2018年8月15日 (水)

圓生は寝られる

途中で歌い出さないまでも、芝居独特の口調というのがあります。歌舞伎などの古典劇や、宝塚のようなやや「特殊」なものでなくても芝居口調というものが存在します。一昔前の小劇団はそれが顕著でした。野田秀樹の芝居など、セリフのことばそのものも現実から遊離したものですが、さらにそれを独特の「節回し」で語るものだから、「つくりもの感」が強すぎて抵抗がありました。三宅裕司のところはさすがにふつうのくだけた口調に近いものでしたが、やたら歌いたがるのがミュージカル志向で困ったものでした。とにかく舞台でやる芝居には独特の口調があり、冷静に聞くとおけつがこそばゆい。ジャルジャルのコントでもやっていました。ザッツライト。「ザッツライト」って、なんのことかわからないでしょうね。芝居を見に行き、影響を受けて帰ってきたやつらの会話です。「さあ、質問だ。腹が減ったときに食うものは?」「カルボナーラだ」「ザッツライト」みたいな。

外国ドラマの吹き替えもクセがすごい。これはなだぎ武がやってました。アニメの声優もくせのあるしゃべりをする人がいます。ただし、こっちの方は発声そのものも独特の「アニメ声」になっています。現実にこういう声で、こういう話し方をするやつがいたら、きらわれるでしょうな。逆にリアリティありすぎも、ひいてしまいそうです。いわゆる任侠映画がすたれたあと、「仁義なき」のシリーズが出てきましたが、台詞回しもリアルすぎました。「三匹の侍」にしても、東映時代劇の歌舞伎の延長上の殺陣をぶちこわして、斬ったときの音や血しぶきのリアルさを追求しました。そこに様式美はありません。

歌舞伎の殺陣なんて、次々に来る相手を左右に切り分けたり、触れもしないのにやられた方がきれいに一回転したりする、というようなばかばかしいものです。ばかばかしいけれど、「様式美」として認められてきたわけですね。今の時代には通用しにくくなっていますが。漢文口調というのも通じなくなっているようです。「柳生一族の陰謀」のオープニング・ナレーションで「裏柳生口伝にいわく、闘えば必ず勝つ、これ兵法の第一義なり。人としての情けを断ちて、神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り、しかる後に初めて極意を得ん。かくの如くに行く手を阻むもの、悪鬼羅刹の化身なりとも、あにおくれをとるべけんや」と言っていましたが、いまどき「あにせざるべけんや」なんて意味不明でしょう。ただし、韻をふんだラップは受け入れられています。七五調にしても消えていくかと思いきや、「たとえこの身がほろぶとも」のように、まだまだすたれていません。

時代がたって残るものもあれば消えゆくものもあるというのは当然ですが、落語でもよく出てくる「質屋」のシステムも知らない人が増えています。「質流れ」と言ってもわかってもらえません。質屋に借りたお金を返さないまま期限が切れて、所有権が質屋に移ることですね。「遊山船」という落語があります。大川に夕涼みに来た喜六、清八の二人連れが橋の上から大川を見ていると、碇の模様の浴衣を着た連中が派手に騒いでいる船が通りかかる。「さてもきれいな碇の模様」とほめると、そのうちの一人の女性が「風が吹いても流れんように」と答えます。「おまえとこの嫁さんは、あんな洒落たこと、よう言わんやろ」と言われて清八は長屋に帰り、嫁さんにきたない浴衣を着せて、行水のたらいの中に入ります。屋根にのぼった清八が、ほめようと思ったら、浴衣のあまりのきたなさに思わず「さてもきたない碇の模様」と言うと、嫁さんが「質に置いても流れんように」。

この意味、わかるかなあ。「三ヶ月たったら流れるもの、なあに」というなぞなぞがありました。そんなものにさらりと答えられるはずかしさ。「質屋蔵」という話は上方にも江戸にもあります。質屋の蔵にお化けが出るという噂が町内に流れ、質屋の旦那が番頭に蔵の見張りをさせようとします。こわがりの番頭は、出入りの職人の熊五郎に応援を頼みますが、この熊さんもじつはこわがりで、二人でブルブル震えながら見張りをしていると、蔵の中から櫓太鼓の音が聞こえます。羽織と帯を質入れした相撲取りの気が残ったのか、羽織と帯の精が相撲を取っているのです。そのあと、横町の藤原さんが質に入れた天神さまの掛け軸がスルスルと下がって開き、天神さまが現れます。「この家の番頭か、藤原方へ利上げせよと申し伝えよ。また流されそうじゃ」利上げというのは、流れる前に利息だけ払って質流れを防ぐことですが、この話も通用しなくなっているのかもしれません。菅原道真が流されたことぐらいは知っていると思うのですが…。

落語と歌舞伎は相性が悪くないようで、お互いに影響しあっています。「文七元結」のように、落語のネタが歌舞伎になったり、歌舞伎のパロディを落語が取り入れたり、「コラボ」しています。野村萬斎の「コラボ三番叟」は舞踊ですが、レーザーを取り入れたりしていますし、中村獅童と「初音ミク」の共演というのもありました。「ワンピース」が歌舞伎の題材になったり、能でマリーアントワネットをやったりしています。いわゆる「大衆演劇」はそういう意味での進化形かもしれません。

大衆演劇でよく言われるのが「ペーソス」というやつで、ホロリとさせる部分ですが、こういうのは本当に必要なのでしょうか。喜劇王チャップリンの映画には必ずこの「ペーソス」が盛り込まれていました。対照的なのがバスター・キートンで、この人はペーソス排除派ですね。北野たけしでさえペーソス好きです。浅草出身で、やむをえないところもありますが。

最近のマンザイは昔とかなり変わってきました。どこで笑うか予想が難しいものがあります。一つ一つ積み重ねていって、最後にドカーンというやり方では、今のお客にはまどろっこしすぎるのでしょう。細かいギャグをちりばめているのですが、話の流れと無関係になることもあるようです。もちろん、一行とか一文だけでも笑えるものがあります。筒井康隆の好きな「一匹狼の大群がやってきた」などはたしかにおもしろい。まあ、ツボにはまればなんでもおもしろくなるんですけどね。

寄席の順番で、だんだんあたたまっていって、最後のトリで大いに笑わせます。これを逆にして、ベテランが最初からガンガン笑いをとりにいって、客席をあたためておけば、トリは新人でもどっかんどっかんうけるかもしれません。周囲のお客の笑い声も「暖める」要素になりますから、その点スタジオ録音というのは難しい。お客の反応もわからないのですから、やりにくいでしょうね。圓生はたくさんの録音を残していますが、えらいですねぇ。ただし笑いのあるネタよりもじっくり語るネタが多かったようです。圓生全集を毎晩のように寝る前にかけ、聴きながら眠ったものです。圓生はよく寝られる。

