2020年4月12日 (日)

国語科講師からのリレーメッセージ①「アマビエさん」

こんにちは、西川です。

国語科講師一同から、「こんな大変な時期だから塾生のみなさんにぜひメッセージをお送りしたい」「山下正明先生の記事はともかく、西川にいつものようなどうでもいい与太話をアップさせていてはいかん」という声が上がりました。第一弾は、「ね・うし・とら・う・たっち・みー」という一発ギャクで有名な山下高充trからのメッセージです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんにちは。国語科の山下高充です。今日はアマビエについて一緒に勉強しましょう。 アマビエとは江戸時代は弘化3年(1846年)の4月中旬、肥後国といいますから現在の熊本県(クマモンで有名ですね)の沖に現れたと伝えられる妖怪です。なんでも毎晩海中から謎の光が現れるのでお役人が調べに行ったところ、海中から髪の長い半人半魚の妖怪が出てきていわく「私は海に住むアマビエという者だビエ。これから6年間全国豊作に恵まれるビエけどよくない病気がはやるビエ。私の絵を描いてみんなに見せてほしいビエよ」と言って消えたそうです。(当時の瓦版の記事を現代風に訳しました)
 はたしてその効果はあったのかなかったのか。江戸末期の日本では天然痘やコレラなどに対して有効な治療法がなく、伝染病は現代以上に生命に直結する危険な病気でした。時の天皇である孝明天皇もアマビエ出現の21年後に天然痘で崩御したと言われています。天然痘に関しては3年後の嘉永2年にワクチンの一種である牛痘法が日本でも普及しはじめましたが、コレラはこの後安政5年(1858年)から全国的に流行を見せました。効果のほどは何とも言えないところです。
 さてそのアマビエさんですが、昭和においてはゲゲゲの鬼太郎で有名な水木しげる氏がイラスト化するなど熊本県の妖怪として語り継がれました。島根県の隠岐では水木氏の絵を元にした銅像が設置されているそうです。そして令和の現代、新型肺炎の流行を前に疫病から民を守る妖怪として注目され、いろいろな漫画家やイラストレーターが相次いで自作のアマビエを公開するなどもあって話題になっています。
 とはいえ私はここでアマビエさんがいるからもう大丈夫とかみなさんもアマビエの絵を描きましょうとかといった非科学的なことを言いたいわけではありません。アマビエの流行を見てある政治学者の先生がこう言いました。「これは非科学的ではあるが反科学的ではない」と。どういうことかわかりますか。
 その先生は妖怪の絵を描いたところで伝染病が治まるわけはないが、そのような絵が流行することで人々が病気に気をつかい、いつもよりもマスク手洗いに気をつけるようになり、その結果感染の拡大がおさえられるだろうというのです。医学的な効果はないが人の心に働きかける効果はあるということですね。4年生のテキストに同じような話があったように思いますが、その通りだと思います。
 幸いなことに江戸時代とはちがって現代ではどうすれば病気が防げるかが明らかになっています。手洗いやマスクの着用を徹底し、いわゆる三密(密閉・密集・密接)を避けるというものですが、そのひとつひとつを行うことはとても簡単なことです。とはいえ簡単であるがためについ忘れてしまうものでもあります。しっかり病気を予防して元気な姿でまた教室で会いましょう!

2020年3月29日 (日)

おサルたちの沈黙

「ブ」と「ヴ」や「L」と「R」の区別をしない日本語で(「令和」は「R」なので、巻き舌の発音のはず?)、これを書き分けるのは無理があります。さすがに「本を読む」のときは「wo」に近い発音をするので「本お読む」とは書きませんが。「ぼくが」の「が」も鼻濁音なので、区別するために濁点ではなく半濁点をつける人もいます。ただ、これを意識して使い分けすることはあまりないでしょうし、聞き分けてもいないようです。「ぢ・づ」と「じ・ず」では明らかにちがう音なのに、いつのまにか混同して「zi・zu」の発音に統一されました。時代によってことばは変わっていくものです。「めっちゃ」を大阪弁と思っている人も多いようですが、「むちゃくちゃ」「めちゃくちゃ」の省略形で、古くからのことばではありません。さらに「めっさ」となまっている人もいますが、ごくごく新しいことばです。とはいうものの、生まれたときからそういうことばを聞いていたら昔からあることばのように思いますし、実際すでに「大阪弁」として認知されています。むしろ、テレビなどを通じて一般的になり、関東圏でも抵抗なく使われているようです。

だいたい生まれる前のことはわからないのが当然です。若い人たちは「バックスクリーン三連発」なんて伝説でしか知らないわけです。実は掛布のみがちょっとちがうということは、だれも知らなくて当然です、なんてことを言っても何のことだかわからない人が多いでしょうな、ハッハッハッ。六甲おろしは本来冬型の気圧配置のときに起こるものなので、ふだんは甲子園には吹かないという衝撃の事実があるそうです。これは、いつ生まれたかには関係のない知識ですが…。まあ実際には、季節にかかわりなく山頂から吹き降りる突風を「六甲おろし」と言うようです。この「おろし」は「颪」と書きます。他にも「比叡颪」とか「赤城颪」がありますが、山から下に吹く風で「下ろし」です。国字で「颪」と書くのは、ズバリすぎてなかなか快い。

「歪」もよくできた字ですね。「ゆがむ」「ひずむ」「いびつ」と読みますが、正しくないことを表す字です。二つの漢字を組み合わせて新しい漢字を作っているのですが、ここから妙な現象が起きることがあります。「羽音」を縦書きした場合、バランスが悪いと「翌日」と読めてしまいます。ネットの世界では「神」を「ネ申」、「死」を「タヒ」のようにわざと分解して書いたりします。こうやってパーツに分けると覚えやすい字もあります。「顰蹙」や「薔薇」「鬱」など、全体を見ていると厄介な字ですが、細かく分ければわかりやすくなります。「わかる」とは「分かる」であり、「解る」であり、要は「分解する」ことです。複雑なままではダメなんですね。なぜなのかを知らないままで覚えていることがらが、「実は」と説明されたら、わかったという実感を味わうことがあります。「子丑寅が方角を表し、子が北、午が南、だから子午線と言う」…こういう説明でなるほどと思います。「八岐大蛇を倒すと尻尾から剣が出てきた」と言われたら、なんでまたそんなところからそんなものが、と思いますが、「八岐大蛇とは、いくつもの支流に分かれて氾濫を繰り返し、人々を苦しめてきた川の擬人化であり、その斐伊川から砂鉄がとれ、それで剣を作ったのだ」「なるほど」…。

こうなってくると、推理小説の謎解きの快感に似ています。最後の部分で名探偵が全員を集めて推理を披露する場面ですね。川柳にあるやつです。「名探偵、皆を集めてさてと言い」。この部分が長すぎるとかったるいですね。理想を言えば、たったひとことで「なるほど」と思えるようなものであってほしい。中には読んでいるうちに、面倒くさくなって寝てしまいそうになるものもあります。だいたい、この手の小説で本当に「推理」しながら読む人って、いるのでしょうかね。なんとなく「犯人こいつ」と思いながら読んでいるのでは? テレビドラマなら顔やふんいき、もっと言えば誰が演じているかで決めてしまいます。もっとも最近では裏をかいて「この美人女優が犯人!?」と思うような意外な配役をしたり、さらに裏の裏をかいて、「やっぱりこいつかーい」ということもあります。

倒述ものの推理小説というのがあります。最初に犯人が登場して、その犯人の視点で物語が展開されていくタイプのものです。『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』でおなじみのパターンですね。これは、一つのミスでばれることもあるので、種明かしは単純明快なことが多いようです。一般の推理小説とちがって、犯人ではなく作者が読者に仕掛けるトリックなので、読み直す楽しみがあります。「あ、こんなところに」と、読み飛ばしていたり別の意味で解釈したりしていたことに気づきます。これは「わかった」という快感ではなく、「だまされる快感」ですね。わざわざ地雷を踏みに行く心理と通じるものがあります。「やられた」「くやしい」と言いながら、解く快感に匹敵する快感を味わっています。ひょっとしたら、子どもたちがテストでミスをする理由は快感だから?

