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2010年1月の8件の記事

2010年1月29日 (金)

はんはんはん

名前といっても上の名前と下の名前があります。上の名前つまり名字を度忘れすると困りますよね。特にいま話してる相手の名字を忘れるとつらいものがある。相手に言わせる方法がないわけでもありません。ずばり聞いてしまうのです。「えーと、お名前は何でしたっけ」相手が妙な顔をして「田中ですが」と言ってくれたらしめたもの、内心のうれしさをおさえつつ、なにくわぬ顔で「いや、下のお名前ですよ」と言えば、相手も「名字ならともかく下の名前は忘れても仕方がないか」と思って、「太郎です」と言ってくれるでしょう。「ああ、そうそう太郎さんでしたね。……ときに田中さん」と、なんの不自然もなく会話が続けられます。
名字(苗字)と姓は厳密に言うと違うようで、日本の四大姓と言えば「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」です。八切止夫という人が、「源は元だし、藤は唐と関係がある、橘は契丹(きったん)をバックにもった一族で、平はペイすなわちペルシャである」という、非常に魅力的な説を唱えていました。日本の姓も国際色豊かなものだったのかもしれません。
そのうち、同じ源氏でも足利庄に住む源氏だから足利さん、新田庄なら新田さん、九条にお屋敷のある藤原は九条さん、伊勢の藤原で伊藤さん、加賀の藤原は加藤さん、というように区別していって名字が生まれたのでしょう。さらには、「四月一日」「八月一日」「月見里」「小鳥遊」のような、クイズに出題されることを目的とした名字も生まれました。……うそです。ちょっとわざとらしすぎました。いま瞬間的にデイブ・スペクターの生き霊がとりついたようです。ちなみに、順に「わたぬき」「ほづみ」「やまなし」「たかなし」と読む、実在する名字らしいです。なぜ、そう読むかは省略。
鼻毛さんという一家が実在します。これを勝手に変えるわけにはいきません。一度聞いたら忘れないというメリットはあるらしいのですが、墓石には「鼻毛家の墓」と書かなければならないのですね。これには、やはり一掬の同情を禁じ得ない。
いっぽう、下の名前は親が勝手につけるのですから、どのようにつけたって自由です。「白鳥」さんの娘に「麗子」とつければ、典型的な美少女のイメージです。「鬼河原」さんちで「権造」とでもつけられた日にゃあ、もうどう考えても悪役の名前です。まかりまちがってもヒーローの名前にはならない。「水田」さんちの娘に「マリ」とつけるのは親の受け狙いとしか考えられません。
田中角栄全盛期に、ある田中さんちで生まれた子どもに「角栄」とつけました。今太閤にあやかろうとしたのですが、如何せん、本家はロッキード事件で逮捕されてしまいました。当然、「角栄くん」はいじめられます。そこで改名を願い出たところ、正当な理由であるとして認められたそうです。
夫婦別姓という話題がよく出ます。「結婚して性が変わりました」という手紙が来るとびっくりしますが、「姓」は変わるのですね。そうすると、親が意図しなかった読み方になって、「水田マリ」現象が起こることもあるでしょう。でも、夫婦どちらの姓を名乗るのかは自由なので、そのあたりは避けられるはずです。
どちらか片方の名字にするのではなく、いっそのこと新しい名字にしてしまったら、という考えもあるようです。山田さんと田中さんが結婚して「臍俵擬(ほぞだわらもどき)」というような、まったく元の名字とは関係のない名字をつくるというのも一つの手ですが、わけのわからん名字が増えそうです。単純にくっつけて「山田中」とするか、羅列型の「山田田中」とするか。しかし後者だと、その人が「高橋渡辺」と結婚すると「山田田中高橋渡辺」になり、その人が「鈴木佐藤中村山本」と結婚すると、とんでもないことになってしまいます。
太陽銀行と神戸銀行が合併して「太陽神戸銀行」になり、これが三井銀行と合併して「太陽神戸三井銀行」となったとき、これはどこまで行くのやら、と期待していたのですが、「さくら銀行」に改名、という卑怯な手で肩すかしをくらいました。しかし、さらに住友銀行と合併して「三井住友銀行」になったわけですから、今後に期待しましょう。
阪神と阪急が合併すると聞いたとき、阪神はもともと大阪と神戸だし、阪急は京阪神急行だったわけで、どうなるのだろうと期待しました。「阪阪」なんてどうかな、大阪ばかりになってしまうけど、「はんはん」は「半々」にも通じて対等の合併という感じもするし、さらに京阪電車と合併したら「はんはんはん」になります。「おけいはん」から出世して、「ロックンロールウィドウはんはんはん(古すぎ)」とはオツやないの、なんて思ったのですが、世の中、期待どおりにはいかないものですな。