2018年8月 4日 (土)

路上母子②

《ダイエーに行く親子》

岡本教室前、男の子はたぶん年中さんぐらいです。

母「さあ、ダイエーに行くよ」

子「何買うん?」

母「えーと・・・・・・」

子「あっ! ハンバーグ!?」

母「ゆうべ食べたやん!」

すみません、夏期中で余裕がないので今日はこれだけで。

2018年6月28日 (木)

言いたいことは歌うな

シリーズ物の落語というのがあります。上方落語の旅ネタでは東西南北の四つの方向へ行きます。南の旅は「紀州飛脚」というのがあるのですが、あまり演じられません。北の旅は「池田の猪買い」という人気ネタです。西の旅は明石、舞子、須磨へ行くもので、「兵庫船」というのがちょくちょく演じられます。番外編として「小倉船」というのもあるのですが、これは海底への旅です。米朝さんが「あまりおもろい話やない」と言いながら、たまにやっていました。天空への旅の「月宮殿星の都」とか、冥途の旅の「地獄八景亡者戯」という大ネタもあります。

人気があるのは東の旅です。始まりの部分は口慣らしの要素があって前座クラスがよくやります。上方落語は江戸とはちがって、見台というものを使うことがあります。もともと本をのせるためのものですが、上方落語では張扇や拍子木でたたいて、音を出すために使います。江戸の落語が座敷でやるものだったのに対して、上方落語のルーツは外でやる「辻噺」、要は大道芸ですから、派手な音を出して道行く人の足を止める必要があったらしいんですね。で、これをガチャガチャ鳴らしながら、「ようよう上がりました私が、初席一番叟でございます」と話し始めます。いまどき、いきなり聞かされても意味がよくわからない古くさい感じのところです。入門すると、このネタをまずやらされるらしい。大学の落語研究会いわゆるオチケンでも熱心にやるようで、この口ぶりのままふだんもしゃべり、いかにも落語家になったみたいな気になっている、「いたい」やつも昔はいました。

この前口上の部分はリズムだけで、とりたてて笑いがあるわけでもないのですが、喜六と清八が伊勢参りに出かけるという設定が見えてくるところから話が始まります。「東の旅」の正式名称は「伊勢参宮神乃賑」と言います。「いせさんぐうかみのにぎわい」という、歌舞伎の題名と同じく、漢字七文字で縁起をかついだものになっています。伊勢へ行く途中のエピソードが、いくつかのネタに分かれて演じられます。「煮売屋」「七度狐」などはよく演じられる話です。「七度狐」は合格祝賀会の講師劇のストーリーに組み込んだこともあります。「軽業」はややマイナーですが、意外に笑いの多い話です。「矢橋船」というのは、近江の矢橋から大津へ向かう船の中で平家伝来の名刀「小烏丸」を探す侍と出会うという話で、これもたまに演じられます。「宿屋町」というのは、大津に宿泊するときの、客引き女と二人のやり取りで笑いをとる話です。「こぶ弁慶」というのは、宿屋の壁土を食べる妙な男が登場します。ところが、壁の中に塗りこめられていた大津絵の武蔵坊弁慶にとりつかれて肩のところに弁慶の首が出てくるという、ハチャメチャな話ですが、結構おもしろい。最後の「三十石夢乃通路」は、京から大坂へ向かう三十石舟の様子を描いたもので、船頭が舟唄を聞かせる場面もはいってなかなか風情があります。森の石松が乗って「すし食いねぇ」と言うのも、この三十石舟だったのですが、これも最近はどれだけの人が知っているのやら。

枝雀の「東の旅」では前口上ぬきで、「さて、例によりまして喜六、清八という大坂の若いもん、だいぶ時候もようなったんで、ひとつお伊勢参りでもしよやないか…」みたいな語りで始まることが多かったようです。そのあと、「大坂離れて早や玉造」なんて言い出すのですが、つまりこれは玉造は大坂ではない、ということですね。江戸だって、もともと小さかった。品川など、東海道の最初の宿場ですし、新宿も内藤新宿で甲府街道の入り口です。まあ、浦安にあっても東京ディズニーランドですが…。大坂の範囲は、もともと北組、南組があって、そのあと北組から天満組が分かれて大坂三郷と言います。お城の西側一帯が北組、南組、お城の北側が天満組といったイメージでしょうか。本当に今の大阪の真ん中のあたりだけです。玉造は環状線の駅にありますが、すでに大坂ではなかった。

さて、どんどん東に向かってやってきた二人は、くらがり峠にさしかかります。昼なお暗い、という意味なのでしょうが、落語では、馬の鞍がひっくり返る、「鞍返り」がなまって「くらがり」になったと説明しています。それほど難所だったということですね。今西祐行『とうげのおおかみ』という絵本にも「くらがり峠」が出てきますが、ここが舞台のようです。この峠、今はどうなっているのでしょうか。奈良の国道は、狭さには定評がありますから、おそらく細道のままなのでしょうね。「東の旅」は米朝一門がよくやっていたネタですが、前口上からこのあたりまで吉朝がやっていたのが記憶に残っています。入門のときに米朝が聞いてその達者さに感心したということです。ものまねをしたり、狂言や文楽とコラボをしたり、器用な人でしたが、中島らも、松尾貴史といっしょに劇団で芝居もやっていました。祝賀会講師劇のねたで、中島らもの「こどもの一生」を下敷きにしたものを出したことがあります。なんとホラーなんですね。もちろん、こわいだけでは祝賀会にはふさわしくないので、結局はお笑いになっていましたが。

落語にもホラーが結構あります。三遊亭圓朝の話は笑える落語ではなく、怪談です。怪談をやるようになったのは、圓朝のあまりのうまさに師匠が嫉妬し、妨害されたことがきっかけだとか。圓朝がやるつもりでいた演目を、師匠に指示された他の者が先回りして演じるため、やむをえず自作の演目を出すようになったらしい。のちに、その口演を筆記した速記本が出版され、それが坪内逍遥に影響をあたえ、言文一致体が誕生していきます。圓生や歌丸も圓朝のやったものを忠実にやっているようです。上方では、米朝や露の五郎も怪談をとりあげることがありました。夏場は怪談が定番だったのですね。弟子たちが幽霊に扮したり、人魂を揺らしたりして、暗くした客席に現れ、女性客をキャーキャー言わせていました。でも、話そのものはたった一人で演じきるのだから、なかなか大変です。

