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2011年8月の3件の記事

2011年8月23日 (火)

光年のかなた⑥

私が2年間暮らした、T北大・学生寮の話を続けます。

あの寮は、とにかくばっちかった!

僕はあの2年間の寮生活のせいでハウスダストアレルギーになったんだと思います。寮内で引っ越しをするたびに寮生たちがカーペットを隣の中学校の金網に干してばしばしと叩くんですが、掃除機を持っている寮生なんていなかったですから(もしかすると若干名いたかもしれませんが僕は見たことがない)、それはもうモウモウとおそろしいほどの埃が舞っていました。恐れおののいた僕は、「叩けば埃が出るとはこのことか」と思い、金輪際カーペットを干したりするのはやめようと心に誓ったのでした。

そのせいというわけではありませんが、そういえば僕は仙台で過ごした7年半のあいだ、一度もふとんを干したことがありません。

友だちがふとんを干しているのを見て、何であんなことするのかなあと思っていました。ふとんを干せばふかふかして気持ちがいいのは知っていましたが、それだけのことだと思っていたんです。つまり、ふとんを干さないでいるとダニがわいたりカビがはえたりするということを知らなかったんです。

で、これは一軒家に移ってからの話ですが、一夏押し入れに放りこんでおいた掛け布団を秋になって引っ張り出してみると、見事にカビが一面にはえていてビックリ仰天するはめになりました。なんでこんなことになっちゃったんだろう、運が悪いなあと思いながら、その冬は寝袋で過ごしました。

でもね、仙台の冬はすごく寒いんです。やがて、夏用の薄い寝袋では寒くて寒くて眠れないようになってきたんですね。イソップに出てくるキリギリスみたいな気持ちでした。

研究室で先輩に相談すると、

「西川くん、そういうときは新聞紙だ、寝袋にさ、新聞紙を入れるとあったかいよ」

「え? うそ?」

「公園で寝ているおじさんたちを見たまえ、みんな段ボールに入って新聞紙にくるまっているだろう? 新聞紙は空気をとおさないからあったかいのさ!」

「なるほど!」

というわけで、さっそく試してみると、ほんとにとても暖かいのです! 幸せな一夜でした。

しかし、朝起きると、インクでパジャマが真っ黒けになっていました。なはは。

いや、これはあくまで学生時代の話です。今はそんな不潔な暮らしはしていないので(山にいるとき以外は)、安心してお子さんを通わせていただいてもだいじょうぶかと・・・・・・。

◆◇◆

ばっちいといえば、築30有余年の寮は落書きだらけでした。部屋の壁から天井から、廊下にいたるまでとにかくひたすら文字が書きまくられ、なんだか「耳なし芳一」の体のようでした。

そういえばほんとうに顔にお経を書かれていたやつがいたなあ。

僕のいた「有朋寮」ではなく山の上にある「以文寮」に住んでいたHくんというのが、酔っぱらって寝ているあいだに顔に「般若心経」を書かれたのだけれどそのことに気づかないまま山をおりて有朋寮を訪ねてきたことがありました。

「おまえ、顔に何書いてるんだ」

「わしは何も書いとらん」

「書いてるよ。なになに、観自在菩薩・・・・・・」

「なんじゃそりゃ」

「おまえは琵琶法師か」

Hくんは僕の知り合いの中で最もインパクトのある変わり者で、留学したオランダで結婚して日本料理店を営んでいるという噂を聞いたきり消息不明になっていましたが、最近連絡がとれました。希学園のHPをみて塾宛にメールを送ってきてくれたんです。やはりまだオランダに住んでいるとのことでした。いやはや無事でよかった。

頭に「南無八幡大菩薩」と書かれたSくんというのもいました。後に応援団の団長になった男ですが、これが語るも涙聞くも涙のかわいそうな話でしてね。

七大戦?だったかな、とにかく旧帝国大学の7つの大学がいずれかの大学に一堂に会して運動会みたいなことやるんですね。僕はよく知らないんですが。「運動会」というと怒られるかもしれませんが、要するに体育会系の部が集まって競技会みたいなことをするわけですから、運動会ですよね。

