2013年2月 4日 (月)

四条烏丸教室のMさん合格おめでとう、ブログ更新したよ!

今日は立春でしたね。さっき、ひさしぶりに体重計にのってみたら、やはり、やはり、体重が増えていました。冬はどうしても、何をしてもふとる! たしかに毎日チョコを食べていた、それは認めよう、しかし、全体として1日のカロリーはそれなりに抑えていたはずなのに! 今月は誕生月だから、ケーキ食べちゃうだろうなあ。もともと甘党だからなあ。あーやだやだ。はやく夏になってほしいです。毎日だらだら汗を流したいんだ、僕は!

今日は立春であると同時にベーシックの開講日でした。僕は小6Pの授業で烏丸へ。初回なので理想の授業について語ってみました。

「みんな聞いてくれ、僕には『理想の授業像』というものがあるんだ。

ほんと言うと僕はさ、文章を読み終わってから、対比が出てきたね、何と何が対比されていた? みたいな授業はいやなの。

じゃあ筆者の主張をまとめてみよう、筆者の主張がもっともまとめて述べられていた段落はどこだったかな? みたいなのもいやなんだ。

理想の授業はさ、ほら、まず文章を読むだろう? そこで僕がひとこと、漠然と『どう?』なんて訊くわけだ。するときみたちが、『先生、ここはひとつ対比に注目でんな』『並列も見落とせまへんで』なんて言ってくるの。そういうのが理想なんだ~」

「それって、先生は何もしてないのでは?」

「いやあ、じつにそうなのよ。でも、入試のときはきみたち、完全に自力で、自分だけの力で文章を理解しないといけないんだぜ、どこに注目するべきか、どんなふうに文章を整理したらいいか、だれも教えてくれないんだぜ」

「なるほど~」

「よしよし」

といった感じでした。なんとか入試前には理想の授業を実現したいものです。

さて。例によってとりとめがなくて申し訳ありませんが、先日、梅田の古書街に行って、昨年から目をつけていた本を買いました。

三浦つとむの『認識と言語の理論』という古~い本です。第1版第1刷は私の生まれた年に発行されました。第1部から第3部まで全3冊あり、新装版も出ているんですが、一冊5000円近くもするんですよ! ひどい! 三浦つとむを読むなんて絶対にマニアだから高くしても売れるという計算にちがいない、お~の~れ~、と思っていたら、古書街で第1部と第2部が1冊1000円で売られてたんです。買わいでか! というわけで、最近、電車の中でせっせと読んでいます。

以前に、読解力を養うために「モニタリング」が必要という話を書きましたが、そのあたりにもからんできそうな内容です。読んでいて、まず「なるほど」と思ったのは、

人間は観念的な自己分裂のために必要な道具をつくり出している。・・・・・・鏡を使って行われるこの観念的な自己分裂は、単に自己の姿を客観的な位置において見るにとどまらない。鏡のこちら側に位置づけられている観念的な自己は、さらに恋人や入社試験の試験官などに観念的に転換することができる。・・・・・・この種の実践が自己についての認識の発展であり・・・・・・

というくだり。これだけ引用されても何がなんだかわかんないかもしれませんが、とにかくおもしろいのです。今すぐ授業での指導にいかせるわけではありませんが、文章を読むことと、どこかでつながってくるぞ、という予感があります。日々勉強でんな。

国語の講師をやっていて何がおもしろいって、国語の教え方が他教科ほどには確立されていないというところがいちばんおもしろいです。そりゃどんな教科だって良い授業悪い授業はあるし、教え方の巧拙もありますが、国語の場合、まず、「国語の授業として成立していない」というレベルのものがありますね。「下手」じゃなくて「不成立」。学校の国語の授業なんてほとんどこれだと思います。

簡単にいうと、ある文章を理解させるだけに終わっている授業は不成立なんです。ここに書いてあるのはこういう意味ですよ、このときの主人公はどんな気持ちですか? ポチがいなくなって悲しんでいるんですね~、なんてのは、その文章を説明しているだけなんで、それでは読み方の指導になっとらん、したがって授業になっとらん、ということです。

希学園の国語科新年度研修で使用した門外不出の冊子『希の国語2013』では、この「成立/不成立」という問題だけに20ページ近くを費やしています。そのぐらいこの問題は奥が深いです。こんなこと考えたこともない国語の先生が世の中にはあふれかえっているみたいですけどね。たぶん、そういう人は、「不成立」とか言われても、ぴんと来ないんだろうなあ。

なんだか今日は辛口になってしまいました。体重計にのったせいです(>_<)。

2012年12月18日 (火)

もうすぐ冬至ですね。

もうすぐ冬至ですね。

小6諸君は今週でベーシック・レベル系の授業が終了し、23日からは入試対策第Ⅰ期ということになります。いよいよ臨戦態勢ですね。なんせ一部の学校ではもう入試が始まっています。

最近、小6ベーシックの授業のときは、食事休憩中も教室にいるようにしています。で、いっしょにご飯食べています。先週は、烏丸の地下の進々堂で買ったガーリックフランス食べてました。そのときは一部の子どもたちの羨望のまなざしが心地よかったものですが(みんなガーリックが好き)、昨日は雑穀米とちくわだけという質素な食事だったため、哀れみのまなざしで見られました。

そういえば昔、お弁当にたこ焼き60コ持ってきてる男の子がいてました。「たこ焼き好きなの?」と訊くと、「べつに」。

「じゃどうして?」

「お母さんのいやがらせ」

なんてことがありました。

弁当箱あけた瞬間にさっと顔色を変えて家に電話してる子もいました。「お母さん! フルーツ入ってへんやん!」と半泣きで叫んでいたその子はさっそく「フルーツ」というあだ名をつけられていましたが、卒業半年後にばったり会ったら、すごくしっかりした口調で「先生、こんにちは!」と挨拶してくれて、半年で変わるもんだなあとびっくりしました。ちなみに洛南です。さすが。