一人語りといえば講談も怪談をとりあげます。語り口調が大げさでわざとらしいのですが、怪談には逆に合うかもしれません。最近は講談と同様、お目にかかりにくくなっているのが浪曲、浪花節です。じつはこれ、言ってみれば一人ミュージカルなんですね。タモリはミュージカルがきらいだと言っていました。たしかに会話の途中でいきなり立ち上がって歌い出されるのはいやですね。「マイフェアレデイ」のようなコミカルな要素のあるものならまだしも、シリアスな内容だと、急に歌われるというのは違和感ありまくりです。劇団四季の「ライオンキング」なんかははじめからミュージカルアニメだったので、許せるのですが。言いたいことがあったら、ふつうに言え。

2018年6月 3日 (日)

あたり前田の

ちょっと間があきましたが、前回の続き。「~め」だけでなく「~す」も鳥を表すのではないかという説があります。たしかに「かけす・からす」「うぐいす」というのもあります。ただ、「からす」の「から」が何を意味するかは難問です。「うぐいす」は魚の「うぐい」と何か関係があるのかもしれません。

花の名前に戻ると「菊」は皇室の紋章にも使われており、日本古来の花のようですが、「キク」は音読みだし、外来種なのでしょう。菊の紋章になったのは後鳥羽以降という説もあります。メソポタミアにも菊の紋章はあったようで、天皇家の祖先はそのあたりから来たのかもしれません。高天原はフェニキアにあった、とか。「ばら」はどうでしょう。「薔薇」と書いて「そうび」と読むので、「ばら」のほうは訓読みです。「茨」が「いばら」「うばら」と読むので、この「い」や「う」が落ちたものでしょう。

ヨーロッパでは、「ばら戦争」というのがありました。戦争の名前に優雅な花の名前を冠するのは妙な感じがしますが、これも家紋から来ているのですね。白バラと赤バラを家紋とするヨークシャー家とランカスター家の王位継承権をめぐる争いです。BBCの番組で、このあたりのことをやっていましたが、なかなかおもしろかった。イギリスの国王で、最もインパクトがあるのがリチャード三世でしょう。シェークスピアの描いたとおりの人物かどうかわかりませんが、佐々木蔵之介主演の舞台も最近ありました。なかなか「人気」のある人です。エドワード四世の弟であるリチャードは王になりたいという野心をもち、さまざまな策略をめぐらします。兄に謀反の濡れ衣を着せて牢獄にほうりこんだのを手始めに、何人もの貴族を処刑して、王位への足場をつくっていきます。エドワード四世の王子が幼いのをよいことに摂政となったリチャードは王子とその弟をロンドン塔に幽閉して、ついに王冠を手にします。そして、二人の王子、さらには自分の妻まで殺害するのですが、やがて自ら処刑した者たちの亡霊にさいなまれるようになります。最後にはリッチモンド公の軍勢に攻められ、無残な戦死をします。何年か前、リチャード三世の遺骨を調査した結果、かなり悲惨な死に方だったことがわかったと新聞に載っていました。遺骨が残っていたこと自体が驚きです。

西洋や中国ではこんなふうにクセの強い国王や皇帝がよく登場しますが、日本の天皇はやはり温厚でものしずかなイメージが強いですね。行動的と言えば、後醍醐と文武両道のスーパーマン後鳥羽ぐらいでしょうか。後鳥羽は新古今の実質上の編集者とも言われますし、盗賊をとらえるために指揮をとり、自分も斬り合ったとか。刀剣好きで、自らも鍛えて、菊の紋章を入れたりしています。それに比べると、後醍醐は小物感が漂うぐらいです。NHK大河「草燃える」で後鳥羽を演じたのは尾上辰之助でした。若くして亡くなりましたが、後白河法皇を演じた尾上松緑との親子共演だったと思います。「太平記」の片岡孝夫の後醍醐は髭がむさくるしくていやだったなあ。楠木正成を武田鉄矢が演じて、これはよかった。

明治天皇は嵐寛寿郎が演じたのが有名です。オファーがあったときに、「そらあきまへん。不敬罪です。右翼に殺されますわ」と断ったのに、新聞に「嵐寛寿郎、大感激」と書かれて出演せざるをえなくなったとか。昭和天皇はハマクラこと浜口庫之介という作曲家が演じたことがあります。これはたしかに顔が似ていました。天皇のそっくりさんなんて、戦前なら不敬罪です。この役ならこの人というのは、当たり役でもあるのですが、イメージを限定することにもなってしまいます。渥美清も「寅さん」から抜け出せずに苦しんだようです。

再放送の「相棒」を見ていると、今をときめくスターがチョイ役、犯人役で出ていることがあって、ちょっと驚くことがあります。売れる前だったら、そういう役もやむをえなかったのでしょうが、たとえば仲間由紀恵が「貞子」をやってた、なんて聞くと「黒歴史」かなと思ってしまいますが、主役は主役です。ドリフがビートルズの前座をやったことがあるというのは「白歴史」というのかなあ。売れない俳優だったのが世界的な演出家になったというケースもあります。蜷川幸雄ですな。

読売テレビに勤めていた友人が演出した芝居を一心寺のミニシアターで見たことがあります。この一心寺というのも変な寺ですね。劇場をもっているというのも変ですし、納められた遺骨10年分をひとまとめにして「骨仏」なるものを造ります。遺骨で造られる阿弥陀如来像ということですね。落語などの演芸にも理解があって、落語会を催したりもしていますし、話の中にも登場します。「天神山」という話では「へんちきの源助」なる男が「花見やなしに墓見をしよう」と言って訪れるのが、この一心寺です。小糸と書かれた石塔の前で酒盛りをし、帰るときに土からのぞいているしゃれこうべを持って帰ってしまいます。その夜、若い女がたずねて来ますが、もちろんそのしゃれこうべの主ですね。この小糸が押しかけ女房になる、というのが話の前半。

