「ディス(イズアペン)」?
前回の答えは「仏足石」です。お釈迦さまの足跡を石に刻み、それを前に置いてお釈迦様が立っている姿をイメージして祈ったそうな。こうすれば当然偶像をつくったことにはならないのでOKですね。お釈迦様は扁平足だったのか、平たい足跡の真ん中に円が描かれ、そこから放射状に線がのびています。足の指もなぜか長く、指の間に水かきのようなものがあったことを表すために魚の絵がかかれていたりします。インドだけでなく、日本にもあります。有名なのは薬師寺の国宝になっているもので、歌碑とともに安置されています。歌碑には五七五七七七の形式の歌が書かれており、これを仏足石歌と言います。
でも、いつのまにかイメージするのが面倒になったのでしょうか、仏像がつくられはじめます。立像だけでなく坐像もあり、涅槃像と呼ばれる、お釈迦様の寝姿をかたどったものもあります。寝姿というより、なくなったときの姿ですね。足の裏の模様を見ることもできるので、見る機会があれば是非どうぞ。大仏というと坐像を思い浮かべますが、大きな仏像であれば大仏なので、立像であってもかまいません。お釈迦様の身長が一丈六尺だったということになっているので、それに合わせた仏像を「丈六仏」と呼び、それより大きいものなら大仏です。坐像の場合はその半分の大きさですが、「一丈六尺」というのは約4.8メートルになり、いくらなんでもお釈迦様、そこまでデカいわけではないでしょう。ただし、時代によって「丈」「尺」の長さが変わるらしく、なんとも言えませんが。
有名な大仏といえば、なんといっても、奈良と鎌倉です。では、どちらが先にたったか、というしょうもないクイズがあります。答えはどちらもすわっているので「たって」いない、というもの。こういうばかばかしいクイズでもおもしろがる6年生は幼稚なのか純真なのか。では、今の奈良の大仏は何代目か、というとこれはきちんとした歴史クイズになりそうです。奈良時代に創建されたあと、源平合戦のころ平重衡によって南都が焼き払われ、後白河上皇の命令で重源により再建されます。ところが、室町時代にまたもや戦火に焼かれます。これは松永久秀ですね。『常山紀談』に、信長が久秀のことを「主家乗っ取り、将軍義輝暗殺、東大寺大仏殿焼失という三悪を犯した老人だ」と紹介したという話があります。そして綱吉のころに再建され現在にいたるので、三代目ということになります。ただし、江戸初期には木造銅板貼りで臨時にしのいだらしく、それを入れると顔は四代目だとか。
いずれにせよ創建当時のものではなく何度も修復されたものです。聖武天皇のころのものではなく、江戸時代のものだと言われても、ありがたく感じるのかと言われると困りますが、修復されたものであっても、人はみなありがたがって拝むのですね。いったい何が「ありがたい」のでしょうか。考えてみれば、銅か青銅かを素材にして、創建当初は金メッキをしていたようですが、要するに金属の塊にすぎません。それを素材にしてつくられた「形」を拝むわけですね。さらに言えば、その形にこもるであろう「魂」に祈るのでしょう。それは仏の魂であると同時に長い年月の間に積み重ねられた人々の思いがこめられたものです。いわば、形づくられた集合体の魂がありがたさの源なのかもしれません。
つまり、金属でできた像そのものがありがたいのではなく、人間の主観によってありがたさを感じているということですね。お経だって、ただの言葉です。それをありがたいと思うのは人の心です。逆に言えば、言葉で人をあやつることは意外に簡単だということでしょう。「呪」というのはそういうものです。この場合、「呪」は「のろい」ではなく「しゅ」と読みます。呪とは「ものの根本的なありようを決めることば」だそうです。最も短い呪は名前でしょう。固有名詞とはかぎりません。「先生」と呼ばれる人は、先生としてのふるまいを求められるし、自分でも無意識のうちに先生らしい行動をとろうと考えます。芸名もいかにも芸名らしい華やかな名前が多いのですが、その名に恥じないような行動をとろうとするでしょう。襲名という形で過去の立派な先輩の名前を譲り受けるのも、その人のようになりたいと考え、その人のようなふるまいをしていこうと思うのですね。「名は体をあらわす」と言いますが、体が名によって縛られるというほうがふさわしいかもしれません。古本屋兼拝み屋の京極堂が活躍する京極夏彦のシリーズにはいつも呪が登場します。というより、それがむしろ主題になっています。京極堂が憑き物落としをすることで、その呪は解かれ、結果的に妖かしも消えます。
子どものときにきつく言われたことばがトラウマになることがあります。これも呪でしょう。逆に、いい方向に自己暗示をかけることによって、自分自身が変わっていくこともあります。イメージトレーニングというのも同様でしょう。特に、日本人の場合、言葉を使って呪をかけるのが有効なのは言霊信仰のせいかもしれせん。また、真言というものがあります。「真実の言葉」という意味で、サンスクリット語では「マントラ」と呼ばれます。マンは「心」を意味し、トラは「解放」という意味らしいですね。たとえば「ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダン・マカロシャダヤ・ソハタヤ・ウンタラタ・カンマン」と唱えるだけで心が解放され、それがきっかけとなって最終的に災難や苦難から逃れられることになります。
ただ、日本人には真言の言葉の意味はわかりません。それでも威力があるのですね。極端な場合、お経の中身を知らなくてもお経のタイトルを唱えるだけでも効果があるとされてきました。「南無」「妙法」「蓮華経」と言うだけでもよいというのはすごいことです。ということは略語でもOKということでしょう。「あけおめ、ことよろ」なんてひどいことばでしたが、実は新年を祝う気持ちは言霊として十分宿っていたのですね。単独で「ことよろ」なんて言われても何のことだかわかりませんが。「あけおめ」とセットなら「今年もよろしく」だなとわかります。略語の中には元の形がわかりにくいものがありますね。筋トレなどはよく使いますが、「筋力トレーニング」なのか「筋肉トレーニング」なのか。「ディスる」の「ディス」は何の略なのでしょう。