死んだらわかる
ちょんまげで、まげの部分が大きいものを「大いちょう」と言い、これは相撲取りの髪型の名前としても残っています。「大銀杏」が武士の髪型であるのに対して、「小銀杏」は町人のものになります。月代を剃らずに伸ばしていると浪人というイメージですね。まったく剃らずに伸び切ってしまうと、「五十日かずら」とか「百日かずら」とか呼ばれます。「百日」伸ばしたということでしょうが、石川五右衛門のレベルになると、「大」の字が付いて「大百日」と呼ばれているようです。ここまで来ると、盗賊や囚人の髪型ということになります。
慶安の変の首謀者、由比正雪となると、「ストレートのロング」ですな。こういうのは「総髪撫付」と言います。月代を剃らずに髪を伸ばすと「総髪」ということになり、まげを結わずに垂らしたままにするのを「なでつけ」と言います。山伏とか易者、蘭方医のイメージですね。由比正雪は軍学者ということで、映画や芝居ではあの髪型になっているわけです。吉宗の隠し子と名乗って世間を騒がせた天一坊も、山伏だったので総髪撫付です。天草四郎はどうでしょうか。舞台や映画ではストレートのロングですが、なぜ、この髪型なのでしょう。切支丹だから? 大人ではなく少年だから? 正解は…「美輪明宏の前世だから」。
儒学者も、この髪型のイメージですね。林羅山、新井白石、貝原益軒、熊沢蕃山…。実際に残っている肖像画を見ると、必ずしもそうではないのですが、「儒学者」と言われると、総髪撫付のイメージを思い浮かべます。儒教の祖の孔子もそういうヘアスタイルだったのかなあ。孔子の時代にそういう髪型があったのかどうか。そもそも孔子って、紀元前550年ぐらいに生まれているのですね。釈迦は紀元前7世紀、6世紀、5世紀と、いろいろな説がありますが、大ざっぱに言うと、孔子とほぼ同じ時代ということになります。それに比べるとキリストは生まれたとされている年を基準にして西暦が数えられていますから、まだまだ若造ですな。
卑弥呼と曹操がほぼ同じ時代、と言われるとなんだか違和感がありますが、魏志倭人伝の「魏」というのは三国志の魏なのだから当然です。日本の歴史だけ縦軸として見ているとわからないのですが、横軸を世界に広げてみるとおもしろい発見があります。たとえばシェークスピアは1564年に生まれ、1616年に死んでいますが、この年に死んだ日本の有名人と言えば徳川家康です。では、最後の将軍、慶喜はいつまで生きたのでしょうか。なんと1913年です。ということは明治を越えて大正時代になっているのですね。山県有朋も長生きで1922年まで生きました。うちの父親がそのころに生まれていますから、天保生まれの山県と同じ時代の空気を吸ったことになります。昭和の軍人たちの中には山県を知っている人も多かったということですね。大河ドラマの主人公の渋沢栄一も同じく天保生まれですが、1931年まで生きています。昭和6年ですね。
考えてみれば、昭和生まれの人間も、平成・令和と三代にまたがって生きていることになります。こうして見ると、元号というのはなかなかおもしろく、やはり廃止はしてほしくないものですね。令和の次の元号も前もって決めておけば、そのまま元号続行ということになるので、早めに決めておくように新首相に電話を入れておこうかしら。ただ、現行の一世一元の制度から見て、まずい点があります。一人の天皇について一つの元号ということなので、次の元号は今の天皇のご崩御を前提にしていることになるからです。
こういうのはやはり日本人はきらうのですね。基本的に日本人は悪い状態を想定しないというところがあります。都合の悪い情報を無視したり過小評価したりする傾向を正常性バイアスと言いますが、日本人は、今まで何事もなかったのなら、それがそのまま続くはずだ、悪いことを予想するから悪いことが起こるのだ、と思い込むのでしょうか。特に、言葉にするとそれが起こるという思い込みが強いようです。言霊思想ですね。だから、天皇が亡くなることを前提にした議論なんて、とんでもない、ということになります。フローチャート的予想が不得意なのも、そのせいでしょう。災害が起こることを口にすると、縁起でもないと言われます。しかし、こういう状況が起こらないように、こういう対策を立てておこうとか、起こったときには、こういう手当をしようとか、あらかじめ考えておくのは大切なことです。
ただし、言葉の持つ力が失われてしまうのもだめでしょう。言葉の持つ威力も忘れてはなりません。正確に言うと、言葉そのものが力を持っているのではなく、言葉を受け取る側が勝手に力を感じるのですね。だから、言葉をないがしろにすると、詩や物語が人を感動させなくなるかもしれません。逆に言葉の暴力というのもあり、言葉が人を傷つけてしまう場合もあります。言葉一つで、人を喜ばせたり悲しませたり、時には命を奪うこともあります。
では、お経が邪なものを恐れさせるのはなぜでしょうか。われわれはお経が聖なるものであると知っているので、邪なものは嫌がるのだろうと思いますが、その邪なもの自身はなぜお経が聖なるものであるとわかるのでしょうか。仏教徒でなければ、お経に対して、なんの有り難みも感じないでしょう。そもそも邪なものは自身が邪であるという自覚があるのかなあ。また、お経ならなんでもよいのでしょうか。たとえば、般若心経には悪霊退散の威力はなさそうな…。
一万円札なんて一枚の紙にすぎないのに、みんなに使われているうちに「神の力」が宿りますが、それと同じような原理かもしれません。でも、その理屈なら生きている人には通用しても、死んだ人にとっては意味をなさないような気もします。そうであるなら、いくらお経を読んでも引導を渡せるはずもないし、さらに言えば、普通の日本人の場合、漢語やインド語が理解できるわけがないのですから、何を言われているか意味不明でしょう。これは子供のときに、誰しもが抱く疑問なのではないでしょうか。「死んだらわかるようになるねん」と大人は言うのですが…なかなか難しい問題です。