休み時間、教室にいて子どもたちと何だかんだやりとりするのはけっこう楽しいです。烏丸小5Pの子どもたちは、なぜかよく肩や背中をマッサージをしてくれます。べつに頼んだわけじゃなくて、一度もそんなこと言ってないんですが、入れかわり立ち替わりいろんな子が教卓のところに来てマッサージしてくれるんです。そして、みんな妙にうまい。「いつもお母さんにやってるんだー」とか言ってる子のマッサージなんて絶品です。なかにはだんだん悪ふざけが入ってきて、最後はサンドバック代わりにどついているだけという子もいますが。

などとのんきなことをしてられないのが小6です。僕も、小5生に対するのとはうってかわって、「休み時間なんてないゾ! 勉強しろ勉強! ・・・・・・おい、そこ! 男同士で微笑みを交わすな!」とはっぱをかけています。

入試対策第Ⅰ期に突入したら、講師はもっとべったり小6生にはりつきます。そして、入試までまさに「伴走」していくことになります。

ブログの更新も滞りがちになりますが、いやすでに滞りがちですが、ご容赦ください。

2012年12月 1日 (土)

S君のお母さん、今回のおすすめ本はこれ

「トライ」や「トリ」は3を表すので、「トライアングル」は三つの角という意味になります。三角というのはつりあいもとれて落ち着くせいでしょうか、世の中には三つにまとめるのがよくあります。「御三家」と言えば、紀伊・尾張・水戸。このうち水戸はワンランク落ちて、大納言ではなく中納言です。中納言にあたる役職が中国では黄門侍郎と言ったので、水戸のご老公、さきの中納言は水戸黄門と呼ばれるわけですな。香川照之改め市川中車が山岡鉄舟に扮して、真山青果の新歌舞伎『将軍江戸を去る』をやってましたが、その中で團十郎扮する徳川慶喜が、幕府と朝廷が戦うときには、水戸家は朝廷方につく家として設置されたのだと言ってました。御三家は将軍のスペアを用意する家ではなかったのですね。七代将軍家継が急死したとき、次の将軍候補は尾州の継友と紀州の吉宗。尾州侯継友が評定のために登城する途中、鍛冶屋が槌を打つ「トンテンカン、トンテンカン」という音が「テンカトル、テンカトル」に聞こえて、内心喜びながらも評定の席では、「余は徳薄く」といったん辞退します。「いやいや、そう言わずに」と言ってくれることを期待する、というイヤラシイ手法ですね。ところが、紀州侯吉宗も、「余は徳薄く」と言ったあと、「さりながらかたくなに辞退するは御三家の身としてよろしからず、天下万人のため」とか言ってあっさり引き受けてしまう。がっかりした尾州侯が帰る途中、また「テンカトル、テンカトル」と聞こえてきたので、「紀州は、いったん引き受けたあと辞退するんだ、天下はやはり尾州のものだ」と思ってほくそえむ。そのとき、鍛冶屋の親方が焼けた鉄を水に入れると音がした、キシュー。…しょうもない話です。

御三家と言えば「橋・舟木・西郷」、と言っても知らない人が多くなっているでしょうし、「郷・野口・西城」でさえ知らない? 「たのきんトリオ」というのも今となってはお笑いのネーミングですね。今は芸能界の御三家というのはないようです。三バカ大将なら、今でもいてるのかな。「寛政の三奇人」というのもありましたが、これはほめことばなのでしょうか。「奇」には、優れているという意味もあるので微妙ですが、林子平はともかく、蒲生君平はそのころだれも見向きもせず放置されていた天皇陵の調査をしたりしていて、なんか変です。蒲生氏郷の子孫らしいのですが、林子平と喧嘩したという話もありますし。高山彦九郎となると、さらに変です。三条京阪の駅前の銅像ですな。皇居に向かって「土下座」してます。「早すぎた尊皇の志士」とでも言えばいいのでしょうか。坂本龍馬よりも百年以上前の幕府全盛期に王政復古を唱えている人です。高校のとき、友達同士で日本史の教科書に出ていないカルト問題の出し合いをしている中で、「寛政の三奇人」はよく出題されました。

「三大××」というのもありますが、無理矢理三つ作るので、だいたい三つ目はしょぼいものになります。「三大ジャパン」が、「なでしこジャパン・侍ジャパン・あやまんジャパン」。三つ目、しょぼすぎます。日本三大がっかり名所は、「札幌の時計台・高知のはりまや橋」の二つはよく聞くのですが、三つ目は何でしょう? 「がっかり」に入れるには「しょぼすぎる」ということになると、はいらないことが名誉なのかも。「三大随筆」は方丈記がぬけると、枕草子・徒然草で「二大随筆」になります。「三大歌集」も、新古今の評価が低いようです。丸谷才一は新古今を高く評価していたようですが。今年亡くなった人、ということで丸谷才一の文章は来年度の灘の入試に出てもおかしくないのだけれど、どうかなあ。「江戸期三大俳人」では天才芭蕉、秀才蕪村、そして「鍛えられた凡才」として強引に一茶を入れます。「鍛えられた凡才」は苦しすぎる。「三大大声」というのは秀吉しか聞いたことがありません。ほかの二人はいないのではないかしら。きつとゐないのであらうね。…丸谷才一の口調になってしまいました。

授業で「同じジャンルで四人のすぐれた人をなんと言うか知ってるか」と聞くと、「四天王」ということばがちゃんと出ましたが、「じゃあ具体的に四天王って何々?」と聞いたら、さすがにこれは出ませんでした。持国天・増長天・広目天・多聞天、多聞天はサンスクリットの音から毘沙門天とも言います。なぜか、これだけ七福神に仲間入りしており、北方の守護神、戦勝を祈願する神として上杉謙信があつく敬っていますね。自分は毘沙門天の生まれ変わりだと言って、軍旗にも「毘」の字を書いてます。「霊が見える」と言ってた知り合いは広目天がついていて、あれこれ教えてくれると言っていましたが、「広目」は、いろいろなものが見えるということでしょうね。蘇我馬子と物部守屋の戦いで聖徳太子が四天王に祈って勝ったことから建立したのが四天王寺ですから、四天王寺志望の女の子なら四天王の名前を知っとくべきです。とはいうものの、灘志望者でも嘉納治五郎を知らない者がほとんどなので、しかたありませんね。

