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2018年2月 6日 (火)

三谷センセイはさすが

長いこと書いていませんでしたが、読み返すと「思い込み」について書いていたようですね。で、話を「思い込み」にもどすと、思い込みを裏切られる快感というのも存在します。期待を外されてしまいながらも、「そういうことか」という「発見の喜び」があります。推理小説の意外な犯人というのもそうですし、トリックを見破れずに、まんまとひっかかったりするのも楽しいものです。

クイズでもよくありますね。たとえば、生年月日も同じで、顔もそっくり、名字までいっしょという2人に「ふたごか」とたずねると、そうではないと言う。なぜでしょう、という問題です。答えはみつごのうちの2人だった、というもの。あるいは、交通事故にあった見知らぬ子供を助けて、病院に連れて行ったら、「なんということだ、これは私の息子だ」と医者が言った。子供は意識があるので、「この人はおとうさんか」と聞くと「ちがう」と言う。なぜか。答えは、お母さんだった、というもの。こういう場面では、なんとなく男の医者を想像してしまうものですが、女医であっても不自然ではないはずです。これも思い込みですね。でも、いじわるクイズとはちがって、答えを聞いたときに、なるほど、と思います。「スッキリ!」と言って、ボールを投げ込みたくなります。何のこっちゃわからん人も多いと思いますが。

答えを聞いたら快感というのは、視点を変えたり、発想の転換をしたりすることで解決策が見えてくるからですね。トイレの消臭剤というのがありますが、私はあれが気にくわない。あれは、匂い消しではないのですね。妙に甘ったるい匂いで、トイレにこもった匂いをごまかそうとしているのですが、なんというか、「甘ったるいウ○コの匂い」になってしまうのですね。強烈な匂いを、より強烈な匂いで消そう、という発想では解決できないのではないか。匂いの成分はインドールとかスカトールというやつですから、こいつらと化学反応させて別の無臭の物質(もちろん無毒でなければなりませんな)に変えてしまうような消臭剤というのが開発できないのでしょうか。これぐらいのことはだれでも思いつきそうなので、すでに開発済みなのかもしれませんが…。「上書き」ではなく、別物にすることで匂いを消す、というのは「発想の転換」なのですがね。

発想の転換どころか、逆転の発想というのもありますね。落語の『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』の中で、三途の川をわたる途中、「川にはまるなよ」と注意される場面があります。そこのせりふが「おぼれたら生きるぞ」というやつ。ジワジワとおもしろい。『煮売屋』という落語の中でも、店の主が売っている酒について説明するところがあります。「村さめ」「庭さめ」「じきさめ」という酒で、その店で飲むとホロッと酔いが回って何ともいえない気持ちになるのですが、村を出外れるころにさめるので「村さめ」、店で飲んで庭へ出るとさめるのが「庭さめ」、飲んでる尻からさめるのが「じきさめ」。「酒の中に水を混ぜるんやろ」と言われて、主は「そんなことしやせん、水の中へ酒混ぜます」「水くさい酒やなあ」「酒くさい水です」。

イヌイットに冷蔵庫を売る方法というのもありました。北極に住んでいて天然の冷凍庫を持っている彼らに、「凍らないから食材をおいしく保てます」と言って売るという有名な話です。アフリカに靴を売りに行くセールスマンという話もありました。そのころのアフリカでは誰も靴をはいておらず、はだしで歩いていたという設定です。二人のセールスマンが、それぞれ自分の会社に報告をするのですが、一人は「みんなはだしなので、アフリカには靴のニーズがありません」、もう一人は「みんなはだしなので、アフリカは大きなマーケットになります。ビッグチャンスです」と言った、という話。酒飲みが飲みかけでおいたままの酒ビンを発見して、「ああ、もう半分しか残っていない」ととらえるか、「やった、まだ半分残っている」ととらえるか、というのもありました。これはどちらに焦点をあてるかということで、老婆に見えるか若い娘に見えるかというような「だまし絵」もそうですね。

同じ条件でもどちら側から見るかによって、大きく印象が変わっていきます。幕末史など、その典型かもしれません。会津方から見るか、朝廷側、薩長側から見るか。推理小説でも、探偵側からではなく、犯人の側の視点に立つ「倒叙型」のストーリーもあります。「刑事コロンボ」とか、コロンボを真似た「古畑任三郎」とかですね。3分の1は、1を3等分したものなのか、3つに分けたうちの1つと見るのか。0は何もないということを意味するのか、0という状態が存在しているということを意味するのか。あるいは0はすべてがなくなったのか、それともこれから何かが生まれるのか。解釈次第で変わるのなら、プラスになる方向でとらえたいですね。ただし、プラスを極限にまで推し進めるとマイナスになることもあるので厄介です。吸血鬼がすべての人間の血を吸って、みんなが吸血鬼になったら、吸血鬼の天下のように見えますが、実は吸える血がなくなってしまいます。うそつきが100パーセントうそをつけば、真実の情報を伝えることになり、結局うそがつけなくなってしまう。シェークスピアも言っています。「きれいはきたない、きたないはきれい」と。

ちょっとちがいますが、一つのストーリーを逆から組み立て直すというのもあります。たとえば桃太郎の紙芝居があったとして、絵を最後の一枚から順に出していって意味の通るストーリーにする、というやり方です。家にある宝物が邪魔なので、鬼ヶ島に行って無理矢理鬼に押しつけた桃太郎ですが、帰る途中、家来たちに愛想を尽かされ、犬・猿・雉はきびだんごを餞別に渡して去って行きます。家に帰った桃太郎はなぜかどんどん小さくなっていき…、とここまではなんとかなるのですが、最後に桃太郎をどうやって桃に押し込むかが問題です。

同じ逆パターンでも、桃太郎側の視点ではなく鬼の視点からストーリーを組み立てることもできるでしょうし、これは何人かが試みているようです。芥川龍之介も「性悪な桃太郎が楽園で暮らす鬼たちを理不尽に襲う話として描いていますが、こういう設定もありでしょう。こんな風に反対側の視点からとらえてみると新鮮な見方ができます。大河ドラマ「真田丸」の終わりのほうで、幸村の守る真田丸に攻め寄せてくる井伊勢を見た幸村が「我ら同様、あちらにもここに至るまでの物語があったにちがいない」というような台詞を言うシーンがありました。もちろん、次に「井伊直虎」をやることがすでに決まっていましたから、その含みを持たせたさりげない「予告」になっているわけで、さすが三谷幸喜、いろんなところで遊びがありましたな。

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