後半は、源助のとなりに住む「どうらんの安兵衛」が主人公になります。「幽霊の女房は金がかからんで、ええでぇ」と言われ、一心寺へ行くのですが、そう簡単に若い女性のしゃれこうべが転がっているはずもなく、向かいの安居の天神さんへ行くと、狐をつかまえている男に出会います。その狐を買い取って逃がしてやると、この狐が若い女性の姿になって押しかけ女房になります。男の子が産まれて三年後、狐の正体がバレて、「恋しくばたずね来てみよ南なる天神山の森の中まで」という歌を障子に書き残して去って行きます。枝雀は「落ちなし」で終わりますが、狐になりきって、筆を口にくわえたりして「曲書き」をして終わる演じ方をする人もいました。この歌はもともと「恋しくばたずね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」でした。浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」、「あしやどうまんおおうちかがみ」と読みます。「葛の葉」は、和泉国信太、これは「しのだ」ですね、信太の森の女狐です。助けてくれた安倍保名と結ばれて、生まれた子供がつまり安倍晴明、という話のパロディが「天神山」です。きつねうどんや稲荷寿司を「しのだ」と呼ぶことがあるのも、これが元になっています。ちなみに、泉州信太出身の有名人といえば、あんかけの時次郎です。知りませんか。「てなもんや三度笠」の主人公で、藤田まことの出世作ですが…。この名前も、長谷川伸の戯曲「沓掛(くつかけ)時次郎」のパロディですね。柳家金語楼が西郷隆盛の役で出ていましたから、時代設定は幕末だったんですね。冒頭で藤田まことの決めゼリフ「オレがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」をたまに合格祝賀会でも使うのですが、だれも知らんのやろなぁ。古すぎてだれも知らんのも、あたり前田のクラッカー。

2018年5月13日 (日)

路上における母子のバトルについて

岡本教室の真ん前にケルンというパン屋さんがあります。以前、大学生ぐらいの女の子が二人、「ここにもパン屋あるんや~」「コルン?」とか言いながら通り過ぎていったパン屋です。多くのパン屋がそうであるように、このパン屋も、並べてあるおいしそうなパンが外から見えるようになっているわけですが、さらに、ショーウィンドウの、パンを置くには低すぎるであろう高さに、おいしそうな菓子パンの写真が貼ってあります。菓子パンというのがミソです。すなわち、その高さは、幼児の目の高さなのです。かくて当然のごとく、そこを通りかかった母子連れのあいだでバトルが勃発することになるわけです。

「なに、パン買ってほしいの? ほなら入ろか」

という幸せな展開になることも結構ありますが(さすが岡本です、十三の商店街ならそうはいきません)、お母さんにも都合や予定や機嫌というものがあり、そうそう子どもの言うことばかりきくわけにもいかなかったりします。子どもがおとなしければあきらめてお母さんに手を引かれてとぼとぼ歩いていき一件落着とあいなるわけですが、子どもにも都合や予定や機嫌というものがあり、そうそうお母さんの言うことばかりきくわけにはいきません。私は毎週火曜日の16時半から17時過ぎまで岡本教室の前に立っているのでよく見かけるのですが、あまりにもパンが食べたいせいか、お母さんに対して含むところがあるのか、座り込んでしまう子どもを見かけることがあります。お母さんはぷち切れ状態になったり困り果てたりしていて大変そうですが、見ていて飽きません。

つい先日は、これも岡本ですが、幼稚園ぐらいの男の子が、かなりぐだぐだな状態でお母さんに手を引かれて歩いていて、よほどしんどかったのか、「タクシー」と力なくつぶやいていました。お母さんはにこりともせず「乗るわけないでしょ」と冷静に対処していらっしゃいましたが、いやー、いいですね。

最近最も秀逸だったのは、自転車に乗った母子連れ(男の子はおそらく年長さん)です。

「なあ、スシロー行こー」(確かにすぐ近くにスシローがありました。)

「行けへんて」

「何で」

「だって家にご飯あるもん」

「スシロー行ってガチャガチャしたい」

「お金ないわ」

「・・・・・・全然ないん? 十円も?」

「五百円しかないわ」

「・・・・・・。何で五百円あるのに、お金ないって言うたん?」

「五百円しかないねん」

「お金ないって言うたやん」

「むだづかいするお金はないねん」

「でもお金ないって言うたやん」

淡々と鋭くつっこむ息子と、これまた淡々と返答するお母さんに感心しました。

公園でもよくやってますよね、早く帰りたいお母さんと、まだまだ遊びたい息子のバトル。お母さんが「もう帰るで」と言ってるのに、男の子は聞こえないふりをしてる、みたいな。ああいうのも見てるとかわいいなあと思います。

しかし、困ったケースもあります(正確にはバトルではないのですが)。ずっと昔の話ですが、宿プリのコメント欄に、毎回、「うちの娘は国語ができません」と書き続けるお母様がいらっしゃいました。いや、そんなことありませんよ、と返答しても効き目なしで、このままでは子どもが暗示にかかってしまうんじゃないかと思って、学サポの時間(当時は自習時間と呼んでいました)に本人を呼び、「こんなこと書いてあるけど、先生はきみは国語できると思うで」「お母さんは心配性なんやな、だいじょうぶだいじょうぶ」とくり返し説き聞かせていました。なんだか、安倍晴明と蘆屋道満の呪術対決のようでした。もちろん第一志望校に合格なさいました。

これはバトルではありませんが、昨年谷九教室で出迎えに立ってると、まだ足取りのおぼつかない男の子がお母さんに連れられてよく来てました。僕が「こんにちは」というと、立ち止まり、腰をかがめて「にゃっ」と言ってくれるのです。毎週その子に会うのが楽しみでした。あの子もお母さんとバトルを繰り広げるようになるのかしら。ちょっと見てみたいような。

今日は母の日でした。小学生のとき、「カーネーション買ってくるからお金ちょうだい」と母親に言って顰蹙を買ったことを思い出します。それはともかく、日々息子や娘とバトルを繰り広げている世のお母さんたちに、一刻も早く平穏と安息の日々が訪れることを祈りたいと思います。

あ、そういえば忘れていました。今月下旬から7月にかけて、「中学入試で求められる思考力を低学年で鍛える秘訣」という、土曜サスペンス劇場なみに長いタイトルの講演会をします。しゃべるのは、副学園長と私です。ぜひぜひお誘い合わせのうえお越しください。

2018年4月 9日 (月)

『かくも長き不在』がかくも長き間DVD化されていなかった件

何年も前の話ですが、ある日のこと、昼間からごろごろしていた私は「いつまでもこんなことではいかん!」と一念発起し、力強く立ち上がるやいなや見ていたテレビを消そうとしたわけですが、ついつい念のため他におもしろい番組はやっていないかとチャンネルをかえてみたところ、古い白黒映画が放映されていました。「なんだこんなのつまらん!」と叫び、すぐにもテレビを消そうとした私ですが、ついつい念のため「まあちょっと待て、もう少しようすを見てみよう」と落ち着きを取り戻してしばらく見ていたら、いつのまにか最後までそのまま、すなわちリモコンを手にして突っ立ったまま、その映画を見続けてしまっていました。

