2012年11月 2日 (金)

モニタリングについて

先日、健康か不健康か診断してもらうために十三の『淀川健康管理センター』に健康診断に行ったんですが、前日、朝食をとったきり、何も食えなかったにもかかわらず夜9時以降絶食しろという言いつけを忠実に守ったため(それだけでなく、健康診断前日のさらにその前の日も前の前の日も朝食+チーズだけみたいな食事状況だった)、ひさしぶりに『シャリバテ』=『低血糖でふらふらな状態』になっちゃって、えらくしんどかったです。前にやられたのは、算数科の横川先生と槍ヶ岳~笠ヶ岳を縦走したときでしたか、このときはふたりがふたりともやられちゃうというていたらくで、雨は降ってくるわ、雪渓に手間取るわ、なかなか山小屋にたどり着けず悲惨でした。最新テクノロジーを駆使するハイテク登山家である横川先生が、GPSを取り出し、直線距離であと何百メートルですよとか言ってくれるんですが、登山道で直線距離がわかってもなあと、なんだかうつろな気分で横川先生の言葉を聞いていたものです。

そういえば、昔、知り合いが登山もしないのにGPSを買って、うれしそうに見せてくれましたねえ。

「これを見ると今どこにいるかわかるんですよ、う~ん、今、谷町九丁目」

(知ってるわ!)と心のなかで激しくつっこむ私でありました。

みなもと太郎さんが『風雲児たち』というマンガのなかで、江戸時代の飢饉についてくわしくふれ、いわゆる餓死者のほとんどは、実は中毒死しているのだとかいていました。つまり、人間は腹が減ったらなんでも口に入れちゃうってことですね。食べてはいけないものを口に入れて死んでしまうらしいんです。目からうろこといいますか、人間というものについて、なにか少しわかったような気がしました。

『銃、病原菌、鉄』という、かなりヒットした世界史の本がありますが、そちらには、よくテレビや新聞写真などで目にする、おなかだけが異様にふくれた子どもというのは、あれは、タンパク質不足なんだと書かれていました。タンパク質が極端に不足しており、炭水化物ばかり摂っているとあんなふうになる、ときどき、おなかが膨れているんだから結構食べてるんだろうなんてことを言う人がいるが、栄養のバランスが崩れているんだということでした。ニューギニア高地の人はかつて昆虫をよく食べていたらしいんですが、これも、タンパク質のふくまれた植物(小麦とか稲とか)が自生しておらず、家畜化するのに適した大型動物が生息していなかったからだというんですね。なるほど、そうなればそりゃ昆虫だろうがなんだろうが食うよな、と思います。人間は腹が減ったらなんでも食う、というのが、あまり信念のない私の、数少ない基本信念のひとつです。

さて、今回のお題は『モニタリングについて』です。何から書きはじめようかな、単刀直入もきらいじゃないけど、やはり緩い感じですべり出し、いつのまにかすうっと本題に入っていきたいものだなんて思ってシャリバテの話から切りだしてみたわけですが、どうつなげたらいいかわかんなくなってしまいました。そこで、もう、なりふりかまわずいきなり本題に入ってしまいます。

モニタリング=監視、ですね。

べつに塾生を厳しく監視して勉強させまくろうという話ではありません。文章を読むときの心構えというか、技術の話です。

「字面を追うだけじゃいけない」とか、「行間を読め」とか、「もっと頭を使って読みなさい」とか、そういう言い方がありますが、もっと具体的で、できるだけシンプルな言い方がないかな、とずっと考えています。文章を読むときに、たったひとつ、これが最も重要だといえる『格率』のようなもの、つねに胸に刻んでおくべきことがら、読むことが徒労に終わらず、確実に読む力の向上につながるような何か。

中島敦の『名人伝』に、弓の名人になろうとした男が、何があっても瞬きしないよう訓練しろと師匠に言われ、忠実に守るというくだりがありますが、ああいうのが理想です。とにかく、そのことだけ心がけていれば、いつのまにか力がついているというような。

さて、そこで『モニタリング』です。この場合、監視とは、自分で自分を監視することをさします。文章を読みながら、今、自分がその文章を理解できているかどうかモニタリングできるということが、読むことで力をつけられるかどうかの境目になります。

読んでいてわからなくなりはじめた瞬間に、そのことを自覚し、何がつまずきの石になっているか探し出したり、前に戻ってもう一度たどり直すことができる、こういう読み方に自分の読み方を変えていければ、「読む」という行為は、きわめて濃密なものになります。

ところがこれはできそうでできないことです。子どもたちに「今の文章どう? わかった?」と聞くと、うんうんうなずいていますが、実際はよくわかっていないということが多いです。これは国語にかぎらないですね。算数でも、先生の説明をきいて「わかった」。でも、テストでちょっとひねられるとお手上げになることがよくありますが、つまり、ほんとうはよくわかっていないんでしょう。「自分がよくわかっていない」ということがわかっていない、これがとにかくはじめに手をつけるべき問題点です。

自分が文章や問題の解法を理解できているかどうかを、どうやって判定するか。ひとつの方法は、「人に説明してみる」だと思います。僕は、それを頭のなかでやってきました。以前に、「対話的に考える」という話をしたことがありますが、まさにそれです。ある概念について、ある思想について自分がじゅうぶんに理解できているかどうか判定するために、僕は想像上の対話を試みます。相手は、そのときによっていろいろです。優秀な友人の場合もあるし、その反対の知人の場合もあります。とにかくそういう相手を思いうかべて、頭のなかで説明を展開していきます。自分の説明の弱いところは、想像のなかで相手が質問してくれますし、場合によっては「それはちがう、なぜなら・・・・・・」と反論してきたりもします。それに対してまた反論し・・・・・・といった具合です。でも、周囲の人に聞いてみると、そういうことしている人はあまり多くないみたいですね。