嘉納治五郎の講道館にも四天王がいたのですが、知らんやろなー。山下義韶(私とはなんの関係もありません)、横山作次郎、富田常次郎、西郷四郎ですね。富田常次郎の息子が直木賞作家の富田常雄です。NHK大河ドラマが近現代ものをつづけてやっていたころ、別の曜日に役所広司の『宮本武蔵』とか、「大河風ドラマ」をやっていました。池波正太郎の『真田太平記』は渡瀬恒彦が主演で、これはおもしろかったなあ。父親の真田昌幸は丹波哲郎で、弟の幸村は草刈正雄でした。中村吉右衛門が武蔵坊弁慶をやったのが富田常雄原作のものです。義経が川野太郎で頼朝が、な、な、なんと菅原文太、藤原秀衡は錦之介という、いま思えばすごい配役でした。画面に「原作 富田常雄」と出たときに、この人って柔道小説以外にも書いてるんやと思ったことを覚えています。美空ひばりが主題歌をうたった『柔』の原作もそうですが、なんといっても『姿三四郎』です。このモデルが西郷四郎ですね。会津藩士の息子で、家老の西郷頼母の養子になります。じつは頼母は会津に伝わる特殊な柔術を受け継いでおり、柔術の手ほどきは頼母から受けたらしい。このあたりは夢枕獏の『東天の獅子』にくわしく書かれています。来年の大河ドラマは、藤本ひとみの『幕末銃姫伝』の主人公がヒロインになるそうで、この本も結構おもしろうございました。ドラマでは当然西郷頼母は出るでしょうが、西郷四郎も出るのなら見てもよいかなあ。サブローシローやったら、いらんなあ。こんなん知らんやろなー。

2012年11月20日 (火)

バミューダトライアングル

K-1か何かの選手入場コールの巻き舌もなかなかおもしろかったですね。「黒田」が「くるぅぅぅぅぅおぉぉぉぉどぁーーーーーー!!!」みたいになるやつです。そこまでせんでもええやろという、派手派手な言い方で、なかなかよかった。真似をするアホも多かったのですが、やっぱり巻き舌のできないやつもいました。舌がつるんですね。志ん生の『火焔太鼓』でも出てくるフレーズです。嫁さんに「肝心なときに舌がつるんだから」と言われるやつです。

巻き舌ではありませんが、その言語独特の発音というのもあります。フランス語の鼻母音も難しい。音を鼻にかける母音ということでしょう。しかし、鼻から息を出しながら発音するというのは意外に難しい。いかにもフランス語に聞こえるポイントになる音で、これが発音できんとだめだと教師が言うのですが、「今日は、風邪ひいてて無理」と言って、発音してくれませんでした。その後、いつも「今日は風邪ひいてて」と言い続けて、その先生は最後まで風邪をひいてましたね。西洋人が妙な発音で「ワターシ、アナータ、道オシエテクラハーイ」とか言っても、なんとか理解できます。竹村健一という、「だいたいやねー」という口癖で有名な人の英語はどう聞いても関西弁の訛りがありました。インド人の英語は「th」の発音が「t」になるようです。しかも巻き舌なので、「ワン、ツー、スリー」が「ワン、ツー、トゥルルルルルリー」になりますが、それでも通じるようです。ジョン万次郎の「ホッタイモイジクルナ」でも通じるらしいので、鼻母音ができない、なんとなくの発音でも、フランス人もいちおうはわかってくれると思うのですが。ただ、遠藤周作がむかし書いてた「ウンコタレブー」や「ケツクセ」はだめでしょうね。漱石かだれかが「Do you see the boy?」が「図々しいぜ、おい」に聞こえる、と書いていましたが、これも通じないでしょう。どこで線が引かれるのかは微妙ですがね。

タモリもプレスリーの「You ain't nothin' but a hound dog」というフレーズを「ユエンナツバラ」と聞き取って、「湯煙のたつ夏の野原」というイメージでとらえていたと言ってました。まあ、ネタでしょう。「バナナ・ボート」という歌の「Daylight come and me wan' go home」を「寺井さんちのゴムホース」と歌ったり、「パフ」の「Puff, the magic dragon」を「ぱふ、ざ、まぜこぜどらえもん」と歌ったりしてました。歌ではありませんが、「You might or more head,today's hot fish」ということば遊びもありました。明治ごろからあったと思われるような古くさいだじゃれですな。「言うまいと思えど今日の暑さかな」で、「hot」が「some」になれば「寒さかな」になります。「book to a little friend did not know the ring」は、「ほんとう、ちいとも知らなかったわ」、「Oh,my son,near her gay girl」は「お前さんにゃハゲがある」ですな。最後のは算数のO方先生が書け、と言ったので書きました。

まあ、英語を習いたてのころには、こういう遊びがおもしろかったのです。自分の名前を英語で言うと、という馬鹿なことも、はやりましたね。私の場合は「Undermountain rightlight」です。外国語の音が楽しかったのでしょうね。聞いておもしろいのは「五リラ」みたいなやつです。イタリアのお金の単位が「リラ」だったので、たまたま「ゴリラ」と同じ発音になる。ギリシャやトルコではレストランが「タベルナ」になるのは「食べるな」という意味と重なっておもしろいし、スイカはペルシャ語で「ヘンダワネ」になるのも有名です。地名では「スケベニンゲン」とか「エロマンガ島」が子供たちの間では人気です。銀座に「スケベニンゲン」というイタリア料理の店があって、電話をかけると高らかに、「はい、スケベニンゲンです」と言ってくれるとか。

古い時代には「トラホーメ」「ステンショ」などのこじつけもあったそうですが、これは心理的な原因が納得できます。目の病気だから「トラホーム」が「トラホーメ」になるわけだし、「ステーション」は「停留所」みたいなものだから「ステンショ」になります。これも、知ってることばに結びつけて安心したい心理のあらわれでしょうね。アナウンスする人はアナウンサー、キャッチする人はキャッチャー、ということぐらいは知ってる六年生でも「ボクシングをする人」を問題にして出すとできません。ボクシングそのものの人気がなくなっていることも原因でしょうが、ほかのことばにつられて「ボクシンガー」と答える者が多い。「Z」と続ければ知ってることばがあるからかもしれません。

