仲良きことは美しき哉
コックニーの特徴として「ei→ai」の変化がよくあげられます。「今日」という意味の「トゥデイ」が「トゥダイ」と発音されるので、「私は今日病院に行く」が「私は死ぬために病院に行く」になる、というやつです。江戸っ子は反対に「ai→ei」になるので、「鯛」が「てぇー」と発音されます。「長いな」は「なげーな」になるのも規則通りですが、最近のはやりの「ちがうよ」が「ちげーよ」になるのは、その規則にはあてはまりません。ただ、「ちがう」という言葉はたしかに厄介です。動詞を過去形にするためには「た」をつければよいのですが、「ちがった」と言わずに「ちがうかった」と言う人がいます。「ちがくない」も変な表現です。「ちがう」は動詞でありながら、状態を表すので、形容詞的に使いたくなるのでしょうか。
では、「腹がくちくなる」の「くちく」とはいったい何でしょうか。ちょっと見た感じでは「いたくなる」「きたなくなる」と同じようなので、形容詞のようにも思えます。そうであるなら「いたい」「きたない」と同様に「くちい」とならなければならない。ところが「くちい」という形容詞は聞いたことがありません。古い時代には使ったのかも知れませんが、現代ではまず使わないでしょう。そうすると、ちょっと苦しいのですが、「くちくなる」で一単語と見るという手もありそうです。たとえば「好意を無にする」という表現を厳密に文節分けすると、「無に」と「する」で分けなければなりません。しかし、「運転する」「ドライブする」などは一文節と見ることになっているので、それに準じて「無にする」も一文節一単語と見てもよさそうです。「する」と「なる」の違いはありますが、「くちくなる」も同様に考えられるかもしれません。「する」と「なる」の関係をもう少し突っ込んで考えてみると、「なる」は自動詞で、これに対応する他動詞が「なす」です。この「なす」と「する」がほぼ同意なので、「くちくなる一文節説」も成り立ちそうなのですが…。
他動詞と自動詞の関係も変なことが起こります。「集める」が他動詞で、「集まる」が自動詞、というレベルなら何の問題もありませんが、自動詞「すわる」を他動詞にすると「すえる」となります。「座」または「坐」が「据」になって、漢字まで変わってしまいます。ただし、「すわる」は「据わる」と書くことがあります。「腹を据える」と「腹が据わる」が同意としてセットになるのですね。語源的に同じではあるのですが、「座る」は膝を折り曲げて何かの上に腰をおろすことであり、「据わる」はぐらつかないで安定している場合に使います。
「座る」場合には、何かの上に「乗る」ことになります。ところが、古くは「のる」という言葉には「言う」という意味がありました。「言う」の意味のときには「宣る」とか「告る」と書くことが多いのですが、特に神や天皇が重大なことがらを宣言することが本来の意味のようです。「祝詞」と書いて「のりと」と読む、あの「のり」ですね。また、「詔」と書いて「みことのり」と読みます。天皇の命令、またはその命令を伝える公文書です。「み・こと・のり」つまり「御言宣」ですね。そういうところから「のる」は、みだりに言うべきではないことを表明する場合に使われ、言霊信仰や「呪い」とに結び付きます。「のろい」という言葉も源は同じでしょう。「乗る」も全く別の言葉ではなく、神霊が「のりうつる」ことから生まれたのではないでしょうか。そうすると「名乗る」で「乗」の字を使うことも納得できます。名前も本来はむやみやたらに口にするものではなかったのですね。ちなみに「名を名乗る」が重複表現であることは漢字を見ればわかります。では、「名乗りをあげる」はどうでしょう。「名前を言うことを言う」という意味になって、重複していると言えなくもなさそうですが…。
「みことのり」の「みこと」が「御言」であると書きましたが、「御言を発するお方」の意から生まれたのではないかと思われるのが、神や人の呼び名の下につけた敬称である「…のみこと」です。漢字で書くと、「尊」になったり「命」になったりします。日本書紀では「イザナギ・イザナミ」や「スサノオ・ツクヨミ」、天孫「ニニギ」などは「尊」で、「命」よりワンランク上で使っているような気もしますが、古事記ではそういう区別はないようです。「ヤマトタケル」は古事記では「倭健命」、日本書紀では「日本武尊」と表記されます。
「健」の字が「たける」と読めるのは、五・一五事件の犬養毅の息子「犬飼健」や俳優の「佐藤健」でわかります。この字は「たけし」とも読めますが、「猛」「剛」「豪」なども同様で、動詞なら「たける」、形容詞なら「たけし」ということで、結局は強い様子、荒ぶる様子を表します。名字では、同じ「たけだ」でも「武田」と「竹田」があります。語源的には後者が元になって、前者はよい字を当てたような気がしますが、武士の名としてはやはり「武田」のほうがなんとなくしっくり来ます。その反対に、いかにも貴族らしい名字というものもあり、「一条」とか「近衛」というと貴族の代表のような感じです。「~小路」というのも、いかにも貴族です。「武者小路」なんて、武士と貴族の合体のようですが、やはり貴族らしい名字です。
武者小路実篤という人も華族のお坊ちゃまで、「人道主義」による文学を唱えて、白樺派の中心人物になっています。「天衣無縫」の文体で知られていますが、要するにその文章はプロの作家らしくないということです。「天衣無縫」とは、天人の着物には縫い目がないということで、そこから、わざとらしくなく自然に作られた文章や詩歌を評する言葉として使われるようになりました。人柄について使われることもあり、その場合には、純真で無邪気な様子を表し、「天真爛漫」とほぼ同意になるようです。いずれにしても、ほめことばとして使われるのですが、武者小路の場合には、ほめようのない文章なので、こう評するしかないのでしょう。ただし、けっして馬鹿にしているのではなく、ある種の敬意が含まれているようです。ふつうなら、ちょっと気取ってしゃれた表現にしたいところを、何も考えていないかのように、思ったまま書いてしまうのは、すごいと言えばすごい。ふつうの人には真似できません。