という、私にとって伝説的なその名画こそ、何を隠そう、アンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』です。良い映画は5秒見ればわかる、という私の信念はこのときに生まれました。ちなみに、私がいちばん好きな映画はフレディ・ムーラー監督の『山の焚火』で、そこまで好きなわけではないけれど、あまりにも衝撃的だったラスト・シーンの衝撃が味わいたいばかりに、くり返し見てしまい、気がつけば最も見た回数が多い映画はアラン・パーカー監督の『バーディ』なわけですが、『かくも長き不在』はもう一度見たいと激しく渇望していたにもかかわらず、残念ながらどうしても見ることができませんでした。なぜかというと、この映画がDVD化されていなかったからです。しかたないですね、そもそもヨーロッパ映画自体、いまどきなかなかお目にかかれないですもんね。僕がナウなヤングだったころは、けっこうヨーロッパ映画もかかっていたんですが(シネ・ヴィヴァン六本木とかあったころです、僕はここでタヴィアーニ兄弟の『カオス=シチリア物語』を見ました)、その後どんどんそういうのは流行らなくなってしまいました。

さて、その『かくも長き不在』ですが、このたびめでたくブルーレイが発売されました。デジタル・リマスター版とかなんとかそういうやつです。早速「南米の巨大な川」で購入しました。

どのような映画か、あえてブルーレイを観る前に、ここに書き出してみましょう。私の記憶にまちがいがなければ(たぶんあるんですが)、主人公はもう若いとはいえない女の人です。なんか、お店を一人で切り盛りしています。ある日、この女の人が、戦争に行ったきり帰ってこなかった夫にそっくりの人を見かけます。その男の人は川沿いの小屋に暮らしていて、雑誌の切り抜きを集めている、ちょっと独特の雰囲気を持った人です。

と、ここまで書いたところで不安にかられ、つい見てしまいました。たまたま家人がだれもいないという絶好の機会が訪れたので、部屋を真っ暗にしておいしいコーヒーを淹れ、じっくり鑑賞いたしました。うーむ、やはりまちがってました。女性の夫は戦争に行ったのではなくゲシュタポに連れて行かれたのでした。いや、なんせ前に見たときは途中からだったので、情報が欠落しているのも無理からぬところです。ちなみに女性のお店はお酒なんかも出すカフェでした。BSの『世界入りにくい居酒屋』に出てきそうな。とはいえ料理を出す場面はなかったかな。女の人ひとりではなく、若い女の子もちゃんとやとっていました。

さて、問題は、そのホームレスの男の人が、ほんとうに彼女の夫かどうかわからないというところにあります。夫が連れて行かれたのは16年も前のことで、男は後頭部に無残な傷跡があり記憶を失っています。主人公の女は彼が夫であると確信するのですが、念のため彼の親類の老女を呼んで彼に会わせると、老女は「ちがうと思う」と言います。とはいえ老女にもはっきりした自信はありません。

まあこれ以上はネタバレになってしまうので割愛しますが、こんなに静かで淡々として、それでいて痛ましい映画にはなかなかお目にかかれない気がします。泣いて発散することもできない、黙り込んでしまうしかないような痛ましさです。でも、いい映画を見ると元気になりますね。悲惨な出来事をこれでもかと積み重ねたような露悪的な映画や小説、あるいはマンガは疲れるだけですが、質の良い哀しみは鑑賞者を元気にしてくれます。音楽なんか典型的にそうではないでしょうか。この映画もそうでした。情感ただよう、なんてものじゃなく、たゆたってうねってました。二人がならんでジュークボックスの音楽を聴く場面がありますが、女は怒り肩でつり目、男はなで肩で垂れ目という、なんともいえないコントラストも良かったですね。二人とも素晴らしい演技でした。

このあいだアンゲロプロス監督の『蜂の旅人』を見てから、なんとなく、映画モードです。また面白い映画をさがして見てみよう! 見たらここに書きます! 何年後になることやら!

2018年3月11日 (日)

語源俗解

同じNHKでも、大河よりも「ブラタモリ」がおもしろいですね。タモリがあちこちをブラブラする、という安易な企画の番組名なので、地井武男が散歩するだけの「ちい散歩」のレベルかと思いきや、なかなか格調が高い。一つの場所を歴史的、地学的に掘り下げていくのですが、たとえば平泉がなぜ栄えたかという謎を北上川の地質から探っていった回はなかなかおもしろかった。北上川の東と西とで地質が異なるというのですね。北上川の東の北上山地からアンモナイトの化石が出てきます。つまり、そのあたりの地質はデボン紀のものだというのです。で、このあたりは日本有数の花崗岩地帯であるらしく、花崗岩のあるところに金が見つかるそうです。地下深くの、金を含んだ岩石がやがて地表に現れ、風化されて砂金になる。これが平泉の繁栄の基盤になったということです。つまり、奥州藤原氏の栄華はデボン紀の地質がもとになっていた…。こういうのは学校のどの科目で教えてくれるのでしょうか。「国際」ならぬ「学際」ということばもありますが、一つの科目にしぼらなければ興味深く学べることって、結構ありそうです。

「ブラタモリの呪い」というのもあります。「ブラタモリ」で訪れたロケ地で、天災や人災が起こるというやつです。大分に行ったら集中豪雨でやられ、熊本へ行ったら地震でやられ、と災難続きです。逆に言えば、熊本城の石垣が崩れる直前の貴重な映像を残しているということですが…。奄美に行ったときの奄美固有種の動物もおもしろかった。「西」がなぜ「入」なのかということにも触れていました。「西表山猫」は「いりおもてやまねこ」ですね。これは当然、「日の入り」の場所が「西」だからで、そうすると「東」は日が上がるということで「あがり」になります。
奄美や沖縄は日本の古語が残っていることで有名ですが、昔は「ひがし」を「ひんがし」と発音することもあったようです。「日向かし」から「ひんがし」になって「ひがし」になったということでしょうか。「西」は「去にし」の省略形という説もあります。昔、万葉集の柿本人麻呂の歌「東野炎立所見而反見為者月西渡」をどう読むかでもめた結果、「ひんがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」に落ち着きました。「西渡」は「東野」との対比なので「にしにわたる」でもよさそうですが、これを「かたぶきぬ」と読むのもなかなかのものです。賀茂真淵か契沖か、だれだったか忘れましたが…。いずれにせよ、一つの場所で日がのぼるのが見え、反対側では月が沈もうとするのが見える、という光景です。実景というよりも、権力者の交代を暗示しているらしいのですが、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」とも似ているイメージです。ただし、人麻呂のほうは朝の情景で、すごく雄大な感じがします。実際にはこの歌の舞台となった安騎野という場所は小さな盆地で行ってみると期待はずれらしいですね。たしか万葉の旅ツアーをしていた犬養孝先生が言っていたと思います。