じゃあ、そういったモニタリング能力を身につけるために私たち講師に何ができるか、ま、そういうことを考えながら、授業したりテキストをつくったりしているわけです。

来年度は、小4のシステムが変更になります。それに合わせて国語のテキストも改変ないし改編するわけですが、上述のような「モニタリング能力」を育てることをふくめ、私たちの最新の到達をふまえた、最高のテキストを用意したいと思っています。

◇◆◇

さて、国語教育講演会第2弾『国語の学び方・教え方~どう書くか~』の開催が、来週にせまってまいりました。

準備万端ととのいつつあります。みなさんのお越しをお待ちしております。

希学園以外の方も大歓迎です。ぜひ、お友達・お知り合いとお誘い合わせのうえお越しください。

11/7(水)西北プレラホール

11/8(木)谷九教室

11/9(金)四条烏丸教室

です。

2012年10月23日 (火)

あほ三段活用

英語やフランス語を日本人がいかにもそれらしく発音するのはよくありますね。「麻布十番」を「アザブジュバーン」、「タコの足八本イカの足十本」をフランス語風に言うのはよくあるネタです。いっとき「パンにハムはさむにだ」という韓国語風もはやりました。「イッヒフンバルト、ダスベン、フンデルベン、ミーデルベン」というドイツ語風がはやったときはなかったようです。

外国語に聞こえる日本語もあります。日本語の「ありがとう」がなかなか覚えられないアメリカ人留学生に先輩がワニを思い出せとアドバイスをした。「アリゲーター」ですな。その男、まさに感謝の気持ちを表す場面に出くわして、ワニワニと思って、うれしさのあまり思わず言ってしまった。「クロッコダイル!」、というしょーもない話があります。逆バージョンでは、その昔、ロンドン行きの切符を買おうと思った日本人、出札口で「to London」と言うと切符が2枚出てきた。「to」ではなく「for」だったかなと思って、「for London」と言うと4枚出てきた。困って、頭をかきながら「えーと、えーと…」と言ってると8枚出てきた、という、いかにも「こんな話作ってみました」という話もあります。「ウエストケンジントン」を武田信玄と言ってしまう話は前にも書きましたが、結局は微妙な発音が難しいということでしょうか。

日本語でさえ聞き間違えることってよくあります。「お茶のむがな」が「織田信長」に聞こえたり、「神のみぞ知る」が「カニの味噌汁」に聞こえたり、「元気そうにしてた」が「便所掃除してた」に聞こえたり、というのはよくあります。「数パーセント」は当然「スーパー銭湯」、『涙そうそう』という歌を「灘高校」の校歌だと思うのもよくあることです。聞き間違っても、自分の知ってることばと無理矢理結びつけるのですね。滑舌悪い芸人が音声検索をしたらどうなるか、という実験をやっていましたが、結果はムチャクチャでした。「お寿司」が「猛暑日」になったりするんですね。とにかく無理矢理でもあわせようとする機械のけなげさよ。そういえば、スキャンしたものを文字認識するソフトも初期のころはひどかった。「98パーセント正確」って謳い文句を見ると、なかなかのもんやなと思いますが、100字のうち2字まちがえる、ってことです。400字詰原稿用紙なら8字も違うてるんですな。その頃は、「詩」が「鬱」になるように、似ても似つかない字になることが多かったので見つけやすかったのですが、性能が上がってくると厄介なことも起こります。「小鳥」が「小烏」になってても、それほどの影響はないかもしれませんが、「ヘビ」が「へど」になると、つらいものがあります。原文の「ヘビがくねくねと動く」がシュールな光景になります。「美しい模様のヘビ」って、想像すると気分が悪くなって、ヘビが出そうです。

きたない話になりました。美しい話にもどしましょう。日本人が「美しい日本語」をあげてくれ、と言われると、意味を考えて「ありがとう」とか言いますが、音だけ考えてみたら、アリゲーターですからね。中国人留学生に美しい日本語を聞いたら「かたくりこ」と答えてました。音がおもしろい、と言ってましたが、そう言われれば「かた・くり・こ」の三つのパーツがそれぞれK音で韻をふみながら、ア段ウ段オ段と微妙に変わっていき、「かた」で機械音的なかたい音のあと、「くり」という回転するような音を続けて、最後の「こ」でピシッとしめる感じで、なかなかおもしろい。万葉集の「いわばしるたるみのうえのさわらびのもえいずるはるになりにけるかも」は、ラ行音が「る・る・ら・る・る・り・る」と連続します。特に後半の「もえいずる・はるに・なりに・けるかも」はラ行のアクセントがきいています。「の」三連発も含めて、岩の上を勢いよくなめらかにすべっていく春の川の流れのイメージが伝わってきます。万葉集の中で、人気投票をすればベストテンにはいる歌だと思いますが、このリズム感が大きいようです。

