2012年9月16日 (日)

かあちゃんはモンローです

「知らんけど」というのは、すべてを台無しにする力ぬけフレーズです。関西人、とくにおばちゃんがよく使います。「あんた、それ絶対まちがいないで、知らんけど」とか「フランシスコ・ザビエルが首につけてんのんシャンプーハットやて、知らんけど」とか「知らんけどとか言う人なんかおらんやんな、知らんけど」とか、よく言うとるようです、知らんけど。推理小説の最後で探偵が言います。「おまえが犯人やろ、知らんけど。」責任丸投げの高田純次みたいな破壊力がありますな。

で、前回の続きですけど、実態を知って、えっ、あの人ってそうなん、と思うことがよくあります。ムンクの絵はすごいと言いますが、あの人は精神病院にはいってて、その病気はまわりの情景が歪んで見えるようなものだったらしい。ということは、あの絵はリアルな具象画っていうことになるんでしょうか、知らんけど。裏情報を知ると変な感じになることもあります。サマセット・モームの『月と六ペンス』なんて、ゴーギャンらしき人物を追いかけるだけの妙ちくりんな小説ですが、なんとモームの本職は諜報員です。ということは例のMI6ですな。イギリス情報局、ミリタリー・インテリジェンス・セクション6です。かっこいいですな。今は名前が変わってしまったらしいですけど。モームは、はげしい諜報活動で体をこわして療養中にこの作品を書いたとか。グレアム・グリーンも所属してたらしいけど、意外性は少ないし、007のイアン・フレミングは当然でしょう。でも言うても諜報員です。スパイですぜ。「00」は殺しのライセンスです。「THE MOON AND SIXPENCE」の中にも「ダブルオー」がはいってます。ひょっとして、モームのコードナンバーは006? サイボーグなら中国系の張々湖(チャンチャンコ)、口から火をはいてましたが、なんのこっちゃわからんやろな。

作品と作者の実像が結びつかないことがよくあるのは当然でしょう。ハードボイルド作家が軟弱であったり、耽美的な作品を書く人がマンガみたいな顔をしていたり、歴史小説の大家が大木凡人みたいであったりしてもおどろきません。悪役を演じる人は、憎らしく思ってもらえれば本望とか言って、とことん憎たらしく見せるのですが、じつは善人だとはよく聞くことです。でも、顔はどう見ても「悪人づら」をしています。人は見かけによらないものであるなら、善人や正義の味方を演じる人の真の姿はどうなんでしょう。じつは悪人? お笑い系の人も舞台を降りると無口であったり、普段はおもしろさのかけらもないという人もいるそうですが、素ではなく芸の力だけで笑わせるというのはすごい。しかし、「知らんけど」を連発するような大阪人はそういうのはあまり好きではないようです。舞台の外で出会った芸人にも「ギャグ」を要求します。裏表があるのをきらうのでしょうが、芸人としては疲れます。プライベートなしです。

道行く大阪人のほとんどは、指をピストルのようにしてバーンと言われると、「やられたー」とか言って大袈裟に倒れるという高尚な実験をテレビでやってました。素人がつねに芸人であるという不思議な風土です。話をしていても必ず、「で、オチは?」と言われます。希学園の国語イベントでも、「漢字の征服」「語句の制覇」にひきつづいて「文法の○○」を作ろう、ということになって、ネーミングどうする? というと「制圧」とか「攻略」とか勇ましいのが出てきますが、みんな心の中では「語句のセーハ」の次に文法でヒーコラ言わせるんやから「文法のヒーハー」に決まっとるやんけ、とつぶやいている声が聞こえきたのは気のせいか。「目ェ充血してるで」と言われて、たしかに痛かったりするのに、「そんなふうにめーまっかー」と返す、かなしき大阪人。だじゃれがすべっても、「ここ笑うとこよ、ここのがすと、あと笑うとこないよ」とかぶせてきます。「オレオレ詐欺」の電話がかかってきても、「あんた、だれ、太郎やろ」「うん、太郎」「太郎、どないしてん」とさんざん相手に話させておいてから、「あ、そや、うちとこの息子、三郎やった。あんた、まちがい電話やで」とか、「そうか、太郎、たいへんやったな。ほな、本人と変わるわな」「え?」息子がかわって「もしもし、俺も太郎やけど、あんたも俺か」というような遊びをせんとや生まれけん。

電話の詐欺は顔が見えませんが、詐欺師も見るからに詐欺師では商売にならんでしょう。英雄の顔はどうなんでしょう。見るからに英雄でしょうか。義経なんて、じつはブッサイクやったと言いますね。でも、神木隆之介にさせるんですね。滝沢義経の少年時代を演じたので二回目だそうです。国広富之や野村宏伸もやりました。菊之助と言ってたころの尾上菊五郎もやりましたが、蛭子能収はけっして演じません。塚地武雅も信頼役は許せても義経をしてはいけません。見ている人は、イメージとちがうとむかつくのですね。顔だけでなく声も同じで、むかしはマンガがアニメ化されたときの声がイメージとちがうと言って文句をつける人が多くいました。最近は少なくなったのかなあ。ドラえもんの声が変わったのはどうなんだろう。サザエさんのカツオの声が変わったときも文句を言ってる人がいました。どっちも見てないのでわかりませんが。丹下段平の出てくるCMがあります。何のCMか知らんけど。さすがにあの声は元の藤岡重慶とは全くちがうので、違和感があります。藤岡重慶さん、二十年ぐらい前になくなってるのでやむをえませんが、「やましたー」と言って、西郷輝彦をいじめる坂田軍曹という役がよかったです、知らんやろ。ルパン三世の声をやってた人が死んでしまったあとは、栗田貫一がものまねでやってましたね。山田康雄は、ルパン以外にはクリント・イーストウッドやジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えもやってました。洋画の吹き替えの担当は固定化するのですね。アラン・ドロンと言えば野沢那智、この人はアル・パチーノとかダスティン・ホフマン、ジュリアーノ・ジェンマもやってました。ブルース・ウィリスもやってたような。『ボルサリーノ』では野沢がドロンをやって、山田康雄がジャン・ポール・ベルモンドを吹き替えたはずです。女優では、ブリジット・バルドーが小原乃梨子、マリリン・モンローが向井真理子、オードリー・ヘップバーンが池田昌子というように決まっていました。お子さんが学校の作文で「ぼくのお母さんはマリリン・モンローです」と書いたとかいうような話を永六輔の本で読んだ記憶があります、知らんけど。