フロイトは人間の行動の理由を無意識の心理の中に求めましたが、犯人の行動や犯罪の性質や特徴から科学的に人物像をさぐっていく「プロファイル」というのがあります。犯罪捜査ばかりではなく、他の方面でも使われるので、「犯罪者プロファイリング」と言うのが正しいようです。現場に残された状況をもとにして、統計的な犯罪データや心理学を通して犯人像を推理し、人種や性別、年齢、あるいは生活態度などを特定していくのですね。『羊たちの沈黙』あたりからよく聞くようになりましたが、要はパターンにあてはめている感じで、現実の人間はもっと複雑で例外もたくさんあるような気がします。もちろんパターンと言っても相当細かく分類しているのでしょうから、4タイプしかない血液型占いより確かでしょう。干支占いがうさんくさいのは、学年全員が同じような性格のはず、ということになるからです。いくらなんでもそれはないでしょうが、たしかに年によって傾向があるのが不思議といえば不思議です。

「今年の子は…」、講師がよく言うせりふです。ゆとり教育の世代とそうでない世代というような、環境のちがいは大きいでしょうが、そういうものがなくても、なぜか一年ごとに微妙な差があるような気がします。全体に素直でおとなしい年が意外に実績がふるわず、おサルさん状態のときに結果がよかったりするのは、おサルさんタイプのほうが入試には向いているのでしょうかね。

2020年3月15日 (日)

竹鶴の思ひ出

関西の入試は一段落し、新年度が始まりました。

と書いてから早いもので1か月半過ぎました。このブログ空間には不思議な時間が流れており、いつのまにか時間が経っています。

先日(といっても1月のなかばぐらい?)、ニッカウヰスキーが、年代物の「竹鶴」(ウイスキーの銘柄です)の販売を終了すると発表していました。わたしは未成年なので「竹鶴」を飲んだことはありませんが、かつて所持していたことがあります。白い陶器に入った、確か17年ものだったと思います。しかも、なんと、ニッカウヰスキーの社長から直々に手渡されたサイン入りのものです。なぜ私のようなスチャラカチャな人間がニッカの社長から直々に!? そしてその「竹鶴」はいずこへ? 話せば長いことではありますがぜひにとおっしゃるならば話しましょう。

もうずいぶん昔のことですが、週に一度ぐらいのペースで、京都は木屋町の、とあるバーに通っていました(その頃は未成年ではありませんでした)。同じ名前のバーが京都市内に当時あと二軒あり、一族の方がそれぞれ独立して経営されていました。ちなみに大阪にも同じ名前のバーがいくつかありましたが、マスターから聞いたところでは、もともと神戸かどこかにあった有名なお店からのれん分けのような形で、京都と大阪に同じ名前のバーができたそうです(大阪の方は一族ではなく、どんどんのれん分けをして増えているという話でした)。わたしが通っていたのは、京都にお店を出された初代の方のご子息がマスターをされていたお店です(ご子息といっても私よりかなり年上でいらっしゃいました)。初代の方のお店は、作家の池波正太郎が通っていたとかで有名です。若かった私は、そのお店でいろいろ教わりました。いい気分になってちょこっと声が大きくなりすぎたりしようものなら「帰りよし」などと言われかねないお店でしたから、るんるん楽しい気分になってもできるだけきりりと(少なくとも主観的にはきりりと)した顔で自制してました。

さて、そのバーが神戸にはじめてできてから八十周年、というお祝いを大阪と京都でそれぞれやることになりました。若造の私などは到底そういう場にふさわしくなかったわけですが、枯れ木も山のにぎわいというのでしょうか、優しいマスターが声をかけてくださったんです。招待状には、「平服でおこしください」と書かれていました。「平服……?」常識が皆無だった私は平服というのがどういうものかわかりませんでした。それで、きっと普段着のことだろうと早合点気味に高を括りました。そういう性格なんです。そして、おそろしいことに、Tシャツに短パンというかっこうで、京都の二条城前にある「◎◎ホテル」で行われたパーティーにのこのこと出かけていったのです。そうしたらみなさんスーツ着ていらっしゃるじゃないですか、当たり前ですが。最低でもジャケット着用で。もう、恥ずかしくて恥ずかしくて死ぬかと思いました。他にも俺みたいにやらかしてるやつはいないかと必死でさがしました。すると、アロハシャツを着た、浮かれた感じの一団が。何としてもお近づきにならねばと思ってにじり寄っていくと、その人たちは、アトラクションに出演するハワイアン・バンドの人たちでした。

会が始まりました。針のむしろでした。いろいろな人が壇上に上がりいろいろなことを話していらっしゃったような記憶がありますが、上の空だったのでよく覚えていません。やがて記念品贈呈の抽選会が始まりました。そういえば、受付で番号の書かれたカードを渡されていました。当選した人が拍手を浴びて次々に壇上に上がります。これは当たるわけにはいかないと思いました。そして、そういうときにかぎってなぜか当たってしまうのでした。まさに『英雄たちの選択』です。①知らんぷりする。②しれっと壇上に上がる。磯田道史先生ならどうされるんでしょうか。まごまごしていると、となりにいた比較的カジュアルなかっこうの女性(初対面でしたが肩身の狭い者どうしで寄り添っていました)が、「あら、当たってるじゃないですか」とうれしそうに言うのでした。

もうおわかりかと思いますが、そのときです。壇上で、ニッカウヰスキーの社長から直々に『竹鶴』をいただいのは。まちがいなく人生で最も恥ずかしかった一瞬でした。

見るだけでも辛い気持ちになるその『竹鶴』を、私は実家に預けました。手元に置いておくとまだ未成年じゃなかった僕はあっさり飲んでしまうかもしれないけれど、何といってもこれはニッカウヰスキーの社長から直々にいただいたものであるから、大事に取っておきたい、と言って預けたんです。

ところがあっさりなくなりました。北海道在住の伯父が持っていってしまったんです。

この伯父は、ずっと昔にこのブログで紹介したことがありますが、もともと関東軍の中尉で、ノモンハンのときも戦場にいた人です。「こりゃ勝てねえと思ったよ、飛んでるのは敵の鉄砲の弾ばかりなんだからさあ」「遮蔽物から遮蔽物まで移動するときはさ、部下に『行け』って言ったってだめなんだよ、みんなおっかないんだから。『よし、俺が行くからついてこい』って言って、先に飛び出すのさ。すると、みんなついてくるわけよ。それにさ、じつは最初に出た方が弾に当たりにくいんだ。まず一人飛び出すだろ、そうすっと敵が見つけて狙うだろう。だから後から出た方が弾に当たるんだよ」なんて教えてくれた人です。

