« 2010年3月 | メイン | 2010年5月 »

2010年4月の7件の記事

2010年4月29日 (木)

蛙はぺっちゃんこか

前回の桃太郎を中心とした無限ループから抜け出さなければなりません。……浦島太郎のお話です(抜け出せるのだろうか)。

浦島太郎が竜宮城で過ごした時間と人間世界での時間の流れるスピードがちがっていたのはなぜでしょう。光速より速く動けば年をとらないとかいう「ウラシマ効果」を昔の人は知っていた? カメは本物のカメではなく、光速を超えるカメ型ロケットで、竜宮城は高度な文明を持つ宇宙人の星だったという解釈もよくあるようです。いや、SF小説ではなく、ひょっとしてエイリアンが古代の地球人とコンタクトをとっていたという事実があるのかもしれません。その証拠に(証拠になるかどうかわかりませんが)、ウラシマ系の伝説は日本以外にもたくさんあるようです。リップ・ヴァン・ウィンクルの話もそうですね。

リップ・ヴァン・ウィンクルといえば、思い出す映画があります。『野獣死すべし』という古い映画です。狂気を宿した目つきの松田優作が室田日出男演じる刑事の頭にロシアン・ルーレットの拳銃をつきつけながら、えんえんとリップ・ヴァン・ウィンクルの話をする場面がありました。撃鉄を上げ、引き金を引く。カチャリと音が鳴るが、弾倉には弾がはいっていない。うれしそうに笑いながら、優作が「あんた、運がいい!」と叫ぶシーンが印象的でした。……栗原先生のテリトリー侵してしまいました。

竹取物語は日本最古のSF小説と言われることがあります。主人公は月世界の住人で、最後には月から迎えの船がやってくるのですから。科学の発達したどこかの星で、なんらかの事情でその星を捨てて、別の星に移民することになり、全住民が宇宙船に乗りこむのですが、そのために縮小光線みたいなのをかけて、体を小さくして金属製のカプセルで人工冬眠します。ところが手ちがいで、一つのカプセルがこぼれ、それが地球の日本というところにやってきて、地面につきささります。一人のじいさんが、竹やぶの中でピカピカ光るカプセルを持って帰りますが、中に小さな人がはいっている。すぐに縮小光線がとけて、あっという間に成人した女性になったのを、宇宙船がさがしに来る、というストーリーにしたSF小説もありました。映画でも、迎えの船を明らかにUFO的な宇宙船として描いているものがありました。かぐや姫は沢口靖子で、竹取の翁がなんと三船敏郎でした。たしか、金髪豚野郎になる前の春風亭小朝も出ていたような……。またまたテリトリーを侵してしまいました。

島崎藤村の『夜明け前』の最初のほうでUF0らしきものの記述があることを山田風太郎が指摘していましたが、さすがにSF小説ではないので、それ以上の発展はありません。古典では、「松浦宮物語」や「浜松中納言物語」が輪廻転生を扱っており、三島由紀夫の『豊饒の海』のモチーフにもなりましたが、いまならSFで扱うテーマでしょう。

日本のSF小説で塾生がよく読んでいるのはやはり星新一ですかね。ショートショートは読みやすいということもあるでしょう。小松左京は最近どうなのでしょうか。おすすめは『御先祖様万歳』という作品で、小学校低学年のときに雑誌に載っていたのを読んだ記憶があります。タイムトンネルものの走りでしょう。また、特に印象に残っているのは『くだんの母』という作品で、タイトルからしてダブルミーニングで技巧的です。オチの一行の不気味さも「ホラー」だけではなく、社会情勢を暗示する別の意味での不気味さでもあるのがなかなかのものでした。『日本沈没』『復活の日』のようなスケールの大きいものもありますが、ハチャメチャな設定の短編にも捨てがたいものが数多くあります。日本列島は海に眠る大ナマズの上にふりつもった土でできていたというのもあります。地震の正体は大ナマズの身じろきだったという、ばかばかしい話です。

