2020年5月 5日 (火)

国語科講師からのリレーメッセージ⑪「朝が来るまで」

リレーメッセージ第11弾は、前回乱入してきた大ベテランの矢原trとは対照的な、とっても若々しい(でも私より少しだけ年上の)髙宮trです。題も詩的でいいですね。魂の詩人である私の胸を打つタイトルです。では、どうぞ。

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みなさん、こんにちは。
国語科の髙宮です。
政府から緊急事態宣言が出されて約一ヶ月が経ちました。社会全体で不要不急の外出をひかえるということが言われ、このゴールデンウィークも皆さん家で過ごしていることかと思います。二、三日くらいであれば家でずっと過ごすのも悪くないと思えるかもしれません。しかし、こんなにも長い間外出をひかえなければいけないことになると、外で遊べなかったり、友達に会えなかったりと不満や退屈だという気持ちがたまっているのではないでしょうか。ただでさえ、不安な情勢である上に、思うように自分のやりたいことができないという今の状況は皆さんにとってはもちろんつらいと感じるでしょうし、大人でもそうです。
突然ですが、今のみなさんの心は自由ですか?それとも不自由ですか?
「そりゃ、身体がロクに外出できないんだから心も不自由だろう!」と思うかもしれませんね。
ここでフランクルというお医者さんが書いた『夜と霧』という本のお話をしましょう。
第二次世界大戦のときのドイツでは、当時の政府がある民族を差別し、強制収容所というところに閉じ込める、ということが起こりました。そこではまともな生活の空間どころか、食料や衣服も満足に与えられないというかこくな状況があったようです。そんな環境で命を落とす人が出てくる中で、収容所に閉じ込められた人たちはこの先どうなるのだろうかという不安に心まで支配されてしまいそうになります。
そんな状況の中で同じく収容所に閉じ込められたフランクルはどう行動したと思いますか?
彼は仲間とともにはげまし合い、はなればなれになってしまった妻と心の中で対話し、医者として患者をささえながら、何とかこの状況を生きのびたそうです。
かこくな状況に命を落とす人もいた中で、フランクルをふくむ一部の人々はいきのびることができた。これは何を意味するのでしょうか。
もちろん運が良かったということもできますが、フランクル自身は「未来の目的に目を向ける」ことが大切だったとふり返っています。彼は「生きていることにもうなんにも期待がもてない」という男たちに、子どもや家族、仕事といった一人ひとりにとってかけがえのないものの存在を思い出させ、彼らに生きる意味を自覚させたのでした。
彼が引用した哲学者ニーチェの言葉も紹介しておきましょう。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
まさに、自分を待っているものの存在に対する責任を自覚した人々は、生きることをあきらめるわけにはいかなかったのです。
強制収容所のかこくな環境は彼らをせまい場所に閉じ込め、ときに命をうばいましたが、自分を待っているものの存在を想い、未来の目的を自覚して、つらい日々をなんとか仲間と支え合って乗りこえようとする、そんな心の自由まではうばえなかったのですね。
私たちの置かれている現状は、強制収容所のような状況とはまた少しちがいますが、フランクルの話は現状を乗りこえるためのヒントをくれるのではないでしょうか。
外出する自由が制限され、不安がつづく日々でも、楽しいことを思いうかべたり、ささやかな幸せを見いだしたりする、という心の自由はうばわれません。先生にとっては「友達と美味しいご飯を食べたいなぁ」「旅行にも行きたいなぁ」「大好きなカラオケにも・・・」と思いうかべ、友達と連絡を取り合ったり、好きな音楽を聴いたり(少しだけお風呂場で歌ったり)することです。
つらい環境でもどのようにふるまうかはまさに自分次第なのです。未来の目的をそれぞれが自覚して、毎日を有意義に過ごし、みんなではげまし合って、この危機をなんとか乗りこえたいものですね。
 

2020年5月 3日 (日)

場外乱闘シリーズ①

先日より国語科講師によるリレーメッセージを発表いたしておりますが、この流れを無視し、過去から突如として時を超えて乱入してきた不埒な講師がおりますのでご紹介いたしましょう! ダンディ・矢原です。ゲッツ!

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「初夏の旅なつかしく ① (2017年11月ぶん 再掲)」

ご無沙汰しております。国語科の矢原です。外出もままならない皆さんに初夏の旅行気分を味わっていただこうかと思います。
実はこの①は今から三年前の記事でして、旅に出かけたのはその三年前のことです。②以下を書かないまま今に至っておりました。大いに反省し謹んで続きをお届けいたします。
日頃その時どきの感慨を数行にしたためたりしております。その書き付けを頼りに数年前を思い出しながら初夏の旅の様子を振り返ってみます。写真もあまり撮りませんので文字ばかりですが、それもまた一興かと。


「Driving in May」
ビューン Go Go Expressway!
夜明けの出発 初夏の快適
サービスエリアで朝のコーヒー
目的地まで あと300キロ!

うまく休めそうだったので珍しく宿まで取って出かけました。折角の機会を有効に使うため、前日は寝たこともない時間に床に就きまして。まだまだ夜明けとは言いがたいころに出発です。
暗いうちにどんどん進みます。なんと今回は、初日の朝ご飯を旅先で食するという大胆な作戦です。もちろん行き先は決まっていますがどこを訪れるかは大まかにしか決めていません。静かなところでゆっくりするなどという思想も全くもって持ち合わせません。当地を味わい尽くすつもりで盛りだくさんにメニューを詰め込みます。
中国自動車道をしばらく走ったところで珈琲タイム。さらにどんどん走って、海に下れば広島県の宮島という辺りでプチ仮眠。だんだん明るくなったところでさらに西へと進みます。


「命運の海峡」
初夏の関門海峡 光と陰よ
八艘飛びに 義経 踊れば
長州藩には 苦難と栄光
巌流島見ゆ 武蔵 見参!

