2012年8月 9日 (木)

本日、これまで!

うまいなと思える最近の噺家(はなしか)と言えば、東京ではやはり立川談春でしょうか。安心して聞けるのですが、やや暗いところがある。陰陽で言えば、陰なのでしょうか。陰は陰の良さがあるとはいうものの、やはりちょっと重たいです。枝雀も本質は陰でした。それを過剰な演出で無理矢理陽にしてたのですね。それに比べると、志の輔は陽なのでしょうか。ときにあざとすぎることがありますが、さすがに笑えるし、聞かせます。若手では、三遊亭兼好という人が陽で、いいですね。好二郎と言ってたころから、東京の二つ目の中では光っていました。聞きやすい声質で、いやみがなく、好感が持てます。春風亭一之輔も、じつは陰だと思いますが、笑いのツボは知っており、たまに吹き出すことがあります。

関西では『ちりとてちん』をきっかけとして出てきた、吉朝の弟子の吉弥がやはり本命でしょう。『ちりとて』が終わって知名度も上がったころ、テレビ・ラジオで忙しかったのか、生で見たときは顔色もあまりよくなく、疲れてるなあと思いましたが、いまはいい感じになってきています。おとうと弟子にあたる桂よね吉も悪くありません。そして、じつはいちばん期待してるのが米團治です。襲名してから大きくなる、というのはよくあることですし、もともと華のある人でした。志ん生や圓生も、若い頃は下手だったと言います。小米朝時代には軽く見られていましたが、親父が米朝というのは、家康に比べられる秀忠みたいなもので、ある意味ではハンデです。でも、若旦那などは地のままでやれるし、上品で、にくめん若旦那になってます。大旦那を演じるのも年齢的に無理ではなくなってきました。この人は、これから化けるような気がします。だいたい二代目はきびしめに見られるのですね。八方の息子も甘ちゃんでどうしょうもなかったのが、ほんの少しましになってきました。春蝶はこれからでしょう。若くして死んでしまったお父ちゃんの先代春蝶は『ぜんざい公社』や『昭和任侠伝』などもおもしろかったけど、じつは古典もうまかった。長い話は体力が続かんので、途中で死ぬかもしれんという前ふりを聞いたこともあります。阪神ファンとしては、八方といい勝負でした。ただ、甲子園に行くと阪神が負けるというジンクスがあって、負けた試合で姿を見られて、「おまえのせいで負けたんじゃ」と、酔っ払いのおっさんにボコボコにされたとかいう伝説も残っています。あの司馬遼太郎も春蝶ファンだったそうですが、息子にもがんぱってもらいたいものです。繁昌亭も人気でなかなか見られなかったのが、やっと落ち着いてきたようなので、なま落語を見たことのない人は是非とも行ってみてください。連続で聞いて、だんだんあたたまってきたころに笑いのツボにはいると、噺家が何も言わなくても笑ってしまうようになります。

『てれすこ』という落語のもとねたが『沙石集』という鎌倉期の説話集にのっているということを前にも書きました。大河ドラマの平清盛では、崇徳院が「あんたがたタフマン」扮する白河の子で、おもて向きは自分の子として育てねばならなかった鳥羽院が崇徳のことを「叔父子」と言っていたというエピソードを前半の中心にすえていましたが、この話は『古事談』にしかのっていません。『古事談』は、『沙石集』と同じく鎌倉期の説話集です。最近は出版されているようですが、少し前までは簡単に入手できなくて、じつは原文で読んでいません。私が読んだのは志村有弘が30年くらい前に新書の形で出した抄訳です。ゴシップ色が濃厚で、編集者の源顕兼は当時を代表するような教養人だったのでしょうが、そういう人にかぎって、ワイドショー的な話題が好きなんですね。

『三軒長屋』という落語があります。三軒続きの長屋の右端には鳶頭(とびがしら)の政五郎が住んでおり、荒っぽい連中が出入りして大騒ぎする。左端は武士の道場になっていて、稽古でどったんばったん、うるさいことこの上ない。そこで真ん中の金持ちが両隣をたたきだそうと計画する。それを知った両隣は、引っ越しをするので引っ越し代を出せと言ってくる。五十両ずつを渡した金持ちが、どこに引っ越すのかと聞くと、「あっしが先生のところへ越して、先生があっしのところへ」。圓生で聞いても志ん生で聞いてもおもしろい話です。これももとねたがあって、中国の『笑府』という本だそうです。大岡政談も落語に取り入れられたりしています。ところが、大岡越前を主人公にした話の多くは、中国の裁判実例集『棠陰比事(とういんひじ)』がもとねたです。井原西鶴の作品に『本朝桜陰比事』というのがありますが、もちろん、『棠陰比事』を下敷きにした題名です。要するにパクリですな。馬琴の『南総里見八犬伝』が『水滸伝』を日本に移しかえたものであることはあまりにも有名です。もとの「百八」からあえて百をとって「八」にしたのは、もとねたに対する敬意の表れです。

『八犬伝』は大長編で、最後の方は張った伏線の回収、全登場人物のその後ばっかり書かれているらしいので、私も岩波文庫全十冊のうち、五冊目ぐらいで脱落しましたが、魅力ある作品のようで、何度も映画化・テレビ化されています。映画『新・里見八犬伝』は薬師丸ひろ子・真田広之主演でかなりヒットしました。そのころ見ても、「さすが角川やのう」としみじみ嘆かせてくれるトホホな映画でしたが、今見ると、そのトホホさ加減が新鮮なのではないかと思います。べつに見たくもありませんが、玉梓をやった夏木マリだけは見てみたいような。NHK人形劇でやってた『新八犬伝』は評価が高いようです。辻村ジュサブローの人形も気色悪くてよかったし、語り手の坂本九の「因果はめぐる糸車」というフレーズも印象に残っています。そのあと「なんたらかんたら風車、わが家の家計は火の車、車は急には止まれない」とか言ってたような気もしますが、記憶ちがい? 網乾左母二郎(あぼしさもじろう)という浪人が出てきて、名を問われると、なぜかいつも甲高い声で、「さもしい浪人、網乾左母二郎でーい!」と言ってました。「さもしい浪人」は「左母二郎」にかかる枕詞なのですね。しかし、自分で言うこともないじゃろ。このことば、わが家では流行語になりました。意地汚いことをしているのを見とがめて、「さもしいやっちゃなー」と言うと、「さもしい浪人、網乾左母二郎でーい!」と返さねばならない掟でしたな。番組ラストの九ちゃんの決めぜりふはたしか、こうでした。「本日、これまで!」

