小学生のときに読んだ本(友人編)
ネタ切れといいますか、記憶障害といいますか、これまでに「小学生のときに読んだ本」として紹介した以外にもたくさん読んでいるはずなんですが、なぜかあまり思い出せなくて。
たとえば『大きい1年生と小さな2年生』という本を読んだことをおぼえていますが、どんな話だったか記憶にないんですよね。大きな1年生の男の子と、小さい2年生の女の子が出てくるんです。そのままですが。女の子は2人組でした。・・・・・・しかし思い出せるのはそこまでです。
それにしてもなぜ「大きい」と「小さな」なのかしら。形容詞あるいは連体詞に統一しなかったのはなぜなんだろう。
「大きい1年生」だと「い」の音がつづき、「小さな2年生」にすると「な」行の音がつづくけれど、そういうことが関係あるのかな?
ま、いいや。
とにかく、わたしの記憶があまりにあいまいであるため、今回は趣向を変えて、大学時代の友人が「小学生のときに読んだ!」とのたまっていた本を紹介してみましょう!
じゃーん、そうです、あの、
指輪物語 トールキン
です。すごいですねえ。僕なんて、そんな話があるということすら大学生になるまで知りませんでしたよ。読んだのは社会人になってからです。それも1度挫折しています。友人はそれを小学4年生のときに読んだと言っていました。すごい! いまは何科か不明のお医者さんになっています。
医者になりたてのころは注射がすごく下手だったらしく、電話でよく「針が血管に入らん」とぼやいていました。
いやいや友人の恥ずかしい過去を暴露するのはやめておこう(友人というよりほんとうは先輩だし)。
ちなみに希学園の卒塾生で4年生のときにやはり指輪物語を読んでいた子がいました。その子も賢かったですねえ。その割には6年生のときに「鳥なき里のにわとり」とかトンマなまちがいをしてましたが。
あのクラスは読書家が多くて、ある女の子はやはり4年生のときに、小学4年生でありながら、島田荘司の『占星術殺人事件』を読んでいました。ご存じない方が多いと思いますが、とうていここであらすじを紹介する気になれないくらい(紹介したらクレームがきそうな予感)スプラッターな、えぐい推理小説です。
『指輪』は、読まれた方はご存じでしょうが、はじめにうじゃうじゃと長い前置きがあるんです。物語に出てくるホビットなどの種族についての説明が。それがめんどっちくて僕はつい挫折してしまったんですね。
しかし、そこを乗りこえるとあとはもうノンストップです。実に幸せな読書体験が得られるでしょう。
僕が「幸せな読書体験」というのは、まさに寝食を忘れて没頭できるような読書です。
ドストエフスキーの『白痴』を読んだときがそうでした。あのときは、万年床に寝転がったまま夜明け近くまで読み耽り、疲れ果てて本を手に眠り、目がさめるとそのまま残りを読み続けたものです。
村上春樹の『ノルウェーの森』を読んだときもそうでした。あの日のことはよく覚えています。朝から庭で(大学時代は友人たちと一軒家を借りて住んでいたので)友人に頭を丸坊主にしてもらい(煩悩を断つため)、すっきりした気持ちでその日発売された『ノルウェーの森』を買いに行ったんですね。で、帰ってきてずっと読み耽り、深更、読了。感動にうちふるえながらふと横を見ると、鏡に自分の血まみれの坊主頭が映り(ひげそりで剃ってもらったんですが傷だらけになっちゃって)、なぜか知らないがなんとなく「早まった・・・・・・!」という気持ちに。自分でもよくわからない心の動きでした。
『指輪物語』は映画化されていましたが、映画はみていません。おもしろいはずがない!と力強く確信しているので。いや、おもしろかったという方もいらっしゃると思いますが、そこは好みの問題でして。
だいたいCGという手法が気持ち悪くて嫌いなんです。特撮もあまり・・・・・・。
カンフー映画も、ワイヤーを使ったアクションになるとしらけてしまいます。
でもあれは良かったです。ウォン・カーウァイの『東邪西毒』でしたか、『楽園の瑕』とかなんとかいう邦題になっていましたが、トニー・レオンがかっこよかったですね。
よく言われることですが、原作がおもしろくて映画化されてもおもしろいものって、ほんとうにないですよね。
カズオ・イシグロの『日の名残り』という小説があります。読まれた方いらっしゃいますか?
主人公はかつてイギリス貴族の持ち物だった屋敷に仕える初老の執事です。一人称で書かれています。
回想シーンが物語の中心です。今でこそその屋敷はアメリカ人の富豪に主人公の執事ごと買い取られてしまったのですが、かつてはなかなか華やかな社交の場になっていた、と。
まあそういう過去の回想が続くわけですが、よくよく読んでいくと、主人公の語っていることがウソだとわかってきます。とはいえ、ありもしなかったでたらめなできごとをでっち上げて妄想を語っている、というわけではありません。さまざまなできごとに対する主人公の解釈がウソなんです。
ウソというより願望といった方がいいでしょうか。もっというと、主人公自身が真実から目をそむけ、自分にウソをついているのです。それが一人称の語りの中で次第次第に読者に気付かれるように書かれています。読者には気付かれるんですけど、主人公だけは気付かないんですね。そういう書き方になっています。もう絶妙!
そうやって自分にウソをつきつづけて初老をむかえ、ようやく自分の紡いだ過去の物語(過去の主人に対する評価、同僚の女性に対する自分の思いなどなど)が真実とは異なっているのではないかと気づきかけていく。そんな物語です。
すごくいい話でした~。哀しかったです。
しかし、この哀しみは映画では表現し切れていなかったように思います。映画で描かれている哀しみは、小説にあった哀しみと全然ちがう~と感じました。
ひとことでいえば、浅かったように思います。
生きていくうえでの「真実」ってなんだろう、という切実な問いかけが映画には弱かった、あるいはなかったような。そうですね。哀しさが描けていないんじゃなくて、怖さが描けていなかったのかもしれません。真実から目をそむけて生きることの怖さです。
とにかくブブーでした。(映画をみておもしろいと思われた方ごめんなさい。もし原作を読まれていなかったらぜひ読んでみてください。)
ここまで書いて読み返してみたら、もともと『指輪物語』の話でしたね。いやはや。
現5年生・6年生の人は読まないように。もはやそんな時間はきみたちにはない!
中学生になってからゆっくり読みたまえ。
ということで。