そうです。旅先は山口県。まずは下関の海端にある唐戸(カラト)市場で絶品の朝ご飯。
本物の魚市場ですがもはや観光地です。まずは、市場で働く方々も利用する2階の食堂で定食をいただきます。新鮮なのを揚げたり煮たりしたのや刺身がどっさり。朝ご飯にお刺身は最高ですが焼き物や煮物も抜群です。鮮度がよいものは火を通しても味が違います。
食べ終わってから1階をぐるっと回ると魚介の卸の店舗でお寿司コーナーが始まります。小分けのパックに入ったのを買って、あちこちに置かれたテーブルとベンチでいただきます。美味しい握り寿司は別腹ですね。

満足したところで目の前の海峡を眺めながら腹ごなしのお散歩タイム。大小多くの船が行き交います。この海峡の通行料が長州藩の財政を支えたそうです。そのすぐ向こう届きそうで届かない距離に九州が見えます。海峡には物語が付きものですが、ここ関門海峡は数々の大がかりなドラマの舞台です。
朝の潮風を受けながら東向きに歩くと旧式の大砲が並んでいます。関門海峡の昔の名は壇ノ浦。幕末の長州藩が列強相手に攘夷の戦を敢行した場所であり、長州征伐の幕府軍を返り討ちにした場所です。古戦場である壇ノ浦砲台跡。車輪付きの木組みの上の西洋式大砲をさわると長州藩の難渋と歓喜が伝わってきます。旧式の大砲を捨て、最新鋭の火器と軍艦を手に入れた長州軍は生まれ変わりました。藩を窮地に陥れた大敗、歴史の転換点となった大勝利は共にこの海峡での出来事です。
砲台の脇には八艘飛びの源義経と、イカリをかついだ平知盛の像が向き合うように置かれています。振り返って唐戸市場の向こう側、関門海峡の西の端には巌流島が浮かんでいます。あの宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った島です。若い頃に初めて九州を訪れた際にここを通って知りました。吉川英治の名作は高校生のころに読んだはずなのですが、巌流島の場所を意識していませんでした。

さあ車に乗りこんで出発。数分も走らずに「るるぶ」で見つけた赤間(アカマ)神宮に立ち寄ります。尼に抱かれて壇ノ浦に入水した安徳天皇を祀ったところです。ついでに訪れる場所はこうやって現地に来てから見つけていきます。
海峡に望む立派な神社はお寺のような風情。人も少ない静かな境内を奥へと進むと平家一門を祀る塚がありました。栄華を極めた一門がこの地で滅んだことがよく分かりました。その傍らには耳なし芳一を祀った芳一堂。こんなものが実際にあるとは思いもよりませんでした。

赤間神宮を出て少し進むと何やら施設がありまた車を停めました。いま調べると関門プラザというところでした。表示を見ていると関門トンネル人道というのがありました。なんとエレベーターで地下に降り、徒歩や自転車で九州に渡れるのです。時間の都合でほんの少し地下を歩いてみただけですが、非常に面白い体験でした。これまたいま調べてみると距離は780メートルで、海底の歩道の途中に県境の線があります。歩行者無料、自転車20円。

さてまだまだ午前中がたっぷり残っていたかと思います。次の目的地に向け出発します。
たかだか一泊旅行の話ですのですぐに終わるかと思って書き始めましたが、思い出すことや懐かしくて調べ直したことを書き始めると結構な量になりました。今日の所はこの辺で。
この調子であちこち見歩くのですが、盛りだくさんとはいえ駆け足で見て回るようなことはしません。食べたり飲んだりのぞき込んだり笑ったり感心したり、旅は楽しんでナンボです。

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②~④は近日公開!

2020年4月28日 (火)

国語科講師からのリレーメッセージ⑨「字がていねいだと得か」

第九弾は栗原trで~す。

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 栗原です。茨本先生からの「あたりまえ」というバトンを握って、ひさしぶりに記事を書いてみました。
「あたりまえ」の反対は「ありがたい」なんていうのはもう「ありきたり」なので、今回は、こういう「あたりまえ」を検証してみます。「あたりまえ」だとだれも理由を説明してくれないし、深く考えようとせずに「あたりまえ」だから従わなければいけない、という風潮もありますから。

字がていねいだと得か

 自慢ではありませんが、と書くと嫌みが増すので、いっそのこと正直に自慢しておきますが、私は字がきれいだとよく言われます。自慢です。いや、自慢しなくてもかなりの方がほめてくださるので、わざわざ自慢する必要もありません。自慢しなくてもほめられる! これはある意味「究極の自慢」と言えるのではないでしょうか。
 そもそも自慢というのは自分から自分の良さをアピールする「広告宣伝」ですから、「広告費用」が要ります。この場合の「費用」というのはお金のことではなく、友人との会話の中で自慢するチャンスをさがしてしゃべったり、SNSなどに人がうらやむような幸せな写真をアップしたりする「手間」「労力」だと思ってください。
 人間、他人の自慢はなかなか受け入れられません。素直に受け止めて「おめでとう!」「うらやましい!」とはなかなか言えないし思えないものです。ですから、自慢は往々にして、失敗します。効果ゼロどころか、逆効果ということもしばしばあります。
 しかし、美しく字を書けば、何も言わなくても「広告宣伝」が自然なかたちでできます。字が美しく書けるというのは、それだけで「この人はちゃんとしているな」と思わせる説得力があります。少なくとも、だれからも、だらしない人とは思われないでしょう。