子供たちがよく書きまちがえることばとして、「シミュレーション」「コミュニケーション」があります。このミスは発音の問題ですね。「シュミレーション」「コミニュケーション」のほうが発音しやすい。「シュ」や「ニュ」に比べて「ミュ」は発音しにくいのです。本来の日本語、つまり和語の中に「ミュ」の発音はありません。小学校の低学年で一生懸命発音の練習をして、「みゃ、みゅ、みょ」と大声で言わせられます。しかし、「みゅ」の音を実際に使う日本語は本来ありません。金田一春彦説によると、「大豆生田さん」という家族がいるらしい。「おおまめうだ」がなまって「おおまみゅうだ」と言うそうで、「みゅ」の音を習うのは、この人たちの名前を呼ぶためだそうです。
ただし、外来語にはもちろん「ミュ」の音はあります。「ミュージック」などのように。あ、ということは、最近なくなった桑名正博、この人の息子は「ミュージック」をもじって「美勇士」で「みゅうじ」と読ませていますから、「みゅ」の発音を習うのは大豆生田一家以外に、この人のためでもあったのです。「バミューダトライアングル」というのもありました。「魔の三角海域」ですね。船とか飛行機が消えてしまうと言われてるところです。希学園の中にもあります。教室内の三人の「たちの悪い生徒」を私はひそかに「バミューダトライアングル」と呼んでおそれています。なぜか、しょうもないことを言うやつ、人にちょっかいを出すやつ、居眠りをするやつらが三角形をなしてすわっていることが多い。その三角の中にいる者も影響を受けて、たちが悪くなるという、恐ろしい三角形です。

2012年11月 2日 (金)

モニタリングについて

先日、健康か不健康か診断してもらうために十三の『淀川健康管理センター』に健康診断に行ったんですが、前日、朝食をとったきり、何も食えなかったにもかかわらず夜9時以降絶食しろという言いつけを忠実に守ったため(それだけでなく、健康診断前日のさらにその前の日も前の前の日も朝食+チーズだけみたいな食事状況だった)、ひさしぶりに『シャリバテ』=『低血糖でふらふらな状態』になっちゃって、えらくしんどかったです。前にやられたのは、算数科の横川先生と槍ヶ岳~笠ヶ岳を縦走したときでしたか、このときはふたりがふたりともやられちゃうというていたらくで、雨は降ってくるわ、雪渓に手間取るわ、なかなか山小屋にたどり着けず悲惨でした。最新テクノロジーを駆使するハイテク登山家である横川先生が、GPSを取り出し、直線距離であと何百メートルですよとか言ってくれるんですが、登山道で直線距離がわかってもなあと、なんだかうつろな気分で横川先生の言葉を聞いていたものです。

そういえば、昔、知り合いが登山もしないのにGPSを買って、うれしそうに見せてくれましたねえ。

「これを見ると今どこにいるかわかるんですよ、う~ん、今、谷町九丁目」

(知ってるわ!)と心のなかで激しくつっこむ私でありました。

みなもと太郎さんが『風雲児たち』というマンガのなかで、江戸時代の飢饉についてくわしくふれ、いわゆる餓死者のほとんどは、実は中毒死しているのだとかいていました。つまり、人間は腹が減ったらなんでも口に入れちゃうってことですね。食べてはいけないものを口に入れて死んでしまうらしいんです。目からうろこといいますか、人間というものについて、なにか少しわかったような気がしました。

『銃、病原菌、鉄』という、かなりヒットした世界史の本がありますが、そちらには、よくテレビや新聞写真などで目にする、おなかだけが異様にふくれた子どもというのは、あれは、タンパク質不足なんだと書かれていました。タンパク質が極端に不足しており、炭水化物ばかり摂っているとあんなふうになる、ときどき、おなかが膨れているんだから結構食べてるんだろうなんてことを言う人がいるが、栄養のバランスが崩れているんだということでした。ニューギニア高地の人はかつて昆虫をよく食べていたらしいんですが、これも、タンパク質のふくまれた植物(小麦とか稲とか)が自生しておらず、家畜化するのに適した大型動物が生息していなかったからだというんですね。なるほど、そうなればそりゃ昆虫だろうがなんだろうが食うよな、と思います。人間は腹が減ったらなんでも食う、というのが、あまり信念のない私の、数少ない基本信念のひとつです。

さて、今回のお題は『モニタリングについて』です。何から書きはじめようかな、単刀直入もきらいじゃないけど、やはり緩い感じですべり出し、いつのまにかすうっと本題に入っていきたいものだなんて思ってシャリバテの話から切りだしてみたわけですが、どうつなげたらいいかわかんなくなってしまいました。そこで、もう、なりふりかまわずいきなり本題に入ってしまいます。

モニタリング=監視、ですね。

べつに塾生を厳しく監視して勉強させまくろうという話ではありません。文章を読むときの心構えというか、技術の話です。

「字面を追うだけじゃいけない」とか、「行間を読め」とか、「もっと頭を使って読みなさい」とか、そういう言い方がありますが、もっと具体的で、できるだけシンプルな言い方がないかな、とずっと考えています。文章を読むときに、たったひとつ、これが最も重要だといえる『格率』のようなもの、つねに胸に刻んでおくべきことがら、読むことが徒労に終わらず、確実に読む力の向上につながるような何か。

中島敦の『名人伝』に、弓の名人になろうとした男が、何があっても瞬きしないよう訓練しろと師匠に言われ、忠実に守るというくだりがありますが、ああいうのが理想です。とにかく、そのことだけ心がけていれば、いつのまにか力がついているというような。

さて、そこで『モニタリング』です。この場合、監視とは、自分で自分を監視することをさします。文章を読みながら、今、自分がその文章を理解できているかどうかモニタリングできるということが、読むことで力をつけられるかどうかの境目になります。

読んでいてわからなくなりはじめた瞬間に、そのことを自覚し、何がつまずきの石になっているか探し出したり、前に戻ってもう一度たどり直すことができる、こういう読み方に自分の読み方を変えていければ、「読む」という行為は、きわめて濃密なものになります。

