2020年5月12日 (火)

場外乱闘②

タイムトラベラー矢原の新作です!

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「初夏の旅なつかしく ②」

こんにちは。国語科の矢原です。長い時を経て、ようやく第二章に入ります。さて、下関をあとにして今度は山口県の中央部、美祢(ミネ)市に向かいました。
駐車場に車を駐めたのはちょうどお昼ごろ。食堂や土産物店が並んでいますが朝食の海の幸でお腹がいっぱい、昼食は後回しです。
小径の脇の小川が澄んでいました。カエデの青葉を過ぎたところに橋が架かっていて、その向こうにぽっかりと大きな入り口が現れました。日本一有名な鍾乳洞、秋芳洞です。「しゅうほうどう」ではなく「あきよしどう」と読みます。洞窟はヒンヤリするとかで用意よろしく薄手のシャツを羽織っています。

「彫刻の谷間」
カルストの 丘の麓に現れし
岩の裂け目を たどりてゆけば
地下水が生み出す 作品の数々
秋芳の洞穴 アーティストの業

洞穴が延々と続いています。中は意外なほどに広く、いま改めて調べたところ広さ200m、高さ80mに達するところもあるそう。十数年ぶり二度目の探検です。
神秘の造形に改めて驚きつつ地下深くへ進むと不思議なことに山や湖のようなところがあります。奥の方にエレベーターがあって地上に出られます。のどかな丘の上は冷えた体に陽射しが心地よく、青い空と草の香りがある別世界。再入場できるので自然の彫刻が並ぶ洞穴を逆にたどって戻りました。


小腹が空いたので軽くお昼を摂って次なる目的地へ。食後のソフトクリームは夏みかん味、さっぱりします。
途中、萩往還という道を通りました。関ヶ原の戦いののち長門の萩に国替えさせられた戦国の雄、毛利家の殿様が参勤交代に使うのに切り開いた道だそうです。吉田松陰がその最期に江戸に送られたのもこの道です。道の駅にも夏みかんが大きな網に入れられてキロ単位で売られていました。味見してみて帰りに買うことに決めました。
着いたところは萩の松下村塾、この夜の宿も萩です。

「松の教え」
萩ゆきて松陰先生に会いきたり
至誠の教え 天下を変えし
玄瑞 小五郎 晋作を育て
竜馬 吉之助を疾らせたるか

親戚の叔父かたの庭先を借りて、わずか八畳ほど。まさに小屋と呼ぶべき建物に驚きました。天下に聞こえた塾はこんなにも粗末な造りだったのです。至誠を貫き、志を大切にした松陰先生の人柄が偲ばれました。萩ではただに「先生」というと、それは松陰先生のことだそうです。日本の新時代の土台を作った偉人。土地のかたの尊敬には並々ならぬものがあります。
近くの土産物屋の張り紙で夏みかんについて知りました。この辺りは日本の夏みかん発祥の地で、幕末から明治にかけて財政を救うために栽培が奨励され萩の名産となったそうです。ちょうど五月が実の最盛期で香りが広がっていました。時季に訪れた皇太子時代の昭和天皇は「町に香水がまいてあるのか」とおっしゃったそうです。

松下村塾のすぐ奥、吉田松陰を祀った松陰神社を参拝してから辺りを散策。伊藤博文の旧宅を見つけました。近くに吉田松陰の生誕地もあります。この辺りは萩の町外れ。身分の低かった二人の家があったのも頷けます。周囲のお宅の庭先にも夏みかんの実が揺れていました。
日が暮れてきたので予約していたホテルにチェックイン。温泉に浸かり、これまた魚介メインの晩ご飯をいただきました。
歴史の舞台、自然の絶景を巡った一日を終えました。旅の寝床では今ここにいる不思議を感じます。本州のほぼ西端で眠りにつきました。

2020年5月10日 (日)

国語科講師からのリレーメッセージ⑭「手紙」

第14弾は山添tr! ナウいヤングです。

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拝啓

 

 行く春を惜しむ間もなく汗ばむ陽気となりましたが、皆様いかがお過ごしですか。

 

 ブログの記事だというのになぜこのような手紙めいた書き出しにしたのかというと、それはこのたびの外出自粛中に鑑賞した、とあるアニメーション作品に触発されたためなのです。

 

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

 

 美しいタイトルにまったく名前負けしない、すばらしい作品でした。

 主人公のヴァイオレットは、幼いころから軍隊に所属し、敵と戦うための"道具"として生きてきました。そのため彼女は、感情を持たないまま成長してしまいます。戦争が終わり、彼女に残されたのは、自分を庇護してくれた上官ギルベルト少佐が最後に告げた「愛してる」という言葉だけ。しかし、感情を持たないヴァイオレットには、この言葉の意味が理解できませんでした。そんな中、彼女は「自動手記人形」という仕事に出会います。かんたんに言えば手紙の代筆です。依頼主の気持ちを、依頼主の代わりに言葉に代えて手紙を書く。この仕事を通して、ヴァイオレットは徐々に"愛"を知っていく‥‥‥。

 手紙の代筆で愛を学ぶ。すてきなお話だと思いませんか。電子メールやLINEなどのメッセージアプリが普及した今の世の中、わざわざ手紙を書く人は激減しました。かくいう私も、最後に手紙を書いたのはいつだったか思い出せません。たかだか二十数年しか生きていないのにもう記憶に残っていないとなると、子どものころに何度か書いたくらいで、ほとんど経験がないということなのでしょう。しかし先日、久しぶりに手書きの手紙をいただく機会がありました。普段のメールの何百通分もうれしい気持ちになります。やはりメールより紙の文書のほうが、それもできれば手書きのほうが、気持ちが伝わりやすい。