 字がきれいだと得か。その問いには、上の理由で「得です」と答えておきます。国語の先生を長年やっている私の実感です。これはほかの職業の人なら、より「得」を感じることになるはずです。
 国語の先生だから字がきれいで当然だという考えもあります。ということは、「意外性」はないわけです。これが、算数の先生だったらどうでしょう。もっと職業をちがうものにして、字を書くこととあまり縁のない職業だったらどうでしょう。字を書く機会が少ないわけですから、「宣伝」する回数が少ないわけですが、一回の宣伝効果を考えると、意外性が高く、効果は抜群でしょう。
 別に得なんかしたくない、それより字の練習をする労力がもったいない、という人もいるでしょう。また、字なんて読めればいい、という考えも、根強くあると思います。そういう人への反論・説得として次のようなことを挙げておきます。
 味が同じならば、より美しく見える料理や盛りつけのほうが値打ちが高くなります。付加価値です。車だって、乗れればいい、速く走ればかっこわるくてもいいと思う人は少ないでしょう。服ならどうですか? 暖かければ、体をかくすことができれば、それでいい、と思う人はさらに少ないでしょう。
 サン=テグジュペリ「星の王子さま」の第4章に出てくるトルコの天文学者の話を紹介しましょう。王子さまの星である小惑星B612を発見したこの天文学者は、学会でB612の発見について発表しました。しかし、そのときトルコ風の民族衣装を着ていたために、ほかの学者たちから信用されなかった。その後、もう一度ヨーロッパ風の、立派な背広を着て発表をしたら、ようやく認められたという話。この話よく考えたらトルコに失礼ですよね。「世界三大料理」と言えば中国料理・フランス料理・トルコ料理というくらいで、世界屈指の古さを誇るトルコ文化なのに! 
 話が横道にそれました。「おとなは、本質的ではない、見かけなどをたいせつにして、ほんとうにだいじな、目にみえないことには興味がない」というこの本で書かれていることとは逆なのですが、私はこの部分を読んで「見た目はやはり大切だ」と思ってしまいました。立派な印刷で書かれた文章は、やはり訴求力があります。
 もちろん、手書きのチラシなどにも味はあります。でもそれは、世の中が美しく整然と印刷された文書ばかりになっているからこそ、下手な字、素朴な字が目立つのでしょう。いわゆる「逆張り」というやり方です。でも、素朴な字をわざと売りにするのはおかしい。そういうやり方をする人は「みんな今外出をひかえているから、逆にどこも空いているはずだ!ヤッホーどこに行こうか」なんて考える人、みんなと逆のことが好きな人、子どもの時からあまのじゃくが治らない幼稚な人、のように私には思えるのです。

 ここまで書くと、「字がきれいなほうがいいのはわかってる。じゃなくて、どうすればきれいな字になるの?」という質問の声が聞こえてきそうです。
 「算数が得意になるにはどうすればいいですか」「長生きするにはどうすればいいのですか」「痩せるには……」「お金持ちになるには……」という質問に答えるのが難しいように、「どうすれば字をきれいに書けるようになるか」という質問に答えるのはとても難しいのですが、三つほど挙げておきます。
①まずひらがなを徹底的に練習する。
 日本語では、読みやすい比率は、漢字3割ひらがな7割と言われています。実はひらがなのほうが多く出現します。ですから、まず先にひらがなを練習するのがいいわけです。これも、まんべんなく練習するのではなく、いくつかの字にしぼって、徹底的にその字だけをまず完璧に上手な字にするのがよいでしょう。日本語の文章でよく出現するひらがなは「い・か・ん・し」だそうです。「う」も多そうです。「い」については、左右の画をななめにする、右側を短くする、間を広めにとる、という三点を手に覚えさせればいいですし、「か」は、一画めと二画めを左に寄せてスリムに書き、三画めは間をあけて少し長めに書く、という注意を覚えればよいでしょう。「い・か・ん・し・う」のほかには、「で・す・れ・ろ」なども目立つ字なので、お手本を見つつ、練習にはげむことです。
②漢字は、右上のカドをきっちり角ばらせる。
 これだけでもかなりきれいに見えます。試しに、口という漢字の右上のかどを丸めて書いてみてください。どんなにていねいに書いてもなんだかしまらない感じになります。門・田・日など、漢字の右上の部分はつなげて曲げることが多いですが、そのときにくるりっと丸めてしまう癖のある人は、「速く書こう」という気持ちがつよすぎて、カドの部分で一旦停止せずにコーナーをショートカットしてしまうわけです。一旦停止してきっちりカドを決めるだけで、きれいに見えるものです。
③「打ち込み」や「しなり」「隙間あけ」などをしない。
 これらのテクニックは、よく「これであなたも美文字に!」なんていう安っぽい本に書かれているアドバイスです。「打ち込み」というのは、書き始めの部分をクニっと45度くらいに曲げて書くことで、毛筆などでは自然なのですが、鉛筆やペンなどの文字でやたらに打ち込みをしている文字をみると、下手な字を精一杯きれいに見せようという感じがして余計に下手に見えます。厚化粧の感があります。「しなり」も同じで、横画の真ん中の部分を上に反らせる書き方ですね。これもやりすぎると逆におしゃれではなくなります。素直にまっすぐ直線を書いたほうがいいです。歌の下手なひとのやりすぎビブラートみたいなものです。「隙間あけ」は、本来つなげる部分をあえて少し空けるという高等テクニックです。字のうまい人が、少し基本と反対のことをやるからいいのであって、これは字が上手になってから、遊びの要素としてやるべきです。初心者がやると「鵜のまねをするからす」「ひそみにならう」となってしまいます。
 以上の3点を読んでいくと、「おしゃれ」に通じるものがあるとわかってもらえると思います。「おしゃれ」の極意は、見かけだけきれいにしようとするのではなく、相手をここちよくさせようという「おもてなし」の心だという話があります。相手が「読みやすい」というあたりまえの基本が大切ということです。私は服装のほうのおしゃれにはまったくもって自信がないのですが、すくなくとも「清潔感」だけは大事にしようと思っています。あえて人のやらないキテレツな服装を好む人もいますし、それはそれでいいのですが、字は声のことば以上に「あとに残る」ものなので、ていねいに、伝わるように心をこめて書くのがやはり「あたりまえ」のマナーだと思います。人としゃべるときの「声」も同じです。女性が電話に出るときに「一オクターブ高い透き通った声で」話し始めるのを耳にします。そういう、「よそゆきの声」みたいなもので、テストの答案や宿題プリントの字は「よそゆきの文字」「おしゃれな文字」で書いてみてほしいものです!

