2023年1月22日 (日)

「きらず」は卯の花

前回のタイトルは「ディスる」の「ディス」はまさか「ディス・イズ・ア・ペン」の略ではないわな、という意味でしたが、調べてみるとどうやら「ディスリスペクト」らしい。そりゃそうでしょう。「ディスカバー」や「ディスカウント」では意味が通じない。いずれにせよ「ディス」には打ち消しのニュアンスがあります。「ディスカバー」は「カバーを外す」すなわち「発見」ということですね。

略語にしたときに元の言葉とは形が変わるものもあります。「スマートフォン」の略なら「スマフォ」です。いやいや「スマートホン」の略です、と言われれば「あ、そう」と答えるしかないのですが。「パニクる」も「パニックる」でしょ、と言いたいのですが、たしかにこれは発音しにくい。江戸時代にもなかなか大胆な略語がありました。「ちゃづる」なんて、いったい何のことだかわかりませんが、漢字で書くと、「茶漬る」となって、なるほどです。「茶漬けを食う」を「茶漬る」。

無意味に見える言葉にも、実は意味があるというものであるなら言霊が宿っても不思議はありません。では、本当に無意味な口癖のようなものはどうでしょう。たとえば「逆に」「て言うか」「要は」「早い話」なんて、よく使いますが、ほとんどの場合、無意味なことばになっています。「逆に」と言いながら何の逆にもなっていない。「早い話」と言いながら、かえって回りくどい言い方になっていたりします。「えーと」とか「まあ」とかもよく使う人がいます。この二つはどう違うのでしょうね。「えーと」はすぐにことばが出てこない感じがします。実際に出てこないこともあるのでしょうが、あえて使うことによって、実はちょっと言いにくいというような雰囲気をつくり、ストレートな物言いを避けていますよ、ということを伝えている場合もあります。そうなると「まあ」と同様に、ズバリ言わない「婉曲語法」の一種と見なしてもよいのかもしれません。そうなってくると、全く無意味な言葉というわけでもなさそうです。

世の中には「意味がありそうで実はない」、あるいは反対に「意味がなさそうで実はある」なんて言葉があるようです。さらに言えば「無意味な話」というのもあるかもしれません。天気についての話題なんて無意味なようですが、場つなぎの役割を持っていることもあります。では「笑い話」なんてのはどうでしょう。たわいない笑い話、「あなたはキリストですか」「イエス」のレベルの。こんなのはワハハと笑って終わりで、無意味といえば無意味です。でも、たわいないからこそ、瞬間ではあるものの楽しい気分になれます。たわいないからこそ私は好きです。

怪談なんてのはどうでしょうか。聞いて何のメリットがないにもかかわらず心ひかれるものがあります。怪談がブームだと言われて久しく、YouTubeなどでも怪談ものが人気のようです。本の形でも地味に出続けています。『新耳袋』というシリーズものがありました。今風の怪談を百物語形式で集めた本なので、短い話ばかりですが、結構インパクトのあるものも多く、なかなか面白いシリーズでした。タイトルの元となったのは江戸時代の南町奉行、根岸鎮衛の書いた『耳袋』という本です。根岸鎮衛は臥煙出身だったという噂のある人物で、臥煙というのは文字通り「火消し人足」のことです。そういう人の中には乱暴な者も多かったようで、臥煙イコール無頼漢というイメージもあり、根岸鎮衛も全身に刺青を入れていたとか。そういう意味で、「遠山の金さん」に近いところがあって昔から小説やテレビの時代劇で題材とされてきました。落語の「鹿政談」にも登場します。

奈良三条横町で豆腐屋を営んでいた与兵衛さんが、売り物の「きらず」を食べていた犬を殺してしまいます。「きらず」というのは「おから」のことで、豆腐と違って切らずに食べるということから来たそうな。ところが犬だと思ったのは実は鹿、奈良で鹿を殺すと死罪になります。そのお裁きを担当した奉行が根岸鎮衛で、何とか助けてやろうと思い、鹿の遺骸を見て、「これは角がないから犬だ」と言います。ところが、鹿番の役人が「鹿は春になると角を落とします」と異議を唱えます。根岸鎮衛は、「幕府から下されている鹿の餌代を着服している役人がいるという噂がある。鹿の食べるものが少なくなって、空腹に耐えかねて盗み食いをしたのかもしれない。鹿の餌代を横領した者の裁きを始めよう」と言いだします。身に覚えがあった役人が、犬であることを認めて一件落着。根岸鎮衛が与兵衛に「斬らずにやるぞ」と言うと「マメで帰れます」と答える、今時通じにくいオチ。

ただ、奈良奉行を根岸鎮衛としたのは三遊亭圓生だったらしく、桂米朝は川路聖謨にしています。根岸は奈良奉行を務めたことがなく、川路は実際に務めたようで、講談でも川路になっています。いまの神田伯山が、この話は面白くないと言いながらやっていました。宮部みゆきの『霊験お初捕物控』のシリーズでも、主人公のお初の理解者として、川路が登場します。お初が解決した奇妙な出来事を川路が『耳袋』に記すという設定になっています。『耳袋』とはそういう本なので、さぞかしおもしろいだろうと期待して読んだのですが、怪談以外の豆知識みたいなものもいっぱい書かれており、ストーリー性のある怪談あるいは怪異談はそれほど多くはありませんでした。

中国には『捜神記』という本があります。4世紀ごろに書かれたもので、さすがに全文を読んだわけではありませんが、ジャンルとしては「志怪」と呼ばれるもので、この場合「志」は「誌」と同じなので「怪をしるす」という意味になります。ところが、これも必ずしも怪異談だけではないらしく、神話めいたものから、たたりとか予言に関する話以外にもとんち話やお裁きものも数多く載っているようです。「志怪」が進化すると「伝奇小説」と呼ばれるようになります。清代初期の『聊斎志異』となると、これは怪異談中心です。作者である蒲松齢は「聊斎」という号を名乗っているので、『聊斎志異』とは「聊斎が異をしるす」という意味になります。日本で「伝奇物語」と呼ばれるのも空想的、幻想的な傾向の強い物語ということで、平安時代の『竹取物語』『宇津保物語』『浜松中納言物語』などをさします。歌を中心とした『伊勢物語』『大和物語』などの「歌物語」との対比で使われることばです。でも、今なら「ファンタジー」と言うほうがぴったりかもしれないなあ。

2023年1月13日 (金)

「ディス(イズアペン)」?

