終電車の風景
ご存じの方はあまりいらっしゃらないと思いますが、『終電車の風景』という詩があります。作者は鈴木志郎康さん、結構有名な作品なんですが、現代詩の読者は少ないので、たぶんみなさんご存じなかろうと思います。
この詩がいつかどこかの中学校(灘中学校とか、灘中学校とか、灘中学校とか)の入試で出題されるんじゃないかとにらんでいるんですがなかなか出題されません。
そういう、「いつか出題されるんじゃないか」という詩のリストがあって、もちろん志別その他の教材にどんどん入れているわけですが、今日はその話ではありません。
なんせこのブログは、「どうでもいいことを書く」、というのが身上ですからね!
今日は、西川が見た「終電車の風景」、その思い出について語ります。
残念ながら、今は阪急の京都線に乗っていることが多いので、あまりおもしろい風景には出会えません(阪急電車は総じて品が良い)。
かなり前ですが、若いお母さんに抱っこされた赤ちゃんが、となりに座っていた革ジャン革ズボン金髪ツンツン鼻ピアスのあんちゃんに激しく興味を示し、いっしょうけんめい手を伸ばしているのを目撃しました。お母さんは疲れているのか、うとうとしていて気づきません。鼻ピアスのあんちゃんもヘッドホンして、「くそったれな世の中には拳を上げてファックオフさ!」みたいなとんがった目つきでいたので、赤ちゃんの動きにはなかなか気づかなかったのですが、赤ちゃんの手がついに彼の鼻ピアスにとどきそうになるにおよんで、鋭く赤ちゃんの方に目を向けました。視線がかち合う鼻ピアスと赤ちゃん! 危うし! ・・・・・・しかし、次の瞬間、鼻ピアスは「にかっ」と笑顔になるのでありました。お母さんが気づいて赤ちゃんを抱っこし直しましたけれど、そのときには、鼻ピアスの顔はとても穏やかな、あえていえば幸福そうな表情になっていたのです。まったく赤ちゃんおそるべしですな。
こんなささやかな風景を覚えているぐらいだから、阪急ではあまりインパクトのある風景に出会ってないんですね。革ジャンといえば、これも相当昔ですが、十三駅のホームで革ジャン革ズボンにチェーンじゃらじゃらの男とゴスロリ女性のカップルを見かけたことがあります。それだけならべつに珍しくもなんともないんですが、どちらも年齢が40~45歳、男性は黒縁のサラリーマンふう眼鏡をして頭髪が薄く、女性は林家パー子さんに似ておいででした。相当なインパクトでした。一緒にいた友だちが早速ケータイで写真を撮ろうとしましたが、一応止めました。
JRはそんなに乗る機会ないんですが、なかなか愉快なことがあります。
大阪駅で、ふらふらした足取りでもつれ合うようにして乗り込んできた二人組のサラリーマン。50代半ばの、いかにもサラリーマンのおじさんって感じの酔っぱらった二人組です。酔っぱらってるんで声がでかい。肩を組んだまま二人がけの座席に倒れ込むように座ると、
「部長、しかし、僕は部長の顔にどろを」
「言うな」
「しかし」
と車内に響き渡る大声で会話が始まりました。酔っているので、同じことのくり返しです。
「部長、僕は部長の顔にどろを」
「それを言うな」
と何度くり返したか。しかし何回目かのときに、新たな展開が。
「部長、僕は部長の顔にどろを」
「言うな、すべて俺の責任だ」
「・・・・・・へ? 部長の責任なんれすか?」
「あ、うん、まあ・・・・・・」
いや、これだけなんですけど、爆笑でした。
JRってよく遅れますよね。これは終電車の風景ではありませんが、運休が出たために、普通電車に乗り込んだ人々の数がいつもの数倍にふくれあがり、ぱんぱんに混んでしまったときのこと。駅にとまるたびに当然のことながらホームにあふれんばかりになっていた人々が無理にでも電車に乗り込もうとします。車掌が放送で「無理なご乗車はおやめください」とくり返し言うのですが、もちろん効き目はありません。体が半分出てしまっているのに「いや乗車してますけど」みたいな顔をしているおじさんや、片足をつっこんでぐいぐい食い込ませ何とか乗り込もうとしているOLなどでいっぱいです。
