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2012年2月の4件の記事

2012年2月24日 (金)

体重②

 さて、高校2年の冬に65キロをマークした私の体重はその後も着実に増え続け、高校を卒業する頃には、71キロに到達していました。

 保健体育の最後の授業でデスラー総統(そっくりの体育教師)がにやにやしながら、「西川よ、おまえは高校を卒業して体育の授業がなくなったら半年でさらに10キロふとるだろう」と不吉な予言をしました。私がふとると予言したのはデスラー総統で二人目です。中学生のときの卓球部の顧問だったヨニエル(という元卓球世界王者そっくりの先生)も、私の脇腹の肉をつまみ、「ここに肉がついているやつはいずれふとる」と予言してくれました。まあこのヨニエルの予言は見事に当たったわけです。

 それにしても、生徒というのは、先生にろくなあだ名をつけません。先生にあだ名をつけるのは『坊っちゃん』の時代からの伝統で、つけられる当人はいやな気持ちもするかもしれませんが、あとで思い返してみても名作があるものです。むかし、頭髪の状態がフランシスコ・ザビエルに似ているというので「ジャビ」というあだ名をつけられた先生がいました。また、額の髪の生え際のかたちから「M」と呼ばれている先生もいました。大学のとき、某講座の先生は、ストッキングをかぶった銀行強盗みたいな顔をしているということで、「ストッキングマン」というものすごいあだ名を冠せられていました。

 僕は昔からあまりあだ名で呼ばれません。きっと親しみにくい人柄なんでしょう。名前からして「にしやん」とか呼ばれても不思議ではないはずですが、まったくそんなことはありませんでした。心斎橋のデパ地下でコロッケをあげるバイトをしていたときに、店の人たちになぜか「サムソン」と呼ばれていたのぐらいですかね。なぜ「サムソン」なのかはわかりませんでした。旧約聖書の知識なんかまったくない人たちだったんですけどね。でも確かにその頃の私はサムソンほどではありませんが、若干長髪でした。これは散髪代をけちっていたためです。今みたいな激安の理容店はほとんどありませんでしたから、1回髪を切ってもらうと経済的な負担がとても大きくて、髪の毛なんか伸ばしっぱなしにしていました。また、間のいいことにその頃長髪が流行ってたんです。テレビ見ていても男の歌手が髪を伸ばして背中で編んだりしていました。それを見て「これだ!」と思った僕も、伸ばした髪を後ろでまとめていましたが、髪ゴムの存在など知らず台所用の輪ゴムでとめていたために、いざはずすときになかなかとれなくて、いつも髪の毛を引きちぎりながらゴムをはずしていました。痛かったっす。

 それはともかく、「半年で10キロふとる」という不吉な予言を背に、私は19××年3月、高校を卒業し、仙台へと旅立ったのでありますが、前にも書いたように、仙台で暮らし始めて早々に自転車購入資金だった三万円が消えてしまい、毎日片道一時間かけて歩いて通学するはめになったうえ、混雑している生協の食堂に行くのがいやで毎日昼飯抜きの生活をしていたら、一ヵ月で8キロもやせてしまいました。

 しかし、私は賢くなかったので、毎日2時間歩いていることが体重激減の理由だとは気づかず、 「なるほど、食わなければ人間やせるもんだね」なんて言って、ますます食事を減らしたりしていました。食わなければやせるしお金も節約できるし言うことないよ、と思ってました。

 やがて、寮を出た先輩から自転車を譲り受け、歩いて学校に行くことはなくなりました。

 さあ、そろそろ強烈なリバウンドが始まるぞ。と、みなさんはお思いかもしれません。

 しかし、リバウンドはやってきませんでした。それどころか、さらに体重は減り続け、最も減ったときで57.5キロまで落ちました。そして、その後もかなり長い間、多少の増減はあったものの、おおむねスマートな状態を維持できたのです。なぜか? それはもちろん、何年もの間つねに極貧生活にあえぎ、ひたすら食べるものを切り詰めていたからです。

 ま、低血糖で動けなくなったりもしましたけどね。

(体重③へつづくかも)

 

2012年2月18日 (土)

体重①

冬は太りやすい! と私は思う!

冬は寒くて基礎代謝に必要な熱量が増大するからダイエットに良いなどというたわごとを聞いたことがありますが、私の経験では秋から冬にかけては明らかに肥えやすい!

