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2025年12月28日 (日)

あんた○ぬわよ

「あはれ」は奈良時代ぐらいまでは「あぱれ」と発音されていたようで、本来はため息のような声が文字化されたものだとも言います。平安時代には「あふぁれ」という発音になっていったようですが、鎌倉期の武士の時代になるとなぜか再びP音になって「あっぱれ」になります。こういう音の変化を見ていると、「日本」は「にほん」と言おうが「にっぽん」と言おうが、結局は別の言葉ではなく、単なる発音の違いと見てもよいもしれません。「にほん」と書いて「にぽん」と発音していたことになるのですから。そして、中国では「ジッポン」のような発音をしていたのをマルコポーロが「ジパング」と聞き取り、これが「ジャパン」「ジャポン」「ヤーポン」となっていったわけです。

ところで、わが国が「倭」でなくなって「日本」になったのはいつのころからでしょうか。天武天皇のころだとされていますが、公式に宣言されて何年に変わったというような、はっきりした境目はなさそうです。いつのまにか、ということなのかもしれません。いずれにせよ、一つの文化がずっと続いているというのはすばらしいことです。呼び名が変わっても「一つの国」という意識が途切れていないのは世界史的に見ても希有のことでしょう。万葉集がなんとか読めて意味がわかるというのはとんでもないことてす。奈良時代ごろまでの日本人の先祖が作った歌に令和の人間が接することができるわけですから。

ただ、平安時代にはすでに万葉集は「古」の時代と考えられており、そこから「今」に至るまでの歌集が「古今和歌集」です。そして、そのあとの「新古今和歌集」で微修正して万葉の歌を載せたりしています。さらに、古今集以降を否定して万葉集にもどったのが正岡子規です。そういう変化をたどりながらも、日本の文学史の中で和歌の占める位置は大きなものでした。百人一首はかるたにもなり、まんがにもなっています。第一、日本の国歌が五七五七七の短歌形式ですからね。だいたい「歌」と言うぐらいだから、本来の和歌は実際に歌っていたのでしょう。百人一首のかるたのときにも節をつけて読みますし、歌会始の歌の発表でも妙な節がついています。大河ドラマで、道長の有名な「この世をば」の歌が登場したシーンで、みんなが「唱和」していました。あれは声を出して「言った」だけでしたが、実際には吟詠したのではなかったのかなあ。

その顛末を日記に記録して残したのが、ロバートの秋山竜次演じる藤原実資です。このドラマでの秋山の演技はややおおげさなものの、評価はなかなか良かったようです。このドラマには、他にも「芸人」が何人か出ていましたが、いずれも演技はそこらの「俳優」に負けていませんでした。特にコントをやっている芸人に演技力があるのは当然でしょう。

ドラマを見ていて面白いのは脇役の演技です。あるドラマで小心なサラリーマンをやった人が別のドラマでは極悪非道な犯罪者を演じて、どちらも自然な感じで演じ分けています。脇役専門の人の演技の「多様性」はすごいなあと思いますが、逆に主役の人気俳優は何を演じても同じ、ということがあります。二枚目はその人の存在そのものが売りなので、それでよいのかもしれません。三枚目を主としてやっている人が悪人を演じたり、悪役専門の人が善人役をやったりすると意外性があって面白く感じます。むかし、悪役専門の人たちが集まって「悪役商会」というのを作ったら、これが人気を集め、川谷拓三のように主役をはったりする人も出てきました。

でも、悪役をやる人は概して人相が悪い。あるとき、うちの父親とその弟、それにもう一人、母親の弟の三人が汽車に乗ったことがありました。四人がけのボックス席に三人、つまり席が一つ空いているわけです。ところが、満員なのにだれもすわりません。理由は、何を隠そう、三人とも人相が悪い。父方二人は細面で、一見おとなしそうに見えるけれど、切れたらやばい、というタイプ。母方の叔父は見るからに関西の極道という顔つきで、当然のごとくパンチパーマ。ようやく一人すわったそうですが、どう見てもその筋の人だったらしい。軽く会釈をして座った、というのも「お仲間」と思われた証拠です。

もちろん人相が悪いからと言って、いわゆる「凶相」ということにはならないでしょう。人相を見る人が「よくない相」としてあげる顔が必ずしも「悪人づら」というわけではないようです。「人相占い」という言葉があって「占い」の一種と言われますが、「観相学」であって統計なんだ、と主張する人もいます。たしかに表情にはその人の心情が反映されるので、人相も性格と結びつきそうな気もします。では、「手相」はどうでしょう。これも「統計」かもしれませんが、その人の運命までわかるかどうかとなると…。「手相占い」はあるが、「指紋占い」はあまり見たことがありません。でも、これも「統計」なら成り立ちそうです。

名前の画数で占う、というのはどうでしょう。これも「統計」だと言われそうですが、旧字体と新字体で結果が変わってくるのではないでしょうか。「くさかんむり」は四画で数えろ、とか言う人もおり、数え方が不安定なのが胡散臭い。生年月日で占うというのもあてにならないでしょう。偉人と同じ日に生まれた人が同じ運命をたどるはずがありません。私も、ある坊さんに「惜しい」と言われたことがあります。一日早く生まれてたら、天下をとれていた、と言われたのですが、私の誕生日の前の日に生まれた人で天下をとっている人はいません。

干支や星座による占いも理屈に合いません。たしかに、学年によって生徒たちの雰囲気がちがうことはありますが、同じ学年でも人によってそれぞれちがっています。干支や星座でひとくくりにするのはあまりにも乱暴すぎます。ましてや血液占いなど、たった四つです。乱暴すぎるにもほどがある。日本人の四割がA型です。ということは1億2千万人の四割、つまり5千万人近くの人が同じ運命、同じ性格だということになります。そんなのはおかしい、と言うような性格の人はB型です。

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