言語流転
「見立て殺人」がなくても、迷宮入り事件というのは当然あるわけで、「帝銀事件」なんて、松本清張も『日本の黒い霧』の中で推理していましたし、小説にも書いています。坂口安吾の推理も有名です。横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』にも、この事件をモデルにした話が登場します。京極夏彦の作品の中にも登場していますし、永瀬隼介の『帝の毒薬』という小説も面白かった。
何か大きな事件が起こったとき、作家や元刑事の推理が新聞に載ることがよくありますが、あれは当たっているのでしょうか。作家は自分でストーリーやトリックを組み立てて、登場人物に「推理」させます。これは現実の事件を見ぬく力とはちがうでしょう。神戸で連続殺傷事件が起こったときに犯行声明が出ました。我々国語科の講師陣はみんな、「これ子供やね」と言っていました。あの字と文面を見たときの直感であり、経験に基づくものですが、何も根拠はありません。新聞では「相当の知性」とか「大学生か」などと書かれていたように思いますが、あの字や内容のもっているふんいきは子供のものでした。「小学校高学年から中学生、高校生ならかなり幼稚な子」という結論でした。警察が私たちに聞きに来てたら事件の様相も変わっていたかも…。
まあ、「専門家」と称する人たちの意見は、外すことが案外多いようです。コロナのときもそうでした。あれは、未知のウィルスだったわけですから、「専門家」と言っても確実なことはわからないはずです。医者でさえ意見がいろいろ分かれていたのに、「評論家」が論外なのは言うまでもなく、「コメンテーター」なんて人たちは話になりません。
コロナはさすがに「大事件」でしたが、大事件の真相はしょうもないことだった、なんてことも世の中には結構あるかもしれません。平安京遷都など、学校で習ったのは奈良の寺院勢力から逃れるための政治的理由ということでしたが、天智系の桓武天皇が天武系の奈良を嫌った、という単純な「感情」が根本にあるかもしれません。長岡京を捨てたのは、早良親王の祟りから逃れるためでしょうから、「政治的理由」よりも「感情的理由」で奈良を捨てた、と考えるのは意外に正解かもしれません。ソ連が崩壊したのはマクドのせいだというのも、ひょっとしたら正しいかもしれません。モスクワのマクドナルドで、アメリカ発のハンバーガーを手に入れるために大行列に並び、何日か分の給料に匹敵するだけの料金を払った人々は、憧れのアメリカ文化に触れる喜びを感じていたはずです。
「陰謀論」という言葉も最近よく聞きます。アメリカの大統領選挙のとき、不正があったのではないかとトランプ陣営から指摘があり、「バイデンジャンプ」なんて言葉も生まれました。「やりすぎ都市伝説」も、本当に「やりすぎ」と思うようなこともありますが、面白いことは面白い。オカルトとともに、こういうのには一定数のファンがおり、根強い人気を保っています。いったん消えたネタがときどき復活することがあるのも面白い。ツチノコなど、その代表です。アマビエは消えましたが、ツチノコの賞金はまだ生きているのでしょうか。そういえば、ネッシーは完全否定されたのでしょうかね。一つの「夢」として、存在の可能性を残してほしいものですが…。「ついに発見された」というニュースがイギリスの新聞に載ったことがあります。ただし、四月一日の記事で、ジョークだったのですね。こういうウソ記事を載せるときには、読者に対するヒントとして、たとえば発見者の名前を「オネスト・ジョン」にする、なんてこともあるそうです。日本語にすれば「正直太郎」という感じですから、逆にウソ記事であることがわかる、ということですね。
ネットの世界で、たまに見る偉人らしき絵に付いている名前で、「バカカ・コイツァー」「ネゴトワ・ネティエ」「ショー・ボーン」「エーカゲン2世」「ソノアンニ3世」「モーネ・ミッテラン内閣総理大臣」みたいなのがあります。もちろん、実在しない名前です。昔からある「骨皮筋右衛門」「石部金吉」も実在しません。「骨川スネ夫」も実在はしないでしょう。『警視庁・捜査一課長』というドラマの設定がばかばかしく、内藤剛志(この人は星光学院出身ですね)扮する捜査一課長が電話をとるところから始まり、「なに? 餃子を耳に突っ込んで、両手に靴を履いた御遺体を発見? わかった、すぐに臨場する」みたいな、わけのわからない不思議ワールドが展開されます。そんな「ご遺体」の説明で「わかった」と言えるわけがない。登場人物の名前もオールダジャレになっていました。ナイツの塙は「奥野親道(おくのちかみち)」で、なぜか「奥の細道」ですが、土屋はサイバー事件のエキスパートで役名が「谷保健作(ヤホー検索)」になっていました。毎回の登場人物も、たとえば医者なら「綿志賀直弼」、患者なら「伊賀井太陽」みたいな感じで、もうムチャクチャです。
これは笑いを狙ってはいるのでしょうが、一つには現実ばなれした名前にしておいて犯人と同姓同名の人からクレームが来ることを前もって防ぐ、ということもあるかもしれません。「実在のものとは関係ありません」とか「食べ物はスタッフがおいしくいただきました」というテロップが出るのは、そういうつまらないクレームの予防ということです。『不適切にもほどがある』というドラマでは、「このドラマでは不適切なシーンや表現があります」とわざわざ断りを入れることを「ギャグ」としておちょくっていたのも、「クレーマー」対策に見せかけながら、そういうクレームを逆批判していたのでしょう。
「漢字狩り」とか「言葉狩り」とかいうものがあります。たしかに差別はよくないのですが、差別につながりかねないから、と言って、この言葉を使うな、とか、この漢字はだめだ、と言って騒ぎ立てる人がたくさん出て、世の中から消えた言葉があります。「差別はだめだ」という正論が出発点になっているので、逆らいがたいのですが、何にしても行き過ぎはだめでしょう。昨今のポリコレと呼ばれるものも行き過ぎてしまった結果、今揺り戻しが来ています。それがまた行き過ぎると、ろくでもないことになりかねません。人為的に変えようとしなくても、自然にことばは変化していくものなのですが…。