で、当然それは応援団の晴れ舞台でもあるわけです。Sくんも団員として参加しなければなりません。

ところが、Sくんはその期間に追試を受けなければ留年してしまうという瀬戸際に追い込まれていたのです。

Sくんとしては、留年はしたくないが、応援団の鉄の掟というものがあり、七大戦に参加しないというのは考えられない。

そこで苦肉の策といいますか、「策」というほどではありませんが、とにかく教授に頼み込みに行こうと。ただ行って「なんとかしてくれ」では誠意が伝わらないので、頭を剃って恐縮の気持ちといいますか陳謝の意を示そうと考えたわけです。

そこで、頼み込みに行く前夜、寮の一室で厳かに剃髪の儀が執り行われたわけですが、酔った先輩寮生(留年して寮に残っていた)が、「頭を剃るぐらいではダメだ」と言い出し、眉毛を片方、剃り落としてしまったのです。

「ああっ! 何するんですか!」

「すまん、しかし、片方の眉がすでになくなった今、もう一方も剃らないとかえっておかしいな」

「あ、ああっ、やめて~!」

両方の眉がなくなったSくんの顔はそれはそれはおそろしかったですねえ。もともといかつい風貌でしたから、凄まじい顔になっていました。鏡を見たSくん、

「こ、これは・・・・・・これでは教授に頼み込みに行けないじゃないですか!?」

「うむ。これでは頼み込みではなく脅迫になってしまうな。ひたすら謙虚な気持ちであるということをあらわすために、頭に恭順の意を示す文言を書き記そう」

「そんなことできません!」

しかし、次から次へと酒を飲まされなんだかんだと言いくるめられたSくん(ちなみにSくんは浪人しているのですでに成人でした)の頭には、いつのまにか「南無八幡大菩薩」の文字が油性マジックで大書されてしまうのであった・・・・・・。

留年確定です。

◇◆◇

さて、寮の落書きの話ですが、僕が寝ていた備え付けの寝台の天井には島崎藤村の「初恋」が書かれていました。古き良き青春ですねえ。

落書きをさらに増殖させている寮生もいました。

第99期山田内閣で一緒だった文学部のMくんは、部屋の壁から天井から机からイスからスタンドにいたるまでひたすら「ゆうゆ」と書きまくっていました。私と同世代の方なら覚えておいでかと思いますが、あのおにゃんこクラブに所属していたアイドルです。いまひとつあか抜けない感じでどこがそんなにいいのかよくわかりませんでしたが、Mくんはゆうゆ一直線なのでした。

あとは麻雀関連の落書きが多かったですねえ。何年何月何日の何時にナントカいう役を完成させたみたいな。僕は麻雀ができないのでよくわかりませんでしたが、「大三元」「小三元」という役の名前は覚えています。というのは、当時寮に「小三元」という名前のネコが棲みついていたからです。

白黒なんですが、鼻の下に昔の泥棒ひげみたいな黒い毛が生えており、なかなかの悪相でした。気まぐれな寮生たちにかわいがられたりいじめられたりしながら、ふてぶてしく寮内を徘徊していました。「ねこ~」と言いながら追いかけてくる変な寮生もいたりしてなかなか大変だったにちがいありません。

その小三元の子どもかどうかわからないんですが、とてもかわいい三毛の子ネコも一時棲息していました。名前はなんかみんな適当につけてそれぞれ好きなように呼んでいたみたいです。僕らはなんて呼んでたかなあ、ねこ丸とかなんとか呼んでいたような記憶があります。

この子ネコがよく僕の部屋に来ていました。眠った僕の枕元に上がり込んで突然にゃあと鳴き、飛び上がるほどびっくりさせてくれたこともあります。

あるときは僕の机の下に潜り込んでカーペットをがりがり引っかいているなあと思っていたら、あっという間にうんちしていたなんてこともありました。

かわいかったですけれど、なんせ僕は自分の食べるものにも事欠くありさまでしたから、にゃあとすり寄られてもあげるものがなくてかわいそうでした。

しかしもともと動物は好きなので、一軒家を借りて住むようになってからの話ですが、衝動的にゴールデンハムスターを飼いはじめてしまいました。薄い茶色のメスが「しまこ」で焦げ茶色のオスが「きょたろう」だったかな、これが油断していたらばらばらっと増えてしまって、最終的に10匹になりました。うっかりケージを開けっ放しにして出かけたときは、10匹のハムスターすべてが逃亡をはかり、僕が帰ってきたら家中のあちこちをハムスターたちがうろうろしていた、なんてこともありました。基本的にのろまなのですぐにつかまるのですが。

