2025年3月23日 (日)

徳川首相

少し前に話題になったものとして、小泉構文なるものがあります。同じような内容を繰り返すパターン、循環論法と言うか、トートロジー(同語反復)と言うか、長々と語っても情報量は半分、場合によってはゼロ、でもなぜかポエムのような言い回しが妙に魅力的です。「今のままではいけないと思います。だからこそ日本は今のままではいけないと思っています」とか「三十年後の自分は何歳かなと震災直後から考えていました」とか「2月ってことは、あと1年でまた2月がくる、ということです」、「このプレゼント、頂き物なんです」、「今日はあなたの誕生日ですか。私も誕生日に生まれたんです」、「夜景を見るなら、断然夜をおすすめします」…。場合によっては、悪意をもって切り取られている可能性がなきにしもあらずですが、小泉さんの場合は確かに言ってそうです。

安倍さんや石原慎太郎などは悪意をもって切り取られることがよくありました。演説を妨害されたときの「あんな人たちに負けるわけにはいかない」とか「選挙のためならなんでもする」とか「100パーセント正当化するつもりはない」の「はない」をカットされた件とか。石原慎太郎はタカ派の政治家としてしか知らない人も多いようですが、もともとれっきとした小説家です。映画化された作品も多く、弟の裕次郎がデビューしたのも慎太郎原作の映画です。テレビドラマで「青春シリーズ」というのが大昔ありました。その最初の作品が『青春とはなんだ』で、裕次郎主演の映画をテレビに持ってきたものです。この原作者が石原慎太郎でした。高校のラグビー部を舞台にした、学園ものの「はしり」で、このシリーズは大ヒットしました。しかし、しだいに人気にかげりが出て、シリーズが打ち切られたころ、なんと小学校を舞台にしたものも生まれました。先生役は水谷豊です。さらに中学を舞台にした学園ものもはやります。金八先生ですね。最初のシリーズに出ていた田原俊彦ものちに『教師びんびん物語』というドラマで小学校の先生役をしています。徳川龍之介という役名でした。

しかし、なんと言っても学園ものの先生といえば、坂本金八でしょう。名字は武田鉄矢の好きな坂本竜馬からのパクリで、下の名前は金曜八時のドラマなので略して金八、という安易なネーミングです。昔の商人も、こういう省略形が呼び名になっている人が多いですね。紀伊国屋文左衛門が「紀文」、奈良屋茂左衛門が「奈良茂」、灘屋萬助が「なだ万」。そういえば「ジョン万」という人もいました。なぜか名前は省略されるんですね。古くは榎本健一がエノケン、阪東妻三郎がバンツマ。キムタクやマツケン、クドカン、ケンコバなどもこの延長線上にあります。「せんだみつお」という人は逆に「せんみつ」という言葉を名前らしく改めたものです。ところがこの「せんみつ」は「千のうち本当のことは三つしか言わないうそつき」を短く表した言葉だというのがややこしい。

言葉巧みに人を言いくるめるという意味で、弁護士をののしるときに「三百代言」と言っていたことがあります。本来は代言人つまり弁護士の資格をもたずに、他人の訴訟を扱う「もぐり」の人間を言いました。「三百」は特に意味がなく、多いということを表しているのでしょう。多いことを表す数字としては「八百」もよく使います。「うそ八百」とか「八百万の神々」というように。「白髪三千丈」の「三千」というのもありますね。千手観音の手は千本ちょうどというわけでもないようです。千より少ないこともあるとか。仏像によっては顔がいくつかついているものもあります。「八面六臂」というのはあちらこちらの方向へ向かって活躍することですが、顔は八つですね。「臂」はひじのことなので「六臂」は六本腕ということになります。興福寺の有名な阿修羅像は三面六臂ですね。腕が細長いのでタカアシガニを連想するという人もいました。六本ということに注目して、あれは昆虫ではないかと言った人もいます。とくにあの六本の配置は甲虫系のイメージです。エジプトでもスカラベというのがありました。

百足となるとムカデですね。これは足が百本あるということでしょうか。靴一足は、左右の両足分をまとめて数えるのだから、百足は二百本なのか。いずれにせよ、「百」に意味があるわけではなく、多いということを表しているだけなのでしょう。武将の兜にムカデをデザインしたものがありますが、グロテスクな感じで脅かそうというより、後ろ向きに行けないところから前へ突進する勇ましさと結び付いたと言います。トンボのデザインも同じ理由かもしれません。日本の武将は、鎧と兜は身にまとっていますが、盾を持たないのはなぜでしょう。槍や矢、ときには石などを防ぐには盾はふさわしいのですが、刀を防ぐ感じはありません。騎馬武者同士の闘いは槍がメインだったようですが、最終的に刀を使うこともありそうです。槍を武器にするのなら両手が使えるほうが便利だし、弓矢なら盾はむしろ邪魔です。馬を下りての接近戦になると刀ですが、鎧がしっかりしていれば盾の意味は薄そうです。

鎧通しという専用武器もあるようですが、鎧のすきまを狙う必要があるでしょう。馬上の武者を倒すには、下から槍で狙って太もものあたりを刺す、というやり方もあったようです。兜を割って敵を倒すというのは、日本刀では無理な感じがします。据え物切りと言って、動かずに置かれていたらうまく行くこともあるようですが、それでもなかなか難しい。明治以降では最後の剣豪と言われた榊原鍵吉が成功しています。明治になっても『るろうに剣心』のような侍はいたのですね。ただし、剣心のモデルは河上彦斎と言われています。中村半次郎、岡田以蔵とともに幕末の三大人斬りと言われた人です。こんなものにも「三大」があるというのもなんだかなあ、です。中村半次郎は維新後桐野利秋と名乗って西郷隆盛の片腕となり、西南戦争で討ち死にします。

では、史上最強の剣豪はだれでしょう。卜伝とか一刀斎とか御子神典膳とか、有名な剣豪は数多くいます。時代を無視してそういう剣豪が一堂に会したら、という「剣豪オールスター」みたいなのが、「寛永御前試合」と言われるものです。家光の御前で試合をする、というやつです。そういえば、家康が総理大臣になるという、ばかばかしい映画がありました。当然SF設定なのですが、原作はビジネス小説と銘打たれており、後半部分はダレ気味でした。

2025年3月 9日 (日)

ほんとは怖い京言葉

当初AIでは、今ある情報をつなぎあわせるだけで、創造的な仕事は無理と言われていましたが、おそるべきことに、いまや小説まで書けるようになりました。YouTubeでは「AI怪談」というのもあります。今のところはまだまだダメで、面白くも怖くも感じないのが残念です。とはいうものの面白いか面白くないかは主観によるものなので、面白いと思う人がいるかもしれません。人気の小説でも人によって評価が全く違ったりするのはよくあることです。センスや好みの違いもありますし、その人の経験が強い影響を与えることも大いにあります。万人受けを狙うというのは根本的に無理かもしれません。好きな芸能人のランキングときらいな芸能人のランキングの上位に、同じ人がはいっていることがよくあります。それだけ強い個性を持っていることの証拠でしょう。