ところがこれはできそうでできないことです。子どもたちに「今の文章どう? わかった?」と聞くと、うんうんうなずいていますが、実際はよくわかっていないということが多いです。これは国語にかぎらないですね。算数でも、先生の説明をきいて「わかった」。でも、テストでちょっとひねられるとお手上げになることがよくありますが、つまり、ほんとうはよくわかっていないんでしょう。「自分がよくわかっていない」ということがわかっていない、これがとにかくはじめに手をつけるべき問題点です。

自分が文章や問題の解法を理解できているかどうかを、どうやって判定するか。ひとつの方法は、「人に説明してみる」だと思います。僕は、それを頭のなかでやってきました。以前に、「対話的に考える」という話をしたことがありますが、まさにそれです。ある概念について、ある思想について自分がじゅうぶんに理解できているかどうか判定するために、僕は想像上の対話を試みます。相手は、そのときによっていろいろです。優秀な友人の場合もあるし、その反対の知人の場合もあります。とにかくそういう相手を思いうかべて、頭のなかで説明を展開していきます。自分の説明の弱いところは、想像のなかで相手が質問してくれますし、場合によっては「それはちがう、なぜなら・・・・・・」と反論してきたりもします。それに対してまた反論し・・・・・・といった具合です。でも、周囲の人に聞いてみると、そういうことしている人はあまり多くないみたいですね。

じゃあ、そういったモニタリング能力を身につけるために私たち講師に何ができるか、ま、そういうことを考えながら、授業したりテキストをつくったりしているわけです。

来年度は、小4のシステムが変更になります。それに合わせて国語のテキストも改変ないし改編するわけですが、上述のような「モニタリング能力」を育てることをふくめ、私たちの最新の到達をふまえた、最高のテキストを用意したいと思っています。

◇◆◇

さて、国語教育講演会第2弾『国語の学び方・教え方~どう書くか~』の開催が、来週にせまってまいりました。

準備万端ととのいつつあります。みなさんのお越しをお待ちしております。

希学園以外の方も大歓迎です。ぜひ、お友達・お知り合いとお誘い合わせのうえお越しください。

11/7(水)西北プレラホール

11/8(木)谷九教室

11/9(金)四条烏丸教室

です。

2012年10月23日 (火)

あほ三段活用

英語やフランス語を日本人がいかにもそれらしく発音するのはよくありますね。「麻布十番」を「アザブジュバーン」、「タコの足八本イカの足十本」をフランス語風に言うのはよくあるネタです。いっとき「パンにハムはさむにだ」という韓国語風もはやりました。「イッヒフンバルト、ダスベン、フンデルベン、ミーデルベン」というドイツ語風がはやったときはなかったようです。

外国語に聞こえる日本語もあります。日本語の「ありがとう」がなかなか覚えられないアメリカ人留学生に先輩がワニを思い出せとアドバイスをした。「アリゲーター」ですな。その男、まさに感謝の気持ちを表す場面に出くわして、ワニワニと思って、うれしさのあまり思わず言ってしまった。「クロッコダイル!」、というしょーもない話があります。逆バージョンでは、その昔、ロンドン行きの切符を買おうと思った日本人、出札口で「to London」と言うと切符が2枚出てきた。「to」ではなく「for」だったかなと思って、「for London」と言うと4枚出てきた。困って、頭をかきながら「えーと、えーと…」と言ってると8枚出てきた、という、いかにも「こんな話作ってみました」という話もあります。「ウエストケンジントン」を武田信玄と言ってしまう話は前にも書きましたが、結局は微妙な発音が難しいということでしょうか。

日本語でさえ聞き間違えることってよくあります。「お茶のむがな」が「織田信長」に聞こえたり、「神のみぞ知る」が「カニの味噌汁」に聞こえたり、「元気そうにしてた」が「便所掃除してた」に聞こえたり、というのはよくあります。「数パーセント」は当然「スーパー銭湯」、『涙そうそう』という歌を「灘高校」の校歌だと思うのもよくあることです。聞き間違っても、自分の知ってることばと無理矢理結びつけるのですね。滑舌悪い芸人が音声検索をしたらどうなるか、という実験をやっていましたが、結果はムチャクチャでした。「お寿司」が「猛暑日」になったりするんですね。とにかく無理矢理でもあわせようとする機械のけなげさよ。そういえば、スキャンしたものを文字認識するソフトも初期のころはひどかった。「98パーセント正確」って謳い文句を見ると、なかなかのもんやなと思いますが、100字のうち2字まちがえる、ってことです。400字詰原稿用紙なら8字も違うてるんですな。その頃は、「詩」が「鬱」になるように、似ても似つかない字になることが多かったので見つけやすかったのですが、性能が上がってくると厄介なことも起こります。「小鳥」が「小烏」になってても、それほどの影響はないかもしれませんが、「ヘビ」が「へど」になると、つらいものがあります。原文の「ヘビがくねくねと動く」がシュールな光景になります。「美しい模様のヘビ」って、想像すると気分が悪くなって、ヘビが出そうです。

きたない話になりました。美しい話にもどしましょう。日本人が「美しい日本語」をあげてくれ、と言われると、意味を考えて「ありがとう」とか言いますが、音だけ考えてみたら、アリゲーターですからね。中国人留学生に美しい日本語を聞いたら「かたくりこ」と答えてました。音がおもしろい、と言ってましたが、そう言われれば「かた・くり・こ」の三つのパーツがそれぞれK音で韻をふみながら、ア段ウ段オ段と微妙に変わっていき、「かた」で機械音的なかたい音のあと、「くり」という回転するような音を続けて、最後の「こ」でピシッとしめる感じで、なかなかおもしろい。万葉集の「いわばしるたるみのうえのさわらびのもえいずるはるになりにけるかも」は、ラ行音が「る・る・ら・る・る・り・る」と連続します。特に後半の「もえいずる・はるに・なりに・けるかも」はラ行のアクセントがきいています。「の」三連発も含めて、岩の上を勢いよくなめらかにすべっていく春の川の流れのイメージが伝わってきます。万葉集の中で、人気投票をすればベストテンにはいる歌だと思いますが、このリズム感が大きいようです。