基本的に私の母は(したがってまた父もその夫として)、この伯父さんに頭が上がらないのです。若い頃に伯父さんにお世話になっているからです。敗戦のあと、ハルピンから命からがら長崎に逃げてきた母は諫早の女学校に通うことになるのですが、女学校を出てもまともな仕事がない。それで、タイピストになろうと考えたわけです。でもとにかく貧乏だから学校に通う金もない。北海道に住む姉(つまり私の伯母)に手紙を書いたら、「うちの旦那(これが伯父さんなんですが)に直接手紙を書いて頼め」と。で、母があらためて伯父さんに手紙を書くと、学費と、学費だけじゃどうにもならんだろうからといってお小遣いを、何ヶ月分もまとめて送ってくれたらしいんです。そのおかげで母はタイピストになることができたわけですが、じつは、そのときのお金を返していないというのです。ずいぶん後になってから、じつはあのときの……と切り出すと、伯父さんは「んあ? そんなことあったか?」と覚えてなかったそうなんです。でも、もしかしたら伯父さんは覚えてないふりをしただけかもしれません。……というわけで、伯父さんにはちょっと頭が上がらない。したがって、泊まりに来た伯父さんが、浴槽にお湯を注ぎながら、そのお湯で入れ歯を洗うという、信じられないほどばっちいことをしていても、目をつぶるしかないのでした。ましてや、白い陶器に入った、ニッカウヰスキーの社長からじきじきに手渡された、サイン入りの17年ものの竹鶴を、「お、なんだ、これはウイスキーか、もらうぞ」とぐびぐび飲まれ、余った分を持ち帰られても、だれも何もいえないのでありました。

竹鶴のニュースを聞き、今は亡き伯父さんのことを思い出してほのぼのとしてしまいました。

2020年3月 7日 (土)

○○に毛がなし

一世を風靡した(それほどでもないか)「騎馬民族説」というのもありました。大陸からやってきた騎馬軍団に征服されたというやつですね。今は完全に否定されているようで、たしかにその後も日本の馬は小さいままです。畠山重忠のかついだ馬も、それほど大きくなかったのでしょう。同時期の有名な馬としては「いけずき」「するすみ」がいます。両方とも、もともと源頼朝の持っていた馬ですが、梶原源太景季が「いけずき」を所望したのに、なぜか頼朝は「するすみ」を与えます。しばらくして、またまたなぜか頼朝は「いけずき」を佐々木四郎高綱に与えてしまいます。感激した高綱は、この馬で宇治川の先陣を切ると誓います。ところが、まず飛び出したのは、するすみに乗った景季、いけずきに乗った高綱は、「馬の腹帯が緩んでいる」と言って景季をだまして先陣を切る、という「ひきょう」な話です。

中国で有名な馬といえば、なんといっても呂布の乗っていた赤兎馬でしょう。なにしろ「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と言われるぐらいですから。はじめ董卓が持っていた馬ですが、呂布と義父の丁原を離間させるために呂布に与えられます。後に呂布を討った曹操の手に移りますが、気性が荒く誰も乗りこなせません。ちょうどそのとき、曹操のもとにとどまっていた関羽を自分の家来にしようとして、今度は関羽に与えます。さすが関羽で、見事に乗りこなすのですね。関羽は「この馬は一日に千里を駆けると言う。劉備の行方がわかったら、一日にして会うことができる」と大喜びしたので、曹操はがっかりした、という話があります。その後、さらに別の人に与えられますが、何も食べずに死んでしまった、という後日談もあります。

騅という名馬もいます。「すい」と読みますが、これは項羽の馬ですね。垓下にたてこもった項羽は「自分の力は山を抜き、覇気は世を覆うほどであるというのに、時勢は不利であり、騅も前に進もうとはしない。騅が進まないのはどうしたらよいのだろうか」という詩を残しています。大横綱の双葉山に後援会が「力抜山」と書かれた化粧まわしを贈ろうとしたところ、このままでは「力抜け山」と読まれるので、「抜山」だけにしてくれと言った、とか。結局、項羽はそのあと壮絶な最期を遂げます。項羽と劉邦の覇権争いに大きく関わってくるのが、韓信ですが、この人物の立ち位置が今ひとつよくわかりません。張良・蕭何とともに漢の三傑の一人とされるのですが、謀反の罪で殺されます。『項羽と劉邦 鴻門の会』という中国映画では、項羽のもとにいた韓信を大将軍に推薦し、劉邦に漢統一を成し遂げさせた蕭何は「韓信は決して謀反を図ることはない」と必死で弁明します。しかし、猜疑心にとらわれた劉邦は聞き入れません。呂后も「鴻門の会で劉邦を許した項羽は結局滅ぼされた。韓信は項羽を裏切って劉邦のもとにやってきた男なので、いま韓信を許せば、やがて漢は韓信に滅ぼされる」と言い、公の記録にも「韓信は謀反した」と書かせて処刑します。

張良は名軍師ですが、それをしのぐ中国史上最大の軍師は諸葛孔明ということになっています。日本ではどうでしょう。竹中半兵衛、黒田官兵衛が有名です。楠木正成は軍師になるのかなあ。軍学者という位置づけかもしれません。そういえば、大河ドラマの主人公として、ついに光秀が登場しました。裏切り、主人殺しという負のイメージがあるだけに、そこをどう描くかが難しそうです。肯定的なとらえ方をするよりも、むしろダーク光秀で押し切って、「ノワール大河」にするのもおもしろいと思うのですが。

どういうものが受けるか予測もつかないこともあります。人気のなかった応仁の乱がブームになりました。足利義政が東山を選んだ理由を「ブラタモリ」でやっていました。東山の別荘は、目の前に吉田山(断層の端)があって都を見ないですんだからだ、というのはなるほどね、と思いました。銀閣の構造も一階と二階とで、正面の向きがちがうようですが、どちらにしても都に対して背を向けています。慈照寺が銀閣と呼ばれるようになったのは金閣との対比でしょうか。銀箔を張る予定だったのが、応仁の乱で財政が苦しくなって実現しなかったという説もありますし、銀箔を貼るつもりはまったくなく、金閣との対比で、太陽のイメージの金閣、月のイメージの銀閣として、なんて説もあります。

金ではなく、あえて銀にしたのは義政が義満に遠慮したためだと習いました。ところが逆に当時は金よりも銀のほうが値打ちがあったので俺の方が上だという優越感の表れだ、という人もいるようです。いくらなんでもそれは言い過ぎで、銀よりも金のほうが値打ちがあるでしょう。松竹梅はどれが上でしょうか。「梅」のはなやかさを考えたら「松」より上に置いてもよさそうですが…。「優」と「秀」も、「優勝」が一位になるわけだし、「秀才」は「天才」より劣りそうなので、「優」のほうが上のような気もします。「馬鹿」と「あほ」はどちらが上でしょうね。「上」ということばは、どちらの意味でもとれそうですが…。「あほ」と「どあほ」では、「ど」が付くだけレベルが高そうですが、「どあほ」と「あほんだら」ではどうでしょう。