「ひんがし」が「ひがし」になったということと無理やり結びつけると、「うなぎ」をなぜ「うなぎ」と言うか、という問題があります。鵜という鳥は、とった魚をそのまま噛まずに飲み込むので、「鵜のみ」ということばができました。鵜飼はこの習性を利用したものですね。そんな鵜でも、さすがにうなぎは飲み込みにくい。飲み込むのに鵜が難儀するから「鵜難儀」つまり「うなんぎ」がなまって「うなぎ」になった、という、嘘に決まっている話があります。もともと気色が悪くてきらわていたうなぎを「ひしまた」という料理屋さんが苦労して料理にしあげたという落語もあります。店の「お内儀」を呼んだのがなまった「うなぎ」という名前になり、魚へんに「日四又」と書いて「鰻」になったという落語もあります。だれの話で聞いたのかなあ。

天然うなぎか養殖かの見分け方として、天然のうなぎは腹が黄色い、というのがあります。「胸」が黄色いから「むなぎ」、それがなまって「うなぎ」になった、というのがオーソドックスな語源らしい。語源というのは何か魅力があるようで、「俗説」が多く生まれています。キラキラネーム全盛の今の時代にはなくなりましたが、昔のお婆さんの名前で「むめ」というのがちょくちょくありました。「ムメ」って何? これはもともと「んめ」だったのですね。「ん」の音が次の「め」にひかれてM音になるので「む」と発音されることもあったのでしょう。もっといいかげんに発音すると「う」になります。つまり「むめ」さんは「うめ」さんだったのですね。「梅」の音読みは「バイ」または「メイ」です。「メイ」を発音しやすくするために軽く「ン」という音を前につけたのかもしれません。

「さくら」はなぜ「さくら」なのでしょうか。「咲く」と関係があるのではないかという人もいますが、そうすると「ら」がよくわかりません。「サ・クラ」のように分けるという魅力的な説もあります。昔の日本人は、大きな岩や大きな木に神が降り立つと考えたようです。神がいる場所を「くら」と呼びます。漢字としては「座」をあてることになります。「高御座」と書いて「たかみくら」と読みます。ラーメン屋にも「神座」というのがありますな。京都の「岩倉」という地名もそういう意味かもしれません。「さくら」は神の宿る木だというのですね。では「さ」とは何か。どうも山の神を「さ」と言ったらしい。この山の神が山からおりてきて田を守る神様になります。これを「さおり」と言って、女の子の名前にも使われます。役目を終わって山に戻ることを「さのぼり」、なまって「さなぶり」とか言ったりします。「さ」の神が来るときが「さつき」であり、苗は「さなえ」で、苗を植える女の子が「さおとめ」です。ただ、そうすると「さくら」の咲く季節とずれてしまうのが「さ・くら」説の難点でしょう。

「つる」はなぜ「つる」か。これも落語にすばらしい説があります。「つー」とやってきて「るー」ととまるから「つる」という、ふざけたやつです。落語では受け売りをして人に話そうとして「『つるー』とやってきて」と言ってしまいます。「で?」と聞かれて、「だまってとまった」という落ち。「すずめ」はなかなかおもしろい。チュンチュンなくから「ちゅんちゅんめ」→「ちゅちゅめ」→「すずめ」という強引な説。これも「め」は何? と言われそうですが、「つばめ」というのもあります。岩渕悦太郎か池田弥三郎か忘れましたが、「☓☓め」という形は鳥を表すという説を唱えていました。「つば」は「つぶ」「たぶ」の変化したもの、「たぶ」には「二」の意味があり、「たぶの木」というのもあります。つばめは「つばくらめ」の省略形とも言われています。尾の先の黒いところが二つに分かれているところから来たものではないか、というなかなか説得力のある説です。「つば」が「二」を表すのは当然です。ドイツ語でも一・二をアイン・ツバイと言うもの。

2018年2月25日 (日)

クマと私

はーるばるーきたぜー函館~。

函館とは何の関係もありませんが、入試が一段落したので、何か少しでものんびりしたことがしたい!と思い、家でゆっくりDVDを観ました。何年も前に買ったきり本棚に眠ってるのがいくつもあって、いつもちらちら横目でタイトルだけ眺めては、「うーむ」と唸っているのです。今回観たのは『蜂の旅人』というギリシャ映画で、アンゲロプロス監督の作品ですが、希学園には知っている人があまりいないと思われます(知っているのは国語科の齋藤先生だけかもしれません。この人はけっこう映画を観ていて、以前に私が「タイだかベトナムだかの『光りの墓』って映画観たかったんだけどとっくの昔に上映終わってたわ~」と愚痴ったら、「ブルーレイ持ってますよ~」なんて言って貸してくれました。かっこいいですね。甲田直美の本を持っていったきりなかなか返してくれなかったトミー・スマイリー氏とは大違いです。『光りの墓』というのは、タイのアピチャッポン=ウィーラセタクン監督の作品ですが、この監督の名前がなかなか覚えられなくて苦労しました。でもとにかくなかなか良い映画でした。だいたい題がいい。思わず観たくなる題です。こういう題の映画は良いと相場が決まっているのです。話がそれまくってますね、『蜂の旅人』の話でした)。主演はマルチェロ=マストロヤンニで、この人はアンゲロプロスの『こうのとり、たちずさんで』にも主演しています。たくさんの映画に出演されていますが、映画に詳しくないのであまり知りません。エットーレ=スコラの『マカロニ』に出ていたのは覚えています。これもおもしろかったなあ。泣けました。エットーレ=スコラを知っている人がこのブログの読者にどのくらいいるのかわかりませんが(もしご存知の方がいらっしゃれば何かの機会にぜひ声をおかけくだされ)、いい監督だと思うんです。はじめて観たのは高校生のときで、『バッション・ダモーレ』という映画でした。いろんな見方があり、いろんな感想をお持ちの方がいらっしゃると思いますが、私は悲しい映画だと思いました。です。主人公のイケメンの将校(ベルナール=ジロドー、ダニエル=シュミットの『ヘカテ』に出ていた二枚目ですな)が、骸骨みたいな顔の女性(上官である大佐の姪)に恋されて往生するという筋立てで、私が語るとまったく悲しい感じがしませんが、悲しいんです。この悲しさをきちんと説明できない自分が残念です。わかってくれる人と語り合いたいと熱望しているんですが、そんな人とは会ったことがありません。それはともかく、ええと、『蜂の旅人』の話でした。音楽はいつものエレニ=カラインドルーで、サックスはやはりヤン=ガルバレクが演奏していました。一時期ガルバレクにはまってよく聴いていましたが、カラインドルーとのコンビが一番いい気がします。ああいう、とりとめのない感じの曲が好きなのですが、ガルバレクが自分でやっているときは、けっこう俗っぽい、安っぽいポップさが前面に出てしまうことがあって、ちょっと不満です。

