2017年5月14日 (日)

読まずに死ねるか!

横溝の名前が出てきたので、久しぶりに最近読んだ本について書きましょう。

法坂一広『弁護士探偵物語・天使の分け前』。作者は現役の弁護士だそうですが、チャンドラーのパロディみたいで、正直言って「つくりもの感」濃厚でした。いくらハードボイルドと言っても、これはないわーという印象でした。懲戒された弁護士の「私」が、アルバイトとして探偵事務所の手伝いをしているときに殺人事件に巻き込まれ、容疑者として逮捕されるというストーリーは悪くないのに、文体がネックになってしまいました。

塩田武士『盤上のアルファ』。神戸の新聞社で警察担当だった記者が「おまえは嫌われている」と言われて、なぜか将棋担当に「左遷」されます。そこで知り合った真田信繁は33歳からプロの棋士を目指そうとしています。将棋を題材としていておもしろいのですが、新人賞の受賞作らしく、やはり粗削りな感じがします。この人の作品は先に『女神のタクト』を読んだのですが、これも引退した世界的な指揮者を探し出して、経営難の神戸のオーケストラを再建させるという、マンガっぽい話で、これはこれでおもしろかった。グリコ・森永事件を題材にした『罪の声』は読んでいないのですが、いろいろな賞をとっているようです。

原田マハ『奇跡の人』。ヘレン・ケラーとアン・サリヴァンの話です。三重苦の少女、介良(けら)れん、岩倉使節団の留学生として渡米した弱視の去場安(さりばあん)という名前がわざとらしいのが気になりますが、もう一人盲目の旅芸人をからめて、筋の運びとしては読みやすいものになっています。去場安は津田梅子のイメージですかね。「感動」というほどではなかったのが残念。この人の作品は『本日はお日柄もよく』もそうですが、読みやすい分、深みがないという感じがします。

恩田陸『夜の底は柔らかな幻』。直木賞作家です。日本の中にある治外法権の土地「途鎖」には、「イロ」という特殊能力を持つ者が多く存在しており…という、外国のSFによくある、詳しい説明もなく、最後まで何のことかわからないパターンでした。コッポラの『地獄の黙示録』をイメージしたとかいうのも納得です。とくに後半はグダグダで着地失敗という感じでした。恩田陸はたまにこういうことをやらかしますね。好きな作家なのですが。

サラ・グラン『探偵は壊れた街で』。「最高にクールな女性私立探偵」という謳い文句だったので、ハードボイルドを期待したのですが、探偵とは何ぞやみたいなところに力点を置いて、内面に入り込み過ぎています。読んでいて楽しいものではなかったなあ。

ダニエル・フリードマン『もう過去はいらない』。シリーズの二作目です。軽度の認知症がある88歳の要介護老人が主人公のハードボイルド。元殺人課の名刑事が歩行器を使って活躍するというアクションもので、イメージはクリント・イーストウッドです。ユダヤ人としてのアイデンティティもテーマの一つですが、とにかく荒っぽすぎるバイオレンスじじいです。そのため読後感はさわやかではありませんし、過去と現在が不規則に入れ替わる組み立てがわずらわしい感じでした。

スティーブン・キングの作品も久しぶりにたてつづけに読みました。「ダーク・タワー」のシリーズでドッと疲れて、ご無沙汰していましたが、『アンダー・ザ・ドーム』『11/22/63』『ドクター・スリープ』『ミスター・メルセデス』を一挙に読みました。『アンダー・ザ・ドーム』はアメリカの小さな町がなぜか見えないドーム状の障壁に囲まれて、外の世界と隔絶されるという、「設定だけ」の作品です。それを大長編に仕立てあげるキングの力業で読ませます。小松左京と同じように、「もし~たら」という発想をふくらませるテクニックはやはりさすがです。見ていませんが、テレビ・ドラマにもなっています。『11/22/63』は平凡な高校教師がタイムトンネルを通って、1958年の世界に行き、そこで過ごしながら、1963年11月22日のケネディ大統領暗殺を止めようとする、という話です。タイムトンネルは1958年のある日にしか行けません。ただし、そこでなんらかの行動をすると、現在に影響を及ぼします。過去にもどって過去を変えたら、時の流れはどう変わっていくのかという、よくあるパターンをやはりキングはうまく読ませてくれます。これもテレビ・ドラマになっています。『ドクター・スリープ』は名作『シャイニング』の続編です。『シャイニング』が未読であると、ちょっとしんどいかもしれませんが、長い話を一気に読ませてくれます。これは映画化されるそうな。『ミスター・メルセデス』はホラーではなくミステリーで、エドガー賞もとっています。就職フェアの行列にメルセデス・ベンツが突っ込み、8人の死者と多数の負傷者を出します。担当刑事は定年退職するのですが、その犯人からの挑戦状が来るという発端です。ミステリーとしてはいまいちだったような気もするのですが、三部作の一作目なので、続きもまた読むんだろうなあ。

阿部智里『烏に単は似合わない』『烏は主を選ばない』『黄金の烏』。評判のよいシリーズですが、小野不由美の「十二国記」に比べると、読むスピードがなかなか上がらない。文章はけっして下手ではないのですが…。

中村ふみ『裏閻魔』。長州藩士の主人公が新撰組に潜入するところから始まって、昭和の時代まで続くシリーズものです。主人公は刺青によって不老不死の呪いを背負ってしまうというラノベ系です。当然読みやすく、そこそこおもしろい。アニメになりそうな気配も濃厚です。

古野まほろ『ぐるりよざ殺人事件』。鬱墓村を舞台とした、横溝正史オマージュ作品なのですが、「セーラー服と黙示録」のシリーズなので、おっさんの読むものとしては大きな声では言いにくい。秋吉理香子の『暗黒女子』もだいぶ前に読んで、「イヤミス」としてはなかなかおもしろかったのですが、これもおっさんの読むものとしては…。

ちなみに最近見た映画は『相棒』です。「人質は50万人!」というやつです。読むものも映画もかたよってますなあ。あ、ちょっと古めのものですが、『リチャード二世』というのも見ました。BBCの「嘆きの王冠 ホロウ・クラウン」の劇場版です。シェークスピアの原作を下敷きにしており、セリフにリアルさのかけらもないところがなかなかよかった。でも、このシリーズを全部見ようと思ったら、一万円以上かかってしまう。見るべきか見ざるべきか。

2017年4月23日 (日)

下呂牛乳もある

ミドルネームという、妙なものがありますが、これにならって、たとえば、本名、田中一郎さんが結婚したら田中田楽狭間一郎とか、山田花子さんが結婚したら山田チリトテチン花子とかにして、田楽狭間とかチリトテチンがファミリーの名前になり、子どもはそれを結婚するまでは受け継いで自分の名字にする、というのもありかなあと思います。さらに、その人がサラリーマンであるなら、サラリーマンネームというのがあって、田中田楽狭間ルードヴィヒ3世一郎とかするとおもしろいのですが、非常に面倒でもあります。どんどん長くなって、自分の名前がわからなくなって「オレダレ?」と思ったらダレノガレ一郎と呼べるようになり、経験値をつめばキリガクレ一郎に改名できるとか、一郎が二郎、三郎に進化していくという、ポケモン状態になったら、わけがわかりません。