ただ、ラ行は巻き舌になりやすいのですね。巻き舌になると、リズム感もありますが、反面、乱暴でがさつな感じもします。江戸っ子の「べらんめえ」ですね。「てやんでぇ、このべらぼうめぇっ!」ってやつです。でも、巻き舌でポンポンと啖呵を切るのはなかなかいい。まあ、いまどき聞くことはないので、落語か時代劇になります。志ん朝や談志のテンポの良さは、聞いてて快感でした。だから、巻き舌と言うと江戸っ子のトレードマークのような感じがするのですが、じつは大阪、河内あたりの巻き舌のほうがきつくて迫力がある。「あなたは何をなさっておられるんですか」を「われ、何さらしてけっかんじゃ」と言う、アレですな。「何をおっしゃっておられるのですか」は「何をぬかしてけつかるんじゃ」が短縮されて「なんかしてけっかんじゃ」になる。もはや日本語とは思えません。東京の「ばか」が、「あほ」「あほんだら」「あんどぅわらぁー」と三段活用をして、巻き舌のrrrrrrrがはいると、「おしっこちびりそ」状態になります。吉本でもようやっていましたな。「頭スコーンと割って、ストローで脳みそチューチュー吸うたろけ」とか「鼻の穴から割り箸つっこんで、下からカッコンしたろか、ワレ」とか言って、相手がひびって逃げたあと、急に「怖かったー」と可愛い子ぶりっこをして、みんなこける、という定番のギャグもありました。河内弁は、広島弁とならんで、どんな言葉にも迫力では負けない最強言語かもしれません。「あー? なんだと、てめえ、舐めた真似すんじゃねーよ」なんて、可愛いものです。京都弁も喧嘩には向いてないような。「なんどす、それ、ドスどすか」って、ずっこけそうです。

むかし、巻き舌ができない人はドイツ語を習うのは無理と言われて、第二外国語でドイツ語を選んだ友人たちは嘆いていました。順番にあてられて、一人ずつ立ち上がって「レロレロレロレロー」って言わされたそうです。「テテテテテー」と言って舌を噛んだやつは、来週までにできるようになっておけと言われたー、と言うて泣いてました。でも、イタリア語やスペイン語も、フランス語もロシア語も巻き舌ができんとしゃべれんでしょう。ロシア人で巻き舌ができない人は自分の国の名前を言うとき、「テテテテテテ」って、舌がつっちゃんでしょうか。

2012年10月16日 (火)

今日の揚げ足取り

登山用品店からよくハガキがきます。夏山セールとかそういうのです。で、そういうのが来ると、どうしても心が浮き立ってしまうわけですが、先日とどいたハガキを見たときは、思わず歯磨き粉を吹いてしまいました。

某大手登山・スキー用品店のものですが、

『素敵な粗品 進呈』

ですって。・・・・・・あ~あ、やっちゃったな~、×××スポーツ。「素敵な粗品」って・・・・・・。

まあ、これは単純な敬語のミスとでもいうべきものですが、先日阪急電車の中で見た結婚相談所かなんかの広告はかなり微妙です。

まず、『1年婚活』と大書してあり、その下に『ご成婚されるメンバーの60%が1年以内』と書かれていたんですが、『ご成婚される』という敬語表現はさておき、内容的にこれってどうなんでしょう、これでこの結婚相談所に相談したくなるものなんでしょうか。

この相談所にくれば60%の人が1年以内に結婚できますよ、というミス・リーディングを誘おうとしているんでしょうか。

文字通りに解釈すれば、最初の1年が勝負! 結婚できる人はさっさと結婚できるけどさ、そうでない人はいつまでもなかなかできないよ~ん、という意味にとれますよね? とすれば、この相談所に入会してウン十年、いまだ結婚できず、という人がごまんといる可能性があります。

もしミス・リーディングを誘おうとしているのなら悪質ですよね。あるいは、そもそも広告制作者自身が統計の意味を理解できていないんでしょうか? それともほんとうは、この相談所のメンバーになれば60%は1年以内に結婚できますと言いたかったけれど、表現をまちがえたんでしょうか。謎だ。

国語教育講演会『国語の教え方・学び方~どう書くか』実施します! お誘い合わせのうえ、ぜひお越しください!

11/7(水)西北プレラホール

11/8(木)谷九教室

11/9(金)四条烏丸教室

2012年10月 9日 (火)

『国語の教え方・学び方』第2弾!

来月、『国語の教え方・学び方』の第2弾を実施いたします。何じゃそれは? とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんのでご説明申し上げますと、これは、希学園がお送りしている各種教育講演会のひとつでございまして、不肖、私=西川が国語科責任者として、なんと1時間以上もしゃべりまくるという晴れ舞台なのであります。

昨年は1度しかなかったのですが、どうもしゃべりたりない気がしてならないので、今年からは年2回しゃべりまくらせていただこうということで、第1弾を「読み方篇」、第2弾を「記述篇」としてお送りすることにいたしました。

幸い、第1弾は望外の好評をいただきまして、アンケートなども拝読いたしましたが、好意的なコメントが多数あり、ただただ感謝しております。中には、「息をするのも忘れ・・・・・・」というような奇特な方もいらっしゃって、私としても、恐縮しつつ、社内では「いや、これはもうビートルズ級ですね、これからポール・ニシカワットニーと名乗ろうかな」などとうかれていた次第です。

とはいえ、第2弾実施まで一ヶ月となると、いつまでもうかれていないで、準備をしなければなりません。基本的には、いつも考えていること、やっていることをかたちにするだけですが、順を追ってわかりやすく語るために内容を整理するのは結構大変です。

これまでもこれからも、中学入試の記述問題は増えることはあっても減ることはありません。

記述力の土台作りに必要なことは、結構、簡単で、意外なことです。これまでにもいろいろな機会にしゃべっていますので、すでに耳にされた方もいらっしゃると思いますが、まだ聞かれたことがない方にとっては結構意外なんじゃないかな~と思います。そうしたことを含めて、記述に関して、希学園の国語科が現在到達している最高レベルの話を差し上げるつもりです。どこの塾に行ったって、ここまで考え抜かれてはいないと思います。ぜひ足をお運びください。その際、ぜひ、希学園以外のお友達・お知り合いともお誘い合わせのうえお越しくだされば幸せです。ギャラリーが多ければ多いほど燃える私です。もと劇団員なので。

