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2022年4月の2件の記事

2022年4月28日 (木)

100万回死んだ猫

「シロアリに食べられる」は変だと言いましたが、子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句などはやはり「食う」でよいのであって、「食べる」ではしっくり来ません。字余りになるかどうかということだけでなく、お上品ぶらずに、かぶりつく感じのある「食う」が似つかわしい。「か・き・く…」という音の流れも心地よいのですが、これは意識したわけではないでしょう。ただし、結果的にこういう効果の出る言葉を選んでくるのが才能です。「いわばしるたるみの上のさわらびのもえいづる春になりにけるかも」のラ行音や「の」の繰り返しとか、「やわらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」の「や」や「き」の頭韻など、作者は意識していないでしょう。

ところで、この「柿」の字は「こけら」と読むことがあります。「こけら」というのは、木の削りくずということで、「こけら落とし」は、新築したり改築したりした劇場で、初めて行われる催しのことです。では、果物の「かき」と何の関係があるのか。実は、この二つは別の字なんですね。「かき」の字の右側は「市場」の「市」、つまり「なべぶた」に「巾」と書く字です。音読みが「シ」になるのは「市」の読み方が反映されています。ところが、「こけら」は「なべぶた」と「巾」の間に隙間がなく、たてに棒を貫く形です。ただ、活字になると、まったく区別がつきません。困ったものです。

では、「こけら」のほうの「柿」の音読みは何かというと、「ハイ」なんですね。劉邦は「沛公(はいこう)」と呼ばれました。「肺」も当然「はい」です。ということは、「肺」のつくりは四画で書くのが正しかったのです。ところが、いつのまにか五画に変わっています。当用漢字を決めるときのドサクサで、煩雑さを避けて統一化しようとしたのでしょう。「闘」の字が「たたかいがまえ」から「もんがまえ」になったのと同じように、字義よりも利便性を優先させたと思われます。「肺」という漢字は汎用性が低く、熟語を作りにくいのですが、「胃」や「腸」と並んで、小学校で教える必要があると判断したのですね。

「五臓」の一つであるにもかかわらず、「肺」だけは「肺臓」の形で使うことが少ないようです。五臓とは、肝臓・腎臓・心臓・脾臓・肺臓のことで、漢方ではきちんと五行に対応させて、胃・大腸・小腸・胆・膀胱・三焦の六腑とは陰陽の関係にあるそうです。六腑のうちの「三焦」は、何のことだかわからないそうな。「臓」も「腑」も、「にくづき」に「くら」を表す字から成り立っており、「臓腑」という二字熟語もあります。「モツ鍋」の「モツ」は「臓物」の省略形でしょう。鍋の中身は、「臓」のレバーやハツよりも「腑」である腸のほうがたくさんはいっているようですが…。

「臓物」とよく似た字で「贓物」というのがあり、こっちは「ぞうもつ」ではなく「ぞうぶつ」と読みます。盗みや詐欺によって手に入れた品物のことです。「贓物牙保罪」という耳慣れない表現もあって、「牙保」というのは、売り買いの仲立ちをして利益を得ることで、要は、不法に手に入れた品物を現金化するときに暗躍する闇のブローカーのお仕事ということになります。さすがに、今は「盗品等有償処分あっせん罪」という名称に変わったそうですが、法律用語の中にはこういう古い言葉がたくさん残っていました。明治のころに作られた法律がいまだに生きているのですね。「監獄法」なんて、名前が変わったのはつい最近のことです。いまどき「監獄」という言葉を使う人もほとんどいないでしょう。

法律用語などは時代の変化に合わせて新しい表現に変えていくのが当然でしょうが、古いままのほうが味わい深い場合もあります。聖書などは文語のほうが断然よさそうです。だれの文章だったか、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。然るに汝の天の父は、これを養ひたまふ。」と「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。」を比べて、後者のどこがまずいかを詳しく分析して、ケチョンケチョンに腐していました。たしかに、格調の低さは否めません。