ただ、死んだら戒名という新しい名前がゲットできるシステムは昔からありますね。法名というものもあります。戒名と法名はどうちがうんでしょうか? 法名は浄土真宗で、戒名はそれ以外、とよく言われます。どちらも、もともとは仏教徒となった証としての名前だったわけですから、本来は生前に与えられるものですね。今はもっぱら故人に対して与えられるものをさすようです。では、僧侶の名前はどうなのでしょうか。俗名佐藤義清、出家して西行、というのは有名ですが、雨月物語の「白峯」という話では西行が崇徳院の陵墓を訪ねたときに、崇徳院の怨霊から「円位」と呼ばれます。二つの名前を持っていたのですかね。

武田晴信が出家して徳栄軒信玄となります。弟の信廉も逍遥軒と名乗っているので、武田一族は「…軒」が好きだったようです。一方の謙信の号は不識庵ですね。有名な頼山陽の漢詩「鞭声粛々」は「不識庵機山を撃つの図に題す」というものです。謙信が信玄に斬りかかっている絵ですね。ということは、信玄は機山とも名乗ったようです。出家したからには常識的には俗名から離れるわけで、名字もなくなるはずです。武田晴信は正しいのですが、武田信玄と呼ぶのは本来はおかしいことになり、ただの信玄と呼ぶべきです。夏目漱石がただの漱石であるように。朝日新聞に連載している小説では、作者名はただ漱石とだけ書かれています。ところが禅宗の場合はまた奇妙なことになっています。夢想疎石とか太原雪斎とか一休宗純というのは何なのでしょう。まるで姓名のような感じです。一休さんの名前はただの「一休さん」でよさそうなのに、あらたまるとなぜか四字熟語のようになってしまいます。

滝沢馬琴の場合は本名が滝沢解で、ペンネームが「曲亭馬琴」。ということはただの「馬琴」ではないようです。「~亭」「~家」という、落語家にもよくあるのは、それこそファミリーネームなのかなあ。落語家の「林家」や「桂」は関西にも江戸にもありますが、別の家なのでしょうね。「曾我廼家」というのは喜劇系で、「浮世亭」というのは漫才系ですかね。「正弁丹吾亭」というのは法善寺横丁にある料理屋さんです。織田作之助の『夫婦善哉』にも登場する老舗ですが、もともと「こえたご」のある場所だったとか、いやいや「正しく弁(わきま)える丹(まごころ)のある吾(わたくしども)の亭(みせ)」という意味だとか、いろいろな説があるようです。いずれにせよ、食べ物屋の名前としてはインパクトがありすぎです。

「下呂の香り」というお菓子もなかなかのものです。下呂温泉のお土産として有名ですね。これもどういうねらいでのネーミングでしょうか。やはり受けをねらったのでしょうね。何も気づかなかった、というわけでもありますまい。ウニの名前で「バフンウニ」とあるのは、見た感じからつけられたのでしょうから、やむを得ませんが、食べているときに名前を思い出すと、やや抵抗があるかもしれません。おいしいだけに別の名前にしてほしかったと思います。「馬糞饅頭」となると、最初から食べることを目的とした饅頭にわざわざ「馬糞」と名付けたわけですから、これは何らかの意図をもっているような。色や形が似ているにしても、他の名前でもよいはずです。それをストレートに「馬糞」と呼んでしまうのは大らかさなのか、それとも作為がないように見せかける「作為」なのか。

前の希学園十三教室の裏手は波平通りと呼ばれていました。体は鉄腕アトムで顔が磯野波平という「鉄腕波平」発祥の地ということから付いた名前で、これも安易なネーミングですが、そのまま十三方向にまっすぐ行くと、駅前の通りをはさんで「しょんべん横丁」になります。飲食店のあるところの名前としてはいくらなんでもどうかなあという感じがします。酔っぱらいのおっさんたちが線路沿いの壁に用を足していたことからできた名前らしいのですが、こういうことに無頓着な人が多いのでしょうか、それとも露悪趣味なのでしょうか。「ブラック・レイン」のロケ地にもなったところなのですがねえ。

「しょんべん横丁」も焼けましたが、私の郷里の家の近くの「よろず屋」が「焼け店」と呼ばれていました。火事で焼けたことがあるから「焼け店」です。考えたら失礼な呼び名で「〇〇商店」というような正式名称もおそらくあったのでしょうが、みんな「焼け店」と呼び、店のほうもそれに対して抵抗がなかったようでした。ちなみにうちの家は「寺ん前」と呼ばれており、自らもそう名乗っていました。明治の廃仏毀釈で寺が神社に変わってしまったのですが、もともと寺があってその門前の家ということで、そう呼ばれていたらしい。あだ名というか、いわば屋号のようなものかもしれません。

歌舞伎の人たちも屋号を持っています。「音羽屋」とか「成田屋」とか。ご贔屓筋が士農工商の内の商人の扱いにしてもらえるようにと、店を持たせてくれ、そのご贔屓筋の名前を店の名にしたのが屋号の始まりともいわれます。『伽羅先代萩』という芝居に出てくる『一羽の雀が言うことにゃ』というフレーズが手まり歌になっていき、それが効果的に使われていたのが横溝正史の『悪魔の手鞠唄』ですね。マザーグース殺人事件のようなものを書こうとして、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』にならって書いたのが『獄門島』です。それの発展形で、元の歌を自分で作ったのが『悪魔の手鞠唄』ですが、鬼首村のそれぞれ家にも「枡屋」とか「笊屋」とかいう屋号がついていました。金田一耕助が峠道でおりんと名のる老婆とすれ違うシーンが印象的でしたね。ところがじつは、おりんはそのときすでに死んでいたはず…という、わくわくする展開になっていきます。浅川美智子が鬼首おりんと名乗って鶴瓶とともに毎日放送のヤングタウンに出ていましたが、もはやだれも知らない…。

2017年4月15日 (土)

読書案内の講演会

昨年に引き続きまたしても講演会を行うことになりました。前回の記事以来告知に燃える私としては書かずにはいられません!

ババーン!

『~入試問題から見えてくる~灘中・甲陽学院中・神戸女学院中を目指す低学年児童のための読書案内』

長い! 