2010年1月25日 (月)

シネマレビュー(3)その2

「レミーのおいしいレストラン」という映画の話の続きです。

前回は、荒唐無稽な物語の設定について書きましたが、受験生へは「好意的に読め」というメッセージを送りました。物語の設定にけちをつけ始めると、芸術にはすべてけちがつくからです。かの西郷竹彦先生の言を借りるなら「現実を踏まえ、現実を超えるのがフィクション」です。

今回は、この映画においてスパイス的な存在である「アントン・イーゴ」なる料理批評家の話。

料理人を志す主人公のネズミの憧れであるシェフ・グストーは、この批評家の酷評がもとで憔悴し命を落とします。はからずもその批評家イーゴとレミーの料理対決となるわけですが、結果はレミーの圧勝。

レミーが作った「ラタトゥイユ」は、イーゴの心を強く動かし、「シェフに讃辞を述べたいと思うのは何年ぶりだろう」とまで言わせます。

この映画の原題でもある「ラタトゥイユ」は、フランスのごくありふれた家庭料理で、「おふくろの味」というやつだそうです。

日本にはすぐれた料理漫画「美味しんぼ」があるので、素朴な料理が舌の肥えた批評家を唸らせるという展開はさして目新しくないのですが、私が心惹かれたのはイーゴの独白です。

不確かながらだいたいのセリフを。

「批評家というのは気楽な稼業だ。辛口の批評は書くのも読むのも面白いし、商売にもなる。しかし、批評家の批評は、三流と言われる料理よりも存在価値がないことも認めるべきだ。」

おいおい、ネズミの可愛さにひかれてこの映画を観る子どもがこれを理解できるわけないよな。と思いつつ、この独白に価値を感じました。

母が「批評家にだけはなってほしくない」と口癖のように戒めて言っていたのを思い出しました。

辛口の批評というよりも、「けなす」だけが目的の批評もどきがなんと多いことよ。

相手を批判しけなすことで相対的に自分の価値を上げる。そういう輩の多いことよ。

世間がなかなか認めない価値を口にするには勇気が必要。

だれかの業績を妬んでこき下ろすのは痛快で溜飲が下がるものです。

批評の対象に愛情を持たずに非難し批判するのは独善的で、単なる悪です。

自戒をこめて。

勇気をもって、価値を見いだし、ほめることが育てる側には必要なのだと改めて思い至りました。なんか、日本の不況脱出のカギも、もっとみんなで「ほめ合う」ことのような気がしました。

こういうことを書くと、「夢想家」「いい子ちゃん」「偽善」のようなそしりもありそうですが。

イーゴがレミーのラタトゥイユをほおばった瞬間に少年時代を回想する場面、友だちにいじめられてべそをかいて家のドアを開け、母親のラタトゥイユをほおばる場面に、なぜか大いに共感しました。こういうのに弱いなあ。いかにも、なのに。

パリの夜景がとても美しく、それだけでもこの映画の価値は十分な気がします。

2010年1月17日 (日)

