防弾ベスト
関西人が嫌われる理由の一つとして、何か話をすると、「で、その話のオチは?」と聞いてくることだ、と言っていた人がいました。たしかに関西人はオチを求めたがりますが、きちんと話を終わらせたいという、一種の合理主義かもしれません。中途半端なのがいやなのですね。ところが、世の中には最初からオチのない話というのがあります。リドル・ストーリーと呼ばれるもので、『虎か女か』が有名です。王女と恋をした、身分の低い若者に国王は二つの扉のどちらかを選べと言います。一つの扉の向こうには飢えた虎、もう一つの扉の向こうに王女とは違う美女がいます。美女を選べたら、その女と結婚することになる、という究極の選択です。王女は手を尽くして、どちらの扉に何がいるのかを探り出します。そして王女は若者にどちらかの扉を指さしますが、さあ、どちらだったでしょう? という小説です。この手の話は欧米では好まれるのですが、関西人から見たらモヤモヤして、「はっきりせい!」と言いたくなります。
ところで、この関西人というのはどの範囲の人でしょうか。先ほどの話では、むしろ大阪人と言うべきであって、大阪だけが特異だと思うのですが、関西以外の人から見ると、十把一絡げに「関西人」なんですね。もちろん、関西には名古屋は入りません。愛知・岐阜は関西ではないのですが、滋賀は入るのですね。「関西」の「関」はもともとは逢坂の関だったので、滋賀は微妙なのですが、鎌倉時代以降、福井県の愛発の関、岐阜の不破の関、三重の鈴鹿の関の西が関西というイメージになったのでしょう。そこで、滋賀は入るが、福井は入らない。和歌山は関西に入るが、三重は微妙です。東海地方に分類することもありますね。兵庫は関西に入りそうなので、淡路も関西と言ってよいでしょうが、四国に入ると関西の範囲から外れます。岡山より西も関西とは言えないので、結局関西は大阪・京都・兵庫・滋賀・奈良・和歌山の2府4県でしょうね。
一方の関東はどうでしょう。「関八州」は武蔵・相模・上総・下総・安房・上野・下野・常陸で、いわゆる関東地方ですね。ということは、「関西・関東」と大きく二分するような言い方をしているのに、間に「中部地方」が入り込んでしまいます。では、「関」とは、いったいどこのことなのか。不破の関の跡地が「関ヶ原」で、これより西が関西、関東は箱根の関の東ということになりそうです。つまり、「関西」と「関東」の「関」は違うものだった、ということですね。
奥羽三関というのもあって、白河・勿来・念珠ですが、白河の関を越えると平安時代では「化外の地」というイメージだったのでしょう。明治になって「白河以北山三文」と言われたのは東北列藩が戊辰戦争で負けて賊軍になったからだ、ということですが、昔からのイメージをひきずっている面もあるのかもしれません。賊軍となった地方では県庁所在地が県名と違う都市名になっていると言われますが、岩手県が盛岡市、宮城県が仙台市で、青森・秋田・山形・福島は同じです。元の藩庁所在地と違うということはあるようですが、賊軍だからという理由だけではないでしょう。県そのものも廃藩置県以降、併合やら分裂を繰り返してきました。堺県なんてのがありました。堺だけで独立しているどころか、今の奈良県を含んでいたぐらいですから、移り変わりは結構はげしいものがありました。
静岡県の知事の反対でなかなかリニア・モーターカーの工事が進まないことが問題になっていました。知事も別の人に変わってしまったようですが。で、リニアの予定のコースは静岡県の北側の一角です。国家的事業なのだから、その部分を隣接する山梨や神奈川に編入してしまえば片付くという意見がありました。今でも国が都道府県の再編成をすることができるのでしょうか。都市の合併というのはよくあるので、県の合併があってもおかしくないでしょうし、逆に分割があってもおかしくなさそうです。二つの県の間で取引をして、二つの市を取り替えて、県の境界線が変わるということはありでしょうか? もしトレードができるのなら、距離的に離れた県の場合もいけるのか、金銭トレードというのはありえるのか? アメリカはロシアからアラスカを買っていますし、トランプはグリーンランドを買いたいとか言っていました。金銭トレードどころか、もしも力のある県が隣の県の市を併合しようと武力侵攻したら内乱になってしまいます。勝手に攻め込んではだめですね。
そう言えば、ロシアがウクライナに攻め込んだとき、ウクライナ支援を日本がするのには、いろいろ制限がありました。攻撃用の武器はだめだ、と言う人もおり、「防弾チョッキ」ならいいだろう、ということで送ったそうです。線引きがなかなか微妙です。この「防弾チョッキ」という名前も面白いですね。昔「チョッキ」と言っていたものが「死語」になり、そのあと「ベスト」になりました。あまり聞いたことはないのですが、今は「ジレ」と呼ぶのだとか。ほんまかいな。ところが「防弾」のものだけは「防弾チョッキ」と言って、「チョッキ」のままなのはなぜ? 「防弾ベスト」とは言わないのですね。江戸が東京になっても、江戸川が東京川にならないのと同じでしょうか。「アイ・リブ・イン・トーキョー」を過去形にしろと言われて、「アイ・リブ・イン・エド」として人もいたとかいなかったとか。
「防弾チョッキ」のように言い習わしてきたものはわざわざ変更しなくてよいのでしょうが、最近は歴史解釈が変更になって、昔習ったことと違っていることが多いのはなぜでしょう。「聖徳太子はいなかった」説は結構昔から言われていたので、それもあり、ですが、鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わったのは納得しがたいものがあります。私自身、高校のときにはこの二つ以外にもいくつかの説を教えてもらいましたが、1185年では頼朝は将軍になっていません。将軍がいない状態で武家政権が成立した、というのなら平清盛も幕府をつくったことになるのでは? 1192年以前に頼朝による政権がととのえられていったことは確かでしょう。しかし、後年幕府と呼べる形になったのはやはり将軍になった年と見るのが素直だと思うのですが、学者の考え方は違うらしい。歴史のとらえ方はその当時の感覚ではなく、後年の視点によるものなので、変化するのもやむを得ないのかもしれませんが、では江戸時代が始まったのは家康が将軍になった年であるのはなぜ?