「悪名は無名にまさる」というのも、そういうことと関係があるかもしれません。マイナス評価をつけるのは関心の裏返しであって、何の興味もなければプラスにもマイナスにも振れません。まあ何につけても無関心というのはよくありませんね。いろんなことに好奇心、関心をもつことは悪くないことです。国語が出来ないという子の中には、世の中や人間に対する関心が弱い者がいるのではないでしょうか。初期のころのコンピュータのマニュアルは日本語として成り立っていないものが多かったのですが、書いている人が国語の弱い人だったのでしょう。コンピュータには強烈な関心があるのに、人間に対する関心が弱かったのではないかと思います。歩車分離式信号を考えた人は安全性のみ追求して、ひたすら待ち続ける人間の心理がわからなかったのでしょう。まあ、こんなふうに断定するのも、人間の複雑さがわかっていないと言われるかもしれません。

言葉に対する関心がない人も当然国語が弱いですね。たとえば、ほんとかどうかわからない説として「おみおつけ」の話があります。主たるご飯に付ける副たるみそ汁を「付け」と言い、これを丁寧にして「御付け」、ところが使っているうちに「御」が丁寧語であることが忘れられ、丁寧に言おうとして「御」を上にのせて「みおつけ」、さらに年月がたって「御」を上にのせて「おみお付け」になったという説。ただし、「み」は「実」だとか「みそ」の省略だとか言う人もいるようですが…。よく似たものとしては、「おみくじ」「おみこし」も「御」二連発ですね。ただし、「くじ」のお告げは神の言葉だし、「こし」も神の乗り物です。丁寧に言いたい気持ちが強いため、「み」が「御」であることがわかっていて、あえて「御」を重ねて強い敬意を表そうとしたのかもしれません。いずれにせよ、こういう細かいところにこだわると、いろいろと面白く感じられることはないでしょうか。「だからか」という発見は非常に興味をかきたててくれます。

ところが、こういう話を聞いても、「だから何?」という人がいます。同じ話を聞いても面白く感じられない人がいるのですね。でも、そういう人でも、子どものうちは「発見」の面白さを感じたかもしれません。こういう「言葉の発見」を突破口にして、関心を広げていってほしいものです。反対の形になっているのに同じ意味、という言葉もあります。「とんだこと」と「とんでもないこと」は「ない」があってもなくても同じ意味になります。こういうのも面白く感じられないでしょうか。ただし、これは「ない」が打ち消しではなく強調の意味なので、実は「反対」の形ではないのですが、そういうことも調べてみると、なるほど、と思えてさらに興味がわくと思います。

では、こんなのはどうでしょう。「字がぼやけて見える」と「字がぼやけて見えない」。どちらも字はぼやけています。「見えない」のは、ぼやけているからですが、前者は「ぼやけた字が見える」のであって、結局その字ははっきり見えないのですね。「ないものはない」が二つの意味にとれるというのは前にも書きましたが、「ないじゃない」はどうでしょう。「ないわけではない」と解釈すれば「ある」ということですし、腹立たしそうに「何もないじゃない」と言えば「ない」ことになります。「やばい」とか「すごい」も一つの語で両方の意味を表します。「すごい成績」は「すばらしい成績」なのか「ひどい成績」なのかわからない。「どうも」にいたっては、挨拶語として万能です。何かをもらっても「どうも」、失礼なことをしても「どうも」、久しぶりに会っても「どうも」、別れるときにも「どうも」、二回繰り返す「どうもどうも」というのもあります。これもある意味、「すごい」言葉です。

日本語の「すごさ」としては、他に文字の種類が多い、漢字以外にカタカナ、ひらがな、場合によってはアルファベットも使う、ということがあります。これは覚えるのが厄介、というマイナス面もあるのですが、文字を変えることによってニュアンスが変わる、という「すごさ」があります。漢字で書ける言葉をわざとひらがなで書くことによって、話者が漢字を知らない人であったり、幼児であったりすることを表しますし、カタカナなら外国人であることも表せます。ひらがなで書くことによって、やわらかい感じを表すこともあります。「をりとりてはらとおもきすすきかな」という俳句はあえてひらがな書きを採用して、やわらかな感じを表しています。日本語は漢字の数も多いので、すべての文字を覚えるのは面倒ですが、覚えたらすごいのです。

他に日本語の特徴の一つとして、述語が最後に来るということがあります。文を最後まで聞かないと、どういうところに着地するのかわからない。場合によっては話を全く逆方向にひっくり返せます。「吾輩は猫で」というところまで聞けば「吾輩は猫なんだな」と思いますが、「猫でない」と続くかもしれません。そういうことを防ぐために「けっして」などの、いわゆる呼応の関係をもつ副詞を使って、あらかじめ結末をにおわせておく工夫もありますし、実際には雰囲気や文脈である程度予想はつきます。教室でいきなり「火事」とさけべば何のことがわからないけど、部屋のゴミ箱から火が出ている場面なら意味がわかります。言葉って、文脈で意味が決まるのですが、その「文脈」の中には、その場の状況、話す人、声の抑揚など、いろいろな要素が含まれます。京都人の「高そうな時計どすなあ」は、「とっとと時間を確認して早く帰れ」という意味がこめられています。

2025年2月17日 (月)

動く土方

倹約の指示を守らない、ということでは、徳川吉宗に逆らった徳川宗春がなかかな豪快でした。吉宗の緊縮財政に対して宗春の尾張藩では規制緩和、消費拡大をすることによって経済の活性化を目指しました。最終的に宗春は敗れましたが、当時の経済政策としては、どちらが正しかったのか。質素倹約を旨とした吉宗に対して厳しい評価をする人も多いようです。それでも、NHKの『大奥』というドラマでは、相当かっこよく描かれていました。演じたのは女性でしたが…。男性しか、かからない病気がはやったため、男性の数が少なくなり、女性将軍が誕生する、というトンデモドラマです。マンガが原作でしたが、結構見ごたえがあって、家康を主人公にした大河ドラマをやめて、こっちを大河にすればよかったのに、と思うレベルでした。ラストの場面で、女性将軍に仕えた男性たちが明治になってアメリカへ向かう船旅をしているとき、乗り合わせていた一人の女の子と出会います。新時代を担う女性としてアメリカ留学をしようとしている津田梅子でした。

津田梅子は新紙幣の肖像画に選ばれました。三枚のうち一枚は女性にする、ということになっているのでしょうか。樋口一葉に引き続いての起用です。昔は神功皇后が紙幣のモデルに使われていましたが、伝説上の人物です。それに比べれば実在はしているものの、一葉にしろ津田梅子にしろ、もはや歴史上の人物であって現代人ではありません。紙幣のモデルとしては現代人はだめなんですね。いずれ評価が変わるかもしれませんから。評価が定まるまでにはある程度時間がかかります。安倍さんなら故人だからいいか、というわけにはいきません。

でも中国では毛沢東ですね。比較的新しい時代です。中国の国内ではだれも文句を言わないのかもしれませんが、日本で同じようなことをすると物議を醸しそうです。評価が変わるからまずい、というのなら人間にこだわる必要はないかもしれません。かといって妖怪ではだめでしょう。ぬらりひょんや砂かけばばあのお札、なんて何だかなあ。アマビエもブームが去りましたし、第一あのヘタヘタな絵ではお札としての信用がなくなりそうです。では、鳥山石燕とか月岡芳年の絵はどうでしょう。江戸川乱歩や三島由紀夫が激賞した「血まみれ芳年」の絵は凄みがありすぎですが、日本独自のものだし、不気味な絵のお札というのもなかなかユニークです。「血まみれ」でなくても、武者絵など芳年の描くものはなにしろかっこいい。人物以外では富士山などはありきたりだし、金閣も新鮮味はなさそうです。思い切って浅草雷門なんて斬新かもしれません。ひとむかし前なら、道頓堀の「くいだおれ太郎」とか、グリコの看板とか。思い切って、「づぼらや」のふぐ、なんてのもありましたが。でも、こうなると、かなり俗っぼくはなりますが。