アイスクリームにコーヒーなどをかけて食す「アフォガード」というのが世の中にはあるそうな。「あほな護衛」みたいで、音のイメージがよくないですね。ただ、これは「アフォガート」が正しいと言う人がいます。濁点の有無ですが、これは問題になるときとならないときがあります。「世の中は澄むと濁るで大ちがいハケに毛がありハゲに毛がなし」ということばもあり、「窓ガラス」は「ガラス」で「旅ガラス」は「カラス」です。どうでもいいといえばどうでもいいのですが…。「ベッド」も「ベット」と言う人もいました。「アボガド」は「アボカド」が正しいと言う人がいますし、「ジャンバー」も「ジャンパー」に変わりました。でも、外来語をカタカナで表記した時点で厳密な音にはなっていないはずです。スワヒリ語をカタカナで表記できるでしょうか。もっとも「ホッタイモイジクルナ」が通じるわけですから、元来発音はいいかげんなはずです。東北の人が発音すれば「寿司」も「獅子」も「煤」も「スス」になってしまうわけですし、大阪人は「きつねうどん」を「けつねうろん」と発音し、それが通じるわけですから。

2020年2月22日 (土)

世界はひとつ

前回のタイトルの「アンケラソ」ということばは本文とは関係ないようですが、『青菜』に出てくる「ののしりことば」です。植木屋さんが家にもどってくると、嫁さんに「今時分まで、どこをのたくり歩いてけつかんねん、このアンケラソ!」と言われます。「あんけ」は口を開けていることを表すのでしょうか、「らそ」は意味不明ですが、どうやらうすぼんやりしている人のことを言う悪口らしい。ただ、さすがに日常会話で聞いたことはなく、かろうじて落語の中に残っている古い大阪弁のようです。

『青菜』には九郎判官が登場しましたが、他に有名な判官としては塩谷判官というのがあります。これは「えんやはんがん」と読みます。なぜか「はんがん」なのですね。モデルとなった実在の塩冶高貞は足利尊氏の弟直義から謀反の嫌疑をかけられて自害しています。幕府執事の高師直との確執は実際にはなかったようです。『太平記』では師直が高貞の妻に一目惚れして、吉田兼好にラブレターを書かせて送ったところ、拒絶されて逆切れし、尊氏に讒言したことになっていますが…。この話を利用して、浅野内匠頭を塩冶高貞に仮託したのが『仮名手本忠臣蔵』です。

「説経節」という中世の口承芸能があります。竹を細かく割って作った「ささら」という道具を棒でこすりながら、サラサラ音をたて、それで伴奏をしながら語っていくもので、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃にとってかわられ、途絶えてしまいます。その演目の中でも有名だったのが「さんせう太夫」で、森鴎外が書いたのは完全オリジナルではなく、もともとは説経節です。で、この主人公安寿と厨子王の父親は岩城の判官正氏と言います。鴎外は「陸奥国の掾平正氏」としています。「掾(じょう)」は国司の三等官なので、たしかに「判官」にあたります。

説経節には小栗判官という人も登場します。猿之助のスーパー歌舞伎にもなりました。これも「はんがん」ですね。妻の照手姫の一族に殺された小栗が閻魔大王の情けによってよみがえり、復讐を果たすという、波瀾万丈の物語です。いろいろなバリエーションがありますが、モデルとしては常陸国の小栗氏にそれらしき人物がいるようです。直系ではなさそうですが、その子孫にあたるのが幕末の小栗上野介です。この小栗家の嫡男は代々又一を称することになっています。家康に仕えた先祖が家康の目前に現れた敵を槍で討ち取り、それ以降一番槍の手柄を立てると「又も一番槍か」と言われたことが元になっている、という話は何で読んだのか…やっぱり司馬遼太郎かなあ。テレビでは岸谷五朗が演じたドラマを覚えていますが、何という題名だったか。この人のことを勝海舟はあまり評価していなかったようですが、司馬遼太郎はかなり高い評価を与えていたと思います。

小栗上野介が幕府の金を隠した、という「徳川埋蔵金」がときどき話題になります。赤城山中に埋めた、ということになっているんですね。前に空母の名前について触れましたが、なぜか山の名である赤城が空母の名前になっています。もともと巡洋艦だったものを強引に空母に改装したのですが、名前はそのまま残したとか。加賀とか信濃という空母が国名なのは戦艦の改装だからで、巡洋艦は山の名前からつけたのですね。摩耶という巡洋艦もありました。当然、神戸の摩耶山です。この山の名前は空海由来ですね。摩耶山にある天上寺はもともと孝徳天皇の勅願で建てられたので、それこそ大化の頃にまでさかのぼれますが、空海がこの寺に釈迦の生母である摩耶夫人像を安置したことから、山の名も変わったそうな。

『火垂るの墓』の主人公の父親は巡洋艦摩耶に乗っていたという設定になっていました。原作は相当昔に読んだので、元の小説でもそうだったかはわかりませんが、三宮が舞台だったから神戸の山の名がついた船にしたのでしょうか。JRの三ノ宮駅には機銃掃射の跡が残っていたはずですが、今でもあるのかなあ。近くの岡本あたりを舞台にして印象的だったのは谷崎潤一郎の『細雪』です。太平洋戦争が始まる少し前にあった阪神大水害のことがくわしく書かれており、摂津本山の駅のあたりの描写がリアルでした。この駅も、ちょっと前まではそのころの雰囲気が残っていたのですが、今やすっかり変わってしまいました。あの地下通路はレトロな雰囲気があってよかったのですが。知っている地名、とくにマイナーなものが小説に登場すると、なんとなくうれしくなってきます。以前に野田阪神に住んでいたのですが、そのころ信長公記を読んでいると、野田・福島という地名が登場してきました。三好三人衆との戦いで足利義昭とともに陣を構えたのが私の住んでいたあたりのようです。もともとは浪速八十島と呼ばれたあたりで、閻魔大王の友達、小野篁が遣唐使を断って島流しになったとき詠んだと言われる「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟」の舞台になったところでしょう。同じ百人一首の皇嘉門院別当の「難波江の芦のかりねの一夜ゆゑみをつくしてや恋わたるべき」の舞台もこのあたりかもしれません。

野田は藤の名所としても有名で、室町二代将軍足利義詮や秀吉も見に来ています。野田のすぐ近くにある梅田は、昔は「埋田」でした。このあたりは湿地帯だったのですね。でも「埋田」という字面はイメージが悪いので、梅田に変えたのだとか。人名でも浮田を宇喜多にするように、吉字に変えるというのがよくあります。大和から見たら、山のうしろにあるので「山背」と呼ばれた地名を「山城」に変えたのも同様です。国名を吉字に変えたのは淡海三船の進言によるものと言われます。歴史上の人物としてはややマイナーなので、小学校レベルでは習わないのかなあ。「何者?」という感じでしょう。秦河勝にしても「何者?」ですが…。前にも書いたようにローマ人だとしたらおもしろいのだけどなあ。日本がシルクロードの東の端であることを思えば、国際的な交流はあったかもしれません。ガラス器や伎楽面など、インドやさらにその向こうから来ているものもあります。お米を「うるち」と言いますが、古代インドの「リーザ」の転訛したものと言われます。これが西に行くと「ライス」になるのですね。仏様に備える水を「閼伽」と書いて「あか」と読みます。これも当然インドから来たことばでしょう。ところが、これが西の方では「アクア」と言います。世界はつながっているなあ。

2020年1月 2日 (木)

冬眠とは何か?