 それはおそらく、こめられた思いの差なのでしょう。LINEは便利で楽で、気軽に使えてしまいます。だから人は言葉に思いをのせることを忘れてしまう。手紙を書こうとするとなんだか気が重くなります。でもだからこそ、手紙には差出人の思いが強くこめられる。差出人は相手のことを考えながら文字をしたためて、封をする。物理的な封などではとても閉じふさげないその思いは、読まれたとたんに一気にあふれだす。さらにそれは周りの人々にまで響いていく。もちろんヴァイオレットにも。たくさんの人々の思いが彼女に響いて彼女の心を揺り動かしていく様子を、美しい映像と音楽で丁寧に描き出したこの作品に、私も心を震わせられました。

 

 手紙には書き手の強い思いがこめられる。その思いは現実とフィクションの垣根をも飛び越えます。小説の中には、登場人物が書いた手紙を連ねることによってストーリーを進めていくものがあり、これを書簡体小説といいます。書簡とは手紙の別の言い方です。小説でも、手紙の形にすることで手紙の書き手の心理をありありと描き出すことができるのです。

 例えば、ドイツの文豪ゲーテの『若きウェルテルの悩み』。青年ウェルテルが婚約者のいる女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望し自ら命を絶ってしまう物語です。主に主人公ウェルテルが書いた手紙によって構成されています。この本は出版当時ヨーロッパでベストセラー となり、この本に影響された若者たちがウェルテルをまねて次々と自殺するという事態にまで発展しました。それほどに、手紙は書き手の思いを読み手に届けるのだ、といえるかもしれません。

 ほかにも有名どころでいえばイギリスの作家メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』があります。あの四角い縦長の顔をした怪物の絵や写真を、だれもが一度は目にしたことがあるはずです。しかしその原作小説を読んだことのある人は案外少ないのではないでしょうか。この本も、冒頭はウォルトンという青年が姉に宛てて書いた手紙から物語がはじまります。読んでみると分かりますが、実はこわいというよりとても悲しいお話です。興味があれば読んでみてください。ちなみによく勘違いされますが、あの有名な怪物は「フランケンシュタイン」ではありません。「フランケンシュタイン」とは怪物をつくった博士の名前です。あの怪物に名前はありません。

 

 このように手紙についてあれこれと考えているうちに、なんだか私も手紙を書きたくなってきたのです。そしてちょうど今回、ありがたくも皆さんにメッセージをお伝えする機会をいただきました。ブログという形ではありますが、私なりに皆さんへの精一杯の思いをこめてしたためます。いつも希学園で元気にがんばる姿を見せてくれて、ほんとうにありがとう。君たちの一生懸命勉強している姿に、私はいつも励まされています。君たちのおかげで、私もがんばろうと思えるのです。自分のしてきた努力に誇りをもってください。私の小学生のころなど、君たちの足元にも及びませんでした。いや、もしかしたら今でも及ばないかも。学びや努力を楽しむことができる君たちは、私にとってはあこがれの存在です。今はカメラ越しにしかお会いすることができませんが、また教室で元気に学ぶ姿が見られることを楽しみにしています。そしていつか皆さんに、今度はちゃんと手書きの手紙を送る機会があればいいなあと心から思います。

 皆さんも、だれかに思いをこめた手紙を書いてみてはいかがでしょうか。友達でも、家族でも、普段は会えないおじいちゃんおばあちゃんや親戚でもかまいません。人との接触を避けなければならない今、大事なのは人と人とがコミュニケーションをとることです。言葉で思いを伝え合うことです。手紙は今は会えない人と人を結んでくれます。実際に会うよりもずっと強く結びつけてくれます。手紙を一通書くだけで、国語の授業何時間分も人として成長できると思います。ぜひ一度、相手のことを思って、じっくりと丁寧に言葉を紡いでみてください。

 

 では、また授業でお会いしましょう。

 

                                                 敬具

  令和二年五月五日

                                               山添唯斗

希学園塾生の皆様

 

2020年5月 9日 (土)

国語科講師からのリレーメッセージ⑬「いただきましょう」

ついに第13弾! ゴルゴダの丘を登るのはもちろん、「ね、うし、とら、う、たっちみー」の山下高充trです。そして13といえば十三! ちなみに十三教室前の信号が青になったときの「ピッポー」という音はちょうど13回鳴りま~す。怖い!

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 こんにちは。国語科の山下高充です。今日も一緒に勉強していきましょう。
 前回は阿部先生よりインドア生活を満喫しようというお話がありましたが、みなさん楽しんでらっしゃいますか。私もZoom授業をテレワークで行うなど外出する機会を減らしていますので、ここは徹底的に外出を控えようとカレーを三日分作り置きしました。おいしかったです。とはいえ三日目にはさすがに飽きてしまい、きゅうりとセロリでサラダを作りました。さっぱりしておいしかったです。
 さて、今回カレーに飽きてサラダが食べたくなったのは何も同じ味が続いたためだけではありません。カレーはことこと煮込むので野菜に含まれるビタミンCが壊れてしまい体内で不足します。そうすると不思議なもので体はビタミンCを多く含む食材を食べたくなり、またいつもよりもおいしく感じるんだそうです。それで今回はサラダがほしくなり、おいしくいただけたと。よくできているものです。おなかをすかせた状態で買い物に行くと自然と今足りない栄養をふくむものを買うことが多いとも言われています。生命の神秘ですね。
 じゃあ食べたいものだけ食べればいいじゃんとなりそうですが、そう都合よくはいかないところが自然のおもしろさ。このほかにも例えば生命の維持に欠かせない食材は不足していなくてもおいしいと感じます。代表的なのが塩と油、そしてでんぷんです。でんぷん豊富なじゃがいもを油で揚げて塩をふったポテトフライなんかはおいしくておいしくて仕方ありませんね。何かの記事で見ましたがアメリカではポテトはベジタブルだからボディにグッドなヘルシーメニューということで山盛りのポテトフライを毎日食べる人がそこそこいるそうです。その記事に出ていた人は健康に悪そうな体になられていましたが。
 おいしさを生み出す要素は、5年生のテキストにもありましたが、その他にもいろいろな要因があります。おいしいと思って食べることも大切です。普段の食事をおいしいと思いながら食べることは脳にもいい影響があるそうです。これは実践せねばですね。また、食べるときの気持ちも大切です。落ちついた気持ちで食べるとしっかり味わうことができます。悲しみやあせりを感じているとおいしさも大幅ダウンです。宿題は予定通り仕上げてからごはんを食べましょう。
 自分が作った料理はおいしく感じるという人もいます。もしかしたらこの時期家族のご飯作りを手伝っていますという人もいるかもしれませんね。とはいえ刃物を使うこともあり誰でもができることではありません。ではその他の家事のお手伝いをしてみたらどうでしょうか。お皿を用意したり洗ったり、炊事に協力することでご飯がいつもよりおいしく感じるかもしれません。ご飯作りだけでなく、掃除などもきちんとやるとなかなかの運動になることもあって一石二鳥です。"Hunger is the best sauce."(空腹がいちばんの調味料。)という英語のことわざもあります。勉強もお手伝いもがんばっておいしいご飯をじっくりと味わいましょう。