車掌がしだいにてんぱってきて、大阪弁丸出しになっていきます。
「無理なご乗車はおやめください、無理なご乗車は、あかん、あきませんて、すぐに次の電車が来ますよってに、危ないですって、かばんがはみ出てますやん、もうあきませんって・・・・・・」
このときは、ひどい混雑ぶりに殺伐としていた車内が一気になごみましたねえ。もしかしてそれが狙いだったのかもしれません。車掌もおそるべしですな。
さて、終電といえば京阪電車。京阪電車の終電に乗ることが多かった頃はなかなか衝撃的なことがありました。
とりあえず、酔っぱらってゲーゲー吐いている人はしょっちゅう見ましたね。でも電車の中は勘弁してほしいなあ。ドアのそばで手すりにつかまって苦しそうにしゃがんでるなあと思っていたら、突然「おえええ」という声がするんです。臭いってば。
しかし、そんなのはまあ言ってみれば普通のことです。
京阪電車で個人的にもっとも印象に残っているのは、何か忘れてしまったけれどとにかくすごくいやなことがあって僕が深く疲れ切っていたある夜のこと。
僕は二度と立ちたくない気分でだらしなく座席に腰掛け、宙をにらんでおりました。反対側の座席の、僕の正面のあたりには、いわゆる「労務者」風の身なりをしたおじいさん。
あれは八幡市だったか。とにかく京阪の最終電車なので乗客は少なく、駅のホームもひどく寂しげでした。
電車がホームにすべりこみ、ドアが開く直前、向かいに座っていたおじいさんが立ち上がり、何気なく僕の方に近づいてきました。疲れていたので目だけ動かしてじろっとおじいさんを見ると、おじいさんが手を差し出してきます。僕はさすがにとまどってどうしたらいいかわからずにいました。おじいさんは僕の手をぐっと握ると、励ますように肩をたたいてくれ、そのまま降りていきました。
なんだか衝撃でした。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』を思い出しましたね。ご存じでしょうか。傷ついたり悩んだりしている人間に、(人間からは姿は見えないけれど)そっと寄り添い、ほんの少し元気を分けてあげる、そういうことをしている天使がいっぱいいる・・・・・・という設定の映画です。まあ、僕は気楽な人間なのでそんなに深く悩んでいたわけじゃありませんが、変に心に残るできごとでした。
ちなみに『ベルリン・天使の詩』ですが、どんなふうに話が進むかというと、そんな天使の中のひとりが人間の娘に恋をして、人間になってしまうんです。主役は、名優ブルーノ・ガンツ。しかも、似たような境遇を持つ「元・天使」の役で、あのコロンボ警部で有名なピーター・フォークが「俳優ピーター・フォーク」として出ていました。つまり、「あの有名な俳優のピーター・フォークは、実は元・天使なのだ」というひねった設定だったんですが、おもしろかったですねえ。主人公の元・天使が、『コロンボ警部』を撮影中のピーター・フォークに会って、アドバイスを受ける場面なんてどきどきしました。
それにしても、ブルーノ・ガンツ! もうびっくりしますねえ。映画に出るたびに、完全に別人です。ロバート・デ・ニーロは体型から声からまるっきり変えてしまうので有名ですが、ブルーノ・ガンツはべつにそんなことをするわけではないのに、完全な別人になってしまうんです。あの人はまさに名優中の名優だと思います。
僕もそれほど見たことがあるわけではありませんが、
『アメリカの友人』
『白い町で』
『ベルリン・天使の詩』
『永遠と一日』
『ヒトラー最後の14日間』
ほんとにびっくりしますよ。雰囲気ががらっと変わるんです。『アメリカの友人』なんて、ブルーノ・ガンツが出ていると聞いて見たのに、どれがブルーノ・ガンツかわからなかった・・・・・・!
僕の目は確かに節穴ですが、それにしても変わり過ぎやろ、と思います。