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2013年11月の4件の記事

2013年11月24日 (日)

シネマ食堂街③

前回の「シネマ食堂街②」が、なぜか「時事問題」にカテゴライズされていました。明らかに時事問題ではないんですが、なぜこんなことになってしまったんでしょう。どこか変なところを押してしまったんでしょうか (・_・ )( ・_・) オロオロ。

どこをどうしたらなおせるのかわからないのでこのままいきますが、時事問題ではありません。原発についてもテロについても秘密保護法についても言及していません。ただ、シネマ食堂街という、ある時代の雰囲気を濃密に体現している空間が主題であると考えれば、時事問題と言えなくないかもしれません。そして、「じじ問題」と表記すれば、それはそれで思いあたるふしもあったりなかったりするようなしないような・・・・・・コホン、ゴホッゴホッ。

さて、シネマ食堂街との衝撃の出会いから数年後、わたしは、再び剱岳に登りました。去年の話です。

同じルートはつまんないので、一般登山道ではなく、懸垂下降用のロープを担いで源次郞尾根ちゅうところから登ってみました。30メートルの懸垂下降が一カ所あるだけなのに、それだけのために50メートルのロープを2本持って行かねばならず(1本はY田先生に借りました)、おまけに少し雪渓を下るんですが、Y田先生が、ピッケルは必携、アイゼンもあった方がいいかも、などとのたまうのに素直に従ったら、もう重い重い。重さのために遭難するのではないかと思いました。

しかし、この源次郞からの登山の話は割愛します。問題はつねに衝撃の亜空間『シネマ食堂街』なのであります!

下山後、ひさしぶりに富山市内で時間があったので、僕はさっそく懐かしのシネマ食堂街へといそいそと足を運びました。めざすはもちろん「あや」です。べつに安くもなければおいしくもなく、ただ、男みたいなママと、生活保護のおばあちゃんがいたというだけの店でしたが、なんとなく、あの異次元空間ぶりに引き寄せられる感じで足が向いてしまうのでした。

しかし、残念ながら、「あや」はもうなくなっていました。小さい迷路みたいな食堂街のなかをくまなくさがしたけど、ありませんでした。ほんとうはそんな店なかったのかも・・・・・・とは思いませんでしたが(そんなおおげさな、ねえ?)、なんとなくぼんやりした、不思議な気持ちになりました。少しさびしいような。

このまま「あや」はだんだん僕の記憶から薄れていき、いつしか忘れられてしまう・・・・・・そんなふうにして、僕と「あや」との縁(というほどのものでもないですが)は消滅するかと思われたのですが、つい先月、三度目の剱岳登山を終え、富山市内に下り立つや、僕の足はやはりシネマ食堂街に向かってしまうのでした。未練がましく「あや」をさがすも、やはりかげもかたちもなくなっており、僕はだからといってたいしてがっかりするわけでもなく、シネマ食堂街の一角にあるべつの居酒屋に入りました。「あや」よりかなり綺麗だし、料理もおいしく、値段も高くなくて良い店です。

その店でビールを飲みながら、僕はふと「『あや』のことを聞いてみよう」と思い立ったのです。

ホールを切り盛りしている声の大きい、化粧の濃いおばさん(この人は東大阪の出身だそうです)に、「以前、美空ひばりばかりかかっている店がありましたよね?」と尋ねると、

「ああ、ああ、ありました。」

「あのお店はもうなくなっていますね」

「あの店のマスター、っていうか、ママね、亡くなったのよ。癌で」

「ああ・・・・・・そうですか。いつ頃ですか」

「もうだいぶ前よ~。4年ぐらい前かしら」

「ああ・・・・・・そうですか」

「あの店のマスター、っていうか、ママね、いい人だったのよ~。田舎から送ってきた野菜くれたりね」

「ああ・・・・・・」

「これ言っていいのかしら、でも本人も隠してなかったからいいわよね、あのママね、昔、だったのよ」

は?

「奥さんも息子さんもいてね、昔は高岡でバーをやってたんだけど、どうしてだか、あんなふうになっちゃってねぇ、お嫁さんが、いっしょに暮らすのいやだって言うものだから、店の二階に住んでたわ。そりゃねえ、舅が姑になっちゃったんだもんねぇ」

「む、むう・・・・・・」

そういえば、あの店でビール飲んでたとき、夕方近くなったら、突然カウンターのなかでかつらをかぶって化粧というか顔に何か塗りつける的な作業をしてましたよ、あの男みたいな、というか、今まさにかつて男性であったことが発覚したところのママ。しかし、それなのにまったく気づいていなかった僕って、僕の眼って、すばらしく節穴。