前回、「冬眠します」という題で書いたのですが、読み返してみると何がどう冬眠なのか我ながらさっぱりわかりません。寒かったのでそういう言葉を使ってみたかっただけかもしれません。

あ、申し遅れました。新年明けましておめでとうございます。

ただ、やはりこういう仕事ですので、入試が一段落するまではおめでたい気分になれません。希学園の事務所でも、「今年もよろしくお願いします~」ぐらいは言い合ったりすることがありますが、「おめでとう」という言葉はあまり飛び交っていないようです。そして、入試が終わった頃には当然のことながら新年気分などどこにも残っていないので、毎年お正月気分を味わうことはほとんどありません。受験生のみなさんとそのご家族にとってはなおのことそうだろうなあとお察しします。

新年を迎えるにあたって、今年自分は何の本を読んだであろうかと本棚をチェックしてみました。ふだん塾生諸君に「本を読め~本を読め~読書しろ~」と呪文のように唱え続けている立場上、自分自身も読書に邁進せねばなりません。とはいえ、いや言い訳するつもりはありませんが、言い訳するわけですが、なかなか本を読む時間がとれません。私の場合、だいたい本を読むのは、電車のなか、もしくは風呂のなか(塾生のみなさん、これだけはまねしてはいけません、目が悪くなるし、うだってくらくらになってしまいます)に限られているので、遅々として進まないのです。というわけで、あまり読めていないのですが、確認してみたところ、一応、以下のものは何とか読みました。だいたい読んだ順に、

『統語構造論』 チョムスキー

『新しい児童心理学』 ピアジェとだれか

『知識の理論』 チザム

『論理の基礎』 ストローソン

『国家の神話』 エルンスト・カッシーラー

『論理学をつくる』 戸田山和久

『言語哲学大全』Ⅰ~Ⅳ 飯田隆

『思考と言語』 ヴィゴツキー

『教えることの哲学』 パスモア

『意味ってなに?』 ポール・ポートナー

だいたい月に一冊ちょっとという感じですね。これらはすべて電車のなか専用で、これらの他にお風呂で、宮城谷昌光『三国志』1~12とか、深沢七郎『楢山節考』とか色々読みました。もちろんマンガも読みました。みなもと太郎の『風雲児たち』とかですね。これは希学園にもうひとりファンがいて(社会科の沖先生ですね)、ときどき情報交換してます。もうすぐ最新刊出るらしいですよ、とか。

それにしてもあらためてラインナップを見てみると、わかっていたことですが、やはり外国の人のものが多いです(念のため申し添えておきますが原書で読んでいるわけではありません、原書で読んでたらかっこいいんですが、残念ながらすべて翻訳です)。偉そうに聞こえるかもしれませんが、日本人の書いたものはつまらないことが多いです。手際よく何かの内容を紹介したもの、受け売りできる知識が手っ取り早く得られるものではなく、著者自身、悪戦苦闘しながら考え抜いて書いたもの、読みにくくてもそういうのを読みたいです。そうするとなんだか外国の人のものが多くなるような気がします。今読んでいるのも外国の人のもので、僕にとってはげんなりするほど難しいのですが(言語に関する本なのに、「集合」とか「関数」とか「写像」とか「演算」とかそんな言葉がてんこもりで、算数も数学も苦手だった私の手には正直あまるのです)、読んでいて良い意味でどきどきするので、まあがんばっています。塾生諸君にもぜひわかってほしいのは、読書もスポーツも少しぐらい、あるいは結構しんどい方が、実はおもしろいんだぜってことです。そういうふうに読書が楽しめるようになったら、国語なんて勉強しなくたってできるようになっているものなんです。受験生のみなさんは今は読書どころではありませんが、受験はまだのみなさん、ぜひ「読むのに少し骨が折れる」読書をしてくださいね。

例によって例のごとくタイトルとはまったく関係のない話になってしまいました。実際、冬眠している場合ではないのです。入試が近づいているので! 

というわけで、入試が終わるまでブログはお休みします(←あえていえばこれが冬眠です)。入試が終わったらまた! 入試が終わってから三か月以内には書きたいと思っています!

2019年12月22日 (日)

冬眠します

このブログで告知し続けていた教育講演会がすべて終了しました。お越しくださったみなさまありがとうございました!

で、・・・・・・この「くださった」なんですが、ちょっと前にテレビを見ていたら、何かの番組でインタビューされた方が「××が・・・してくださった」と言っていたのに、字幕(?)が「××に・・・していただいた」となっていたことがありました。ぼんやり見ていた私ですが瞬間的に激怒し、家の者に「どう思う? あかんやろこれ!」と同意を求めて面倒がられました。でも、あかんと思います。だって、主語がかわってるじゃないですか。主語がかわっていても、そこで表現されている〝事態〟は同じなんだからいいでしょとおっしゃいますか? 何ということを。主語がかわってるということは、語り手がスポットライトを当てている人物が、別の人物にすり替わっているということなんです。素人劇団とはいえ舞台の演出をしていたこともある私としては看過できません。次のような文をヒグマが発言しているところを想像してください。

(1) N川和T先生が私に新巻鮭をくださった。

(2) 私はN川和T先生に新巻鮭をいただいた。

この二つの文は同じでしょうか? 確かに表している事態=事実は同じなのです。でも、これらの文にこめた語り手の気持ちはちがうのではないでしょうか。だって、(1)と(2)では、主役がかわっているのです! 舞台において主役が誰かは重要な問題です。いや、そこは重要な問題ではないのだという演劇があってもいいとは思いますが、一般的には、特に宝塚歌劇では、主役あるいは主人公がだれかは大きな問題です。(1)は、N川和T先生を立てる表現であり、(2)は、ヒグマである「私」の立場からいわば感謝を気持ちをにじませる表現です。どちらもまちがいじゃないし失礼でもありませんが、勝手に変えたらダメですよね?

すいません、何の話をしたかったのか思い出しました。教育講演会にお越しくださったみなさまにお礼を申し上げたかったのです。

敬語は難しいですね。私は仙台時代に(*西川の仙台時代については、「もりそばとざるそば」「バブル時代」などをご参照ください)官報販売所でアルバイトをしていたことがあるのですが、そこの所長さん(当時75歳)の敬語がきれいで憧れました。「荒城の月」で有名な土井晩翠の遠縁にあたる方で、あまりにも達筆すぎるため(?)領収書や請求書その他の文字が読めるのは奥さんだけだと言われていました。私も、配達先の人に「お宅の所長さんは達筆すぎて何書いてるのか読めないよ~」と言われたことがあり、若かったためそのまま所長さんに伝えて「何を無礼な!」と激怒させてしまいました。この「無礼な」にも痺れました。いまどき「無礼」なんて言う人いないよなかっこいい~、と思いました。そういうちょっと古風な言葉づかいが好きなんです。中学生の頃から(関西人にもかかわらず)「君たち」「・・・したまえ」なんて言って、気味悪がられていました。今でも宿題プリントのコメントにそういう言葉づかいで書いてるときありますね。気持ち悪がられていたらつらいなあ。

すいません、何の話をしたかったのか今一度思い出しました。教育講演会にお越しくださったみなさまにお礼を申し上げたかったのです。でもすぐに話がそれてしまいます。講演も終了したことですし、あとは入試に向けて邁進するだけです。小6の諸君、がんばりましょー。そしてもし今これを読んでくれている小6生がいるならば、伝えたい言葉がある! そう君だ、君。 

ブログ読んでないで勉強したまえ!

2019年12月15日 (日)

このアンケラソ!