この企画は、誰に頼まれたわけでもないのに私が考えたものです。ある日、「はっ」と思いつき、西宮北口の教室長に、「こんなんどうですか」と口走ったところ、あっというまに実現の運びとなり、内心ちょっと焦っているのです。

なぜ西北なのかというと、実は私は西北の教室長とは同期の桜であり(年齢的には少しだけ私の方が若いのではないかという気がしますが)そのよしみで何とか西北に貢献したいと思ったからではなく、「灘・甲陽・神女」だったらまあ西北かなあ、小2と小6の授業も担当しているしなあ、といった事情によります。

国語講師をしていてよく寄せられる質問のひとつが、「どんな本を読ませたらいいですか」というものです。若いころは(いやまだ西北の教室長にくらべたら多少若いかもしれませんが)、何でも好きな本読んだらいいんじゃないかなああれ読めこれ読めなんて言って読書嫌いになられても困るしなあなんて思っていましたが、私もそれなりに年齢を重ね(とはいえ西北の教室長よりはどうやら少し若いようなのですが)、ここいらで一発真剣に考えをまとめておこうと思いました。

実は希学園では夏休み前に読書案内のプリントを配付しており、茶屋町のジュンク堂の児童書フロアにはこのプリントをもとにした希学園コーナーまであるのですが、今回の企画はそういう一般的な読書紹介ではなく、「灘・甲陽・神女志望者限定」の企画です。

この三校限定なのにはもちろんちゃんと理由があります。甲陽コースの矢原、神女コースの竹見にも「こんなんどう?」と訊いてみましたが、灘・甲陽・神女には共通する何かがある、というのが三人の共通見解です。

というわけで、5月20日土曜日です! 

塾生保護者の方、一般生保護者の方を問わず、ぜひぜひお誘い合わせのうえ、お越しください。お待ちしております。

2017年4月 1日 (土)

名字は「ああああ」

略語といえば、「マクドナルド」問題もありますね。東京では「マック」で大阪では「マクド」。「マック」は「~の子」という意味だから、それだけでは「マッキントッシュ」か「マックイーン」か「マッケンジー」か、何の略かわからないのに対して、「マクド」は「マック・ドナルド」であることが推定できるので、略語としてのレベルは高い。大阪の勝ちです。長いことばのどの部分をとってくるかはあまり規則性がないようです。「尼崎」は「尼」で「がさき」にはなりませんが、「池袋」は「ブクロ」、新宿は「ジュク」、「二子玉川」は「ニコタマ」です。では「天下茶屋」は「ガチャ」でしょうか。そこに住む人は「ガッチャマン」と呼ばれる、というギャグを合格祝賀会の劇で使いましたが、あまり受けなかった…。

思いがけない略語というのもあるようです。略語であることを知らずに使っているものは結構多く、たとえば「ボールペン」でさえ「ボールポイントペン」が元の形だとか。「教科書」は「教科用図書」、「切手」は「切符手形」、「軍手」は「軍用手袋」だそうです。よく使う「特訓」も、よく考えれば「特別訓練」の略語です。「割り勘」などは略語だろうなとはわかりますが、元の形が「割り前勘定」であることには気づきにくい。「自賠責」を「自動車損害賠償責任保険」とは言いたくないですね。「電卓」は「電子式卓上計算機」でしょうか。「馬券」も正式には「勝馬投票券」らしい。「食パン」が「主食パン」というのは卑怯な気がしますが、たしかに「食べるパン」ではおかしい。古いところでは「魚雷」は「魚形水雷」、「空母」は「航空母艦」で、四字熟語の中から妙なところをとってきています。

固有名詞では「天六」「上六」「谷九」なんてのもあります。「学習研究社」は「学研」が正式名称になったのかなあ。「関西電力株式会社」の「関電」は「感電」を連想させるし、ひょっとして「関東電力」と思われるかもしれないので、あまりよい略語ではないようですが、やむをえないのでしょうね。英米の人名でも略語があります。ロバートがボブとかボビー、ロブになったり、さらにバートとかバーティーなども短縮形ですね。マイケルもマイク、マイキー、ミッキー、ミックになったりします。日本では名字と名前の一部をとってきて、キムタクみたいにすることがあります。この略し方は一昔前にはなかったのではないかなあ。名前のほうの「タク」はよいのですが、名字は漢字で書いたら「木村」ですから、これを「キム」と略すのは抵抗があったはずです。漢字ではなく音のイメージでとらえるようになってきて登場した略し方かもしれません。マツケンやホリケン、マエケンは従来型、シムケンやタムケンはニュータイプですね。でも、不思議なことに高倉健はタカケン、渡辺謙はワタケンにならずに、ケンサンです。マツジュンとは言うのに、オカジュンと言わないのは、これいかに?

みのもんたをミノモンにしても意味がないので、これはなしでしょうが、勝新太郎のカツシンはありなんですね。何か規則性があるのかないのか。ンで終わらなくても、長谷川京子のハセキョーとか豊川悦司のトヨエツというのもあります。ミスチルは言いやすいが、セカオワなんて言いにくい。エ段の音のあと子音のkが来るだけでもひっかかりがあるのに、そのあとa・oの母音が連続して、さらに実質aに近いwaなのでいわば母音三連発。普通なら略語にならないのに、誰かが通ぶって略したのでしょうね。もともと長すぎて寿限無と変わらないので、略すのもやむをえないかもしれません。でも、セカオザのほうが略語としての品格はありますな、だれも知らんけど。

こういう省略形になっても固有名詞という扱いになるのでしょうかね。固有名詞という概念はどうもあまりかしこくないようで、なぜ普通名詞とわざわざ区別しようとしたのでしょうか。個体につける名前が固有名詞で、種類につける名前は普通名詞とする、という区分はまったく無意味です。「日本」は国名なので固有名詞ですが、「日本人」はどうなのでしょうか。英語なら一文字目が大文字になるから固有名詞とするのでしょう。でも、「サクラ」のように「種類名」は普通名詞なので、「日本人」も普通名詞になるはずです。「アメリカ」は固有名詞ですから「米国」も固有名詞のはずです。では「日米」は? これが固有名詞であるなら「日米関係」という名詞は? 同じく「日本風」はどうなのでしょうね。「日本食」は? これが固有名詞で「和食」が普通名詞であるとするなら、ばかばかしすぎます。

他と区別するために個人を呼ぶものが固有名詞であるとするならマイナンバーとか背番号はどうなのでしょうかね。単なる数字であって名詞ではないとすることもできますが、数字だって場合によっては「個性」をもつことがあります。どこかの学校の先生が「18782+18782=37564」を「いやなやつが二人いたら、みなごろし」とか言って問題になったことがありました。「777」なんてのは好まれる数字ですから、数字にだって個性があるといえます。ましてや自分の姓名であれば個性そのものかもしれません。

ただ「夫婦別姓」を主張する人の理由に、名前は自分の個性だというのがありますが、それはどうもなあという気がします。新しい名字になっても、その人の個性が消えるわけはないでしょう。とってつけたような理由を言うのではなく、名字が変わるのはいやだからだめだ、と言ってくれたほうが、よっぽどすっきりします。夫婦別姓が古くからあった例として源頼朝と北条政子を持ち出す人もいますが、政子は平氏ですから、本来は平政子で、「北条」はいわゆる名字ということになります。一方の頼朝の源は氏の名ですね。頼朝の名字は何だったのでしょう。「源」はあくまで「源氏」の一族であることを表すもので、名字ではありません。叔父の行家などは「新宮十郎行家」と呼ばれましたし、先祖の満仲も「多田満仲」と呼ばれたので、これは一種の名字と見てよいでしょう。住んでいるところやゆかりのある土地の名が名字になるわけですね。ということは「伊豆頼朝」とか「蛭ケ小島頼朝」とかの名字があってもよさそうですが、なぜか「源頼朝」です。名字を名乗らないのは、うちが「本家」だという意識ですかね。清盛の家も平です。藤原氏の場合は多すぎて、どれが本家かわからなくなってしまったのかもしれません。道長の子孫も九条、二条、一条、近衛、鷹司に分かれて、藤原と名乗らなくなります。ということは、いま藤原と名乗っている人は直系ではないということでしょうね。