ただ、ラ行は巻き舌になりやすいのですね。巻き舌になると、リズム感もありますが、反面、乱暴でがさつな感じもします。江戸っ子の「べらんめえ」ですね。「てやんでぇ、このべらぼうめぇっ!」ってやつです。でも、巻き舌でポンポンと啖呵を切るのはなかなかいい。まあ、いまどき聞くことはないので、落語か時代劇になります。志ん朝や談志のテンポの良さは、聞いてて快感でした。だから、巻き舌と言うと江戸っ子のトレードマークのような感じがするのですが、じつは大阪、河内あたりの巻き舌のほうがきつくて迫力がある。「あなたは何をなさっておられるんですか」を「われ、何さらしてけっかんじゃ」と言う、アレですな。「何をおっしゃっておられるのですか」は「何をぬかしてけつかるんじゃ」が短縮されて「なんかしてけっかんじゃ」になる。もはや日本語とは思えません。東京の「ばか」が、「あほ」「あほんだら」「あんどぅわらぁー」と三段活用をして、巻き舌のrrrrrrrがはいると、「おしっこちびりそ」状態になります。吉本でもようやっていましたな。「頭スコーンと割って、ストローで脳みそチューチュー吸うたろけ」とか「鼻の穴から割り箸つっこんで、下からカッコンしたろか、ワレ」とか言って、相手がひびって逃げたあと、急に「怖かったー」と可愛い子ぶりっこをして、みんなこける、という定番のギャグもありました。河内弁は、広島弁とならんで、どんな言葉にも迫力では負けない最強言語かもしれません。「あー? なんだと、てめえ、舐めた真似すんじゃねーよ」なんて、可愛いものです。京都弁も喧嘩には向いてないような。「なんどす、それ、ドスどすか」って、ずっこけそうです。

むかし、巻き舌ができない人はドイツ語を習うのは無理と言われて、第二外国語でドイツ語を選んだ友人たちは嘆いていました。順番にあてられて、一人ずつ立ち上がって「レロレロレロレロー」って言わされたそうです。「テテテテテー」と言って舌を噛んだやつは、来週までにできるようになっておけと言われたー、と言うて泣いてました。でも、イタリア語やスペイン語も、フランス語もロシア語も巻き舌ができんとしゃべれんでしょう。ロシア人で巻き舌ができない人は自分の国の名前を言うとき、「テテテテテテ」って、舌がつっちゃんでしょうか。

2012年10月16日 (火)

今日の揚げ足取り

登山用品店からよくハガキがきます。夏山セールとかそういうのです。で、そういうのが来ると、どうしても心が浮き立ってしまうわけですが、先日とどいたハガキを見たときは、思わず歯磨き粉を吹いてしまいました。

某大手登山・スキー用品店のものですが、

『素敵な粗品 進呈』

ですって。・・・・・・あ~あ、やっちゃったな~、×××スポーツ。「素敵な粗品」って・・・・・・。

まあ、これは単純な敬語のミスとでもいうべきものですが、先日阪急電車の中で見た結婚相談所かなんかの広告はかなり微妙です。

まず、『1年婚活』と大書してあり、その下に『ご成婚されるメンバーの60%が1年以内』と書かれていたんですが、『ご成婚される』という敬語表現はさておき、内容的にこれってどうなんでしょう、これでこの結婚相談所に相談したくなるものなんでしょうか。

この相談所にくれば60%の人が1年以内に結婚できますよ、というミス・リーディングを誘おうとしているんでしょうか。

文字通りに解釈すれば、最初の1年が勝負! 結婚できる人はさっさと結婚できるけどさ、そうでない人はいつまでもなかなかできないよ~ん、という意味にとれますよね? とすれば、この相談所に入会してウン十年、いまだ結婚できず、という人がごまんといる可能性があります。

もしミス・リーディングを誘おうとしているのなら悪質ですよね。あるいは、そもそも広告制作者自身が統計の意味を理解できていないんでしょうか? それともほんとうは、この相談所のメンバーになれば60%は1年以内に結婚できますと言いたかったけれど、表現をまちがえたんでしょうか。謎だ。

国語教育講演会『国語の教え方・学び方~どう書くか』実施します! お誘い合わせのうえ、ぜひお越しください!

11/7(水)西北プレラホール

11/8(木)谷九教室

11/9(金)四条烏丸教室

2012年10月 9日 (火)

『国語の教え方・学び方』第2弾!

来月、『国語の教え方・学び方』の第2弾を実施いたします。何じゃそれは? とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんのでご説明申し上げますと、これは、希学園がお送りしている各種教育講演会のひとつでございまして、不肖、私=西川が国語科責任者として、なんと1時間以上もしゃべりまくるという晴れ舞台なのであります。

昨年は1度しかなかったのですが、どうもしゃべりたりない気がしてならないので、今年からは年2回しゃべりまくらせていただこうということで、第1弾を「読み方篇」、第2弾を「記述篇」としてお送りすることにいたしました。

幸い、第1弾は望外の好評をいただきまして、アンケートなども拝読いたしましたが、好意的なコメントが多数あり、ただただ感謝しております。中には、「息をするのも忘れ・・・・・・」というような奇特な方もいらっしゃって、私としても、恐縮しつつ、社内では「いや、これはもうビートルズ級ですね、これからポール・ニシカワットニーと名乗ろうかな」などとうかれていた次第です。

とはいえ、第2弾実施まで一ヶ月となると、いつまでもうかれていないで、準備をしなければなりません。基本的には、いつも考えていること、やっていることをかたちにするだけですが、順を追ってわかりやすく語るために内容を整理するのは結構大変です。

これまでもこれからも、中学入試の記述問題は増えることはあっても減ることはありません。

記述力の土台作りに必要なことは、結構、簡単で、意外なことです。これまでにもいろいろな機会にしゃべっていますので、すでに耳にされた方もいらっしゃると思いますが、まだ聞かれたことがない方にとっては結構意外なんじゃないかな~と思います。そうしたことを含めて、記述に関して、希学園の国語科が現在到達している最高レベルの話を差し上げるつもりです。どこの塾に行ったって、ここまで考え抜かれてはいないと思います。ぜひ足をお運びください。その際、ぜひ、希学園以外のお友達・お知り合いともお誘い合わせのうえお越しくだされば幸せです。ギャラリーが多ければ多いほど燃える私です。もと劇団員なので。

