまい。真田太平記や中村半次郎のような歴史小説だけでなく、この人は仕掛人のシリーズや犯科帳などの時代物もうまかった。仕掛人の藤枝梅安が酒のあてにちょっとした料理をつくるのですが、これがまたおいしそうで食べたくなります。

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