これは前にも書いたような気がするのですが、夫や妻の名字を名乗るのがいやなら、夫婦別姓ではなく、新たに「ファミリーネーム」を作ればよいのになあ。ただ、変な名字を作る人もいそうです。「ああああ」とか「うん〇」とか。ファミコンでも規制されてたなあ。

2017年3月11日 (土)

自衛隊が南スーダンから撤退するとかいうことで、ふと、昨年新幹線車内の電光掲示板で見たニュースを思い出しました。

安倍首相が南スーダンに派遣される自衛隊員に向かって「諸君たちには新しい任務が与えられる」と語ったというニュースです。

「諸君たち」!

昔、劇団名を考えていたときに、友だちが「劇団シアター劇場」という名前を提案したのを思い出しました。また、これは劇団名とは関係ありませんが、べつの友人は「坊主丸もうけ」ならぬ「坊主丸ぼうず」とか「貧乏暇なし」ならぬ「貧乏金なし」などという新作ことわざを作っていました。

とはいえ彼らはわざとやっていたわけで、安倍さんとはだいぶちがいます。もしかして安倍さんも受けねらいでわざとやったとか。そんなはずありませんね。まあ正直じゃあ意味がわからないかといえば「諸君たち」でも意味はわかるので、べつに目くじら立てなくてもいいといえばいいです。「ら抜き言葉」もそうですね。べつに意味がわかるからいいじゃん!と言われればまあそのとおりだと思います。そういうこと言うのはだいたい理科の先生ですけどね。いやこれは偏見ですが。

そういえば昨年の『灘×甲陽×希コラボ座談会』の中で、甲陽の大川先生(理科を教えていらっしゃるそうです)が、人は言葉によって考えるんですよとおっしゃっていました。

もちろん、人は言葉「のみ」によって考えるわけではありません。ホーレンシュタインの『認知と言語』という本で、〝「思考は常に言葉によってなされる」というある人々の信念は、「彼を笑わせるたけだった」〟という言葉が紹介されています。この「彼」というのは、アインシュタインのことですが、アインシュタインは「そもそも、私はめったに言葉によっては考えない。まず考えが浮かぶから、それを後になって言葉で表すこともできる」とも述べています。しかしまた、「個々人の精神的発展と概念形成の方法は、相当程度に言語と周囲の人々による言葉の導きに依存している」とも述べており、言葉と思考の関係は一筋縄でいかないですね。ま、なんせ、自分の胸に手を当ててよくよく考えればわかりますが、言葉がなければ考えられないなんてことはありません。ただし、よりよく考えるためには言葉を必要とする人間が多い、というのはわりと正しいように思います。

押し入れの奥から物を出したい。しかしそのためには手前にあるものをいろいろとどかさなければならない。それはよいとして、いざ目当てのものを手に入れたあとは、どけたものを元の場所に戻さなければならない。果たして正確に元の場所に戻せるのか。まちがった場所に戻せば家人に何を言われるかわかりません。 怖い! 

こういうとき私は、視覚的な記憶のみに頼って諸々の品を元の場所に戻すということが、あまりできないのです。正しく復元するためには、いったん言語化しておかねばなりません。「何の右に何があり、その上に何がひっかかるように載せてある」みたいな感じです。そんな私なんだから、何色の、どの模様のバスタオルが自分のバスタオルかなんてことも見ただけでは覚えられません。覚えるためには言語化が必要です。「薄青の、文字っぽい模様のやつ……」みたいに。

われらが副学園長がかつて車の中で僕に「カーペットの色が変わったとか、わかるはずないよな」とぼやいていましたが(果たして何があったのか?)、まったく同感です。ただ、副学園長の場合は視覚的な記憶の問題ではなく、心が奈辺にあるのかの問題であるような気がしますが。

ところで話はまったく変わりますが、入試問題分析会が終わりました。このブログで告知しようと思っていたのですが、忘れていました。忘れているうちに終わってしまい、終わってから、ブログに告知しようと思っていたことを思い出しました。ふつうはこういうブログって、イベントなんかの告知のために使うものだと思うんですが、去年の教育講演会もそうですが、そういう意味ではまったく機能していません。これはいけませんね。反省しなければ。

というわけで告知します!

来週土曜日午前、西宮北口教室で「希学園の最レダイジェスト体験」という、新小2生対象の体験授業を行います。新年度になってすでに5回小2最レの授業をしましたが、実施済みの授業のうちの1回分のダイジェスト授業というかたちになります。3/18です。ちなみに四条烏丸教室でも同様の体験授業が行われますが、私が担当するのは西北です。四条烏丸教室は松谷が担当します。非常にビッグな講師です。宝塚ふうに言うと「エルサイズのハラ」というやつですね。

「希学園の授業に関心をお持ちの方、また、塾選びに迷われている方は奮ってご参加ください。
なお、保護者の方が授業をご見学いただくことも可能です。」と、希学園のホームページに書いてありました!

2017年2月 9日 (木)

ほな、このへんで。

襲名もそうですが、有名人の名前をもらって名付けをするというのはイメージを借りるという意味があります。自分があこがれているスターの名前を子どもにつけるのは、そのスターのように育ってほしいという気持ちの表れでしょう。もっともつけた当座はよくても、あとあと困った事態になることがあります。田中角栄が首相になって「今太閤」ともてはやされたころ、あやかろうと思ったのか角栄と名付けられた男の子がいました。みんなからチヤホヤされたのも束の間、なんと田中角栄は逮捕されてしまいました。すると、今度はみんなから名前のことでからかわれ、いじめられる羽目になったとか。普通、改名が認められるのはよほどの事情がないと無理だそうですが、角栄くんの場合はスンナリ認められました。

チンパンジーにイギリスの王女の名前をつけたのも一時大騒ぎになりましたね。不謹慎だというのでしょうが、「サルあつかい」だからダメなのであって、これが金魚の名前であれば問題はなかったかもしれません。パンダでも許されたでしょう。ただパンダの場合、「ランラン」「カンカン」のように「くり返し」系の名前がなぜか多いようです。最初の名前が有名になりすぎて、みんなそれを継承しているということでしょうが、それならいっそ「ランラン15世」とか「六代目カンカン」にしてもよいのでは。