三国志演義の登場人物には架空のものも結構いるようですが、実在の人物とまぎれてしまって、てっきり実在したと思い込んでしまうこともあるようです。関羽の子とされる関索や関羽の子分の周倉なんて有名ですが実在の人物ではないらしい。光源氏はもちろん架空の人物ですが、モデルはいたようです。「源光」というのは単に名前が似ているだけで、この人の可能性はゼロ。有力なのは源融です。嵯峨天皇の子ですが、皇位継承権は与えられませんでした。その点でも光源氏と共通していますし、さらに融は美男子という評判も高かったようです。もう一人、醍醐天皇の子、源高明も有力視されています。母親が「更衣」という身分で、やはり皇位継承権がないという点では光源氏と同じです。ある人相見に、これほどの貴相は見たことがないと言われたとか。ただ、その男は高明の背中を見て、将来左遷されるだろうと言ったそうな。『今昔物語』に、高明が自宅にいたとき、柱の節穴から子供の手が出てきて、しきりに差し招くという怪異が起きたという話があります。なかなか怪異は止まず、矢で穴をふさぐとようやくおさまったのですが、まもなく起きた安和の変で高明は失脚します。地方へ左遷されたという点でも光源氏と重なります。

安倍晴明のライバルの蘆屋道満も芝居の敵役として脚色されて、おそらく実在の人物とは相当ちがうイメージのものになっているのでしょう。小説のイメージや史観の影響で、大物のイメージも相当変わります。足利尊氏や水戸光圀など、その典型です。NHKの『歴史秘話ヒストリア』で信長は超まじめだったというのをやっていました。資料をていねいに読むと、信長は足利義昭に忠義を尽くしたのですが、まじめすぎて融通がきかないために、義昭と対立することになったとか。坂本龍馬だって、みんなが知っている竜馬は司馬遼太郎によってつくられたもので、実際に会ったらいやなやつだったかもしれません。逆に土方は写真を見ても陰険な感じが全くなく、むしろプラスイメージを与えられます。イケメンは得ですよね。沖田総司は醜男だったらしいのに、人々のイメージでは完全に草刈正雄です。剣の腕前も実際はどうだったのでしょうね。居合いの達人は現代でもいて、テレビでやっていました。頭の上にのせたきゅうりを横に切る、なんて、ウィリアムテルかと突っ込みたくなります。時速160キロのボールを真っ二つに切っていました。動体視力がすごいのでしょうね。

宮本武蔵と塚原卜伝はどちらが強かったのか、いろいろな考え方がありそうですが、年齢なども考えて同一条件で戦わないと、なかなか一概には言えません。トラとライオンはどちらが強いか、というのも同じ条件で一対一なら体の大きいトラに歩がありそうです。マングースとハブでは「99対1」の勝率でマングースの圧勝。とはいうものの負けるやつもいるということです。個体差ですかね。へぼいマングースもいるのでしょう。外来生物と日本の在来種ではどうも日本固有のもののほうが弱いようです。外国のものに比べると、どうやら日本の生き物全部がひよわな感じですな。「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の思想が動物にもおよんでいて、闘争することをきらうのでしょうか。

聖徳太子は教科書で厩戸皇子という名に統一するとかしないとかもめていましたが、「定説」というのは意外に変わりやすいものです。鎌倉時代は1192年で「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えたのに、いつのまにやら1185年になっています。健康に関する話も昔と今ではかなり変わっています。運動中に水を飲んではいけなかったのに、今は飲まなくてはいけないと言われます。ウサギ跳びやスクワットもダメと言われるようになりました。コレステロールはダメ、と言っていたのが、悪玉だけでなく善玉もある、とか。何が体によいのか、でさえそうなのですから、時代による価値観の変化はやむをえないのでしょう。明治のころなら、立身出世が多くの人の夢であり、「末は博士か大臣か」という発想もありました。「博士」や「大臣」がえらい人の代名詞だったのですね。この「大臣」ということばも、いかにも古くさい。次官の上なのだから、すべて「長官」に変えてもよいでしょう。「総理」はそのまま残すにしても、「大臣」はつけなくてもよいかもしれません。「大蔵省」も「財務省」になって、由緒ある名前が消えました。これらのことばはなにしろ律令以来ですから。

昔の日本では、だいたいの役所は四つの地位に分けられたようです。四等官が「さかん」で、その上が「じょう」、その上が「すけ」で、トップが「かみ」です。あてる漢字はさまざまで、同じ「かみ」でも「督」であったり「守」であったりします。名字で「目」と書いて「さっか」とよむ人がいます。これは「さかん」にあてられた字だからです。「左官」と書くと「補佐官」という意味になるので、ひょっとするとそこから来ているのかもしれません。木工寮の「さかん」は「属」と書きますが、壁塗りなどもしたはずですから、その仕事はまさに「左官」ということになります。「尉」を「じょう」と読みますが、これは音訓のどちらでしょう。「丞」の字をあてることもあるところから見ると、音読みのようですが…。他の「かみ」「すけ」が和語なのに、「さかん」は意味不明、「じょう」は音読みっぽいのが不思議です。ただ「丞」には助けるという意味があるので、「すけ」「じょう」「さかん」はすべて、「かみ」を助ける役職ということかもしれません。

「左衛門尉」と言えば、有名なのが遠山金四郎景元ですね。本当に名奉行だったわけではなく、「妖怪」こと鳥居耀蔵との対比でつくりあげられたイメージのようです。「検非違使尉」というのもありました。別名「判官」で源義経の役職です。九郎判官義経で、落語『青菜』の中にも出てきます。さるお屋敷の旦那が仕事をしている植木屋に酒をふるまい、青菜を食べさせようと、奥さんに声をかけると、「鞍馬から牛若丸がいでまして、名も九郎判官」と言われます。旦那は「義経」と答えるのですが、「菜は食べてなくなったので、『菜も食ろう』」「よしにしておけ」という隠しことばでした。感心した植木屋は長屋に帰って女房に話しているところに、友達の大工が風呂にさそいに来ます。旦那のまねをしようと、植木屋は酒をすすめ、「ときに植木屋さん、あなたは菜をおあがりか?」「植木屋はおまえや」「菜をおあがりか?」「嫌いや」それでも何とか説得して食べさせることになり、手を叩いて女房を呼ぶと、押入れから汗だくの女房が出てきます。「鞍馬から牛若丸がいでまして、名も九郎判官義経」全部言われてしまうんですね。困った植木屋は、うなった末に「うーん、弁慶」というオチ。義経と言えないから、代わりに「弁慶」と言ったのでしょうが、「立ち往生」というニュアンスもありますし、大阪ではひとにおごってもらうことも「弁慶」と言ったので、それもあるかも。

2019年12月 4日 (水)

バブル時代

最近めっきり音楽を聴かなくなりました。こんなことでは遺憾、「ノーミュージック、ノーライフ」だと思って、久しぶりにウォークマンに(バブル時代に大学生だった私はiPodとかではなく、ウォークマンに思い入れがあるのです)充電し、音楽を聴こうと思ったら、壊れてました。先日、大台ヶ原に登った話を書きましたが、そのときのことです。山小屋で雑魚寝するときにオヤジたちの(わたしもオヤジですが)いびきに苦しめられることがあるので、いびき対策にウォークマンを持っていこうと思ったら壊れてたんです。