前回の答えは「仏足石」です。お釈迦さまの足跡を石に刻み、それを前に置いてお釈迦様が立っている姿をイメージして祈ったそうな。こうすれば当然偶像をつくったことにはならないのでOKですね。お釈迦様は扁平足だったのか、平たい足跡の真ん中に円が描かれ、そこから放射状に線がのびています。足の指もなぜか長く、指の間に水かきのようなものがあったことを表すために魚の絵がかかれていたりします。インドだけでなく、日本にもあります。有名なのは薬師寺の国宝になっているもので、歌碑とともに安置されています。歌碑には五七五七七七の形式の歌が書かれており、これを仏足石歌と言います。

でも、いつのまにかイメージするのが面倒になったのでしょうか、仏像がつくられはじめます。立像だけでなく坐像もあり、涅槃像と呼ばれる、お釈迦様の寝姿をかたどったものもあります。寝姿というより、なくなったときの姿ですね。足の裏の模様を見ることもできるので、見る機会があれば是非どうぞ。大仏というと坐像を思い浮かべますが、大きな仏像であれば大仏なので、立像であってもかまいません。お釈迦様の身長が一丈六尺だったということになっているので、それに合わせた仏像を「丈六仏」と呼び、それより大きいものなら大仏です。坐像の場合はその半分の大きさですが、「一丈六尺」というのは約4.8メートルになり、いくらなんでもお釈迦様、そこまでデカいわけではないでしょう。ただし、時代によって「丈」「尺」の長さが変わるらしく、なんとも言えませんが。

有名な大仏といえば、なんといっても、奈良と鎌倉です。では、どちらが先にたったか、というしょうもないクイズがあります。答えはどちらもすわっているので「たって」いない、というもの。こういうばかばかしいクイズでもおもしろがる6年生は幼稚なのか純真なのか。では、今の奈良の大仏は何代目か、というとこれはきちんとした歴史クイズになりそうです。奈良時代に創建されたあと、源平合戦のころ平重衡によって南都が焼き払われ、後白河上皇の命令で重源により再建されます。ところが、室町時代にまたもや戦火に焼かれます。これは松永久秀ですね。『常山紀談』に、信長が久秀のことを「主家乗っ取り、将軍義輝暗殺、東大寺大仏殿焼失という三悪を犯した老人だ」と紹介したという話があります。そして綱吉のころに再建され現在にいたるので、三代目ということになります。ただし、江戸初期には木造銅板貼りで臨時にしのいだらしく、それを入れると顔は四代目だとか。

いずれにせよ創建当時のものではなく何度も修復されたものです。聖武天皇のころのものではなく、江戸時代のものだと言われても、ありがたく感じるのかと言われると困りますが、修復されたものであっても、人はみなありがたがって拝むのですね。いったい何が「ありがたい」のでしょうか。考えてみれば、銅か青銅かを素材にして、創建当初は金メッキをしていたようですが、要するに金属の塊にすぎません。それを素材にしてつくられた「形」を拝むわけですね。さらに言えば、その形にこもるであろう「魂」に祈るのでしょう。それは仏の魂であると同時に長い年月の間に積み重ねられた人々の思いがこめられたものです。いわば、形づくられた集合体の魂がありがたさの源なのかもしれません。

つまり、金属でできた像そのものがありがたいのではなく、人間の主観によってありがたさを感じているということですね。お経だって、ただの言葉です。それをありがたいと思うのは人の心です。逆に言えば、言葉で人をあやつることは意外に簡単だということでしょう。「呪」というのはそういうものです。この場合、「呪」は「のろい」ではなく「しゅ」と読みます。呪とは「ものの根本的なありようを決めることば」だそうです。最も短い呪は名前でしょう。固有名詞とはかぎりません。「先生」と呼ばれる人は、先生としてのふるまいを求められるし、自分でも無意識のうちに先生らしい行動をとろうと考えます。芸名もいかにも芸名らしい華やかな名前が多いのですが、その名に恥じないような行動をとろうとするでしょう。襲名という形で過去の立派な先輩の名前を譲り受けるのも、その人のようになりたいと考え、その人のようなふるまいをしていこうと思うのですね。「名は体をあらわす」と言いますが、体が名によって縛られるというほうがふさわしいかもしれません。古本屋兼拝み屋の京極堂が活躍する京極夏彦のシリーズにはいつも呪が登場します。というより、それがむしろ主題になっています。京極堂が憑き物落としをすることで、その呪は解かれ、結果的に妖かしも消えます。

子どものときにきつく言われたことばがトラウマになることがあります。これも呪でしょう。逆に、いい方向に自己暗示をかけることによって、自分自身が変わっていくこともあります。イメージトレーニングというのも同様でしょう。特に、日本人の場合、言葉を使って呪をかけるのが有効なのは言霊信仰のせいかもしれせん。また、真言というものがあります。「真実の言葉」という意味で、サンスクリット語では「マントラ」と呼ばれます。マンは「心」を意味し、トラは「解放」という意味らしいですね。たとえば「ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダン・マカロシャダヤ・ソハタヤ・ウンタラタ・カンマン」と唱えるだけで心が解放され、それがきっかけとなって最終的に災難や苦難から逃れられることになります。

ただ、日本人には真言の言葉の意味はわかりません。それでも威力があるのですね。極端な場合、お経の中身を知らなくてもお経のタイトルを唱えるだけでも効果があるとされてきました。「南無」「妙法」「蓮華経」と言うだけでもよいというのはすごいことです。ということは略語でもOKということでしょう。「あけおめ、ことよろ」なんてひどいことばでしたが、実は新年を祝う気持ちは言霊として十分宿っていたのですね。単独で「ことよろ」なんて言われても何のことだかわかりませんが。「あけおめ」とセットなら「今年もよろしく」だなとわかります。略語の中には元の形がわかりにくいものがありますね。筋トレなどはよく使いますが、「筋力トレーニング」なのか「筋肉トレーニング」なのか。「ディスる」の「ディス」は何の略なのでしょう。

2022年12月18日 (日)

明日のこころパート2

前回のタイトル「明日のこころ」というのは、昔聞いていた『小沢昭一の小沢昭一的こころ』というラジオ番組の最後のフレーズが「この続きはまた明日のこころだぁ!!」をふと思いだしたのでつけてみました。そんな古いの、だれが知ってるねん!