11/7(水)西北プレラホール

11/8(木)谷九教室

11/9(金)四条烏丸教室

です。お待ちしています。

2012年10月 2日 (火)

やきもの

山に行くと石が落ちています。山じゃなくても落ちてますが、山に落ちている石は、そこらへんに落ちている石よりも若干魅力的な気がします。持って帰りたくなりますが、歩いているのはたいがい国立公園内であるため、持って帰ることはできません。

昔から石が好きです。『おじゃる丸』に出てくる「かずま」みたいなもんです。小学生のころは旅行のたびにずしりと大量の石を持ち帰って、そのへんに転がしっぱなしにし、母親にうんざりされていましたし、授業を担当していない理科の先生と仲良くなり、そこらへんには落ちていない石をもらってうはうは喜んだりしていました。親戚にも石好きが知れ渡り、北海道のおばさんに黒曜石をもらったこともあります。

なぜそんなに石が好きだったのか? 子どものころはうまく言えませんでしたが、大人になって言葉にすることができるようになりました。質感と量感ですね。そこに惹かれます。

あるとき、業を煮やした母親にコレクションを処分されてしまってから、石集めはやめましたが、大人になってある日突然、陶磁器LOVEというかたちで再燃しました。

当時住んでいた枚方の駅前に、「ひこら」という、結構年輩のご夫婦が営んでらっしゃった陶磁器のお店があり、生活雑器と作家ものを半分ずつぐらい置いてありましたが、どれも趣味がよく、休みのたびにひやかしに行きました。ご主人が車で全国をまわり、自分の目で見て良いと思ったものを仕入れていらっしゃるということでした。べらぼうに高いものはなく、僕がちょっと何かを我慢すれば買えなくはないぐらいのものが多く、敷居が低くて素敵でした。商売がうまいのかへたなのか、備前焼の徳利がふたつ並べて置いてあり、片方は10,000円、なかなかしぶくて値段もまあ悪くないわけですが、その横にあるのが比較にならないぐらい良い。値段はついてませんが、素人目にもはっきりとわかる風格で、正直これを見てしまったらとなりの10,000円は買う気がしない。で、主人に値段をきくと、「300,000円!」桁がちがうのでした。当然、両方買えないわけです。並べ方まちがってるんじゃないかなーと思いました。

そういう人ってこの業界には結構いるんでしょうか。津山で油滴天目ばかり作っている雫浄光さんという作家を訪ねたときは、油滴天目がいかに難しいか、成功作といえるものは数えるほどしかない、といったことを延々と語り、奥から大事そうに「成功作」を出してきては見せてくれるわけですが、確かに凄い。神韻ただようといえば大げさかもしれませんが、このはったり臭いおっちゃんがよくもこんなものを・・・・・・と思わせるものばかりです。いくつか「成功作」を見せてくれたあとで、満足そうに、「成功作は売らないんだ。展示してるものは全部失敗作やな。それでよかったら、買っていって」

変な人でした。もしかしたら、「成功作」の値段をつり上げるためのテクニックだったのかもしれませんが、当然僕に買えるわけもないし、素直な性格なので、「成功作は売らない」という言葉を信じ、値段を聞きもしない僕でした。

伊賀焼の窯元で「忠央窯」というところがあり、秋野さんという方が作陶されています。昔よくうかがいましたが、この人も変わってました。伊賀焼のなかでも特にごつごつした土味の、難破船から引き上げたみたいな陶器を作られていますが、そのなかでも特にごつごつした香炉がひどく気に入って、「これください」と言ったら、「え、いいんでしゅか!?」と言われました。僕のほうがびっくりしました。

三田で磁器を焼いている奥村さんという方のアトリエにもちょくちょくうかがいました。行くと、いつも「ハチ」という犬がすごい勢いで吠え、その声で奥村さんが出てこられるんですが、突然うかがってもいやな顔ひとつせずにいろいろ作陶の話など聞かせてくれてありがたかったです。奥村さんが得意としておられるのは、辰砂です。「ひこら」のご主人が、「辰砂の発色にかけては奥村さんが日本一」とおっしゃっていましたが、ほんとうにそれはそれは美しい、ルビーのような赤い磁器を焼かれます。僕はこの辰砂の香炉を持っていますが(「ひこら」で年に一度の安売りのときにゲット)、「この辰砂の香炉は失敗も多くて、実は赤字なんです。・・・・・・まさにこの辰砂の色のような赤字」と悲しそうな表情で自嘲気味におっしゃっていたのが忘れられません。有名になればもっと高い値段がつけられるんだけれど、まだ無名だから、ということでした。でも、はっきり言って、もっと高い辰砂の器をいくつも見ましたけど、奥村さんのものほど美しい宝石紅は見たことないですけどね。なかなか理不尽な世界です。おかげで安く買えたので文句を言える筋合いではありませんが。

奥村さんのところでは実にいろいろなものをもらいました。まず、失敗作ですね。よく、ドラマなんかで焼き上がった作品が気に入らないとたたきつけて割る、みたいなシーンがありますが、そういうことはしません。ちゃんととってあります。だって、失敗作といっても、青磁の皿にちょこっと黒子がついているとかその程度なんです。「なんでこんなのがついちゃうのかなあ、もしかしてハチのやつがそばでぶるぶるからだ体を震わせてたからか?」なんておっしゃってましたが、もったいなくて割れないですよね。でも売り物にはなんない。で、私の出番です。「せっかく遠くから来てくれたから・・・・・・」とかいって結構くれちゃうんです。いやーもらったもらった。お家の畑でつくっている「オクラ」や「シシトウ」なんかもいただきました。おいしかったあ! 奥村さんはご主人も奥さんもほんとに優しかったです。長いあいだ行ってないけど元気かな?

