阿と吽
「延陽伯」の女房言葉というのは、宮中に仕える女性(女房)が使った言葉で、典型的なものとしては語頭に「お」、語尾に「もじ」をつけて丁寧さを表すパターンがあります。今でも使う「おかず」「おでん」「おにぎり」「おひや」「おつくり」「おはぎ」「おから」などもそうですし、今ではちょっと聞く機会が減ってきていますが、「おこわ」とか「おじや」もそうですね。「おかか」とか「おかき」なども、前者は「鰹節」の「か」、後者は「欠き餅」から来ているのでしょう。食べ物関係でなくても、「おなか」「おなら」「おまる」「おでき」などもあてはまります。「おいしい」は「いしい」という形容詞を丁寧に言ったものだし、「おもちゃ」は「もてあそびもの」の後半が省略されたものです。「おつむ」も「つむり」の「り」が省かれたものです。語尾に「もじ」がつくものとしては「しゃもじ」「お目もじ」は今でも使います。「そなた」の「そ」に「もじ」をつけて「そもじ」としたものなどは、たまに時代劇で高貴な女性が使っていますね。意外なところでは「ひだるし」の「ひ」に「もじ」をつけた「ひもじい」などもあります。
ところで、この「延陽伯」さんが、お米のことを「しらげ」と言うところがあります。「白げる」は「精米する」という意味で、そこから精米された米のことを言うのですが、男は「しらみ」と勘違いします。そこで、この奥さんが「よね」と言い直しますが、たしかに「米」のことを「よね」と言います。この「よね」はおそらく「いね」の訛ったものでしょう。植物としては「いね」、その実は「こめ」または「よね」、食べられる状態になったら「ごはん」と言いますが、「ごはん」になると「米」には限定できないようです。英語の「ライス」なら「こめ、よね、いね、ごはん」のすべてにあてはまって便利ですね。「米田」という名字の人は「こめだ」と「よねだ」のどっちで読むのか迷います。
二通りの読み方がある名字というのは結構多くて、祝賀会の劇のネタにも使いました。もともと、あるコンビがコントでやっていたのをパクってきたのですが、名前の裏をかかれるネタです。「こめだ」と言うと「よねだ」と言われ、「はせ」と読むと「ながたに」と言われます。またまた落語ですが、「平林」というネタがあります。人の名前ですが、どう読むか。上方では「たいらばやし」と読みますが、東京では「ひらばやし」と言うようです。店の旦那が丁稚の定吉を使いにやります。本町の平林(ひらばやし)さんのところへ手紙を持って行くことになるのですが、どこへ行くのか忘れてしまいます。手紙の宛名を見せて、道行く人に聞いたところ、その人は「たいらばやし」だと言います。ところが、そういう名前の家が見当たらない。そこで、また道行く人に手紙を見せると「ひらりん」だと言われ、さがすのですが、やはり見つからない。また聞くと、今度は「平」と「林」を分解して、「いちはちじゅうのもくもく」だと言われ、見つからず、また聞くと、「ひとつとやっつでとっきっき」と言われます。それらをまとめて唱えれば、だれかが教えてくれるだろう、ということで、「た~いらばやしかひらりんか、いちはち~じゅ~のもぉくもく、ひとつとやっつでとっきっきぃ~」と歌いながら歩く、というばかばかしい話です。
いくらなんでも、人の名字で「いちはち~じゅ~のもぉくもく」「ひとつとやっつでとっきっきぃ~」はありえない。「ひらりん」は微妙ですが、「たいらばやし」はありえます。前にも書いた「加波さん」を「かなみ」ではなく「かば」と読んでしまったのは、「かなみ」だと重箱読みになって不自然だからです。ただ「かば」と読むと、どうしても「河馬」を連想してしまうのがまずいところです。でも、あれは「馬」の一種なのでしょうか。英語の「ヒポポタマス」も「河の馬」という意味なのだそうで、昔の人はそう考えたのでしょう。この「河」はもともとナイルのことなのかなあ。
「馬鹿」ということばも「ばろく」と音読みするのが自然です。もともと「ばか」ということばがあって、適当に字をあてたのかもしれません。「鹿をさして馬となす」という故事が語源だとよく言われます。秦の趙高が二世皇帝に、「鹿」を「馬」と言って献じたところ、群臣は趙高の権勢を恐れて肯定しましたが、否定した者は殺された、という話です。話の中身が「ばか」と結び付きそうなので、なんとなく納得してしまいますが、「鹿」を「か」と読むのは大和言葉です。サンスクリット語で「無知」を意味する言葉の音に合わせて「莫迦」と表記したものもあります。これも当て字でしょう。
「馬鹿」と並び称せられる(?)「阿呆」はどうでしょう。こちらも秦と結び付く語源説があります。始皇帝が建てた宮殿「阿房宮」が、あきれるほど馬鹿でかく、全焼するのに三ヶ月かかったということから、馬鹿げたことを「阿房」と言うようになったのだ、という説です。だから、古くは「阿房」と書いたようですが、この説が正しいかどうかははっきりしないらしい。「阿呆」という表記も当て字かもしれませんが、「呆」には「あきれる」という意味があるので、書き方としては納得です。では、「阿」の字の意味は何でしょう。「曲学阿世」という四字熟語では「おもねる」という意味で使われています。マイナスの要素とはいうものの「おろか」とは少しずれそうです。「山や川の曲がって入りくんだ所」とか「奥まって隠れた、暗くなっている所」とかいう意味もちょっとちがうようです。人を指し示す言葉の上につけて親しみを表すこともあって、「阿父」というように使います。魯迅の「阿Q正伝」の「阿」もそうです。つまり、この小説の主人公は「Qちゃん」ということです。「阿呆」の「阿」がもしこれであるなら、「おばかさん」という感じになりますが、これもどうでしょうか。やはり、「阿房宮」の「阿」にひきずられたのかもしれません。
「阿」の字は、古代インドの言語、サンスクリット語の文字である「梵字」のアルファベットの最初の字としても使われます。梵字の「ア」は、たとえば真言宗のお墓や位牌の戒名の上に書かれていることがあるので、目にすることもよくあります。この「ア」の音は口を開くと最初に出てくる音だと言われます。そこで、一切の字や音声は「ア」が根源になり、さらに言えばすべての本質を表すことになるそうです。厳密に言うと、「始まり」とは違うようですが、口を閉じて出す音声「吽」がアルファベットの最後に来ます。だから、「阿」と「吽」はセットになるんですね。