2012年9月10日 (月)

またクマに遭ってしまった私

北海道の大雪山でヒグマに遭遇した話を前に書きましたが、またしても、ある日森の中クマさんに出会いました。

今度はツキノワグマです。森の中というより、稜線近くのハイマツ帯ですね。不意にがさがさっと音がして、ツキノワグマの逃げていく後ろ姿が見え(その距離2~3メートル)、慌てて僕も走って逃げました。ほぼ90度の方向にクマと僕が脱兎の如く逃げていく姿を想像すると自分でもなんだか微笑ましくなりますが、そのときは血の気が引いてました。

クマこわいです。

さて、それはともかく。

『国語の学び方・教え方』と題した教育講演会(『国語の教え方・学び方』だったかな?)を現在実施中です。なんと私の持ち時間は1時間15分。しゃべりたい放題です。やった~。西宮北口と谷九については終了しましたが、今週水曜日に四条でも実施します。ぜひお越しください。

2012年9月 1日 (土)

そういえば

山下先生の記事を読んで思い出しましたが、大学のときにいっしょに住んでいた友人がホラー好きでした。「ハロウィン」という当時創刊されたばかりのホラー漫画雑誌を毎号買って読んでました。

僕はダメなんです。怖い話、怖い漫画、怖い映画、すべてアウトです。「エクソシスト」とか「オーメン」を爆笑しながらみている寮の先輩が理解できませんでした。明るい部屋で、友だちもいたりすると、なんとなく気が大きくなって、こんな僕でもだいじょうぶな気がして、いっしょに映画みたりするんですが(なんせ先輩は大爆笑しながらみてるし)、あとで悔やむことになります。友だちがとなりの部屋にいるとわかっているので、まだ何とかなりますが、いっしょに住んでる友だちがふたりともどこか行ってたまにひとりぼっちだったりすると、恐怖のあまり眠れませんでした。っていうか、怖くて目をつぶることができません。隙ができるような気がして。とりあえず、家中の照明はすべてつけてましたね。

当然、お化け屋敷も無理です。とにかくストレスフリーな人生をめざしているので、心臓がばくばくするものはすべて嫌いです。もちろん、ジェットコースターにも乗りません。高所恐怖症ですから。

それなのになんで山登りなんてしてるんでしょう??? 

足元が何百メートルもすぱっと切れ落ちてる岩場とか、すごく怖いんですけどね。

八ヶ岳の稜線にテント張ったときは、夜のあいだずっと足音が聞こえてましたけどね。

テントかついで急登すると心臓ばくばくですけどね。

自分で自分がよくわかんないな~。

やっぱり、恐怖や疲労に打ち勝つ快感みたいなものを求めているんでしょうか? 人が辛いもの食べたり苦いコーヒー飲んだりするのも、そういう苦痛に打ち勝つことで、脳内に快感物質が分泌されるからだぜ~と聞いたことがありますが、それかな?

塾生諸君も毎日がっつり勉強したらすごく気持ちがいいんじゃないかな。

「克己」はしんどくない! 気持ちいいんだ!

どう? やる気にならない?

2012年8月21日 (火)

知らんけど

山田風太郎の『八犬伝』もなかなかおもしろうございました。八犬伝をダイジェストにした「虚の世界」と、八犬伝を書いている馬琴の姿を描いた「実の世界」が、交互に出てくる構成になっています。こういう「表と裏」の組み合わせと言えば、『東海道四谷怪談』ですね。忠臣蔵外伝という位置づけで、初演時は、『仮名手本忠臣蔵』と交互に二日かけての上演をしたと言います。芝居では浅野家ではなく塩冶家になりますが、お岩さんのところは塩冶の家来で、妹のお袖の夫が佐藤与茂七という設定なので、与茂七はかたきの伊右衛門を討ったあと、吉良邸に討ち入りをする形だったそうです。

昔は三大幽霊として、お岩さんのほかに、番町皿屋敷のお菊さんと牡丹灯籠のお露さんも有名でしたが、いまの子供たちは知らないようです。お菊さんは関西では「播州皿屋敷」として知られており、姫路城にはお菊さんがとびこんだという井戸が今でも残っています。死んだあとお菊さんの恨みが虫の姿になって現れたのがお菊虫で、じつはなんとかアゲハの幼虫なのですが、女の人が後ろ手に縄でくくられたような形をしているらしい。落語の『皿屋敷』にもその虫の話が出てきます。姫路の市の蝶(そんなものがあるんかいな)がそのアゲハだとか。

こういう古典的な幽霊は今時は通用しないようですが、現代版の「百物語」のようなものは文庫本の形でもいっぱい出ています。だいたいがこういったものは読み捨てなので、実話と銘打っているものを何冊か大手の古本買い取りショップに持って行ったことがあります。そのうちの一冊は、あとがきにも、話を収集している最中にテープレコーダーが何度もこわれたとか、夜中に編集しているとドアがノックされて出てみたらだれもいなかったとか、本の形にするまで大変だったと書いてありましたが、そいつも売り払おうとカウンターで預けて待つことしばし、査定が済んだらしく呼ばれて、明細を見せられたあと、「こちらのほうは中が乱れていて買い取りできません」と言われて戻されたのが件の実話系怪談。この本はなぜかペラペラの紙ではなく、グラビアにでも使いそうなツルツルの紙を使っていました。で、店員さんが開けたページを見ると、全体の三分の一ぐらいの活字が消えて、黒いパリパリした、フィルムを微細に砕いたようなものが真ん中のあたりに固まっていました。インクが紙にしみこまずに、紙の上で遊離して、それが細かく砕かれたようなのですが、なぜそのページだけ活字が浮いて流れた? 店員さんも、ふつう言う「お持ち帰りになりますか」を言わずに、「こちらで処分しましょうか」と言ってくれたので、お願いすますた……。