 【この文章で出てきた、辞書で調べてほしいことば】
・検証 ・風潮 ・アピール ・往々にして ・説得力  ・根強く ・付加価値 ・屈指  ・横道
・訴求力  ・整然  ・素朴  ・まんべんなく  ・コーナー  ・ショートカット ・ビブラート
・鵜のまねをするからす ・ひそみにならう  ・キテレツ ・オクターブ

2020年4月26日 (日)

国語科講師からのリレーメッセージ⑧「あたりまえのものの中に小さな発見を」

さて、第8弾です。第8弾は茨本先生です。

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 こんにちは!国語科の茨本です。平野先生が前回の記事にて、物質的な重さではない「重い」についてお話しになりましたね。私も「重い○○」を例に挙げてお話をしてみようと思います。
 私は小さな頃から、根っからの野球小僧でした。するのも見るのも大好きで、親からは野球のことを考えすぎて、だいじょうぶなのかと心配されるほどでした‥‥。今はプレーはしませんが野球観戦という形で大好きな野球を楽しんでいます。しかし、好きすぎるが故に「君って変わったところばかり見てるよね。」と言われることも多かったのも事実です。(詳しい話はまたいつかの機会にしましょう)
 この記事をご覧になっている皆さんの中には野球が大好きな人から全く興味がないよという人もいるでしょう。しかし、興味の有無にかかわらずほぼ全員ピッチャーというワードは聞いたことがあるのではないでしょうか。大谷選手や佐々木選手のように160キロオーバーの剛速球を投げるピッチャーも出てきて‥‥、(私の中では)とてもホットな話題ではあります。
 「剛速球=飛ばなさそう」と思っている人は多いでしょう。これは当たらずといえども遠からずです。とても速い球を投げるのに、打たれたら軽々遠くに飛ばされてしまうピッチャーはたくさんいます。一方で遅い球でもなかなか遠くに飛ばない球を投げるピッチャーも数多くいます。それを私自身が体験した実話を少しお話ししましょう。

 ある日私はいつもの練習の一環としてキャッチボールをしていました。相手はうちのチームのピッチャーでした。その子はそれほど球は速くないのですが、その子の投げた球をキャッチした瞬間思いがけず、ズシンとくる感覚があり、とてもおどろきました。そういえば、その子が投げる試合では打球はめったに遠くに飛ばない、もしかしたらこのキャッチしたときの重みと打球が飛ばないことは何か関係しているのではないか。そう疑問に思った私はコーチに疑問をぶつけてみました。そのとき「重い球」を投げる人がいることを教えてもらえました。
 何気ない気付きから、新たな発見をした瞬間でした。モヤモヤがすっきり晴れたような気がしてとても気持ちよかった、そして同時にとても嬉しかった記憶があります。
 

 これまでひたすら野球について語ってきたわけですが、「あっ、これ大切なことだったな」と思ったポイントは、「見方が変われば新しい気付きがあり、さらに深いものの見え方が得られる」ということです。それまで知らなかった「重い球」というものがあると知った途端、「今のは芯に当たったのに飛ばなかった、もしかしたらこのピッチャーの投げる球は‥」という風に思って見られるようになりました。
 
 みなさんの中にも、野球に限らず私の経験と似たような経験をしたことのある人はいるのではないでしょうか?もし経験のある人ならば「分かる!」と思うかもしれませんね。霧が晴れていくかのようにサッといろいろなものが見えるようになり、気持ちも明るくなる。とても気持ちの良いものです。ぜひともみなさんにも味わってほしい感覚です。

 では、どのようにしたら今まで見えなかったものが見えてくるのでしょうか。分からないですよね、特にそんな経験をしたことのない人ならなおさらです。いいのです、気にしないでください。これからですから、皆さんの場合は。そこで一つ、私の一意見としての方法をお話しします。とても単純です。
 それは、あたりまえのものをあたりまえと思わないことです。あたりまえだと思ったら細かいところまで注意は行き届かなくなります。そうするとせっかくのおもしろポイントを見逃してしまいます。もったいないですよね。世の中は私たちの知らないことであふれかえっているのに。「おっ!そうだったのか!初めて知ったぞ!」と気付くことが増えれば、楽しい上に人生も彩り豊かになっていくと思いませんか?勉強だけではないのです、私は、あなたたちに素敵な人生を歩んでほしいのです。そのためには、いつも見ている窓からの景色や気にも留めないような道ばたの花など、まずは身近なところから目を向けていきましょう。だまされたと思ってやってみてください、意外な発見があるものですよ。そこからどんどんつながって大発見をすることも夢ではないかも‥‥?

 日常のあたりまえなものは、あなたたちにたくさんの成長のヒントを与えてくれます。いつか思い出したときでかまいません、新しい発見をしてみましょうね。
  

2020年4月23日 (木)

国語科講師からのリレーメッセージ⑦「重い音」

さて、第7弾は意外性の男、平野trです。ヘヴィメタ(小学生のみなさんにはよくわからないと思いますが)が好きだったなんて意外ですねー。ゴスロック(小学生のみなさんにはますますわからないと思いますが)が好きだった私とは趣味が合うようで合わなそうです。

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 こんにちは、国語科の平野です。国語科の先生って、音楽が好きなんでしょうか。なかなか音楽からはなれることができません。

 西川先生が書かれていましたが、音楽の好き嫌いってなかなか人と合わないですよね。私は小学校1、2年生の頃は兄の影響で 洋楽をよく聴いていました。「シンディー・ローパー」とか、「ワム!」とか、「スティービー・ワンダー」とか。年がばれそうですが。
 高学年になると、これまた兄の影響でクラシックにはまっていきました。中でも聴きまくっていたのがベートーヴェンのピアノソナタですね。「悲愴」「月光」「熱情」が大好きでした。「月光」は第1楽章が有名ですが、第3楽章が最初から最後までかっこいいので今でもよく聴いています。
 で、中学に入ると、またまた兄の影響でヘヴィメタルを聴くようになりました。こんな感じですから、同級生と音楽の話になっても、「お前好きなバンドいる?」「えーと最近はアイアンメイデンにはまってるな」「誰やねん!」で終わってしまうという日々を過ごしていました。そして、この頃から周りの話についていきたくて、Jポップも積極的に聴くようになっていくのでした。

 さて、この「ヘヴィメタル」という音楽ジャンルの名称に注目してみましょう。ここから国語っぽい話になりますよ。「ヘヴィ」とは「重い」、「メタル」とは「金属」という意味です。西欧のヘヴィメタルバンドのインタビューなんかを読むと「今回のアルバムはすごく〝ヘヴィ〟だ」なんて言う人がよくいるのですが、これは何が〝重い〟のかというと、「曲」とか「演奏」とかの「音」に対して「重い」と言っているのですね。