2020年5月 7日 (木)

国語科講師からのリレーメッセージ⑫「ヒキコモリンの市民」

ときどき乱入する人をものともせず、リレーメッセージ第12弾! 阿部trです~。

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漫才コンビ「ナイツ」のボケである塙さんが、以前あるテレビ番組でこんな話をしていました。「好きな音楽と演じるネタは似てくる」と。たしかにロックが好きなバイきんぐ小峠さんはシャウト系のツッコミですし、オードリーあたりは、噛み合わない不協和音がいつの間にか収束する、いかにもジャズ好きという感じがします。そう思って、これまでの記事の中から希の先生方の好きな音楽というのを眺めていますと、先ほどの「演じるネタ」を「授業」と置き換えても成立しそうです。

僕は幼いころからパッヘルベルの「カノン」という曲が好きです。おそらく誰でも一度は聞いたことのあるクラシック音楽ではないでしょうか。JPOPの中にもこの「カノン」を応用して作曲されたものが多数あるそうな。しかし、そうすると僕の場合、何系の授業になるんでしょうね。うーむ。まさか荘厳な授業なわけがあるまいし。

そんなわけでカノン大好き少年だった僕は、中学校に入って初めて携帯電話を買ってもらった際に、着信音を迷わずカノンに設定しました。当時はいわゆる「ガラパゴス携帯」の時代であり、メールが着信してもその長めの着信音が鳴ったものでした。

ところが、携帯が鳴ることはあまりありませんでした。なぜなら当時友達とは、パソコンからのメールや通話で十分事足りたからです。パソコンを通じて友達とは遊んでいた、というわけですね。完全にインドア生活を満喫していた僕たちの当時の遊びは、今の状況にぴったりだと思いますので、3つほど紹介したいと思います。

 

①たほいや

国語辞典を用いたゲームです。3人以上推奨です。

1.誰かが参加メンバーの誰も知らなさそうな語句を国語辞典で選びます。

2.その語句をほかのメンバーに提示します。ほかのメンバーは語句の意味を勝手に考えて提示します。その際に他のメンバーをだませるような意味を考えて書きましょう。特に国語辞典特有の言い回しを使うことがコツです。

3.語句を提示した人に全員の回答をお互い見ないようにして集めます。解答が集まったら、正解を交えた解答を他の人に提示します。

4.解答を考えた人々は正解を当てます。解答を当てた人と他の人をだませた人に1ポイントずつ入ります。

5.以降はこれを繰り返します。

 

②ウミガメのスープ(水平思考ゲーム)

僕の「話題」を扱う授業を受けた3.4年生だとこのゲームをみんなですることもあったかなと思います。自作の例題を交えてご紹介しましょう。

問題:女が家事をしていると元気な子供が生まれた。これはどういう状況だろうか。

1.このお題に対して「はい」か「いいえ」で答えられる質問をします。

例:現代日本でありえる?→いいえ

    昔話ですか?→はい

2.質問を繰り返すことで正解の核心に近づいていきます。ちなみにこの例題の想定解は「桃太郎」の最初です。納得いきましたでしょうか。何についての話かが分かると文章の理解がスムーズになりますよね!

問題がなかなか浮かびにくいかと思いますが、「ウミガメのスープ」で検索していただくと結構出てきます。また書店でも問題を集めた書籍が売っていますので、お買い求めくださっても良いのかなと思います。真相が怖いものもあるので、低学年の方々がやる際には保護者様がお題を選んでいただければと思います。

 

③ワードウルフ

あるお題について話しあう中で、周りとは違うお題を与えられた1人を探すゲームです。4人以上推奨です。

1.ある1人がお題を考えます(最近はお題を生成するアプリも出ているようです)。この人を親とします。その時多数派と1人用の2つを考えるわけですが、よく似たお題にするのがコツです。

2.親は親以外の人(子)にお題を配ります。当然、子同士ではお題が分からないようにする必要があります。

 3.子による話し合いです。お題についてまつわる話を話していきますが、当然、1人用のお題を振られた子(ワードウルフ)は他の人と話す内容に矛盾が生じます。それをいかにバレないようにするかが肝です。時間を決めて行いますが、3分ほどで短く区切るのがおすすめです。黙っている人が有利なので、それぞれ何かしらは話すというルールを作るのも楽しいかもしれません。

 4.投票の時間です。ワードウルフだと思う人を投票により多数決で決めます。この時ワードウルフは適当に投票することになります。

 5.投票でワードウルフを当てられなかった場合、ワードウルフの勝ちです。逆にワードウルフを当てた場合、ワードウルフは多数派のお題を当てにかかります。もし、それで充てることが出来ればワードウルフの勝ちです。(ですので多数派は話し合いの際にワードウルフにお題をさとられぬよう、あいまいに話す必要があります。)

 

いかがでしたか?ご家族でやるのもよし、お友達と通話を介してやるのもよしですね。国語の先生はこういう時、読書を勧めてしまいがちですが、あえて今回は国語に関係のあるようなないような、そんな遊びを紹介してみました。家にいても楽しく過ごす方法はいくらでもありますので、工夫しながら乗り越えていきましょう!それでは良きインドアライフを!