高校のとき、二人の友達と旅行したとき、予約していたので部屋に浴衣のセットが三つあったのですが、外に買い物に出ている間になぜか一つふえていました。翌日のチェックアウトのときも、四人分で計算されていたので、文句を言ったら、目の前にいる三人を見てフロントの人が「でも」と言いかけて、黙って計算し直してくれました。夜に友達の一人が、中学のときに目の前でおぼれた死んだ友人の話をなぜかしつこく何度もしていたのと関係があると思う人、手を挙げてください。あ、思い出した。前に住んでいたところのとなりの夫婦が、例の尼崎のJR事故で亡くなったのですが、だれも住んでいないのに夜中に物音がよく聞こえていました。夜中の二時三時に酔っ払って帰ってくる夫婦でしたが……。

こわい話は読むか聞くかするとこわいのですが、目に見える形になるとだめですね。落語『饅頭こわい』の中にも、じつはこわい話の部分があります。身投げをした女にあとをつけられて、濡れわらじで踏むような音が、ジタ、ジタ、ジタ……のあたり、結構こわいです。枝雀のレコードでは、「ほんにおやっさん、この話、ちょっとこわいね」というフレーズで、みんなが笑ってましたが、聞いている客も相当こわがっていたのが、このことばで緊張が緩んだのが明らかにわかりました。頭の中で想像するとこわい。ところが「貞子」はこわくありません。小説はおもしろかった。「呪いのビデオ」の元ネタが小説であることを知らない人たちの間でも「都市伝説」になってしまったぐらいです。ところが、映像化されるとこまったもんだという結果になってしまいます。こういう部分に関しては、映像は字や音に負けるのですね。見えるとだめです。とくに既成の俳優が演じてしまっては台無しですな。この幽霊やっているやつって、ビールのコマーシャルに出てるよなー、と思ってしまうと、もうだめです。

映画の『影武者』で、勝新太郎以外は新人や素人を使ったのも、そういうことと関係があるのでしょう。手アカのついていない役者を求めたわけです。平清盛のお父ちゃんの役をやってる人って、前は源頼朝やったよなー、と思うと、さめた目で見てしまって、内容を楽しめなくなってしまいます。その俳優についての情報を知っていればいるほど、「素」と重ねてしまうので、実生活がわからないような俳優とか、まったくの新人のほうが役柄によっては抵抗なく見られます。『帝都物語』で出てきた嶋田久作なんて、こいつ本物の怪人加藤とちゃうか、と思ってしまいました(ちょっとおおげさ)。不良の高校生役をやってるやつが見るからに憎たらしくて、こいつ本物の不良高校生ちゃうか、と思ってしまったドラマもありましたが、今思えばトヨエツ若かりしころのような気もします。最近の高嶋政伸は、ちょっと行ってしまってるような役をよくしていますが、これは実生活ともかぶってていい。内田裕也なんて、実生活はどうなんでしょうね。たぶんふつうのおっさんなのでしょうが。そういえば、安藤昇なんていう、もともと「本職」の人もいました。昔の映画スターは、実生活がわからない人が多かったようです。というより、意図的に見せなかったのでしょう。原節子なんて人は、そういう意味でのスターだったのでしょう、知らんけど。逆にテレビタレントは身近な感じが売りになっていますし、AKBなんて、「会いに行けるアイドル」というコンセプトで、最初からそういう路線でした。エスパー伊東もふだんからあんなんかなあ、知らんけど。

2012年8月 9日 (木)

本日、これまで!

うまいなと思える最近の噺家(はなしか)と言えば、東京ではやはり立川談春でしょうか。安心して聞けるのですが、やや暗いところがある。陰陽で言えば、陰なのでしょうか。陰は陰の良さがあるとはいうものの、やはりちょっと重たいです。枝雀も本質は陰でした。それを過剰な演出で無理矢理陽にしてたのですね。それに比べると、志の輔は陽なのでしょうか。ときにあざとすぎることがありますが、さすがに笑えるし、聞かせます。若手では、三遊亭兼好という人が陽で、いいですね。好二郎と言ってたころから、東京の二つ目の中では光っていました。聞きやすい声質で、いやみがなく、好感が持てます。春風亭一之輔も、じつは陰だと思いますが、笑いのツボは知っており、たまに吹き出すことがあります。

関西では『ちりとてちん』をきっかけとして出てきた、吉朝の弟子の吉弥がやはり本命でしょう。『ちりとて』が終わって知名度も上がったころ、テレビ・ラジオで忙しかったのか、生で見たときは顔色もあまりよくなく、疲れてるなあと思いましたが、いまはいい感じになってきています。おとうと弟子にあたる桂よね吉も悪くありません。そして、じつはいちばん期待してるのが米團治です。襲名してから大きくなる、というのはよくあることですし、もともと華のある人でした。志ん生や圓生も、若い頃は下手だったと言います。小米朝時代には軽く見られていましたが、親父が米朝というのは、家康に比べられる秀忠みたいなもので、ある意味ではハンデです。でも、若旦那などは地のままでやれるし、上品で、にくめん若旦那になってます。大旦那を演じるのも年齢的に無理ではなくなってきました。この人は、これから化けるような気がします。だいたい二代目はきびしめに見られるのですね。八方の息子も甘ちゃんでどうしょうもなかったのが、ほんの少しましになってきました。春蝶はこれからでしょう。若くして死んでしまったお父ちゃんの先代春蝶は『ぜんざい公社』や『昭和任侠伝』などもおもしろかったけど、じつは古典もうまかった。長い話は体力が続かんので、途中で死ぬかもしれんという前ふりを聞いたこともあります。阪神ファンとしては、八方といい勝負でした。ただ、甲子園に行くと阪神が負けるというジンクスがあって、負けた試合で姿を見られて、「おまえのせいで負けたんじゃ」と、酔っ払いのおっさんにボコボコにされたとかいう伝説も残っています。あの司馬遼太郎も春蝶ファンだったそうですが、息子にもがんぱってもらいたいものです。繁昌亭も人気でなかなか見られなかったのが、やっと落ち着いてきたようなので、なま落語を見たことのない人は是非とも行ってみてください。連続で聞いて、だんだんあたたまってきたころに笑いのツボにはいると、噺家が何も言わなくても笑ってしまうようになります。

