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2025年9月の2件の記事

2025年9月14日 (日)

清き一瓢

最近のドラマで、『全領域異常解決室』というのがありました。政府の命を受け、超常現象を解決していくというエンタメドラマですが、日本神話をベースにしていました。神話に登場する神々の魂が宿った人間たちが「全領域異常解決室」のメンバーとして事件に立ち向かっていくのですね、主役の藤原竜也の「名演技」が光っていました。木村拓哉も「なにをやってもキムタク」と言われましたが、この人も「なにをやっても藤原竜也」です。特に取り乱して叫ぶシーンがあると「出た!」と思ってしまいます。15歳で舞台作品『身毒丸』をやったときには「天才」と呼ばれたものですが、その後のほとんどすべての作品で同じ役を演じ続けているみたいです。

藤原竜也が主役をやった映画『デスノート』も適役でした。あれはいつごろだったのか、もう二十年ぐらい前でしょうか。生徒たちの中にも知っている者はちらほらいますが…。合格祝賀会の講師劇のネタになることもあるので、はやりものには、ある程度注意を払っていますが、はやりのアニメもどんどん移り変わっていきます。『ワンピース』や『鬼滅の刃』はそのままベースのネタとして使いました。今年の劇では『葬送のフリーレン』を一部ネタとして使いました。『薬屋のひとりごと』や『だんだだん』も、そういう名目で「チェック」しましたが、あやうく「はまりそう」になってしまいました。

日本のアニメが世界的人気を持っているのには、自由な発想、奔放な描写があるからでしょう。いまの時代ですから、多少の自己規制はあるのでしょうが、それでもディズニー映画に見られるような極端な「ポリコレ」はありません。「ボリティカルコレクトネス」というのは、特定の民族・人種、性別、あるいは宗教などに対して差別的な表現をしないようにしようということです。もともとは特定の集団に対して不快感や不利益を与えないように心配りをしようとしたところから出たものでしょうが、こういうのはだんだんエスカレートしていくのが常です。AがだめならBもだめだよね、ということはCもだめだから…となっていくもので、よくある「言葉狩り」もこれに含まれるでしょう。 やっている人は正義のつもりであるのが、問題をより厄介にします。

最近とくに問題になっているのは、ゆきすぎたフェミニズムでしょう。その考え方の出発点については、ほとんどの人たちも賛成しているのです。ところが、どんどん極端になっていき、それはいくらなんでも無茶でしょうというところまで来ているのに、「自分たちの考え方は正しいはずだ」で突き進んでいるので、もはやあきれかえるような意見になっていることに気づきません。自分の考えを、公正な目、大局的な見方でとらえることそのものが本来難しいのですから、凝り固まっていると余計に難しくなります。

だいたい人間というのは、どうしても主観がはいるので、物事を正確にとらえることが難しくなるのですね。対象の表層だけを見ないで本質を見ぬければよいのですが、それはなかなか難しい。逆に本質をとらえようとして、深読みしすぎることもあります。将棋で、まず自分がこう指す。そうすると相手がこう指すはずだから、自分はこうする、そうすると…と考えて最後には自分が負けることまで想定してしまい、闘う前から「参りました」と言うのは愚かの極みです。

まあ、勝負と言っても、そもそも何が勝ちかということも難しい。「負けるが勝ち」ということばもあります。負けが勝ちにつながることもあれば、勝ちが負けにつながることもある。きれいはたない、きたないはきれい。「急がば回れ」や「負けるが勝ち」のような言い回しを「逆説」と言います。一見まちがっているようだが、よくよく考えると真実であるというような言説ですね。「逆説」までは行かない「春秋の筆法」というのもあります。この定義がじつはなかなか難しい。辞書には「間接的な原因を直接的な原因として表現する論法」ともありますし、「また」として「論理に飛躍があるように見えるが、一面の真理をついているような論法」とも書かれています。

『春秋』とは孔子が書いたと言われる魯の国の年代記で、「春夏秋冬の記録」ということから「春秋」と名付けられたと言います。したがって、記述は簡潔で、「何年何月にどういうことがあった」ぐらいしか書かれていないので、かえって、何らかの意味が隠れているのではないかと思われて、『春秋なんとか伝』という注釈書がいくつか出ています。そういうところから「春秋の筆法」ということばが生まれ、とくに飛躍した因果関係を述べるときに、「春秋の筆法を使えば…」にように断りを入れて使うことがあります。たとえば、「希学園の塾生が夜おそくまで勉強するのは、春秋の筆法を借りれば、電球を発明したエジソンのせいである」というような感じで、ややひねくれた屁理屈をこねるときに使われます。

ただ、もともと漢文は簡潔なんですね。本来エリートが読み書きするものだから、ごちゃごちゃ説明するのをきらったからだという、すごい説もありますし、漢字そのものが画数が多く、書くのが面倒なので表現は簡潔になった、という「合理的」な説もあれます。それに比べて、和文脈というのは基本的にはダラダラ文です。終わるかと思ったら終わらずに、切れ目なく続いていきます。源氏物語など、長いったらない。日本語が本来そうなる性質を持っているのかもしれません。子どもたちが作文を書くと、一文が長くなるのは当然です。だから、「二百字で要約しなさい」という問いがあると、平気で一文にして書くやつがいるのですね。二百字を一文で書くということは、四百字詰めの原稿用紙をたったの二文で書くということになります。

昔の作文教育では、見本のとおり書け、と言って「我一瓢を携えて山野を逍遙す」のような文をそのまま写させることがあったそうです。漢文ベースの書き方に慣れさせようということですが、子供が酒のはいった「一瓢」を携えて、山野で酔っ払ってはいけません。

2025年9月 1日 (月)

アマミノクロウサギの「ノ」って?

