今こそ島への愛を語ろう②~台湾その2~
今は昔の話ですが、何もしたくなかった私はずるずると七年半近く(十八歳から二十五歳まで!)仙台にいました。と書き始めたのが運の尽きで、前回は台湾の話にたどり着きませんでした。
そうです、七年半仙台にいて、何となくしかたなく帰阪し就職した、というところから台湾の話を始めようとしたのです。なのに、うっかり井月の句なんか紹介したせいで、話が脱線したまま戻りませんでした。恐るべし井月。恐るべし亀之助。
就職したのは、当時京阪沿線で主に公立高校受験の実績を伸ばしていた某進学塾です。新聞の求人欄を見てとりあえず電話したらいついつに来いと言われて、行ったら即筆記試験を受けさせられ、試験が終わったらその試験問題で模擬授業をさせられ(思えば生まれて初めての授業でした)、その場で「採用ね」といわれました。
このようにあれよあれよというまに就職したら、出勤初日に「一か月後に社員旅行で台湾に行くからパスポートとってね」と申し渡されたのです。めまいがするような急展開です。思えば仙台から大阪に帰ってきたのが9月のはじめで10月には台湾です。そもそもその帰阪というのもなかなか普通ではなく、5日かけて(実質的には2日半)国道6号線と1号線を原チャリで走り抜いて帰ったのです。
初日は6号線を仙台から水戸まで走り、ビジネスホテルに泊まりました。
そして、「雨のルート6」という詩?をつくりました。
雨のルート6
姥桜の「姥」は ウンババウンババ
今日俺は雨の中 ウンババ言いながら単車転がしたら
右折しそこねたものさ
今日もウンババ
明日もウンババ
何でこんなくだらないものを書いてしまったのか、まったく記憶にありません。なのに暗唱できるというのがまことに不思議です。
2日目は東京の友人の家に泊めてもらいました。
3日目は東京でふらふらしていました。
4日目は東京から1号線を関ヶ原まで突っ走り、関ヶ原駅舎の壁にもたれて眠りました。寝袋持っていたので。
5日目にようやく大阪の実家まで。
って感じです。
1号線をずっと原チャリで走るというのは恐怖以外の何ものでもありません。意地悪なトラックの運転手がいて、僕の原チャリの横を併走し続けるのです、わざわざスピードを落として、追い抜きもせず、地響き立てて。何であんなに根性ばばちゃんなんでしょう? いずれにせよ、静岡に入る頃には原チャリのエンジンが明らかに不調になり、スピードが落ちました。わざわざ箱根を迂回して休み休み走っていたのですが、それでもダメでした。
は!? わたしったら何の話をしてるんでしょう? なぜ「雨のルート6」などという人生の恥部をさらしているんでしょう? 台湾の話はどこへ? というわけで、台湾の話は次回、その3で!