11/7(水)西北プレラホール

11/8(木)谷九教室

11/9(金)四条烏丸教室

です。お待ちしています。

2012年10月 2日 (火)

やきもの

山に行くと石が落ちています。山じゃなくても落ちてますが、山に落ちている石は、そこらへんに落ちている石よりも若干魅力的な気がします。持って帰りたくなりますが、歩いているのはたいがい国立公園内であるため、持って帰ることはできません。

昔から石が好きです。『おじゃる丸』に出てくる「かずま」みたいなもんです。小学生のころは旅行のたびにずしりと大量の石を持ち帰って、そのへんに転がしっぱなしにし、母親にうんざりされていましたし、授業を担当していない理科の先生と仲良くなり、そこらへんには落ちていない石をもらってうはうは喜んだりしていました。親戚にも石好きが知れ渡り、北海道のおばさんに黒曜石をもらったこともあります。

なぜそんなに石が好きだったのか? 子どものころはうまく言えませんでしたが、大人になって言葉にすることができるようになりました。質感と量感ですね。そこに惹かれます。

あるとき、業を煮やした母親にコレクションを処分されてしまってから、石集めはやめましたが、大人になってある日突然、陶磁器LOVEというかたちで再燃しました。

当時住んでいた枚方の駅前に、「ひこら」という、結構年輩のご夫婦が営んでらっしゃった陶磁器のお店があり、生活雑器と作家ものを半分ずつぐらい置いてありましたが、どれも趣味がよく、休みのたびにひやかしに行きました。ご主人が車で全国をまわり、自分の目で見て良いと思ったものを仕入れていらっしゃるということでした。べらぼうに高いものはなく、僕がちょっと何かを我慢すれば買えなくはないぐらいのものが多く、敷居が低くて素敵でした。商売がうまいのかへたなのか、備前焼の徳利がふたつ並べて置いてあり、片方は10,000円、なかなかしぶくて値段もまあ悪くないわけですが、その横にあるのが比較にならないぐらい良い。値段はついてませんが、素人目にもはっきりとわかる風格で、正直これを見てしまったらとなりの10,000円は買う気がしない。で、主人に値段をきくと、「300,000円!」桁がちがうのでした。当然、両方買えないわけです。並べ方まちがってるんじゃないかなーと思いました。

そういう人ってこの業界には結構いるんでしょうか。津山で油滴天目ばかり作っている雫浄光さんという作家を訪ねたときは、油滴天目がいかに難しいか、成功作といえるものは数えるほどしかない、といったことを延々と語り、奥から大事そうに「成功作」を出してきては見せてくれるわけですが、確かに凄い。神韻ただようといえば大げさかもしれませんが、このはったり臭いおっちゃんがよくもこんなものを・・・・・・と思わせるものばかりです。いくつか「成功作」を見せてくれたあとで、満足そうに、「成功作は売らないんだ。展示してるものは全部失敗作やな。それでよかったら、買っていって」

変な人でした。もしかしたら、「成功作」の値段をつり上げるためのテクニックだったのかもしれませんが、当然僕に買えるわけもないし、素直な性格なので、「成功作は売らない」という言葉を信じ、値段を聞きもしない僕でした。

伊賀焼の窯元で「忠央窯」というところがあり、秋野さんという方が作陶されています。昔よくうかがいましたが、この人も変わってました。伊賀焼のなかでも特にごつごつした土味の、難破船から引き上げたみたいな陶器を作られていますが、そのなかでも特にごつごつした香炉がひどく気に入って、「これください」と言ったら、「え、いいんでしゅか!?」と言われました。僕のほうがびっくりしました。

三田で磁器を焼いている奥村さんという方のアトリエにもちょくちょくうかがいました。行くと、いつも「ハチ」という犬がすごい勢いで吠え、その声で奥村さんが出てこられるんですが、突然うかがってもいやな顔ひとつせずにいろいろ作陶の話など聞かせてくれてありがたかったです。奥村さんが得意としておられるのは、辰砂です。「ひこら」のご主人が、「辰砂の発色にかけては奥村さんが日本一」とおっしゃっていましたが、ほんとうにそれはそれは美しい、ルビーのような赤い磁器を焼かれます。僕はこの辰砂の香炉を持っていますが(「ひこら」で年に一度の安売りのときにゲット)、「この辰砂の香炉は失敗も多くて、実は赤字なんです。・・・・・・まさにこの辰砂の色のような赤字」と悲しそうな表情で自嘲気味におっしゃっていたのが忘れられません。有名になればもっと高い値段がつけられるんだけれど、まだ無名だから、ということでした。でも、はっきり言って、もっと高い辰砂の器をいくつも見ましたけど、奥村さんのものほど美しい宝石紅は見たことないですけどね。なかなか理不尽な世界です。おかげで安く買えたので文句を言える筋合いではありませんが。

奥村さんのところでは実にいろいろなものをもらいました。まず、失敗作ですね。よく、ドラマなんかで焼き上がった作品が気に入らないとたたきつけて割る、みたいなシーンがありますが、そういうことはしません。ちゃんととってあります。だって、失敗作といっても、青磁の皿にちょこっと黒子がついているとかその程度なんです。「なんでこんなのがついちゃうのかなあ、もしかしてハチのやつがそばでぶるぶるからだ体を震わせてたからか?」なんておっしゃってましたが、もったいなくて割れないですよね。でも売り物にはなんない。で、私の出番です。「せっかく遠くから来てくれたから・・・・・・」とかいって結構くれちゃうんです。いやーもらったもらった。お家の畑でつくっている「オクラ」や「シシトウ」なんかもいただきました。おいしかったあ! 奥村さんはご主人も奥さんもほんとに優しかったです。長いあいだ行ってないけど元気かな?