2020年5月 5日 (火)

国語科講師からのリレーメッセージ⑪「朝が来るまで」

リレーメッセージ第11弾は、前回乱入してきた大ベテランの矢原trとは対照的な、とっても若々しい(でも私より少しだけ年上の)髙宮trです。題も詩的でいいですね。魂の詩人である私の胸を打つタイトルです。では、どうぞ。

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みなさん、こんにちは。
国語科の髙宮です。
政府から緊急事態宣言が出されて約一ヶ月が経ちました。社会全体で不要不急の外出をひかえるということが言われ、このゴールデンウィークも皆さん家で過ごしていることかと思います。二、三日くらいであれば家でずっと過ごすのも悪くないと思えるかもしれません。しかし、こんなにも長い間外出をひかえなければいけないことになると、外で遊べなかったり、友達に会えなかったりと不満や退屈だという気持ちがたまっているのではないでしょうか。ただでさえ、不安な情勢である上に、思うように自分のやりたいことができないという今の状況は皆さんにとってはもちろんつらいと感じるでしょうし、大人でもそうです。
突然ですが、今のみなさんの心は自由ですか?それとも不自由ですか?
「そりゃ、身体がロクに外出できないんだから心も不自由だろう!」と思うかもしれませんね。
ここでフランクルというお医者さんが書いた『夜と霧』という本のお話をしましょう。
第二次世界大戦のときのドイツでは、当時の政府がある民族を差別し、強制収容所というところに閉じ込める、ということが起こりました。そこではまともな生活の空間どころか、食料や衣服も満足に与えられないというかこくな状況があったようです。そんな環境で命を落とす人が出てくる中で、収容所に閉じ込められた人たちはこの先どうなるのだろうかという不安に心まで支配されてしまいそうになります。
そんな状況の中で同じく収容所に閉じ込められたフランクルはどう行動したと思いますか?
彼は仲間とともにはげまし合い、はなればなれになってしまった妻と心の中で対話し、医者として患者をささえながら、何とかこの状況を生きのびたそうです。
かこくな状況に命を落とす人もいた中で、フランクルをふくむ一部の人々はいきのびることができた。これは何を意味するのでしょうか。
もちろん運が良かったということもできますが、フランクル自身は「未来の目的に目を向ける」ことが大切だったとふり返っています。彼は「生きていることにもうなんにも期待がもてない」という男たちに、子どもや家族、仕事といった一人ひとりにとってかけがえのないものの存在を思い出させ、彼らに生きる意味を自覚させたのでした。
彼が引用した哲学者ニーチェの言葉も紹介しておきましょう。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
まさに、自分を待っているものの存在に対する責任を自覚した人々は、生きることをあきらめるわけにはいかなかったのです。
強制収容所のかこくな環境は彼らをせまい場所に閉じ込め、ときに命をうばいましたが、自分を待っているものの存在を想い、未来の目的を自覚して、つらい日々をなんとか仲間と支え合って乗りこえようとする、そんな心の自由まではうばえなかったのですね。
私たちの置かれている現状は、強制収容所のような状況とはまた少しちがいますが、フランクルの話は現状を乗りこえるためのヒントをくれるのではないでしょうか。
外出する自由が制限され、不安がつづく日々でも、楽しいことを思いうかべたり、ささやかな幸せを見いだしたりする、という心の自由はうばわれません。先生にとっては「友達と美味しいご飯を食べたいなぁ」「旅行にも行きたいなぁ」「大好きなカラオケにも・・・」と思いうかべ、友達と連絡を取り合ったり、好きな音楽を聴いたり(少しだけお風呂場で歌ったり)することです。
つらい環境でもどのようにふるまうかはまさに自分次第なのです。未来の目的をそれぞれが自覚して、毎日を有意義に過ごし、みんなではげまし合って、この危機をなんとか乗りこえたいものですね。
 

2020年5月 3日 (日)

場外乱闘シリーズ①

先日より国語科講師によるリレーメッセージを発表いたしておりますが、この流れを無視し、過去から突如として時を超えて乱入してきた不埒な講師がおりますのでご紹介いたしましょう! ダンディ・矢原です。ゲッツ!

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「初夏の旅なつかしく ① (2017年11月ぶん 再掲)」

ご無沙汰しております。国語科の矢原です。外出もままならない皆さんに初夏の旅行気分を味わっていただこうかと思います。
実はこの①は今から三年前の記事でして、旅に出かけたのはその三年前のことです。②以下を書かないまま今に至っておりました。大いに反省し謹んで続きをお届けいたします。
日頃その時どきの感慨を数行にしたためたりしております。その書き付けを頼りに数年前を思い出しながら初夏の旅の様子を振り返ってみます。写真もあまり撮りませんので文字ばかりですが、それもまた一興かと。


「Driving in May」
ビューン Go Go Expressway!
夜明けの出発 初夏の快適
サービスエリアで朝のコーヒー
目的地まで あと300キロ!

うまく休めそうだったので珍しく宿まで取って出かけました。折角の機会を有効に使うため、前日は寝たこともない時間に床に就きまして。まだまだ夜明けとは言いがたいころに出発です。
暗いうちにどんどん進みます。なんと今回は、初日の朝ご飯を旅先で食するという大胆な作戦です。もちろん行き先は決まっていますがどこを訪れるかは大まかにしか決めていません。静かなところでゆっくりするなどという思想も全くもって持ち合わせません。当地を味わい尽くすつもりで盛りだくさんにメニューを詰め込みます。
中国自動車道をしばらく走ったところで珈琲タイム。さらにどんどん走って、海に下れば広島県の宮島という辺りでプチ仮眠。だんだん明るくなったところでさらに西へと進みます。


「命運の海峡」
初夏の関門海峡 光と陰よ
八艘飛びに 義経 踊れば
長州藩には 苦難と栄光
巌流島見ゆ 武蔵 見参!