2012年7月25日 (水)

あみだがいけ

国語の問題を作ろうと思えば、あまり娯楽性の強い作品は出題できません。それでも、読んでおもしろくない文章はできるだけ出したくないので、その境界のギリギリのところのものを探すこともよくあります。SF的なものは比較的出しやすいのですが、推理物はかなり限定されます。とくに殺人事件を扱ったものはまずいようです。「犯人はだれか。断定した根拠とともに五十字以内で書け」なんて問題もおもしろいと思うのですが。犯人の名前と同じような名前の生徒がいたら、文句を言われそうです。それを避けて、犯人の名前を「綿志賀星太(わたしがほしだ)」などに変えるわけにもいきません。

最近は、北欧の推理小説が相当おもしろく、スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作はなかなかのものでした。これを映画化した『ドラゴン・タトゥーの女』は原作をはしょりすぎで、本を読んでないとついていけない感じでしたが、雰囲気は出ていました。「マルティン・ベック」のシリーズやヘニング・マンケルの「ヴァランダー」シリーズもスウェーデンです。登場人物の北欧系の名前や地名になじみがないので、ちょっと混乱することもありますが、結構おもしろい。作者の名は忘れたけど、『魔女遊戯』という本は、なんとアイスランド(!)です。タイトルが虚仮おどしで抵抗があったものの、国名につられて思わず買ってしまいました。中身は予想通りイマイチでした。読みやすくはあったのですがね。子供のころ読んだドイルやポオは、翻訳文の下手さにあきれはてたものです。結構有名な訳者もいるのですが、英語はわかっても、日本語のプロではない人たちだったのでしょうか。文法的にも変だし、言い回しが古くさすぎるし、決定的なのは文章にリズムがないことです。はっきり言って読むに耐える代物ではなく、翻訳ものが好きな人はなぜあの文章に抵抗を感じないのだろうか不思議でした。中学生のときから十年ぐらい、翻訳ものは読まないことにしていました。たまに必要があって読むことがあっても、腹立たしく思うことが多かったものです。ところが、最近の翻訳はいいですね。翻訳業界も、古いだけの下手くそが減って、生きのいい若手の人たちが出てきたのでしょう。『ミレニアム』の訳なんて、翻訳臭がまったくない自然な文章なので、あれだけの分量でも一気に読めます。

推理物と言えば、テレビ番組の『相棒』がだめになりましたね。初期のころは毎回趣向を凝らしておもしろかったのが、最近はがっかりすることがよくあります。とくに、杉下右京がトリックを見破るきっかけなんて、ワンパターンで陳腐すぎます。犯人しか知り得ない事実をうっかりポロッとしゃべっていて、それが決め手だったというパターンを何回見たか。それでもノベライズは全巻購入してしまっているのが情けない。新しいのが出たら、また買ってしまうのだろうなあ。シリーズもので、順次刊行される場合は途中でへたることがよくあります。デアゴスティーニなんて、最後まで買い続ける人がどれぐらいいるのでしょうか。銀河鉄道999のDVDコレクションは創刊号が790円だったので、思わず買った人がいるかもしれませんが、そのあとは隔週で1800円ぐらいになります。二週間に一ぺん買い続けるだけでも大変ですし、金額も合計すれば7万円を超えそうです。D51や和時計を作る、というのもありました。途中1号でもぬけてしまえば材料がそろわなくなります。実際にはバックナンバーも買えるのでしょうが、そこまでするのも、なんだかなあ。

とにかく定期的に買い続けるというのは、相当の持久力と経済力が必要です。キングの「ダークタワー」のシリーズは根性で文庫版の全巻を買い続けましたが、しんどかった。単行本で買っていれば20年以上かかっていたはずなので、それに比べりゃましですが。半村良にも泣かされました。『妖星伝』も5年ぐらいかけて6冊出たのですが、完結編が出たのは、それから15年くらいかかっていたような。ムー大陸2000年の歴史を描いた『太陽の世界』なんて、全80巻の予定だったものが、20巻まで行かないうちに、半村良が死んでしまった、という「金返せ」的な結末でした。昔途中でへたった大佛次郎の『天皇の世紀』も実は未完だったのですが、最近文庫で出たものは、12巻を毎回買い続けて読破できました。橋本治の中公文庫版『双調平家物語』は2巻まで買ったところで、その後買い忘れてしまい、近所の本屋では続きを見なくなってしまいました。15巻ぐらいあるはずなので、まだ完結していないと思いますが、大きな本屋で十何冊も一気に買うだけの気力がわきません。「平家物語」なのに、平家に行き着かず、藤原鎌足の話で止まったままなのがつらい。山岡荘八や吉川英治は30年ぐらい前に一気買いしました。山岡荘八は『徳川家康』だけでも26巻ありました。ソフトカバー版で読んだものが山岡荘八歴史文庫という形で再録されたときにもまた買ってしまい、ウチには52冊もありました。NHK大河ドラマの「太平記」の原作は山岡の『新太平記』ではなく、吉川英治の『私本太平記』だったのでしょうか。『新・平家物語』も15、6巻ありましたが、仲代達矢主演で大河をやっていました。仲代も大根と言われていたのですが、視聴率はよかったのでしょうね。

落語の本というのも意外にあって、うちの本棚には、ちくま文庫で米朝が8巻、枝雀が5巻あります。どちらも完結しているのかなあ。圓生古典落語も集英社文庫で5巻あります。奥付には「昭和55年第1刷」とありますが、これは完結したようです。静山社文庫でポツポツ出ていた『談志の落語』は9巻で終了でしょう。9巻めは談志が死んでから出ています。「談志が死んだ」は回文ですが、この回文は談志が生きてたころから言われてましたね。レコード(死語!)では圓生の全集、テープでは志ん朝の全集を持っていたのですが、あれはどこに行ったのだろう。地震のときのドサクサでわからなくなりました。枝雀のレコードは、全集の形ではなかったようで出るたびに一枚ずつ買っていました。襲名して間もないころは甲高く早口で晩年のものとはかなりちがっていました。あのレコードもどこかへ行ったんやなあ。どこかに行ったんはおまえだけの知恵やないな、だれぞが行け言うたんやろ、だれが行け、言うたんや。ああ、それやったら、あみだがいけと言いました。すんません、いちびりすぎました。

2012年7月 3日 (火)

