有栖川宮詐欺事件
歌舞伎では、演者は違っても、基本的なセリフや動きは以前からのものが踏襲されます。ところが、たまに、その型を大きく変える人が出てきます。いわゆる「型破り」というやつです。落語にも講談にも『中村仲蔵』という演目があります。歌舞伎の世界では、血筋がものをいうのですが、そういう背景のない中村仲蔵という役者が、なんとか出世をして、『忠臣蔵』五段目の斧定九郎という役をふられます。これがあまりいい役ではありません。五万三千石の家老の息子なのに、どう見ても山賊の風体で、だれも見てくれません。なんとか工夫をしようと思って、神参りをつづけたある日、雨に降られて、そば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできます。その姿にヒントを得た仲蔵は、芝居の当日、前もって頭から水をかけ、その水を垂らしながら見得を切ると、場内は水を鬱打ったような静けさになります。失敗したと思った仲蔵は、江戸から逃げだそうとしますが、師匠に呼ばれて行ってみると、師匠は、あまりにすばらしさに客が声を失ったのだと仲蔵の工夫をほめてくれる、というストーリー。新しい「型」が生まれた瞬間を描いたお話です。
「忠臣蔵」の元になった赤穂浪士の事件についても、新発見があったと、所ジョージの番組でやっていました。討ち入りをした一人、近松勘六の家臣の家に伝わる文書が見つかったとか。吉良邸に討ち入って上野介の首をとったのですが、実はこれで終わったわけではないというのです。その首を高輪泉岳寺へ持って行ったのは、単に亡き主君にお目にかけるためではなく、最終目的は墓石を主君に見立て吉良の首に手を下させるということでした。脇差を墓の石塔に置き、名乗ってから焼香をし、脇差を取って上野介の首に三度当て、脇差を元にもどして退くという「儀式」を一人ひとりがやったというのです。つまり、墓石を生きている主君に見立てて、吉良の首を取らせたということです。浅野内匠頭の辞世の歌は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」というもので、「風にさそわれ散っていく花も春を名残惜しいと思っているだろうが、もう二度と見ることのない春を名残惜しく思う私はどうすればよいのだろうか」というような意味でしょう。吉良上野介を討ち果たすことのできなかった無念さがにじみ出ていますが、浪士たちの行動はその無念の思いに対する「返し」の行為だともとれます。
古文書一つで定説や解釈が変わることがあるのですね。もちろん、これだけでは決定的証拠とはいえないかもしれず、傍証も必要でしょう。ただ、歴史学者が証拠にこだわるのも、こういうことがあるからです。小説家なら「空想」で自由に考えられるでしょうが、学者はそうはいきません。残っている文献から、ある程度「推理」できることでも裏付けがないと、「空想」だと言われます。その意味で、たとえば井沢元彦の『逆説の日本史』は、歴史学者から見たら「空想」になるのでしょう。いくら合理的な解釈に見えても「定説」にはなりにくいのですね。
ただ記録に残してはまずいものなどは文書として残らないのが当然で、そういうものは「推理」するしかないでしょう。今の時代でも、たとえば「モリカケ」や「桜を見る会」の真相がどうなっているかはわかりません。あったと言うからには証拠をださなければなりませんし、ないと言うほうは「悪魔の証明」で、ないものは証明できないと言います。殺人事件でも冤罪があるぐらいですから、「真相」というのは容易にわかるものではありません。信長殺しの真相は永遠の謎かもしれません。大河ドラマで光秀を主人公にすると聞いたときには「真相」をどうするつもりかと思いましたが…。
あのドラマでは、新型ウィルスの影響やら、濃姫役の沢尻エリカの降板やら、いろいろトラブルがありました。沢尻エリカの代役は誰がよいか、というアンケートもよく見ましたが、なんと「安倍晋三」という答えもありました。長い髪のかつらをかぶった安部さんの姿を思い浮かべると笑えるのですが、意外に似合っていた気がしないでもありません。歌舞伎では男が女を演じるのはあたりまえですが、アップの顔が映し出されるテレビではなかなか苦しいものがあります。女が男を演じるのも同様ですが、昔、大河ドラマの『太平記』では後藤久美子が大塔宮を演じていました。きりっとした若武者という感じで評判は悪くなかったと思います。
この「大塔宮」というのは、後醍醐天皇の皇子である護良親王のことですが、「大塔護良親王」をどう読むかが問題です。「だいとうのみやもりながしんのう」で覚えていたのですが、後藤久美子は「おおとうのみやもりよししんのう」と呼ばれていました。「大塔」を「おおとう」と読むと、いわゆる湯桶読みで、やや不自然ですし、高野山の「根本大塔」も「こんぽんだいとう」ですから、「だいとう」と読みたくなります。ところが、何かの史料で「応答宮」と書かれているのが見つかって、「おおとう」が正しいということになったようです。「護良」も「良」を「なが」と読むのはよくあります。比較的新しいところでは、昭和天皇の皇后は「良子」と書いて「ながこ」だったはずです。ところが、これも何かの史料で、「護良」の兄弟でやはり「良」の字を使っている人がいて、これにたまたま「よし」というふりがなが書かれていたそうな。兄弟で読み方がちがうことはないだろうということで、「もりよし」に決まったようです。
よく幕末から維新のころを描いたドラマで、官軍の行進にあわせて「宮さん宮さん お馬の前にひらひらするのは何じゃいな あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ」と歌うのがあります。日本最初の軍歌であり、日本最初のマーチでしょう。作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎ということになっています。この歌詞に登場する「宮さん」は有栖川宮熾仁親王です。和宮と婚約していたのに、徳川幕府の公武合体政策によって、和宮は14代将軍家茂と結婚することになります。最終的には、徳川家をつぶしたい薩長の挑発に乗ってしまった旧幕府軍は戦端を開き、戊辰戦争が勃発します。このときに熾仁親王は自ら東征大総督となることを志願して、勅許を得ます。その新政府軍が東海道を下ってゆくときに歌われたのが「宮さん宮さん」ですね。のちに詐欺事件として名前が使われることになるとは、宮様、夢にも思っていなかったでしょう。