それにしても、あの「ママ」の人生はもう失われてしまい、あの「ママ」の人生に何が起こり、何を思って、あの場所に行き着いたのか、そうして毎日、生活保護のおばあちゃんと差し向かいで、どんな気持ちで美空ひばりを聴いていたのか、そういったことのすべてが消え去ってしまいました。もう一度行って仲良くなって、ビール飲みながらゆっくり話を聞いてみたかったな、と思います。

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年11月17日 (日)

シネマ食堂街②

前回、明らかに話の本筋とは関係のないY田M平ばなしでムダに字数を費やしてしまい、肝心な内容にまったく入れませんでした。ちょっと気をぬくと登場するY田M平、油断も隙もないとはこのことです。

 

さて、とにかく私はカウンター席に座り、男みたいな顔のおばちゃん(たぶん60代半ば)が焼いてくれた鰤を食べながら、ビールを飲み、美空ひばりの唄を聞くともなく聞いていたわけです。

店のママ、つまりさっきからしつこく繰り返していますが男みたいな顔したおばちゃんは、僕が大阪から来たことを知るや、店の奥から1葉の写真を取りだしてきて、

「これ、わたしの好きな男の人なの」

といって見せてくれました。色褪せた古い写真には、いかにも真面目そうな、背広姿のサラリーマンらしき男性がうつっていました。昭和四十年代ふうの黒縁の眼鏡をかけたおじさんです。

「豊中に住んでるのよ」

と男みたいなママは言いました。

残念ながら僕はこういうときなめらかに言葉が出てくる人間ではありません。ただ、「はあ」とか「むう」とかつぶやくだけなのでありましたが、男みたいなママは、うっとりと遠くを見るような目で、

「優しい人なのよ」

「はあ」

「わたしがどうしても会いたくなって」

「むう」

「突然、突然よ」

「はあ」

「迷惑なのはわかっているんだけど、行っちゃったの、でも、ちゃんと駅まで会いに来てくれて・・・・・・」

「むう」

「ひばりぃ~」(これは僕のとなりにいるおばあちゃんの声)

「そう、あなた豊中から来たの」

「いえ、茨木です」

「そうなの」

「ひばりぃ~」

といった感じで、昼下がりから夕方にかけてのひととき、妙に非現実的な時間が流れていくのでありました。

ちなみに、一定の時間間隔で「ひばりぃ~」とつぶやきつづけているおばあちゃんですが、

「あのおばあちゃんね、生活保護を受けてるのよ」

と、おばあちゃんが席をはずしているときに、ママが教えてくれました。

これが、5年ほど前の話です。

さて、ほんとうに濃い話はこれからなんですが、またしても時間がなくなってしまったようです。

つづく!

 

 

 

 

 

 

2013年11月10日 (日)

シネマ食堂街①

今日は、わたしが今年もっとも衝撃を受けた話を紹介します。

・・・・・・なんというか、けっこう濃い話なので、こんなところに書いてもよいものかどうか・・・・・・。

ま、いっか。

僕のはじめての北アルプス体験は剱岳です。

もともと僕は、高い所が苦手でした。歩道橋もいやだったぐらいですから、山登りはおろか、観覧車だって当然アウトです。はるか昔のことですが、青春の1ページといいますか、とある女性といっしょに観覧車に乗ったときのこと、かの人が隣に腰をおろそうとするのを「やめろ、一方に重量が偏ったら傾くだろ」とわめいて全力で拒否、きわめて気まずい雰囲気に。うーん、まさに青春の一コマですね。しみじみ。

とにかく、そんなにも高い所がダメで、おまけに体力にも運動神経にも自信がなかったので、北だろうが南だろうがアルプスなんてとてもとても・・・・・・あたしゃそのへんの裏山程度のところでいいのよ、という感じのヤマノボラー(=山登りをする人)だったわけです。ウェアもいいかげんで、さすがにジーパンはまずいということで化繊の含有量の多い服は着ていましたが、雨具は自転車とかバイクに乗る人用の気密性の高い、むれむれのカッパ、靴はヒマラヤかどこかで買った安物のトレッキングシューズ、そんな出で立ちで京都の皆子山とか、奈良の白鬚岳とか、どこよそれ?というような山を本で見つけてきては登ってました。

そこへ彗星のごとくあるいは火星の衛星フォボスのごとく現れたのが、ヒマラヤ八千メートル峰に3回も(2回だったかな?)挑んだ(そして敗退した)男、山男のなかの山男、黄金の太もも、Y田M平先生であります。