そうです。旅先は山口県。まずは下関の海端にある唐戸(カラト)市場で絶品の朝ご飯。
本物の魚市場ですがもはや観光地です。まずは、市場で働く方々も利用する2階の食堂で定食をいただきます。新鮮なのを揚げたり煮たりしたのや刺身がどっさり。朝ご飯にお刺身は最高ですが焼き物や煮物も抜群です。鮮度がよいものは火を通しても味が違います。
食べ終わってから1階をぐるっと回ると魚介の卸の店舗でお寿司コーナーが始まります。小分けのパックに入ったのを買って、あちこちに置かれたテーブルとベンチでいただきます。美味しい握り寿司は別腹ですね。

満足したところで目の前の海峡を眺めながら腹ごなしのお散歩タイム。大小多くの船が行き交います。この海峡の通行料が長州藩の財政を支えたそうです。そのすぐ向こう届きそうで届かない距離に九州が見えます。海峡には物語が付きものですが、ここ関門海峡は数々の大がかりなドラマの舞台です。
朝の潮風を受けながら東向きに歩くと旧式の大砲が並んでいます。関門海峡の昔の名は壇ノ浦。幕末の長州藩が列強相手に攘夷の戦を敢行した場所であり、長州征伐の幕府軍を返り討ちにした場所です。古戦場である壇ノ浦砲台跡。車輪付きの木組みの上の西洋式大砲をさわると長州藩の難渋と歓喜が伝わってきます。旧式の大砲を捨て、最新鋭の火器と軍艦を手に入れた長州軍は生まれ変わりました。藩を窮地に陥れた大敗、歴史の転換点となった大勝利は共にこの海峡での出来事です。
砲台の脇には八艘飛びの源義経と、イカリをかついだ平知盛の像が向き合うように置かれています。振り返って唐戸市場の向こう側、関門海峡の西の端には巌流島が浮かんでいます。あの宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った島です。若い頃に初めて九州を訪れた際にここを通って知りました。吉川英治の名作は高校生のころに読んだはずなのですが、巌流島の場所を意識していませんでした。

さあ車に乗りこんで出発。数分も走らずに「るるぶ」で見つけた赤間(アカマ)神宮に立ち寄ります。尼に抱かれて壇ノ浦に入水した安徳天皇を祀ったところです。ついでに訪れる場所はこうやって現地に来てから見つけていきます。
海峡に望む立派な神社はお寺のような風情。人も少ない静かな境内を奥へと進むと平家一門を祀る塚がありました。栄華を極めた一門がこの地で滅んだことがよく分かりました。その傍らには耳なし芳一を祀った芳一堂。こんなものが実際にあるとは思いもよりませんでした。

赤間神宮を出て少し進むと何やら施設がありまた車を停めました。いま調べると関門プラザというところでした。表示を見ていると関門トンネル人道というのがありました。なんとエレベーターで地下に降り、徒歩や自転車で九州に渡れるのです。時間の都合でほんの少し地下を歩いてみただけですが、非常に面白い体験でした。これまたいま調べてみると距離は780メートルで、海底の歩道の途中に県境の線があります。歩行者無料、自転車20円。

さてまだまだ午前中がたっぷり残っていたかと思います。次の目的地に向け出発します。
たかだか一泊旅行の話ですのですぐに終わるかと思って書き始めましたが、思い出すことや懐かしくて調べ直したことを書き始めると結構な量になりました。今日の所はこの辺で。
この調子であちこち見歩くのですが、盛りだくさんとはいえ駆け足で見て回るようなことはしません。食べたり飲んだりのぞき込んだり笑ったり感心したり、旅は楽しんでナンボです。

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②~④は近日公開!

2020年4月29日 (水)

国語科講師からのリレーメッセージ⑩「こんなご時世にお出かけの話を」

いよいよ第10弾! 中川trです。中川trのことを知っている人は、以下の文章を読んだあと、こう呟くことでしょう。「なるほど、それでか~。」

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みなさん、こんにちは。
国語科の中川です。
私はたまにではありますが、思いつきで出かけることがあります。
その目的は基本的に「食」。すなわち、「おいしい物を食べる」です。
今回は今までのお出かけシリーズの中からひとつみなさんにご紹介したいと思います。

◆お好み焼きが食べたい!→広島へGO!!
やはり関西人にとって「粉モン」は最強ですよね。この前も読売テレビの「ケンミンショー」で取り上げられていましたし、しばしば関東人から馬鹿にされますが、お好み焼きや焼きそばをおかずとしてご飯を普通に食べますよね。というか食べたいですよね!ま、そんな話は置いておいて、個人的にはお好み焼きにもいろいろありますが、私は「広島焼き」が好きなんです。ということで、ふと「広島焼き」が食べたくなったとき、私の足はすでに広島に向いています。別に今午後6時であっても、です。だって新大阪から新幹線で1時間半もかからずに到着できるんですよ(近いでしょ!)。最近JR広島駅の駅ビルがリニューアルされ、その中に広島焼きの店舗が複数入っています。もちろんここで食してもかまわないのですが、せっかくなので、もう少し町中に入ったお店で食べたいと考えた私は地元民に聞き込み。その結果、駅からバスで10分程度のところにある「お好み村」というビルにたどり着きました。4階建ての建物がまるごと「お好み焼き屋さん」。中に25店舗ほど入っていて、何とか店ごとの境界が区切られている程度であとは長ーい鉄板が一枚、という感じの構造になっています。どの店もおいしそうなお店ばかりですが、私は店員のおばちゃんの愛想の良さなどお店の雰囲気も好きな一つのお店に行くといつも決めています。広島で広島焼きを食べて驚いたのは、中にやきそばを入れると思いきやなんと「うどん」を入れる店もある(正確にはお客が選ぶ)ということです。案外というか個人的にはうどんを入れた方がもちもちした食感が楽しめるので好きです。
 せっかく広島に来たのですから、お好み焼きだけで帰るのはもったいないですね。時間に余裕があれば、JR広島駅から宮島口駅に移動しましょう。すると、駅近くにはいくつかの牡蠣小屋やあなごめしの専門店があります。合わせて食したいところです。
 それでも時間にまだ余裕がある場合は宮島観光や、原爆ドームなどを時間の許す限り見て回るのも良いでしょう。