 「音」が「重い」? どういうことでしょうか? 音には「重さ」なんかないですよね。「重い」という形容詞を、実際に「○グラム」とかで計れるもの以外のものに使っているのですが、これは別におかしなことではありません。元々持っていた形容詞の意味が「拡張」されて、新たな意味を持つようになったということです。ついこの前小6のトレーニングの授業でもこの「拡張された形容詞(形容動詞)」の話をしました。例えば「静かな光」「明るい声」「苦い思い出」などですね。「光」は耳で聞くものではないですし、「声」は目で見るものではないですし、もちろん「思い出」は口で味わうものではありません。これは日本語だけではなくて、英語のような他の言語でも同じような表現がされているのですね。

 では、みなさん、「重い音」とはどんな音でしょうか。イメージできますか。これは実際にそれを聴かないとイメージがしにくいのではないでしょうか。それは「静かな光」でも「明るい声」でも、少なからずそうではありませんか。

 ことばの微妙なニュアンスを自分のものにするためには、そのことばがどんなときに使われたのか、どんな感じのものに対して使われているのか、という「経験」が大事なんじゃないかなあって思います。実際に自分が経験することでそのことばが持つさまざまな意味が少しずつ自分のものになっていくのではないかなあと思うのです。(そういえばこんなようなことが書いてある文章がテキストにもあったなあ)

 今はなかなか外に出るのも難しい状況ですが、何気ない家の中での会話にも、こういうことばが潜んでいるかもしれませんよ。日々の経験・会話も大切にしていきましょう!

2020年4月22日 (水)

国語科講師からのリレーメッセージ⑥「No music,No life」

第6弾は、いつものにし・かわです。すみません。

〝No music,No life〟

ええ言葉ですね。タワレコの宣伝するつもりはありませんが。

なに、小学生なので英語がわからん? 気にするな、大人の先生でもわからないんだから。

え、タワレコもわからん? ウム、それもわからんでよろしい。

とにかく音楽はええよな。音楽なしじゃやってられんぐらいええよな。ってことです。

音楽にくわしい花崎trは、ああ見えてサックスを吹いてたらしいですよ。かっこいいなあ、サックス。夕方に鉄橋の下の河川敷で吹きたい楽器№1ですよね。クラリネットじゃ今一つサマにならないよね。まして夕方に鉄橋の下の河川敷でピアノひいてたらおかしいもんね。ひとりでトライアングルちんちん鳴らしてるとかね。

さて、こういうことがあります。

たとえば友人と好きな小説の話をする。・・・・・・ふんふんなるほど、きみはカート・ヴォネガットJr.が好きなのね、前に読みかけたことはあるんだがピンとこなかったなあ、しかし、きみがそう云うなら今度もう一度読んでみようかな。

ところが、友人と好きな音楽の話をする。・・・・・・はあ? 〇〇ー〇ー〇? そんなの好きなんだ、けっ。

音楽の話って、そんなふうになりやすいよね、というような話を、カート・ヴォネガットJr.の『スラップスティック』が大好きだと当時云っていた友人と話したことがあります。彼とはかなり趣味が合って、マンガの話、小説の話、音楽の話、いろいろしましたが、いちばん難しい(友好的に話すのが難しい)のが音楽の話でした。

さてさて、最近、こういうことをよく考えます。ちょっと難しい、微妙なことを云う(書く)のでよく聴いて(読んで)くださいね。

あなたがAさんと話をしています。Aさんの云うことに対してあなたは、「それはちがう」と思う。

何で、そう思うんでしょう? 「それはちがう」と思うことに何か根拠はあるんでしょうか?

そもそも、Aさんが「かくかくしかじかだ」と云った、その内容、それにも何か根拠はあるんでしょうか?

うーむ、どう書けばいいのかわからないな。難しいぞ。

僕が云いたいのはこういうことです。意見が対立する。それぞれが自分の意見は正しいと思う。しかし、ほとんどの場合、どちらの意見にも根拠はないんじゃないかしら。そういうことです。

ちょっと余談です。

みなさんが思っているほど物事や意見には〝根拠〟はありません。「なぜそう言えるの? それにはどんな根拠が?」という問いは、多くの場合、どこまでもさかのぼれるでしょう? だから、〝究極の根拠〟って、まず、ないわけです。でも、そんなこと云いだしたら話が進まないから、〝究極の根拠〟じゃなくて〝ある程度の証拠〟でいいか、って感じでみんなやってます。ところが困ったことに、〝ある程度の証拠〟が証拠になってないことが多いんです。

さらにちょっと話それますが聞いて(読んで)ください。何年か前に、新聞にこんな記事が載ってました。睡眠時間と寿命の関係についてアメリカで大規模な調査をしたっていうんです。そうしたら、だいたい毎日9時間眠っている人よりも、7時間しか眠っていない人の方が長生きだった、と。

みなさん、どう思います? なるほど! 9時間も眠ったら長生きできないんやな、よし、毎日7時間にするぞ。って考えるのはどうかなと僕は思いますけどね。だって、そもそも毎日9時間眠っている人(A)と毎日7時間しか眠っていない人(B)の健康状態ってどうだったんですかね? Aの人は、そもそも虚弱だったから9時間ねないとだめだったんじゃないの? と考えることはできませんか? だとしたら、長生きの理由は「睡眠時間」ではなく、そもそもの健康状態ってことになります。

ことほどさように、「根拠」や「証拠」は難しい。

閑話休題(←辞書引きなさい)。

さあ、ここからが大事なんですが、人は根拠がないときほど、自分の意見に確信を持ってしまう。なぜかというと、根拠もなく「こうだ」と思っているとき、それは〝思いこみ〟だからです。もう、証拠も理屈も必要ない、そうでしかありえないと心からわしはそう感じるのじゃ、何でAのやつにはわからないんだろう、こんなの当たり前じゃん。

多くの場合、人の「意見」なんてそんなものじゃないかしら、と僕は思っているのです。だから、あまり「自分の意見」に固執しない方がいいんじゃないかしら。いや、自分の意見を持つなってことじゃないです。じゃなくて、自分の意見はまちがっているかもしれない、いやきっとまちがっているにちがいない、ぐらいに思っておいた方がいいんじゃないかなっとことです。何の根拠も必要としないほど、自明な、確信の持てる考えほど、砂上の楼閣(←辞書な)なんだと思った方がいい気がします。・・・・・・っていう自分の意見にも、僕は自信を持たないように気をつけましょう。