かれは僕に言いました。

ヘイ、今度、山登りに行かないか? 算数のY川氏もいっしょさ。

算数のY川先生も独自に山登りの魅力にとりつかれ、すでに北アルプスにも何度か登ったことがあるという話でした。

そのとき、Y田先生が連れて行ってくれたのは、雪彦山という姫路の近くにある山です。低山ですが、ちょっとした岩場があり、ちょっとアルパインな気分が味わえます。

ちなみに、Y田先生はきわめて保守的な性格の持ち主で、とにかく自分がかつて登ったことのある山、それも庭のごとく知悉している山にしか登りたがりません。その割には道に迷うのが不思議です。その後も雪彦山には岩登り(いわゆるロッククライミング)の練習で二度行きましたが、行く度に山中をさまようことになりました。たしかに岩場というのは一般登山道からはずれたところにあるのでわかりにくいんですが、Y田先生はかつてさんざん通ったにもかかわらず迷うため、われわれはいつも岩場にたどり着くまでに体力と時間を使い果たし、結局クライミングなどほとんどできず、懸垂下降だけして帰ってくるのであります。

それはともかく、ま、そうやって山行をともにするなかで、北アルプスはいいですよと、Y田先生およびY川先生に勧められて、ついその気になってしまったわけですね。行きましたよ、剱岳。

新田次郎の小説が数年前に映画化されていましたね。『剱岳 点の記』とかいうやつです。

この、初の北アルプス、それも剱岳登山でも、僕はやってはいけないことをやらかし肝を冷やしたわけですが(かいつまんで言うと、山頂でのんびりサッポロ一番を食べビールを飲んでいたら下山が遅くなり途中で日が暮れてしまった)、今日はしかし登山の話がしたいのではありません。

下山してからの話であります。

富山市に出て、さあ、おなかもすいたし、ビールの1本か2本、できれば3本ぐらいも飲みたいものだと思って、店をさがしていたら、「シネマ食堂街」と書かれた、おそろしく古いビルがありました。まさに昭和の香りふんぷんたる前時代的建造物です。ここなら昼から営業している居酒屋があるかも~と思って入ってみると、「あや」という名前の店が開いていました。入口には「美空ひばり後援会なんとか支部」みたいな貼り紙。

店内には美空ひばりのビデオが流れ、お客さんがふたりいました。

カウンターの中にいたのは、なんといったらいいんでしょう、男みたいな顔をした短髪のおばちゃんでした。いるじゃないですか、たまに、男みたいな顔した人。

客のひとりはまだまだ元気な感じのおじいさんで、暇をもてあましていたらしく、僕のリュックをみるや、どの山に登ったのかとかどこから来たのかとかいろいろ話しかけてきました。

もうひとりの客はおばあさんで、カウンターにかがみこんでちびちびとビールを飲みながら食い入るようにビデオを見つめ、「ひばりぃ~」とつぶやいているのでありました。

「うわあ~、なんだか濃いところに来ちゃったな~」と思いながら、僕もビールを飲み、仕方なく美空ひばりの歌声に耳を傾けていました。

 さて、ここからが濃い話になっていくわけですが、余計なことを書いていたら時間がなくなってしまいました。というわけで、今回は「シネマ食堂街①」ということにして、次回へつづく!

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年11月 2日 (土)

「人生」のルビは「ショー」

前回の続きを書こうとして読み直していると、最後のところで変換ミスをしていることに気がつきました。「忍ぶ鎧の」は「偲ぶ」ですね。大楠公(「だいなんこう」では変換できない!)の歌の「しのぶ鎧の袖の上(「そでのえ」も変換できない!)に」の部分です。「世の行く末をつくづくとしのぶ」という流れなので「忍ぶ」ではなく「偲ぶ」がふさわしい。「手書き」なら、どちらだろうと考えながら書くのに、機械が勝手に変換してくれると、なんとなくスルーです。「忍ぶ」は「人目を忍ぶ」つまり「忍者」、「がまんする」という意味なら「忍耐」「堪忍」です。一方「偲ぶ」は「昔を偲ぶ」ですが、「ぶ」と濁らないのが本来の形だったようです。こちらの方は常用漢字にはいっていないので原則として仮名書きでしょうが、漢字で書いてもなんら問題はありません。

当用漢字は常用漢字とちがって「縛り」がきつかったので、表外の漢字は新聞などでは仮名書きになっていたようです。軍隊がなくなって「駐屯地」の「屯」はいらんだろう、ということで表外になってしまったのですが、その後自衛隊が生まれて、この語を使おうとすると「駐とん地」という表記で、なんかブタがブーブー言って集まっている感じになったとか。「瀆職」の「瀆」の字が使えなくなって、「汚」に書きかえたため、「汚職事件」という新語が生まれました。「とくしょくじけん」が「おしょくじけん」になってしまったのですね。「汚職事件」の変換ミスとして「お食事券」になる、というネタも登場しました。「風光明媚」が「風光明美」となると「かざみつあけみ」さんかと一瞬思ってしまいます。