 これはおそらく「冬ごもり」だと思います。「食欲の秋」などという怖ろしい言葉がありますが、確かに秋になるとむやみに腹が減ります。寒さが厳しく食料の少ない冬に備えて体が脂肪の備蓄を増やそうとしているからなんです、きっと。そしてこの傾向が、寒いあいだずっと続くんだと思います。だからふとってしまう。

 塾講師ならではの問題というのもあります。1月の受験シーズンは生活が不規則になりやすく、睡眠不足が続くため、食欲のリミッターがあっさり壊れてしまうんです。子どもたちの第1志望校・第2志望校の受験前日に電話かけをしますが(「おやすみコール」と呼んでいます)、実はあの電話をしているあいだもずっとおやつをつまみ食いしたりしているわけです(しゃべりながら食べているわけでありませんが)。
 そんなわけで入試が終わる頃にはめっきり体重が増えていたりします。

 思えば、私がはじめて太りはじめたのも冬でした。高校2年のときでした。忘れもしない期末テスト直後の休み、一週間で4キロ太ってしまったんです。たしか61キロ→65キロだったかな。そのときは事態の深刻さに気づかず、人間ふとればふとるもんだなアハハと笑っていたんですが、高校3年になって恐ろしいことに体育の授業で柔道をやることになっちゃったんです。デスラー総統に似た体育の先生が、「重量級・中量級・軽量級の三階級に分けて、階級別に総当たり戦をやる」などと意味不明のことを言い出しちゃって。たしか66キロ以上が重量級で、野球部とか剣道部とか陸上部とかの猛獣のような輩がうようよいるんです。そのころしばらく体重を量っていなかったんですが、明らかに昨年の冬よりもふとってましたから、このままではまちがいなく重量級行きなんだけど、私は身体訓練をまったくしない怠惰な演劇部員ゆえ、そんなことになったら身がもたないよと。少しでも体重を軽くするため、柔道着をぬいで体重計にのろうとしたら、デスラー総統に「西川、ずるをするな」と言われ、泣く泣く柔道着を手にはかりにのりました。すでに66キロなんて余裕で突破してましたね。

 いや~投げとばされた投げとばされた。野球部のY君ていうのが強かったですねえ。組んだ瞬間ふわっとからだがういて、きれいにひっくり返されたんですが、一瞬何が起こったかわかりませんでした。ぼんやりしていたら、デスラー総統が上から僕をのぞきこみ、にやりと笑って「いっぽん」。強引な投げじゃないところが、Y君の運動神経の良さを物語っていました。一方陸上部のなんとかってやつはやたらと足払いをかけてくるんですが、あまりうまくない。うまくないので、単に蹴られているのと同じでひたすら痛い。アントニオ猪木の「アリ・キック」と同じです。

 アリ・キックはご存じでしょうか。アントニオ猪木が「異種格闘技戦」と称してプロレスラー以外の格闘家とたたかった一連のシリーズがあるんですが、モハメド・アリという伝説的に強かったボクサーとたたかったときに、アリのパンチをくらわないようにひたすらねそべってアリの足を蹴りまくったんです。それが「アリ・キック」です。

 アリ・キックといえば、中学生のときにY本くんというアントニオ猪木ファンがいました。不良というほどではないですが、どちらかというと、スポーツマンでも勉強家でもなく、若干グレた感じの少年でした。根は悪いやつじゃなかったですけどね。ただ、この人が、突然アントニオ猪木になりきってしまうという悪い病気をもっていてですね、まさに猪木の霊が憑依したかのように、不意にビンタをかまして挑発してくるのです(猪木が対戦相手のプロレスラーを挑発するのによくビンタしてました)。しかしですね、挑発されても困るんですよ。僕はべつにY本くんとたたかいたくないわけです。ていうか、今の今まで平和におしゃべりしていたはずなんです。けれども、いったん猪木の霊がのりうつったY本くんには言葉は通じず、僕が挑発にのらないとみるや、今度はアリ・キックです。ほんと迷惑でした。

 1度だけキレて、やり返しました。ビンタを。それでY本くんはすっかり燃える闘魂と化し、さらなるアントニオ猪木の必殺技「卍固め」を僕に決めようとしてくるんですが、あの技はですね、はっきり言ってしまうと、敵が協力してくれないと決められない技なんですよ~。Y本くんは完全にキレてしまって「西川、腰を落として左手を出せ」「いやだよ~」「文句言うなボケ」などという白熱しない戦いが繰り広げられました。

 さて、そんなある日、そんなY本君が、恋をしてしまいました。タリラリ~(『ある愛の詩』より)。

 相手は同じクラスのN田さんという、小柄で色白のかわいい女の子です。しかし、中学生の初恋ですし、アントニオ猪木がのりうつっていないときのY本君はシャイなナイスガイですから、打ち明けることもできません。切々とした恋心を聞かされた悪魔のような私は、(今こそビンタとアリ・キックと卍固めの恨みを晴らすとき!)と思ったわけでもありませんが、「Yっさん、ここはひとつ思いきって打ち明けるべきだぜ、愛とは決して後悔しないことだしさ、だいじょうぶ、Yっさんならいけるって」と何の根拠もないことをぺらぺらと吹いてそそのかし、Y本君もすっかりその気に。