六代目

入試にかかわりなく、前回のつづき。前回最後に書いた「騎士」は「ないと」、「七音」は「どれみ」、「一二三」は「わるつ」と読むそうですが、なにか……?
ということで、名前の話ですが、昔は、おおまかにいって音読み系は通称、訓読み系は実名でした。前者を字(あざな)、後者を諱(いみな)といいます。
中国の人も、諸葛亮孔明のような呼び方をすることがあります。亮が諱、孔明が字です。どちらも「明るい」という意味の共通性があり、そういう名付け方をしたようです。
日本では木下藤吉郎秀吉の藤吉郎が字、秀吉が諱です。字と諱の間は、とくにつながりはないようです。官職名を字のように使って姓まで入れ、真田左衛門尉海野幸村とか長宗我部宮内少輔秦元親みたいな言い方もします。
では、なぜ諱を「いみな」と言うのでしょう。これは「忌み名」で、原則的にはできるだけ隠して、知られたくない名前なのですね(ハリー・ポッターの「名前を言ってはいけない人」も同じ考えかもしれません)。
「言霊(ことだま)信仰」というのがありました。今でもありますね。結婚式のときなど使ってはいけないことばがあります。「犬」「切る」「終わる」などはだめです。商売人も縁起をかついで、「すりへる」につながる「する」ということばをいやがります。「スルメ」は「アタリメ」です。入試が近づくと「落ちる」ということばをいやがるのも、同じ心理でしょう。
この考え方でいうと、ことばには魂がこもっているので、たとえば大昔の天皇は、正月には山に登って自らの治める国をながめて、「やまとの国はすばらしい」という歌を詠みました。本当にすばらしいのではなく、そう歌うことで、歌にこもった魂がそれを実現させてくれると考えたのですね。この風習はいまだに続いていて、正月の行事として天皇を中心とした歌会が催されます。
そして歌と同様あるいはそれ以上に霊力をもつことばが人の名前です。人の名前はその人自身をさし示すものですから、うっかり人に知られると、呪いをこめられるかもしれません。名前にこめられた呪いはその人自身にふりかかってくるはずです。ですから、本名を言わないで通称でごまかしたのでしょう。じっさい、坂本龍馬の諱はふつう知らないでしょう。社会のテストでうっかり「坂本直柔」なんて書いたらペケにされそうです。
明治になって新しい戸籍をつくるときに、字と諱のどちらにするか決めなければならなくなったときに、司法卿の江藤新平は字にしました。それでは軽すぎると言われて本人は「『にいひら』とでも呼んでくれ」と言ったそうです。板垣退助も字系の名前ですね。
西郷吉之助も「隆盛」は本人の名前ではなかったという話があります。ほんとの名前は隆永だったそうです。西郷が留守のときに名前を届けなければならなくなって、友人が「たしか隆盛だったような気がする」とか言って届けたのが正式の名前になったということです。つまり、それほど諱というものは知られていなかった。
さて、そういう魂のこもった名前なら、すばらしい人物の名前を受け継ぐことで、その人の才能や力量も受け継ぐことができる、と考えたのが「襲名」ですね。歌舞伎や落語家の世界ではよくあることです。あの「こぶ平」が「正蔵」になっただけで、なんとなく貫禄のようなものが出てくるから不思議です。
希学園も二代目の学園長が生まれました。その際、「二代目前田卓郎」を名乗るというのも「あり」だったわけです。あるいは新学園長が初代としてその名前を「大名跡」にして、将来において次の人とバトンタッチをするときに「二代目を名乗らせてください」と言われるなんて話、夢があるでしょう。
各科の先生も、そういう襲名をするとおもしろいでしょうね。「西川和人は三代目が名人だったね」とか「初代の西川和人はショボすぎたので、じつは歴代に数えないらしいぜ」とか。
講義中に、「五代目!」って声がかかったりするのもいいけれど、「六代目と同じ時代の空気が吸えるだけでも幸せだ」なんて言われる講師がいたらすごいなあ。

2010年1月14日 (木)

休憩中の会話

その1

入試対策期間なので、休憩中も6年生は自習。

電子辞書持参の子どもたちが多いなか、広辞苑で語句の意味調べをしている塾生を発見!