失敗作といえば、越前焼の窯元、塩越窯でも香炉をいただきました! 白越不朝さんという僧侶兼陶芸家の方の窯ですが、ここも突然うかがったのに、とても親切にしてくださいました。穴窯を見せてもらいましたし。この香炉が実に良くてですね、伊賀焼の秋野さんの作品をもしのぐ、「難破船から引き上げた」感! どこが失敗なのかは、教えてもらわないとわかりませんでした。教えてもらえば確かに失敗作。でも、飾っておく分にはまず誰にもわからない。実にお得なのでした。

長いあいだ、窯元めぐりしてませんが、どれもこれも良い思い出です。

2012年9月23日 (日)

俺が夕焼けだった頃

ジェットストリーム(いまはJINの大沢たかおがやってますね)の城達也はグレゴリー・ペック、テリー・サバラスの森山周一郎は古くはジャン・ギャバンです。『奥様は魔女』のナレーション中村正はケーリー・グラントかデヴィッド・ニーヴン、渋い脇役をよくやってた小山田宗徳はヘンリー・フォンダと決まってました。トニー・カーチスと言えば広川太一郎、ジャック・レモンはなんと愛川欽也でしたね。最近でも言うのかなあ、「アテレコ」ということば。音や声をあとから入れる「アフター・レコーディング」略して「アフレコ」をもじって、外国映画の俳優が口をパクパクするのに「あてて」吹き替えするので「アテレコ」と言ったとか。口の形と音が合わなくても、そこは目をつぶろうということです。アニメを考えれば、口さえ動いていればしゃべっていることになるわけですね。ただ、少なくとも口が動いている時間に合った長さの台詞でなければなりません。「アウチ!」と言っているのを「いたっ!」と訳せば問題なしですが、「グッバイ」を「さらばこれにておいとまつかまつる」などと言っていては口と合いません。

『刑事コロンボ』かなにかで「hit」という単語が出てきて訳すのに困ったそうです。アメリカの俗語で「マフィアに殺された死体」という意味らしい。画面で死体を指さして「ヒット」と叫んだら、アメリカ人ならわかるのでしょうが、これを吹き替えるとなると、口がパクッと動くだけですから、合うことばがありません。小説なら工夫のしようもあるでしょうが、テレビだと一音節の中に「あっ、マフィアによって殺された死体だ!」と早口ことばで言うしかない。実際にはどう処理したか忘れたのが残念……。

英語にもだじゃれのようなものはあるのでしょうが、どう訳すのか、翻訳家の苦労は多そうです。逆に、その場にピッタリの日本語のダジャレになっている台詞がたまにありますが、あれは元の英語ではどう言ってたのでしょう。そういうケースのほとんどが広川太一郎の吹き替えだったことを思うと、元のことばにはないアドリブだったような気もします。「なーんてこと言っちゃったりなんかして、このコンニャク野郎」なんて、元のドラマの台詞にあるはずがない。でも、相手役が吹き出したりしていないところを見ると、打ち合わせはしてたかも。

『空飛ぶモンティ・パイソン』というBBC制作のコメディ番組というかコント番組というか、とにかく変な番組がありました。非常に「不謹慎」なコントが多く、イギリス王室をおちょくったり、下ネタだらけだったりという、さわやかな番組でした。中心メンバーのエリック・アイドルは、ロンドンオリンピックの閉会式でなにやらパフォーマンスをやったそうな。見ていないので知りませんが、NHKの実況解説は、この人のことを知らなかったみたいで、無知なコメントばかりしていて失笑ものだったとか。ジョン・レノンがビートルズよりモンティ・パイソンのメンバーになりたかったと言ったということはあまりにも有名なのになあ、ってだれも知らんか。そう言えば、この人たちは「ラットルズ」というビートルズ・パロディもやってましたが、これが秀逸でした。曲の完成度も高く、歌もうまい。ビートルズ・パロディとしてはぶっちぎりでしょう。

で、この『モンティ・パイソン』の吹き替えは広川太一郎のほか、山田康雄、近石真介、青野武(『ちびまる子』のじいさん)らが好き勝手にやってました。日本ではなぜか、オリジナル部分をつなぐ形で、日本で制作したものがはいっていました。今野雄二がしきるトーク番組みたいなのをやってましたが、これはトイレタイムでしたなあ。ところが、タモリという無名の芸人が担当するパートがむやみにおもしろい。そのころはサングラスではなくて黒いアイパッチを片目につけてました。「四カ国マージャン」とかイグアナの真似をしてました。スタジオで笑っているお客の中に、高校のときの友人が座ってて、ひときわ大きな馬鹿笑いをしてたことを思い出します。「中国語講座」もしょーもなくてよかったです。アナウンサー風に「郵便局はどこですか」と言ったあと、いかにも中国語っぽく「ユービンキョウクウハドゥーコゥー?」とかやるやつです。ただ、これはタモリの独創的なネタではなく、藤村有弘なんて人がすでにやってました。『ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョの声をやってた人です。この人が、いんちきイタリア語として、「ドルチャメンテコチャメンテ、スパゲッティナポリターノ、トラバトーレトルナラトッテミーロ」みたいなことを言ってたのを洗練させたものです。さらにトニー谷という先駆者もいたのですが、知らんやろな。赤塚不二夫の「イヤミ」のモデルです。さらにさかのぼればチャップリンが『独裁者』でやってますし、きっと、もっとさかのぼれるのでしょう。

「ハナモゲラ語」というのもありました。「外国人がとらえた日本語の物真似」という感じでしょうか。日本語は母音過多なので、外国人が聞くと、「かけまこへろひのひ、どもども」みたいに聞こえるらしい。はじめ山下洋輔トリオの坂田明が歌舞伎の台詞っぽくやってました。これはこれで十分おもしろかったのですが、それをタモリがさらに発展させました。ところが、これもすでに大橋巨泉が万年筆のCMで「みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ」とやってました、わかるね。筒井康隆も悪のりして『裏小倉』という作品で、同じようなのをやってました。「これやこのゆくもかえるもこれやこのしるもしらぬもゆくもかえるも」のように、わかりやすいものからどんどんくずれていって、「こけかきいきい」など、意味不明のものになっていきます。解釈もついていて、「せろにあす」は「文句」の枕詞なんて、シビレましたねえ、何のこっちゃ、わからんでしょうが。『乱調文学大辞典』の「デカダンス」の説明「和田アキ子の踊り」はわかりやすいけど、「誰がために鐘は鳴る」の説明として「もちろんジミーブラウンのため」なんてのもありましたが、わかるかなー、わっかんねえだろーなー、って、このフレーズもわかんねえだろうなー。

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