『てれすこ』という落語のもとねたが『沙石集』という鎌倉期の説話集にのっているということを前にも書きました。大河ドラマの平清盛では、崇徳院が「あんたがたタフマン」扮する白河の子で、おもて向きは自分の子として育てねばならなかった鳥羽院が崇徳のことを「叔父子」と言っていたというエピソードを前半の中心にすえていましたが、この話は『古事談』にしかのっていません。『古事談』は、『沙石集』と同じく鎌倉期の説話集です。最近は出版されているようですが、少し前までは簡単に入手できなくて、じつは原文で読んでいません。私が読んだのは志村有弘が30年くらい前に新書の形で出した抄訳です。ゴシップ色が濃厚で、編集者の源顕兼は当時を代表するような教養人だったのでしょうが、そういう人にかぎって、ワイドショー的な話題が好きなんですね。

『三軒長屋』という落語があります。三軒続きの長屋の右端には鳶頭(とびがしら)の政五郎が住んでおり、荒っぽい連中が出入りして大騒ぎする。左端は武士の道場になっていて、稽古でどったんばったん、うるさいことこの上ない。そこで真ん中の金持ちが両隣をたたきだそうと計画する。それを知った両隣は、引っ越しをするので引っ越し代を出せと言ってくる。五十両ずつを渡した金持ちが、どこに引っ越すのかと聞くと、「あっしが先生のところへ越して、先生があっしのところへ」。圓生で聞いても志ん生で聞いてもおもしろい話です。これももとねたがあって、中国の『笑府』という本だそうです。大岡政談も落語に取り入れられたりしています。ところが、大岡越前を主人公にした話の多くは、中国の裁判実例集『棠陰比事(とういんひじ)』がもとねたです。井原西鶴の作品に『本朝桜陰比事』というのがありますが、もちろん、『棠陰比事』を下敷きにした題名です。要するにパクリですな。馬琴の『南総里見八犬伝』が『水滸伝』を日本に移しかえたものであることはあまりにも有名です。もとの「百八」からあえて百をとって「八」にしたのは、もとねたに対する敬意の表れです。

『八犬伝』は大長編で、最後の方は張った伏線の回収、全登場人物のその後ばっかり書かれているらしいので、私も岩波文庫全十冊のうち、五冊目ぐらいで脱落しましたが、魅力ある作品のようで、何度も映画化・テレビ化されています。映画『新・里見八犬伝』は薬師丸ひろ子・真田広之主演でかなりヒットしました。そのころ見ても、「さすが角川やのう」としみじみ嘆かせてくれるトホホな映画でしたが、今見ると、そのトホホさ加減が新鮮なのではないかと思います。べつに見たくもありませんが、玉梓をやった夏木マリだけは見てみたいような。NHK人形劇でやってた『新八犬伝』は評価が高いようです。辻村ジュサブローの人形も気色悪くてよかったし、語り手の坂本九の「因果はめぐる糸車」というフレーズも印象に残っています。そのあと「なんたらかんたら風車、わが家の家計は火の車、車は急には止まれない」とか言ってたような気もしますが、記憶ちがい? 網乾左母二郎(あぼしさもじろう)という浪人が出てきて、名を問われると、なぜかいつも甲高い声で、「さもしい浪人、網乾左母二郎でーい!」と言ってました。「さもしい浪人」は「左母二郎」にかかる枕詞なのですね。しかし、自分で言うこともないじゃろ。このことば、わが家では流行語になりました。意地汚いことをしているのを見とがめて、「さもしいやっちゃなー」と言うと、「さもしい浪人、網乾左母二郎でーい!」と返さねばならない掟でしたな。番組ラストの九ちゃんの決めぜりふはたしか、こうでした。「本日、これまで!」

2012年7月25日 (水)

あみだがいけ

国語の問題を作ろうと思えば、あまり娯楽性の強い作品は出題できません。それでも、読んでおもしろくない文章はできるだけ出したくないので、その境界のギリギリのところのものを探すこともよくあります。SF的なものは比較的出しやすいのですが、推理物はかなり限定されます。とくに殺人事件を扱ったものはまずいようです。「犯人はだれか。断定した根拠とともに五十字以内で書け」なんて問題もおもしろいと思うのですが。犯人の名前と同じような名前の生徒がいたら、文句を言われそうです。それを避けて、犯人の名前を「綿志賀星太(わたしがほしだ)」などに変えるわけにもいきません。

最近は、北欧の推理小説が相当おもしろく、スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作はなかなかのものでした。これを映画化した『ドラゴン・タトゥーの女』は原作をはしょりすぎで、本を読んでないとついていけない感じでしたが、雰囲気は出ていました。「マルティン・ベック」のシリーズやヘニング・マンケルの「ヴァランダー」シリーズもスウェーデンです。登場人物の北欧系の名前や地名になじみがないので、ちょっと混乱することもありますが、結構おもしろい。作者の名は忘れたけど、『魔女遊戯』という本は、なんとアイスランド(!)です。タイトルが虚仮おどしで抵抗があったものの、国名につられて思わず買ってしまいました。中身は予想通りイマイチでした。読みやすくはあったのですがね。子供のころ読んだドイルやポオは、翻訳文の下手さにあきれはてたものです。結構有名な訳者もいるのですが、英語はわかっても、日本語のプロではない人たちだったのでしょうか。文法的にも変だし、言い回しが古くさすぎるし、決定的なのは文章にリズムがないことです。はっきり言って読むに耐える代物ではなく、翻訳ものが好きな人はなぜあの文章に抵抗を感じないのだろうか不思議でした。中学生のときから十年ぐらい、翻訳ものは読まないことにしていました。たまに必要があって読むことがあっても、腹立たしく思うことが多かったものです。ところが、最近の翻訳はいいですね。翻訳業界も、古いだけの下手くそが減って、生きのいい若手の人たちが出てきたのでしょう。『ミレニアム』の訳なんて、翻訳臭がまったくない自然な文章なので、あれだけの分量でも一気に読めます。

