第6弾は、いつものにし・かわです。すみません。
〝No music,No life〟
ええ言葉ですね。タワレコの宣伝するつもりはありませんが。
なに、小学生なので英語がわからん? 気にするな、大人の先生でもわからないんだから。
え、タワレコもわからん? ウム、それもわからんでよろしい。
とにかく音楽はええよな。音楽なしじゃやってられんぐらいええよな。ってことです。
音楽にくわしい花崎trは、ああ見えてサックスを吹いてたらしいですよ。かっこいいなあ、サックス。夕方に鉄橋の下の河川敷で吹きたい楽器№1ですよね。クラリネットじゃ今一つサマにならないよね。まして夕方に鉄橋の下の河川敷でピアノひいてたらおかしいもんね。ひとりでトライアングルちんちん鳴らしてるとかね。
さて、こういうことがあります。
たとえば友人と好きな小説の話をする。・・・・・・ふんふんなるほど、きみはカート・ヴォネガットJr.が好きなのね、前に読みかけたことはあるんだがピンとこなかったなあ、しかし、きみがそう云うなら今度もう一度読んでみようかな。
ところが、友人と好きな音楽の話をする。・・・・・・はあ? 〇〇ー〇ー〇? そんなの好きなんだ、けっ。
音楽の話って、そんなふうになりやすいよね、というような話を、カート・ヴォネガットJr.の『スラップスティック』が大好きだと当時云っていた友人と話したことがあります。彼とはかなり趣味が合って、マンガの話、小説の話、音楽の話、いろいろしましたが、いちばん難しい(友好的に話すのが難しい)のが音楽の話でした。
さてさて、最近、こういうことをよく考えます。ちょっと難しい、微妙なことを云う(書く)のでよく聴いて(読んで)くださいね。
あなたがAさんと話をしています。Aさんの云うことに対してあなたは、「それはちがう」と思う。
何で、そう思うんでしょう? 「それはちがう」と思うことに何か根拠はあるんでしょうか?
そもそも、Aさんが「かくかくしかじかだ」と云った、その内容、それにも何か根拠はあるんでしょうか?
うーむ、どう書けばいいのかわからないな。難しいぞ。
僕が云いたいのはこういうことです。意見が対立する。それぞれが自分の意見は正しいと思う。しかし、ほとんどの場合、どちらの意見にも根拠はないんじゃないかしら。そういうことです。
ちょっと余談です。
みなさんが思っているほど物事や意見には〝根拠〟はありません。「なぜそう言えるの? それにはどんな根拠が?」という問いは、多くの場合、どこまでもさかのぼれるでしょう? だから、〝究極の根拠〟って、まず、ないわけです。でも、そんなこと云いだしたら話が進まないから、〝究極の根拠〟じゃなくて〝ある程度の証拠〟でいいか、って感じでみんなやってます。ところが困ったことに、〝ある程度の証拠〟が証拠になってないことが多いんです。
さらにちょっと話それますが聞いて(読んで)ください。何年か前に、新聞にこんな記事が載ってました。睡眠時間と寿命の関係についてアメリカで大規模な調査をしたっていうんです。そうしたら、だいたい毎日9時間眠っている人よりも、7時間しか眠っていない人の方が長生きだった、と。
みなさん、どう思います? なるほど! 9時間も眠ったら長生きできないんやな、よし、毎日7時間にするぞ。って考えるのはどうかなと僕は思いますけどね。だって、そもそも毎日9時間眠っている人(A)と毎日7時間しか眠っていない人(B)の健康状態ってどうだったんですかね? Aの人は、そもそも虚弱だったから9時間ねないとだめだったんじゃないの? と考えることはできませんか? だとしたら、長生きの理由は「睡眠時間」ではなく、そもそもの健康状態ってことになります。
ことほどさように、「根拠」や「証拠」は難しい。
閑話休題(←辞書引きなさい)。
さあ、ここからが大事なんですが、人は根拠がないときほど、自分の意見に確信を持ってしまう。なぜかというと、根拠もなく「こうだ」と思っているとき、それは〝思いこみ〟だからです。もう、証拠も理屈も必要ない、そうでしかありえないと心からわしはそう感じるのじゃ、何でAのやつにはわからないんだろう、こんなの当たり前じゃん。
多くの場合、人の「意見」なんてそんなものじゃないかしら、と僕は思っているのです。だから、あまり「自分の意見」に固執しない方がいいんじゃないかしら。いや、自分の意見を持つなってことじゃないです。じゃなくて、自分の意見はまちがっているかもしれない、いやきっとまちがっているにちがいない、ぐらいに思っておいた方がいいんじゃないかなっとことです。何の根拠も必要としないほど、自明な、確信の持てる考えほど、砂上の楼閣(←辞書な)なんだと思った方がいい気がします。・・・・・・っていう自分の意見にも、僕は自信を持たないように気をつけましょう。
毎日似たようなニュースばかりやっていますが、テレビでいろいろな「識者」がいろいろな「意見」を云います。ちょいちょい見ていますが、何でみんなあんなに怒ったように云うのかなと思います。「なんでこんな当たり前のことがみんなわからないんだ」ふうに怒った云い方してる人が多いですね(だいたい男)。でも、自分が「めっちゃ当たり前」だと感じていることとちがうことを云う人がいたときには、まず相手の考えを聞くべきです。「あほかこいつ」と思う前に(いや思ってもいいんだけど)、「何でこんなこと云うのかな」「わたし(ぼく)が気付いていないことにもしかしたら気付いているのかも」「ぼく(わたし)の考えのおよばないところまで考えてるのかも」と思うべきです。
国語という教科を学ぶことの最大の意義はそこです。(←もちろん私見です。そう考える理由はありますけど。)
「文章を読む」というのは、〝相手の言い分を理解しようとする〟ことです。自分の意見はいったん棚上げして、まずは相手の言い分をできるだけ正確に理解することです。はっきり云って、世の中には、「反論したい人」が多すぎます。
反論する前にまず理解しようぜ。
これが僕のスタンスで、文章を読むことの根幹だと思っています。
たとえば、議論に強くなりたい人。もし議論に勝ちたいなら自分の意見を声高に云うのは手筋としてはだいぶ悪い。相手の云うことにじっと耳を傾け、矛盾を突くことです。議論に勝つ最も有効な方法はこれです(それが生産的かどうかは棚上げしてます)。
・・・・・・
しまった! 音楽の話をしようと思っていたのに! なんかとちゅうで熱くなって、題とまったく関係のない話になってしまった! いつものことだが!
そうなんです、僕はのほほんと音楽の話がしたかったのです。できることなら、永遠に宇宙一かっこいい〝Siberian Newspaper〟について熱く語りたかったんです~。そのために〝No music,No life〟という言葉から始めたのに~。
またいつか熱く熱く語らせてください! 香川が生んだ、弘法大師と並び称される〝Siberian Newspaper〟について! みんな! 勉強しろよ! ズームで会おう!