ぼく 「塾に広辞苑持ってきてるんか!」

塾生 「はあ」

ぼく 「すごいな、鍛えてるね!・・・・・・体。」

塾生 「そっちか!」

その2

入試対策期間なので、休憩中トイレの前で見張り。

ぼく 「さっさと用をすませて教室にもどれよ」

塾生 「先生、こんなとこまで・・・・・・」

ぼく 「水圧を上げて3秒で全部出しきれ」

塾生「※収容所か!」

※実際の発言が過激過ぎたので変更しました。

2010年1月 8日 (金)

シネマレビュー(3のその1)

入試が始まり、希っ子たちも次々と人生初めての中学入試に臨んでいます。

希学園では、「当日激励」を行っています。大学入試や高校入試を受ける人たちとはちがい、中学入試はまだ11歳・12歳の可愛い可愛い子どもたちです。

入試当日にどういう声をかけるか。100人を超える入試激励から、私と生徒1人だけの入試激励までさまざまな当日激励の場を経験しましたが、これほど難しいものはないように思います。

国語の先生として、一つアドバイスを。それは、

「文章は好意的に読め!」

です。なんか「!」などつけてエラソーな感じで恐縮ですが、戦いに臨む人へのアドバイスが、

「~た方がいいかなあ」「~してみれば?」

のような及び腰であっては役に立たない。という信念のもと、あえて偉そうに書きました。ただしピンクの文字で。

ここでなぜか「レミーのおいしいレストラン」という映画の紹介です。

またまた子ども向きの映画か。という向きも我慢してお読み下されば幸い至極です。

山下師匠のように30字要約はおこがましいので、50字くらいならなんとかなるかも。いや、古い文体の方が圧倒的に短くなるので、その手で要約をいたしてみますと、

「人語を解し嗅覚味覚に優れたる鼠、仏蘭西にありけり。食物を調理すことを志し人を助け仏蘭西料理店を開くに至る。」

となりましょうか。漢字って便利!「フランス」が3字で書けるんですから。

閑話休題それはさておき。

なんせ設定が荒唐無稽。ネズミが料理をしちゃいます。ついつい私などは、「いったい脚本家は、どうやってネズミが料理をする必然的・合理的な状況に持っていくのだろう」というところに興味を持ちました。

そもそも、「ありえないこと」が起こるのが物語にはつきもので、私などは小さい頃それがいやで童話などを読まなかった経験があります。魔法なんかがあれば強引なストーリー展開ができるからです。

この映画でも、非常にご都合主義的な展開、いわば「ツッコミどころ」が満載で、

「おいおい、どんくさいはずのリングイニ(主人公のネズミの手足となる人間)が、いきなり光GENJIばりにローラースケート履いて超人的な動きを見せて接客しとるやんけ!」

なんてことになります。

でも、そういうことは枝葉末節として、お話全体として描こうとしている主題のようなものを観ようとしなければ、映画そのものが楽しめない。

批判的に文章を読むことも、読解力を養う過程では必要な面もありますが、こと中学入試という場面で出された文章に対しては、作者や筆者、もっと言うと問題作成者の意図にそって読むことが求められているのですから、批評家の自分は押さえておいて、まずはよい観客となって読む方が、出題に対して素直な気持ちで臨めるのではないかと思います。

批評家というと、この映画には実に興味深い人物「アントン・イーゴ」なる孤高の批評家が登場しています。この人物が実によいスパイスとなってこの映画の味を引き立てています。その人物のどこに私が惹かれたかは次の回で。

受験生の皆さんが実力を遺憾なく発揮することを望みつつ。

  つづく

2010年1月 6日 (水)