オモローby山下

司馬遼太郎の『坂の上の雲』は大ベストセラーなのですが、「小説」としてはどうなのでしょう。たとえば秋山真之という「人物」があの作品から伝わってくるか、というとどうでしょうか。エピソードの積み重ねで、なんとなくイメージできなくはないのですが……。一つの時代、あるいは一つの歴史的事件をおもしろく語る点で司馬遼太郎という人はぶっちぎっていますが、小説の人物造形という点では散漫な印象を与えます。作者が途中で割ってはいって顔を出すところなど、あれは小説とはちがうものだと見たほうがよいでしょう。司馬遼太郎による史談ですね。自分の考えを示す手段として小説の形式を使っているだけです。むしろ完全なフィクションである、初期の『梟の城』や『風神の門』のほうが、ストーリーのおもしろさだけで読ませるという点で「小説」的と言えるかもしれません。とはいうものの、『坂の上の雲』にしろ『龍馬がゆく』にしろ、おもしろいことは確かです。司馬遼太郎以降、「歴史小説家」と呼ばれる人がたくさん出ましたが、だれ一人として「おもしろさ」の点で司馬遼太郎をしのぐ人は出ていません。いわゆる時代小説も長い間売れ続けていますが、ベストセラーになっているにもかかわらず、「おもろしい」ものは少ないようです。山本周五郎のような古典落語的で「ベタ」なおもしろさだけがおもしろさではないし、個人による差があるのは確かですが。

おもしろいといえば、最近は女流がおもしろいようです。『阪急電車』の有川浩など、どれもストーリー展開はマンガですが、心地よく読ませてくれます。『三匹のおっさん』なんて、活字のマンガやろうな、あざといなあと思いながらも、読み始めるとついつい読んでしまいます。『塩の街』『空の中』『海の底』の自衛隊三部作もワクワクしながら読めたし、『図書館戦争』のシリーズなどはおっさんの読むものとはちがうようですが、恥ずかしながら山下上等兵、読んでしまいました(古い)。『シアター!』なんて模試で出しとるがな。『夜のピクニック』の恩田陸もうまい。ドラマ化された『六番目の小夜子』もおもしろかったし、『常野物語』のシリーズなんて模試で出しとるがな。辻村深月の『冷たい校舎の時は止まる』も読みごたえがあったし、『ぼくのメジャースプーン』なんて模試で出しとるがな。うまい人は他にもたくさんいます。柴田よしき、角田光代、そうそう宮部みゆきなんて、何回も模試で出しとるがな。西條奈加なんて人もいます。西川先生おすすめです。『金春屋ゴメス』がお気に入りらしい。特に文庫本の表紙の絵が好きなようですが、理由はナイショ。

札幌ススキノを舞台とした『探偵はBARにいる』という映画は結構おもしろかったです。北海道出身の国語科T見先生もごらんになったとか。この原作は「ススキノ探偵シリーズ」第一作の『探偵はバーにいる』ではなく、二作めの『バーにかかってきた電話』でしたが、東直巳のこのシリーズは非常に読みやすい。このシリーズだけでなく、東直巳の文章はどれも心地よい。よい文章にはリズムがあるのですね。リズムは大切ですし、バカリズムもおもろいな、たらりらりん。模試に出すために文章を入力するとき、タイプミスが出やすい文章があります。こういうのはだめですな。リズムがない。ちょっとかための文章でもリズムのあるものがあります。辻邦生の『安土往還記』や福永武彦の『風土』などはリズムがあって打ち込みやすかった。しかし、残念ながら「おもんない」。前者の「衆愚の高みにのぼった魂は孤独に罰せられる」という、信長のことを評した部分など、私としては好きなのですが、模試を受けた中三生たちにはおもしろくなかったでしょう。「おもしろさ」も大切ですな。もちろん、そのおもしろさは娯楽性とはかぎりません。漱石の『夢十夜』などはおもしろい。目の見えない子供を背負って、森の中の土饅頭のところへ行く第三夜など、ゾクゾクします。第一夜の「百年はもう来ていたんだな」というフレーズもいい。第十夜の豚に追いかけられる話はイマイチですが。

いまの時代は純文学も大衆文学もなくなりました。境目がありません。芥川賞と直木賞の区別もほとんどないような感じです。新人賞とベテラン賞に改名してもよいぐらいで、要は「うまい」「おもしろい」でしょう。重松清や浅田次郎はやはりうまい。SF系や推理系はおもしろいものが多い。死んじゃいましたが、伊藤計劃の『虐殺器官』なんてしびれます(古い)。この人、「メタルギアソリッド」のノベライズもやってました。『ジョーカーゲーム』のシリーズの柳広司、この人もすごい。『トーキョー・プリズン』のすごさなんて、半端ねえー(古い)。文章そのものもうまい。最近このレベルの書き手も結構多いのです。芥川や志賀直哉がうまいとか言う人がいますが、このレベルの人たちが彼らと同じ時代にいたら、彼らが霞んで見えたかもしれません。他にも『ワーキングホリデー』『青空の卵』の坂木司も地味ですが、おもしろい。『和菓子のアン』なんて、おしゃれなタイトルのものもあります。大倉崇裕の『七度狐』『やさしい死神』『オチケン!』は落語ファンでないと、ちょいとつらいか。伊坂幸太郎はメジャーになりました。『オーデュポンの祈り』は、イマイチでしたが、『重力ピエロ』『チルドレン』『グラスホッパー』『死神の精度』『ゴールデンスランバー』と続けざまになかなかおもしろいものを書いています。『終末のフール』なんて模試で出しとるがな(しつこいっ、ちゅうてねえ)。あ、思い出しました。『坂の上の雲』に影響を受けた紫野貴李の『前夜の航跡』もなかなかのものでした。記念碑として繋留されている戦艦三笠の中で聞こえる不思議な音の正体を暴く「哭く戦艦」など、オモローです(古い)。

軽い作品も悪くないですね。いわゆるラノベだって、読めるものはありそうです。有川浩にしても肩書きはラノベ作家です。あの筒井康隆大先生だって「最高齢のライトノベル作家」を自称しています。『十二国記』の小野不由美や『インシテミル』『氷菓』の米澤穂信などもいます。ただ、ラノベは表紙がつらい。一般の作品との境界がなくなって、ラノベ系のイラストの表紙のものもよくあります。電車の中で読むときはカバーをはずさなければなりません。おっさんの読んでいる本が、奈須きのこ『空の境界』であるとばれてしまっては、はずかしいじゃ、あーりませんか(古い!)。

