清き一瓢
最近のドラマで、『全領域異常解決室』というのがありました。政府の命を受け、超常現象を解決していくというエンタメドラマですが、日本神話をベースにしていました。神話に登場する神々の魂が宿った人間たちが「全領域異常解決室」のメンバーとして事件に立ち向かっていくのですね、主役の藤原竜也の「名演技」が光っていました。木村拓哉も「なにをやってもキムタク」と言われましたが、この人も「なにをやっても藤原竜也」です。特に取り乱して叫ぶシーンがあると「出た!」と思ってしまいます。15歳で舞台作品『身毒丸』をやったときには「天才」と呼ばれたものですが、その後のほとんどすべての作品で同じ役を演じ続けているみたいです。
藤原竜也が主役をやった映画『デスノート』も適役でした。あれはいつごろだったのか、もう二十年ぐらい前でしょうか。生徒たちの中にも知っている者はちらほらいますが…。合格祝賀会の講師劇のネタになることもあるので、はやりものには、ある程度注意を払っていますが、はやりのアニメもどんどん移り変わっていきます。『ワンピース』や『鬼滅の刃』はそのままベースのネタとして使いました。今年の劇では『葬送のフリーレン』を一部ネタとして使いました。『薬屋のひとりごと』や『だんだだん』も、そういう名目で「チェック」しましたが、あやうく「はまりそう」になってしまいました。
日本のアニメが世界的人気を持っているのには、自由な発想、奔放な描写があるからでしょう。いまの時代ですから、多少の自己規制はあるのでしょうが、それでもディズニー映画に見られるような極端な「ポリコレ」はありません。「ボリティカルコレクトネス」というのは、特定の民族・人種、性別、あるいは宗教などに対して差別的な表現をしないようにしようということです。もともとは特定の集団に対して不快感や不利益を与えないように心配りをしようとしたところから出たものでしょうが、こういうのはだんだんエスカレートしていくのが常です。AがだめならBもだめだよね、ということはCもだめだから…となっていくもので、よくある「言葉狩り」もこれに含まれるでしょう。 やっている人は正義のつもりであるのが、問題をより厄介にします。
最近とくに問題になっているのは、ゆきすぎたフェミニズムでしょう。その考え方の出発点については、ほとんどの人たちも賛成しているのです。ところが、どんどん極端になっていき、それはいくらなんでも無茶でしょうというところまで来ているのに、「自分たちの考え方は正しいはずだ」で突き進んでいるので、もはやあきれかえるような意見になっていることに気づきません。自分の考えを、公正な目、大局的な見方でとらえることそのものが本来難しいのですから、凝り固まっていると余計に難しくなります。
だいたい人間というのは、どうしても主観がはいるので、物事を正確にとらえることが難しくなるのですね。対象の表層だけを見ないで本質を見ぬければよいのですが、それはなかなか難しい。逆に本質をとらえようとして、深読みしすぎることもあります。将棋で、まず自分がこう指す。そうすると相手がこう指すはずだから、自分はこうする、そうすると…と考えて最後には自分が負けることまで想定してしまい、闘う前から「参りました」と言うのは愚かの極みです。
まあ、勝負と言っても、そもそも何が勝ちかということも難しい。「負けるが勝ち」ということばもあります。負けが勝ちにつながることもあれば、勝ちが負けにつながることもある。きれいはたない、きたないはきれい。「急がば回れ」や「負けるが勝ち」のような言い回しを「逆説」と言います。一見まちがっているようだが、よくよく考えると真実であるというような言説ですね。「逆説」までは行かない「春秋の筆法」というのもあります。この定義がじつはなかなか難しい。辞書には「間接的な原因を直接的な原因として表現する論法」ともありますし、「また」として「論理に飛躍があるように見えるが、一面の真理をついているような論法」とも書かれています。
『春秋』とは孔子が書いたと言われる魯の国の年代記で、「春夏秋冬の記録」ということから「春秋」と名付けられたと言います。したがって、記述は簡潔で、「何年何月にどういうことがあった」ぐらいしか書かれていないので、かえって、何らかの意味が隠れているのではないかと思われて、『春秋なんとか伝』という注釈書がいくつか出ています。そういうところから「春秋の筆法」ということばが生まれ、とくに飛躍した因果関係を述べるときに、「春秋の筆法を使えば…」にように断りを入れて使うことがあります。たとえば、「希学園の塾生が夜おそくまで勉強するのは、春秋の筆法を借りれば、電球を発明したエジソンのせいである」というような感じで、ややひねくれた屁理屈をこねるときに使われます。
ただ、もともと漢文は簡潔なんですね。本来エリートが読み書きするものだから、ごちゃごちゃ説明するのをきらったからだという、すごい説もありますし、漢字そのものが画数が多く、書くのが面倒なので表現は簡潔になった、という「合理的」な説もあれます。それに比べて、和文脈というのは基本的にはダラダラ文です。終わるかと思ったら終わらずに、切れ目なく続いていきます。源氏物語など、長いったらない。日本語が本来そうなる性質を持っているのかもしれません。子どもたちが作文を書くと、一文が長くなるのは当然です。だから、「二百字で要約しなさい」という問いがあると、平気で一文にして書くやつがいるのですね。二百字を一文で書くということは、四百字詰めの原稿用紙をたったの二文で書くということになります。
昔の作文教育では、見本のとおり書け、と言って「我一瓢を携えて山野を逍遙す」のような文をそのまま写させることがあったそうです。漢文ベースの書き方に慣れさせようということですが、子供が酒のはいった「一瓢」を携えて、山野で酔っ払ってはいけません。