筒井康隆はそういう意味で徹底的にハチャメチャ度を高めていておもしろいのですが、好きな作品は「おすすめ」できないものばかりです。ざんねん。『戦国自衛隊』で有名な半村良の伝奇ロマンもおもしろい。『石の血脈』『産霊山秘録』など、いわば竹取物語系の小説をこの人が書いたおかげで、いわゆる「荒唐無稽」なものでもすべてSFとして扱っていいんだということになって、いろいろな小説が出てきたと言ってもよいぐらいです。安倍晴明を主人公としたものも、SF的に描いたものがうんざりするほど出てきました。小説だけでなく、漫画もあります。
たしかに、陰陽道というのは、伝奇SF的だし、絵になるのですね。安倍晴明に若い貴族や僧たちが、「式神を使って人を殺したりできるのか」とたずねたところ、「できなくはないが、生き返らせることはできないので、無益なことだ」と言った。「では、あの蛙なら殺せるか」と言うので、草の葉を摘みとり、呪文を唱えて蛙の上に投げかけると、蛙がぺちゃんこになってつぶれてしまった。僧たちは、真っ青になってふるえおののいた、なんて話……、やっぱりオモロイでんな。

2010年4月25日 (日)

まだ10代なんで

阪急電車のドアに、ビール酒造組合のシール広告が貼られています。

それを見て、にまあと笑う僕。

流されない人ってカッコいい。

すすめられたらキッパリ言おう。

「まだ10代なんで」

・・・・・・いいですねえ。

にやけてきませんか?

だって、全然キッパリ言ってないじゃないですか。

キッパリっていうのは、

「いいえ、私は飲みません。まだ10代ですから。」

みたいな発言じゃないですかね?

肝心の「飲みません」の部分は省略してるじゃないですか。

相手に「そこは言わなくてもわかるっしょ? ね、ね?」とボールを投げておきながら、

「キッパリ」とは・・・・・・!

「キッパリ」どころか、きわめて日本人的な、伝統的な、遠回しな表現なのでは?

これが、じゅうぶんに「キッパリ」だと思っているところが何だかいいです。

いや、悪くないですね。僕は好きです。

こういうコピーひとつにも日本人的な感覚が色濃く反映しているような気がします。

少なくとも日本人にとってはじゅうぶんに「キッパリ」なんですよね。

たいていの人はこの広告を見て違和感持たなかったでしょうからね。

というわけで日々きょろきょろとしみじみ笑える表現をさがす私でありました。

2010年4月21日 (水)

納得いかない文章

 前回、山下先生が「話の送り手と受け手との間に共通の了解が必要」ということを書かれました。

 どんな文章を理解するにせよ、「前提となる知識」は不可欠です。何の知識もなしに読める文章というのはほとんどありません。

 接続語の授業でときどきする話。

今日の夕食はカレーだった。

だから、全部たべておかわりもした。

 この文章を、何の違和感というか引っかかりもなく読める、というアナタは、ご自分が意識していない「カレーというものは万人が好きな食物である」という前提でこの文章を読んでいたはずです。

今日の夕食はカレーだった。

しかし、全部たべておかわりもした。

 こちらの文章が変だ、成立していない、接続語をまちがっている、と感じたアナタは、先ほどの「カレーというものは万人が好きな食物である」という前提がかなり強固なもの、もはや「一般常識」となっているのではないでしょうか。