現代語の中にも、なぜか消えずに残っている古い言い回しがあります。「生きているものすべて」ではなく、「生きとし生けるもの」と言ったほうがしっくり来る場合もあります。「さようなら祖国」ではなく、やはり「さらば祖国」が似つかわしい。古い時代には普通の言い回しであり、さほど重みの感じられない言葉だったのかもしれないのに、年月の重みというものが言葉にしみついてくるのでしょうか。年月、時代というのは重いものです。落語の『火焔太鼓』でも、古い太鼓を見て「たいそう時代がついておるな」「もう時代のかたまりみたいなもんで…ここから時代をとったら何にも残らない」というやりとりがあります。志ん生がしゃべると、こんな何でもないやりとりがおもしろい。

人間でも、「亀の甲より年の功」というのがあてはまることがあります。ただし、経験者の言うことが正しいか、というと必ずしもそうとはかぎらない。津波があったときに、前に経験したことのあるお婆さんが「こういうときにはこうするとよい」と言ったので、その言葉にしたがって行動したらうまくいかなかった、という話を何かで読んだことがあります。前回はたまたまうまくいっただけかもしれませんし、覚え間違いをしていたことだってあります。もっとこわいのは、年月がたつうちに、だんだんと記憶がゆがめられ、まちがった形で頭の中にとどまっている場合です。

「足をすくわれる」で覚えたはずなのに、「足下を見られる」とごっちゃになって、「足下をすくわれる」だと思い込むようなレベルの間違いはよくあります。これは別のことばの影響を受けてしまうパターンですが、「どんぐりころころどんぶりこ」が「どんぐりころころどんぐりこ」になるのは、直前のよく似た音にひかれて混同したのでしょうか。ひょっとして、作者があえて韻を踏んで作ろうとしたのか。そうであるなら、元祖ラッパー? 「汽車、汽車、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポッポ」と歌ってたやつがいましたが、汽車とハトを混同したのかもしれません。

2022年4月 7日 (木)

許してやったらどうや

「天衣無縫」はほめことばでしたが、「破天荒」という言葉はどうでしょう。豪快で大胆な性格を表す言葉として、他人からそう言われるとちょっとうれしくなるかもしれません。ところが、「天荒」は未開の荒れ地のことで、「天荒を破る」とは、今までだれもできなかったことを初めて行う、という意味になります。近い言葉は「前代未聞」や「未曽有」であり、「破天荒の試み」「破天荒な大事業」という形で使うのが本来でした。やがて、前人未到の境地を切り開く、というニュアンスからそういうことをなしとげた人物を評価する言葉として、「豪快」「大胆」の意味を表すようになっていったのでしょう。

文化庁の「国語に関する世論調査」を見ると、やはり言葉は常に変化しているということがよくわかります。最近、よく見聞きするのが「なんなら」という言葉です。もちろん、昔からある言い回しですが、意味が変わってきているようです。もともとは、相手の気持ちをおしはかって言う言葉で、「なんなら手伝いましょうか」のように、「必要があれば」「お望みならば」の意味で使います。あるいは反対に、相手が希望しないことを仮定する気持ちを表すこともあります。「ビールがなんなら、日本酒もありますよ」のように。要するに、相手が希望を言いにくそうなときに、「忖度」して、その希望に沿うようにしようと提案するときに使う言葉のようです。

ところが、最近では「彼はいつも10分は遅刻する。なんなら、1時間ぐらい遅れて来ることもある」とか、「うまくできなくてもかまわない。なんなら、まったくできなくてもよいぐらいだ」のように、前の状況よりそらに上の段階である時に使うことがあるようです。「さらに言うなら」という感じでしょうか。伝統的な使い方から見れば、「誤り」なのですが、言葉は生き物で、みんなが使えば正しくなります。古い使い方を知っている人には違和感がありますが、だいじょうぶ、そういう人たちが死に絶えればなんの問題もありません。