日本では、電子マネーよりいまだにキャッシュの需要が大きいようです。電子マネーは高齢者には使い勝手がよくないということもあるでしょうし、ひょっとして信用に問題があるのかなあ。日本銀行券に対する信用は絶大なものがあるのでしょう。よその国から見たら時代遅れと言われても、信用できるお金が使える、というのは自慢できることなのかもしれません。同じような現象は本についても言えます。電子化の波の中で紙の本は消えるだろうと言われていたのに相変わらず残っています。新聞をとる人はどんどん減っているし、町の本屋さんもつぶれてしまっているにもかかわらず、大書店やネットで購入される紙の本は人気がおとろえません。本はやはり手に持つ感じ、一ページずつめくっていく感触がよいのでしょうね。

でも、紙だからよいのであって、木簡を使っていた時代は、手に持つとさぞ重たかったでしょう。木や竹を束ねたものをノートとして使うなんて思うとたいへんです。紙の発明はすばらしかった。木簡から紙に変わっても、筆はそのまま使われていました。またまた大河ですが、『光る君へ』では登場人物が筆を使って字を書くシーンがよく出てきました。かなり練習をしたようで、なかなかの達筆です。筆で書かれた、こういう字が芸術として扱われるのも面白いですね。アルファベットではこうはならない。それどころか、書道として「道」になってしまいました。その時代の三名人をまとめて「三筆」と言いますが、最も有名なのは空海・嵯峨天皇・橘逸勢です。前の二人はともかく橘逸勢とは何者? ほとんど知られていないのが可哀想です。同じく三蹟と呼ばれるのが小野道風・藤原行成・藤原佐理ですが、佐理とは何者? 道風はカエルで有名ですし、行成は大河ドラマで知名度が上がったのですが…。

 まあ、三大ナンチャラというのは三つ集めるために無理矢理ねじこんだというところがあります。三大大声というのは豊臣秀吉以外わからない、ということになっていて、それは三大ではありません、とつっこみたくなります。世界三大美人は楊貴妃・クレオパトラ・小野小町。小野小町は日本でしか通じない。では、日本三大美人は? ここにも当然、小野小町がはいります。他に、藤原道綱母・衣通姫。やはり最後の衣通姫は伝説上の人物です。でも、まがりなりにも三大美人はいるのに三大美男子がいないのはなぜでしょう。今どきは美人や美男がどうのこうのとは言いにくい時代ですが、ひょっとして美男子はほめ言葉ではなかったのかも? 男どもは女の人を見た目で評価するくせに、自分たちは姿かたちで評価されたくないという気持ちがあったのかもしれません。

そうなると、在原業平は別格ということになります。六国史の『三代実録』に「体貌閑麗」と書かれています。ふりがなをつければ「イケメン」ということになるでしょうか。あくまでも平安時代の基準なので、今の時代に連れてきたらどれぐらいのレベルなのかわかりません。ドラマで美男として描かれる人はたしかにいます。源義経もイケメン枠に入れられますが、実際には不細工だったそうな。たしかに、義経の姿を描いたとされる絵を見ても、「こ、これは…」という感じです。沖田総司もイメージとはかなり違ったようです。土方歳三は写真が残っており、たしかに悪くないですね。今は写真一枚あればAIを使って動かすこともできるので、土方の動く姿が映像化されても不思議ではありませんが、それもなんだか、です。

2024年10月19日 (土)

語呂合わせ、ありがとう

大黒天は「天」を取って「大黒様」と言いますが、「弁財天」は「弁天」と略されます。日本三大弁天は、安芸の宮島、近江の竹生島、そして鎌倉の江ノ島です。水の神様らしく、水辺で祀られることが多いのですね。弁天小僧は江ノ島の出身ということになっています。「弁天」が「弁財天」の略であるなら、「ほこ天」は何の略でしょう。これは元の言葉を知らないと答えられない。「歩行者天国」です。では、「ごぼ天」は? 当然、「ごぼうの天ぷら」ですね。「ごぼう」は漢字では「牛蒡」と書きます。「蒡」の字は「ごぼう」という意味しかありません。「牛」の字をつけたのは大きいというニュアンスを表すためとか、形が牛のしっぽに似ているからとか、いくつかの説があるようです。

「ごぼうの天ぷら」を略して「ごぼう天」、ここで止める地域もありますし、さらに一歩進めて「ごぼ天」と略するところもあります。どちらかと言えば、「ごぼ天」になるのは関西でしょうか。ただ、もともと関東と関西で、同じ天ぷらにも違いがあります。関東風は衣に卵を入れゴマ油でさっと揚げるのできつね色、関西風はサラダ油でじっくり揚げる白っぽいもの、という違いもあるそうですが、関西では昔から魚の練り物を揚げたものを「天ぷら」と呼んでいました。関東で「さつま揚げ」と呼んでいるものですね。水で溶いた小麦粉をつけて揚げた「天ぷら」は江戸発祥で、そのころは屋台で立ち食いする庶民の食べ物だったそうです。

「天ぷら」という言葉自体、ポルトガル語起源だと言われます。「天麩羅」は「あぶら」の当て字だという説もあるようですが…。では、家康の死因と言われる「鯛の天ぷら」とは、どんなものだったのか。「鯛」ということはすり身の可能性もありますが、ゴマ油で揚げてニンニクで味付けしたものとも言われています。いずれにせよ、油で揚げていることはまちがいなさそうですが、唐揚げっぽいものだったのではないかと言う人もおり、今の天ぷらとはちょっと違う感じですね。茶屋四郎次郎が勧めたものを食べて死んでしまったために、茶屋四郎次郎は家康殺しの犯人のように言われることもありますが、家康は七十をこした老齢のうえ、どうやら胃癌だったようで、しかも食べ過ぎだったらしい。そんな脂っこいものを食べ過ぎてはいけません。

さつま揚げのほうは、島津斉彬の発明という説もあり、琉球から薩摩にもたらされたという説もありますが、鹿児島では「さつま揚げ」とは呼ばず、「付け揚げ」と呼んでいます。考えたら当たり前の話で、土地の名前がついている食べ物は、現地ではそう呼びません。他の地方の人が伝来してきた土地の名前をつけて呼ぶのですね。だから「さつまいも」も鹿児島では「からいも」です。「唐」から来たことになっています。ついでに言うと「じゃがいも」は「ジャガタラいも」、今のジャカルタとかジャワ島でしょう。インドネシア経由と考えていたということでしょう。作物として広まったのは明治以降なので、おふくろの味とか言われる「肉じゃが」は江戸時代には食べられていません。

すり身を使った食品として「つくね」というものがあります。魚肉や鶏肉をすり身にして、つなぎや調味料を入れてかためたものです。この「かためる」ことを「つくねる」と言うのですね。漢字で書けば「捏造」の「捏」です。「ねつぞう」と読みますが、もともとは「でつぞう」と読んだらしい。「捏ち上げる」と書いて「でっちあげる」と読むのはそこから来たのでしょう。「つくね」とよく混同される「つみれ」は、成形せずに指先か篦状のもので摘み取って鍋に入れるものを「摘み入れ」と言ったところから生まれた言葉です。一方の「捏ねる」は「こねる」とも読みます。土や粉に水分を加えて練ることを「こねる」と言うのですが、そうすると語源的に「ねる」と「こねる」は関係がありそうです。