 後者の、「しかし」で結ばれた二文を読んで、「あ、そういう人もいるよな」と感じたアナタは、その際に色々なことを感じられたはずです。

・後者の文章は、「カレーをきらいな人」が書いたのだな。

・それなら、「カレーがきらい」ということを文章に入れるべきじゃないかな。

・どうも、ひとりよがりというか、「自分」の強い文だなあ。

 上のような感想をお持ちになったかもしれません。

先生が来たので、教室は静かになった。

 これも、何の違和感もなく読める文章で、「前提となる知識」など、いらないように思います。

しかし、

先生が来たので、教室は騒然となった。

 という文だって成り立つわけです。ただしちょっとだけ理解するのに「推測」が必要になります。

「先生」と「教室内の静かさ」は、親和性が高い二つの事柄だという認識が普通でしょう。

 それなのに、先生が来たことによって静かさが失われた、ということは何があったのか。

 もしかしたら、すごく人気のある先生なのだろうか。それとも、先生が変な髪型になっていたのだろうか。寝グセとか。いやいや逆に、すごく統率力のない先生なのか。

 などと考えて、その疑問を解消すべく、さらに前後の部分を読もうとしたり、自分の持っている知識を総動員して考えるでしょう。

 こういう「すぐに納得できない文や文章」の方が、読みを深める練習になるのかもしれないな。などと今考えています。もしかしたら読解力をつけるテキストのヒントになるかも。

 

2010年4月16日 (金)

無限ループ

話の送り手が、どういう考えのもとにそういう表現をとったのか、つきつめて考えていくと、その人の心理的状態だけでなく、もろもろの事実まで感じ取れることもあるようです。外国の小説に、「九マイルは遠すぎる。まして雨の中ではたいへんだ」ということばだけで、発言した人が犯罪者であることを推理する、という「そんなアホな」みたいなものがありました。

横溝正史の『獄門島』では、犯人のつぶやき「きちがいじゃが、仕方がない」というのが人気の高いフレーズですね。「きちがい」は「季ちがい」です。俳句に見立てた殺人事件だったのですが、季節ちがいになってしまったので思わずつぶやいたことばでした。おまけに被害者の周辺には精神に異常をきたした人がいます。古い時代の小説なので差別云々という意識はなかったころですが、のちにテレビドラマ化したときも、このくだりはさすがにカットせずにやっていました。ここは、読者や視聴者の目をまちがった方向にもっていくミスディレクションであるとともに、犯人を特定する伏線になっているキモの部分ですからね。そして金田一耕助が疑問を持つのが「じゃが」という逆接でした。このことばの発言者は犯人を知っていてかばっているのではないか、その犯人は「き×がい」の人ではないか、と最初に思った名探偵は、思い直して、それなら「き×がいだから仕方がない」となるはずだ、なぜ逆接なんだ、と考えて真相に迫っていきます。このあたりは読んでいてワクワクするところです。

こんな風に、ちょっとした言い回しのちがいが相手に与える影響は大きいのですね。たとえば叱り方一つとってもそうでしょう。「なんだ、これは! こんなミスをしていいと思っているのか。君みたいなやつは死んでしまえ」とか言われたら、叱られたほうは、そこまで言うかと、反省どころか反感を持つことにもなりかねません。「君ともあろう者がどうしてこんなミスをしたんだ」と言われたら、あ、この人はオレをそういう風に評価してくれていたんだ、と思って素直に叱責を受け入れるかもしれません。単に、「アホ、バカ、マヌケ」という罵倒語を羅列しても、感情的になって人格否定をしようとしているようにしか聞こえません。「怒る」と「叱る」はちがうのに。「アホいうやつがアホじゃ」という古典的反論をしたくなります。あるいは「アホ」と「バカ」はどうちがうの、なんて内心で冷笑しているかもしれません。

たしかに「アホ」と「バカ」は少しちがうようですね。「バカ正直」とは言いますが、「アホ正直」とは言いません。「学者バカ」「親バカ」はいますが、「学者アホ」「親アホ」はいません。「バカうま」はあっても「アホうま」はなく、言うなら「アホほどうまい」になりますね。「アホ」は阿房宮から、「バカ」は「鹿をさして馬となす」から来たという説があり、前者は秦の始皇帝、後者は二世皇帝にちなむことなので、もしそうならどちらも歴史の古いことばということになりますが、どうでしょう。

「男どアホウ甲子園」「空手バカ一代」というときの「アホ」「バカ」はプラスイメージでしょうか。もともと関西では「アホ」は必ずしも悪いイメージではないようです。「踊る阿呆に見る阿呆」は「アホウ」だから許されるのでしょう。場合によっては「ほめことば」になることさえあります。「バカじゃないの」はきついことばですが、「アホちゃう」というのは「かわいい」感じがあります。「こいつバカだぜ」と言われるとムッとしそうですが、「こいつアホやねん」と言われると、「うん、オレ、アホやねん」と自然に出てきます。「アホ」は「売り」になるのです。