で、「新本格」についてです。推理小説の原型と言われるのが、エドガー・アラン・ポオの『モルグ街の殺人』で、そのあと、コナン・ドイルやチェスタートンを経て、アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ディクスン・カーなどの長編本格ミステリが生み出されます。日本の推理小説では、なんといっても江戸川乱歩の名前が大きいのですが、「本格」と呼ばれるものは戦後の横溝正史が中心になるでしょう。豪邸の密室や孤島で起きる不可能犯罪に名探偵が挑む、というタイプが「本格」と呼ばれるものです。いわゆる「探偵小説」ですね。ところが時代とともに陳腐化し、リアリティのなさからも衰退していきます。そして登場したのが松本清張でした。社会派推理小説の誕生です。これは確かにリアリティがありました。しかし、当然のごとく「ワクワク感」がありません。みんなが社会派に飽きたころに起こったのが横溝正史ブームでした。『八つ墓村』はそれ以前に「少年マガジン」に載った影丸譲也による漫画で知っていたので、その二、三年後に角川文庫で出たときに、「ああ、あれか」と思い、すぐに読んだのですが、世の中ではあっという間にブームになりました。

もちろん、本格ミステリが完全になくなっていたわけではなく、都筑道夫や土屋隆夫などは、魅力的な作品を書き続けていました。で、横溝ブームをきっかけとして、「幻影城」という雑誌が創刊されました。四、五年で廃刊になってしまいましたが、探偵小説専門という、なかなかのすぐれものでした。泡坂妻夫や連城三紀彦がデビューしたのは、この雑誌からだったと思います。その後、綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』が出ます。「孤島の屋敷で起こる連続殺人」という、本格ものの王道で、ここから「新本格」と呼ばれる波が起こったのでした。やっと元にもどった。あー、しんど。

ただ、「新本格」の人たちは、トリックや構成はなかなかおもしろいのに、文章がウーンという人が多く、かなり読んだのに作品名が思い出せないのは、単に年をとってボケてきたからではないでしょう。中井英夫の『虚無への供物』など、今でもところどころ覚えている部分もあるぐらいで、文章がうまかった。『幻想博物館』『人形たちの家』など、耽美的な作品を数多く残しています。そういう人に比べると、新本格派は言葉のチョイスが雑な感じがして残念でした。

最近読んだもので、それほど期待しなかったのに意外に面白かったのは深緑野分という人。外国を舞台にした戦争もの、『戦場のコックたち』『ベルリンは晴れているか』は翻訳を読むような感じで、なかなかの文章力、構成力を感じさせました。『戦場のコックたち』は、主人公がアメリカ陸軍のコック兵で、ヨーロッパ戦線で戦いながら、「日常の謎」を解き明かすミステリーなのですが、最終的にはなかなか重厚な作品になっています。『ベルリンは晴れているか』は、ナチス・ドイツの敗戦後、恩人が不審死を遂げ、その殺害の疑いをかけられたドイツ人の少女が無実を証明するために、米ソ英仏の統治下に置かれたベルリンに向かうという話です。タイトルは、ナチス・ドイツがパリから敗退するときにヒトラーが言ったとされる言葉「パリは燃えているか」が元で、こちらは映画の題名にもなりました。ジャン・ポール・ベルモンドやアラン・ドロン、シャルル・ボワイエ、イヴ・モンタン、カーク・ダグラス、グレン・フォードなどが出ている超大作でした。

この二作がすばらしかったので期待して読んだ『この本を読む者は』は、同じ作者のものとは思われない作品でちょっとがっかり。ジャンルがまったく違うので、逆にどう持って行くのだろうと思ったのですが…。外れが全くない人というのもまあいないわけで、キングなど比較的安定していますが、それでもたまにがっかりということもあります。北欧の小説は比較的よいものが多く、スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』は言うまでもなく、警察小説がいいですね。「マルティン・ベック」や「特捜部Q」、「クルト・ヴァランダー」のシリーズは非常におもしろい。「刑事ヴァランダー」のドラマも見応えがありました。BBC放映で、なんと主演はケネス・ブラナー。ローレンス・オリヴィエの再来と言われるシェークスピア俳優で、「ハリーポッター」ではロックハート先生を演じていました。

いわゆる推理小説の中でも名探偵ではなく、刑事が主人公になるものを警察小説と言います。本来地道な捜査をするのが刑事ですから、小説もやや地味めのものになります。日本では、横山秀夫が今最も売れています。『半落ち』『クライマーズ・ハイ』『臨場』『64』などが有名で、映像化された作品も多数あります。木村拓哉が主役を演じたのは、長岡弘樹の『教場』で、これも渋くてなかなかのものです。『教場』はまた月9でドラマ化されるようです。サングラスというより色つき眼鏡をかけた白髪の警察学校教官役のキムタクへの評価もなかなか高かったそうです。「何をやってもキムタク」と言われていたのが、チャラい感じを一切出さずに新境地を開いたわけですが、いつまでも「アイドル」というわけにもいかないでしょう。

日本でアイドルと言えば「熱狂的ファンを持つ『若い』歌手やタレント」ということでした。昔は「若い」という条件が必要だったのですが、いつしかアイドルの「高齢化」が始まりました。とくにジャニーズは「おっさんアイドル」だらけです。いくつまでアイドルとして存在できるのでしょうか。もちろん、加山雄三なんかは若大将と呼ばれ続けて、いつのまにか80歳をとっくに越えていますが。もともとアイドルは「偶像」という意味でした。宗教の中には偶像崇拝を禁止するものが多く、イスラエルの神から生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教もその例にもれません。仏教も実は禁止していました。お釈迦様は仏像をつくるなとおっしゃったらしい。でも、拝むときに何もない空中へ向かって、というのもつらいので、昔の人はある工夫をしました。その工夫とは? これもまた明日のこころだ!

2022年12月 7日 (水)