2012年6月22日 (金)

ドーナツおちてる

最初にやる者がえらいのであって、今までなかったものをつくるのはすごいのですが、世の中にはいいかげんなものもあります。ことばの世界でも、今までなかったことばが生まれることがあります。たとえば「美肌」なんてことば、昔はあったのでしょうか。だいいち、どう読むのでしょうか。「び」は音読みなので、ふつうは「肌」も音読みの「き」にすべきですが、いつのまにやら「びはだ」という不思議な読み方で定着しています。化粧品業界の人が考え出したのかもしれません。「手書き原稿」なんてことばもあります。これは「ワープロ原稿」が生まれなければ、本来なかったはずのことばでしょう。ふつうは手で書くに決まっているので、わざわざ「手書き」と断る必要はありません。希学園の中では「手採点」という不思議なことばもあります。パソコン上で採点する「機械採点」に対して、直に赤ペンでマルペケをつければ「手採点」ですね。パソコンで採点するとスピードはあるので、楽になったのですが、漢字の採点がちょっとつらいのです。「手採点」なら、微妙な濃淡や字の勢いで判断できます。ところが、パソコンに取り込んだものでは、そのあたりがはっきりしません。「悪筆」の人にとって得か損かは場合によりますが、少なくともていねいに書いてくれていれば損をすることはないと思います。字の巧拙とていねいさは別なので、ていねいさを意識してほしいものです。

世の中には「悪筆」で有名な人もいます。都知事の石原慎太郎は、もともと作家だったわけですが、原稿だけでなく朗読したテープをつけて出版社に渡さないと誰も読めなかったとか、印刷会社にも石原慎太郎専従の植字工がいたとか、一人称の字が「僕」か「俺」か「儂」か区別できなかったとか、多くの伝説を残しています。「才能のある人は、字は手段に過ぎないと割り切って、そんなものは練習しない」という説もあるそうですが、でも伝達できないレベルではやはりまずいでしょう。ていねいに書くことで多少は読みやすくなるはずですし、やはり訓練の効果は大きいと思います。文字だけでなく、ことばの組み立て、つまり記述力も訓練でしょう。
話すときには「腰のあたりでグーッとパワーでプッシュして、ピシッと手首をリターンして……」と擬音だけの雰囲気でしゃべる人でも、書きことばになれば、きちんと書けます。書けるはずです。書けるでしょう、たぶん。文章を練り直して、最後まで「ネバーギブアップ」しなければ。また、「芸術はバクハツだ!」と叫ぶイメージで、わけのわからんことを言うと思われていた人も、じつは書いたものは非常に明快でわかりやすい文章でした。小説や詩になれば、さすがに才能が必要でしょうが、人に伝えるレベルなら、訓練次第だと思います。コツとしては、複雑に組み立てると乱れてしまうので、基本的には短い文から出発することでしょう。ワンセンテンスを長くしないことです。谷崎潤一郎ではなく、志賀直哉を目指すべきですね。シンプル・イズ・ベストです。

とはいうものの、話しことばでは、なぜか関西人は余分なことを言いたがります、かく言う私も含めて。シンプルだと我慢できなくなって、言わなくてもいいことを言ってしまうのですな。「一億円」と言うときには、必ずのように、「一おく円やで、一円おくんとちゃうで」と言ってしまうのは関西人の性でしょうか。聞いてるほうは確実にイラッと来ます。それにもめげずに、関西人はしょーもないことを言います、しかも下品。東京人なら、「家に帰って寝よう」ですませるところを関西人は「家に帰ってうどん食って屁ぇこいて寝よう」と言いたがります。しょーもないダジャレも言いたがります。東京では「おやじギャグ」として白い目で見られますが、関西では「おやじ」とは限りません。たぶん辛気くさいのがいやなんでしょうな。ちょっとでも笑いがとれればそれでええやん、と考えるのでしょう。「神殿で人が死んでんねん」なんて、不謹慎なだじゃれを平気で言いたがります。会社の会議でさえそうです。とある進学塾の理事長のM田T郎という人は、部下の「いまはこういうやり方がトレンドです」という意見に対して、「いやー、いくらトレンドでも、うちはその手法はとれんど」とのたまいました。この御仁は「そんなこと有馬温泉」というフレーズも好きでしたが、「あたりM田のクラッカー」という古いコマーシャルもお好きだったようです。祝賀会の劇でネタとして、よく使わせてもらいました。忘れられない台詞があります。「あ、ドーナツおちてる。……犬のう○こや! 食べんでよかった」。この台詞を合格祝賀会の舞台で大声で言った理事長は立派です。脚本を書いたのは私ですけどね。

だいたい合格祝賀会の講師劇でいちばん受けるのはダジャレネタですな。それも「中国のハエはちゅごく速ええ」のレベルの。仕込んで仕込んで積み上げて最後で落とす、みたいな「おしゃれ」なのは受けません。わかりやすいのが一番です。今年は禁断の「はげネタ」にまで手を出してしまいました。本当はやりたくなかったのですが、算数科のO方先生から是非やるようにそそのかされ、しかも「来年は、もっとハゲしくやれ」という厳命を受けているのです。祝賀会の劇では、その年のはやりものも出すのですが、一年たてば忘れられているものが多いようです。数年前、前述のO方先生には、ちょっと風貌が似てるかなと思って「ギター侍」をさせましたが、今はだれも知らない。理科のA田先生にも、あのコスチュームで「フォー」と叫んでもらったのですが、それってだれ? 今年は「マルモリ」というのがありましたが、二、三年たてば忘れられているのだろうなあ。

6年のテキストに、子規の俳句で「五女ありて後の男や初幟」というのがあって、「五女」を「ゴニョ」と読んだやつがいましたが、すかさず「なんやそら、崖の上のゴニョか」とツッコミがはいりました。このツッコミを言ったやつはえらいが、古い。さらに、そのうえにかぶせて「坂の上の雲か」と言ったやつも、古い。小学生とは思えません。こういうところに関西人の伝統が息づいていることに感服いたします。結構なお点前でございました。

2012年6月13日 (水)

おっす、おら宇宙人

塾の生徒たちにテキストの文章を音読させるとなかなかおもしろいことが起こります。コテコテの大阪風になる者もいますし、たまにきれいな共通語イントネーションで読める者もいます。でも、ほとんどが微妙に関西なまりなんですね。私自身もそうです。NHKのアナウンサーのような読み方ではなく、「橋の端を箸を持って走った」と読むときには、大阪弁になっとりまんな。日本全国均一化していく中でやはり方言の要素は残っていくのでしょうね。