推理物と言えば、テレビ番組の『相棒』がだめになりましたね。初期のころは毎回趣向を凝らしておもしろかったのが、最近はがっかりすることがよくあります。とくに、杉下右京がトリックを見破るきっかけなんて、ワンパターンで陳腐すぎます。犯人しか知り得ない事実をうっかりポロッとしゃべっていて、それが決め手だったというパターンを何回見たか。それでもノベライズは全巻購入してしまっているのが情けない。新しいのが出たら、また買ってしまうのだろうなあ。シリーズもので、順次刊行される場合は途中でへたることがよくあります。デアゴスティーニなんて、最後まで買い続ける人がどれぐらいいるのでしょうか。銀河鉄道999のDVDコレクションは創刊号が790円だったので、思わず買った人がいるかもしれませんが、そのあとは隔週で1800円ぐらいになります。二週間に一ぺん買い続けるだけでも大変ですし、金額も合計すれば7万円を超えそうです。D51や和時計を作る、というのもありました。途中1号でもぬけてしまえば材料がそろわなくなります。実際にはバックナンバーも買えるのでしょうが、そこまでするのも、なんだかなあ。

とにかく定期的に買い続けるというのは、相当の持久力と経済力が必要です。キングの「ダークタワー」のシリーズは根性で文庫版の全巻を買い続けましたが、しんどかった。単行本で買っていれば20年以上かかっていたはずなので、それに比べりゃましですが。半村良にも泣かされました。『妖星伝』も5年ぐらいかけて6冊出たのですが、完結編が出たのは、それから15年くらいかかっていたような。ムー大陸2000年の歴史を描いた『太陽の世界』なんて、全80巻の予定だったものが、20巻まで行かないうちに、半村良が死んでしまった、という「金返せ」的な結末でした。昔途中でへたった大佛次郎の『天皇の世紀』も実は未完だったのですが、最近文庫で出たものは、12巻を毎回買い続けて読破できました。橋本治の中公文庫版『双調平家物語』は2巻まで買ったところで、その後買い忘れてしまい、近所の本屋では続きを見なくなってしまいました。15巻ぐらいあるはずなので、まだ完結していないと思いますが、大きな本屋で十何冊も一気に買うだけの気力がわきません。「平家物語」なのに、平家に行き着かず、藤原鎌足の話で止まったままなのがつらい。山岡荘八や吉川英治は30年ぐらい前に一気買いしました。山岡荘八は『徳川家康』だけでも26巻ありました。ソフトカバー版で読んだものが山岡荘八歴史文庫という形で再録されたときにもまた買ってしまい、ウチには52冊もありました。NHK大河ドラマの「太平記」の原作は山岡の『新太平記』ではなく、吉川英治の『私本太平記』だったのでしょうか。『新・平家物語』も15、6巻ありましたが、仲代達矢主演で大河をやっていました。仲代も大根と言われていたのですが、視聴率はよかったのでしょうね。

落語の本というのも意外にあって、うちの本棚には、ちくま文庫で米朝が8巻、枝雀が5巻あります。どちらも完結しているのかなあ。圓生古典落語も集英社文庫で5巻あります。奥付には「昭和55年第1刷」とありますが、これは完結したようです。静山社文庫でポツポツ出ていた『談志の落語』は9巻で終了でしょう。9巻めは談志が死んでから出ています。「談志が死んだ」は回文ですが、この回文は談志が生きてたころから言われてましたね。レコード(死語!)では圓生の全集、テープでは志ん朝の全集を持っていたのですが、あれはどこに行ったのだろう。地震のときのドサクサでわからなくなりました。枝雀のレコードは、全集の形ではなかったようで出るたびに一枚ずつ買っていました。襲名して間もないころは甲高く早口で晩年のものとはかなりちがっていました。あのレコードもどこかへ行ったんやなあ。どこかに行ったんはおまえだけの知恵やないな、だれぞが行け言うたんやろ、だれが行け、言うたんや。ああ、それやったら、あみだがいけと言いました。すんません、いちびりすぎました。

2012年7月 3日 (火)

オモローby山下

司馬遼太郎の『坂の上の雲』は大ベストセラーなのですが、「小説」としてはどうなのでしょう。たとえば秋山真之という「人物」があの作品から伝わってくるか、というとどうでしょうか。エピソードの積み重ねで、なんとなくイメージできなくはないのですが……。一つの時代、あるいは一つの歴史的事件をおもしろく語る点で司馬遼太郎という人はぶっちぎっていますが、小説の人物造形という点では散漫な印象を与えます。作者が途中で割ってはいって顔を出すところなど、あれは小説とはちがうものだと見たほうがよいでしょう。司馬遼太郎による史談ですね。自分の考えを示す手段として小説の形式を使っているだけです。むしろ完全なフィクションである、初期の『梟の城』や『風神の門』のほうが、ストーリーのおもしろさだけで読ませるという点で「小説」的と言えるかもしれません。とはいうものの、『坂の上の雲』にしろ『龍馬がゆく』にしろ、おもしろいことは確かです。司馬遼太郎以降、「歴史小説家」と呼ばれる人がたくさん出ましたが、だれ一人として「おもしろさ」の点で司馬遼太郎をしのぐ人は出ていません。いわゆる時代小説も長い間売れ続けていますが、ベストセラーになっているにもかかわらず、「おもろしい」ものは少ないようです。山本周五郎のような古典落語的で「ベタ」なおもしろさだけがおもしろさではないし、個人による差があるのは確かですが。