伊勢の郷土料理に、「てこね寿司」という、ちょっと聞いただけでは意味のわからないものがあります。「手捏ね寿司」なんですね。漁師がとれた魚を船上でさばいて、手で捏ねて混ぜ合わせたところから生まれたものです。かつおやまぐろを使った、豪快なちらし寿司といった感じでしょうか。「散らし寿司」というのは、具材を御飯の上に「散らし」てのせているわけで、「ばら寿司」は具材をこまかく切って酢飯に混ぜ込むものを言います。ところが岡山の「ばら寿司」は具材も大きく品数も多い。これは備前藩主池田光政の出した「一汁一菜」の倹約令に反発した庶民が、御飯の中にさまざまな具材を混ぜこんで食べたのが由来だとか。「御飯茶碗一膳だけだ、文句あるか」ということでしょう。ただ、光政は江戸時代初期の大名なので、酢飯の寿司はまだ生まれていなかったはずです。その頃の寿司といえば、魚と御飯を発酵させた鮒寿司系です。

岡山駅の駅弁に「隠し寿司」というのがあります。表から開けると御飯だけ、裏返して開けると派手な散らし寿司になるという、「なんじゃそりゃ」的な弁当です。倉敷にもあって、こちらは「返し寿司」と言います。表側には錦糸卵がかかっているところが岡山とは違うようです。このパターンの寿司も倹約令への反発から生まれたことになっています。池田光政と言えば、徳川光圀、保科正之と並んで江戸初期の三名君と言われていますが、倹約令は相当いやがられたらしい。江戸時代の三代改革「亨保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」はどれも倹約をうるさく言っています。特に吉宗は着物の色にまで口出しをしました。現代人でも質素倹約だと言われて、政府から「コンビニは週に一回」とか命令されたら、当然反発するでしょう。その反発をおさえてストレスを発散させるために吉宗は桜を植えさせて花見をしろと言いました。日本の花見文化はこういうところから生まれたのですねぇ。

三代改革はどれも似ていて紛らわしく覚えにくいのですが、「今日寒天食べたい」で「享保・寛政・天保」の順番を覚え、「よし、まず水を飲もう」で「吉宗・松平・水野」の順番を覚え、「いろんな花咲き、よい改革」で「(17)16・(17)87・(18)41」で何年の出来事かを覚えます。語呂合わせって便利だなあ。って、せっかく「いいくにつくろう鎌倉幕府」で覚えたのに、いつのまにか「いいはこつくろう」に変わってて、むかつきます。

2024年10月 3日 (木)

弁天は梵天の妻

言葉の元の形をさぐるということは、語源を考えるということにもなります。沖縄ついでで言うと、「西表」をどう読むか。なんと「いりおもて」なんですが、別段不思議なことはない。西は太陽が沈む方向、海から出た太陽が海に入るから「イリ」、反対に「東」を「アガリ」と読むことがあるのも納得です。

春分・秋分の日が「彼岸」になるのは、太陽が真西に沈み、西を意識するからだと言います。なぜなら、西の果てにあるのは「浄土」だから。ところが、実は「西方浄土」に対して「東方浄土」というのもあるのですね。芥川の『蜘蛛の糸』では極楽にお釈迦さまがいることになっていますが、それはまちがいで、西方浄土にいるのは阿弥陀如来です。一方の東方浄土にいるのは薬師如来なんですね。西方極楽浄土に対して東方浄瑠璃浄土と言います。「瑠璃光世界」と言うこともあります。山口県の瑠璃光寺の本尊が薬師如来であるのも偶然ではないということです。ちなみに、民間芸能としての語り物に『浄瑠璃御前物語』というのがあります。これが大ヒットしたので、このような語り物を「浄瑠璃」と呼ぶようになり、江戸時代にはいって生まれたのが人形浄瑠璃です。浄瑠璃御前は三河国の長者の娘で、東国に赴く途中の源氏の御曹司、牛若丸と恋に落ち、結ばれるということになっています。この名前は、薬師如来に願って授かった子を、薬師如来の浄土である浄瑠璃世界にちなんで命名したものです。

「如来」というのは、悟りを開いた者という意味で「仏陀」も同じような意味らしい。「菩薩」というのは、悟りを開く一つ手前で、仏陀になるという請願を立てて修行している者のことだとか。したがって、如来というのはたくさんいることになります。その中でも阿弥陀如来というのは、釈迦如来の師匠という位置づけで、すべての如来の中でいちばんえらいのですね。阿弥陀如来は法蔵菩薩と呼ばれていたときに、すべての人を救うために四十八の請願を立てたそうです。で、この請願を特に「本願」と呼ぶところから来た名前が「本願寺」です。阿弥陀如来の名前を呼べばお迎えに来てくれる、これが本来の「他力本願」ですね。そのときの合い言葉が「南無阿弥陀仏」です。

国宝彫刻第一号となった広隆寺の仏像が弥勒菩薩です。思索にふけっているようですが、悟りを開くための瞑想なのでしょう。56億7千万年後の未来に次期仏陀として現れて人々を救済するまでは兜率天で修行をしていることになっています。菩薩も如来同様たくさんおり、さらにその下には「明王」と呼ばれるランクがあります。これは密教系のようで、不動明王が有名ですが、愛染明王とか孔雀明王などの名前もたまに聞きます。『孔雀王』というマンガもありました。「明王」の下が「天部」で、これがなかなか面白い。輪廻転生する六つの世界の最も上の天界の住人という位置づけです。悟りを開いて輪廻転生のループから抜け出ることによって救われる、というのが仏教の基本的な考えなので、天人たちは煩悩から解放されておらず、死んで転生することになっています。

四天王や金剛力士、十二神将などは、この天部に属しますが、面白いことにバラモン教の神々もここに入れられているのですね。お釈迦様より前のインドで広く信仰されていたのがバラモン教で、今のヒンドゥー教の元になったものです。ウルトラシリーズに出てくる怪獣の名前みたいですが、「婆羅門」という漢字をあてると急に神秘的な感じになります。英語では「ブラーフマニズム」で、創造神の名前が「ブラフマー」、これに漢字をあてたのが「梵天」です。お釈迦様が悟りを開いたあと、その教えを人々に広めなさいと勧めたのが梵天だということになっています。ただし、お釈迦様は最初「そんなの、かったるいしー」と言って断ったらしい。伊達政宗の幼名は梵天丸でした。耳かきのうしろについている綿のこともなぜか「梵天」と言います。

梵天とセットになるのが「帝釈天」で、二つまとめて「梵釈」と言うぐらいなのですが、なぜか葛飾柴又にあるお寺では帝釈天だけが祀られています。もともとはやはりインドの神です。雷神インドラのことで、奥さんの父親は正義の神「アシュラ」と言います。ところが、実はこの奥さんはインドラが無理矢理奪い取っていったものだったので、怒った阿修羅が戦いを挑みますが、力の神でもあるインドラに勝てるはずもありません。それでも戦い続けたところから、この戦いを「修羅場」とよぶようになりました。奮闘する様子を「阿修羅のごとく」とたとえることもあります。仏教に取り入れられてからは仏教の守護者になって、なぜか少年のような姿になってしまいました。でも、この話ではどう考えても帝釈天のほうが悪いような気がします。