ちなみにそのほかにも
◆ひつまぶしが食べたい!→名古屋へGO!!
◆とんこつラーメンが食べたい!→博多へGO!!(太宰府天満宮にも忘れずに行きましょう)
◆うどんが食べたい!→香川へGO!!
などなど……尋ねてもらえればいくらでも語ります。

不要不急の外出自粛が解けたあかつきには、ぜひいろいろみんなも行ってみてください!

2020年4月28日 (火)

国語科講師からのリレーメッセージ⑨「字がていねいだと得か」

第九弾は栗原trで~す。

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 栗原です。茨本先生からの「あたりまえ」というバトンを握って、ひさしぶりに記事を書いてみました。
「あたりまえ」の反対は「ありがたい」なんていうのはもう「ありきたり」なので、今回は、こういう「あたりまえ」を検証してみます。「あたりまえ」だとだれも理由を説明してくれないし、深く考えようとせずに「あたりまえ」だから従わなければいけない、という風潮もありますから。

字がていねいだと得か

 自慢ではありませんが、と書くと嫌みが増すので、いっそのこと正直に自慢しておきますが、私は字がきれいだとよく言われます。自慢です。いや、自慢しなくてもかなりの方がほめてくださるので、わざわざ自慢する必要もありません。自慢しなくてもほめられる! これはある意味「究極の自慢」と言えるのではないでしょうか。
 そもそも自慢というのは自分から自分の良さをアピールする「広告宣伝」ですから、「広告費用」が要ります。この場合の「費用」というのはお金のことではなく、友人との会話の中で自慢するチャンスをさがしてしゃべったり、SNSなどに人がうらやむような幸せな写真をアップしたりする「手間」「労力」だと思ってください。
 人間、他人の自慢はなかなか受け入れられません。素直に受け止めて「おめでとう!」「うらやましい!」とはなかなか言えないし思えないものです。ですから、自慢は往々にして、失敗します。効果ゼロどころか、逆効果ということもしばしばあります。
 しかし、美しく字を書けば、何も言わなくても「広告宣伝」が自然なかたちでできます。字が美しく書けるというのは、それだけで「この人はちゃんとしているな」と思わせる説得力があります。少なくとも、だれからも、だらしない人とは思われないでしょう。

 字がきれいだと得か。その問いには、上の理由で「得です」と答えておきます。国語の先生を長年やっている私の実感です。これはほかの職業の人なら、より「得」を感じることになるはずです。
 国語の先生だから字がきれいで当然だという考えもあります。ということは、「意外性」はないわけです。これが、算数の先生だったらどうでしょう。もっと職業をちがうものにして、字を書くこととあまり縁のない職業だったらどうでしょう。字を書く機会が少ないわけですから、「宣伝」する回数が少ないわけですが、一回の宣伝効果を考えると、意外性が高く、効果は抜群でしょう。
 別に得なんかしたくない、それより字の練習をする労力がもったいない、という人もいるでしょう。また、字なんて読めればいい、という考えも、根強くあると思います。そういう人への反論・説得として次のようなことを挙げておきます。
 味が同じならば、より美しく見える料理や盛りつけのほうが値打ちが高くなります。付加価値です。車だって、乗れればいい、速く走ればかっこわるくてもいいと思う人は少ないでしょう。服ならどうですか? 暖かければ、体をかくすことができれば、それでいい、と思う人はさらに少ないでしょう。
 サン=テグジュペリ「星の王子さま」の第4章に出てくるトルコの天文学者の話を紹介しましょう。王子さまの星である小惑星B612を発見したこの天文学者は、学会でB612の発見について発表しました。しかし、そのときトルコ風の民族衣装を着ていたために、ほかの学者たちから信用されなかった。その後、もう一度ヨーロッパ風の、立派な背広を着て発表をしたら、ようやく認められたという話。この話よく考えたらトルコに失礼ですよね。「世界三大料理」と言えば中国料理・フランス料理・トルコ料理というくらいで、世界屈指の古さを誇るトルコ文化なのに! 
 話が横道にそれました。「おとなは、本質的ではない、見かけなどをたいせつにして、ほんとうにだいじな、目にみえないことには興味がない」というこの本で書かれていることとは逆なのですが、私はこの部分を読んで「見た目はやはり大切だ」と思ってしまいました。立派な印刷で書かれた文章は、やはり訴求力があります。
 もちろん、手書きのチラシなどにも味はあります。でもそれは、世の中が美しく整然と印刷された文書ばかりになっているからこそ、下手な字、素朴な字が目立つのでしょう。いわゆる「逆張り」というやり方です。でも、素朴な字をわざと売りにするのはおかしい。そういうやり方をする人は「みんな今外出をひかえているから、逆にどこも空いているはずだ!ヤッホーどこに行こうか」なんて考える人、みんなと逆のことが好きな人、子どもの時からあまのじゃくが治らない幼稚な人、のように私には思えるのです。