バブル時代に大学生だったと書きましたが(こんなこと書くと年齢がばれてしまいますね、全然かまいませんが)、私は当時仙台に在住していたこともあって、バブルというのがぴんときていませんでした。なんせ時給500円のうどん屋で出前持ちやってたぐらいです。いや、いくらなんでも、当時の仙台でも時給500円は安かったんですが、そこでずっと働いていた友だちが、確か舞台照明の手伝いか何かで何ヶ月かニューヨークに行ってるあいだ代わりにやってくれと頼まれたんじゃなかったかしら、あまりはっきり覚えていませんが、そんな感じでした。ちなみに、その友だちがニューヨークから帰ってきたとき、盛大に居酒屋で歓迎会的なことをやったのですが、おみやげがひよこまんじゅうだったことに驚愕した記憶があります。それはともかく、そのうどん屋でわたしは納豆が食べられるようになりました。賄いで納豆うどんが出るんです。で、こちらは常に欠食児童状態なので、いやでも食べる。すると結構うまい、というわけです。そのうどん屋は仙台にはめずらしい手打ちうどんの店で本当においしかったんです。そのおかげもあると思います、納豆が食べられるようになったのは。で、何年前でしたか、恩師の古稀のお祝いがあると聞いて仙台まで行ったときに、懐かしくてそのうどん屋を訪ねたら(店は移転していました)、もう手打ちはしてなくて冷凍うどんつかってるんだ、とおっしゃっていました。移転した先の客層に合わせて、ということらしいのですが、何だか少しさびしいような気がしました。この仙台行は震災前でした、とても良い思い出になっています。うどん屋のご夫婦が、わたしのことは覚えていなかったにもかかわらず、わたしの友だちのことは覚えていてくれたので(わたしよりはるかに長く働いていたので)、ああ〇〇ちゃんの友だちなの、ってうどんと親子丼をごちそうしてくださったのもしみじみしましたし、恩師が僕のことを覚えてくださっていたのにはまことに驚愕しました。「西川くんか、西川くんな、きみはとちゅうから演劇にはまってしまって学校にも来なくなってなあ」と言われたんです。学究肌の先生で学生のことなんかあまり眼中にないんだろうと勝手に思いこんでいたのですが、とんでもなく浅はかな見立てだったんだとわかり、自分はほんとうに人のことがわかっていないと恥じ入ると同時に感激しました。その後震災がありました。かつてわたしの女友だちだった人の実家があったあたり、たぶん津波で壊滅したと思います。わたしがよくぼんやりと焚火をしに行っていた海岸のある、閖上という港町も津波で根こそぎ更地のようになりました。その港町でよく行っていた中華料理屋も。

徒然なるままにそこはかとなく書いているとあやしうこそものぐるほしけれですね。

そうそう、バブルの話をしてたのでした。バブル時代に学生だったという話です。「トリップ・トゥー・ワンダーランド マハラジャ」なんてコマーシャルやってたころですが、わたしには関係のない話でした。いや、一度だけ、当時「ディスコ」と呼んでいましたが、行こうとしたことがあります。文ゼミのメンバーとです!(文ゼミについては「もりそばとかけそば」をご参照ください。) そのときわたしは下駄を履いていました。おまけにどてらを着ていました。そして、男ばっかり5、6人でした。そしたら入店拒否されました。当たり前ですね。というわけでバブルとは縁のない日々でしたが、たしかに、企業からの会社案内みたいなのは毎日毎日山盛り配達されていました。そんなものかと思ってましたが、就職活動するでもなく卒業するでもなく、なめくじのような毎日を送っていたら、ある日バブルがはじけ、それっきり企業からの郵便は一切来なくなりました。そして、それからしばらくして、そろそろ就職しようかなと考えるようになりました。もう最悪です。

待てよ、そもそもバブルの話ではなく、音楽の話でしたね。そうなんです、「ノーミュージック、ノーライフ」です。もうすぐ2019年も終わりますが、今年じぶんはどんな音楽を新しく知ったかなと思うとちょっとお寒くなります。中山ラビの「その気になってるわ」ぐらいですかね。うわあ、古い。中山ラビに反応できるのは、希学園国語科では山下正明先生ぐらいです。実はもう希学園国語科で僕より年上なのは、山下正明先生と矢原先生だけなんですね。見た目は若い(客観的に見てそうだと確信しています)僕ですが、実はオヤジだったのです。Y田M平先生より山下T充先生より年上なのです。矢原先生はわたしより年上ですが、中山ラビのことは知りますまい。わたしは自分よりひとまわり上の世代のものが好きなので、けっこういろいろ知っているのですが。

さて、先月末に始まった国語の教育講演会も残すところあと1回となりました。12日(木)の西宮北口プレラホールです(塾生の方用に翌日も西宮北口教室で実施させていただくことになりました)。上本町のたかつガーデン、四条烏丸教室は何とか無事に終えることができました。ありがとうございました。いつもどきどきしながらアンケートを読ませていただいていますが、あたたかいお言葉が多くてほんとに感激してます。そういえばお芝居をやってたころもアンケートをどきどきしながら読んでたなあと思い出します。

ん? 教育講演会? 申し込んだけど忘れてたわ、という方がいらっしゃいましたら、ぜひ申し込まれたときの熱い気持ちを思い出して、めんどうを厭わずお越しいただければ幸いです。

いつもいつもほんとうにありがとうございます。

2019年11月24日 (日)

「これは犯罪以上だ、失策だ」

忘れないように、はじめに告知しておきます!

「国語の教え方学び方」というタイトル(確か)で、教育講演会を実施いたします。上本町と四条と西北の3会場だそうです! 西北と四条は定員をオーバーしちゃったようですが、上本町のたかつガーデン(つい「たか〇ガーデン」と言いそうになるのは「たか〇クリニック」のせいですね)はまだ少し残っているようですので、ぜひぜひお越しください。たくさん来てくださるとうれしいです。授業は、保護者の見学があるととても緊張するのですが(毎週土曜日西北で小2最レをやってますし、毎月小1~小3の灘クラブ特訓もやってますが、見学の方が多くていつも結構緊張しています)、正直、はっきり言って、教育講演会はあまり緊張しません。やっぱり子ども相手に授業しつつ、保護者の方にも意識を向けているというのはものすごく神経を使うのです。どちらか一方だけなら、頭の使い方がずいぶん楽です。

告知は終了です。このあとはいつもの与太話ですので、よほど暇な方以外はお読みになると立腹されるかもしれません。悪しからずご了承ください。

教育講演会前に「禊ぎ」といいますか、心身ともに清められようと思い、大台ヶ原に行ってきました。大台ヶ原は有名な観光地ですから、車やバスで上の方まで行けますが、そんなことはしません(ずっと昔にはしました)。大杉谷という峡谷の方から入り、苦労して登りました。そのときの記録です。

*****

6時過ぎ 駅前のコンビニでおにぎりを三つ買い、大阪行きの電車に乗る。炭水化物の塊を三つも買うなんてこんなときでなければできない。登山という良い趣味を持ったセンスの良さに感謝。

6時半過ぎ 環状線に乗る。

7時前 鶴橋駅に到着。JRから近鉄への改札の通り抜け方が謎。他の人のじゃまにならないよう、急ぐ人が通り過ぎたあとで親切そうな駅員さんに訊ねる。前の日に近鉄特急の券を買っておいたから焦らずに行動できたのだと思い、自分の深謀遠慮に感謝。予定より早く着き余裕があったので、駅そばを食べる。いつも思うのだが、月見うどん(あるいはそば)を食べると、生卵が食べにくくて困る。ところが、この駅そば屋には、「かきたまうどん(そば)」なるものがあった。これは良いと思って注文したが、かきたまも特に食べやすくはなかった。卵は栄養価が高いから残らず食べ尽くしたいのだが、生卵だろうがかきたまだろうが結局はひろがってしまい、残らず食べ尽くすためには汁まで飲み干すしかなくなるのだ。