お稲荷様の正体とも言われる荼枳尼天については前にも書きました。大河ドラマのタイトルにもなった「韋駄天」というのもいます。鬼が仏舎利を盗んで逃げ去ったときに追いかけて取り戻したそうで、そこから足の速い人を「韋駄天」と言うようになりました。四天王は「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天(毘沙門天)」で、その子分の三十二将のトップが韋駄天です。清水の大政みたいなものです。このたとえはだれに通じるのかなあ。韋駄天はお釈迦様の食べ物を手に入れるために、その俊足を活かしてあちこち走り回った、ということから「ご馳走」という言葉が生まれました。

ほかに天部の有名どころでは、大黒天、摩利支天、吉祥天、弁財天などがいます。吉祥天は毘沙門天の奥さんですが、弁財天と重なる部分が大きく、七福神にはいっているのも、もともとは吉祥天でした。弁財天は「弁才天」と書くのが本来の形で、インドでは水の神様でした。琵琶を持っているところからもわかるように、音楽の神でもあるのですが、福徳の神でもあるところから「財」の字をあてるようになりました。各地に「銭洗い弁天」というのがありますが、弁天は財を与えてくれるのです。いちばん有名な鎌倉の銭洗弁天では、境内の洞窟の中の水で硬貨を洗うと増える、という言い伝えがあります。源頼朝が建てた神社で、最初に「銭洗い」をしたのは執権北条時頼だと言います。歌舞伎に出てくる「弁天小僧」が人のお金をまきあげる盗賊の一味であるというのもなんだか面白い。

2024年8月31日 (土)

今こそ島への愛を語ろう⑦~礼文~

何年か前にもちょっと書いたことがありますが、はじめて礼文島に行ったのは高校1年生のときです。うちは決して裕福な家ではなかったんですが、わりと寛容なところがあって、北海道に一人旅に行きたいというと行かせてくれたんです。北海道の砂川というところに親戚が住んでいたので、極力そこに泊まるという条件つきでしたけど。そして旅行代はその後毎月小遣いからさっ引かれることになりましたが。

まずは詳細な計画を立ててそれを見せなさいというので、確か2週間分くらいの綿密な予定を方眼紙にびっしりと書き込みました。今はどうか知りませんが、当時、道内であれば普通列車だけでなく特急の自由席も2週間乗り放題になる周遊券があったんです。それを使って北海道を旅行するのが流行っていました。もちろん大学生ばっかりです。高校1年で、というのはあまりいなかった気がします。その予定はあっさり却下されました。ひたすら夜行の特急で夜間移動を繰り返すというハードな計画だったので「あほかお前は、砂川のおじさんちにもっと泊まりなさい」と言われてしまいました。で、釧路方面と利尻島は泣く泣く諦め、もう少しマイルドな計画を立てました。利尻はあきらめたんですけど、礼文はあきらめられず、稚内から船に乗って行くことにしました。

稚内駅の北に野寒布(ノシャップ)岬という岬があります。有名な納沙布(ノサップ)岬とはべつものです。礼文島へ向かう船に乗る前に少し時間があったので行ってみました。野寒布岬がどんなところだったかは記憶にありませんが、戻る途中に出会ったおじいさんのことは覚えています。ステテコとランニングシャツ姿のおじいさんに、どこから来たのかと声をかけられ、大阪ですと答えると、うちに来てお茶でも飲んでいけと言うのです。船の時刻に間に合わなくなるかもしれないなー、でもせっかくの出会いだからなーなどと躊躇しながらついていくと、おじいさんが突然横歩きになり、あっと思う間もなくおしっこをし始めました。横歩きしながらおしっこです。立ち△ョンならぬ歩き△ョンです。びっくりしました。結局、船に間に合わなくなってはえらいことなのでお茶をいただくことなくおじいさんには別れを告げましたが、インパクト大でした。

礼文島は夢のように美しい島です(冬は大変そうですけど)。当時、島の北にあるユースホステルが主催する、島の西海岸を8時間かけて歩くツアーがありました。このコースは今は大部分が通行禁止になっているようです。その頃から単独行動を愛していた私はツアーには参加せず、同じコースを一人で逆向きに歩きましたが、ほんとうに疲れました。とにかく考えなしにそういうことをしてしまうんです。自分の体力で8時間歩き続けることができるのかとか、全然考えません。途中で、東京の東村山から来たという二人組の大学生と一緒に歩くことになったのですが、彼らと会わなければ悲惨なことになっていたかもしれません。実は、その二人組には、何日か前にオホーツク海沿岸を走るローカル線で会っており(時刻表を見せてあげたのです)、偶然の再会でした。盆過ぎていたので波が高かったのですが良い感じの入江があったので三人で泳ぎました。もちろん海パンなんか持っていなかったのでジーパンで泳いだわけですが、ジーパンで泳いだりしてはいけないということを身をもって体験しましたね。とにかく考えなしにそういうことをしてしまうんです。濡れたジーパンてめちゃくちゃ重いです。波も高いですし、ほんとに溺れるかと思いました。でも、ひとしきり泳いだあと、三人で浜辺に寝そべって風に吹かれているとすごく元気になりました。こういうことってあるんだなあと感心しました。夕方近くなって、三人で牧場のそばをとぼとぼ歩いていたら、ワゴン車が通りかかり、さすが大学生ですね、二人組がさっとヒッチハイクしてくれたおかげで、僕もそれ以上歩かなくて済みました。

それから数十年後、私は再度礼文島に行きました。もう一度西海岸を歩いてみたかったのですが、それはかなわず、でも、のんびりと懐かしい風景を見て歩くことができて幸福でした。

2024年8月11日 (日)

そら気がつかなんだ

家康が実質、自他共に認める武士集団のトップになったのは関ヶ原でしょう。ということは、江戸時代は1600年からでもよさそうです。室町時代も足利尊氏が将軍になった年から始まることになっていて、頼朝だけが別扱いというのもなんだかなあ。そういえば有名な源頼朝の肖像画が別人だった、というのも以前から言われていました。神護寺に伝わる国宝ですね。神護寺を再興したのは文覚で、大河ドラマでは、「あの」市川猿之助が演じていました。頼朝との関係から見て、神護寺に頼朝像が伝来していても、なんの不思議もないのですが、あの肖像のモデルはどうやら足利直義ではないかと言われています。尊氏の弟で、真田広之の大河ドラマでは高嶋政伸がやっていました。足利尊氏の肖像画も有名ですが、これも実は高師直ではないかと言われています。尊氏の側近ですが、直義と対立します。「観応の擾乱」というやつですね。忠臣蔵では吉良上野介にあたる人物として登場します。

日本史からは外れますが、かつては日本に恐竜はいなかったと言われていました。ところが、化石の発見によって覆りました。これは証拠があるのだから仕方がありません。学者が何と言おうと「論より証拠」です。しかし、「縄文式土器」がいつのまにか「縄文土器」になったのは、なぜでしょうか。万人が納得できるような根拠もなく、勝手に変えてしまったのではないでしょうか。これでは嘉門達夫が歌った「東京ブギウギ」の替え歌、「縄文式土器、弥生式土器、埴輪勾玉、土偶土偶」が成立しません。もう一つ、縄文時代に、すでに稲作が始まっていたという説が最近有力になってきているようですが、それなら弥生時代と区別する意味がないような…。

歴史の解釈やとらえ方が変わっても、昔の制度やシステムを引き継いでいることもあります。貴族の官職で、さすがに大蔵大臣はなくなりましたが、「大臣」という言葉そのものは古い時代のものです。そして、大臣たちはいまでも「花押」をつかうのですね。「花押」とは簡単に言えば毛筆によるサインです。閣議決定のときに必要なので、入閣するときに用意することになっています。今の大臣は花押を持っているのですね。「官位官職」と言いますが、「官位」のほうも残っています。三位以上が上級貴族です。正一位は別格で従一位が事実上のトップです。戦国時代の三傑と言われる信長・秀吉・家康でも明治になってから従一位が贈られたぐらいですから、なかなかの位です。従一位になった最も新しい人は、なんと安倍晋三なんですね。