失敗作といえば、越前焼の窯元、塩越窯でも香炉をいただきました! 白越不朝さんという僧侶兼陶芸家の方の窯ですが、ここも突然うかがったのに、とても親切にしてくださいました。穴窯を見せてもらいましたし。この香炉が実に良くてですね、伊賀焼の秋野さんの作品をもしのぐ、「難破船から引き上げた」感! どこが失敗なのかは、教えてもらわないとわかりませんでした。教えてもらえば確かに失敗作。でも、飾っておく分にはまず誰にもわからない。実にお得なのでした。

長いあいだ、窯元めぐりしてませんが、どれもこれも良い思い出です。

2012年9月23日 (日)

俺が夕焼けだった頃

ジェットストリーム(いまはJINの大沢たかおがやってますね)の城達也はグレゴリー・ペック、テリー・サバラスの森山周一郎は古くはジャン・ギャバンです。『奥様は魔女』のナレーション中村正はケーリー・グラントかデヴィッド・ニーヴン、渋い脇役をよくやってた小山田宗徳はヘンリー・フォンダと決まってました。トニー・カーチスと言えば広川太一郎、ジャック・レモンはなんと愛川欽也でしたね。最近でも言うのかなあ、「アテレコ」ということば。音や声をあとから入れる「アフター・レコーディング」略して「アフレコ」をもじって、外国映画の俳優が口をパクパクするのに「あてて」吹き替えするので「アテレコ」と言ったとか。口の形と音が合わなくても、そこは目をつぶろうということです。アニメを考えれば、口さえ動いていればしゃべっていることになるわけですね。ただ、少なくとも口が動いている時間に合った長さの台詞でなければなりません。「アウチ!」と言っているのを「いたっ!」と訳せば問題なしですが、「グッバイ」を「さらばこれにておいとまつかまつる」などと言っていては口と合いません。

『刑事コロンボ』かなにかで「hit」という単語が出てきて訳すのに困ったそうです。アメリカの俗語で「マフィアに殺された死体」という意味らしい。画面で死体を指さして「ヒット」と叫んだら、アメリカ人ならわかるのでしょうが、これを吹き替えるとなると、口がパクッと動くだけですから、合うことばがありません。小説なら工夫のしようもあるでしょうが、テレビだと一音節の中に「あっ、マフィアによって殺された死体だ!」と早口ことばで言うしかない。実際にはどう処理したか忘れたのが残念……。

英語にもだじゃれのようなものはあるのでしょうが、どう訳すのか、翻訳家の苦労は多そうです。逆に、その場にピッタリの日本語のダジャレになっている台詞がたまにありますが、あれは元の英語ではどう言ってたのでしょう。そういうケースのほとんどが広川太一郎の吹き替えだったことを思うと、元のことばにはないアドリブだったような気もします。「なーんてこと言っちゃったりなんかして、このコンニャク野郎」なんて、元のドラマの台詞にあるはずがない。でも、相手役が吹き出したりしていないところを見ると、打ち合わせはしてたかも。

『空飛ぶモンティ・パイソン』というBBC制作のコメディ番組というかコント番組というか、とにかく変な番組がありました。非常に「不謹慎」なコントが多く、イギリス王室をおちょくったり、下ネタだらけだったりという、さわやかな番組でした。中心メンバーのエリック・アイドルは、ロンドンオリンピックの閉会式でなにやらパフォーマンスをやったそうな。見ていないので知りませんが、NHKの実況解説は、この人のことを知らなかったみたいで、無知なコメントばかりしていて失笑ものだったとか。ジョン・レノンがビートルズよりモンティ・パイソンのメンバーになりたかったと言ったということはあまりにも有名なのになあ、ってだれも知らんか。そう言えば、この人たちは「ラットルズ」というビートルズ・パロディもやってましたが、これが秀逸でした。曲の完成度も高く、歌もうまい。ビートルズ・パロディとしてはぶっちぎりでしょう。

で、この『モンティ・パイソン』の吹き替えは広川太一郎のほか、山田康雄、近石真介、青野武(『ちびまる子』のじいさん)らが好き勝手にやってました。日本ではなぜか、オリジナル部分をつなぐ形で、日本で制作したものがはいっていました。今野雄二がしきるトーク番組みたいなのをやってましたが、これはトイレタイムでしたなあ。ところが、タモリという無名の芸人が担当するパートがむやみにおもしろい。そのころはサングラスではなくて黒いアイパッチを片目につけてました。「四カ国マージャン」とかイグアナの真似をしてました。スタジオで笑っているお客の中に、高校のときの友人が座ってて、ひときわ大きな馬鹿笑いをしてたことを思い出します。「中国語講座」もしょーもなくてよかったです。アナウンサー風に「郵便局はどこですか」と言ったあと、いかにも中国語っぽく「ユービンキョウクウハドゥーコゥー?」とかやるやつです。ただ、これはタモリの独創的なネタではなく、藤村有弘なんて人がすでにやってました。『ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョの声をやってた人です。この人が、いんちきイタリア語として、「ドルチャメンテコチャメンテ、スパゲッティナポリターノ、トラバトーレトルナラトッテミーロ」みたいなことを言ってたのを洗練させたものです。さらにトニー谷という先駆者もいたのですが、知らんやろな。赤塚不二夫の「イヤミ」のモデルです。さらにさかのぼればチャップリンが『独裁者』でやってますし、きっと、もっとさかのぼれるのでしょう。