結局この二つはどうちがうんでしょうかね。関西と関東のちがいもあるようですが。「アホとバカの境目はどこらあたり?」というマヌケな投書を取り上げたTV番組では、「天下分け目の関ヶ原というから、きっとそのあたりだろう」と言って関ヶ原のとある家に飛び込み、「お宅ではどう言いますか」「ウチは『アホ』と言います」道路を隔てた向かいの家に行くと、「うちは『バカ』です」と言われ、「では、この道が境目」、というばかばかしい結論を出しました。ところが、これがやたら反響があり、そのうち「名古屋では『タワケ』と言うぞ」という声もあがり、アホ・バカ・タワケの三つの文化圏が勢力争いをするという三国志的様相を呈してきたのを、番組ではちゃっかり本にしてまとめました。『全国アホ・バカ分布考』(新潮文庫でも出ています)というものですが、なんと、それが「民俗学」として評価されたのですね。アホ・バカの研究も立派な民俗学なのです。柳田国男も『桃太郎の誕生』で民俗学というものを世に知らしめました。「桃太郎」といえばだれでも知っている話ですが、では三十字で要約するとどうなるでしょうか……(いちばんはじめの投稿にもどる)。

2010年4月11日 (日)

小6の諸君に高飛車に告ぐ!

君たちさ、

「『東堂の肩を持つ』頼子に対して陽介がどう思ったか」

という問いにさ、

「~ことに腹が立った。」

というかたちで答えよと指定されているときにさ、

東堂の肩を持つことに腹が立った。」

と答えたらさ、

バツになるに決まってるじゃん!!

明日から鬼のようにしごくよ。

2010年4月 6日 (火)

蛙は何匹?

一つの文章をどう受け取るかということについては、話の送り手と受け手との間に共通の了解が必要だし、多くの受け手も同じように受け取るのがふつうです。そうでなければ新聞は成り立ちませんよね。「阪神、巨人に快勝」という記事を見て、「巨人が勝った」と思う人はいません。ところが、そういう伝達の次元からさらに一歩踏み込んで、たとえばどういう教訓を導き出すか、というレベルになると個人差が生じます。

ワシントンがさくらの木を切ったことを正直に告白した、という話の内容そのものは、みんな同じように理解できるでしょう。ところが、ここで勝手なことを考えるバカモノが出てきます。カンカンになっていた父親が簡単に許すのはおかしい、きっとワシントンが「オレが切った」と言ったときには、まだ手にオノを持っていたにちがいない、そのオノを見て父親はビビりながら「べつにええよ…」と言ったのだ……。そして、そういう考えをする人はその前提ですべてを理解しようとします。「ワシントンはとんでもない不良なので、きっと将来ろくでもない人間になったにちがいない」と。

一つの可能性しかないと決めつけてしまうのは国語のできない人の典型的なパターンで、家族団欒のシーンの描写で父親が登場しなければ、きっと死んだにちがいないと決めつけてしまうようなアホタンでしょう。でも、こんなまぬけな「解釈」をしない人でも、ひょっとしたらワシントンの話から、「なるほど、そんなに正直な少年だったワシントンも、のちには『政治家』というウソつきになったのか、人間というものはわからんのう」という「教訓」を引き出すかもしれません。これはなかなか鋭い着眼点で、おもしろい解釈なのですが、これしか思いつかないのは「独断と偏見」です。一般的な解釈ができたうえで、「待てよ、しかし、この話はこういう風にも解釈できるのではないか」と考えられたら相当のものです。「独断と偏見」しかできない人は、それが人々の共感や感嘆をかちとる場合には「天才」と呼ばれるでしょうが、ほとんどの場合は単なる「非常識」です。