別の言葉なのに音が同じ、というのは駄洒落になりますが、普通の同音異義語ではあまり面白くありません。それでも定番の「貴社の記者が汽車で帰社した」を授業で言うと、生徒たちは結構面白がります。一文の中で連発するのを面白く感じるのでしょうか。大人と子どもで言葉の感覚がちがうということがあるのかもしれません。それでも、大人が使わない言葉を若者が使い出すと、いつのまにか大人も使うようになることがあります。「真逆」とか「目線」については前にも書きましたが、たまに聞く言葉として「いつぶり」というのがあります。「ひさしぶりだね。いつぶりだろう」というような使い方です。「いつ以来」と「何年ぶり」とがごっちゃになっているので、誤用は誤用なのですが、大人でも使い出しています。

「いつぶり」という言い方はなぜおかしいのでしょうか。「一年ぶり」はよいのに、「去年ぶり」は変です。「二日ぶり」はよいのに、「一昨日ぶり」は変です。ということは、「ぶり」の前に来るのは「経過した時間」であって、「日時」を表す言葉は来ないということになります。「いつ」というのは時間ではなく日時なので、「いつぶり」と言われると違和感を覚えるのでしょう。ただ、この使い方が載っている辞書もすでにあるようです。やがては認められていくのでしょう。

ところで、「一年ぶり」と言うと、前回は一年前だったことになります。「一月(ひとつき)ぶり」と言うと、前回と今回との間隔は「一か月」です。では、「三日ぶりに会った」と言うのは間に何日あるのでしょう。五日前から順にA日、B日、C日、D日、E日として今日がE日だとすると、前にあったのはどの日でしょうか。「三日前」と考えるとB日ですね。一方、「間に三日ある」と考えるとA日になってしまいますが、この場合の「間の三日」というのは、E日のある時刻からさかのぼってD日の同じぐらいの時刻で「一日」と見ていくので、やはりB日ということになります。ややこしいと言えばややこしい。

「~から~まで」の場合、「1から10まで」と言うと1も10も含みます。つまり数字は10個あることになります。これは「1から10までの間に数字はいくつある?」と聞いても同じ答えになるでしょうか。もっと具体的に言うと、阪急神戸線で「梅田から十三まで、駅はいくつある?」と聞くと「梅田・中津・十三」の三つですが、「梅田から十三までの間に、駅はいくつある?」と聞くと「中津」だけと答えたくなるのでは? 「梅田と十三の間に」と聞くと、これは「中津」だけということになりそうです。「いくつ目」というのも、ちょっとややこしい。「A、B、C、D…」と並んでいて、「左から三つ目は?」と聞かれたらCですが、「Aから三つ目は?」と聞かれたら、どう答えますか。「A」を一つ目とするなら「C」ですが、「D」と答えたら×でしょうか。「B」はAからいくつ目なのでしょうか。

足掛け何年というのもあります。辞書では、「年月を数えるときに、初めと終わりの1年、1月、1日に満たない端数も一とする数え方」のように説明していますが、非常にわかりにくい。例をあげるとすぐにわかります。たとえば「一年一か月」たった期間を「足掛け二年」と言います。ということは、2025年12月31日から2027年1月1日までなら、実質12か月と2日なのに「足掛け三年」と数えることになります。足掛けの反対は「丸」とか「満」になりますが、もちろんジャストではなくアバウトでもかまいません。

「創業1400年」と「1400年創業」ではどうちがうでしょうか。前者は会社ができてから1400年たったという意味ですが、後者は西暦1400年に会社ができたということになります。「創業1400年」の会社として有名な金剛組は、調べてみたら「飛鳥時代第30代敏達天皇7年(西暦578年)」と書かれていました。つまり、「578年創業」ということですね。敏達天皇は聖徳太子の父の用明天皇の兄ですから、伯父さんということになります。578年ということは、当然いわゆる「大化の改新」よりずっと前です。

この「大化の改新」というのも、昔は645年ということになっていました。「大化の改新むしごろし」という、訳のわからない覚え方で教えられていましたが、いまは中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した事件は「乙巳の変」であり、事件そのものと改革とを区別するようになっているみたいですね。この時代もなかなかおもしろいので、大河ドラマでとりあげても面白そうです。新説や異説をとり入れて大胆に脚色していけばドラマとしても見応えがあるものになりそうです。

NHKでは、聖徳太子を本木雅弘が演じたドラマをやったことがあります。これは原作の小説はなかったと思いますが、テレビドラマとしては最も古い時代を扱ったものの一つでしょう。井上靖の『額田女王』をドラマにしたものもありました。額田は岩下志麻、天智が近藤正臣、天武には松平健という配役でした。大河の『草燃える』で岩下志麻が北条政子、松平健が北条義時を演じた直後で、松平健の評価が高まっていたときですね。思い切って神話の時代を扱ったドラマがあってもよさそうですが、テレビではやりにくいのかなあ。映画では、『日本誕生』」など、神話を題材にしたものはいくつかあります。ヤマトタケルを三船敏郎が演じているのですが、すごく大根…。シナリオ自体も今から見ると、稚拙そのものだし、円谷英二の特撮も悲しくなるレベルです。高島政宏主演の『ヤマトタケル』というのもありましたが、これは完全にアニメの世界で、見事なほどのばかばかしさでした。

でも、今の子どもたちは日本神話をほとんど知らないのですね。戦後教育で排斥されたこともあって、触れる機会も少なくなっているのでしょう。もちろん歴史として教える必要はないでしょうが、なんらかの形で接するチャンスがあればいいですね。八岐大蛇や因幡の白兎の話ぐらいは常識として知っておいてもらいたいものです。アマミノクロウサギは「因幡の白兎」との対比かなあ。

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