「ハナモゲラ語」というのもありました。「外国人がとらえた日本語の物真似」という感じでしょうか。日本語は母音過多なので、外国人が聞くと、「かけまこへろひのひ、どもども」みたいに聞こえるらしい。はじめ山下洋輔トリオの坂田明が歌舞伎の台詞っぽくやってました。これはこれで十分おもしろかったのですが、それをタモリがさらに発展させました。ところが、これもすでに大橋巨泉が万年筆のCMで「みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ」とやってました、わかるね。筒井康隆も悪のりして『裏小倉』という作品で、同じようなのをやってました。「これやこのゆくもかえるもこれやこのしるもしらぬもゆくもかえるも」のように、わかりやすいものからどんどんくずれていって、「こけかきいきい」など、意味不明のものになっていきます。解釈もついていて、「せろにあす」は「文句」の枕詞なんて、シビレましたねえ、何のこっちゃ、わからんでしょうが。『乱調文学大辞典』の「デカダンス」の説明「和田アキ子の踊り」はわかりやすいけど、「誰がために鐘は鳴る」の説明として「もちろんジミーブラウンのため」なんてのもありましたが、わかるかなー、わっかんねえだろーなー、って、このフレーズもわかんねえだろうなー。

2012年9月16日 (日)

かあちゃんはモンローです

「知らんけど」というのは、すべてを台無しにする力ぬけフレーズです。関西人、とくにおばちゃんがよく使います。「あんた、それ絶対まちがいないで、知らんけど」とか「フランシスコ・ザビエルが首につけてんのんシャンプーハットやて、知らんけど」とか「知らんけどとか言う人なんかおらんやんな、知らんけど」とか、よく言うとるようです、知らんけど。推理小説の最後で探偵が言います。「おまえが犯人やろ、知らんけど。」責任丸投げの高田純次みたいな破壊力がありますな。

で、前回の続きですけど、実態を知って、えっ、あの人ってそうなん、と思うことがよくあります。ムンクの絵はすごいと言いますが、あの人は精神病院にはいってて、その病気はまわりの情景が歪んで見えるようなものだったらしい。ということは、あの絵はリアルな具象画っていうことになるんでしょうか、知らんけど。裏情報を知ると変な感じになることもあります。サマセット・モームの『月と六ペンス』なんて、ゴーギャンらしき人物を追いかけるだけの妙ちくりんな小説ですが、なんとモームの本職は諜報員です。ということは例のMI6ですな。イギリス情報局、ミリタリー・インテリジェンス・セクション6です。かっこいいですな。今は名前が変わってしまったらしいですけど。モームは、はげしい諜報活動で体をこわして療養中にこの作品を書いたとか。グレアム・グリーンも所属してたらしいけど、意外性は少ないし、007のイアン・フレミングは当然でしょう。でも言うても諜報員です。スパイですぜ。「00」は殺しのライセンスです。「THE MOON AND SIXPENCE」の中にも「ダブルオー」がはいってます。ひょっとして、モームのコードナンバーは006? サイボーグなら中国系の張々湖(チャンチャンコ)、口から火をはいてましたが、なんのこっちゃわからんやろな。

作品と作者の実像が結びつかないことがよくあるのは当然でしょう。ハードボイルド作家が軟弱であったり、耽美的な作品を書く人がマンガみたいな顔をしていたり、歴史小説の大家が大木凡人みたいであったりしてもおどろきません。悪役を演じる人は、憎らしく思ってもらえれば本望とか言って、とことん憎たらしく見せるのですが、じつは善人だとはよく聞くことです。でも、顔はどう見ても「悪人づら」をしています。人は見かけによらないものであるなら、善人や正義の味方を演じる人の真の姿はどうなんでしょう。じつは悪人? お笑い系の人も舞台を降りると無口であったり、普段はおもしろさのかけらもないという人もいるそうですが、素ではなく芸の力だけで笑わせるというのはすごい。しかし、「知らんけど」を連発するような大阪人はそういうのはあまり好きではないようです。舞台の外で出会った芸人にも「ギャグ」を要求します。裏表があるのをきらうのでしょうが、芸人としては疲れます。プライベートなしです。

道行く大阪人のほとんどは、指をピストルのようにしてバーンと言われると、「やられたー」とか言って大袈裟に倒れるという高尚な実験をテレビでやってました。素人がつねに芸人であるという不思議な風土です。話をしていても必ず、「で、オチは?」と言われます。希学園の国語イベントでも、「漢字の征服」「語句の制覇」にひきつづいて「文法の○○」を作ろう、ということになって、ネーミングどうする? というと「制圧」とか「攻略」とか勇ましいのが出てきますが、みんな心の中では「語句のセーハ」の次に文法でヒーコラ言わせるんやから「文法のヒーハー」に決まっとるやんけ、とつぶやいている声が聞こえきたのは気のせいか。「目ェ充血してるで」と言われて、たしかに痛かったりするのに、「そんなふうにめーまっかー」と返す、かなしき大阪人。だじゃれがすべっても、「ここ笑うとこよ、ここのがすと、あと笑うとこないよ」とかぶせてきます。「オレオレ詐欺」の電話がかかってきても、「あんた、だれ、太郎やろ」「うん、太郎」「太郎、どないしてん」とさんざん相手に話させておいてから、「あ、そや、うちとこの息子、三郎やった。あんた、まちがい電話やで」とか、「そうか、太郎、たいへんやったな。ほな、本人と変わるわな」「え?」息子がかわって「もしもし、俺も太郎やけど、あんたも俺か」というような遊びをせんとや生まれけん。