さて、私がどんな映画や音楽が好きかなんてどうでもいいですね。でもとにかく映画はいい!ですねえ。ぜひ子どもたちにも映画を見せたいなあと思います。子どもたちというのは、すなわち塾生ですね。あるいは今後塾生になるかもしれないお子たち。これは国語的見地です。みんな勉強のし過ぎじゃないでしょうか。いや、させているのは私らなんですが。受験学年になるとなかなか難しいけれど、小2~小5にはぜひ見せてあげたい。問題は何を見せるかですが、上述したように私も映画に詳しいわけではないので、ぱっと思いつきません。観てついていける映画は学年によってちがうと思うので、そんなことも含めて研究が必要ですね。それこそ小5だったら『マカロニ』ぐらい観てほしいところですが、低学年には不可能でしょうね。チャップリンの『独裁者』は無理でも、『キッド』ならどうでしょう。映画ではありませんが、NHKでやっている『超入門!落語ザ・ムービー』でしたっけ、これなんていいなあと思っています。NHKはいいですよ~。『歴史にドキリ』もいいですね。社会を選択していない人ほど見てほしいと思います。常識のない子は文章読めないですからね。

前回(はるか昔ですが)のブログ記事をアップした後、希学園の某職員から、「ブログ見ましたよ」と声をかけられました。ほめてくれるのかと思ったら、「クマが出てこないとつまんないですね」とのことでした。それで、よしわかった、クマについて書いてやろうじゃないかと思って書き始めたのですが、構成ミスによりクマの話にたどりつく前に力つきてしまいました。というか、よく考えたら、もはやクマについて書くことは何も残っていないのでした。そうそうクマに遭うことないですからね。

2018年2月 6日 (火)

三谷センセイはさすが

長いこと書いていませんでしたが、読み返すと「思い込み」について書いていたようですね。で、話を「思い込み」にもどすと、思い込みを裏切られる快感というのも存在します。期待を外されてしまいながらも、「そういうことか」という「発見の喜び」があります。推理小説の意外な犯人というのもそうですし、トリックを見破れずに、まんまとひっかかったりするのも楽しいものです。

クイズでもよくありますね。たとえば、生年月日も同じで、顔もそっくり、名字までいっしょという2人に「ふたごか」とたずねると、そうではないと言う。なぜでしょう、という問題です。答えはみつごのうちの2人だった、というもの。あるいは、交通事故にあった見知らぬ子供を助けて、病院に連れて行ったら、「なんということだ、これは私の息子だ」と医者が言った。子供は意識があるので、「この人はおとうさんか」と聞くと「ちがう」と言う。なぜか。答えは、お母さんだった、というもの。こういう場面では、なんとなく男の医者を想像してしまうものですが、女医であっても不自然ではないはずです。これも思い込みですね。でも、いじわるクイズとはちがって、答えを聞いたときに、なるほど、と思います。「スッキリ!」と言って、ボールを投げ込みたくなります。何のこっちゃわからん人も多いと思いますが。

答えを聞いたら快感というのは、視点を変えたり、発想の転換をしたりすることで解決策が見えてくるからですね。トイレの消臭剤というのがありますが、私はあれが気にくわない。あれは、匂い消しではないのですね。妙に甘ったるい匂いで、トイレにこもった匂いをごまかそうとしているのですが、なんというか、「甘ったるいウ○コの匂い」になってしまうのですね。強烈な匂いを、より強烈な匂いで消そう、という発想では解決できないのではないか。匂いの成分はインドールとかスカトールというやつですから、こいつらと化学反応させて別の無臭の物質(もちろん無毒でなければなりませんな)に変えてしまうような消臭剤というのが開発できないのでしょうか。これぐらいのことはだれでも思いつきそうなので、すでに開発済みなのかもしれませんが…。「上書き」ではなく、別物にすることで匂いを消す、というのは「発想の転換」なのですがね。

発想の転換どころか、逆転の発想というのもありますね。落語の『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』の中で、三途の川をわたる途中、「川にはまるなよ」と注意される場面があります。そこのせりふが「おぼれたら生きるぞ」というやつ。ジワジワとおもしろい。『煮売屋』という落語の中でも、店の主が売っている酒について説明するところがあります。「村さめ」「庭さめ」「じきさめ」という酒で、その店で飲むとホロッと酔いが回って何ともいえない気持ちになるのですが、村を出外れるころにさめるので「村さめ」、店で飲んで庭へ出るとさめるのが「庭さめ」、飲んでる尻からさめるのが「じきさめ」。「酒の中に水を混ぜるんやろ」と言われて、主は「そんなことしやせん、水の中へ酒混ぜます」「水くさい酒やなあ」「酒くさい水です」。

イヌイットに冷蔵庫を売る方法というのもありました。北極に住んでいて天然の冷凍庫を持っている彼らに、「凍らないから食材をおいしく保てます」と言って売るという有名な話です。アフリカに靴を売りに行くセールスマンという話もありました。そのころのアフリカでは誰も靴をはいておらず、はだしで歩いていたという設定です。二人のセールスマンが、それぞれ自分の会社に報告をするのですが、一人は「みんなはだしなので、アフリカには靴のニーズがありません」、もう一人は「みんなはだしなので、アフリカは大きなマーケットになります。ビッグチャンスです」と言った、という話。酒飲みが飲みかけでおいたままの酒ビンを発見して、「ああ、もう半分しか残っていない」ととらえるか、「やった、まだ半分残っている」ととらえるか、というのもありました。これはどちらに焦点をあてるかということで、老婆に見えるか若い娘に見えるかというような「だまし絵」もそうですね。

同じ条件でもどちら側から見るかによって、大きく印象が変わっていきます。幕末史など、その典型かもしれません。会津方から見るか、朝廷側、薩長側から見るか。推理小説でも、探偵側からではなく、犯人の側の視点に立つ「倒叙型」のストーリーもあります。「刑事コロンボ」とか、コロンボを真似た「古畑任三郎」とかですね。3分の1は、1を3等分したものなのか、3つに分けたうちの1つと見るのか。0は何もないということを意味するのか、0という状態が存在しているということを意味するのか。あるいは0はすべてがなくなったのか、それともこれから何かが生まれるのか。解釈次第で変わるのなら、プラスになる方向でとらえたいですね。ただし、プラスを極限にまで推し進めるとマイナスになることもあるので厄介です。吸血鬼がすべての人間の血を吸って、みんなが吸血鬼になったら、吸血鬼の天下のように見えますが、実は吸える血がなくなってしまいます。うそつきが100パーセントうそをつけば、真実の情報を伝えることになり、結局うそがつけなくなってしまう。シェークスピアも言っています。「きれいはきたない、きたないはきれい」と。