一方では世の中が変化して新しいものが生まれていきます。今までなかったものに新しく名前が付けられるとき、それと区別するために従来あったものの名前が変わることがあり、それを「レトロニム」と言います。エレキ・ギターが生まれたので、電気を使わないものをアコースティックと呼んだり、デジタルに対してアナログと言ったりします。ストッキングをはくようになったために、はかない場合に「生足」と言うのもあてはまるでしょう。和歌というのも漢詩に対してつけられた名前でしょうし、在来線や白黒写真、固定電話など、新しいものがなければわざわざ言う必要のない言葉です。「天然○○」というのも人工ものや養殖ものがなければ出てこない表現ですね。「肉眼」なんてのも、何も道具がなければ生まれなかったでしょう。「レッサー・パンダ」がもともとの「パンダ」だったのに、「ジャイアント・パンダ」の発見によって「パンダ」の座を奪われただけでなく、「劣っている」の意味の「レッサー」と付けられたわけですから、かわいそうにもほどがあります。

新しいものが生まれたわけでなくても、古いものの名前が変わっていくことがあります。「チョッキ」が「ベスト」とか「ジレ」になったように、ズック靴がスニーカーになり、ズボンがパンツになりました。ところが、江戸川が東京川にならないように、古い名前が消えないものもあります。下駄をはかなくなっても「下駄箱」、筆を使わなくなっても「筆箱」、乳母がいなくても「乳母車」、3時に食べても「お八つ」です。「レコード大賞」というのもそうですね。慣れ親しんだ言葉を換えるのは何か大きなきっかけが必要なのかもしれません。

言葉の意味のとらえ方が変わってくることもありますね。前にも触れましたが、「課税」の意味から考えると「課金」するのはゲーム会社であって、ゲームをする人ではないことになります。だから、ゲームをする人が「課金した」と言うのはおかしい、と主張する人もいますが、そういう人も「募金」しているんですね。熟語の組み立てから見ても「金を募る」のだから、主語は金を集める側です。ところが、金を出す側が「百円募金した」と言います。まあ、だいたい「募」はあいまいなのですね。「応募」と「募集」はよく混乱して用いられています。

これも前に書きましたが、「なんなら」の使い方が変化したのはつい最近です。そういうことばの意識の変化については、文化庁が調査しています。毎年やっている「国語に関する世論調査」というやつです。最近の使われ方の「引く」や「推し」「盛る」などを使うことがあるか、とか「涼しい顔」「情けは人のためならず」「雨模様」「号泣」などをどういう意味で使うか、などの調査です。こういう調査をするというのは、言葉は変化するという前提なんでしょうね。誤用であっても定着すれば誤用ではなくなります。

意味だけでなく形も変わることがあります。とくに話し言葉では音が変化していくことがよくあります。「何を言ってやがるんだよ」を江戸っ子が発音するうち、「なにょうってやんでえ」のようにくずれてゆき、やがて「てやんでぇ」という最終形態になります。ここに「べらぼうめ」という、わけのわからない言葉が付くから、余計に意味不明になる。「さーたーあんだーぎー」は元は「砂糖油揚げ」でした。沖縄では、「え」の母音が「い」になり、「お」が「う」になる傾向があります。要するに、「あいうえお」ではなく、「あいういう」になるのですね。津軽弁の代表として、よく出てくる「えふりこぎ」という言葉があります。「格好つけ」「いい格好しい」という意味であることがわかれば、「いい振りをこく人」、「いい振りこき」ですね。そら気がつかなんだ、というやつです。

2024年7月28日 (日)

防弾ベスト

関西人が嫌われる理由の一つとして、何か話をすると、「で、その話のオチは?」と聞いてくることだ、と言っていた人がいました。たしかに関西人はオチを求めたがりますが、きちんと話を終わらせたいという、一種の合理主義かもしれません。中途半端なのがいやなのですね。ところが、世の中には最初からオチのない話というのがあります。リドル・ストーリーと呼ばれるもので、『虎か女か』が有名です。王女と恋をした、身分の低い若者に国王は二つの扉のどちらかを選べと言います。一つの扉の向こうには飢えた虎、もう一つの扉の向こうに王女とは違う美女がいます。美女を選べたら、その女と結婚することになる、という究極の選択です。王女は手を尽くして、どちらの扉に何がいるのかを探り出します。そして王女は若者にどちらかの扉を指さしますが、さあ、どちらだったでしょう? という小説です。この手の話は欧米では好まれるのですが、関西人から見たらモヤモヤして、「はっきりせい!」と言いたくなります。

ところで、この関西人というのはどの範囲の人でしょうか。先ほどの話では、むしろ大阪人と言うべきであって、大阪だけが特異だと思うのですが、関西以外の人から見ると、十把一絡げに「関西人」なんですね。もちろん、関西には名古屋は入りません。愛知・岐阜は関西ではないのですが、滋賀は入るのですね。「関西」の「関」はもともとは逢坂の関だったので、滋賀は微妙なのですが、鎌倉時代以降、福井県の愛発の関、岐阜の不破の関、三重の鈴鹿の関の西が関西というイメージになったのでしょう。そこで、滋賀は入るが、福井は入らない。和歌山は関西に入るが、三重は微妙です。東海地方に分類することもありますね。兵庫は関西に入りそうなので、淡路も関西と言ってよいでしょうが、四国に入ると関西の範囲から外れます。岡山より西も関西とは言えないので、結局関西は大阪・京都・兵庫・滋賀・奈良・和歌山の2府4県でしょうね。

一方の関東はどうでしょう。「関八州」は武蔵・相模・上総・下総・安房・上野・下野・常陸で、いわゆる関東地方ですね。ということは、「関西・関東」と大きく二分するような言い方をしているのに、間に「中部地方」が入り込んでしまいます。では、「関」とは、いったいどこのことなのか。不破の関の跡地が「関ヶ原」で、これより西が関西、関東は箱根の関の東ということになりそうです。つまり、「関西」と「関東」の「関」は違うものだった、ということですね。

奥羽三関というのもあって、白河・勿来・念珠ですが、白河の関を越えると平安時代では「化外の地」というイメージだったのでしょう。明治になって「白河以北山三文」と言われたのは東北列藩が戊辰戦争で負けて賊軍になったからだ、ということですが、昔からのイメージをひきずっている面もあるのかもしれません。賊軍となった地方では県庁所在地が県名と違う都市名になっていると言われますが、岩手県が盛岡市、宮城県が仙台市で、青森・秋田・山形・福島は同じです。元の藩庁所在地と違うということはあるようですが、賊軍だからという理由だけではないでしょう。県そのものも廃藩置県以降、併合やら分裂を繰り返してきました。堺県なんてのがありました。堺だけで独立しているどころか、今の奈良県を含んでいたぐらいですから、移り変わりは結構はげしいものがありました。