とはいうものの、詩や俳句となると、内容の理解そのものも難しい。たとえば「古池や」の句でも、「古池」って、どこにあるのですか? 山の中? 荒れ果てたお屋敷の庭の池? 実はどこかのお寺の池であり、池を見つめて句を思案している芭蕉の耳に、近くの隅田川に飛び込んだ蛙の水音が届いたのだ、二つのちがう情景をつなぐために「古池に」ではなく「古池や」の「や」が用いられたのである……という、あっと驚く解釈もあります。では「蛙」は何匹でしょう? 一匹? 二匹? その蛙の種類は? まさか食用ガエルではないでしょうが……。

こんな話もあります。芭蕉の弟子の去来が「岩鼻やここにも一人月の客」という句をつくりました。師匠が、この句はどういう意味だと聞いたら、去来は「月があまりきれいなので見ながら歩いていて、ある岩の突き出た場所までくるとそこにも月見をする風流なひとがいた、というものです」と答えた。すると芭蕉は、「ちがう、この句は、月に浮かれて岩場を歩く人に対して、『ここにも一人月見をする風流人がいますよ』と名乗り出たのだ」と言ったそうな。作者の去来はそれを聞いて、思わず「なるほど」と納得してしまった……というのも変と言えば変です。作者が自分の作った真意を否定されたうえ、別の解釈のほうがよいと感心しているのですから。もっとちがう解釈もできるかもしれません。「私が月を見ていたら岩鼻も月を見ていた。ああ、ここにも月の客がいたんだな」「月を見ているのは岩鼻だけではない。ここにも月を見ている私がいるぞ」「満月だから岩鼻にそれを見に行って、横を見たらもうひとりいたぞ、よく見たらそれはサルだったぞ」……。

要するに、人によって細かい部分のイメージは違うのです。でも「古池や」の句では、「静寂」ということは感じられるでしょう。いやいや、静寂を突き破る蛙の水音の力強さに生命というものの偉大さをオレは感じたぞ、なんて人はふつうはいないでしょうね。そのあたりの「常識的解釈」が国語という科目では要求されます。小学生や中学生に独創的解釈を求めようなんて無謀なことは考えていません。詩人や作家を養成するわけでもありません。昔あった「クイズ百人に聞きました」です。大胆な言い方をすれば、いちばん多い答えが正解、というのが国語です。あなたはどう思いますか、とか真実の解釈は何か、とかを尋ねているのではなく、その言い回しや文脈はどう解釈するのが最も自然で常識的か、ということがわかりますか、と聞いているのです。

「詩の問題はきらいだ。人によって感じ方はちがうのが当然なのに、同じ答えを要求するのはけしからん」とねぼけたことを言う人がいますが、「あ、ほんまやー」と思ったあなた、多くの人の感じ方ができず、また理解できないというのは、よほどの天才か、あるいは感覚的に欠陥のある人なのですよ。あなたはどっち?

2010年4月 2日 (金)

雑感②あるいは「ウソ」について

昨日はエイプリルフールでしたが、みなさん、盛大にウソはつかれましたでしょうか。

私は授業中に日付を板書していて、「お、今日はエイプリルフールではないか」と子どもたちに指摘したものの、何となく気乗りがせず、「ちっ、いちいちウソなんかついてられっかよ」的なすさんだ気持ちでしごくまっとうな授業を展開してしまいました。

一年に一度のチャンスなのに惜しいことをしたぜ。

それはさておき、ここで国語講師らしく辞書などひいてみました。

「うそ」

(広辞苑)真実でないこと。また、そのことば。

(明鏡)事実でないことを本当であるかのようにだまして言うことば。また、事実でないこと。

どうでしょう。やはり広辞苑の説明って不親切ですよね。明鏡の方がはるかに良い。

どこが良いといって、「本当であるかのように」という部分が良い。

広辞苑の説明だけでは、「ウソ」と「皮肉」のちがいがわかりませんものね。

「漢字の征服」で不合格だった子に、僕が

「余裕だねえ、漢字なんかできなくたって公開テストで88点とれるもんねっ!」

これは皮肉です。

しかし、思ってもいないことを言っているんだから、「真実ではない」ことば、つまり「ウソ」ともとれます。

もちろん「皮肉」は「ウソ」の一種であると言ってもいいでしょう。しかし区別は厳然としてある。

ふつう「ウソ」はばれたら意味がない。

けれども、「皮肉」は、それが「ウソ」であるとわかられなければ意味がない。

それが「ウソ」であることに気づくのは、必ずしも「皮肉」を言われた当人でなくてもよくて、それを聞いていた周囲の人でもかまわない場合もあるわけですが、とにかく誰かには気づかれなければならない。