電話の詐欺は顔が見えませんが、詐欺師も見るからに詐欺師では商売にならんでしょう。英雄の顔はどうなんでしょう。見るからに英雄でしょうか。義経なんて、じつはブッサイクやったと言いますね。でも、神木隆之介にさせるんですね。滝沢義経の少年時代を演じたので二回目だそうです。国広富之や野村宏伸もやりました。菊之助と言ってたころの尾上菊五郎もやりましたが、蛭子能収はけっして演じません。塚地武雅も信頼役は許せても義経をしてはいけません。見ている人は、イメージとちがうとむかつくのですね。顔だけでなく声も同じで、むかしはマンガがアニメ化されたときの声がイメージとちがうと言って文句をつける人が多くいました。最近は少なくなったのかなあ。ドラえもんの声が変わったのはどうなんだろう。サザエさんのカツオの声が変わったときも文句を言ってる人がいました。どっちも見てないのでわかりませんが。丹下段平の出てくるCMがあります。何のCMか知らんけど。さすがにあの声は元の藤岡重慶とは全くちがうので、違和感があります。藤岡重慶さん、二十年ぐらい前になくなってるのでやむをえませんが、「やましたー」と言って、西郷輝彦をいじめる坂田軍曹という役がよかったです、知らんやろ。ルパン三世の声をやってた人が死んでしまったあとは、栗田貫一がものまねでやってましたね。山田康雄は、ルパン以外にはクリント・イーストウッドやジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えもやってました。洋画の吹き替えの担当は固定化するのですね。アラン・ドロンと言えば野沢那智、この人はアル・パチーノとかダスティン・ホフマン、ジュリアーノ・ジェンマもやってました。ブルース・ウィリスもやってたような。『ボルサリーノ』では野沢がドロンをやって、山田康雄がジャン・ポール・ベルモンドを吹き替えたはずです。女優では、ブリジット・バルドーが小原乃梨子、マリリン・モンローが向井真理子、オードリー・ヘップバーンが池田昌子というように決まっていました。お子さんが学校の作文で「ぼくのお母さんはマリリン・モンローです」と書いたとかいうような話を永六輔の本で読んだ記憶があります、知らんけど。

2012年9月10日 (月)

またクマに遭ってしまった私

北海道の大雪山でヒグマに遭遇した話を前に書きましたが、またしても、ある日森の中クマさんに出会いました。

今度はツキノワグマです。森の中というより、稜線近くのハイマツ帯ですね。不意にがさがさっと音がして、ツキノワグマの逃げていく後ろ姿が見え(その距離2~3メートル)、慌てて僕も走って逃げました。ほぼ90度の方向にクマと僕が脱兎の如く逃げていく姿を想像すると自分でもなんだか微笑ましくなりますが、そのときは血の気が引いてました。

クマこわいです。

さて、それはともかく。

『国語の学び方・教え方』と題した教育講演会(『国語の教え方・学び方』だったかな?)を現在実施中です。なんと私の持ち時間は1時間15分。しゃべりたい放題です。やった~。西宮北口と谷九については終了しましたが、今週水曜日に四条でも実施します。ぜひお越しください。

2012年9月 1日 (土)

そういえば

山下先生の記事を読んで思い出しましたが、大学のときにいっしょに住んでいた友人がホラー好きでした。「ハロウィン」という当時創刊されたばかりのホラー漫画雑誌を毎号買って読んでました。

僕はダメなんです。怖い話、怖い漫画、怖い映画、すべてアウトです。「エクソシスト」とか「オーメン」を爆笑しながらみている寮の先輩が理解できませんでした。明るい部屋で、友だちもいたりすると、なんとなく気が大きくなって、こんな僕でもだいじょうぶな気がして、いっしょに映画みたりするんですが(なんせ先輩は大爆笑しながらみてるし)、あとで悔やむことになります。友だちがとなりの部屋にいるとわかっているので、まだ何とかなりますが、いっしょに住んでる友だちがふたりともどこか行ってたまにひとりぼっちだったりすると、恐怖のあまり眠れませんでした。っていうか、怖くて目をつぶることができません。隙ができるような気がして。とりあえず、家中の照明はすべてつけてましたね。

当然、お化け屋敷も無理です。とにかくストレスフリーな人生をめざしているので、心臓がばくばくするものはすべて嫌いです。もちろん、ジェットコースターにも乗りません。高所恐怖症ですから。

それなのになんで山登りなんてしてるんでしょう??? 

足元が何百メートルもすぱっと切れ落ちてる岩場とか、すごく怖いんですけどね。

八ヶ岳の稜線にテント張ったときは、夜のあいだずっと足音が聞こえてましたけどね。

テントかついで急登すると心臓ばくばくですけどね。

自分で自分がよくわかんないな~。

やっぱり、恐怖や疲労に打ち勝つ快感みたいなものを求めているんでしょうか? 人が辛いもの食べたり苦いコーヒー飲んだりするのも、そういう苦痛に打ち勝つことで、脳内に快感物質が分泌されるからだぜ~と聞いたことがありますが、それかな?

塾生諸君も毎日がっつり勉強したらすごく気持ちがいいんじゃないかな。

「克己」はしんどくない! 気持ちいいんだ!

どう? やる気にならない?

