2020年2月22日 (土)

世界はひとつ

前回のタイトルの「アンケラソ」ということばは本文とは関係ないようですが、『青菜』に出てくる「ののしりことば」です。植木屋さんが家にもどってくると、嫁さんに「今時分まで、どこをのたくり歩いてけつかんねん、このアンケラソ!」と言われます。「あんけ」は口を開けていることを表すのでしょうか、「らそ」は意味不明ですが、どうやらうすぼんやりしている人のことを言う悪口らしい。ただ、さすがに日常会話で聞いたことはなく、かろうじて落語の中に残っている古い大阪弁のようです。

『青菜』には九郎判官が登場しましたが、他に有名な判官としては塩谷判官というのがあります。これは「えんやはんがん」と読みます。なぜか「はんがん」なのですね。モデルとなった実在の塩冶高貞は足利尊氏の弟直義から謀反の嫌疑をかけられて自害しています。幕府執事の高師直との確執は実際にはなかったようです。『太平記』では師直が高貞の妻に一目惚れして、吉田兼好にラブレターを書かせて送ったところ、拒絶されて逆切れし、尊氏に讒言したことになっていますが…。この話を利用して、浅野内匠頭を塩冶高貞に仮託したのが『仮名手本忠臣蔵』です。

「説経節」という中世の口承芸能があります。竹を細かく割って作った「ささら」という道具を棒でこすりながら、サラサラ音をたて、それで伴奏をしながら語っていくもので、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃にとってかわられ、途絶えてしまいます。その演目の中でも有名だったのが「さんせう太夫」で、森鴎外が書いたのは完全オリジナルではなく、もともとは説経節です。で、この主人公安寿と厨子王の父親は岩城の判官正氏と言います。鴎外は「陸奥国の掾平正氏」としています。「掾(じょう)」は国司の三等官なので、たしかに「判官」にあたります。

説経節には小栗判官という人も登場します。猿之助のスーパー歌舞伎にもなりました。これも「はんがん」ですね。妻の照手姫の一族に殺された小栗が閻魔大王の情けによってよみがえり、復讐を果たすという、波瀾万丈の物語です。いろいろなバリエーションがありますが、モデルとしては常陸国の小栗氏にそれらしき人物がいるようです。直系ではなさそうですが、その子孫にあたるのが幕末の小栗上野介です。この小栗家の嫡男は代々又一を称することになっています。家康に仕えた先祖が家康の目前に現れた敵を槍で討ち取り、それ以降一番槍の手柄を立てると「又も一番槍か」と言われたことが元になっている、という話は何で読んだのか…やっぱり司馬遼太郎かなあ。テレビでは岸谷五朗が演じたドラマを覚えていますが、何という題名だったか。この人のことを勝海舟はあまり評価していなかったようですが、司馬遼太郎はかなり高い評価を与えていたと思います。

小栗上野介が幕府の金を隠した、という「徳川埋蔵金」がときどき話題になります。赤城山中に埋めた、ということになっているんですね。前に空母の名前について触れましたが、なぜか山の名である赤城が空母の名前になっています。もともと巡洋艦だったものを強引に空母に改装したのですが、名前はそのまま残したとか。加賀とか信濃という空母が国名なのは戦艦の改装だからで、巡洋艦は山の名前からつけたのですね。摩耶という巡洋艦もありました。当然、神戸の摩耶山です。この山の名前は空海由来ですね。摩耶山にある天上寺はもともと孝徳天皇の勅願で建てられたので、それこそ大化の頃にまでさかのぼれますが、空海がこの寺に釈迦の生母である摩耶夫人像を安置したことから、山の名も変わったそうな。

『火垂るの墓』の主人公の父親は巡洋艦摩耶に乗っていたという設定になっていました。原作は相当昔に読んだので、元の小説でもそうだったかはわかりませんが、三宮が舞台だったから神戸の山の名がついた船にしたのでしょうか。JRの三ノ宮駅には機銃掃射の跡が残っていたはずですが、今でもあるのかなあ。近くの岡本あたりを舞台にして印象的だったのは谷崎潤一郎の『細雪』です。太平洋戦争が始まる少し前にあった阪神大水害のことがくわしく書かれており、摂津本山の駅のあたりの描写がリアルでした。この駅も、ちょっと前まではそのころの雰囲気が残っていたのですが、今やすっかり変わってしまいました。あの地下通路はレトロな雰囲気があってよかったのですが。知っている地名、とくにマイナーなものが小説に登場すると、なんとなくうれしくなってきます。以前に野田阪神に住んでいたのですが、そのころ信長公記を読んでいると、野田・福島という地名が登場してきました。三好三人衆との戦いで足利義昭とともに陣を構えたのが私の住んでいたあたりのようです。もともとは浪速八十島と呼ばれたあたりで、閻魔大王の友達、小野篁が遣唐使を断って島流しになったとき詠んだと言われる「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟」の舞台になったところでしょう。同じ百人一首の皇嘉門院別当の「難波江の芦のかりねの一夜ゆゑみをつくしてや恋わたるべき」の舞台もこのあたりかもしれません。