毎日似たようなニュースばかりやっていますが、テレビでいろいろな「識者」がいろいろな「意見」を云います。ちょいちょい見ていますが、何でみんなあんなに怒ったように云うのかなと思います。「なんでこんな当たり前のことがみんなわからないんだ」ふうに怒った云い方してる人が多いですね(だいたい男)。でも、自分が「めっちゃ当たり前」だと感じていることとちがうことを云う人がいたときには、まず相手の考えを聞くべきです。「あほかこいつ」と思う前に(いや思ってもいいんだけど)、「何でこんなこと云うのかな」「わたし(ぼく)が気付いていないことにもしかしたら気付いているのかも」「ぼく(わたし)の考えのおよばないところまで考えてるのかも」と思うべきです。

国語という教科を学ぶことの最大の意義はそこです。(←もちろん私見です。そう考える理由はありますけど。)

「文章を読む」というのは、〝相手の言い分を理解しようとする〟ことです。自分の意見はいったん棚上げして、まずは相手の言い分をできるだけ正確に理解することです。はっきり云って、世の中には、「反論したい人」が多すぎます。

反論する前にまず理解しようぜ。

これが僕のスタンスで、文章を読むことの根幹だと思っています。

たとえば、議論に強くなりたい人。もし議論に勝ちたいなら自分の意見を声高に云うのは手筋としてはだいぶ悪い。相手の云うことにじっと耳を傾け、矛盾を突くことです。議論に勝つ最も有効な方法はこれです(それが生産的かどうかは棚上げしてます)。

・・・・・・

しまった! 音楽の話をしようと思っていたのに! なんかとちゅうで熱くなって、題とまったく関係のない話になってしまった! いつものことだが!

そうなんです、僕はのほほんと音楽の話がしたかったのです。できることなら、永遠に宇宙一かっこいい〝Siberian Newspaper〟について熱く語りたかったんです~。そのために〝No music,No life〟という言葉から始めたのに~。

またいつか熱く熱く語らせてください! 香川が生んだ、弘法大師と並び称される〝Siberian Newspaper〟について! みんな! 勉強しろよ! ズームで会おう!

2020年4月20日 (月)

聖と俗の境

年ごとに差があると言いましたが、昔に比べて確実に言えるのは、漢字力が落ちていることですね。昔の受験生は知らないことばなので書けない、ということはあっても、字そのものの形をまちがえることは少なかった。文を組み立てて文章にしていく力も、昔に比べて劣っているような気がします。一文の中でさえも、「僕が君が優秀であることを知っている」のような書き方を平気でやります。せめて読点を打つか、「は」と「が」を使い分けるか、「ぼく」をあとのほうの述語の直前にもってくるかすればよいのですが、そういった工夫ができないのですね。こういう工夫は、どれだけ文章に接してきたか、という「経験」の量が大きな要素になります。

「起承転結」のパターンにあてはめて文章を構成するのは訓練です。昔はそういう訓練をさせたのですね。典型的なのは漢詩です。頼山陽、安政の大獄で死んだ三樹三郎の父ですが、「大阪本町糸屋の娘 姉は十六妹は十四 諸国大名は弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」という漢詩(?)を作って、起承転結を教えたとか。漢文も最近は学校で教えることも少なくなってきたのでしょうか。昔は甲陽学院高校の入試で毎年出ていたので、中三の授業でその対策をしていました。オリジナルのテキストに「史記」などの文章を入れて読ませていました。「史記」は実はかなり読みやすいのですね。「沛公旦日百余騎を従え来りて項王に見(まみ)へんとし、鴻門に至る。…」という「鴻門の会」の冒頭はいまだに覚えています。頼山陽の『日本外史』も読みやすく、おもしろかった。内容も有名なものが多いので教材にはぴったりでした。信玄と謙信の塩を送る話とか。「聞く、氏康・氏真、君をくるしむるに塩を以てすと。不勇不義なり。我公と争へども、争う所は弓箭に在りて、米塩に在らず。」という謙信のセリフがかっこいい。

昔の人は漢文に接する機会も多く、漢詩を作れる人も結構いたのですが、今の政治家はどうでしょう。田中角栄は中国との国交回復のときにトホホな漢詩を作りましたが、作ってみようとしただけ立派なものです。今の政治家で作れる人はいないでしょう。漢字そのものが読めない首相に漢詩が作れると思えませんし…。俳句ぐらいなら作れる人がいるかもしれませんが、辞世の句なんて作ることはないのでしょうね。だいたい辞世は難しい。三島由紀夫でさえ辞世の歌はイマイチだと言う人が多いようです。在原業平の「ついに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」もとりたててすごいというものではありません。秀吉の「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」は悪くないですね。信長が「人間五十年…」と舞い終わって切腹するシーンがよくありますが、これは辞世ではありませんね。高杉晋作の「おもしろきこともなき世をおもしろく」はなかなかよいのですが、野村望東尼という人が続けて「住みなすものは心なりけり」と詠んだとか。高杉は笑って死んでいったと言いますが、尼さんが付けたせいか、ちょっと理屈っぽく説教くさいものになってしまった、というようなことをやはり司馬遼太郎が書いていました。たしかに下の句がなくて、「おもしろくないこの世をオレはおもしろく生きたぜ」とも解釈できるほうが高杉らしい気もします。

世の中には弔詞がうまい人もいます。平賀源内は弟子を斬り殺して捕らえられ、牢獄で死ぬのですが、杉田玄白の碑銘がなかなかしびれます。「ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや」。たしかにその通り。折口信夫も名手だと言われたそうです。こんなものほめられても、と思いますが…。貴人が死んだときに歌をつくるのは万葉集以来の伝統です。歌人でもある折口がうまいのは当然かもしれません。

折口や柳田国男の民俗学は一時期ブームみたいなこともありましたが、最近はあまり聞きません。民俗学というのは、都市伝説なんかも対象になって、おもしろいものなのですがね。「トイレの花子さん」は、宮田登さんがとりあげていたのを読んだ記憶があります。パワースポットというのも流行しましたが、若い人ほどそういうものにひかれる気持ちがあるのでしょうか。「どこそこの神社がパワースポットだ」と言って、人が殺到するのですが、「神社がパワースポット」というのは、ある意味当たり前であって、パワースポットだからその場所に神社をつくったのでしょう。