パンダもそうですが、何かの名前を公募することがよくあります。これも安易な名前に落ち着くことが多いようです。結局思いつきやすい名前になるのですね。猫なら「ニャン吉」とか「ニャン太郎」とか。まちがっても「アメンホテップ」とか「兀突骨」とか「ウラジミール・サモイロヴィッチ・ホロヴィッツ」とかにはなりません。おどろおどろしい名前にもなりませんね。「ドグラマグラ」とか。これは夢野久作の小説ですな。日本推理小説の三大奇書の一つです。あと二つは、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」、中井英夫「虚無への供物」。ただし、竹本健治の「匣の中の失楽」を入れて四大奇書とか、おれの作品を入れて五大奇書だと言う人もいて、いろいろ説はありますが、「奇書」の作者としては夢野久作が最もふさわしい。夢野久作は「押絵の奇蹟」とか「あやかしの鼓」などもいいですね。前者は江戸川乱歩絶賛で、いかにも乱歩好みです。「死後の恋」も捨てがたい。ロマノフ王朝の生き残りの王女という設定で、ユル・ブリンナーとイングリッド・バーグマンの映画にもありました。バーグマンはスウェーデン系なので、ほんとうはベルイマンという発音が正しいようです。同じスウェーデン出身のイングマール・ベルイマンという監督はバーグマンではなく、ベルイマンになっているのは、変といえば変です。オードリー・ヘップバーンやキャサリン・ヘップバーンのヘップバーンもつづり通りに読めばたしかにヘップバーンですが、ヘボンのほうが実際の発音に近いらしい。ヘボン式ローマ字のヘボンですね。かといって、オードリー・ヘボンというのもなあ。

スウェーデンと言えばノーベル賞ですが、ボブ・ディランとはこりゃまた予想外でしたね。村上春樹は万年候補で終わるかもしれません。私はディランよりもジョーン・バエズのほうが、声もきれいだし、歌い方も素直で好きでした。ディランはあの癖のある歌い方がファンにとってはたまらんのでしょうし、バエズもよく物まねしていますが。「500マイル」とか「パフ」とか「花はどこへ行った」、「天使のハンマー」などで有名なPPMもきれいなハーモニーでした。「ピーター・ポール&マリー」という三人組ですから、正しくはPP&Mだし、小文字のppmとはちがいます。小文字のほうは「パーツ・パー・ミリオン」の略なので、100万分のいくらということになります。ppcなら「パーセント」で、100分の1になり、PPAPならピコ太郎です。

PPAPというのも妙なことばで、文脈にかかわりなく、いきなり言われると何のことかわかりません。本来、アルファベットの略語というのは、DAIGOの「ギャグ」のレベルなんですよね。SKTで「精も根も尽き果てた」とか、MKSで「負ける気がしない」とか。元のことばに復元するのは不可能です。よく使うATMでも何の略かわからずに使っています。調べてみたら、「オートマチック・テラー・マシーン」の略らしい。このテラーも「電話する人」というわけではなく、銀行の窓口係のことを言うそうな。そういえば銀行を舞台にした『花咲舞が黙ってない』というドラマで杏や上川隆也が何度も言ってました。

中には「スイスイ行けるICカード」の意味で「Suica」ということばができたあと、「スーパー・アーバン・インテリジェント・カード」の略だとした「あと付け」のケースもあります。「ICOCA」も「ICオペレーティングカード」の略らしいのですが、関西弁の「行こか」と掛けるために最初のことばを選んだ可能性があります。タイタニックが打電したと言われる「SOS」は、モールス信号にすると「トントントン・ツーツーツー・トントントン」で、打ちやすくわかりやすいので採用されただけで、特に意味はないとか。ということは「セイブ・アワ・シップ(我々の船を救え)」の略だという説もあと付けですね。朝日放送の「ABC」も「アサヒ・ブロードキャスティング・コーポレーション」なので、自然にそうなったように思えますが、最後を「コーポレーション」にする必然性はありません。「MBS」は「マイニチ・ブロードキャスティング・システム」ですから、「システム」であってもよかったわけです。朝日放送は最初から「ABC」狙いだったのではないでしょうか。

ここまで来ると、由緒あることばあそび「折句」と同じですね。「から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ」の各句の頭に「か・き・つ・ば・た」を折り込んでいるというやつです。今でいう、「あいうえお作文」ですね。自己紹介するときに、「やきもちやきで、まんががすきで、しぬきでがんばれずに、たこやきばかりたべている、やましたです」とやるようなやつです。ただ残念ながら、ことば遊びとしてはおもしろくない。たった一文字の拘束ではつつまらないのですね。だじゃれでも、「しまったしまった島倉千代子」とか「もうネルトン・ジョン」のように、一部分しか合わず無理感ただようのは、おもしろみは少ないものの、「あいうえお作文」よりましです。「いい加減に椎茸」「ほな、このへんで、えんどう豆」とか「何ちゅうことを郵政大臣」「オナラ一発、国務大臣」「また調子に農林大臣」「ほな、このへんで、吉田茂」のように、連発すると多少はおもしろくなるのですが。むかし、漫才のWヤングがやってました。温泉の名前とか民謡の名前で連発していましたね。ということで「ほな、このへんで、おいとこ節」。

2017年1月26日 (木)

『国語の教え方学び方』

先日は希学園教育講演会『国語の教え方学び方』にお越しくださったみなさま、ありがとうございました。

と、お礼を述べようと思ってブログ記事を書き出してから早くも一ヶ月半です。光陰矢の如しとはよく言ったものですね。せっかく途中まで書いたのに、さすがに一ヶ月半も前の文章はまったく使えず、いちから書き直しです。

もはや遥か昔のことのように思える教育講演会ですが、おぼろげな記憶をたどってみるに、谷九→四条→十三→西北→十三と、計5会場で実施いたしまして、あわせて500名弱の方に、私の考えているところを聴いていただくことができました。みなさま本当にありがとうございました。拙い話で満足いただけたかどうか自信ありませんが、少なくとも私は堪能させていただきました。

今年は昨年までの内容を大幅にリニューアルし、というか、関係各部署に多大なる迷惑をかけつつほぼまったく新しくつくりかえ、果たして時間通りに終了できるのかと不安にかられながら講演会に臨みました。持ち時間は1時間半、例によってぶっつけ本番でしたが、何とか数分程度のオーバーで済みましたですね。あれはですね、画面一枚につき3分という計算でつくるのです。そうすると、だいたいいけるのです。私の長い経験上そういうことになっているのです。といっても講演会をご覧になっていない方はよくわからないと思いますが。

以前にも書いたことがあるのですが、私は体温が低く、だいたい35.6℃ぐらいです。なんとしてももう少しホットになろうと思ってがんばったこともあり、そのときは36.3℃ぐらいまでいったのですが、いつのまにか元に戻っていました。体温が低いと、時間感覚が人よりも遅くなる、つまり、時間の経過を実際よりも遅く感じてしまうようですね。これは小6のテキストに入っている文章で知ったのですが、寒色系で統一された部屋では時間の経過を遅く感じる、つまり、まだあんまり時間がたっていないと思っているのに実際には時間がたっていたという浦島太郎状態になるらしいんです。そうなるのは、おそらく寒色系に囲まれていると体温が下がるからだろうと。いや、そうは書いていませんでしたが、逆のケース、つまり、暖色系の色を見ると体温が上がるとは書かれていたので、きっと逆もまた真なりだろうと思うのです。

