光年のかなた⑥
私が2年間暮らした、T北大・学生寮の話を続けます。
あの寮は、とにかくばっちかった!
僕はあの2年間の寮生活のせいでハウスダストアレルギーになったんだと思います。寮内で引っ越しをするたびに寮生たちがカーペットを隣の中学校の金網に干してばしばしと叩くんですが、掃除機を持っている寮生なんていなかったですから(もしかすると若干名いたかもしれませんが僕は見たことがない)、それはもうモウモウとおそろしいほどの埃が舞っていました。恐れおののいた僕は、「叩けば埃が出るとはこのことか」と思い、金輪際カーペットを干したりするのはやめようと心に誓ったのでした。
そのせいというわけではありませんが、そういえば僕は仙台で過ごした7年半のあいだ、一度もふとんを干したことがありません。
友だちがふとんを干しているのを見て、何であんなことするのかなあと思っていました。ふとんを干せばふかふかして気持ちがいいのは知っていましたが、それだけのことだと思っていたんです。つまり、ふとんを干さないでいるとダニがわいたりカビがはえたりするということを知らなかったんです。
で、これは一軒家に移ってからの話ですが、一夏押し入れに放りこんでおいた掛け布団を秋になって引っ張り出してみると、見事にカビが一面にはえていてビックリ仰天するはめになりました。なんでこんなことになっちゃったんだろう、運が悪いなあと思いながら、その冬は寝袋で過ごしました。
でもね、仙台の冬はすごく寒いんです。やがて、夏用の薄い寝袋では寒くて寒くて眠れないようになってきたんですね。イソップに出てくるキリギリスみたいな気持ちでした。
研究室で先輩に相談すると、
「西川くん、そういうときは新聞紙だ、寝袋にさ、新聞紙を入れるとあったかいよ」
「え? うそ?」
「公園で寝ているおじさんたちを見たまえ、みんな段ボールに入って新聞紙にくるまっているだろう? 新聞紙は空気をとおさないからあったかいのさ!」
「なるほど!」
というわけで、さっそく試してみると、ほんとにとても暖かいのです! 幸せな一夜でした。
しかし、朝起きると、インクでパジャマが真っ黒けになっていました。なはは。
いや、これはあくまで学生時代の話です。今はそんな不潔な暮らしはしていないので(山にいるとき以外は)、安心してお子さんを通わせていただいてもだいじょうぶかと・・・・・・。
◆◇◆
ばっちいといえば、築30有余年の寮は落書きだらけでした。部屋の壁から天井から、廊下にいたるまでとにかくひたすら文字が書きまくられ、なんだか「耳なし芳一」の体のようでした。
そういえばほんとうに顔にお経を書かれていたやつがいたなあ。
僕のいた「有朋寮」ではなく山の上にある「以文寮」に住んでいたHくんというのが、酔っぱらって寝ているあいだに顔に「般若心経」を書かれたのだけれどそのことに気づかないまま山をおりて有朋寮を訪ねてきたことがありました。
「おまえ、顔に何書いてるんだ」
「わしは何も書いとらん」
「書いてるよ。なになに、観自在菩薩・・・・・・」
「なんじゃそりゃ」
「おまえは琵琶法師か」
Hくんは僕の知り合いの中で最もインパクトのある変わり者で、留学したオランダで結婚して日本料理店を営んでいるという噂を聞いたきり消息不明になっていましたが、最近連絡がとれました。希学園のHPをみて塾宛にメールを送ってきてくれたんです。やはりまだオランダに住んでいるとのことでした。いやはや無事でよかった。
頭に「南無八幡大菩薩」と書かれたSくんというのもいました。後に応援団の団長になった男ですが、これが語るも涙聞くも涙のかわいそうな話でしてね。
七大戦?だったかな、とにかく旧帝国大学の7つの大学がいずれかの大学に一堂に会して運動会みたいなことやるんですね。僕はよく知らないんですが。「運動会」というと怒られるかもしれませんが、要するに体育会系の部が集まって競技会みたいなことをするわけですから、運動会ですよね。
で、当然それは応援団の晴れ舞台でもあるわけです。Sくんも団員として参加しなければなりません。
ところが、Sくんはその期間に追試を受けなければ留年してしまうという瀬戸際に追い込まれていたのです。
Sくんとしては、留年はしたくないが、応援団の鉄の掟というものがあり、七大戦に参加しないというのは考えられない。
そこで苦肉の策といいますか、「策」というほどではありませんが、とにかく教授に頼み込みに行こうと。ただ行って「なんとかしてくれ」では誠意が伝わらないので、頭を剃って恐縮の気持ちといいますか陳謝の意を示そうと考えたわけです。