おもしろいといえば、最近は女流がおもしろいようです。『阪急電車』の有川浩など、どれもストーリー展開はマンガですが、心地よく読ませてくれます。『三匹のおっさん』なんて、活字のマンガやろうな、あざといなあと思いながらも、読み始めるとついつい読んでしまいます。『塩の街』『空の中』『海の底』の自衛隊三部作もワクワクしながら読めたし、『図書館戦争』のシリーズなどはおっさんの読むものとはちがうようですが、恥ずかしながら山下上等兵、読んでしまいました(古い)。『シアター!』なんて模試で出しとるがな。『夜のピクニック』の恩田陸もうまい。ドラマ化された『六番目の小夜子』もおもしろかったし、『常野物語』のシリーズなんて模試で出しとるがな。辻村深月の『冷たい校舎の時は止まる』も読みごたえがあったし、『ぼくのメジャースプーン』なんて模試で出しとるがな。うまい人は他にもたくさんいます。柴田よしき、角田光代、そうそう宮部みゆきなんて、何回も模試で出しとるがな。西條奈加なんて人もいます。西川先生おすすめです。『金春屋ゴメス』がお気に入りらしい。特に文庫本の表紙の絵が好きなようですが、理由はナイショ。

札幌ススキノを舞台とした『探偵はBARにいる』という映画は結構おもしろかったです。北海道出身の国語科T見先生もごらんになったとか。この原作は「ススキノ探偵シリーズ」第一作の『探偵はバーにいる』ではなく、二作めの『バーにかかってきた電話』でしたが、東直巳のこのシリーズは非常に読みやすい。このシリーズだけでなく、東直巳の文章はどれも心地よい。よい文章にはリズムがあるのですね。リズムは大切ですし、バカリズムもおもろいな、たらりらりん。模試に出すために文章を入力するとき、タイプミスが出やすい文章があります。こういうのはだめですな。リズムがない。ちょっとかための文章でもリズムのあるものがあります。辻邦生の『安土往還記』や福永武彦の『風土』などはリズムがあって打ち込みやすかった。しかし、残念ながら「おもんない」。前者の「衆愚の高みにのぼった魂は孤独に罰せられる」という、信長のことを評した部分など、私としては好きなのですが、模試を受けた中三生たちにはおもしろくなかったでしょう。「おもしろさ」も大切ですな。もちろん、そのおもしろさは娯楽性とはかぎりません。漱石の『夢十夜』などはおもしろい。目の見えない子供を背負って、森の中の土饅頭のところへ行く第三夜など、ゾクゾクします。第一夜の「百年はもう来ていたんだな」というフレーズもいい。第十夜の豚に追いかけられる話はイマイチですが。

いまの時代は純文学も大衆文学もなくなりました。境目がありません。芥川賞と直木賞の区別もほとんどないような感じです。新人賞とベテラン賞に改名してもよいぐらいで、要は「うまい」「おもしろい」でしょう。重松清や浅田次郎はやはりうまい。SF系や推理系はおもしろいものが多い。死んじゃいましたが、伊藤計劃の『虐殺器官』なんてしびれます(古い)。この人、「メタルギアソリッド」のノベライズもやってました。『ジョーカーゲーム』のシリーズの柳広司、この人もすごい。『トーキョー・プリズン』のすごさなんて、半端ねえー(古い)。文章そのものもうまい。最近このレベルの書き手も結構多いのです。芥川や志賀直哉がうまいとか言う人がいますが、このレベルの人たちが彼らと同じ時代にいたら、彼らが霞んで見えたかもしれません。他にも『ワーキングホリデー』『青空の卵』の坂木司も地味ですが、おもしろい。『和菓子のアン』なんて、おしゃれなタイトルのものもあります。大倉崇裕の『七度狐』『やさしい死神』『オチケン!』は落語ファンでないと、ちょいとつらいか。伊坂幸太郎はメジャーになりました。『オーデュポンの祈り』は、イマイチでしたが、『重力ピエロ』『チルドレン』『グラスホッパー』『死神の精度』『ゴールデンスランバー』と続けざまになかなかおもしろいものを書いています。『終末のフール』なんて模試で出しとるがな(しつこいっ、ちゅうてねえ)。あ、思い出しました。『坂の上の雲』に影響を受けた紫野貴李の『前夜の航跡』もなかなかのものでした。記念碑として繋留されている戦艦三笠の中で聞こえる不思議な音の正体を暴く「哭く戦艦」など、オモローです(古い)。

軽い作品も悪くないですね。いわゆるラノベだって、読めるものはありそうです。有川浩にしても肩書きはラノベ作家です。あの筒井康隆大先生だって「最高齢のライトノベル作家」を自称しています。『十二国記』の小野不由美や『インシテミル』『氷菓』の米澤穂信などもいます。ただ、ラノベは表紙がつらい。一般の作品との境界がなくなって、ラノベ系のイラストの表紙のものもよくあります。電車の中で読むときはカバーをはずさなければなりません。おっさんの読んでいる本が、奈須きのこ『空の境界』であるとばれてしまっては、はずかしいじゃ、あーりませんか(古い!)。

2012年6月22日 (金)

ドーナツおちてる

最初にやる者がえらいのであって、今までなかったものをつくるのはすごいのですが、世の中にはいいかげんなものもあります。ことばの世界でも、今までなかったことばが生まれることがあります。たとえば「美肌」なんてことば、昔はあったのでしょうか。だいいち、どう読むのでしょうか。「び」は音読みなので、ふつうは「肌」も音読みの「き」にすべきですが、いつのまにやら「びはだ」という不思議な読み方で定着しています。化粧品業界の人が考え出したのかもしれません。「手書き原稿」なんてことばもあります。これは「ワープロ原稿」が生まれなければ、本来なかったはずのことばでしょう。ふつうは手で書くに決まっているので、わざわざ「手書き」と断る必要はありません。希学園の中では「手採点」という不思議なことばもあります。パソコン上で採点する「機械採点」に対して、直に赤ペンでマルペケをつければ「手採点」ですね。パソコンで採点するとスピードはあるので、楽になったのですが、漢字の採点がちょっとつらいのです。「手採点」なら、微妙な濃淡や字の勢いで判断できます。ところが、パソコンに取り込んだものでは、そのあたりがはっきりしません。「悪筆」の人にとって得か損かは場合によりますが、少なくともていねいに書いてくれていれば損をすることはないと思います。字の巧拙とていねいさは別なので、ていねいさを意識してほしいものです。