さて、何が言いたいかというと、1時間半の持ち時間で、私としてはまだ1時間ぐらいしかたっていないんじゃないかと感じているのに、なぜか実際には1時間20分ぐらい経過してしまっているという理不尽なことが起こりうるということです。そのようなきわめて不利な肉体的条件を抱えつつ、ほぼ時間通りに終わる私ってなかなかいけてるんじゃないでしょうか。しかもぶっつけ本番で! コツは上記の一画面3分計算で内容を組み立てることと、こまめに時計を見ることですね。

ところが実は、私は腕時計を持っていません。もう十数年持っていないと思います。十数年以上前には、腕時計ではありませんが懐中時計を持っており、当時働いていた塾は教室に時計がなかったので、その懐中時計を机の上に置いて(教卓もなかった)授業をしていました。すると、実によく落としてしまうんです。だいたい私はよくものを落とすんです。幼稚園の卒園アルバムに「忘れ物と落とし物の名人でしたね」と書かれたほどです。いたいけな幼児にむかってなんちゅうこと書くんですか、シスターアンヘラ! それはともかくしょっちゅう件の懐中時計も落としていたわけですが、あるとき拾い上げて壊れていないか確認すると、なんと、秒針が反時計回りに! 時計の秒針が反時計回り! びっくりしました。これはもう使えんと思ってしばらく放置していたら、電池が切れたのかいつのまにか止まっていました。でも、お気に入りの懐中時計なので、上本町の時計屋さんに修理にいきました。事情を話すと、時計屋のおっちゃんは、替えの電池を入れながら、「そんなアホな、構造的にゆうて針が反対向きに進むなんてことは・・・・・・うわっなんじゃこりゃ!」とびっくりしていました。でもとにかく直りました。なぜ直ったのかは時計屋さんにもわからなかったようで、「なんか、ネジしめたら直った」と言うていました。でもしばらくしてその時計はどこかに落としたか忘れたかしてなくしてしまいました。それ以来、腕時計も懐中時計もなしの生活ですが、昨年、山登りのとき用に千円のデジタル腕時計を買いました。コースタイムを計るためです。あまりにも安っぽいので、ふだんは使っていません。

したがって、教育講演会や各種説明会のときはガラケーを机に置いて時間を確認しています。ところがこのガラケーが1月12日に壊れよったんです。もうびっくりしまっせ。1月12日といえば、前日特訓の前日です。1月14日が入試本番初日です。よりによって最も携帯電話を必要とする一週間のはじめに壊れるとは。あわてて泉の広場のドコモショップに行きましたがな。

ええと、何の話をしていたんでしたかな。そうそう私としては遅ればせながら教育講演会にお越しくださった方にお礼を申し上げたかっただけだったのでした。その際、アンケートに質問を寄せてくださった方にはお電話します~と申し上げ、だいたいは電話させていただいたのですが、何度お電話さしあげてもつながらないところがありまして、まことに残念ながら断念いたしております。国語に関して何かご相談ご質問などおありでしたら、いつでも希学園までお問い合わせください。

2016年9月25日 (日)

台風はほぼほぼ来ない

少し前ですが、台風16号が襲来し授業が休講になりました。

今年はどうも偶数の台風がやばかったですね。台風10号、12号、14号、そして16号。14号は日本にはあまり影響はなかった・・・・・・んでしたっけ? でもえらく強烈な台風だったんですよね。

秋といえば登山、そして登山といえば台風です。毎年のように台風にやられている僕ですが、今年はなんと台風と台風のあいだという完璧なタイミングで山登りを挙行することができました。いやいや、どうも、みなさんありがとう!

今回僕が行ってきたのは南アルプスの塩見岳という、独立峰的な趣のある超かっこいい山です。「超」とか言っちゃって国語講師失格ですね。しかし「超」は便利ですからねえ。やめられません。「ほぼほぼ」も結構好きですね。「ほぼ」がだいたい×0.8ぐらいだとするなら「ほぼほぼ」は0.8×0.8=0.64ぐらいですか? 「まずまちがいない」というときの「まず」は、×0.9のイメージで、「まずまずまちがいない」の「まずまず」だと0.9×0.9=0.81って感じですが、今の「ほぼほぼ」の使われ方をよくよく観察するにこれとはちょっとちがう気がします。

もしかすると、今出た「よくよく観察する」の「よくよく」に近いのでしょうか。「よく観察する」の「よく」は×1.2のイメージです、したがって「よくよく」は1.2×1.2=1.44って感じです。しかし、「ほぼまちがいない」の「ほぼ」は理屈で考えれば、1.0未満になるはずなので、これは理屈に合いません。

もしかすると、「ほぼほぼ」は、かけ算ではなく足し算なんでしょうか。だとすると、0.8+0.8=1.6ということになりますが、これは変です。ではなくて、「だいじょうぶかだいじょうぶじゃないかわからん!どっちだ?」という状態が基準としてあり、そこから「だいじょうぶ」の方にぐっと傾いた状態を「ほぼだいじょうぶ」と表現し、さらにぐぐっと傾いた状態を「ほぼほぼだいじょうぶと表現しているような気がします。つまり、右に行けば行くほど「だいじょうぶ」、左に行けば行くほど「だいじょうぶじゃない」という地点からどっちに寄っているか、という捉え方をしてるんじゃあないでしょうか。安心材料を「足していって」、少しずつ「よりだいじょうぶ」に近づいていく心理が、「ほぼ」に「ほぼ」を重ねる言い方でよりよく表現できる気がする、そんな感じです。「ほぼほぼ」ユーザーの僕としてはこのあたりが割と実感に近いです。

しかしまた、そうであるということはつまり、おそろしいことにここには「100%の安心」はないのかもしれません。つねに「よりだいじょうぶ」な状態が理論上想定されることになるからです。安心とかだいじょうぶとかだけでなく、「満足」についても同じことが言えますね。この場合、「満ち足りる」という状態は事実上ないことになりますね。なるほど、現代社会にふさわしい感じ方かもしれません。いや深いですね。

何の話でしたか。塩見岳どした。よくいるブロガーみたいに事細かに登山の行程など書いてもだれも興味を持たれないと思うので書きませんが、雨も降らず、ぶよにも食われず、膝も痛くならず、知らないおじさんについてこられることもなく、百名山ハンターのおばさまたちの落石攻撃にも見舞われず、快適な山行でした。ただ、下山後、食欲に歯止めがかからなくなってしまうのが困りものです。山であまり食欲がわかず、ビールと魚肉ソーセージとベビースターラーメンしか食べられないんです。そのせいか、おりてくると、欠食児童(死語ですな)のように詰め込めるだけ詰め込んでしまいます。そしてぱんぱんにむくみます。一週間ほどたつと、ほぼほぼ元にもどりますが。

この「ほぼほぼ」はさっきの理屈では説明がつきませんね。やはりこれは「輪をかけて」のイメージなのかもしれません。はじめの「ほぼ」は0.8だとして、二つめの「ほぼ」はその一割増しみたいな感じなんでしょうか。0.8+0.08=0.88みたいな。あるいはタクシー。基本料金に80円ずつ加算されていく感じかもしれません。なんだかどうでもよくなってきました。だんだんほぼほぼどうでもよくなってしまいました。

※「ビールと魚肉ソーセージとベビースターラーメン以外はほぼほぼ食べられません」という文を考えてみました。この場合の「ほぼほぼ」はどう考えたらよいのでしょうか?