「課金」という言葉も、主語はどちらかということで、たまに話題になります。つまり、「課税」は税金をとることだから「課金」も金をとる側の行動になるはずだ、したがって「ゲームに課金する」と言って金を払うのはおかしい、という指摘です。たしかに「課」の意味から言うと、そうなりますが、相手側の行動について使われた言葉が自分の行動についても使われるようになった、と考えれば目くじら立てるほどのこともないのかもしれません。

意味が揺れている、と言うより、どっちの意味で使っているのかなと思う言葉があります。たとえば「置き忘れる」。これは、「置くのを忘れる」ともとれるし、「置いたまま忘れる」ともとれます。これなんかは文脈で意味を決定するしかありません。一方、これは変だなと思う言葉もあります。たとえば「いさぎよい」の反対で「いさぎわるい」と使ってよいかどうか。「いさぎが悪い」と考えるなら、「いさぎいい」という表現があってもよさそうなので、実際に使う人もいるでしょう。某大都市の市長が使っていたのを見た記憶があります。ただ、その場合、「いさぎ」とは何か、という問題が残ります。「いさぎ」という魚がいるのですが、まさかそれではないでしょう。これは「いさぎ+よい」ではなく、「いさ+きよい」だという説があります。ただ、その場合「きよい」は納得できるのですが、「いさ」とは何ぞやという、新たな疑問が生まれます。

結局、「いさぎよい」の反対語は何か。ぴったりあてはまることばはなさそうですが、強いて言えば「往生際が悪い」とか「未練がましい」になるでしょうか。まあ、「潔くない」というのが無難かもしれません。同じ「ない」で終わっても、「とんでもない」の「ない」は打ち消しではありません。むしろ、「はなはだしい」「たいそう~だ」という意味だそうです。そう考えれば「とんだ事件」「とんでもない事件」がほぼ同意になるのもうなずけますし、「とんでもありません」が誤用だと言われても納得できます。「せわしい」と「せわしない」の関係も同様ですし、「はしたない」も「はした」を強調しています。「あどけない」や「せつない」の「ない」もあてはまりそうです。

「とんでもありません」の誤用は、あまりにもよく聞くので、「許してやったらどうや」という気になるのですが、最近たまに聞く「目配り」と「目配せ」の混同はまだ許しにくいようです。前者は「注意をゆきとどかせること」であり、後者は「視線の動きやまばたきで合図すること」なので、「各方面に目配せして、事を進めていく」というのは変ですね。気づきにくい誤りというのもあります。某A新聞で「不要不急でない手術なんてない」という言い方について訂正していました。このミスは「不・ない・ない」の形になる三重否定なので、一瞬どっちなのかわからなくなります。「ない」「ない」を重ねるとわかりにくくなるのは「あるある」ですなあ。

同じく某A新聞夕刊の映画評で「フツーの人を演じたら右に出る者がいない松坂桃李」という表現がありました。まちがっているわけではないのですが、「フツーの人」の演じ方が傑出している、というのは、そこはかとないユーモアが漂います。「シロアリに食べられる」という表現にも出くわしたのですが、これもなんか変? まず「食べる」は「食う」に比べると、丁寧かつ上品なイメージがあります。語源的にも「食べる」は「神様から頂く」という意味なので、シロアリごときには使いたくない気がします。また、「完食」したわけでもなく、かじった程度でえらそうに「食べる」と言うなよ、という理不尽な文句もつけたくなります。実際には大きな被害になるのでしょうが。

テレビの料理紹介番組で、女性タレントが「おいしそう」と言うのは気にならないのですが、「食べたーい」と言われると、何か不愉快な感じがします。「おいしそう」は主観ではあっても、やや客観的要素があるのに対して、「食べたーい」はその人の欲望がむき出しになっているような印象を与えるからでしょうか。ところが、関西の吉本系の男性芸人が、がさつに「食いたーい」と言うのは「許してやったらどうや」になるのはなぜ? うーん、これは身勝手のそしりを受けても仕方がない…。

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