貴船なんて、いかにも何かありそうです。もともとは「気生嶺」と書き、大地のエネルギーである「気」が生じる山という意味だったとか。ここは磐長姫命もまつられています。天孫ニニギノミコトに大山祇神が二人の娘をとつがせようとするのですが、姉の磐長姫は醜いので送り返され、妹の木之花咲耶姫だけと結婚します。磐長姫命は、この貴船にこもって、他人の良縁成就にはげむことになったとか。ところが、磐長姫命は「岩のような長命」「永遠」を司る神様だったのに、それを拒んだために、ニニギノミコトはその恩恵を受けることができず、子孫である人間の寿命は花のように短くなってしまった、ということです。どちらか一つを選べと言われて、石を選ばなかったために、長命または不死になれなかった、というような神話は世界各地にあるようです。貴船神社は結婚の神様ということで、水占いでも有名ですが、なんと丑の刻参りでも名高い。丑の刻、憎い相手に見立てた藁人形をご神木に釘で打ち込むというやつですね。神様の御利益がプラスに働くか、呪いのようなマイナスに働くか、というちがいだけで、もとになるのは神の持つパワーということですね。

ブラタモリでやっていましたが、清水寺もタモリの好きな「へり」というか境界にあります。むかしは、人が暮らす都という「俗」の外側に「聖」なる神仏の世界があると考えたようです。ということは、両者の境である「坂」は、神と人、あの世とこの世が交わる地であり、清水寺はそういう場所にあります。今でも清水寺の裏側には大きな墓地があります。参道は、亡くなった人を送る道だったのですね。清水寺の名前の元になったのが「音羽の滝」で、坂上田村麻呂が、その近くに鹿狩りにやってきたとき、そこで修行していた坊さんに殺生を戒められ、田村麻呂が建てたお堂が清水寺になったそうな。近くにある「坂の上」という旅館に泊まったことがありますが、旅館のある場所を示すだけでなく、田村麻呂にちなんだ命名でもあったそうです。司馬遼太郎とは関係なし。

2020年4月18日 (土)

国語科講師からのリレーメッセージ⑤「音楽は世界だ」

さあ、第5弾は、「今年中に〇せます」「来年の合格祝賀会までにはや〇てみせます」「やせ〇と言ったら〇せるんだ!」と言い続けてはや5年、まったくその兆候のない「や〇る〇せる詐欺」の花崎先生です。

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外に出る機会が減ってしまっている昨今、みなさんどうお過ごしでしょうか。

数ある唱歌の中でもぼくが一番好きなのはまさに竹見先生と角谷先生が紹介していた「朧月夜」なんですが、小学生のみなさんの中には歌を聴いただけでは情景が浮かんでこない、ピンと来ない、という人も多いんじゃないでしょうか。ぼく自身、小学生だった当時はこういった唱歌の魅力や味わいは、わかりませんでした。「朧月夜」で歌われているような情景は都会には全く残っていませんし、無理もありませんよね。でも、曲を聴いているとなんとなく「懐かしさ」や「静かな夜の空気」のようなものを感じませんか?また、もっと小さいころに歌詞の意味もわからずに歌っていた「お気に入りのうた」などはありませんか?

「酒と音楽を持たない民族はいない」と言われるほど、大昔から人間はどの時代どの地域でも、音楽に親しんでいます。「ことば」がまだ無い時代から音楽がコミュニケーションのひとつの手段だったのだろうと思うのですが、なにぶん形の残りにくい文化なので、原初の音楽というものは資料がほとんど残っていません。ただ、不思議なことに音楽から「感じるもの」は、どうやら全人類に共通するところがあるようです。

例えば、映画「ジョーズ」のテーマ曲を聴くと誰でも「迫り来る恐怖」を感じますし、「ゴジラ」の登場シーンで流れる曲を聴くと、日本人でなくとも「不気味さ」を感じるそうです。放課後に「遠き山に日は落ちて(家路)」が流れると、なぜか「早くお家に帰りたい!」という気持ちになりますし、「蛍の光」を聴くと「別れの寂しさ」のようなものを感じます。

でも実は「遠き山に~」はロシアの作曲家ドヴォルザークが新世界(アメリカ)に渡った後に作曲した「新世界より」に堀内敬三が歌詞をつけたものですし、「蛍の光」はもともとスコットランド(イギリス)の民謡で、「晋書」と「書学記」という中国の古典から生まれた「蛍雪の功」という故事成語を元に国学者稲垣千穎が歌詞をつけたものです。

なぜ、こういった外国ルーツの音楽が日本人のぼくたちを感動させるんでしょうか。

 その秘密の一端は、メロディーを作る「音階」にもあるようです。「音階」というのはドレミファソラシド♪と、階段のように順に登っていく音の並びですね。

実は「朧月夜」も「蛍の光」も、日本で昔から親しまれている「ヨナ抜き音階」でできているんです。「ヨナ」は「4と7」、ドから数えて4番目と7番目に当たるファとシの音を抜いた5音でできている音階で、地域ごとに少しずつ形が違うものの、世界中でこの「五音音階(西洋音楽ではペンタトニックスケールと呼ばれます)」が、古くからメロディーの基本として存在しているんです。日本で今も親しまれている唱歌も演歌も、多くがそうです。よくわからん、という人はピアニカでも何でもいいので「ミレドラソラドレミレ・ド♪」と弾いてみましょう。お家の人が歌詞をつけて歌ってくれるはず。 

他に例えば、「ヨナ」ではなく「ニロ(2と6)」つまり「レとラ」を抜くと沖縄の音階になります。THE BOOMの「島唄」や、仙台育英高校が甲子園で応援歌として使ったことで話題になった「ダイナミック琉球」なんかもベースはこれですね。近年ヒットしたポップスでは「逃げ恥」のテーマソングだった星野源の「恋」やAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」、は「ヨナ抜き」です。DA PUMPの「USA」は、…これは違いますね。このあたり、個人的にはあまりよくない思い出が…いや、いかんいかん、なんでもない。正明先生ありがとうございます。

今年の合格祝賀会での披露が幻となってしまった、米津玄師の「パプリカ」もヨナ抜きですね。ところどころわざと外れた音を「つかみ」に使っているあたり、この人は天才なのかも。

