時代劇のなんだかなあ
「天神山」という話は前半と後半で主人公が変わるという妙な話で、下げ(オチ)なしで終わることがよくあります。ヘンチキの源助という変人の男が、オマル弁当にしびん酒で花見に出かけようとして、「花見に行くのか」と言われます。変人ですから、そう言われると花見には行きたくない、「墓見」に行こうと一心寺に向かいます。「小糸」と書かれた石塔の前で、一人で酒盛りをした帰り際、土の中からしゃれこうべが出ているのを見つけ、根付けか置物にしようと持って帰ります。その夜、しゃれこうべの主である小糸の幽霊が現れ、昼間の手向けの酒が有難かった、ついては押しかけ女房に、と言われます。隣に住んでいるのが、どうらんの安兵衛。源助から幽霊の女房は金かからんぞと言われ、一心寺に出かけますが、そうそうしゃれこうべがあるわけもなく、向かいの天神山にある安居の天神さんへ行って、女房が来ますようにとお願いして帰ろうとします。たまたま狐を捕まえている男に出くわし、捕まった狐を買い取って逃がしてやります。その後、狐は若い女の姿になって、これも押しかけ女房になります。男の子が生まれ、三年たったころ、正体がばれてしまい、狐の女房は「恋しくばたずね来てみよ南なる天神山の森の奥まで」という歌を障子に書き残して去って行くという話です。
下げの部分は、狐の女房が「もうコンコン」と言って姿を消すパターンもありますが、書き残された歌を見て、狂乱して後を追うパターンもあります。これは、浄瑠璃や歌舞伎の「蘆屋道満大内鑑」のパロディ仕立てになります。歌を「曲書き」して障子抜けをして狐が去って行くという形をとることもあります。「曲書き」というのは、左右の手を使ったり、下から上へ逆書きしたり、裏文字にしたりして、最後は口にくわえた筆で文字を書くのですね。人間ではないということを強調しているのでしょう。「下げ」をつける場合は、「芦屋道満」「葛の葉」をもじって、「貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶(かか)の子ほったらかし」としたり、安兵衛の叔父さんが「安兵衛はここには来ん来ん」と言って「あ、おっさんも狐や」としたり、というパターンもあったようです。枝雀は前者の型でやったこともありますが、「お芝居にあります『芦屋道満大内鑑、葛の葉の子別れ』、ある春の日のお話です」と言って終わることが多かったようです。
安居の天神さんは、菅原道真が筑紫に左遷される道中、この神社の境内でしばし安居したところから名付けられたと言います。場所は天王寺で、大阪のど真ん中という感じがしますが、きつねがいたのですね。星光学院のちょっと南、谷九教室からも歩いて行ける距離なのに。たしかに今でも木が鬱蒼としています。ここは真田幸村が死んだところで、骨仏で有名な一心寺の向かいです。ここのシアターで友人が演出した芝居を見に行きましたが、アットホームでなかなかいい劇場です。島之内寄席というのがありますが、はじめは心斎橋の島之内教会の礼拝堂を借りたものでした。畳敷きで、好きなところに座れるようになっていました。交通事故で亡くなった林家小染がトリだったのでしょうか、演じているときに、一升瓶をかかえたおっさんがすぐ前で寝っ転がりながら、「小染ー、一人でしゃべってて、おもろいかー」と茶々を入れてたことを覚えています。やりにくかったやろなー。
尼崎市総合文化センターで米朝一門の勉強会をやっているのを見に行ったことがあります。といっても、アルカイックホールではなく、会議室で机を積んで高座にしていました。今考えるとなかなかのものです。昔、朝日放送のABCホールで公開録画があって、よく見に行きました。実際に放送するのは漫才二組ぐらいで、それだけではお客が来てくれないので、落語やら奇術やら、いろいろな芸人が演じていました。しかも無料。ゼンジー北京とかフラワーショー、横山ホットブラザースをただで見ていたわけですね。その前座みたいな感じで、やすしきよしという新人が一生懸命やっていて、こいつらちょっとオモロイなと小学生だった私は思いましたが、桂米朝というおっさんが一人でしゃべりはじめると「オモンナイ」ということで客席の間を友達と走り回って遊んでいましたなあ。のちに人間国宝になるなんて思いもしません。単なる地味な芸人さんと思っていました。
株主優待券というものをもらって(株主というわけではなく、父親の友人が株主だったのです)なんばの大劇名画座とかアシベ劇場という映画館によく行っていました。大劇はOSKの本拠地だったところです。千日デパートも同じ系列で、ちょうど私がよく行っていたころに例の大火災がありました。名画座は古い映画をやっていて、マカロニウェスタンはここでかなり見ました。クリント・イーストウッド、ジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロたちが主演の、全体に茶色っぽい色調の映画でした。映画だけでなく、なぜか実演もあって歌手がステージに立って歌うこともありました。無名の歌手でしたがね。
合格祝賀会は、アルカイックホールでやったこともありますが、新大阪のメルパルクホールがほとんどです。30本近くの台本を書いてきました。その年のはやりものをテーマにすることが多いので古い台本は時代を感じさせます。ナレーションでも、初めのころは題名を言わないことが多かったのですが、『ファイナル・クエストⅦ』というタイトルは口にした記憶があります。これなんか、まさにそのときでないとだめなタイトルです。なかには『原田のおじさん』という、わけのわからないものもあるのですが、これは中島らものパクリでした。時代ものも何回かやっています。でも、衣装やカツラに困ることもあり、最近はやっていません。時代劇はお金がかかる。
それでも最近テレビでは少しずつ時代劇が復活しています。NHKが土曜の6時半ぐらいにやっていたり、民放でも定番の山本周五郎の小説のドラマ化をやったり、水戸黄門が武田鉄矢で復活したのは笑いました。助さん格さんを「このバカチンがー」と叱ったのでしょうか。時代劇では、若い役者の演技、たたずまいで不自然に感じることがありますね。所作や歩き方が時代劇らしくない。若い女性が外股で歩いたりすると、なんだかなあと思います。もちろん実際の江戸時代の人々の様子などわかるはずもないので、あくまでも時代劇という「ワク」の中の話ですが…。