7:11 近鉄特急賢島行きに乗車。窓辺に頬杖をつき、物思いにふける。「どうしたものか・・・」 実は鶴橋駅でトイレに行ったときに、パンツの前後ろを逆に穿いていたことが発覚。ナポレオン麾下で警察大臣を務めたジョゼフ=フーシェの言葉を思い出す。「それは犯罪以上だ、それは失策だ。」 ほんとうは車内でおにぎりをゆっくり味わおうと思っていたのに、かきたまそばを食べたせいで腹が減らないし、パンツの前後ろが反対なのも気になって食べられなかった。まさに千慮の一失だ。が、ついに榊原温泉口の辺りで解決策を見出す。トイレに行って穿き直せば良いのだ。自分の明敏な頭脳に感謝する。しかしさっきかきたまそばを汁まで飲み干したせいで喉が渇く。不覚だった。

8:41 松阪駅着。牛肉食べたい。が、そんな暇はない。

9:16 JR特急南紀一号に乗車。電車を待つあいだのホームがとても寒かった。

9:47 三瀬谷駅到着。どこだここは、どえりゃあ田舎だがね。と思いつつ駅の外に。バス停を発見してひなたぼっこしながら一日に数本の町営バスを待つ。地元民らしいおばあさんが現れる。いわゆる第一村人か(村ではなく町だが)。しばらく談話。自分が通った中学は自分の孫の代が最後、自分たちのときは1学年120人いたのに、とさびしそうに語る。都市と地方の落差を感じる。地方の活力が失われるのはさびしいが、かく言う僕自身都会でなければ生きていけないのは確か。父親は若い頃四国の辺鄙な漁村の漁師だったが、僕は地方で働くためのそうしたスキルを持ち合わせていない。かつて林業に転職できないかと夢想してネットで調べたことがあるが、林業の良いところ=雨が降ったら休めるところ、悪いところ=ちょっと気を抜くと命にかかわるところ、と書いてあるのを読んで諦めた。おばあさんはまた、昨今の高齢者の事故の増加(というより事故の増加の報道の増加?)を受けて免許を返納したとの由。「若い人が心配するから」とさびしそう。こんな田舎で、足腰のよわいお年寄りにとってはほんとうに不便だと思う。

10:20 バス到着。田舎のバスだから乗客はわずかだと思っていたら、ほぼ満員。「わたしは60代やからいちばん若いわ」など謎の会話。予定ではこのバスの中で眠って睡眠不足を解消し快適な山登りをする予定だったがまったく眠れず。荷物を軽くするため無理しておにぎりを三つとも食べ、気持ちが悪くなる。

11:30 大杉(というところ)に到着。さあ、いよいよ登山、というわけにはいかぬ。登山口までここから約2時間かかる。もちろんそんなことは先刻承知である。だからあえて登山靴(イタリアのフィットウェルというメーカーの超おしゃれなやつ)をザックに入れ、ふつうのスニーカーを履いてきたのだ。そう、登山地図のコースタイムどおりだと山小屋に着くのが日没の1時間以上あとになってしまうので、「登山口まで走る」という目からうろこのアイデアを考えてきたのだ。

12:50 登山口。思ったより時間を食ってしまった。フィットウェルのお洒落な登山靴に履き替えて猛然と出発する。

14:00頃 まさに名渓・名瀑の連続。巨大な真っ白の岩とエメラルド・グリーンの水のコントラストが美しい。もしかしたら黒部より美しいかもしれない。

14:30頃 左膝が痛くなる。舗装された道を、底のちびた、へたったスニーカーで1時間以上走ったせいだ。荷物が軽いのでどうってことないだろうと高を括ってストックを持って来なかったことも悔やまれる。いろいろ歩き方を工夫してみるが変化なし。

15:00頃 痛み増す。登りは右足から、下りは左足からを徹底する。とにかくできるだけ膝を曲げないようにするしかない。ほとんど誰とも会わないので「痛いよ痛いよ~」と声に出して弱音を吐きながら歩く。だんだん歌っぽくなってくる。「痛い痛いよ足痛い♪、とっても痛いよ左膝♪♪」 人がいないとどんな恥ずかしいことでもできる。

16:00 桃の木山の家という山小屋に到着。もしかして泊まりは俺ひとりなのではという予想はまったく外れ、二十人近く宿泊者がいた。この山小屋は檜風呂があると聞いて楽しみにしてきたのだが、おじさんたちがうじゃうじゃいて風呂を楽しみにしているのに嫌気がさして(僕も十分おじさんなのだが)、風呂に入るのはやめる。ふつう山小屋には風呂なんてものはなく、山に入ったら基本的に下山するまでは着の身着のままなんだからまったく平気さ、とひとりごちながら、ビールを飲む。

17:30 夕食。トンカツと海老フライ。美味しい。

19:30 就寝。何十人も雑魚寝できる大部屋。山小屋ではいつもオヤジのいびきに苦しめられるので耳栓持参。自分の先見の明に感謝。

??:?? あまりの寒さに目覚める。ガタガタする。寸法の小さい掛け布団をすきまなく体に巻き付けるようにしてかぶり寒さをしのぐ。

5:30 目覚める。でも起床したくない。みんな起きて、準備をしたり朝ご飯を食べに行ったりしている。でも起床したくない。しばらく布団の中で逡巡したが、他の人々と同じ時刻に出発するのがいやなので、やむなく起床。

6:15 日出ガ岳向けて出発。ますます名渓・名瀑の連続。しかしすぐに左膝が痛くなる。

7:05 コースタイム25分のところに50分かかったことが発覚。これはかなりまずい。3時半までに大台ヶ原バス停に着かないと、今日中に大台ヶ原を脱出することができない。しかしできればもっと早く着いて、カレーライスを食べてビールを飲みたい。

8:00頃 後ろからオヤジが追ってくる。抜かれたくないが膝が痛くてスピードが上がらない。焦っていたら、とんでもない崩壊地のあたりで、直後にまで迫っていたオヤジが歩みを止める。おそらく日出ガ岳に登頂するつもりはなく、峡谷だけ楽しんで下山すると見た。さらばオヤジ。俺はひとり行くぜ。

12:00頃 膝の痛み耐えがたくなり、ついに良いアイデアが思いうかぶ。手頃な枯木を見つけて杖に。ずいぶん楽になる。もっと早く思いついていれば。杖をつきながら歩いていると、ずいぶん昔の映画だが、草刈正雄がオリビア=ハッセー(『ロミオとジュリエット』で一躍大スターになり、なぜか布施明と結婚して後にやはり離婚)と共演して話題になった『復活の日』を思い出す。しばらく、布施明について思いを馳っせ-、「シクラメンのかほり」を歌う。「真綿色したシクラメンほど♪」のところで、「真綿で首を絞める」という慣用句に思いを馳せる。歌詞がわからなくなると、旧かなづかいについて思いを馳せる。

14:00 何とか大台ヶ原駐車場に到着。Y田M平隊長にメールし、味の薄いスパイシーチキンカレーを食べビールを飲む。しあわせ。

このブログについて

  • 希学園国語科講師によるブログです。
  • このブログの主な投稿者
    無題ドキュメント
    【名前】 西川 和人(国語科主管)
    【趣味】 なし

    【名前】 矢原 宏昭
    【趣味】 検討中

    【名前】 山下 正明
    【趣味】 読書

    【名前】 栗原 宣弘
    【趣味】 将棋

リンク