生き物を飼っているといろいろ制約や義務感が生じます。たとえ飼い主は低血糖でも、ハムスターのえさを欠かすことはできません。どんなに酔っぱらっていても、眠る前にはにんじんを輪切りにしてケージに放り込み、やつらがシャクシャクと食べる音を聞きながら眠りました。

酔っぱらってにんじんを切っているときに不必要に包丁をふりまわして(殺陣の練習をしてたんです)壁にぶつけ、先が折れてしまったこともありました。この包丁は、一緒に暮らしていたまじめでしっかり者のIくんが買ってきたものでしたが、Iくんはため息をついただけで許してくれました。優しかったです。というか、何を言っても仕方あるまいと思ったのかもしれません。

まったく、われながらしょうがないやつでした。

2011年8月13日 (土)

クリビツテンギョーイタオドロ

河童の好物といえばキュウリで、キュウリを巻いた寿司はカッパ巻きです。では、なぜ河童はキュウリを好むのか。河童は水神の落ちぶれた姿でした。ところで、祇園の八坂神社はスサノオノミコトをまつっていることになっていますが、実はインド起源の牛頭(ごず)天王だとも言われています。牛頭天王も水神なのですね。そして、八坂神社の紋章が「木瓜」です。織田信長のところと同じです。「もっこう」と読むのですが、訓読みすれば「きうり」であり、キュウリの切り口にも似た形の紋章です。祇園祭のときにはキュウリを食べないという風習も、紋章に似たキュウリを食べるのはおそれ多いということだったのでしょう。ということで、河童→水神→牛頭天王→祇園→木瓜→キュウリとなったのですな。祇園というのは不思議な神様で、古代イスラエルの宮殿のあったシオンの丘が名前の元になったという、トンデモ説もあります。たしかに、山鉾の絵模様を見ても、ラクダやライオンとかピラミッドなんかが描かれていたりして国際色豊かです。

狐の好物の油揚げも、こういう「こじつけ」があります。油揚げに包まれた寿司は「いなり寿司」です。単純に油揚げの色と狐の色が似ているからとも言われますが、それではおもしろくない。稲荷の神様は、御食津媛(みけつひめ)で、この「みけつ」に「三狐」の字をあてたところから稲荷の使いが狐になったそうな。ところが、祇園と同じように、稲荷神社の神はインドの荼枳尼(だきに)天だとも言われています。もともとジャッカルにまたがっていたのが、日本にはいってきたときにはジャッカルは日本にいないものだから、狐ということにしたとか。いずれにせよ、稲荷と狐が結びつきました。で、大昔は荼枳尼天を奉じる修行者はネズミのフライをお供え物にしていたそうですな。この荼枳尼天が、のちに殺生を禁じる仏教にとり入れられた際に油揚げで代用したとかいうことで、狐と油揚げがつながってくるわけです。

ここまでややこしくなくても、世の中には「つきもの」というのがあります。梅に鶯、鹿に紅葉、獅子に牡丹、猪に萩……。花札の絵柄です。竹に雀もそうですね。雀のお宿は竹藪の中にあります。ところで舌切り雀をもじって「着た切り雀」ということばが生まれました。一度着たら、なかなか着替えないのを「いっぺん着たら着たきりやな、着たきりスズメか、おまえは」という、いわばだじゃれです。本来「スズメ」の部分は余分ですが、これがあることでだじゃれであることがわかります。「感謝感激雨あられ」も「乱射乱撃雨あられ」のだじゃれです。これとちょっと似ているものに、あることばが終わったあと、なんとなくものたりないので、だじゃれでつないだことばを無理矢理くっつけるというパターンもありますね。「驚き桃の木山椒の木」とか「ああうまかった牛負けた」とか、古いところでは「その手は桑名の焼きはまぐり」というのもあります。「何か用か九日十日」や「そんなこと有馬温泉」なんてのも一昔前の漫才でよく使われていました。寅さんも「結構毛だらけネコ灰だらけ○○のまわりは○○だらけ」「たいしたもんだよ蛙の小便」と言っていました。蛙の小便は田んぼにするので「田へしたもんだよ」から「たいしたもんだよ」になっていくんですね。「あたり前田のクラッカー」というCMは知らない人が多くなっているのだろうなあ。