静岡県の知事の反対でなかなかリニア・モーターカーの工事が進まないことが問題になっていました。知事も別の人に変わってしまったようですが。で、リニアの予定のコースは静岡県の北側の一角です。国家的事業なのだから、その部分を隣接する山梨や神奈川に編入してしまえば片付くという意見がありました。今でも国が都道府県の再編成をすることができるのでしょうか。都市の合併というのはよくあるので、県の合併があってもおかしくないでしょうし、逆に分割があってもおかしくなさそうです。二つの県の間で取引をして、二つの市を取り替えて、県の境界線が変わるということはありでしょうか? もしトレードができるのなら、距離的に離れた県の場合もいけるのか、金銭トレードというのはありえるのか? アメリカはロシアからアラスカを買っていますし、トランプはグリーンランドを買いたいとか言っていました。金銭トレードどころか、もしも力のある県が隣の県の市を併合しようと武力侵攻したら内乱になってしまいます。勝手に攻め込んではだめですね。

そう言えば、ロシアがウクライナに攻め込んだとき、ウクライナ支援を日本がするのには、いろいろ制限がありました。攻撃用の武器はだめだ、と言う人もおり、「防弾チョッキ」ならいいだろう、ということで送ったそうです。線引きがなかなか微妙です。この「防弾チョッキ」という名前も面白いですね。昔「チョッキ」と言っていたものが「死語」になり、そのあと「ベスト」になりました。あまり聞いたことはないのですが、今は「ジレ」と呼ぶのだとか。ほんまかいな。ところが「防弾」のものだけは「防弾チョッキ」と言って、「チョッキ」のままなのはなぜ? 「防弾ベスト」とは言わないのですね。江戸が東京になっても、江戸川が東京川にならないのと同じでしょうか。「アイ・リブ・イン・トーキョー」を過去形にしろと言われて、「アイ・リブ・イン・エド」として人もいたとかいなかったとか。

「防弾チョッキ」のように言い習わしてきたものはわざわざ変更しなくてよいのでしょうが、最近は歴史解釈が変更になって、昔習ったことと違っていることが多いのはなぜでしょう。「聖徳太子はいなかった」説は結構昔から言われていたので、それもあり、ですが、鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わったのは納得しがたいものがあります。私自身、高校のときにはこの二つ以外にもいくつかの説を教えてもらいましたが、1185年では頼朝は将軍になっていません。将軍がいない状態で武家政権が成立した、というのなら平清盛も幕府をつくったことになるのでは? 1192年以前に頼朝による政権がととのえられていったことは確かでしょう。しかし、後年幕府と呼べる形になったのはやはり将軍になった年と見るのが素直だと思うのですが、学者の考え方は違うらしい。歴史のとらえ方はその当時の感覚ではなく、後年の視点によるものなので、変化するのもやむを得ないのかもしれませんが、では江戸時代が始まったのは家康が将軍になった年であるのはなぜ?

2024年6月23日 (日)

落ち着かない話

室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの」で始まる有名な詩『小景異情 その二』の中に、「よしやうらぶれて異土の乞食となるとても」というフレーズがあります。「乞食」は、ここでは「かたい」と読むのですが、このたった一語のために、この詩全体が埋もれてしまうのはだめでしょう。しかしながら、少なくとも教材として使いにくいのが現状です。実際には犀星そのものが読まれなくなっていますが…。文豪と呼ばれた作家でも、今の時代、名前も出なくなった人が結構います。武田泰淳はまだ読む人がいるかもしれませんが、武田麟太郎はもはや「知られざる作家」でしょう。芹沢光治良もだめかな。里見敦は兄貴の有島武郎がかろうじて残っているので、そのつながりで読む人がいるかも? 幸田露伴や国木田独歩のレベルでも、名前は知っていても作品は読んでいない人が多いでしょう。これは現代作家も同じで、「死んだら終わり」ということなのでしょう。

ベストセラー作家が少なくなったわけではありません。村上春樹は言うまでもなく、東野圭吾や浅田次郎、百田尚樹、伊坂幸太郎、重松清など結構健在です。女性作家でも、宮部みゆき、湊かなえ、有川浩、角田光代、辻村深月、原田マハ、江國香織、高田郁などなど。しかしながら、紙媒体はじり貧になっているようです。かといって電子書籍への移行もそれほどうまくいっているわけではなさそうで、読書離れは否めないところです。テレビ離れも加速しているようで、倍速ムービーやダイジェストムービー、「何分でわかる○○」がはやるのも「タイパ」追求の時代では、さもありなん、ということです。実際に、たとえば『源氏物語』を読み通した者はそれほど多くないでしょう。私も最後まで読んだのは谷崎潤一郎の現代語訳だけで、原文はもちろん、他の人の現代語訳もつまみ食いです。

最後まで読み通したものでは、『暗夜行路』は面白く感じなかったなあ。『夜明け前』も苦痛に近いものを感じました。読み出して数ページで、読む意欲をなくしてストップ、また日を改めて、同じことのくり返しでした。「自然主義」って、本当に面白くないなあ。行動力のない作家の狭い体験など、魅力的ではありません。かといってSFでもないのに、トンデモ設定の「純文学」もだめですね。奇をてらっているだけの感じがして、芥川賞作品の中でも食指が動かないものがあります。直木賞も最近のものはつらいかもしれません。

司馬遼太郎など、やはり今読み直しても面白い。本の大整理をしたときに一挙に捨ててしまいましたが…。吉川弘文館の『国史大辞典』全15巻のセットとか、箱入りの学術本などは、さすがに捨てるのがつらかった。古本屋で引き取ってもらえそうな小説なども、段ボールに詰めたまま捨てました。キング、吉川英治、山岡荘八、横溝正史などは文庫本ですが、ほぼ全巻揃っているものを「一気捨て」。つらいけれど、あっても読まない可能性が高く、この際「断捨離」をして納戸を広くすることにしました。それでも残っている『相棒』のノベライズシリーズは、現在進行形で刊行されているからです。山本周五郎も新潮文庫の全巻揃いでしたが、青空文庫でも読めるから、ということでおさらばしました。著作権保護の期間が死後五十年から七十年に延びたため、青空文庫にはいりそこねた人が多いのは残念でしたね。三島由紀夫を筆頭として、内田百閒、子母沢寛や木々高太郎など、無料で読めていたかもしれないのになあ。川端康成も没後五十年たったのではないかしら。

YouTubeの朗読動画で、面白そうな作品がたくさん取り上げられています。ところがプロではなく、「趣味」レベルの人なのか、「痛い」のが少なくありません。漢字の読み間違いがあったり、発声が悪かったりするのは論外ですが、聞いていて心地よいリズムが感じられないのは、何が違うのでしょうか。元NHKアナウンサーの松平定知の「最後の将軍」の朗読はさすがでした。おなじ司馬遼太郎の作品をとりあげているラジオ朗読の番組があります。毎週土曜の夕方、竹下景子のナビゲートで、司馬遼太郎の短編小説の朗読をしているのですが、こちらは「演技過剰」です。声優による朗読なので、アナウンサーとは違ってくるのでしょう。アニメも含めて声優は声で演技をしなければならない分、どうしてもオーバーになってしまうようです。「朗読」ではなく「朗読劇」と言うのなら抵抗はないかもしれません。

昔のラジオドラマには面白いものが多かったようです。森繁久彌と加藤道子の二人でやっていたものが西田敏行と竹下景子に変わりましたが、これは高い評価を得ている番組です。三谷幸喜の『笑の大学』は三宅裕司主演のラジオドラマもあります。これもなかなか面白かった。YouTubeの動画で森繁久彌の『ステレオ怪談』というのがあります。NHKのFMで放送されたものですが、かなり怖い。YouTubeには小松左京の『くだんのはは』の朗読劇もありますが、これは構成がよくなくて、原作そのままを読むほうがずっといい。小松左京という人はとにかくすごかったんですね。かなり早口で聞き取りにくいときもあるものの、しゃべりはうまく、タレントとしても一流でした。非常にエネルギッシュな人だったので、年を取ってからのやせこけた姿とかすれた声はどう見ても別人でした。小松左京のことだから、入れ替わっていても不思議はないと思ってしまったぐらいです。