「太郎」は「たろう」か

またまた浦島ですが、浦島太郎の「太郎」は一姫二太郎のように普通名詞としても使えるし、固有名詞にもなります。ただし、みんな太郎だと区別がつかないので、源氏の太郎なら源太(郎)、藤原氏の次男なら藤次郎、平氏の三男なら平三郎のようになって、いろいろバリエーションが生まれます。「岡崎二郎三郎」「茶屋四郎次郎」なんてふざけたのもありました。後には官職の「左衛門」「兵衛」なども人名になっています。この系統は基本的には音読みになりますが、もう一つ訓読み系の名前もあり、両方名乗る場合には「木下藤吉郎秀吉」のようになります。
厄介なのは訓読み系で、どう読むのかが難しい。人名のみで使う訓読みというのもあって、さらに困ります。「和」が「かず」、「知」が「とも」というのが普通なので、三浦知良は「ともよし」だと思っていたら「かずよし」だし、「植村直己」は「なおき」だろうと思ったら「なおみ」です。「巳」なら「み」で納得ですが、「己」は「おのれ」じゃろが、とつっこみを入れたくなります。
音読みのほうでも、「桑田佳祐」は「ケイスケ」ではなく「カスケ」と読むべきだという意見がありました。また、「颯」は「ソウ」と読みます。これも、「颯爽」と書いて「さっそう」じゃないか、と言われると「あれ?」と思いますが、まちがってはいません。
名前に使える字は、ひらがな・カタカナ・常用漢字プラス人名用漢字なので、ローマ字や算用数字は使えません。したがって、残念ながら子どもの名前を「R-118」とつけることはできないのですね。ところが、たとえば常用漢字さえ使っていれば読みはどうでもよいらしいのです。
ということは「太郎」と書いて「しなののくにのじゅうにんげんたざえもんのじょうみなもとのかねてつ」と読んだってかまわないということになるわけです(だれも読んでくれるはずはありませんが)。「耕平」をじつは「ライオンまる」と読むということをだれが知っているでしょう、いやだれも知らない(反語)。
子どもに「悪魔」とつけようとして「事件」になったこともありました。お釈迦さまが息子に「悪魔」と名付けたと言われているので先例はあったのですが。受け付ける役所の人が個人的な口出しをするのもどうかと思います。江戸家猫八という芸人が「八」の字が好きなので、長男に「八郎」とつけて届けようとしたら、「太郎」とすべきだとか「せめて八郎太にしろ」とか言ったらしい。大きなお世話だ、バカヤロー、子どもに好きな名前をつけるのは親の権利だ、と思うのも当然です。ただし、使いたくない漢字というのはありますがね。「傷」とか「腸」とか「墓」「呪」「痔」「糞」……。「死」なんて最も使えない字のはずですが、俳人の「秋元不死男」のような思いがけない荒技もあります(本名は不二雄)。でも、やはり「かっこいい」漢字を使いたくなるのが人情でしょう。「翔」なんて、たしかにドラマの主人公っぽい字です。
昨年の命名ベストテンの男子1位は「大翔」で「ひろと、やまと、はると」と読ませるそうですが、……うーん、読めない。6位の「陽斗」の「やまと」もつらい。ちなみに9位の「颯太」「颯真」は、やはりそれぞれ「そうた」「そうま」です。女の子の2位「美咲」も「みく」とは気がつきませんでした。10位の「愛莉」を「あいり」と読むのは納得ですが、「めもり」と読めと言われても……。その他、「輝星」の「らいと」、「航海」の「せいる」は言われればなるほどですが、「愛羽」で「あろは」、「会心」で「えこ」はどうでしょう。「騎士」はなんとか読めますが、「七音」「一二三」は……。

2010年1月 3日 (日)

シネマレビュー(2)

あけましておめでとうございます。

今年も、地球は太陽の周りを回ります。太陽までの平均距離がざっと1.5億㎞なので、直径3億㎞の円周上≒約10億㎞を365日で一周するわけです。時速に換算すると10万㎞以上!

凄く速い乗り物に乗り合わせた乗客同士で、今年も少しでもよい席をと奪い合いがあるわけです。「宇宙船地球号」といううまいことばを考えたのは誰だったでしょうか。そういう視点で考える一年の初めでありたいもんです。

電車や路線バスなどでは、乗っている客同士で連帯感なんてあまり生まれないもんですが、長距離のバスや海外路線の飛行機などに乗って降りると、到着地でうろうろしていて、ばったりあったときに「あ、同じ便に乗ってた人!」なんて不思議な親近感を持つものですし、邦人のあまりいない異国の地で会った日本人には、同胞よ!と言いたくなるような感情を持つものです。

人類が連帯するためには、地球規模の危機や地球外生命体との遭遇なんてイベントが必要なのかもしれません。でも、そんなイベント実際にはあってほしくないので、そこでSF映画やパニック映画の役割があるのかもしれないなと考えています。

「アポロ13」という映画がありました。主演は人によって好みの分かれるトム・ハンクス。

前回のレビューでは、人物の「たい」に注目するという話をしましたが、この映画もストーリー自体はシンプルで、「月へ行きたい」が「地球へ生きて帰り(帰らせ)たい」に大きく転換するところが見所でしょうか。