洋楽だと、クリーム(バンド名です)時代のエリック・クラプトンはペンタトニックスケールに「ソ♭」を足したブルーススケールだけで、かっこいいソロをたくさん弾いています。

ジャズやR&B、そこから派生したロックも含めてルーツとなったのは黒人音楽なんですが、アメリカの南部に奴隷として連れてこられた黒人に白人がペンタトニックスケールを教えたら、黒人たちは独特の節回しで哀愁漂う歌をうたうようになった…というのがブルースの始まりだそうです。このあたりのエピソードは典拠がよくわからないので本当かどうか。最近は八代亜紀がよくジャズを歌っています。演歌の小節(こぶし)にはジャズヴォーカルにも通じるところがあるんだろうなぁ、と感じました。ちょっとサラ・ヴォーンみたい…と言ったらジャズファンが怒りそうですが。美空ひばりもジャズのスタンダードを歌っていたそうですね。

最近ではファレル・ウィリアムスの「HAPPY」もペンタトニックです。ホンダのフリードのCMで流れる曲です。

 

これだけいろいろなところで共通点をもつ音楽が作られ、時代も国も超えて人の心に訴えかけるって、やはり不思議な力ですね。「言語」というものが何かしらの「意味」を伝えるツールであるとすれば、音楽は唯一の「人類共通言語」と言えるのかもしれませんね。

そろそろ話が長くなりすぎたので、最後にクイズ。

『ちゃらり~~♪ 鼻から牛乳~♪』

 ↑これの作曲者は、次のうち誰でしょう?

  1. バッハ
  2. ブラームス
  3. ベートーベン
  4. 嘉門達夫

学校や塾で学ぶことはいろいろな形で皆さんの人生を豊かにしてくれると思いますが、「受験のため」「進学のため」には必要とされないスポーツや芸術も、「人生を豊かにする」という点では貴重なものです。

今回紹介した音楽に興味がわいた人はぜひ、聴いてみてくださいね。

2020年4月17日 (金)

国語科講師からのリレーメッセージ④「おぼろ月夜」

第4弾は角谷trです。

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 竹見先生のコラムに「ふるさと」があったので、すこし思いついたことを書いてみようと思います。みなさんは次の歌を知っていますか。

「おぼろ月夜」
菜の花畠に 入り日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて におい淡し

 「ふるさと」と同じ高野辰之作詞の童謡です。小学校の音楽の教科書にも載っているものが多いので、いずれ習うかも知れませんね。

歌詞の意味は
目の前に菜の花畑が広がり、その向こうに夕陽が沈んでいく。
山々の稜線のほうを見れば霞が濃くかかっている。
そよそよと春風が吹いていて、空を見上げれば、
夕方の月がかかって 淡く光っている。
といったところでしょうか。春の風景を見事に描写していると思います。

 さて問題です。この歌の中に春の季語はいくつあるでしょうか。
 正解は三つ。「菜の花」「霞」「春風」です。音楽の時間に学ぶものにも国語の勉強に役立つものがあるんですね。みなさんにも今学んでいることを他のことにも関連づけていってほしいと思います。

(おまけ)
「おぼろ月夜」の二番の歌詞です。春の季語はいくつあるかな。調べてみましょう。

里わの火影も 森の色も
田中の小路を たどる人も
蛙のなくねも かねの音も
さながら霞める おぼろ月夜

2020年4月15日 (水)

国語科講師からのリレーメッセージ③「月うさぎ」

第3弾は竹見trです。ムーン・ヒーリング・エスカレーション!

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 こんにちは。国語科の竹見です。前回の木村先生からのメッセージの中で「白兎」が出てきていましたので、私からは「うさぎ」について少しお話ししたいと思います。
 みなさんは「ふるさと」という童謡を知っていますか? 「うさぎお~いしかのやま~♪」というあの歌です。この「うさぎおいしかのやま」という歌詞の「おいし」の部分をみなさんはどのようにイメージしますか? 「追いし」をイメージしますか? 「負いし」をイメージしますか? まさか……「美味し」や「老いし」をイメージする人はいませんよね?
 「うさぎ」を「追いかけた山」なのか「(背)負った山」なのか、を考えるとわかります。自然なのは「追いかけた」ですね。ちなみに、昔は、山を荒らす害獣とされていた野うさぎを追いかけて捕まえるという「うさぎ追い」が農村で行われていたそうです。
 では、「赤とんぼ」という童謡の「おわれ~てみたの~は~いつの~ひか~♪」の「おわれて」の部分は「追われて」と「負われて」のどちらでしょうか? これは、子守をしてくれるお姉さんの背中に「負われて(おんぶされて)」見た、ということなんです。
 漢字の勉強をする時は、どういう漢字を使うのかということや字形の細かな部分に気をつけることはもちろん大切ですが、漢字の持つ意味を意識するということもとても大切ですね。
 さて、日本では「月にはうさぎがいる」とよく言われますね。みなさんも聞いたことがあると思います。月にうさぎがいると言われるようになった起源はインドにあり、それが日本に伝わったと言われています。
 昔、さるときつねとうさぎの三匹が山中で力尽きて倒れている老人と出会いました。三匹は空腹で倒れているその老人を何とかして助けようと考えました。さるは木の実を集め、きつねは魚をとり、老人に食べさせました。ところが、うさぎだけは食料をとってくることができませんでした。それでも何とかして老人を助けたいと考えたうさぎは、なんと自らを食料として老人に捧げたのです。そのうさぎの姿を見た帝釈天(実はこの老人は「帝釈天」という神様だったのです!)は、うさぎのこの行動を後世に伝えるためにその姿を月に残そうとしたのです。このお話が起源となり、月にうさぎがいると言われるようになったそうです。
 ちなみに、日本ではうさぎがいると言われていますが、外国ではそうではないようです。「本を読むおばあさん」や「大きなはさみを持つカニ」、「横を向いている女性」「ライオンがほえているすがた」などなど、さまざまな見え方があるようです。国や地域が異なれば、月の模様の見え方も変わってくるということですね。
 このように国や地域によって異なるものもありますが、今は、新型ウイルスによる感染症の拡大を防ぐという目標に向かって、世界中の人々が手を取り合って一致団結していきたいですね。

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