雑感②あるいは「ウソ」について
昨日はエイプリルフールでしたが、みなさん、盛大にウソはつかれましたでしょうか。
私は授業中に日付を板書していて、「お、今日はエイプリルフールではないか」と子どもたちに指摘したものの、何となく気乗りがせず、「ちっ、いちいちウソなんかついてられっかよ」的なすさんだ気持ちでしごくまっとうな授業を展開してしまいました。
一年に一度のチャンスなのに惜しいことをしたぜ。
それはさておき、ここで国語講師らしく辞書などひいてみました。
「うそ」
(広辞苑)真実でないこと。また、そのことば。
(明鏡)事実でないことを本当であるかのようにだまして言うことば。また、事実でないこと。
どうでしょう。やはり広辞苑の説明って不親切ですよね。明鏡の方がはるかに良い。
どこが良いといって、「本当であるかのように」という部分が良い。
広辞苑の説明だけでは、「ウソ」と「皮肉」のちがいがわかりませんものね。
「漢字の征服」で不合格だった子に、僕が
「余裕だねえ、漢字なんかできなくたって公開テストで88点とれるもんねっ!」
これは皮肉です。
しかし、思ってもいないことを言っているんだから、「真実ではない」ことば、つまり「ウソ」ともとれます。
もちろん「皮肉」は「ウソ」の一種であると言ってもいいでしょう。しかし区別は厳然としてある。
ふつう「ウソ」はばれたら意味がない。
けれども、「皮肉」は、それが「ウソ」であるとわかられなければ意味がない。
それが「ウソ」であることに気づくのは、必ずしも「皮肉」を言われた当人でなくてもよくて、それを聞いていた周囲の人でもかまわない場合もあるわけですが、とにかく誰かには気づかれなければならない。
金子光晴の「落下傘」は、表面的には日本という国をほめたたえる内容の詩ですが、よく読むと実際には糞味噌(漢字で書くとおそろしく汚い言葉ですねえ)にけなしています。つまり「皮肉」=「反語」です。
戦時下に書かれたものなので、検閲の目をくぐりぬけるためにそういう書き方になっているんですね。
けれども、検閲の目をくぐりぬけて発表にこぎつけたとしても、読者の誰一人としてこれが皮肉だと気づいてくれなければ、詩としては完全に失敗です。皮肉とはそういうものですよね。
ここが同じ「ウソ」の仲間である「お世辞」とのちがいです。
「奥村先生、今日も輝いてるね!」
おっと、これは「お世辞」でも「皮肉」でもありまへんどしたな。客観的な事実をありのままに述べただけの文でした。
いや、悪口じゃないんです。奥村先生はこういうこと言われると「おいしい」と思うらしいんです。
ただ困ったことに、自分と同じタイプの頭部、といいますか毛髪、の状態の人に出会うと、
「あ、きっとこの人もおいしいと思っているにちがいない」
という迷惑な勘違いをするんですね。それで、わざわざ横にならんで
「わーい、ライト兄弟」
などと失礼なことを言うのがいただけません。
えーと、何の話でしたっけ?
そうそう、「お世辞」と「皮肉」のちがいについてでした。
このあいだブログの中で、合格祝賀会における奥村・三倉コンビの漫才についてコメントしたところ、奥村先生から
「もっといじってほしかった」
というメールが来まして、悪いことしたなあ、もっといろいろ書いてあげればよかったなあと気にかかっていたので、つい。
で、えーと、何の話でしたっけ?
「お世辞」はやはり「ウソ」だとばれてしまうとまずいですよね。
そういう意味では、「皮肉」よりはるかに「ウソ度」が高い。内心はマイナスのことを思っているのにプラスのことを言う「ウソ」です。あるいは実際に思っている以上にプラスのことを言う「ウソ」。相手を喜ばせることによって自分の立場を良くする、というふうに目的もはっきりしています。
「今日のお母さん、きれいだね」
これは、皮肉でしょうか、お世辞でしょうか。ひょっとすると、心からほとばしり出た真実の言葉かもしれませんが、まあ、それはそれとして。ここでは、あえて、あまりそうは思っていないのにそう言っているという状況を想定してみましょう。
すると、要するに、この言葉だけでは何とも判別しがたいわけです。国語的に言うと、ここで、「文脈」という概念が必要になるんですね。
お母さんがばっちり化粧をきめたタイミングで言っているならば、たぶん「お世辞」です。
しかし、寝起きで髪はぼさぼさ目は腫れぼったく・・・・・・という状況でこれを言っていれば、まちがいなく「皮肉」です。
また、そのねらいが小遣いをもらうことにあるならば、お世辞です。
何らかの理由で腹いせをしたいと考えているならば、皮肉です。
このあたりのいわゆる「遠回しな表現」についての話はなかなか奥が深く、子どもにとっては高い壁です。
これからもがんばって授業中ばんばん皮肉を言おうっと!