酔って件の如し
上田秋成の『雨月物語』や滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』なども伝奇物語の流れをくむものでしょうか。いわゆる「古志古伝」も実は「伝奇物語」なのかもしれません。とりわけ『竹内文書』などは、まさに「伝奇」で、腰を抜かすほどおもしろい。もとは、神代文字と呼ばれる古代の文字で書かれていた、なんて言われると、うさんくさいこと、この上ありません。「イスキリス・クリスマス」なる人物が登場します。この人は十字架上で死ぬはずだったのが、弟のイスキリが身代わりになって逃げ延び、なんと日本にやってきます。しかも、その墓が青森県に残っているらしいのですね。この人だけでなく、お釈迦様も日本にやってきて、天皇に仕えたことになっております。
もともと世界の人々は五色人と言って、日本人をふくむアジア系である黄人のほか、赤人、青人、黒人、白人がいたそうな。その五色人の祭典がオリンピックの元になった、というのはいくらなんでも…。そして、なんと日本が全世界の中心で、「天の浮舟」つまり空飛ぶ船に天皇が乗って世界中を巡行していたということですから、驚くのなんのって。その何代目かの天皇のときに、ミヨイとタミアラという大陸が陥没したと書かれているそうで、それってムー大陸とかアトランティス大陸のことじゃないの。
この文書を伝えていたのは竹内巨麿という人ですが、正統竹内文書というものもあって、それを伝えている人がいました。竹内睦泰さんという人で、第73世武内宿禰を名乗っていました。2、3年前に亡くなりましたが、まだ60歳にもなっておられなかったと思います。もともと予備校の講師をしていたこともあって話もうまく、なかなかおもしろい人でした。武内宿禰というのは、五代にわたる天皇に仕えたとされる人物で、今でいう官房長官みたいな存在でしょうか。昔はお札の肖像画としても有名でした。長きにわたって何代もの天皇に仕えることができたのは、300歳近くまで生きたから、ということだそうですが、いくら昔でもそんなことはない。竹内睦泰さんによると、「一人ではない」。つまり、襲名したのでしょう。南北朝時代の武内宿禰が南朝方についたために歴史の表舞台から姿を消しますが、実は一人だけ現れた有名な武内宿禰がいます。江戸時代の中ごろ、尊王論者が弾圧された最初の出来事として知られる宝暦事件が起こります。その事件の中心人物が竹内式部という人です。この人物が、「自分が死んでから数百年たった、時代の代わり目に生まれる武内宿禰が重要な役割を果たす」という予言を残したそうな。それが竹内睦泰さんだったわけです。
南朝そのものの子孫を名乗る人もいましたね。熊沢天皇とか。戦後の一時期、われこそが皇位継承者であると名乗りをあげた者たちが各地に出現しました。古くは「葦原将軍」という人気者もいましたが、この人は精神病をわずらっていたらしい。「誇大妄想」というのでしょうか、日露戦争のころに「将軍」を自称するようになり、昭和になって天皇を自称するようになったそうです。この人は別格として、自称天皇がいても、長い歴史を考えれば、ひょっとしてという可能性もありそうです。本当かどうかの判定はなかなかできないのですから。うちの母方でも、平家の落人で、もともと四国に住んでいたのが、熊野に渡ってきた、とそれらしいことを言っていますが、どうも嘘くさい。
そう言えば、和歌山に住んでいる親戚の中で雑賀姓の人がいます。しかも「孫○」という名前です。孫市の子孫なのかなあ。雑賀孫市は鈴木孫一、平井孫一とも名乗ったそうですが、いずれにせよ司馬遼太郎の小説で有名になっただけのような気もします。そもそも孫一は何人もいたようで、雑賀の一族のリーダーが代々名乗る名前だったようです。雑賀衆とも甲賀忍者とも言われる杉谷善住坊なんて人もいましたが、のこぎり引きになったことで有名です。織田信長を火縄銃で狙撃しようとして失敗、かすり傷を負わせるのですが、激怒した信長につかまって、首から下を土の中に埋められ、生きたまま、竹製のノコギリで首を切断するという刑に処されました。日本人も結構残酷なんですね。
平安時代は死刑がなかったと言いますが、これは残酷かどうかではなく、けがれの思想のせいだと井沢元彦は言っています。当時の貴族たちは「死」によってけがれることを怖れたというのですね。サッカーのあとのゴミ拾いが話題になりました。あれを「掃除」と考えるから、いろいろな議論を呼んだわけで、単に「けがれ」を嫌うという日本人独特の思想かもしれません。要するに、日本人は「はらいたまえきよめたまえ」というのが好きなのでしょう。「みそぎ」というのも「けがれ」を嫌う考えの表れです。「うがい手水に身を清め」というやつですね。
落語の「延陽伯」でも、「あーらわが君、うがい手水に身をきよめ」という台詞が出てきます。江戸落語にうつされて「たらちね」という題でも演じられますが、「延陽伯」というのは登場人物の女性の名前なんですね。独り者の男に、大家さんが縁談を持ってきます。素晴らしい女性ですが、一つ欠点があり、京の公家に奉公していたせいで、言葉が女房言葉、要するに丁寧すぎるというのですね。そんなことはかまわないと男が承知したので、その日のうちに祝言となります。男が名前を聞くと、「わらわ父は元京都の産にして、姓は安藤、名は慶三、あざ名を五光と申せしが、我が母三十三歳の折、ある夜丹頂を夢見てわらわを孕みしがゆえに、たらちねの体内をいでし頃は『鶴女、鶴女』と申せしがこれは幼名、成長ののちこれを改め『延陽伯』と申すなり」と答えます。これは「縁をよう掃く」のだじゃれではないかと思いますが、よくわかりません。翌朝、この奥さんに起こされます。「あーら我が君、もはや日も東天に輝きませば、お起きあって、うがい手水に身を清め、神前仏前に御あかしをあげられ、朝餉の膳につき給うべし。恐惶謹言(きょうこうきんげん)」と言われて男は「飯を食うことが恐惶謹言やったら、酒飲んだら酔って件(くだん)の如しやな」と言ってサゲになります。このオチがもはやわからない人が多いらしい。「恐惶謹言」というのは手紙などの末尾につける挨拶語で、意味はそのまま「恐れかしこみ、謹んで申し上げる」ということになります。「よって件の如し」も同じく証文などの末尾に書く言葉で、「以上、右に書いたとおりです」という意味です。ただし「酔って」は上方では「ようて」になるのがつらいところ。以上、よってくだんのごとし。