テレビで『ブリンセストヨトミ』をやってましたが、あの中の大阪弁はなかなかつらいものがありました。原作の設定を変えてまでも綾瀬はるかを出したかったようですが、それ以外は大阪が舞台なら大阪出身の俳優をキャスティングすればよいのに、あえてそうではない人ばっかり出してきたのは何が狙いだったのでしょうか。西宮出身の堤真一を使いながらも、大阪をきらって飛び出したという役なので関西弁ではありませんでした。そのくせ、必然性のない部分でなぜかときどき関西なまりになっています。大阪を捨てきれない心の奥底を微妙に表した演出やね、と思っていたら、綾瀬はるかまで、関西訛りになってしまったところがありました。あれは何だったのでしょうか。中井貴一などはましなほうですが、みんな妙なイントネーションのえせ大阪弁を話す中で、綾瀬はるかも影響を受けてしまったのか。関西弁の威力、おそるべし。同じころに『阪急電車』もやってましたが、こちらのほうは関西出身の人が多かったせいで違和感がありませんでした。中谷美紀は開き直って関西弁を使っていないし、宮本信子は関西出身ではないのに、西宮の芦田愛菜を相手に上品な感じで抵抗なしでした(ただ、映画そのものは途中でギブアップしてしまいましたが)。

関西を舞台にしたドラマに関西人をなぜ使わないのか。関西人でなければ、あの「気色悪さ」はわからないのでしょうね。とはいうものの、リアルすぎる方言では通じなくなります。純正鹿児島弁のドラマは字幕なしでは理解できません(大河ドラマの『翔ぶが如く』では、やってたような)。時代劇にしても同じことが言えます。どの地方の農民も、「もうがまんなんねえだ、おらたち一揆やるだ」という言い方をします。これは方言ではなく、江戸時代の農民だったら、こんな感じ?という「役割語」です。江戸時代の、しかもその地方のことば通りにしなければならないとなったら、脚本家はお手上げでしょう。ある程度それらしく言えば、まあいいかと許せます。武士は「かたじけのうござる」「しからばこれにておいとまつかまつる」とか言ってほしいのに、いくら暴れん坊将軍でも「ワイルドだぜぇ」と言ってたら、どっちらけです。大河コントの『江』は、志村けんの「そのほう、年はいくつじゃ」はいつ出るの、というレベルだったので最後まで見ずに「脱落」したのですが、中身は着物を着ている現代ドラマで、台詞もそんな感じだったような気がします。「うっそー、お姉ちゃんたら、だっさーい」みたいな。西川先生推奨の『平清盛』も、平安末期のことばをそのまま使い、当時の発音でリアルにやるべきだと言われたら、作るほうも見るほうも困ってしまいます。

でも、この『平清盛』、じつはけっこうおもしろいのですけどね。ところどころ『ちりとてちん』のノリが出てきてマンガになるところがあざといのですが、オウムやサルの使い方など、ちょっとした細かい部分で笑えるところもあって、じっくり見るとなかなかのものです。「青墓」という土地の描き方や、「こ○き」発言など、NHKらしからぬ大胆さもあって、伝統的大河ドラマとはひと味ちがいます。戦場にゆく男たちではなく、家に残る女性の視点で描こうとした「太閤記」もかつてありましたが、『平清盛』では、武将の家庭人としての側面やどろどろした人間関係の描写に力を入れています。そのあたり、ちょっとかったるい面もありますが、ドラマとしては悪くありません。視聴率が低いのは、派手な合戦シーンや単純明快なヒーローを求める人が多いのかなあ。親子関係のことでチマチマなやむ、粘着質なシーンなんて見たくないのでしょう。「リアルすぎて伝わらない」というところでしょうか。とんねるずの「こまかすぎて伝わらないモノマネ」というのはすごくおもしろいのでわたしは好きなのですが、関係ありませんね。

予想もしないことを見せられる感動というのもあるのですが、逆に期待しているものを見たいという気持ちもあります。吉本新喜劇など、全編それです。また、これはこういうものだという思い込みを裏切られると不愉快になります。大河ドラマはこういう描き方をするものだという思い込みがわれわれにはあるのでしょう。アメリカの映画に出てくる宇宙人はなぜか英語で話します。日本に来た場合は、なぜか日本語で「われわれは宇宙人だ」と言います。なぜ「われわれ」なのでしょう。「わたしたちは」でも「おれたちゃ」「拙者どもは」ではなく、なぜか「われわれ」です。一人で来た場合は、どう言うんでしょうね? たぶん、この手の映画のいちばんはじめのものが「われわれは…」だったのでしょう。最初にやったものが踏襲され、これはこういうものだと思われるのです。そんな「思い込み」のあるものを途中で変えるのは勇気がいります。実は、根拠のあるものではなく、単に踏襲しているだけにすぎないものであっても、途中で変えると、そのことを知らない人に批判されたりします。

古い映画では江戸時代の既婚女性はお歯黒をしていましたが、今のテレビでお歯黒を見ることはありません。途中で変わったわけですが、おそらく変だと思った人も多かったでしょう。ところが、今またお歯黒にもどすと「気色悪ーい」とか言って批判する人が確実にいるはずです。江戸時代までは手と足を交互に出すのではなく、右手右足を同時に出す「なんば歩き」をしていたはずだから、と言ってそういうふうに歩き出したらどうでしょう。すごく違和感があります。ゲームやマンガでの織田信長の南蛮風のスタイルも今では定番になりましたが、たしか黒澤明の『影武者』でやったのが初めてだったような気がします。えー、ほんまかいな、と思うようなことでも「世界の黒澤」なら許されるのです。なまこを最初に食ったやつがえらいように、最初にやったやつがえらいのですな。卵も最初に立てたやつつはえらいのですが、それはなんの役に立つ?

2012年5月29日 (火)

山の数え方

ついに日本人初の14サミッター誕生ですね!

新聞に大きく出てたんですが、ご覧になりましたか?

世界に全部で14座ある8000メートル峰すべてに登った人は、これまで日本にいなかったんですが、竹内洋岳さんという方がついに達成しました。

ちくしょう、オレもねらっていたのに!