2016年8月22日 (月)

大阪や東京だ

前回はどんどん話題が変わってしまいましたが、「新しい」ということばは昔は「あらたし」と言いました。「あたらし」は「惜しい」という意味の別のことばで、いまでも「あたらチャンスをつぶす」という形で使います。それに対してニューの状態は「あらたに」なったわけですから「あらたし」です。それがいつの間にかゴッチャになって入れ替わってしまったんですね。問題はその「いつの間にか」です。いつ変わったのでしょうか。その境目では、両方使われていたのでしょうか。「ナウい」という「はやりことば」がしぶとく生き残って、これは定着するだろう、辞書にも載りだしたし…と思っていたら、「いつの間にか」消えていました。一方辞書には「ニコポン」ということばがまだ載っているのはなぜなんでしょうね。

最近よく聞くことばに「ほぼほぼ」というのがあります。「ほぼ」で十分なのに、二回繰り返して強調することで、何らかの意味の変化があるのでしょうか。「ほぼ」と「ほぼほぼ」はどう違うのでしょうか。「ほぼ」より確実度が高い? 昔から全く使われていなかったというわけでもなさそうですが、それにしてもこのところ急激に聞くようになりました。最初に聞いたのはテレビの画面から聞こえてきたものでしたが、身の回りでもよく聞きます。テレビから出てきたことばであるのなら「業界語」であり、シロートさんが真似をしていることになります。プラスの意味で使う「やばい」と同じですね。谷九教室に向かう電車の中でも、おばさん同士の(大声の)会話の中で「ほぼほぼ」と言っているのを聞き、「流行語大賞」にはこういうことばがふさわしいのでは、と思いました。誰かの思惑が感じられるような、政治がかった(全く流行ってもいない)ことばよりも、「ほぼほぼ」こそ、真に流行していることばです。

大阪のおばちゃんたちの「ほぼほぼ」を聞いたあと、谷九教室で事務のK本さんと話していると、なんたる偶然、「『ほぼほぼ』ってどうよ?」と言われました。もちろん、こんなギョーカイ人のような言い方はしませんが。かなり抵抗を感じているようで、ここに同志ありと嬉しく感じました。ことばに敏感な人はやはりこういう変化をキャッチしているのですね。ちなみに谷九教室の主任講師のO村先生も、このことばは使わないそうです。さすが漫才好きだけあって、ことばの感覚が鋭い、と思いきや、合格祝賀会では自ら漫才をやるくせに滑舌が悪く、「ぼ」の音が「も」になってしまうとか。その発音ではたしかに「やばすぎ」ですな。

もう一つ、最近よく見聞きするものに、「プライベートの名詞化」というのがあります。本来「プライベート」は形容動詞、「プライバシー」は名詞として使い分けていたはずなのに、「仕事とプライベートを区別する」のように、「私生活」とか「私事」の意味で名詞的に用いるようになってきました。ちなみに朝日新聞にも「プライベートを上司に相談する」とか、「マリリン・モンローの晩年のプライベートは質素で…」とか書かれていました。たしかに「プライバシー」は「個人の秘密」というニュアンスが強いので、「秘密」まで行かない「私生活」のレベルでは使いにくいようです。「デリカシー」と「デリケート」がきちんと使い分けられているのも、そういうニュアンスがないからかもしれません。

ところで「プライベート」や「デリケート」は、英語では「形容詞」と呼びます。「ビューティフル」なら、英語でも日本語でも「形容詞」なので、なんの問題もないのですが、日本語になおしたときに「…だ」の形になってしまうと、形容動詞という扱いになるのですね。「私ってデリケートな人だから」とか「私ってデリケートじゃないですか」とか、自分が知っていることは他人も知ってると思ってしまう「幼児化現象」が一時期大はやりでしたな。それはさておき、この形容動詞というのは厄介なことばです。「静かだ」は形容動詞で、「本だ」は名詞と断定の助動詞ということになります。「個人的だ」とか「微妙だ」も形容動詞だし、「ハンサムだ」「スマートだ」も形容動詞です。上に「とても」をのせると簡単に区別できます。「とても」は副詞で、用言(動詞・形容詞・形容動詞)を修飾するのですね。それに対して「とても本だ」がおかしいのは「本」が名詞だからです。

では、「健康だ」はどっちでしょうか。これは実は、このことばだけではわかりません。「彼は健康だ」という場合は「とても」を入れられるので形容動詞、「大切なのは健康だ」は「とても」を入れられないので名詞プラス断定の助動詞なのです。ではでは、「アホだ」はどうでしょう? 「彼は正真正銘のアホだ」は「の」が体言(名詞)を修飾する働きがあるので、名詞プラス断定ですが、「彼はアホだ」は? 「とても」をのせて意味が通じるので形容動詞? いえいえ、「正真正銘の」をとっぱらっただけですよ。さらに「彼は天才だ」は? 実に微妙ですね。だから形容動詞なんて認めない、という学者も多いそうです。

要するに「…だ」の形が問題なのですね。この「だ」はさかのぼれば、おそらく「…にてあり」でしょう。「本にてあり」つまり「本だ」と言っているわけですから。で、いい加減に発音するうちに「にてあり」の「に」が「ん」に変化します。「んてあり」ですが、「ん」は影響力が強くて下を濁らせるので「んであり」になり、やがて「ん」が落ちて「であり」。これがそのまま「である」にもなるし、「り」が落ちて「であ」になることもある。「であ」はさらに「ぢゃ」と変化して、ここで止まれば、じいさんばあさんのことばじゃ。さて、こいつが母音を重んじる上方では「や」が強く発音されようになるんや。田舎の関東では子音に力を入れて「ぢゃ」が「だ」になるんだ。

「ぢゃ」のような「ゃ・ゅ・ょ」のつく音を拗音と言いますが、拗音「ぢゃ」が「だ」のようになる「直音化」というのはよくあります。逆に「鮭」は「さけ」から「しゃけ」に訛ったのかもしれません。「雑魚」は「ざこ」と読みますが、「じゃこ」と同じですね。ただし、「だしじゃこ」「ちりめんじゃこ」とは言いますが、「だしざこ」「ちりめんざこ」とは言いません。「ざこキャラ」とは言いますが、「じゃこキャラ」とは言いません。「ざこ」も「じゃこ」も「小魚」とか「商品価値の低い魚」という意味でしょうが、「たいした人物ではない人」の意味で使うときには「ざこ」に限定されるようです。「モブキャラ」は、「群衆状態になったキャラ」ということで、ちょっとちがいますかね。