そこで、頼み込みに行く前夜、寮の一室で厳かに剃髪の儀が執り行われたわけですが、酔った先輩寮生(留年して寮に残っていた)が、「頭を剃るぐらいではダメだ」と言い出し、眉毛を片方、剃り落としてしまったのです。
「ああっ! 何するんですか!」
「すまん、しかし、片方の眉がすでになくなった今、もう一方も剃らないとかえっておかしいな」
「あ、ああっ、やめて~!」
両方の眉がなくなったSくんの顔はそれはそれはおそろしかったですねえ。もともといかつい風貌でしたから、凄まじい顔になっていました。鏡を見たSくん、
「こ、これは・・・・・・これでは教授に頼み込みに行けないじゃないですか!?」
「うむ。これでは頼み込みではなく脅迫になってしまうな。ひたすら謙虚な気持ちであるということをあらわすために、頭に恭順の意を示す文言を書き記そう」
「そんなことできません!」
しかし、次から次へと酒を飲まされなんだかんだと言いくるめられたSくん(ちなみにSくんは浪人しているのですでに成人でした)の頭には、いつのまにか「南無八幡大菩薩」の文字が油性マジックで大書されてしまうのであった・・・・・・。
留年確定です。
◇◆◇
さて、寮の落書きの話ですが、僕が寝ていた備え付けの寝台の天井には島崎藤村の「初恋」が書かれていました。古き良き青春ですねえ。
落書きをさらに増殖させている寮生もいました。
第99期山田内閣で一緒だった文学部のMくんは、部屋の壁から天井から机からイスからスタンドにいたるまでひたすら「ゆうゆ」と書きまくっていました。私と同世代の方なら覚えておいでかと思いますが、あのおにゃんこクラブに所属していたアイドルです。いまひとつあか抜けない感じでどこがそんなにいいのかよくわかりませんでしたが、Mくんはゆうゆ一直線なのでした。
あとは麻雀関連の落書きが多かったですねえ。何年何月何日の何時にナントカいう役を完成させたみたいな。僕は麻雀ができないのでよくわかりませんでしたが、「大三元」「小三元」という役の名前は覚えています。というのは、当時寮に「小三元」という名前のネコが棲みついていたからです。
白黒なんですが、鼻の下に昔の泥棒ひげみたいな黒い毛が生えており、なかなかの悪相でした。気まぐれな寮生たちにかわいがられたりいじめられたりしながら、ふてぶてしく寮内を徘徊していました。「ねこ~」と言いながら追いかけてくる変な寮生もいたりしてなかなか大変だったにちがいありません。
その小三元の子どもかどうかわからないんですが、とてもかわいい三毛の子ネコも一時棲息していました。名前はなんかみんな適当につけてそれぞれ好きなように呼んでいたみたいです。僕らはなんて呼んでたかなあ、ねこ丸とかなんとか呼んでいたような記憶があります。
この子ネコがよく僕の部屋に来ていました。眠った僕の枕元に上がり込んで突然にゃあと鳴き、飛び上がるほどびっくりさせてくれたこともあります。
あるときは僕の机の下に潜り込んでカーペットをがりがり引っかいているなあと思っていたら、あっという間にうんちしていたなんてこともありました。
かわいかったですけれど、なんせ僕は自分の食べるものにも事欠くありさまでしたから、にゃあとすり寄られてもあげるものがなくてかわいそうでした。
しかしもともと動物は好きなので、一軒家を借りて住むようになってからの話ですが、衝動的にゴールデンハムスターを飼いはじめてしまいました。薄い茶色のメスが「しまこ」で焦げ茶色のオスが「きょたろう」だったかな、これが油断していたらばらばらっと増えてしまって、最終的に10匹になりました。うっかりケージを開けっ放しにして出かけたときは、10匹のハムスターすべてが逃亡をはかり、僕が帰ってきたら家中のあちこちをハムスターたちがうろうろしていた、なんてこともありました。基本的にのろまなのですぐにつかまるのですが。
生き物を飼っているといろいろ制約や義務感が生じます。たとえ飼い主は低血糖でも、ハムスターのえさを欠かすことはできません。どんなに酔っぱらっていても、眠る前にはにんじんを輪切りにしてケージに放り込み、やつらがシャクシャクと食べる音を聞きながら眠りました。
酔っぱらってにんじんを切っているときに不必要に包丁をふりまわして(殺陣の練習をしてたんです)壁にぶつけ、先が折れてしまったこともありました。この包丁は、一緒に暮らしていたまじめでしっかり者のIくんが買ってきたものでしたが、Iくんはため息をついただけで許してくれました。優しかったです。というか、何を言っても仕方あるまいと思ったのかもしれません。
まったく、われながらしょうがないやつでした。