僕がまだ富士山にも登らないうちに達成されてしまったが、正々堂々と戦って負けたのだからむしろさわやかな気持ちです。

ま、竹内さんはオレというライバルがいたことはまったく知らないわけだが。

・・・・・・。

それはともかく、こういうニュースを新聞で見かけたとき、塾生諸君には、

「お、山って、1座2座って数えるんだ~」と気づいてほしいところですね。

2012年5月23日 (水)

リオデジャネイロは東京弁

「めちゃめちゃ」「むちゃくちゃ」の省略形の「めっちゃ」や「むっちゃ」は元の形がわかりますが、「むっさ」となると、瞬間、ン?と思います。ましてや「ごっさ」となると、なにそれ?と思ってしまいます。これは、さすがに定着せずに消えたような……。「ばり」というような「新方言」もありますが、これは何でしょうね。「ばりばり仕事をこなす」のように元気で勢いよく活動する様子ではなく、「非常に」の意味で使っているようです。最初のころは「ばりばりむずかしい」のような言い方をしていたのが、「ばりむずかしい」「ばりむずい」というように、どんどん短くなっていきました。ヤンキー系のことばのような気もするし……。「バリバリ伝説」は全然関係がないのかなあ。

「新方言」の一つの特徴は、省略形が多いことでしょう。「気色悪い」が「きしょい」、「むずかしい」が「むずい」になるように。まだ使う人は少ないようですが、「はずい」というのを聞くことがあります。「はずかしい」の省略形なので、「むずい」と同じで、特に問題はないようですが、「はずい」と言っているのを聞くと、なにか「はずい」ような気がします。「鬼~」や「ブルー入ってる」のように、いかにも若者が作りましたということばは聞いているほうも相当「はずい」し、すぐに消えてしまいましたが、「はずい」の作成法は「オーソドックス」なのに、なんか妙な感じがします。「気色悪い」は六音なので省略したくなりそうですが、何音なら略すのでしょうか。「むずい」はもともと五音です。それなら「ありがたい」は「ありい」、「やかましい」は「やかい」になってもよいのに、そうなっていません。「おびただしい」は六音ですが、「おびい」とは言いません。というより、「おびただしい」ということば自体、日常会話では使わないか。

そもそも省略形は形容詞が多いようです。形容詞は特に感動を強く表すときに語幹のみで使われることがあります。強烈にくさいときは「くさ!」になります。「くっさー」となると岡八郎です(みんな知らんやろなー)。形容動詞も同じで「きれいだ」は「まあ、きれい!」になります。女の人のこういう言い方を聞いた子供たちは、「ビューティフルな状態」のときには「美しい」とも言うし「きれい」とも言うのやな、「美しい」は「美しかった」と言えるから、「きれい」も「きれかった」と言えるやろ、と勝手な類推をしてしまうのですね。「まずい」場合は「まず!」で、はげしくまずい場合には「激まず」という使い方もします。「むずかしい」は本来「むずかし!」ですが、強く感動を表したいのに、ことばとしては長すぎるので「むず!」になるのでしょう。「気色悪い」も叫び声として使いたいことがあるので「気色わる!」が「きしょ!」になったのでしょう。ということは「はずかし!」が「はず!」になってもおかしくないのですが、そうすると「恥ずかしい」と同源の「恥ず」という動詞と区別がつかなくなるので、本能的に避けたのでしょうか。いやいや、まさかそこまで高度なことを考えるとは思えませんな。

単語が時代によって変化するのは当然ですが、発音も変わっていくわけです。大阪では「淀川の水」が「よろがわのみる」になり、「きつねうどん」が「きつねうろん」になり、「し」が「ひ」になまって、布団は敷くものではなく、「ひく」ものでした。でも、そういうなまりはほとんど消えてしまっています。しかしながら、根本的な部分はなかなか変わらないのでしょうか。一音語をのばして発音するという特徴は健在です。「一、二、三、四……」は東京人なら「いち、に、さん、し……」ですが、大阪人は「いち、にい、さん、しい…」です。「木がはえる」は「きいがはえる」、「目が悪い」は「めえがわるい」になります。「手をあらう」が「てえあらう」になるのは「を」を省くという特徴も含んでいます。「胃」も「いい」ですが、これは「イー」の発音になっています。昔の人は「いい」の二つ目を強く発音していたような気がします。東京で授業をしているとき、保護者の方との話の中で「詩の出題が減ってきた」と言ったのですが、一瞬けげんな顔をされました。たしかに「しいのしゅつだいが……」と言ったのでは、東京の人にはわかってもらえません。

どちらにせよ、一音語を長音化するのは関西弁の特徴であり、東京ではないはずなのですが、「二二六事件」の読み方はどうなのでしょう。わが大阪人なら当然のごとく「にいにいろく」ですね。江戸っ子は「ににろく」と発音するはずですが、そんなふうに言っているのを聞いたことがありません。どうして、これだけ関西弁を真似するのか説明できる人がいないかなあ。「問う」の過去形で「問った」と言えずに「問うた」という「ウ音便」(謎の韓流スター、ウオンビン)を借りざるを得ない東京言葉の未熟さゆえでしょうか。ただ、どういうときに未熟さが露呈されるのか、規則性がほしいですね。「買った」と言って「買うた」と言わないくせに,「ありがとうございました」というときにウ音便を使わざるを得ないのはわかります。これが敬語だからですね。上方に比べて、関東は敬語が未発達だったから、関西のものを借りるしかなかったのですが、「問うた」も「二二六事件」も敬語とは関係がありません。もし「二二六事件」にふりがなをつけろという問題が出たら、やはり「ににろくじけん」と書かないと×なのかなあ。

イントネーションも少しずつ変わっていくのでしょうね。発音の平坦化はコンピュータ関連の人の発音が平たいところから生まれたのだろうと思っていましたが、「秘密のケンミンショー」などを見ていて、ひょっとして「栃木弁?」と思いました。U字工事やつぶやきシロー、立松和平、ガッツ石松など、文全体としては尻上がりイントネーションのようですが、単語それぞれについてはアクセントがあまりないような感じがします。「彼氏」を「枯れ死」のように発音する感じですね。東京言葉の中に方言がはいりこんできたのかもしれません。逆に地方には東京言葉がはいりこんできます。「~じゃねえよ」とか言う大阪人なんて本来ありえないはずなのに、友達どうしの会話のつっこみに使う人も多いようです。さすがにこういう部分は東京風のイントネーションのままなのですね。そりゃそうです、東京のことばをそのまま真似しているのですから、それは大阪弁じゃねえよ。