 その後Y本君はN田さんをどこかに呼び出して愛の告白をしたらしいですが、残念ながら不調に終わりました。Y本君はその悲しい顛末を、親身になって相談に乗ってくれたと信じている悪魔のような私に涙ながらに語ってくれましたが、私の顔がだんだんにやけてくるのを見て、またしてもアントニオ猪木に変身してしまうのでありました。

「体重②」につづく。

2012年2月11日 (土)

ふつう の考察

お久しぶりの栗原でございます。

「ふつう」という言葉の意味が変わってきているようです。

 「ふつうにかっこいいよね」

 「これ、ふつうにうまくね?」

などと使うようですが、(若者言葉として)これで正しいのか自信はござりませぬ。

当然、「普通」なのだから、

「標準的な格好良さですね」

「標準的でとりたてておいしいとはいえないのではないでしょうか?」

という意味で使っていると判断したくなるのですが、どっこい違うようなのです。

「かなり格好がよい」「かなりおいしくておどろいた」と彼等は使っているのです。

なぜ「ふつうに」が、「かなり」「けっこう」のような強意の表現として使われるに至ったのか。

国語講師としては興味のあるところです。

 若者は「まじめ」 をカッコワルイと感じる。(むろん逆の人も多いですが)

 なので、わざと「自分を悪くみせる」ことが多い。

 いきおい、若者の基本行動指針は「反体制・反主流」となりがち。

 とはいえ、反発ばかりするのも幼稚だとはうすうす気づいていたりする。

 そこで、時には「普通に」ふるまってみることもある!

 例 今日は「普通に」おふくろに「ありがとう」って言ってみる。

 例 最近「普通に」バイト先で明るくあいさつしてみる。

そう。若者にとっては「普通」こそが特別で、エスペシャリイにすることなのだ!

 私のあくまで個人的経験に基づく観測では、

  「フツーに」と言っている若者は

  「正直に告白すると」

  「思い切って言うと」

  「本心から言うと」

  「かざらずに言うと」

  「ストレートに言ってみると」

 のようなニュアンスで使用しているにちがいない!

 と思うのですがいかがでしょう。

 若者たちは

 「普通の子である」「普通に大学行ってサラリーマンになる」

 ということを少し低くみつつ、でも内心は憧れてもいる。

 とここまで書いてみて、実は若者だけが「普通に」対して普通でない感情を持っているわけではないような気がします。

 日本人は横並びが大好きというのは、受験国語の文章でよく出てくる主題です。

 テレサ・テンの名曲「時の流れに身を任せ」にも「普通の暮らし」ということばが出てきて、

 平凡で普通の生活への憧憬は日本人ならずとも持っているはずです。

 そういう微妙な心理が「フツーにおいしいよね」という表現に込められていたとしたら、

 若者言葉も捨てたものじゃありませんね。ふつーにすげえ。

 

2012年2月 4日 (土)

エジソンの父は発明の父の父

毎年恒例で、入試があったことも関係ないかのように前回のつづきです。わらじは「一足」「二足」と数えるのですね。つまり、はきものの場合の助数詞は「足」ということになります。では、手袋はどうなるんでしょう。「一手」「二手」とは言わない。昔から言わん、いまだに言わん、これ一つの不思議、なんの不思議なことがあるかい、橋無い川は渡れん、渡るに渡れんことはない、船で渡るか泳いで渡るか、それではことが大胆な、ほたら一体どうせぇっちゅうねん、というのは「池田の猪買い」という落語です。ここで橋のことを言ったのは脱線ではなく伏線なのですが……。まあ手袋の場合も「一足」ということがあるようですが、なにか変なので無難なところでは「一組」とか「一対」なのでしょう。

だいたい助数詞というのは難しいようです。ひらたいものは「一枚」「二枚」ですが、新聞となると、「部」や「紙」という助数詞も登場し、日本語を習いたての外国人は使い分けに悩むところでしょう。細長いものは「本」ですが、へびは「一本」「二本」とは言いません。細長くないくせに電話や映画でも「一本」ということがあります。むかしの手紙は細長いと見ることもできそうなので、手紙なら「本」はなんとなく納得です。電話も、その関連から来ているのかもしれません。お金で「一本」というのは何でしょう。「報酬はいくらだ」「まず一本というところだな」なんてドラマでもよく見るシーンですが、これはいくらでしょうか。むかし九十六文の穴を通してまとめると百文として使えたというところから来ているのなら「百」ということかもしれません。ということは百万か。いまの時代なら一けた上がって一千万円でしょうか。ひょっとして「一本」は指一本のことかもしれない。そうすると、一万円? 「一本」とは言うけど「二本」とか「三本」とか言っている場面は見たことがないので、助数詞ではないのかも?