トム・ハンクス主演の他の映画では「ターミナル」「キャスト・アウェイ」が私の好きな映画です。でも、この映画ではゲイリー・シニーズの渋い演技も見てほしい。この人は、トム・ハンクスといくつかの映画で共演しています。ゲイリー・シニーズは「ミッション・トゥ・マーズ」という映画で月どころか火星に行く宇宙飛行士の役で主演を果たしています。

地球から約38万㎞のところにある月。今年の大晦日から元日にかけて、ほんの少しだけですが「月食」があったことをご存じだったでしょうか。地球の影がわりとくっきり映るくらいの距離なんですね。地球一周が4万㎞ですから、地球を九周半くらいのところなんで、結構いけそうです。40年以上前にアポロ計画のサターンロケットは月へ5回も人を送り込んでいたわけですし。当時のアポロに搭載されていたコンピューターの性能は、現在掃除機や炊飯器などの制御に使われているコンピューターチップ程度で、ニンテンドーDSに入ってるチップの方が何千倍も高速度で大容量だとか。

どうして今の技術がありながら再び月へ行かないのか? その疑問はこの映画を観てもすっきりしません。技術じゃなくて政治・経済の問題なんでしょうか。

アポロ13号は11号の成功を受けて月へ飛び立つ3番目の宇宙船です。

「金メダリストは末永く覚えられるが、銀メダルの選手は記憶に残らない」

アメリカ本国でのアポロ熱はすっかり冷め、注目されなかった13号。そのあたりの描写に、なぜまた月へ人を送らないか、という答えはありそうなんですが、それでも疑問は残ります。

夢にお金がかけられない時代なんだ、という答えなら、少しさびしい気がします。

※前回のブログで映画「ファインディング・ニモ」を2000年の映画だったと書いていましたが、2003年公開の誤りでした。

2010年1月 1日 (金)

浦島太郎

入試の時期ですが、なんら関係なく。
前回、浦島太郎について、ちょっと書いたので、そのついでということで。
「土産の玉手箱で老人になる話」なのですが、乙姫様の土産なのに、なぜそんな悲惨な結果になるのか、不思議に思ったことはありませんか。
乙姫様は悪意を持っていたのでしょうか。玉手箱の煙の正体はいったい何だったのでしょうか。
白い煙が出た、ということは要するに玉手箱には形のあるものは何もはいっていなかったということでしょう。では、何がはいっていたのか。
浦島太郎は、竜宮城で過ごした時間はそんなにたいしたことがないと思っていたのに、故郷にかえってきたときには、とんでもなく時間がたっていました。ということは、何百年という時間を失ったわけで、結局乙姫様は「失われた時間」をかえしてくれたのですね。
しかし、何百年という時間をもらっても、ふつうの人間なら死んでしまう。事実、浦島太郎は見る見るうちに老人になってしまった。そのままなら人間の寿命を通り越して死んでしまうでしょう。
だからこそ、乙姫様は浦島太郎を鶴の姿に変えてくれたのです。「鶴は千年、亀は万年」ですからね。
もう一つ、論理的に考えて疑問に思うのは「こぶとりじいさん」です。「小太り」ではなく、「瘤とり」です。文法的には、こぶを鬼にとられたのだから「瘤取られじいさん」と言うべきだという人もいますが、鬼をつかってこぶをとらせたのだから、まちがっちゃいません。大阪城を建てたのは大工さんではなく豊臣秀吉です。それより「はなさかじいさん」のほうが変です。
話がそれました。問題にしたかったのは、翌日となりのじいさんが行ったときに、なぜ鬼たちは昨日のじいさんだと思ってしまったかというです。
となりのじいさんはこぶをとってもらうために行ったのですから、当然こぶがついているはずですね。ところが、昨日のじいさんはこぶをとられているのですから、まちがえるわけがないではありませんか。別人であることは見ただけですぐわかるのに、鬼たちはなぜ昨日のじいさんとまちがえたのか。
ここから導き出される論理的帰結は、昨日のじいさんは両頬にこぶがあったのではないか、ということです。右と左にこぶがあったのを、たとえば右だけとられてしまった。つまり、左のこぶは残ったままです。そして、となりのじいさんは左にこぶがあった。だから、鬼たちはまちがえたのだ。どうだね、ワトソンくん。

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