世の中には「悪筆」で有名な人もいます。都知事の石原慎太郎は、もともと作家だったわけですが、原稿だけでなく朗読したテープをつけて出版社に渡さないと誰も読めなかったとか、印刷会社にも石原慎太郎専従の植字工がいたとか、一人称の字が「僕」か「俺」か「儂」か区別できなかったとか、多くの伝説を残しています。「才能のある人は、字は手段に過ぎないと割り切って、そんなものは練習しない」という説もあるそうですが、でも伝達できないレベルではやはりまずいでしょう。ていねいに書くことで多少は読みやすくなるはずですし、やはり訓練の効果は大きいと思います。文字だけでなく、ことばの組み立て、つまり記述力も訓練でしょう。
話すときには「腰のあたりでグーッとパワーでプッシュして、ピシッと手首をリターンして……」と擬音だけの雰囲気でしゃべる人でも、書きことばになれば、きちんと書けます。書けるはずです。書けるでしょう、たぶん。文章を練り直して、最後まで「ネバーギブアップ」しなければ。また、「芸術はバクハツだ!」と叫ぶイメージで、わけのわからんことを言うと思われていた人も、じつは書いたものは非常に明快でわかりやすい文章でした。小説や詩になれば、さすがに才能が必要でしょうが、人に伝えるレベルなら、訓練次第だと思います。コツとしては、複雑に組み立てると乱れてしまうので、基本的には短い文から出発することでしょう。ワンセンテンスを長くしないことです。谷崎潤一郎ではなく、志賀直哉を目指すべきですね。シンプル・イズ・ベストです。

とはいうものの、話しことばでは、なぜか関西人は余分なことを言いたがります、かく言う私も含めて。シンプルだと我慢できなくなって、言わなくてもいいことを言ってしまうのですな。「一億円」と言うときには、必ずのように、「一おく円やで、一円おくんとちゃうで」と言ってしまうのは関西人の性でしょうか。聞いてるほうは確実にイラッと来ます。それにもめげずに、関西人はしょーもないことを言います、しかも下品。東京人なら、「家に帰って寝よう」ですませるところを関西人は「家に帰ってうどん食って屁ぇこいて寝よう」と言いたがります。しょーもないダジャレも言いたがります。東京では「おやじギャグ」として白い目で見られますが、関西では「おやじ」とは限りません。たぶん辛気くさいのがいやなんでしょうな。ちょっとでも笑いがとれればそれでええやん、と考えるのでしょう。「神殿で人が死んでんねん」なんて、不謹慎なだじゃれを平気で言いたがります。会社の会議でさえそうです。とある進学塾の理事長のM田T郎という人は、部下の「いまはこういうやり方がトレンドです」という意見に対して、「いやー、いくらトレンドでも、うちはその手法はとれんど」とのたまいました。この御仁は「そんなこと有馬温泉」というフレーズも好きでしたが、「あたりM田のクラッカー」という古いコマーシャルもお好きだったようです。祝賀会の劇でネタとして、よく使わせてもらいました。忘れられない台詞があります。「あ、ドーナツおちてる。……犬のう○こや! 食べんでよかった」。この台詞を合格祝賀会の舞台で大声で言った理事長は立派です。脚本を書いたのは私ですけどね。

だいたい合格祝賀会の講師劇でいちばん受けるのはダジャレネタですな。それも「中国のハエはちゅごく速ええ」のレベルの。仕込んで仕込んで積み上げて最後で落とす、みたいな「おしゃれ」なのは受けません。わかりやすいのが一番です。今年は禁断の「はげネタ」にまで手を出してしまいました。本当はやりたくなかったのですが、算数科のO方先生から是非やるようにそそのかされ、しかも「来年は、もっとハゲしくやれ」という厳命を受けているのです。祝賀会の劇では、その年のはやりものも出すのですが、一年たてば忘れられているものが多いようです。数年前、前述のO方先生には、ちょっと風貌が似てるかなと思って「ギター侍」をさせましたが、今はだれも知らない。理科のA田先生にも、あのコスチュームで「フォー」と叫んでもらったのですが、それってだれ? 今年は「マルモリ」というのがありましたが、二、三年たてば忘れられているのだろうなあ。

6年のテキストに、子規の俳句で「五女ありて後の男や初幟」というのがあって、「五女」を「ゴニョ」と読んだやつがいましたが、すかさず「なんやそら、崖の上のゴニョか」とツッコミがはいりました。このツッコミを言ったやつはえらいが、古い。さらに、そのうえにかぶせて「坂の上の雲か」と言ったやつも、古い。小学生とは思えません。こういうところに関西人の伝統が息づいていることに感服いたします。結構なお点前でございました。

2012年6月13日 (水)

おっす、おら宇宙人

塾の生徒たちにテキストの文章を音読させるとなかなかおもしろいことが起こります。コテコテの大阪風になる者もいますし、たまにきれいな共通語イントネーションで読める者もいます。でも、ほとんどが微妙に関西なまりなんですね。私自身もそうです。NHKのアナウンサーのような読み方ではなく、「橋の端を箸を持って走った」と読むときには、大阪弁になっとりまんな。日本全国均一化していく中でやはり方言の要素は残っていくのでしょうね。