いずれにせよ「本」というのは不思議な助数詞です。書物の「本」を「一本」「二本」と数えないのも不思議ですが、上に来る数字によって読み方が「ほん」「ぼん」「ぽん」と変わるのも外国人泣かせでしょう。二・四・五・七・八・九は「ほん」、三は「ぼん」一・六・十は「ぽん」です。促音便の「っ」になると「ぽん」になるのはわかります。「八」も「はっ」となれば「ぽん」です。ところが、「さん」のときは「ぼん」なのに「よん」は「ほん」になるのは変です。「三」はsanではなく古くはsamと発音していたようなので「三位」は「さんみ」になりますが、「よん」は新しい音で、yonなのかもしれません。そのちがいでしょう、たぶん。京都には「橋」があるが大阪には「橋」がないという話があります。ここで伏線が生きてきた。三条大橋や四条大橋は「おおはし」ですが、天満橋、天神橋、心斎橋、戎橋は「はし」ではなく「ばし」だという、しょうもない話です。「八百八橋」というのも「ばし」です。

話を助数詞に戻すと、蝶々を「一頭」「二頭」と言うのはいやですね。魚や鳥以外の動物は「頭」と言うのだという考え方もあるようですが、一般的には小さな動物は「匹」です。一説には、蝶々の愛好家が自分たちのあがめる蝶々は他の凡百の昆虫とはちがうのだから差をつけようとして「頭」と数えることを主張したとか。兎が「一羽」になり、いかやたこが「一杯」となったりするのも面倒です。いっそのこと、名前を助数詞とするのはどうでしょうか。一ゴリラ、二ゴリラとか。でも一アフリカイボイノシシ、二アフリカイボイノシシなんてなるとつらい。リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシっていうのもありましたが、あれは植物でしたか。あまり長いと不便です。寿限無になってしまいます。逆になんでもかんでも「個」にしてしまうのもどうかと思います。「年が一個上」なんて言い方はちょっとなあ。

人は「ひとり」「ふたり」でそれ以上になると「三人」「四人」です。ところが死ぬと「体」になるのはおもしろい、というのは不謹慎でしょうか。死体は「一体」「二体」です。では幽霊はどう数えるのでしょうか。知り合いの専門家(?)は「あんたの家の向いの二階の窓に五体浮かんでる」と言っていましたが、やはり「体」なのでしょうか。神様になると「柱」ですが、唯一絶対神の場合はどうなのでしょう。唯一なのだから助数詞は必要ない? 日本の神はよく「八百万」と言います。つまり、「やおよろずばしら」の神がいることになります。ほぼ大阪府の人口に等しく、東京都の人口の三分の二ぐらいですね。ということは、八百万の神がすべて東京に住んでいる(住んでいるというのも変ですが)とするならば、三人に一人は神様ということになります。歩いている人に「おまえ、神様?」と尋ねたら、三人に一人は「うん、おれ神様。おたくも?」ということになります。

日本の神様がどれぐらい多いか、こういう風に言われると理解しやすい。よくあるのが、「東京ドームにたとえると」というやつです。テレビでよくやっていますね、大きさや広さを感覚的にわかってもらうために。関西人にはいまいちピンと来ないのが残念です。「甲子園にたとえると」と言われたら一発です。この前テレビでやっていたのは、外国に取材に行って、日本人のレポーターが「広さを東京ドームにたとえるとどうなりますか」と聞いたら、現地の人が「東京ドームなんて知らない」と言ってました。ザマミロと思いましたね。「このステーキ、一万円」と言われると、高いなあとは思うけど、どれぐらい高いかは感覚的にはわかりにくい。ナイフで切って、一切れ千円、一かみ五百円、なんて思うとよくわかる。山下清の「兵隊の位で言うと」というのも、どれぐらいのレベルのものなのか、わかりやすくなります。ただし、兵隊の位を知らないとどうしようもありませんが。「東洋のパリ」とか「だれだれ二世」というのも、元のものにたとえてよく似ているか同じくらいのレベルにあるという意味なのでしょう。ただ、実際にはみんなレベルダウンしてしまっているのがかなしい。「発明の父」というようなたとえもよくあります。では、「発明の父の息子」は「発明」なのか、という屁理屈をこねる人もよくあります。

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