野田は藤の名所としても有名で、室町二代将軍足利義詮や秀吉も見に来ています。野田のすぐ近くにある梅田は、昔は「埋田」でした。このあたりは湿地帯だったのですね。でも「埋田」という字面はイメージが悪いので、梅田に変えたのだとか。人名でも浮田を宇喜多にするように、吉字に変えるというのがよくあります。大和から見たら、山のうしろにあるので「山背」と呼ばれた地名を「山城」に変えたのも同様です。国名を吉字に変えたのは淡海三船の進言によるものと言われます。歴史上の人物としてはややマイナーなので、小学校レベルでは習わないのかなあ。「何者?」という感じでしょう。秦河勝にしても「何者?」ですが…。前にも書いたようにローマ人だとしたらおもしろいのだけどなあ。日本がシルクロードの東の端であることを思えば、国際的な交流はあったかもしれません。ガラス器や伎楽面など、インドやさらにその向こうから来ているものもあります。お米を「うるち」と言いますが、古代インドの「リーザ」の転訛したものと言われます。これが西に行くと「ライス」になるのですね。仏様に備える水を「閼伽」と書いて「あか」と読みます。これも当然インドから来たことばでしょう。ところが、これが西の方では「アクア」と言います。世界はつながっているなあ。

2020年1月 2日 (木)

冬眠とは何か?

前回、「冬眠します」という題で書いたのですが、読み返してみると何がどう冬眠なのか我ながらさっぱりわかりません。寒かったのでそういう言葉を使ってみたかっただけかもしれません。

あ、申し遅れました。新年明けましておめでとうございます。

ただ、やはりこういう仕事ですので、入試が一段落するまではおめでたい気分になれません。希学園の事務所でも、「今年もよろしくお願いします~」ぐらいは言い合ったりすることがありますが、「おめでとう」という言葉はあまり飛び交っていないようです。そして、入試が終わった頃には当然のことながら新年気分などどこにも残っていないので、毎年お正月気分を味わうことはほとんどありません。受験生のみなさんとそのご家族にとってはなおのことそうだろうなあとお察しします。

新年を迎えるにあたって、今年自分は何の本を読んだであろうかと本棚をチェックしてみました。ふだん塾生諸君に「本を読め~本を読め~読書しろ~」と呪文のように唱え続けている立場上、自分自身も読書に邁進せねばなりません。とはいえ、いや言い訳するつもりはありませんが、言い訳するわけですが、なかなか本を読む時間がとれません。私の場合、だいたい本を読むのは、電車のなか、もしくは風呂のなか(塾生のみなさん、これだけはまねしてはいけません、目が悪くなるし、うだってくらくらになってしまいます)に限られているので、遅々として進まないのです。というわけで、あまり読めていないのですが、確認してみたところ、一応、以下のものは何とか読みました。だいたい読んだ順に、

『統語構造論』 チョムスキー

『新しい児童心理学』 ピアジェとだれか

『知識の理論』 チザム

『論理の基礎』 ストローソン

『国家の神話』 エルンスト・カッシーラー

『論理学をつくる』 戸田山和久

『言語哲学大全』Ⅰ~Ⅳ 飯田隆

『思考と言語』 ヴィゴツキー

『教えることの哲学』 パスモア

『意味ってなに?』 ポール・ポートナー

だいたい月に一冊ちょっとという感じですね。これらはすべて電車のなか専用で、これらの他にお風呂で、宮城谷昌光『三国志』1~12とか、深沢七郎『楢山節考』とか色々読みました。もちろんマンガも読みました。みなもと太郎の『風雲児たち』とかですね。これは希学園にもうひとりファンがいて(社会科の沖先生ですね)、ときどき情報交換してます。もうすぐ最新刊出るらしいですよ、とか。

それにしてもあらためてラインナップを見てみると、わかっていたことですが、やはり外国の人のものが多いです(念のため申し添えておきますが原書で読んでいるわけではありません、原書で読んでたらかっこいいんですが、残念ながらすべて翻訳です)。偉そうに聞こえるかもしれませんが、日本人の書いたものはつまらないことが多いです。手際よく何かの内容を紹介したもの、受け売りできる知識が手っ取り早く得られるものではなく、著者自身、悪戦苦闘しながら考え抜いて書いたもの、読みにくくてもそういうのを読みたいです。そうするとなんだか外国の人のものが多くなるような気がします。今読んでいるのも外国の人のもので、僕にとってはげんなりするほど難しいのですが(言語に関する本なのに、「集合」とか「関数」とか「写像」とか「演算」とかそんな言葉がてんこもりで、算数も数学も苦手だった私の手には正直あまるのです)、読んでいて良い意味でどきどきするので、まあがんばっています。塾生諸君にもぜひわかってほしいのは、読書もスポーツも少しぐらい、あるいは結構しんどい方が、実はおもしろいんだぜってことです。そういうふうに読書が楽しめるようになったら、国語なんて勉強しなくたってできるようになっているものなんです。受験生のみなさんは今は読書どころではありませんが、受験はまだのみなさん、ぜひ「読むのに少し骨が折れる」読書をしてくださいね。

例によって例のごとくタイトルとはまったく関係のない話になってしまいました。実際、冬眠している場合ではないのです。入試が近づいているので! 