ちょっとちがいますが、一つのストーリーを逆から組み立て直すというのもあります。たとえば桃太郎の紙芝居があったとして、絵を最後の一枚から順に出していって意味の通るストーリーにする、というやり方です。家にある宝物が邪魔なので、鬼ヶ島に行って無理矢理鬼に押しつけた桃太郎ですが、帰る途中、家来たちに愛想を尽かされ、犬・猿・雉はきびだんごを餞別に渡して去って行きます。家に帰った桃太郎はなぜかどんどん小さくなっていき…、とここまではなんとかなるのですが、最後に桃太郎をどうやって桃に押し込むかが問題です。

同じ逆パターンでも、桃太郎側の視点ではなく鬼の視点からストーリーを組み立てることもできるでしょうし、これは何人かが試みているようです。芥川龍之介も「性悪な桃太郎が楽園で暮らす鬼たちを理不尽に襲う話として描いていますが、こういう設定もありでしょう。こんな風に反対側の視点からとらえてみると新鮮な見方ができます。大河ドラマ「真田丸」の終わりのほうで、幸村の守る真田丸に攻め寄せてくる井伊勢を見た幸村が「我ら同様、あちらにもここに至るまでの物語があったにちがいない」というような台詞を言うシーンがありました。もちろん、次に「井伊直虎」をやることがすでに決まっていましたから、その含みを持たせたさりげない「予告」になっているわけで、さすが三谷幸喜、いろんなところで遊びがありましたな。

2017年12月 3日 (日)

平和な山登りでいいのか?

何年も前のことですが、とある温泉で話をした見知らぬじいさんに、「天気が良くて楽しかった登山より、天候が荒れて楽しくなかった登山の方が思い出に残るよな!」というようなことを言われましたが、まことにそのとおりです。ふと目を閉じ、山に思いを馳せればまぶたの裏によみがえる悲惨な山行の数々・・・・・・。あるときは風に吹き飛ばされないよう岩に抱きつき、あるときは吹雪のなか必死でテントをおさえつけ、またあるときは大雨でテントの中が水びたしになり・・・・・・。いったい何がうれしくて山なんかに来てしまったのか? 毎度毎度びしょびしょになってこごえて臭くなって、俺はバカなのか?

ところが! どうも様子が変わってきました。・・・・・・この前登ったのどこの山だっけ? と数秒間考えこむ、ということが最近よくあります。記憶力が低下したわけではありません。(もともとあまりない。)

これは、かつて「嵐(台風)を呼ぶ男」と呼ばれたほどの雨男の私が最近絶好調だということに他ならないのです! あのおじいさんの言葉がまさにこの事態を表していたと言っても良いでしょう!

先日、中央アルプスを縦走した折も、なんだか天気が良くて不気味でした。ヤマテン(山の天気予報)の不吉な予報にもかかわらず、三泊四日の縦走で雨に降られたのは最終日だけ(さすがに三泊四日だと一日も降られないということはまずないです)。三日目の宝剣岳直下からの登りの際にはそこそこ風雪に見舞われましたが、まあその程度です。二日目なんて、あまりにもぽかぽかといい陽気なので、空木岳と木曽駒ヶ岳を結ぶ稜線のとちゅうにある檜尾岳の山頂でワイン飲んで昼寝してしまいました。

確かに幸せでした。しかし、何ていうんでしょう、いまひとつインパクトに欠けるというか、うーん、そのときは確かに幸せだったんですが、思い出して幸せになるかというとべつにそうはならず、むしろ現在の不幸が際立つだけというか・・・・・・人に話してもおもしろいわけじゃなし、せいぜいY田M平をうらやましがらせるぐらいしか楽しみがありません。そういうことなのです。

かといってじゃあ次の山行は荒れてほしいかというと、それもどうなのか。うーむ。

しかしここでさらに考えてしまうわけですが、僕が山に登っている姿を傍(はた)から見た人はどのような印象をうけるのか? あるいはその姿を僕自身映像として見たときにどう見えるのか?

燦々と降りそそぐ陽射しのなか、乾いた登山道を楽しげに登っているわしの映像と、激しい風雨(雷鳴付き)のなかこごえる手で岩を掴み歯を食いしばって登っているわしの映像を想像するに、これは明らかに後者の方がかっこいい!と思ってしまうわけです。そういえば6年生の子たちにも言ったことがあります。きみたち、確かにユニバーサルなスタジオで遊んでいる人たちはキャッキャキャッキャと楽しそうでうらやましく思えるかもしれない。でも、「かっこよくはない」だろう? その点どうだ、真剣な眼差しで文章を追い、必死で考えて問題を解こうとしている人の姿は、ちょっとばかりかっこいいではないか。だろう? なに、そんなことない? いやそんなことないはずはないはずだ、そういう方がかっこいいんだ、考えてみたまえ、少なくとも男子諸君にはわかるはずだ、仮面ライダーだって傷つきながらも全力を尽くして戦っている姿こそがかっこいいだろう? それにくらべれば「◎◎ジャー」のシリーズは、ちょいちょい主人公サイドが敵を楽しそうにいたぶっているときがあるが、あれははっきり言って醜い、いくら相手が悪者だとしても生き物だ、それを傷つけて喜ぶなんて人間としてどうかと思うだろう? な、な? ちょっと後半話がずれたかもしれないが、わかるだろう?

僕が小学生のとき、『八甲田山』という邦画がヒットし、その予告篇がわれわれ小学生に多大なインパクトを与えていました。当時、小学生(男子)たちは、ちょっと風が強かったり寒かったりするとすぐに「天はわれわれを見放した!」と叫んではバタッと倒れるまねをしていたものです。つまり、そういう「悲壮」さの美学みたいなものが子どもにもあったと思うんですね。苦悩とか満身創痍とかがかっこよく見える、というような。といって、だから若者よ平和を満喫して楽しく青春を謳歌していないで兵隊になってお国のために戦って玉と散れ~なんて言われるのもぞっとしてしまう話なので、まあそんなヒロイズムはちょっと論外としても、楽しくてにやけてばっかりいる顔よりは真剣にものごとに取り組んでいる姿の方がたしかにかっこいいかもしれないというのは、だれしも感じるところではないでしょうか。いつもへらへらと手をぬいている人間より、真剣に仕事やら何やらに打ち込んでいる人の方がもてますよね、きっと。

というわけで、希学園の受験生諸君にも、そういうかっこいい人になってほしいと心から願っている私でありました。これぞ克己だ!

 

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