また明日のこころ

前回、「先祖」と書きましたが、これは「祖先」とどう違うでしょうか。「祖先は八幡太郎義家だ」と言うと「家系の初代」という意味ですが、「祖先を祀る」と言うと「初代から先代までの人々」ということになるでしょう。一つの家からスケールを大きくすると、「人類の祖先」「哺乳類の祖先」のような使い方もできます。「現在まで発達してきたものの、元のもの」という感じでしょうか。「先祖」にも「家系の初代」や「初代から先代までの人々」「その家系に属していた人々」といった意味合いがありますが、「人類」レベルで使うことはあまりなく、個別の家系をさすことがほとんどのようですし、「祖先」に比べて口語的表現という感じですね。「万世一系」と言いますが、いずれにせよ、どの人にも祖先がいて、脈々とつながっているわけです。 今年は春日大社の式年造替にあたっています。伊勢神宮の式年遷宮と違って、建て直しではなく、修理をするのですね。人が親から子、子から孫とつながっていくのに対して、建物はこわれますが、中にはこういう風に修理しながら、ずっと続いていくものもあります。ちなみに、伊勢神宮が国宝になっていないのは建て直しをするからだと言います。国宝ともなると、むやみに作り替えてはいけないので、あえて国宝にならないようにしているということでしょう。春日大社は伊勢神宮に比べると新しいとはいうものの、それでも奈良時代に創建されています。藤原一族の氏神ですが、鹿島・香取の両社も同じく藤原氏の氏神で、こちらは特に武芸の神として有名です。剣術の道場に「鹿島大明神」「香取大明神」と書いた紙がぶら下がっています。時代劇でよく見ますが、この紙は道場以外ではや○ざの親分の部屋にあったりします。これも映画などで見るだけで、入ったことはありませんが…。任侠の世界に生きる人たちにとっても荒ぶる神は尊崇の対象なのでしょう。 千葉周作は北辰を信仰していたということをだいぶ前に書いたような気もしますが、この人が千葉氏の一族であるなら『鎌倉殿の13人』の岡本信人の子孫ということになりますね。千葉氏は坂東八平氏の一つです。桓武天皇の子孫である高望王が臣籍降下して、平朝臣を名乗ります。「平」は桓武天皇の平安京にちなんだと言われます。平高望が上総介になって下向すると、その子供たちも各地に勢力を伸ばしていき、さらにその子孫が坂東各地で千葉氏や、相馬氏、上総氏、三浦氏などに分かれて、八つの大きな家が生まれます。これが坂東八平氏と呼ばれるものです。 千葉氏は大きな一族でしたが、戦国のころは衰えて大名にはなれませんでした。一方、相馬氏は平将門の血筋ということになっていますが、なぜか大名として江戸時代まで生き残ります。その相馬氏の家令を務めていた志賀直道はお家乗っ取りを謀った大悪党だと言われます。「相馬事件」と呼ばれ、星亨や後藤新平もからんできて、なかなかスケールの大きな事件になります。星亨は「押し通る」とあだ名されたぐらいの剛腕政治家で、隻腕の美剣士伊庭八郎の弟である伊庭想太郎という男に暗殺されました。後藤新平も、その大胆な構想から「大風呂敷」とあだ名された大物政治家です。杉森久英の『大風呂敷』という伝記はなかなかおもしろかった。角川文庫で読んだのですが、もともと新聞小説だったらしく、挿絵もはいっていました。そのころの角川文庫は新潮の文庫のきどった活字と違って、やや太めの角張った活字のものがあり、とてもいい感じでした。杉森久英は『天皇の料理番』の作者で、伝記でおもしろいものがたくさんあります。 さて、相馬事件の立役者、志賀直道の孫が直哉です。兄が早世したため、家系を絶やさないように祖父母が直哉を育てると言い出し、幼いころの直哉は祖父母に溺愛されて育ちました。小学校卒業のころに実母が亡くなり、父親が再婚します。そのあたり、『母の死と新しい母』という作品に描かれています。この作品は、ときどき入試にも出ていました。そして祖父や父に対する複雑な心情から生まれた作品が『暗夜行路』です。その志賀直哉は昭和46年まで生きていたのですから、江戸時代といっても、そう古くはないわけですね。ということで、前回の流れと結び付く話になってきました。 志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎らは白樺派と呼ばれます。イメージだけで大胆に分類すると、学習院から東京帝国大学が白樺派、早稲田が自然主義、慶応が耽美派、というところでしょうか。実際には自然主義の島崎藤村も田山花袋も早稲田ではないのですが、自然主義の考えを理論的に支えたのが「早稲田文学」という雑誌です。慶応大学から生まれたのが「三田文学」で、ロマンティック路線であり、それを突きつめると、「耽美派」になります。ただし、耽美派の永井荷風も谷崎潤一郎もやはり慶応出身ではないのですが…。 今や永井荷風はほとんど読まれなくなっていますし、谷崎も同様です。漱石と芥川は別格として、明治大正の作家はもはや過去の人なのでしょう。最近著作権の切れた人に山本周五郎がいます。俗っぽいけれど、やはり今読んでも面白い。新潮文庫で出ていたものは高校生のころすべて読みました。本は処分しましたが、ネットの青空文庫でまた読めます。青空文庫は無料で利用できるのでおすすめです。小酒井不木や浜尾四郎、小栗虫太郎などの推理もの、海野十三のSF、林不忘、野村胡堂の捕物帖、佐々木味津三の退屈男、国枝四郎の伝奇もの…、夢野久作のドグラマグラも読めます。 最近、外国作品でゴシック・ロマン調のものを読みました。ケイト・モートンというオーストラリアの作家で、『忘れられた花園』『秘密』『湖畔』の三作を読んだのですが、いずれも上下巻に分かれており、なかなか読み応えがありました。「ゴシック・ロマン」というのは、18世紀末ぐらいに流行した神秘的、幻想的な小説で、今のSFやホラー小説の源流とも言われるものです。ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』やナサニエル・ホーソンの『緋文字』もその流れですし、エドガー・アラン・ポオは言うまでもなく、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』も同じ系譜です。ケイト・モートンのものはその雰囲気を生かした作品で、日本で言えば、「新本格」みたいなものかもしれません。「新本格」については長くなるので、続きはまた次回のこころだ。

2022年11月13日 (日)

