「きらず」は卯の花
前回のタイトルは「ディスる」の「ディス」はまさか「ディス・イズ・ア・ペン」の略ではないわな、という意味でしたが、調べてみるとどうやら「ディスリスペクト」らしい。そりゃそうでしょう。「ディスカバー」や「ディスカウント」では意味が通じない。いずれにせよ「ディス」には打ち消しのニュアンスがあります。「ディスカバー」は「カバーを外す」すなわち「発見」ということですね。
略語にしたときに元の言葉とは形が変わるものもあります。「スマートフォン」の略なら「スマフォ」です。いやいや「スマートホン」の略です、と言われれば「あ、そう」と答えるしかないのですが。「パニクる」も「パニックる」でしょ、と言いたいのですが、たしかにこれは発音しにくい。江戸時代にもなかなか大胆な略語がありました。「ちゃづる」なんて、いったい何のことだかわかりませんが、漢字で書くと、「茶漬る」となって、なるほどです。「茶漬けを食う」を「茶漬る」。
無意味に見える言葉にも、実は意味があるというものであるなら言霊が宿っても不思議はありません。では、本当に無意味な口癖のようなものはどうでしょう。たとえば「逆に」「て言うか」「要は」「早い話」なんて、よく使いますが、ほとんどの場合、無意味なことばになっています。「逆に」と言いながら何の逆にもなっていない。「早い話」と言いながら、かえって回りくどい言い方になっていたりします。「えーと」とか「まあ」とかもよく使う人がいます。この二つはどう違うのでしょうね。「えーと」はすぐにことばが出てこない感じがします。実際に出てこないこともあるのでしょうが、あえて使うことによって、実はちょっと言いにくいというような雰囲気をつくり、ストレートな物言いを避けていますよ、ということを伝えている場合もあります。そうなると「まあ」と同様に、ズバリ言わない「婉曲語法」の一種と見なしてもよいのかもしれません。そうなってくると、全く無意味な言葉というわけでもなさそうです。
世の中には「意味がありそうで実はない」、あるいは反対に「意味がなさそうで実はある」なんて言葉があるようです。さらに言えば「無意味な話」というのもあるかもしれません。天気についての話題なんて無意味なようですが、場つなぎの役割を持っていることもあります。では「笑い話」なんてのはどうでしょう。たわいない笑い話、「あなたはキリストですか」「イエス」のレベルの。こんなのはワハハと笑って終わりで、無意味といえば無意味です。でも、たわいないからこそ、瞬間ではあるものの楽しい気分になれます。たわいないからこそ私は好きです。
怪談なんてのはどうでしょうか。聞いて何のメリットがないにもかかわらず心ひかれるものがあります。怪談がブームだと言われて久しく、YouTubeなどでも怪談ものが人気のようです。本の形でも地味に出続けています。『新耳袋』というシリーズものがありました。今風の怪談を百物語形式で集めた本なので、短い話ばかりですが、結構インパクトのあるものも多く、なかなか面白いシリーズでした。タイトルの元となったのは江戸時代の南町奉行、根岸鎮衛の書いた『耳袋』という本です。根岸鎮衛は臥煙出身だったという噂のある人物で、臥煙というのは文字通り「火消し人足」のことです。そういう人の中には乱暴な者も多かったようで、臥煙イコール無頼漢というイメージもあり、根岸鎮衛も全身に刺青を入れていたとか。そういう意味で、「遠山の金さん」に近いところがあって昔から小説やテレビの時代劇で題材とされてきました。落語の「鹿政談」にも登場します。
奈良三条横町で豆腐屋を営んでいた与兵衛さんが、売り物の「きらず」を食べていた犬を殺してしまいます。「きらず」というのは「おから」のことで、豆腐と違って切らずに食べるということから来たそうな。ところが犬だと思ったのは実は鹿、奈良で鹿を殺すと死罪になります。そのお裁きを担当した奉行が根岸鎮衛で、何とか助けてやろうと思い、鹿の遺骸を見て、「これは角がないから犬だ」と言います。ところが、鹿番の役人が「鹿は春になると角を落とします」と異議を唱えます。根岸鎮衛は、「幕府から下されている鹿の餌代を着服している役人がいるという噂がある。鹿の食べるものが少なくなって、空腹に耐えかねて盗み食いをしたのかもしれない。鹿の餌代を横領した者の裁きを始めよう」と言いだします。身に覚えがあった役人が、犬であることを認めて一件落着。根岸鎮衛が与兵衛に「斬らずにやるぞ」と言うと「マメで帰れます」と答える、今時通じにくいオチ。
ただ、奈良奉行を根岸鎮衛としたのは三遊亭圓生だったらしく、桂米朝は川路聖謨にしています。根岸は奈良奉行を務めたことがなく、川路は実際に務めたようで、講談でも川路になっています。いまの神田伯山が、この話は面白くないと言いながらやっていました。宮部みゆきの『霊験お初捕物控』のシリーズでも、主人公のお初の理解者として、川路が登場します。お初が解決した奇妙な出来事を川路が『耳袋』に記すという設定になっています。『耳袋』とはそういう本なので、さぞかしおもしろいだろうと期待して読んだのですが、怪談以外の豆知識みたいなものもいっぱい書かれており、ストーリー性のある怪談あるいは怪異談はそれほど多くはありませんでした。
中国には『捜神記』という本があります。4世紀ごろに書かれたもので、さすがに全文を読んだわけではありませんが、ジャンルとしては「志怪」と呼ばれるもので、この場合「志」は「誌」と同じなので「怪をしるす」という意味になります。ところが、これも必ずしも怪異談だけではないらしく、神話めいたものから、たたりとか予言に関する話以外にもとんち話やお裁きものも数多く載っているようです。「志怪」が進化すると「伝奇小説」と呼ばれるようになります。清代初期の『聊斎志異』となると、これは怪異談中心です。作者である蒲松齢は「聊斎」という号を名乗っているので、『聊斎志異』とは「聊斎が異をしるす」という意味になります。日本で「伝奇物語」と呼ばれるのも空想的、幻想的な傾向の強い物語ということで、平安時代の『竹取物語』『宇津保物語』『浜松中納言物語』などをさします。歌を中心とした『伊勢物語』『大和物語』などの「歌物語」との対比で使われることばです。でも、今なら「ファンタジー」と言うほうがぴったりかもしれないなあ。