2016年8月 7日 (日)

変わる変わるよ話題は変わる

ほめることのないときのほめことばというか、短所が目につくとき、それを無理矢理長所として言いかえることがあります。地味すぎる服装を見て、「なかなかしぶいねえ」と言ったり、センスないなあと思うときに、「個性的な服装やねえ」と言ったりするようなやつです。性質でも、無愛想な人を「クール」と言ってみたり、頑固な人を「意志が固い」と言ってみたりすることもあります。「マザコン」と言ってしまえば身も蓋もありませんが、「母親思い」と言えば、とたんに感じよく聞こえます。「うるさく騒ぎまくる」子供も「なかなか元気があってよろしい」。「主体性がない」人は「協調性がある」わけですし、「能力がない」やつは「可能性を秘めている」のです。「下手な絵」ではなく「味のある絵」ですし、「ありがちな展開」のドラマは「王道」を行っており、「行き当たりばったり」は「臨機応変」です。「うさんくさい」人は「謎めいている」し、「無名」の作家は「知る人ぞ知る」です。「デブ」と言わずに「かっぷくがいい」と言いましょう。「腐った」ご飯は「熟成された」ご飯です。まあ、長所はうぬぼれると短所になり、短所は自覚すると長所になるわけで、表裏一体、結局は同じことです。プラスの表現をされれば、言われた本人はまんざらでもないでしょうし、お世辞とわかっていてもうれしくなるのが人間の常です。

いま「お世辞」と書きましたが、これは「おせじ」と読むのでしょうか。それとも「おせいじ」? 「世」の音読みとしてはたしかに「セ」と「セイ」があり、いわゆる呉音・漢音・唐音のちがいでしょう。要するに、時代によって発音が変わった、というやつで、いつ日本に入ってきたことばかということで区別するのでしょう。ふつう「お世辞」は「おせじ」のはずですが、たまに「おせいじ」と言う人がいます。郷ひろみは「けっしておせーじじゃないぜ」と歌っていました(古い!)。メロディの都合で長く伸ばしただけかもしれませんが。伸ばすかどうかで別の単語になるというのは英語にはないのでしょうか。「地図」と「チーズ」は日本語としては明らかにちがうもので、ちがう発音をしているつもりになっていますが、日本語を習いたてのアメリカ人なら、「地図」を「チーズ」のように発音するかもしれません。「角」と「カード」はちがいますし、「蔵」と「クーラー」もちがいます。もちろん外来語でなくても、「鳥」と「通り」は明らかにちがいます。「長音」という概念は英語にはあまりないのかなあ。発音記号で長く伸ばすというのは確かにありますが、「コンピューター」も「コンピュータ」のほうが発音に近いようです。最後の長音の表記がなくなったのは、昔のパソコンのスペックの低さのせいだとは必ずしも言えないかもしれません。一音のことばなら、関西人は長音化して、「目ェ」「手ェ」「毛ェ」と言うのですがね。

外国人の中にも、日本語の達者な人がいます。アーネスト・サトウは佐藤愛之助と名乗ったりもしていますが、れっきとしたイギリス人の外交官です。幕末史にはよく登場してくる有名な人物ですが、日本語がうまいですねと言われたときに、「おだてともっこにゃ乗りたくねえ」と江戸っ子口調で言ったとか。「もっこ」と言うのは縄や蔓を編んで作った、土を運ぶための道具ですが、死刑囚を刑場まで運ぶときにも乗せていったとか。「そうであるなら、なるほど、もっこにゃ乗りたくない」と三遊亭圓生が言っていました。ただ、アーネスト・サトウの発音がどれだけ流暢だったかは今となってはわかりません。デイブ・スペクターのほうがうまいかもしれない。

長年、日本に住んでいたり、何十年も日本語を話しているわりに、いつまでたっても発音がうまくならない人もいます。フランソワーズ・モレシャンなんて人は、外人タレントの走りでしたが、いかにもフランス人の話す日本語という感じでした。アグネス・チャンも片言っぽいですね。ひょっとしたら、二人とも本当はなめらか極まりない日本語が話せるのに、わざと「下手」をよそおっているのかもしれません。日本人は外国人が話す「片言の日本語」が好きなんですね。「完璧を好まない」という独特の美意識もあるでしょうし、「外人に日本文化がわかってたまるか」という「優越感と劣等感」もあるのでしょう。流暢すぎる日本語を操ったり、日本語のダジャレを言ったりしたら白けてしまいます。だから、デイブ・スペクターは嫌われるのですな。

もともと日本人は日本文化を世界に類を見ない独特のものだと思いたがる傾向が強いようです。たしかにコピーよりオリジナルのほうがいいに決まってはいますが、でも日本文化と言っても多種多様です。関西と関東でちがうし、京都と大阪でもちがう。もっと言えば、自分の家の流儀ととなりの家の流儀とではちがうことがあります。自分の家のやり方が世間一般だと思っていて、じつはそうではないことに気づいたときの恥ずかしさ、というのがよく話題になるぐらいです。すき焼きなんてのは家ごとにちがっていると言ってもよいかもしれません。納豆といえば、関西人のきらう最たるものでしたが、このごろでは納豆好きの関西人も多くなっています。子供のころ初めて食べた納豆には砂糖がはいっていましたが、あれは子供向きに母親がそうしたのでしょう。ということで、私はしばらくの間、納豆には砂糖を入れるものだと思い込んでいました。そのうちに唐辛子を入れるとうまいことに気づいたのですが、いやいや唐辛子ではなく、辛子でしょ、と言う人もいます。ひょっとしたらタバスコが一番と言う人もいるかもしれません。豆腐には醤油ではなく塩をかける人もいますし、ごま油と塩という人もいます。オリーブオイルに塩という、おしゃれな人もいます。

納豆と豆腐は入れ替わったという説がありますね。納豆のほうが豆の腐ったやつで、豆腐は豆をかためたやつですから、名前は確かに入れ替わっています。松虫と鈴虫もいつのまにか入れ替わったと言われています。「秋の野に人まつ虫の声すなり我かと行きていざとぶらはむ」という、よみ人しらずの和歌では、「ひとを待つ」と「松虫」の掛詞が使われていますが、この「松虫」は「鈴虫」だったということになります。でも、鈴虫は鈴の音のような鳴き声だから鈴虫と言うはずです。「あれ松虫が鳴いているチンチロチンチロチンチロリン、あれ鈴虫も鳴き出したリンリンリンリンリーンリン」という歌もありますが、どちらの音も鈴といえは鈴です。どんぶり鉢にサイコロをほうりこむ博打も「チンチロリン」と言いますが、これは関係ないか。いずれにせよ、入れ替わったのならそれはいつごろなのでしょうか。ある日を境にすぱっと入れ替わるわけではないでしょうから、入れ替わる境目のあたりでは両方の言い方が混在していたのでしょうか。どっちをさしているか曖昧で話が通じないということもあったかもしれません。まあ、松虫と鈴虫がそんなに話題に出てくるとも思えませんが。

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