今こそ島への愛を語ろう④~ジャワ島~

 ジャワといえばジャワカレーですが、ジャワ島の食べ物は実のところ全然辛くありません。ガドガドなんていうサラダ食べればわかりますけど、エスニックといえばエスニックではありますが、いわゆるインドとかタイとかの感じではありません。甘~いピーナッツソースがかかっています。
 もちろんインドネシア全体でいえば辛い料理もあります。パダン料理がそうですね。ジャカルタのデパ地下で食事したときに連れがこのパダン料理を食べてあまりの辛さに泣き出し、まったく往生しました。あわててパイナップルジュースを飲ませたら少し落ち着きましたが、まさか辛いからといって泣き出す人がいるとは思わず、焦りました。
 パダン料理というのはスマトラの料理です。スマトラといえば、大学のときの友人K君(前回に引き続き登場)が結婚したのはスマトラの人だということです。フィールドワークに行った村で知り合ったそうです。素敵な話です。K君は一見すごく常識的で良識派で温厚な人で、僕なんかと仲よくなりそうにない人だったのですが(K君を紹介するとみんな何でこんないい人が西川の友だちなのかと失礼なことをいいます)、実のところ僕なんかよりはるかに深く静かにいかれた人です。悪口ではありません。好きだといっているのです。前にも書きましたが、一緒に韓国に行った人です。あの韓国旅行は最低中の最低だったわけですが、それはもちろんK君のせいではありません。K君にはほんとうに悪いことをしたと思っています。すべて私が悪いのです。でも、くり返しになりますが、何があったか書きませんよ。なんたって、韓国は島じゃなく半島ですからね。私はテーマを大事にする人間ですからね。もちろんK君のどこがいかれているかも書きません。私は友人を大事にする人間ですからね。
 K君とは山形の立石寺にも一緒に行きました。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」という芭蕉の句で有名な「山寺」ですね。一緒に行ったというか、夏休みに自動車の運転免許を合宿でとったのですが、そのとき一緒だったんです。で、その宿が立石寺のそばにあったのです。
 立石寺は九十九折りのものすごい参道を上った先にあるのですが、もうかなり上ったところで右に入る小道があり、なんとなく行ってみると、ロープがかかっていて、立ち入り禁止と書かれていました。
「おや、立ち入り禁止と書かれているよ、西川君」
「ほんとうだね、K君」
「行ってみようか西川君」
「う、うん、行ってみようか、K君」
 というわけで二人でロープをくぐって登山道のような道を登っていくと、立石寺の全景を見渡せる素晴らしい場所に出ました。修験者が修行のために使う道だったようです。
 ちなみに立石寺は縁切寺でもあります。私の知り合いのカップルがそれと知らずに行き、その後すぐに別れました。
 しまった、ジャワの話でした。ご存じのようにあちら(東南アジア)では右手を使って食事をします。そういう現地の風習のとおりにするのが私は好きなのでがんばって右手で食べようとするわけですが、つらかったのがアヤム・ゴレンです。鶏をまるごと(ではないけれど大きいまま)揚げたようなやつで熱々です。片手でなんか食えるかっちゅう話です。どうすんねんこんな熱いやつ! と思って周囲の現地人を見ると、意外と柔軟に左手とかフォーク使ったりしてました。なんだよ! と思いましたけどね。
 インドネシア語勉強したなあ。K君に良い参考書を教えてもらって半年ぐらい頑張りました。インドネシアには2回行っていて、2回目に行ったときもやはり半年ぐらい勉強し直したので、計1年勉強しています。そんなに頑張ったのにもうまったくおぼえていません。ただ、いつか使うこともあるかと思って、※Saya sudah pernah belajar bahasa Indonesia. Tetapi saya sudah lupa. というフレーズだけおぼえておくようにしています。まちがっておぼえてるかもしれませんが。ああ、いつかインドネシアの人に言いたい! でも、ほんとうに、最もよくインドネシア語が頭に入っていたときには、英会話よりはできていたんです。そのぐらい英会話ができないのです! 空港で現地の人に英語で話しかけられてインドネシア語で返事したらうれしそうな顔をされました。そりゃそうですよね。海外に行ったらできるだけ現地の言葉でしゃべりたいです。英語なら通じるから英語で、なんていうのは、大英帝国の植民地支配を追認するみたいでいやです。なんていう理窟をぶちぶちごねごねするぐらい英語ができないのです。というわけで、まだしもインドネシア語の方がましでしたという話です。日本からスラウェシまで電話してインドネシア語で車をチャーターする予約とかできましたからね、えへん、ぷい。

※ わたしはかつてインドネシア語を学びましたが、もう忘れました。

2022年11月 4日 (金)

古墳に墓参り

有栖川宮詐欺事件とは、二十年ぐらい前に、有栖川宮の名を詐称して偽の結婚披露宴を開催して、招待客からご祝儀をだましとったという、ちょっと笑えるような事件です。有栖川宮家は跡を継いだ弟の代で断絶しているのですが、平成の時代でも有栖川宮という名前の威力は大きかったのですね。芸能人など、なんのつながりもないのに、宮様から招待されたと思って出かけていった人が結構いたようです。ちなみに有栖川有栖という、ふざけた名前の小説家がいますが、もちろん本名ではありませんし、有栖川宮とも何のつながりがあるわけでもありません。自分の通っている同志社大学の近くに有栖川邸跡があったので、それをペンネームにしたらしい。下の名前は、「不思議の国のアリス」も意識したようです。

ところで、有栖川宮率いる東征軍の行進は「ナンバ歩き」だったのでしょうか。これは、右手と右足、左手と左足をそれぞれ同時に出す歩き方で、よくわかるのは歌舞伎の「六方」ですね。弁慶が同じ側の手と足を動かして花道を飛ぶように歩いていきます。江戸時代の忍者や飛脚は、一日に50里の距離を走ったと言います。単純に一里を4キロと考えても、200キロになります。フルマラソンが、42.195キロで、走ったあとフラフラになっているのですから、これは驚異的な距離です。ただ、左右の手足が同時に出るナンバで走ると、体をねじらないし、大きく手も振らないので、余計な力を使わずにすんで疲れにくいそうな。

秀吉の「中国大返し」のときもナンバだったのでしょうが、幕末から明治のかけての軍隊となると、外国式の軍事調練をしていそうです。ということは現在のように、右手と左足、左手と右足を同時に出す行進だったのでしょう。東征軍は「ナンバ歩き」ではなかったと考えるべきかもしれません。「外国式」と言いましたが、政府軍ならイギリス式、幕府軍ならフランス式という違いがあったようです。ただし、フランス軍というのは実は弱かったそうです。ナポレオンだけが突出して強かったのかなあ。それ以降、普仏戦争も第一次大戦も第二次大戦も負け続けています。「戦えば負けるフランス軍」などと悪口を言われますが、どれも相手がドイツで強すぎたから、ということもあるでしょう。

日本では戦国時代最強と言われたのが上杉謙信率いる越後兵ですが、対抗する甲斐の武田兵にしても共通する弱点がありました。彼らは基本的には農民なので、稲刈りの時期は使えなくなるということです。戦争が長引いても、秋になると兵をひかざるをえなかったわけです。弱かったと言われる尾張の兵を率いた信長が勝利を収めていくのは専業武士団を作ったからであって、それまで武士の実態は農民だったのですね。そのあたりは大河ドラマの『鎌倉殿の13人』を見ているとよくわかります。源頼政の挙兵が失敗したあと、伊豆国の国司の座は平時忠に移り、目代として山木兼隆が赴任します。大河の初めのほうで、北条時政は義時を連れて、兼隆に挨拶をするためにやってきますが、兼隆の代わりに対応したのが後見の堤信遠でした。そのとき、時政は手土産として野菜を持参するのですね。ところが、信遠は野菜を踏みつけて、ナスを時政の顔に擦りつける、という場面がありました。自分の土地でとれた野菜をもっていくあたり、武士の本質は農民だったのだと感じさせられます。だからこそのちに刀狩までして「兵農分離」をしたのでしょうね。