今の新聞では、表外の漢字でも、ふりがな付きで書かれることがあります。とくに記者の書いたものではなく、寄稿されたものであれば原文を尊重しようということでしょう。このふりがなの効用というのは、じつは大きかったのではないでしょうか。知らない漢字でもふりがながあれば読めるし、そこで新たに漢字を覚えていくということもありました。「流行る」と書いて「はやる」と読ませたり、「殺る」と書いて「やる」と読ませたりするやり方もあります。漢字で書くことでイメージがはっきりしますが、ふりがなをつけないと読みにくい。かといって、仮名書きでは雰囲気が出ない、ということでしょう。「うつす」には「移」「写」「映」の三つの漢字があって使い分けをする問題がよく出ます。「都をうつす」場合には「遷」なんて字を書くこともあるのですが、「風邪をうつす」の場合はどれでしょう。「移」なのでしょうが、これは場所移動なので、元の場所からいなくなる感じです。でも、風邪は人にうつしたら自分は治るというわけでもないので、微妙に違和感があります。そこで「風邪を伝染す」と書く人もいるのでしょう。

漢字で視覚に、ふりがなで聴覚に訴えて立体的なイメージを出そうというテクニックもあります。歌詞でよく使われたりしますが、耳で聞いているだけではわかりません。ふりがな付きの歌詞を見て、あれま、と思うことがあります。「永遠(とわ)」「運命(さだめ)」「女性(ひと)」「性質(さが)」ぐらいはよくあるパターンですが、「現代(いま)」「宇宙(そら)」「時代(とき)」となると、歌を聞いてるときには気づかんかったなあと思います。「出発(たびだち)」「舞台(ステージ}」なんて、漢字で書かんでもええやないの。同じ「日本」なのに「くに」になったり「ふるさと」になったり、熟字訓の域をこえてます。「人生」と書いて「ショー」と読ませる桑田佳祐はさすがです。歌舞伎の外題もなかなか魅力的です。奇数は陽なので縁起をかついで、漢字五字または七字で書くものに無理矢理読み方をつけています。河内山宗俊の出てくる『天衣紛上野初花』は「くもにまごううえののはつはな」になります。『青砥稿花紅彩画』が 「あおとぞうしはなのにしきえ」とは、そら知らなんだの世界です。めんどくさいので『白浪五人男』と言うことが多いようです。『慙紅葉汗顔見勢』は「はじもみじあせのかおみせ』ですが、これも『伊達の十役』と言います。それぐらいなら、はじめからややこしい名前をつけるなよ、と思います。落語にも『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』というのがありますが、これは歌舞伎のパロディでしょう。

「大人気」はふりがながなければ読めません。「だいにんき」なのか「おとなげ」なのか。「人気のない公園」は「ひとけ」がないのか「にんき」がないのか、どっちでしょう。「大人百円、小人五十円」と書かれているのを見ることがありますが、「小人」はどう読むのでしょう。奈良公園の「鹿の発情期には注意」という看板の「発情期」には「気の荒いとき」というふりがなが付いていてオシャレです。こういうふりがなをルビと言いますが、外国にはないようです。「ルビ」ということばは、宝石のルビーから来ているらしいのですが、日本独自の発明なんでしょうね。もともと経文の漢字を読むためのカンニング用に作られたのが片仮名だと言われます。でも、漢字の横に書いたのでしょうから、これがルビの起こりかもしれません。

漢字以前に日本では文字がなかったことになっていますが、有名な「竹内古文書」は「神代文字」で書かれていたと言います。キリストが日本に来たなんてことが書かれているとかいう本です。こういうのを真剣に(?)信じてる人もいるようで、昔流行(はや)った「ノストラダムスの予言」なんてのも信じた人がいたのでしょうかね。その日が来れば結果がわかるのに、あとのことは考えないのか、または「それまでかせごう」と割り切ったのか、そういう人たちがテレビにもよく出ていました。「明日は雨が降るような、天気ではない」なら絶対当たります。「あなたは25歳ですか。では、来年は26歳になるでしょう」も。中島らもが「最近の若者の事件」についてのコメントを求められて「共通することが一つあります。それは、みんな若い、ということです」と言ったとか。当たり前っておもしろいですね。たまにテストで点をとる方法を聞かれることがあります。そんなとき、私は「正解を書け」って言います。怒らずに笑ってくれる人は高得点がとれる人です。

ほんとうは、前回の続きで「七五調」から発展させて「型の美学」について書こうと思っていたのですが、「型」が乱れてしまいました。こういうのを「かたなし」と言うのでしょうか。

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