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2022年4月 7日 (木)

許してやったらどうや

「天衣無縫」はほめことばでしたが、「破天荒」という言葉はどうでしょう。豪快で大胆な性格を表す言葉として、他人からそう言われるとちょっとうれしくなるかもしれません。ところが、「天荒」は未開の荒れ地のことで、「天荒を破る」とは、今までだれもできなかったことを初めて行う、という意味になります。近い言葉は「前代未聞」や「未曽有」であり、「破天荒の試み」「破天荒な大事業」という形で使うのが本来でした。やがて、前人未到の境地を切り開く、というニュアンスからそういうことをなしとげた人物を評価する言葉として、「豪快」「大胆」の意味を表すようになっていったのでしょう。

文化庁の「国語に関する世論調査」を見ると、やはり言葉は常に変化しているということがよくわかります。最近、よく見聞きするのが「なんなら」という言葉です。もちろん、昔からある言い回しですが、意味が変わってきているようです。もともとは、相手の気持ちをおしはかって言う言葉で、「なんなら手伝いましょうか」のように、「必要があれば」「お望みならば」の意味で使います。あるいは反対に、相手が希望しないことを仮定する気持ちを表すこともあります。「ビールがなんなら、日本酒もありますよ」のように。要するに、相手が希望を言いにくそうなときに、「忖度」して、その希望に沿うようにしようと提案するときに使う言葉のようです。

ところが、最近では「彼はいつも10分は遅刻する。なんなら、1時間ぐらい遅れて来ることもある」とか、「うまくできなくてもかまわない。なんなら、まったくできなくてもよいぐらいだ」のように、前の状況よりそらに上の段階である時に使うことがあるようです。「さらに言うなら」という感じでしょうか。伝統的な使い方から見れば、「誤り」なのですが、言葉は生き物で、みんなが使えば正しくなります。古い使い方を知っている人には違和感がありますが、だいじょうぶ、そういう人たちが死に絶えればなんの問題もありません。

「課金」という言葉も、主語はどちらかということで、たまに話題になります。つまり、「課税」は税金をとることだから「課金」も金をとる側の行動になるはずだ、したがって「ゲームに課金する」と言って金を払うのはおかしい、という指摘です。たしかに「課」の意味から言うと、そうなりますが、相手側の行動について使われた言葉が自分の行動についても使われるようになった、と考えれば目くじら立てるほどのこともないのかもしれません。

意味が揺れている、と言うより、どっちの意味で使っているのかなと思う言葉があります。たとえば「置き忘れる」。これは、「置くのを忘れる」ともとれるし、「置いたまま忘れる」ともとれます。これなんかは文脈で意味を決定するしかありません。一方、これは変だなと思う言葉もあります。たとえば「いさぎよい」の反対で「いさぎわるい」と使ってよいかどうか。「いさぎが悪い」と考えるなら、「いさぎいい」という表現があってもよさそうなので、実際に使う人もいるでしょう。某大都市の市長が使っていたのを見た記憶があります。ただ、その場合、「いさぎ」とは何か、という問題が残ります。「いさぎ」という魚がいるのですが、まさかそれではないでしょう。これは「いさぎ+よい」ではなく、「いさ+きよい」だという説があります。ただ、その場合「きよい」は納得できるのですが、「いさ」とは何ぞやという、新たな疑問が生まれます。

結局、「いさぎよい」の反対語は何か。ぴったりあてはまることばはなさそうですが、強いて言えば「往生際が悪い」とか「未練がましい」になるでしょうか。まあ、「潔くない」というのが無難かもしれません。同じ「ない」で終わっても、「とんでもない」の「ない」は打ち消しではありません。むしろ、「はなはだしい」「たいそう~だ」という意味だそうです。そう考えれば「とんだ事件」「とんでもない事件」がほぼ同意になるのもうなずけますし、「とんでもありません」が誤用だと言われても納得できます。「せわしい」と「せわしない」の関係も同様ですし、「はしたない」も「はした」を強調しています。「あどけない」や「せつない」の「ない」もあてはまりそうです。

「とんでもありません」の誤用は、あまりにもよく聞くので、「許してやったらどうや」という気になるのですが、最近たまに聞く「目配り」と「目配せ」の混同はまだ許しにくいようです。前者は「注意をゆきとどかせること」であり、後者は「視線の動きやまばたきで合図すること」なので、「各方面に目配せして、事を進めていく」というのは変ですね。気づきにくい誤りというのもあります。某A新聞で「不要不急でない手術なんてない」という言い方について訂正していました。このミスは「不・ない・ない」の形になる三重否定なので、一瞬どっちなのかわからなくなります。「ない」「ない」を重ねるとわかりにくくなるのは「あるある」ですなあ。

同じく某A新聞夕刊の映画評で「フツーの人を演じたら右に出る者がいない松坂桃李」という表現がありました。まちがっているわけではないのですが、「フツーの人」の演じ方が傑出している、というのは、そこはかとないユーモアが漂います。「シロアリに食べられる」という表現にも出くわしたのですが、これもなんか変? まず「食べる」は「食う」に比べると、丁寧かつ上品なイメージがあります。語源的にも「食べる」は「神様から頂く」という意味なので、シロアリごときには使いたくない気がします。また、「完食」したわけでもなく、かじった程度でえらそうに「食べる」と言うなよ、という理不尽な文句もつけたくなります。実際には大きな被害になるのでしょうが。

テレビの料理紹介番組で、女性タレントが「おいしそう」と言うのは気にならないのですが、「食べたーい」と言われると、何か不愉快な感じがします。「おいしそう」は主観ではあっても、やや客観的要素があるのに対して、「食べたーい」はその人の欲望がむき出しになっているような印象を与えるからでしょうか。ところが、関西の吉本系の男性芸人が、がさつに「食いたーい」と言うのは「許してやったらどうや」になるのはなぜ? うーん、これは身勝手のそしりを受けても仕方がない…。

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