2012年5月16日 (水)

読書の話~頭がすっきりする本②

前回、「頭がすっきりする本はないかしら」という話題から、「対話形式で物を考える」という話題を経由し、「対話」について書かれたバフチンの本を読むぞ~と思いついて話が終わりました。

そのとき、グールドの『人間の測りまちがい』を再読していたので、これを読み終わったらバフチンの本を読もうといったんは決めたんですが、結局、せっかちな私は、グールドをうっちゃって、さっそくバフチンの『小説の言葉』にとりかかりました。で、本日の昼過ぎ、阪急電車京都線準急の中で読了しました。

この本は確か10年~15年ぐらい前(ひょっとするともっと前かも)に1度読んだことがあり、そのときからバフチンの言う『対話』という概念は引っかかっていたんです(良い意味で)。で、折にふれて考えようと胸に刻んだまま幾星霜、いつのまにやらほとんど忘れかけていた頃に、あらためて、考えたいテーマとして前景化したといいますか、浮上したわけです。

『国語まにあっくす』なので、少しだけマニアックな話をしますと、バフチンが「対話的」と呼ぶのは、登場人物同士の会話に限られません。たとえば、次のような文も「対話的」ととらえます。

「しかしタイト・バーナクル氏は、いつもボタンをきちんとかけていた、また、そうであるがゆえに重鎮であった。」(ディッケンズ『リトル・ドリット』 訳;伊東一郎)

なぜこれが「対話的」な表現といえるのか、バフチンは次のように説明します。

「そこには実際には二つの言表、二つの言葉遣い・・・・・・意味と価値評価の二つの視野が混ぜ合わされている」

「全く同一の言葉が・・・・・・二つの視野に同時に属し、従って矛盾しあう二つの意味、二つのアクセントを有することさえしばしばある」

上のディッケンズの例にあてはめると、まず、「バーナクル氏は、いつもボタンをきちんとかけていた」という部分には何の問題もありません。ところが、その続き、「そうであるがゆえに重鎮であった」という部分には、ある特殊な(変な、という意味ではありません)物の見方が表れています。この物の見方(ボタンをきちんとかけている人は重鎮である)は、一般世論=一般的で卑俗な通念にのっとった物の見方になっています。作者は、形式的には、この物の見方に同調するような書き方をしていますが、実際のところは、この「そうであるがゆえに重鎮であった」という表現からは「皮肉な」調子が読み取れます。つまり、一般世論とは異なる作者独自の見方が織り込まれているわけです。ここでは、作者の見解は「直線的」には述べられず、他者の言葉の中にまぎれこむように、いわば「屈折」されたかたちでにじみ出ています。ものすごく簡単に言うと、こういうこともふくめて、バフチンは「対話的」と呼んでいるわけです。

おもしろい! ・・・・・・ですよね?

バフチンは小説の文体論としてこの書物を著したわけですが、この「対話的」という概念の射程はもっと広いんじゃないかと僕は思います。論説的な随筆を理解するうえでもこの考え方は援用できるだろうと思うんですね。むしろ、そういったジャンルの文体なども全部ふまえて小説の文体が成立しているという話なので、論説的な文章にこの考え方があてはめられるのは当たり前といえば当たり前なんですが。

さて、この『小説の言葉』の中に、「論争的、弁明的」という言葉がくり返し出てきました。それで、なるほどと思ったんですが、どうも僕は「論争的・弁明的」に書かれた文章を読むと、(頭が冴えるかどうかは別として)、人と話をするときの受け答えが少し変わるような気がします。気のせいかもしれませんが、ちょっとだけ切れ味がよくなるような・・・・・・。どんな本が頭がすっきりするかというのはあまりはっきりしませんが、少なくとも、論争的・弁明的な意図が強く出た文章を読むと、受け答えという点での変化はある気がしますね。

ただ、本の話を離れて、ふだんから対話的に考えるということの効用を考えると、受け答えのときの切れ味だけに関わるわけではないような気がします。

対話的に考えることは、「他者の視線を内在化する」ことにつながると思います。

たとえば、記述ゼミナールの授業で演習をしますよね。子どもたちに記述問題をあたえてテキストに答えを書きこませます。そのときに「自分の答えをよく見直して、誤字脱字がないか確認しなはれ」と指示を出します。子どもたちはへいへいとうなずいて取り組むわけですが、机間巡視していると、実に誤字脱字が多い。見直しをしていないかというとそうでもない。もちろん見直しをさぼっている子もいますが、見直しをしていてなおかつ発見できない子がたくさんいるんですね。おもしろいのは、単に見直しをしたときと、僕に横に立たれて見直しをしたときでは、誤字脱字の発見率が変わってくることです。僕が横にいて答案を見ているとき、その見られているという意識の中で見直しをした子どもの誤字脱字発見率は上がります。

これは「直線的な」見直しではなく、意識において、「屈折した=他者の視線を経由した」見直しになっているからではないかと思います。誤字脱字に限らず、「この答えをあのこうるさい先生が見たらどんないちゃもんをつけよるやろ」と考えることはとても重要だと思います。講師の視野・講師の考え方をどの程度内在化できるか、学ぶことにおいてこれはとても大きいんじゃないでしょうか。

余談ですが、この本は私が買ったときには2800円だったのに、今じゃ平凡社ライブラリーから出版されていて、1200円ぐらいなんです。 まさかこの本が新書で出るなんて。新書になる前に1度読んでいるからよかったですが、高く買った本が、1度も読まないままに文庫化されたりするとショックで倒れそうです。最近、まさかと思うような本が文庫化されているので、年に数回倒れそうになります。

2012年5月 9日 (水)

頭がすっきりする本

その本を読むと、頭が冴え、人と話すときには言葉が、仕事をするときには考えが次々にわいてくる、そんな本がないかしらと物色中です。

実は、それに近い経験がないわけではありません。

もう十年以上前の話ですが、野家啓一先生(東北大学の哲学の教授です)の本をつづけざまに読んでいたとき、「最近、妙に調子がいいなあ」と感じました。本の内容は難しくて半分もわからないんだけど、とにかく読んでいて気持ちがいいし、人と話をしていても(比較的)切れの良い受け答えができる(ような気がする)。

そういえば、『資本論』を読むと頭が冴える、という話は昔よく聞きました。フランスの文化人類学者、レヴィ=ストロースが仕事の前に『資本論』を読んでいたとかいう話もありました。確かに、『資本論』はそういうところがありました。ただし、僕の場合、自主ゼミで3時間ぐらい「あーでもないこーでもない」とやった直後は疲労困憊してしまっていつも頭がぼんやりしていたような。