テレビで『ブリンセストヨトミ』をやってましたが、あの中の大阪弁はなかなかつらいものがありました。原作の設定を変えてまでも綾瀬はるかを出したかったようですが、それ以外は大阪が舞台なら大阪出身の俳優をキャスティングすればよいのに、あえてそうではない人ばっかり出してきたのは何が狙いだったのでしょうか。西宮出身の堤真一を使いながらも、大阪をきらって飛び出したという役なので関西弁ではありませんでした。そのくせ、必然性のない部分でなぜかときどき関西なまりになっています。大阪を捨てきれない心の奥底を微妙に表した演出やね、と思っていたら、綾瀬はるかまで、関西訛りになってしまったところがありました。あれは何だったのでしょうか。中井貴一などはましなほうですが、みんな妙なイントネーションのえせ大阪弁を話す中で、綾瀬はるかも影響を受けてしまったのか。関西弁の威力、おそるべし。同じころに『阪急電車』もやってましたが、こちらのほうは関西出身の人が多かったせいで違和感がありませんでした。中谷美紀は開き直って関西弁を使っていないし、宮本信子は関西出身ではないのに、西宮の芦田愛菜を相手に上品な感じで抵抗なしでした(ただ、映画そのものは途中でギブアップしてしまいましたが)。

関西を舞台にしたドラマに関西人をなぜ使わないのか。関西人でなければ、あの「気色悪さ」はわからないのでしょうね。とはいうものの、リアルすぎる方言では通じなくなります。純正鹿児島弁のドラマは字幕なしでは理解できません(大河ドラマの『翔ぶが如く』では、やってたような)。時代劇にしても同じことが言えます。どの地方の農民も、「もうがまんなんねえだ、おらたち一揆やるだ」という言い方をします。これは方言ではなく、江戸時代の農民だったら、こんな感じ?という「役割語」です。江戸時代の、しかもその地方のことば通りにしなければならないとなったら、脚本家はお手上げでしょう。ある程度それらしく言えば、まあいいかと許せます。武士は「かたじけのうござる」「しからばこれにておいとまつかまつる」とか言ってほしいのに、いくら暴れん坊将軍でも「ワイルドだぜぇ」と言ってたら、どっちらけです。大河コントの『江』は、志村けんの「そのほう、年はいくつじゃ」はいつ出るの、というレベルだったので最後まで見ずに「脱落」したのですが、中身は着物を着ている現代ドラマで、台詞もそんな感じだったような気がします。「うっそー、お姉ちゃんたら、だっさーい」みたいな。西川先生推奨の『平清盛』も、平安末期のことばをそのまま使い、当時の発音でリアルにやるべきだと言われたら、作るほうも見るほうも困ってしまいます。

でも、この『平清盛』、じつはけっこうおもしろいのですけどね。ところどころ『ちりとてちん』のノリが出てきてマンガになるところがあざといのですが、オウムやサルの使い方など、ちょっとした細かい部分で笑えるところもあって、じっくり見るとなかなかのものです。「青墓」という土地の描き方や、「こ○き」発言など、NHKらしからぬ大胆さもあって、伝統的大河ドラマとはひと味ちがいます。戦場にゆく男たちではなく、家に残る女性の視点で描こうとした「太閤記」もかつてありましたが、『平清盛』では、武将の家庭人としての側面やどろどろした人間関係の描写に力を入れています。そのあたり、ちょっとかったるい面もありますが、ドラマとしては悪くありません。視聴率が低いのは、派手な合戦シーンや単純明快なヒーローを求める人が多いのかなあ。親子関係のことでチマチマなやむ、粘着質なシーンなんて見たくないのでしょう。「リアルすぎて伝わらない」というところでしょうか。とんねるずの「こまかすぎて伝わらないモノマネ」というのはすごくおもしろいのでわたしは好きなのですが、関係ありませんね。

予想もしないことを見せられる感動というのもあるのですが、逆に期待しているものを見たいという気持ちもあります。吉本新喜劇など、全編それです。また、これはこういうものだという思い込みを裏切られると不愉快になります。大河ドラマはこういう描き方をするものだという思い込みがわれわれにはあるのでしょう。アメリカの映画に出てくる宇宙人はなぜか英語で話します。日本に来た場合は、なぜか日本語で「われわれは宇宙人だ」と言います。なぜ「われわれ」なのでしょう。「わたしたちは」でも「おれたちゃ」「拙者どもは」ではなく、なぜか「われわれ」です。一人で来た場合は、どう言うんでしょうね? たぶん、この手の映画のいちばんはじめのものが「われわれは…」だったのでしょう。最初にやったものが踏襲され、これはこういうものだと思われるのです。そんな「思い込み」のあるものを途中で変えるのは勇気がいります。実は、根拠のあるものではなく、単に踏襲しているだけにすぎないものであっても、途中で変えると、そのことを知らない人に批判されたりします。

古い映画では江戸時代の既婚女性はお歯黒をしていましたが、今のテレビでお歯黒を見ることはありません。途中で変わったわけですが、おそらく変だと思った人も多かったでしょう。ところが、今またお歯黒にもどすと「気色悪ーい」とか言って批判する人が確実にいるはずです。江戸時代までは手と足を交互に出すのではなく、右手右足を同時に出す「なんば歩き」をしていたはずだから、と言ってそういうふうに歩き出したらどうでしょう。すごく違和感があります。ゲームやマンガでの織田信長の南蛮風のスタイルも今では定番になりましたが、たしか黒澤明の『影武者』でやったのが初めてだったような気がします。えー、ほんまかいな、と思うようなことでも「世界の黒澤」なら許されるのです。なまこを最初に食ったやつがえらいように、最初にやったやつがえらいのですな。卵も最初に立てたやつつはえらいのですが、それはなんの役に立つ?

2012年5月29日 (火)

山の数え方

ついに日本人初の14サミッター誕生ですね!

新聞に大きく出てたんですが、ご覧になりましたか?

世界に全部で14座ある8000メートル峰すべてに登った人は、これまで日本にいなかったんですが、竹内洋岳さんという方がついに達成しました。

ちくしょう、オレもねらっていたのに!

僕がまだ富士山にも登らないうちに達成されてしまったが、正々堂々と戦って負けたのだからむしろさわやかな気持ちです。

ま、竹内さんはオレというライバルがいたことはまったく知らないわけだが。

・・・・・・。

それはともかく、こういうニュースを新聞で見かけたとき、塾生諸君には、

「お、山って、1座2座って数えるんだ~」と気づいてほしいところですね。

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