「一所懸命」ということばが示すとおり、武士が土地に命をかけたのもうなずけます。名字が地名になるのも土地との結びつきを表すためだったかもしれません。そうすると、徳川幕府の命令による移封は彼らにとってはつらかったでしょうね。江戸期になると、そこまでの土地との結びつきはなかったでしょうし、移封後の年月が重なるにつれて、その土地の気風と結び付くということはありました。上杉家は秀吉の時代に越後から会津120万石に移され、関ヶ原で敗れたあと、米沢三十万石に減封されます。苦しい財政を建て直したのが、十代目藩主の上杉鷹山ですね。「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」は、鷹山が子供にのこした言葉です。米沢という土地との結び付きから生まれた言葉でしょう。上杉家は今でも残っています。ちなみに、現在の上杉家の当主は有名な宇宙工学博士ですね。

秀吉の軍師と言われた黒田官兵衛の家はもともと備前国の福岡というところの出なので、関ヶ原の戦功で筑前国を与えられたとき、それまで博多と呼ばれていた地域に城を築き、祖先の地にちなんで福岡城と名付けます。那珂川をはさんで城下町のほうを「福岡」、反対側を商人の町として「博多」と区別していたのが、明治になって統合されます。そういういきさつのせいか、博多の人々は黒田家をあまり好きではなかったと言います。黒田家とは土地との結び付きがうまくいかなかったということとでしょうか。

八幡太郎源の義家の弟である新羅三郎義光の子孫が甲斐に土着したのが武田氏で、常陸国で栄えたのが佐竹氏です。秀吉の時代には五十万石を超える大大名として認められますが、のちに関ヶ原で中立的な立場をとったために、出羽国への国替えを命じられます。こうして佐竹家は江戸時代を通じて、久保田藩を支配することになります。久保田藩が秋田藩と改称されるのは、実は明治になってからですが、その秋田県の知事を務めているのが佐竹敬久さんですね。つまり昔の殿様の子孫が、今でも県のトップになっているわけです。そういえば井伊家の子孫も彦根の市長になっていましたね。

そう考えると、江戸時代はけっして古くありませんし、歴史の流れというものは途切れずにずっと続いていることがわかります。昔からの連続性ということで言えば、たとえば古墳は単なる遺跡ではなく、天皇家にとっては祖先の墓ということになりますね。エジプトのピラミッドとは、ここが決定的に違います。もちろん、一般庶民が先祖の墓参りをするように天皇が仁徳天皇のお墓に毎年墓参りに行くということはないでしょうが…。いや、行っているのでしょうか? いずれにせよ、一般庶民とちがって、天皇家は先祖のお祀りも大変なようです。

2022年10月21日 (金)

今こそ島への愛を語ろう③~台湾その3~

 で、その、台湾なんですが、正直いうとあまり記憶にないのです。いや、ないわけではないんですが、「島への愛」とは全然関係ないというか。確かに島ですけど、そんなこといったら、北海道だって九州だって四国だって本州だって島じゃん、て話です。だから、島への愛とは関係なく、台湾の思い出なぞ語ってお茶を濁したいと思います。
 当時の台湾は物価が安くて素敵でした。今頃になって日本でも人気のルーローハンですが、当時台湾の下町だと、豚汁的な(いやたぶん全然ちがうんですけど)汁物とセットで180円くらいでしたね。そのときいっしょに下町をぶらぶらしていた三人のうちの一人(英語の先生でした)は、後に歌手になりました。「ホーム」という歌がヒットした木山裕策さんです。木山さんは覚えていらっしゃらないかもしれませんが、いっしょに台湾の下町をぶらぶらした仲です。センシティブな方だったので、下町の匂いの凄まじさに具合が悪くなり、早々にホテルに戻られました。だから、その後喫茶店でトイレの場所を教えてもらおうと筆談を試み、店員に「何処在厠?」と書いた紙を見せ「はあ?」という顔をされたときにはいらっしゃらなかったような。今にして思えば「何処在厠」が通じるわけないのですが、何だかバカバカしくて良い思い出です。
 この台湾社員旅行が私にとって初めての海外旅行だったのですが、海外っていいなあと思いました。植生とか風習とかがちがうので、わあ遠くに来たなあと感じるのがよかったです。たとえば、当時の台湾は、檳榔の実をくちゃくちゃ噛んではそのあたりに吐き捨てる人がたくさんいました。そういうのもなんだか新鮮で、バスガイドのお姉さんに「わしも檳榔の実がほしい」と訴えると、そんなことをいう日本人は珍しかったみたいで、にこにこしてお店に連れて行ってくれたのだったか、ちょっとこのあたり記憶が曖昧ですが、もしかしたらバスガイドさんがビニール袋にいっぱいくれたのだったかもしれません。なにしろ、檳榔の実をゲットして嬉しくなってくちゃくちゃしていたのをおぼえています。
 この旅行で海外の素晴らしさに目覚めた私は次に韓国に行ったわけですが、とにかくこの旅行が最低でした。韓国が悪いわけではありません。もちろん韓国の人が悪いわけでもありません。すべてが自業自得ではありましたが、とにかく最低の旅行でした。一緒に行ったK君(現・某国立大学教授)には悪いことをしたなあと思っています。何があったかは書きません。なぜなら韓国は島じゃありませんからね。この文章のテーマは「島への愛」ですから。
 というわけで、次回の島はジャワ島です。実をいうとその前にやはり前職の社員旅行でワイハーに行っているのですが、これも割愛します。食い物があまりにもまずいために食欲をなくし餓死するんじゃないかと思ったという記憶しかありませんからね。

2022年10月 7日 (金)

今こそ島への愛を語ろう②~台湾その2~

 今は昔の話ですが、何もしたくなかった私はずるずると七年半近く(十八歳から二十五歳まで!)仙台にいました。と書き始めたのが運の尽きで、前回は台湾の話にたどり着きませんでした。
 そうです、七年半仙台にいて、何となくしかたなく帰阪し就職した、というところから台湾の話を始めようとしたのです。なのに、うっかり井月の句なんか紹介したせいで、話が脱線したまま戻りませんでした。恐るべし井月。恐るべし亀之助。
 就職したのは、当時京阪沿線で主に公立高校受験の実績を伸ばしていた某進学塾です。新聞の求人欄を見てとりあえず電話したらいついつに来いと言われて、行ったら即筆記試験を受けさせられ、試験が終わったらその試験問題で模擬授業をさせられ(思えば生まれて初めての授業でした)、その場で「採用ね」といわれました。
 このようにあれよあれよというまに就職したら、出勤初日に「一か月後に社員旅行で台湾に行くからパスポートとってね」と申し渡されたのです。めまいがするような急展開です。思えば仙台から大阪に帰ってきたのが9月のはじめで10月には台湾です。そもそもその帰阪というのもなかなか普通ではなく、5日かけて(実質的には2日半)国道6号線と1号線を原チャリで走り抜いて帰ったのです。
 初日は6号線を仙台から水戸まで走り、ビジネスホテルに泊まりました。
 そして、「雨のルート6」という詩?をつくりました。