こういうことば遊びの中では「アナグラム」というのがあって、私は結構好きですネコ灰だらけ。アナグラムというのは、ことばの文字を入れ替えて別のことばにする遊びです。「田中角栄」の「たなかかくえい」を並べ替えて「ないかくかえた」「内閣変えた」にするというやつですな。最近見たものでは「鯛に琵琶湖を破壊させよ」というのがありました。あることわざのアナグラムです。「させよ」がそのまま残っているのが難ですが、出来としてはなかなかのものです。「せこいつまだ」「ごみ拾う」という歌手、になると、もはやどちらも古典的名作と言えます。「阿藤快」と「加藤あい」もアナグラムの関係ですね。「ともさかりえ」は歌手として出るときには「さかもとえり」と名乗っていたような気がします。福永武彦という作家がいました。怪獣映画『モスラ』の原作者でもあり、やはり作家の池澤夏樹のお父さんでもあります。この人がアナグラム好きで、探偵小説を書くときに「福永だ」をアナグラムにして「船田学」というペンネームにしようとして編集者に怒られたと言います。それでも性懲りもなく、「加田伶太郎」というペンネームにしました。「かだれたろう」は「たれだろうか」つまり「誰だろうか」のアナグラムです。主人公の探偵の名前は「伊丹英典」で「いたみえいてん」、これは「名探偵」をローマ字で書いたものをアナグラムにしています。こんなふうにアルファベットを並べ替えるのが本来のアナグラムでしょうが、複雑になると、元のことばがまったくわからなくなります。元のことばの感じがなんとなく残っているのがオシャレです。

森田さんが「タモリ」になったり、「小樽」のケーキ屋さんが「ルタオ」になるのは、アナグラムというより、さかさことばです。手塚治虫のジャングル大帝にも「ルネ」と「ルキオ」という双子のライオンが出てきましたが、「ねる」と「おきる」のさかさことばです。「いじめる」のを「かわいがる」と言うのも「さかさことば」ですが、それとはちがって、「たね」を「ねた」、「しろうと」を「とうしろう」、「やど」を「どや」、「ばしょ」を「しょば」というふうに、ことばの順をひっくり返すものです。芸能界や「やっちゃん」業界の人がよくやるやつですね。「うまい」が「まいうー」になるのは有名です。「ちゃんこなべ」が「べなちゃんこ」になるのは、西宮出身の芸人夙川アトムが「ねた」でやっていました。「ゲンをかつぐ」は「縁起→ぎえん→げん」だし、「ポシャる」は「かぶとをぬぐ→シャッポをぬぐ→シャッポる→ポシャる」です。「プテキャン」は焼き肉らしい。「焼き肉→朝鮮→船長→キャプテン→プテキャン」という流れで、こういうのは何を言っているのか一般人には知られたくないという、一種の暗号みたいなものなのでしょう。「クリビツテンギョーイタオドロ」はハリーポッターの呪文ではありません。

2011年8月 4日 (木)

鉢巻きの色は青

機械的に暗記しようとしてもなかなかうまくいかないので、語呂合わせにたよることになります。ただ、語呂合わせでも意味の上でもなるほどと思えるようなものは忘れにくいようです。「なくようぐいす平安京」「いいくにつくろう鎌倉幕府」、「いごはなみだの室町幕府」はなんとなく納得ですが、「奈良の納豆」はイマイチです。本能寺の変の「いちごパンツ」ぐらいになればインパクトがあるので悪くはありませんが。

英単語でも、「集中する」という意味の「concentrate」が、「con」が「ともに」の意味であり「ate」が動詞化する働きをもち、まん中が「center」であることがわかれば、「センターに集める」つまり「集中する」であることが納得できます。こざとへんは「阜」がもとになっています。中国の周のホームグラウンドである「岐山」から借りてきて信長が「岐阜」と名付けたのですから、「阜」の意味は「山」です。そこで、こざとへんの字は土のもりあがったところを表し、一方おおざとは「邑」の変形で、これは「むら」ですから、人の集まるところを表します。さんずいは「水」ですが、にすいは「氷」で、「冬」や「寒」の下の部分はもともとにすいでした。そういったことをしっかり納得して覚えれば二度と忘れることはありません。

