「夕焼け」とあんぱんまん
吉野弘さんの詩に「夕焼け」という美しい一篇があります。
はるか昔、灘中学校の入試で出題されたこともありました。
かいつまんでしまうと詩の良さは台無しなのですが、しかたなく。
(時間・場所)夕暮れのラッシュアワーの満員電車の中。
(人物)立っていた老人に席をゆずるわかい娘さんとそれを見る「わたし」。
席をゆずった老人が降り、娘さんがすわるとまた別の老人が前に。
「うつむいていた」娘さんはまた席をゆずり、その老人も別の駅で降りる。
三度め。娘さんはうつむいたまま、席をゆずらない。
わたしは娘さんの気持ちを慮りながら、電車を降りる。
とまあこういうストーリーなのです。
さあ、いよいよ「国語の問題」です。
◆娘さんは、なぜ三度目には席をゆずらなかったのでしょうか?
まさか、「自分だって疲れていたんだもん」なんて娘さんに言わせるような解答を出してはいけないですよね。
当然、詩中のいろいろな表現から整合性のある答えを出すわけです。ここではそれには触れず、ちょっと想像を広げてみます。
「善行ゆえのむなしさ」「善行ゆえのうしろめたさ」みたいな感情が「娘さん」にあったのじゃないか、と考えてみたいのです。
心理学者の河合隼雄さんは、著書の中で、善行を趣味としているはた迷惑な人について触れています。善行を「させていただいている」という自覚のない人は困ったもんだ、という趣旨です。
昔の「あんぱんまん」をご存じでしょうか。「アンパンマン」ではありません。私が小学生のころ、図書館で開いたそれは、今の二頭身キャラのかわいい健全なヒーローではなく、実に陰惨な感じのするシュールな絵本でした。作者は同じやなせさんなんですが。
うろ覚えで不確かですが、お腹が空いてぐったりしたり泣いたりしている子どもたちに、あんぱんまんは自分の顔を食べさせるのです。その飢えた子供たちへの施しが、実にきりがないんですね。子供心に「むなしい」という言葉の意味が実感できた私にとって衝撃の一書でした。
顔のなくなった首なしあんぱんまんは、もはやヒーローらしからぬ「陰惨さ」を放っていました。
私の記憶がおかしいのか? 大人になって、テレビの「アンパンマン」を見たときには、同じものとは思えませんでした。
まちがいなく、昔の「あんぱんまん」の方が深いわけです。
私が「夕焼け」の詩を読むとき、どうしても「あんぱんまん」を読み終えたときの気持ちが結びついてしまいます。
席をゆずられたほうの人は、「ああ、これで座れる。助かった」と思う人も、思うときもあるでしょうし、「老人扱いされてしまった」とがっかりしたり気を悪くしたりする人も、するときもあるでしょう。
そういう「ゆずられる人」の気持ちまで考慮に入れてしまう人は、「善行」に対してむしろ慎重になり、二の足を踏んでしまうはずです。
無神経に「善行なんだから善は急げ」とやってしまう人を責めるわけではないんですが、そういう人もいますし、かくいう私はそういう「おせっかい」をやってしまう人です。
私は、自分のために「善行」しようと思っています。自分が「いい人」でいられるために、自分が「ひどい人間」だと思わなくてすむように。結局勇気がないんでしょうか。
詩の中で、「やさしい心の持ち主は、われにもあらず受難者となる」と吉野さんは書いています。
善行に目的などいらない。ましてや報酬などない。報酬はと言えば、席を立って窓の外から見える、「夕焼け」の美しさ。満員電車で座っていては見えない夕焼けなのだ。そうこの詩を私は読むようにしています。