うん、でも、確かにある種の本に関しては、少なくとも読んでいて気持ちがよく、「頭が冴える」とまでは言わなくとも、「頭がすっきりする」、そういうことはありますね。

僕にとっては、ダーウィンの『種の起源』もそういう本のひとつでした。

最近読んだのでは、進化生物学者グールドの『人間の測りまちがい』とか、廣松渉の『資本論の哲学』もそういうところがありました。

『人間の測りまちがい』と『資本論の哲学』は続けて読んでヒットだったので、すっかり気を良くしてしまい、これからは、こういう本ばかり読むぞ~と決めたわけですが、次に選択したクラウゼヴィッツの『戦争論』はいまいちでした。

『戦争論』は論理的に書かれているし、体系志向だし、絶対いけてるはずだと思ったんですが、少なくとも僕にとってはあまり気持ちよくなくて、途中でやめてしまいました。

何でだろう?

で、ひとつ考えたのは、本の書き方が、対話的かどうかってことがポイントなんじゃないかということです。上述の『資本論の哲学』は実際にはじめと終わりの部分が対話形式で書かれています。『人間の測りまちがい』は形式上は対話形式ではありませんが、ある種の傾向を持つ学説に対する反論として書かれているので、とても対話的なんです。これが、僕にとっては大きいような気がします。

他の人もそうなのかどうか知りませんが、僕はものを考えるときに、対話のかたちで考えることがよくあります。

実際に相手を思いうかべ、相手の言葉―自分の言葉―相手の言葉―自分の言葉―というふうに、相手が言いそうなことを想定しながら考えていきます。思いうかべる相手は、だいたい実在の人物です。わりと親しい(優秀な)友人や、言い負かしてやりたい知人、場合によってはすごく嫌いな人など、その都度適切な相手を(いつのまにか)思いうかべて、頭のなかで会話しています。

これは小学生の頃からの癖ですね。

家のトイレでふんばっているときなんかに、もうひとりの自分と架空の対話をしていた記憶があります。

「くそう、出ねえな、おまえどう思う?」

「どう思うって言われてもねえ」

とかなんとか、たぶん、実際にぶつぶつ声を出してやっていたと思いますね。ひとりっこだったので、話し相手がおらず、そういうふうになったんでしょうね。

これは憶測ですが、そういうふうに対話的にものを考える癖のある人は、国語が得意なんじゃないでしょうか。そういう人は、少なくとも言葉と言葉のやりとりというかたちでものを考えているわけで、概念的思考がある程度発達するような気がします。もちろん、そういう人だけが国語ができるという意味ではありませんが。

この「対話」の問題は、もう少し考える価値がありそうな気がしますね。よし、今読んでる本を読み終わったら、その筋の本を読んでみようっと。確か、バフチン(というソ連の文芸評論家)の本に、その関連のことが詳しく書かれていたはず。売らずにとっておいて良かった。

でも、バフチン読んで頭すっきりしたことあったっけなあ?

2012年5月 2日 (水)

テレビ番組

今回は、受験勉強の敵=テレビ番組について。

帰宅がたいがい零時前後になるため、テレビは、録画しておいて、時間のある昼間に見ます。

毎週見ているのは、『平清盛』ですね。何で視聴率が低いのかよくわかりません。前にも書きましたが、伊東四朗や三上博史の演技が良くていつも感心します。山本耕史も良いですね。悪役ぴったりです。ほんとうにいやな感じでグッドです。

最近見たものでおもしろかったのは、『見狼記』というドキュメンタリーでした。ニホンオオカミの生存を信じてさがしつづけているおじさんを主軸に、オオカミ信仰の取材をからめ、「見えないものを見ようとする人々」を描いていました。こういうのは民放ではやらないし、できないなあと思います。これだったら受信料とられても文句言えないなと思わせる出来映えでした。

あと、BS歴史なんとかみたいなので平清盛をとりあげていた番組がなかなかおもしろかったです。平清盛モノのうんちく番組は今年たくさんやっていますが、出色の出来映えでした。最近平家についての本を出した公認会計士の方と、東大の先生と神戸大の名誉教授を招いて、平清盛の革命性がどういうところにあるのかとか、清盛死去の後になぜあんなに脆く平氏が滅亡してしまったのかを突っ込んで解説してくれたんですが、かゆいところに手が届く番組に仕上がっていました。

ブラタモリもときどき見ます。街歩きの好きな僕としてはああいうのを関西でもやってほしいなあと思います。

先日、かなり前に録画しておいた「神宮外苑」の話を見ていたら、(番組の出来映えとは無関係ながら)おもしろいシーンがありました。国立競技場の中を職員に案内してもらっているときに、アナウンサーの女性が「ここからサッカー選手が子どもといっしょに登場するんですね」と言うと、職員の女性が「それはここじゃないんです、もう少しあっちですね、すみません」というようなことを言ったんです。この「すみません」がおもしろかったです。何で謝るんでしょ? いや、もちろんそこで謝る感覚というのは僕はわかります。同じ日本人なので。でも、欧米の人とか、アジアでも中国の人にはもしかしたらわかんないんじゃないかしら、と思います。

この「すみません」はわからない人にはわからないような気がします。

僕が考えた説明はこうです。つまり、自分の気づかいが足りないせいで、アナウンサーの女性がうっかり誤ったことを言うはめになってしまった、恥をかかせてしまった、そんな感じじゃないかなあと。サッカーの選手が云々というのはいかにも人が思いつきそうなことなんだから、あらかじめこちらから説明しておけば、このアナウンサーの人はテレビカメラの前でまちがったことを言わずに済んだのに・・・・・・みたいな。

まあ、実際に外国人(外国で生まれ育った人)にわからない感覚なのかどうか、つきあいがあまりないので、よくわかりません。意外と似たようなもんかもしれないなとも思うし、逆に予想外のところで全然ちがっていたりするんだろうなとも思います。

テレビ番組の話にもどると、小6になればテレビを観ている暇は正直あんまりないでしょうが、小5ぐらいまではいろいろ観るのも勉強になるんじゃないでしょうか。文章を読んでその情景がきちんと思いうかべられるかどうかは、頭の中にどれだけ「情景の抽斗」を持っているかどうかにもかかっているんじゃないかなと思います。

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