   雨のルート6

姥桜の「姥」は ウンババウンババ
今日俺は雨の中 ウンババ言いながら単車転がしたら
右折しそこねたものさ

今日もウンババ
明日もウンババ

 何でこんなくだらないものを書いてしまったのか、まったく記憶にありません。なのに暗唱できるというのがまことに不思議です。
 2日目は東京の友人の家に泊めてもらいました。
 3日目は東京でふらふらしていました。
 4日目は東京から1号線を関ヶ原まで突っ走り、関ヶ原駅舎の壁にもたれて眠りました。寝袋持っていたので。
 5日目にようやく大阪の実家まで。
って感じです。
 1号線をずっと原チャリで走るというのは恐怖以外の何ものでもありません。意地悪なトラックの運転手がいて、僕の原チャリの横を併走し続けるのです、わざわざスピードを落として、追い抜きもせず、地響き立てて。何であんなに根性ばばちゃんなんでしょう? いずれにせよ、静岡に入る頃には原チャリのエンジンが明らかに不調になり、スピードが落ちました。わざわざ箱根を迂回して休み休み走っていたのですが、それでもダメでした。

 は!? わたしったら何の話をしてるんでしょう? なぜ「雨のルート6」などという人生の恥部をさらしているんでしょう? 台湾の話はどこへ? というわけで、台湾の話は次回、その3で!

2022年9月28日 (水)

今こそ島への愛を語ろう①~台湾その1~

 只居ても腹は減る也春の雪   井月

 今は昔の話ですが、何もしたくなかった私は、ずるずると七年半近く(十八歳から二十五歳まで!)仙台にいました。「何もしたくなかった」というのは、今となってはそう思うという話で、仙台にいた頃の自分は、わしにはやりたいことがある! と信じていました。「ほしいものがほしいわ」という当時のパルコのコピーふうにいえば、「やりたいことがやりたいのだ」って感じでしょうか。「で、何がやりたいのだ」と自問すると、そのときどきで場当たり的な答えしか出てこないという、なかなか不毛な青春ではありましたが、開き直って、この不毛さこそ近代的自我の証やんけ!とかいーかげんなことを言うてました。一応演劇はやってましたが、あらためて考えてみれば、ほんとうに舞台がそんなに好きだったのか疑問です。なんだか多少の縁があってやることになったので、これこそわしのやりたいことだと思い込もうとしていたようなところがあります。
 絶対にしたくなかったのは仕事、つまり働くことです。就職しないまま大学を卒業してぼんやりしていると親からの仕送りも途絶え、やむなくアルバイトをして糊口をしのいでいましたが(親には「ふーてん」と呼ばれていました、当時は「ぷーたろう」といういい方もありました)、働かなければ生きていけないとはまたなんという不条理かと正直思っていました。旧約聖書の、アダムとイブがエデンの園を追放される話なんか読んで、やはり昔の人も「働かざる者食うべからず」という説教臭い命題に不満があって、それでこんな話ができたんだろうなと思っていました。
 サルが木の実や昆虫を食べたり、ライオンがシマウマを食べたり、ミミズが土を食べたりするのは労働でしょうか。栗本慎一郎(古い!)は労働だといってたような記憶があります。それを労働とみるならば、確かに「働かざる者食うべからず」を不条理というわけにはいかないでしょうが、彼らがやっていることは人間の労働とはずいぶんちがうような気もします。だって彼らは食うために苦労して働いているわけではなく、ただ苦労して食っているだけです。こういってよければ、彼らにとっては、「食べること」=「働くこと」です。さらにいえば、「食べること」=「働くこと」=「生きること」です。ぴったり重なっています。に対して、「働かなければ食べていけない」とか「食うために働く」といってしまった瞬間、「食べること」と「働くこと」は分離してしまいます。飛躍をおそれずにいえば、人間の不幸の少なくとも一部分は、目的と手段が分離してしまったことに起因しているのではないでせうか! いや、目的と手段だけではないかもしれません! 本来ひとつに重なっているべきことを何かの便宜のために分けて考えるようになったのがすべての不幸の源なのでは!? すいません、飛躍してますね、きっと!
 一方で、大学のサークルでマルクスの『資本論』を読んだりもしていて、マルクスの労働観にも惹かれるものがありました。マルクスは、頭の労働と手の労働が分離することによって労働は苦痛なものになるという意味のことを書いています(おお、ここにも「分離」が!)。工場で機械にとりついて働いている人々、生産計画に参画できずただただ手を動かし続けるだけの労働を強いられている人々のイメージですね。逆にいえば、それが分離していなければ労働は苦痛なものではないということになりましょうか。働くことは単なる苦痛ではなく、喜びにもなりうるということですね。当時の僕は働く喜びを知りませんでしたが、頭の労働と手の労働を分離させてはいけないという考え方は心に残りました。
 仙台に住んでいたにもかかわらず、仙台にゆかりのある詩人、尾形亀之助のことを当時知らなかったというのは、かなりの痛恨事です。亀之助を知ったのは、何かを諦めて帰阪し就職してからのことです。もっといえば、塾講師の仕事に本格的にやりがいを感じるようになった頃からです。それと同時に亀之助に惹かれ、少し遅れて井月の俳句に出会いました。
 亀之助ははっきりと「働かなければ食べていけないとはこのことかと、餓死して見せたっていいのだ」と、かなり振り切った(というか、いかれた)ことを書いています。井月は、ご存じの方は少ないと思いますが、幕末にどこからともなく尾羽打ち枯らした浪人の風体で長野の伊那に飄然姿を現し、そのまま死ぬまで伊那に住み着いた俳人です。

 落栗の座を定むるや窪溜り   井月

 書は後に芥川龍之介をして「神韻あり」とまで言わしめたほど、俳句の宗匠としても一流だったので、はじめのうちは大事にされたようですが、いつまでも居続けるのでだんだん疎まれるようになり、晩年は「乞食井月」と呼ばれ、近所の悪ガキに石をぶつけられるような存在になっていたそうです(後ろから石をぶつけられて頭から血を流しながら、ふり向きもせずに歩き続けていたという話です)。

(中略……いろいろ書いたのですが読み直して削除しました、てへ。井月も亀之助も毒が強すぎます)

 夏深し或る夜の空の稲光  井月

 僕が井月の言葉づかいで好きなのは、たとえば、冒頭の句の「只居ても」とか、この句の「或る夜」とかです。何もしたくなかった井月、何もしなかった井月、自分の人生を俯瞰していた井月を感じます。「只居ても」の句は、一茶の「むまそうな雪がふうはりふはりかな」を下敷きにしているのかなとも思いますが、なんというか、一茶には健全な食欲があるのに、井月は空腹は感じても健康な食欲は持たなかったのではないかという気がします。春の雪を見て一茶の句を思い出しはしても、「むまそうな」とは思わなかったのではないかなと思います。

 えーと、何の話でしたっけ? そう、台湾の話でした。何で井月の話なんかしてるんでしょう? 台湾に行った話をしようとしていたのですが、どう切り出していいかわからずすごく遠いところから話し始めたらこんなことになってしまいました。というわけで、台湾の話は次回、その2で!