 ここまで書くと、「字がきれいなほうがいいのはわかってる。じゃなくて、どうすればきれいな字になるの?」という質問の声が聞こえてきそうです。
 「算数が得意になるにはどうすればいいですか」「長生きするにはどうすればいいのですか」「痩せるには……」「お金持ちになるには……」という質問に答えるのが難しいように、「どうすれば字をきれいに書けるようになるか」という質問に答えるのはとても難しいのですが、三つほど挙げておきます。
①まずひらがなを徹底的に練習する。
 日本語では、読みやすい比率は、漢字3割ひらがな7割と言われています。実はひらがなのほうが多く出現します。ですから、まず先にひらがなを練習するのがいいわけです。これも、まんべんなく練習するのではなく、いくつかの字にしぼって、徹底的にその字だけをまず完璧に上手な字にするのがよいでしょう。日本語の文章でよく出現するひらがなは「い・か・ん・し」だそうです。「う」も多そうです。「い」については、左右の画をななめにする、右側を短くする、間を広めにとる、という三点を手に覚えさせればいいですし、「か」は、一画めと二画めを左に寄せてスリムに書き、三画めは間をあけて少し長めに書く、という注意を覚えればよいでしょう。「い・か・ん・し・う」のほかには、「で・す・れ・ろ」なども目立つ字なので、お手本を見つつ、練習にはげむことです。
②漢字は、右上のカドをきっちり角ばらせる。
 これだけでもかなりきれいに見えます。試しに、口という漢字の右上のかどを丸めて書いてみてください。どんなにていねいに書いてもなんだかしまらない感じになります。門・田・日など、漢字の右上の部分はつなげて曲げることが多いですが、そのときにくるりっと丸めてしまう癖のある人は、「速く書こう」という気持ちがつよすぎて、カドの部分で一旦停止せずにコーナーをショートカットしてしまうわけです。一旦停止してきっちりカドを決めるだけで、きれいに見えるものです。
③「打ち込み」や「しなり」「隙間あけ」などをしない。
 これらのテクニックは、よく「これであなたも美文字に!」なんていう安っぽい本に書かれているアドバイスです。「打ち込み」というのは、書き始めの部分をクニっと45度くらいに曲げて書くことで、毛筆などでは自然なのですが、鉛筆やペンなどの文字でやたらに打ち込みをしている文字をみると、下手な字を精一杯きれいに見せようという感じがして余計に下手に見えます。厚化粧の感があります。「しなり」も同じで、横画の真ん中の部分を上に反らせる書き方ですね。これもやりすぎると逆におしゃれではなくなります。素直にまっすぐ直線を書いたほうがいいです。歌の下手なひとのやりすぎビブラートみたいなものです。「隙間あけ」は、本来つなげる部分をあえて少し空けるという高等テクニックです。字のうまい人が、少し基本と反対のことをやるからいいのであって、これは字が上手になってから、遊びの要素としてやるべきです。初心者がやると「鵜のまねをするからす」「ひそみにならう」となってしまいます。
 以上の3点を読んでいくと、「おしゃれ」に通じるものがあるとわかってもらえると思います。「おしゃれ」の極意は、見かけだけきれいにしようとするのではなく、相手をここちよくさせようという「おもてなし」の心だという話があります。相手が「読みやすい」というあたりまえの基本が大切ということです。私は服装のほうのおしゃれにはまったくもって自信がないのですが、すくなくとも「清潔感」だけは大事にしようと思っています。あえて人のやらないキテレツな服装を好む人もいますし、それはそれでいいのですが、字は声のことば以上に「あとに残る」ものなので、ていねいに、伝わるように心をこめて書くのがやはり「あたりまえ」のマナーだと思います。人としゃべるときの「声」も同じです。女性が電話に出るときに「一オクターブ高い透き通った声で」話し始めるのを耳にします。そういう、「よそゆきの声」みたいなもので、テストの答案や宿題プリントの字は「よそゆきの文字」「おしゃれな文字」で書いてみてほしいものです!

 【この文章で出てきた、辞書で調べてほしいことば】
・検証 ・風潮 ・アピール ・往々にして ・説得力  ・根強く ・付加価値 ・屈指  ・横道
・訴求力  ・整然  ・素朴  ・まんべんなく  ・コーナー  ・ショートカット ・ビブラート
・鵜のまねをするからす ・ひそみにならう  ・キテレツ ・オクターブ

2020年4月26日 (日)

国語科講師からのリレーメッセージ⑧「あたりまえのものの中に小さな発見を」

さて、第8弾です。第8弾は茨本先生です。

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 こんにちは!国語科の茨本です。平野先生が前回の記事にて、物質的な重さではない「重い」についてお話しになりましたね。私も「重い○○」を例に挙げてお話をしてみようと思います。
 私は小さな頃から、根っからの野球小僧でした。するのも見るのも大好きで、親からは野球のことを考えすぎて、だいじょうぶなのかと心配されるほどでした‥‥。今はプレーはしませんが野球観戦という形で大好きな野球を楽しんでいます。しかし、好きすぎるが故に「君って変わったところばかり見てるよね。」と言われることも多かったのも事実です。(詳しい話はまたいつかの機会にしましょう)
 この記事をご覧になっている皆さんの中には野球が大好きな人から全く興味がないよという人もいるでしょう。しかし、興味の有無にかかわらずほぼ全員ピッチャーというワードは聞いたことがあるのではないでしょうか。大谷選手や佐々木選手のように160キロオーバーの剛速球を投げるピッチャーも出てきて‥‥、(私の中では)とてもホットな話題ではあります。
 「剛速球=飛ばなさそう」と思っている人は多いでしょう。これは当たらずといえども遠からずです。とても速い球を投げるのに、打たれたら軽々遠くに飛ばされてしまうピッチャーはたくさんいます。一方で遅い球でもなかなか遠くに飛ばない球を投げるピッチャーも数多くいます。それを私自身が体験した実話を少しお話ししましょう。

 ある日私はいつもの練習の一環としてキャッチボールをしていました。相手はうちのチームのピッチャーでした。その子はそれほど球は速くないのですが、その子の投げた球をキャッチした瞬間思いがけず、ズシンとくる感覚があり、とてもおどろきました。そういえば、その子が投げる試合では打球はめったに遠くに飛ばない、もしかしたらこのキャッチしたときの重みと打球が飛ばないことは何か関係しているのではないか。そう疑問に思った私はコーチに疑問をぶつけてみました。そのとき「重い球」を投げる人がいることを教えてもらえました。
 何気ない気付きから、新たな発見をした瞬間でした。モヤモヤがすっきり晴れたような気がしてとても気持ちよかった、そして同時にとても嬉しかった記憶があります。
 