2012年8月21日 (火)

知らんけど

山田風太郎の『八犬伝』もなかなかおもしろうございました。八犬伝をダイジェストにした「虚の世界」と、八犬伝を書いている馬琴の姿を描いた「実の世界」が、交互に出てくる構成になっています。こういう「表と裏」の組み合わせと言えば、『東海道四谷怪談』ですね。忠臣蔵外伝という位置づけで、初演時は、『仮名手本忠臣蔵』と交互に二日かけての上演をしたと言います。芝居では浅野家ではなく塩冶家になりますが、お岩さんのところは塩冶の家来で、妹のお袖の夫が佐藤与茂七という設定なので、与茂七はかたきの伊右衛門を討ったあと、吉良邸に討ち入りをする形だったそうです。

昔は三大幽霊として、お岩さんのほかに、番町皿屋敷のお菊さんと牡丹灯籠のお露さんも有名でしたが、いまの子供たちは知らないようです。お菊さんは関西では「播州皿屋敷」として知られており、姫路城にはお菊さんがとびこんだという井戸が今でも残っています。死んだあとお菊さんの恨みが虫の姿になって現れたのがお菊虫で、じつはなんとかアゲハの幼虫なのですが、女の人が後ろ手に縄でくくられたような形をしているらしい。落語の『皿屋敷』にもその虫の話が出てきます。姫路の市の蝶(そんなものがあるんかいな)がそのアゲハだとか。

こういう古典的な幽霊は今時は通用しないようですが、現代版の「百物語」のようなものは文庫本の形でもいっぱい出ています。だいたいがこういったものは読み捨てなので、実話と銘打っているものを何冊か大手の古本買い取りショップに持って行ったことがあります。そのうちの一冊は、あとがきにも、話を収集している最中にテープレコーダーが何度もこわれたとか、夜中に編集しているとドアがノックされて出てみたらだれもいなかったとか、本の形にするまで大変だったと書いてありましたが、そいつも売り払おうとカウンターで預けて待つことしばし、査定が済んだらしく呼ばれて、明細を見せられたあと、「こちらのほうは中が乱れていて買い取りできません」と言われて戻されたのが件の実話系怪談。この本はなぜかペラペラの紙ではなく、グラビアにでも使いそうなツルツルの紙を使っていました。で、店員さんが開けたページを見ると、全体の三分の一ぐらいの活字が消えて、黒いパリパリした、フィルムを微細に砕いたようなものが真ん中のあたりに固まっていました。インクが紙にしみこまずに、紙の上で遊離して、それが細かく砕かれたようなのですが、なぜそのページだけ活字が浮いて流れた? 店員さんも、ふつう言う「お持ち帰りになりますか」を言わずに、「こちらで処分しましょうか」と言ってくれたので、お願いすますた……。

高校のとき、二人の友達と旅行したとき、予約していたので部屋に浴衣のセットが三つあったのですが、外に買い物に出ている間になぜか一つふえていました。翌日のチェックアウトのときも、四人分で計算されていたので、文句を言ったら、目の前にいる三人を見てフロントの人が「でも」と言いかけて、黙って計算し直してくれました。夜に友達の一人が、中学のときに目の前でおぼれた死んだ友人の話をなぜかしつこく何度もしていたのと関係があると思う人、手を挙げてください。あ、思い出した。前に住んでいたところのとなりの夫婦が、例の尼崎のJR事故で亡くなったのですが、だれも住んでいないのに夜中に物音がよく聞こえていました。夜中の二時三時に酔っ払って帰ってくる夫婦でしたが……。

こわい話は読むか聞くかするとこわいのですが、目に見える形になるとだめですね。落語『饅頭こわい』の中にも、じつはこわい話の部分があります。身投げをした女にあとをつけられて、濡れわらじで踏むような音が、ジタ、ジタ、ジタ……のあたり、結構こわいです。枝雀のレコードでは、「ほんにおやっさん、この話、ちょっとこわいね」というフレーズで、みんなが笑ってましたが、聞いている客も相当こわがっていたのが、このことばで緊張が緩んだのが明らかにわかりました。頭の中で想像するとこわい。ところが「貞子」はこわくありません。小説はおもしろかった。「呪いのビデオ」の元ネタが小説であることを知らない人たちの間でも「都市伝説」になってしまったぐらいです。ところが、映像化されるとこまったもんだという結果になってしまいます。こういう部分に関しては、映像は字や音に負けるのですね。見えるとだめです。とくに既成の俳優が演じてしまっては台無しですな。この幽霊やっているやつって、ビールのコマーシャルに出てるよなー、と思ってしまうと、もうだめです。

映画の『影武者』で、勝新太郎以外は新人や素人を使ったのも、そういうことと関係があるのでしょう。手アカのついていない役者を求めたわけです。平清盛のお父ちゃんの役をやってる人って、前は源頼朝やったよなー、と思うと、さめた目で見てしまって、内容を楽しめなくなってしまいます。その俳優についての情報を知っていればいるほど、「素」と重ねてしまうので、実生活がわからないような俳優とか、まったくの新人のほうが役柄によっては抵抗なく見られます。『帝都物語』で出てきた嶋田久作なんて、こいつ本物の怪人加藤とちゃうか、と思ってしまいました(ちょっとおおげさ)。不良の高校生役をやってるやつが見るからに憎たらしくて、こいつ本物の不良高校生ちゃうか、と思ってしまったドラマもありましたが、今思えばトヨエツ若かりしころのような気もします。最近の高嶋政伸は、ちょっと行ってしまってるような役をよくしていますが、これは実生活ともかぶってていい。内田裕也なんて、実生活はどうなんでしょうね。たぶんふつうのおっさんなのでしょうが。そういえば、安藤昇なんていう、もともと「本職」の人もいました。昔の映画スターは、実生活がわからない人が多かったようです。というより、意図的に見せなかったのでしょう。原節子なんて人は、そういう意味でのスターだったのでしょう、知らんけど。逆にテレビタレントは身近な感じが売りになっていますし、AKBなんて、「会いに行けるアイドル」というコンセプトで、最初からそういう路線でした。エスパー伊東もふだんからあんなんかなあ、知らんけど。

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