金子光晴の「落下傘」は、表面的には日本という国をほめたたえる内容の詩ですが、よく読むと実際には糞味噌(漢字で書くとおそろしく汚い言葉ですねえ)にけなしています。つまり「皮肉」=「反語」です。

戦時下に書かれたものなので、検閲の目をくぐりぬけるためにそういう書き方になっているんですね。

けれども、検閲の目をくぐりぬけて発表にこぎつけたとしても、読者の誰一人としてこれが皮肉だと気づいてくれなければ、詩としては完全に失敗です。皮肉とはそういうものですよね。

ここが同じ「ウソ」の仲間である「お世辞」とのちがいです。

「奥村先生、今日も輝いてるね!」

おっと、これは「お世辞」でも「皮肉」でもありまへんどしたな。客観的な事実をありのままに述べただけの文でした。

いや、悪口じゃないんです。奥村先生はこういうこと言われると「おいしい」と思うらしいんです。

ただ困ったことに、自分と同じタイプの頭部、といいますか毛髪、の状態の人に出会うと、

「あ、きっとこの人もおいしいと思っているにちがいない」

という迷惑な勘違いをするんですね。それで、わざわざ横にならんで

「わーい、ライト兄弟」

などと失礼なことを言うのがいただけません。

えーと、何の話でしたっけ?

そうそう、「お世辞」と「皮肉」のちがいについてでした。

このあいだブログの中で、合格祝賀会における奥村・三倉コンビの漫才についてコメントしたところ、奥村先生から

「もっといじってほしかった」

というメールが来まして、悪いことしたなあ、もっといろいろ書いてあげればよかったなあと気にかかっていたので、つい。

で、えーと、何の話でしたっけ?

「お世辞」はやはり「ウソ」だとばれてしまうとまずいですよね。

そういう意味では、「皮肉」よりはるかに「ウソ度」が高い。内心はマイナスのことを思っているのにプラスのことを言う「ウソ」です。あるいは実際に思っている以上にプラスのことを言う「ウソ」。相手を喜ばせることによって自分の立場を良くする、というふうに目的もはっきりしています。

「今日のお母さん、きれいだね」

これは、皮肉でしょうか、お世辞でしょうか。ひょっとすると、心からほとばしり出た真実の言葉かもしれませんが、まあ、それはそれとして。ここでは、あえて、あまりそうは思っていないのにそう言っているという状況を想定してみましょう。

すると、要するに、この言葉だけでは何とも判別しがたいわけです。国語的に言うと、ここで、「文脈」という概念が必要になるんですね。

お母さんがばっちり化粧をきめたタイミングで言っているならば、たぶん「お世辞」です。

しかし、寝起きで髪はぼさぼさ目は腫れぼったく・・・・・・という状況でこれを言っていれば、まちがいなく「皮肉」です。

また、そのねらいが小遣いをもらうことにあるならば、お世辞です。

何らかの理由で腹いせをしたいと考えているならば、皮肉です。

このあたりのいわゆる「遠回しな表現」についての話はなかなか奥が深く、子どもにとっては高い壁です。

これからもがんばって授業中ばんばん皮肉を言おうっと!

このブログについて

  • 希学園国語科講師によるブログです。
  • このブログの主な投稿者
    無題ドキュメント
    【名前】 西川 和人(国語科主管)
    【趣味】 なし

    【名前】 矢原 宏昭
    【趣味】 検討中

    【名前】 山下 正明
    【趣味】 読書

    【名前】 栗原 宣弘
    【趣味】 将棋

リンク