ただ小松左京は子供向けのショートショートはイマイチでした。テキストに載せていますが、オチも弱い。その点、星新一は、シチュエーションの発想からどのようにオチにつなげるかをしっかり考えて、指定された枚数に合うようにストーリーを考えたのではないかと思います。その分、あっと驚くオチではなく、読んでいる途中である程度予想できるものもありました。だからこそ、安心して読める、というメリットもありそうです。それに対して小松左京は、「もし…」という発想から話を広げていくタイプなので、ひょっとしたらショートショートでもオチを決めずに書き始めていたのかもしれません。話によっては別にオチがなくても、時間が来たら「わあわあ言うております。おなじみ××、半ばで失礼させていただきます」と言って高座からおりる場合もあります。まあ途中でゲラゲラ笑えればそれで十分なんで、オチまでいかなくても文句は言えませんが…、と言いながらオチの付かない話を落ち着かない話と言います、というしょうもないオチでしめくくるのはいかがなものか。

2024年6月10日 (月)

言語流転

「見立て殺人」がなくても、迷宮入り事件というのは当然あるわけで、「帝銀事件」なんて、松本清張も『日本の黒い霧』の中で推理していましたし、小説にも書いています。坂口安吾の推理も有名です。横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』にも、この事件をモデルにした話が登場します。京極夏彦の作品の中にも登場していますし、永瀬隼介の『帝の毒薬』という小説も面白かった。

何か大きな事件が起こったとき、作家や元刑事の推理が新聞に載ることがよくありますが、あれは当たっているのでしょうか。作家は自分でストーリーやトリックを組み立てて、登場人物に「推理」させます。これは現実の事件を見ぬく力とはちがうでしょう。神戸で連続殺傷事件が起こったときに犯行声明が出ました。我々国語科の講師陣はみんな、「これ子供やね」と言っていました。あの字と文面を見たときの直感であり、経験に基づくものですが、何も根拠はありません。新聞では「相当の知性」とか「大学生か」などと書かれていたように思いますが、あの字や内容のもっているふんいきは子供のものでした。「小学校高学年から中学生、高校生ならかなり幼稚な子」という結論でした。警察が私たちに聞きに来てたら事件の様相も変わっていたかも…。

まあ、「専門家」と称する人たちの意見は、外すことが案外多いようです。コロナのときもそうでした。あれは、未知のウィルスだったわけですから、「専門家」と言っても確実なことはわからないはずです。医者でさえ意見がいろいろ分かれていたのに、「評論家」が論外なのは言うまでもなく、「コメンテーター」なんて人たちは話になりません。

コロナはさすがに「大事件」でしたが、大事件の真相はしょうもないことだった、なんてことも世の中には結構あるかもしれません。平安京遷都など、学校で習ったのは奈良の寺院勢力から逃れるための政治的理由ということでしたが、天智系の桓武天皇が天武系の奈良を嫌った、という単純な「感情」が根本にあるかもしれません。長岡京を捨てたのは、早良親王の祟りから逃れるためでしょうから、「政治的理由」よりも「感情的理由」で奈良を捨てた、と考えるのは意外に正解かもしれません。ソ連が崩壊したのはマクドのせいだというのも、ひょっとしたら正しいかもしれません。モスクワのマクドナルドで、アメリカ発のハンバーガーを手に入れるために大行列に並び、何日か分の給料に匹敵するだけの料金を払った人々は、憧れのアメリカ文化に触れる喜びを感じていたはずです。

「陰謀論」という言葉も最近よく聞きます。アメリカの大統領選挙のとき、不正があったのではないかとトランプ陣営から指摘があり、「バイデンジャンプ」なんて言葉も生まれました。「やりすぎ都市伝説」も、本当に「やりすぎ」と思うようなこともありますが、面白いことは面白い。オカルトとともに、こういうのには一定数のファンがおり、根強い人気を保っています。いったん消えたネタがときどき復活することがあるのも面白い。ツチノコなど、その代表です。アマビエは消えましたが、ツチノコの賞金はまだ生きているのでしょうか。そういえば、ネッシーは完全否定されたのでしょうかね。一つの「夢」として、存在の可能性を残してほしいものですが…。「ついに発見された」というニュースがイギリスの新聞に載ったことがあります。ただし、四月一日の記事で、ジョークだったのですね。こういうウソ記事を載せるときには、読者に対するヒントとして、たとえば発見者の名前を「オネスト・ジョン」にする、なんてこともあるそうです。日本語にすれば「正直太郎」という感じですから、逆にウソ記事であることがわかる、ということですね。

ネットの世界で、たまに見る偉人らしき絵に付いている名前で、「バカカ・コイツァー」「ネゴトワ・ネティエ」「ショー・ボーン」「エーカゲン2世」「ソノアンニ3世」「モーネ・ミッテラン内閣総理大臣」みたいなのがあります。もちろん、実在しない名前です。昔からある「骨皮筋右衛門」「石部金吉」も実在しません。「骨川スネ夫」も実在はしないでしょう。『警視庁・捜査一課長』というドラマの設定がばかばかしく、内藤剛志(この人は星光学院出身ですね)扮する捜査一課長が電話をとるところから始まり、「なに? 餃子を耳に突っ込んで、両手に靴を履いた御遺体を発見? わかった、すぐに臨場する」みたいな、わけのわからない不思議ワールドが展開されます。そんな「ご遺体」の説明で「わかった」と言えるわけがない。登場人物の名前もオールダジャレになっていました。ナイツの塙は「奥野親道(おくのちかみち)」で、なぜか「奥の細道」ですが、土屋はサイバー事件のエキスパートで役名が「谷保健作(ヤホー検索)」になっていました。毎回の登場人物も、たとえば医者なら「綿志賀直弼」、患者なら「伊賀井太陽」みたいな感じで、もうムチャクチャです。

これは笑いを狙ってはいるのでしょうが、一つには現実ばなれした名前にしておいて犯人と同姓同名の人からクレームが来ることを前もって防ぐ、ということもあるかもしれません。「実在のものとは関係ありません」とか「食べ物はスタッフがおいしくいただきました」というテロップが出るのは、そういうつまらないクレームの予防ということです。『不適切にもほどがある』というドラマでは、「このドラマでは不適切なシーンや表現があります」とわざわざ断りを入れることを「ギャグ」としておちょくっていたのも、「クレーマー」対策に見せかけながら、そういうクレームを逆批判していたのでしょう。

「漢字狩り」とか「言葉狩り」とかいうものがあります。たしかに差別はよくないのですが、差別につながりかねないから、と言って、この言葉を使うな、とか、この漢字はだめだ、と言って騒ぎ立てる人がたくさん出て、世の中から消えた言葉があります。「差別はだめだ」という正論が出発点になっているので、逆らいがたいのですが、何にしても行き過ぎはだめでしょう。昨今のポリコレと呼ばれるものも行き過ぎてしまった結果、今揺り戻しが来ています。それがまた行き過ぎると、ろくでもないことになりかねません。人為的に変えようとしなくても、自然にことばは変化していくものなのですが…。

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