 これまでひたすら野球について語ってきたわけですが、「あっ、これ大切なことだったな」と思ったポイントは、「見方が変われば新しい気付きがあり、さらに深いものの見え方が得られる」ということです。それまで知らなかった「重い球」というものがあると知った途端、「今のは芯に当たったのに飛ばなかった、もしかしたらこのピッチャーの投げる球は‥」という風に思って見られるようになりました。
 
 みなさんの中にも、野球に限らず私の経験と似たような経験をしたことのある人はいるのではないでしょうか?もし経験のある人ならば「分かる!」と思うかもしれませんね。霧が晴れていくかのようにサッといろいろなものが見えるようになり、気持ちも明るくなる。とても気持ちの良いものです。ぜひともみなさんにも味わってほしい感覚です。

 では、どのようにしたら今まで見えなかったものが見えてくるのでしょうか。分からないですよね、特にそんな経験をしたことのない人ならなおさらです。いいのです、気にしないでください。これからですから、皆さんの場合は。そこで一つ、私の一意見としての方法をお話しします。とても単純です。
 それは、あたりまえのものをあたりまえと思わないことです。あたりまえだと思ったら細かいところまで注意は行き届かなくなります。そうするとせっかくのおもしろポイントを見逃してしまいます。もったいないですよね。世の中は私たちの知らないことであふれかえっているのに。「おっ!そうだったのか!初めて知ったぞ!」と気付くことが増えれば、楽しい上に人生も彩り豊かになっていくと思いませんか?勉強だけではないのです、私は、あなたたちに素敵な人生を歩んでほしいのです。そのためには、いつも見ている窓からの景色や気にも留めないような道ばたの花など、まずは身近なところから目を向けていきましょう。だまされたと思ってやってみてください、意外な発見があるものですよ。そこからどんどんつながって大発見をすることも夢ではないかも‥‥?

 日常のあたりまえなものは、あなたたちにたくさんの成長のヒントを与えてくれます。いつか思い出したときでかまいません、新しい発見をしてみましょうね。
  

2020年4月23日 (木)

国語科講師からのリレーメッセージ⑦「重い音」

さて、第7弾は意外性の男、平野trです。ヘヴィメタ(小学生のみなさんにはよくわからないと思いますが)が好きだったなんて意外ですねー。ゴスロック(小学生のみなさんにはますますわからないと思いますが)が好きだった私とは趣味が合うようで合わなそうです。

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 こんにちは、国語科の平野です。国語科の先生って、音楽が好きなんでしょうか。なかなか音楽からはなれることができません。

 西川先生が書かれていましたが、音楽の好き嫌いってなかなか人と合わないですよね。私は小学校1、2年生の頃は兄の影響で 洋楽をよく聴いていました。「シンディー・ローパー」とか、「ワム!」とか、「スティービー・ワンダー」とか。年がばれそうですが。
 高学年になると、これまた兄の影響でクラシックにはまっていきました。中でも聴きまくっていたのがベートーヴェンのピアノソナタですね。「悲愴」「月光」「熱情」が大好きでした。「月光」は第1楽章が有名ですが、第3楽章が最初から最後までかっこいいので今でもよく聴いています。
 で、中学に入ると、またまた兄の影響でヘヴィメタルを聴くようになりました。こんな感じですから、同級生と音楽の話になっても、「お前好きなバンドいる?」「えーと最近はアイアンメイデンにはまってるな」「誰やねん!」で終わってしまうという日々を過ごしていました。そして、この頃から周りの話についていきたくて、Jポップも積極的に聴くようになっていくのでした。

 さて、この「ヘヴィメタル」という音楽ジャンルの名称に注目してみましょう。ここから国語っぽい話になりますよ。「ヘヴィ」とは「重い」、「メタル」とは「金属」という意味です。西欧のヘヴィメタルバンドのインタビューなんかを読むと「今回のアルバムはすごく〝ヘヴィ〟だ」なんて言う人がよくいるのですが、これは何が〝重い〟のかというと、「曲」とか「演奏」とかの「音」に対して「重い」と言っているのですね。

 「音」が「重い」? どういうことでしょうか? 音には「重さ」なんかないですよね。「重い」という形容詞を、実際に「○グラム」とかで計れるもの以外のものに使っているのですが、これは別におかしなことではありません。元々持っていた形容詞の意味が「拡張」されて、新たな意味を持つようになったということです。ついこの前小6のトレーニングの授業でもこの「拡張された形容詞(形容動詞)」の話をしました。例えば「静かな光」「明るい声」「苦い思い出」などですね。「光」は耳で聞くものではないですし、「声」は目で見るものではないですし、もちろん「思い出」は口で味わうものではありません。これは日本語だけではなくて、英語のような他の言語でも同じような表現がされているのですね。

 では、みなさん、「重い音」とはどんな音でしょうか。イメージできますか。これは実際にそれを聴かないとイメージがしにくいのではないでしょうか。それは「静かな光」でも「明るい声」でも、少なからずそうではありませんか。

 ことばの微妙なニュアンスを自分のものにするためには、そのことばがどんなときに使われたのか、どんな感じのものに対して使われているのか、という「経験」が大事なんじゃないかなあって思います。実際に自分が経験することでそのことばが持つさまざまな意味が少しずつ自分のものになっていくのではないかなあと思うのです。(そういえばこんなようなことが書いてある文章がテキストにもあったなあ)

 今はなかなか外に出るのも難しい状況ですが、何気ない家の中での会話にも、こういうことばが潜んでいるかもしれませんよ。日々の経験・会話も大切にしていきましょう!

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