とはいうものの、世の中には物覚えの悪い人もいるようで、落語の「くっしゃみ講釈」は、胡椒を買いに行くのに「のぞきからくり」をやる話です。どこに何を買いに行けばよいか、どうしても覚えられないので、「のぞきからくり」の「八百屋お七」を思い出せ、と言われるのですが、さあ、いまどきの人は「のぞきからくり」も「八百屋お七」も知らんのでしょうなあ。こんなことを言うと、おまえは何時代の人間やと言われそうですが……。のぞきからくりというのは、レンズのついた穴があいている箱です。それをのぞくと中に錦絵を描いた板がつってあり、節をつけた語りにあわせて引き上げたり降ろしたりして場面をかえながら物語っていくという、古くさーい見世物です。八百屋お七は、江戸時代の大きな八百屋の箱入り娘で、江戸の町が大火事になったときに避難した駒込吉祥寺の小姓に一目惚れします。再会するためにはまた火事にならねばならないと思い込み、放火して捕らえられ火あぶりにされました。井原西鶴の「好色五人女」にも描かれています。……ということで、お七の相手は寺の小姓ですから、「胡椒」を思い出す手がかりになるのですが、結局思い出せず、八百屋の店先でのぞきからくりの語りをえんえん繰り広げることになります。「小伝馬町より引き出され、ホェー、先には制札紙のぼり、ホェー、同心与力を供に連れ……てなもん、おくれ」「そんなもん、おまへんわ。」「ホェー」「またかいな、この人」「はだか馬にと乗せられて、ホェー、白い襟にて顔隠す、ホェー、見る影姿が人形町の、きょうで命が尾張町……てなもん、ちょっとおくれんか」と、さんざんやって「売り切れ」と言われるんですね。八百屋のおっさんに「あんた今時のお方やおまへんな」と言われます。帰ると、「八百屋のおっさんわろてたやろ」と言われ、「ほめてたで、あんた今時のお方やおまへんやろ言うてた」という、ばかばかしい話で、このあたりは是非とも桂枝雀で聞いてください。

ところで、八百屋お七はそのあとの裁判で、奉行が命だけは助けてやろうと考えます。十五歳以下なら罪が減じられるので、「おまえは十五歳だな」と言い含めるように言うのですが、お七は「いいえ、私は丙午年生まれの十六歳」と言ってしまうのですね。では、なぜお七は丙午でなければならないのか、そしてなぜ丙午はよくないとされるのでしょうか。前にも書いたような気もしますが、十二支を右回りの円に配分してみるとわかります。子を上に午を下になるように書いて、これに東西南北をあてはめます。北を子、南を午とすれば、北と南をつないだ線を子午線と言う理由がわかります。さて、この東西南北にはさらにいろいろなものがあてはめられます。東には春・青・竜、南には夏・赤・おおとり(朱雀)……というように。まん中には無理矢理黄色をあてはめます。これに宇宙を構成する五つの要素、木・火・土・金・水を強引にあてはめると、まん中を土にして、北は水、南は火ということになりました。つまり、午は火なのですね。「丙」は「火の兄」つまり「火」のプラス(陽)ですから、丙午は火が重なることになります。そこで、この年生まれの人は激しい気性の持ち主ということになり、とくに女の人は男を食い殺すとまで言われたのでした。お七は放火犯でもあり、まさに丙午の代表とされたわけですが、そんなの迷信だろうと思いきや、昭和四十一年の出生率が低かったのは、その年が丙午だったからです。

ところで、南の午を頂点として、寅・戌を結ぶ三角形を火へ向かうグループと見ると、その逆は、北の子を頂点とした辰・申とのトライアングルになります。辰は水神ですから、水の神様でありながら、ねずみのような顔をして、猿のような姿をしたものがこのトライアングルから浮かび上がります。そう、河童です。なんと十二支に河童が隠れていたんですね。こいつは当然、水のグループということになります。川辺に水を飲みに来た馬が小さな河童が引きずり込まれるのはそのためです。なぜなら馬は火であり、河童は水でしょ。水は火に勝つじゃないですか。消すことができるんですから。同じように、水に勝つのが土で、土に勝つのが木で、木に勝つのが金で、金に勝つのが火ですね。また、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生むとも言われます。たとえば、漢帝国をつくった劉邦は赤龍の子と呼ばれていたので、赤にあたる「火」から漢は「火の徳」の王朝とされました。やがて漢が衰えたころ、黄巾賊というのが出てきました。火は土を生むのですから、漢王朝の次の時代を支配する者は、土に相当する「黄」が目印になるはずです。だから黄色い布を頭に巻いたのだ、……という説があります。希の塾生が青い鉢巻きをするのにも、何か意味があるのかなあ。

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