2022年9月11日 (日)

有栖川宮詐欺事件

歌舞伎では、演者は違っても、基本的なセリフや動きは以前からのものが踏襲されます。ところが、たまに、その型を大きく変える人が出てきます。いわゆる「型破り」というやつです。落語にも講談にも『中村仲蔵』という演目があります。歌舞伎の世界では、血筋がものをいうのですが、そういう背景のない中村仲蔵という役者が、なんとか出世をして、『忠臣蔵』五段目の斧定九郎という役をふられます。これがあまりいい役ではありません。五万三千石の家老の息子なのに、どう見ても山賊の風体で、だれも見てくれません。なんとか工夫をしようと思って、神参りをつづけたある日、雨に降られて、そば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできます。その姿にヒントを得た仲蔵は、芝居の当日、前もって頭から水をかけ、その水を垂らしながら見得を切ると、場内は水を鬱打ったような静けさになります。失敗したと思った仲蔵は、江戸から逃げだそうとしますが、師匠に呼ばれて行ってみると、師匠は、あまりにすばらしさに客が声を失ったのだと仲蔵の工夫をほめてくれる、というストーリー。新しい「型」が生まれた瞬間を描いたお話です。

「忠臣蔵」の元になった赤穂浪士の事件についても、新発見があったと、所ジョージの番組でやっていました。討ち入りをした一人、近松勘六の家臣の家に伝わる文書が見つかったとか。吉良邸に討ち入って上野介の首をとったのですが、実はこれで終わったわけではないというのです。その首を高輪泉岳寺へ持って行ったのは、単に亡き主君にお目にかけるためではなく、最終目的は墓石を主君に見立て吉良の首に手を下させるということでした。脇差を墓の石塔に置き、名乗ってから焼香をし、脇差を取って上野介の首に三度当て、脇差を元にもどして退くという「儀式」を一人ひとりがやったというのです。つまり、墓石を生きている主君に見立てて、吉良の首を取らせたということです。浅野内匠頭の辞世の歌は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」というもので、「風にさそわれ散っていく花も春を名残惜しいと思っているだろうが、もう二度と見ることのない春を名残惜しく思う私はどうすればよいのだろうか」というような意味でしょう。吉良上野介を討ち果たすことのできなかった無念さがにじみ出ていますが、浪士たちの行動はその無念の思いに対する「返し」の行為だともとれます。

古文書一つで定説や解釈が変わることがあるのですね。もちろん、これだけでは決定的証拠とはいえないかもしれず、傍証も必要でしょう。ただ、歴史学者が証拠にこだわるのも、こういうことがあるからです。小説家なら「空想」で自由に考えられるでしょうが、学者はそうはいきません。残っている文献から、ある程度「推理」できることでも裏付けがないと、「空想」だと言われます。その意味で、たとえば井沢元彦の『逆説の日本史』は、歴史学者から見たら「空想」になるのでしょう。いくら合理的な解釈に見えても「定説」にはなりにくいのですね。

ただ記録に残してはまずいものなどは文書として残らないのが当然で、そういうものは「推理」するしかないでしょう。今の時代でも、たとえば「モリカケ」や「桜を見る会」の真相がどうなっているかはわかりません。あったと言うからには証拠をださなければなりませんし、ないと言うほうは「悪魔の証明」で、ないものは証明できないと言います。殺人事件でも冤罪があるぐらいですから、「真相」というのは容易にわかるものではありません。信長殺しの真相は永遠の謎かもしれません。大河ドラマで光秀を主人公にすると聞いたときには「真相」をどうするつもりかと思いましたが…。

あのドラマでは、新型ウィルスの影響やら、濃姫役の沢尻エリカの降板やら、いろいろトラブルがありました。沢尻エリカの代役は誰がよいか、というアンケートもよく見ましたが、なんと「安倍晋三」という答えもありました。長い髪のかつらをかぶった安部さんの姿を思い浮かべると笑えるのですが、意外に似合っていた気がしないでもありません。歌舞伎では男が女を演じるのはあたりまえですが、アップの顔が映し出されるテレビではなかなか苦しいものがあります。女が男を演じるのも同様ですが、昔、大河ドラマの『太平記』では後藤久美子が大塔宮を演じていました。きりっとした若武者という感じで評判は悪くなかったと思います。

この「大塔宮」というのは、後醍醐天皇の皇子である護良親王のことですが、「大塔護良親王」をどう読むかが問題です。「だいとうのみやもりながしんのう」で覚えていたのですが、後藤久美子は「おおとうのみやもりよししんのう」と呼ばれていました。「大塔」を「おおとう」と読むと、いわゆる湯桶読みで、やや不自然ですし、高野山の「根本大塔」も「こんぽんだいとう」ですから、「だいとう」と読みたくなります。ところが、何かの史料で「応答宮」と書かれているのが見つかって、「おおとう」が正しいということになったようです。「護良」も「良」を「なが」と読むのはよくあります。比較的新しいところでは、昭和天皇の皇后は「良子」と書いて「ながこ」だったはずです。ところが、これも何かの史料で、「護良」の兄弟でやはり「良」の字を使っている人がいて、これにたまたま「よし」というふりがなが書かれていたそうな。兄弟で読み方がちがうことはないだろうということで、「もりよし」に決まったようです。

よく幕末から維新のころを描いたドラマで、官軍の行進にあわせて「宮さん宮さん お馬の前にひらひらするのは何じゃいな あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ」と歌うのがあります。日本最初の軍歌であり、日本最初のマーチでしょう。作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎ということになっています。この歌詞に登場する「宮さん」は有栖川宮熾仁親王です。和宮と婚約していたのに、徳川幕府の公武合体政策によって、和宮は14代将軍家茂と結婚することになります。最終的には、徳川家をつぶしたい薩長の挑発に乗ってしまった旧幕府軍は戦端を開き、戊辰戦争が勃発します。このときに熾仁親王は自ら東征大総督となることを志願して、勅許を得ます。その新政府軍が東海道を下ってゆくときに歌われたのが「宮さん宮さん」ですね。のちに詐欺事件として名前が使われることになるとは、宮様、夢にも思っていなかったでしょう。

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