というわけで、入試が終わるまでブログはお休みします(←あえていえばこれが冬眠です)。入試が終わったらまた! 入試が終わってから三か月以内には書きたいと思っています!

2019年12月22日 (日)

冬眠します

このブログで告知し続けていた教育講演会がすべて終了しました。お越しくださったみなさまありがとうございました!

で、・・・・・・この「くださった」なんですが、ちょっと前にテレビを見ていたら、何かの番組でインタビューされた方が「××が・・・してくださった」と言っていたのに、字幕(?)が「××に・・・していただいた」となっていたことがありました。ぼんやり見ていた私ですが瞬間的に激怒し、家の者に「どう思う? あかんやろこれ!」と同意を求めて面倒がられました。でも、あかんと思います。だって、主語がかわってるじゃないですか。主語がかわっていても、そこで表現されている〝事態〟は同じなんだからいいでしょとおっしゃいますか? 何ということを。主語がかわってるということは、語り手がスポットライトを当てている人物が、別の人物にすり替わっているということなんです。素人劇団とはいえ舞台の演出をしていたこともある私としては看過できません。次のような文をヒグマが発言しているところを想像してください。

(1) N川和T先生が私に新巻鮭をくださった。

(2) 私はN川和T先生に新巻鮭をいただいた。

この二つの文は同じでしょうか? 確かに表している事態=事実は同じなのです。でも、これらの文にこめた語り手の気持ちはちがうのではないでしょうか。だって、(1)と(2)では、主役がかわっているのです! 舞台において主役が誰かは重要な問題です。いや、そこは重要な問題ではないのだという演劇があってもいいとは思いますが、一般的には、特に宝塚歌劇では、主役あるいは主人公がだれかは大きな問題です。(1)は、N川和T先生を立てる表現であり、(2)は、ヒグマである「私」の立場からいわば感謝を気持ちをにじませる表現です。どちらもまちがいじゃないし失礼でもありませんが、勝手に変えたらダメですよね?

すいません、何の話をしたかったのか思い出しました。教育講演会にお越しくださったみなさまにお礼を申し上げたかったのです。

敬語は難しいですね。私は仙台時代に(*西川の仙台時代については、「もりそばとざるそば」「バブル時代」などをご参照ください)官報販売所でアルバイトをしていたことがあるのですが、そこの所長さん(当時75歳)の敬語がきれいで憧れました。「荒城の月」で有名な土井晩翠の遠縁にあたる方で、あまりにも達筆すぎるため(?)領収書や請求書その他の文字が読めるのは奥さんだけだと言われていました。私も、配達先の人に「お宅の所長さんは達筆すぎて何書いてるのか読めないよ~」と言われたことがあり、若かったためそのまま所長さんに伝えて「何を無礼な!」と激怒させてしまいました。この「無礼な」にも痺れました。いまどき「無礼」なんて言う人いないよなかっこいい~、と思いました。そういうちょっと古風な言葉づかいが好きなんです。中学生の頃から(関西人にもかかわらず)「君たち」「・・・したまえ」なんて言って、気味悪がられていました。今でも宿題プリントのコメントにそういう言葉づかいで書いてるときありますね。気持ち悪がられていたらつらいなあ。

すいません、何の話をしたかったのか今一度思い出しました。教育講演会にお越しくださったみなさまにお礼を申し上げたかったのです。でもすぐに話がそれてしまいます。講演も終了したことですし、あとは入試に向けて邁進するだけです。小6の諸君、がんばりましょー。そしてもし今これを読んでくれている小6生がいるならば、伝えたい言葉がある! そう君だ、君。 

ブログ読んでないで勉強したまえ!

2019年12月15日 (日)

このアンケラソ!

三国志演義の登場人物には架空のものも結構いるようですが、実在の人物とまぎれてしまって、てっきり実在したと思い込んでしまうこともあるようです。関羽の子とされる関索や関羽の子分の周倉なんて有名ですが実在の人物ではないらしい。光源氏はもちろん架空の人物ですが、モデルはいたようです。「源光」というのは単に名前が似ているだけで、この人の可能性はゼロ。有力なのは源融です。嵯峨天皇の子ですが、皇位継承権は与えられませんでした。その点でも光源氏と共通していますし、さらに融は美男子という評判も高かったようです。もう一人、醍醐天皇の子、源高明も有力視されています。母親が「更衣」という身分で、やはり皇位継承権がないという点では光源氏と同じです。ある人相見に、これほどの貴相は見たことがないと言われたとか。ただ、その男は高明の背中を見て、将来左遷されるだろうと言ったそうな。『今昔物語』に、高明が自宅にいたとき、柱の節穴から子供の手が出てきて、しきりに差し招くという怪異が起きたという話があります。なかなか怪異は止まず、矢で穴をふさぐとようやくおさまったのですが、まもなく起きた安和の変で高明は失脚します。地方へ左遷されたという点でも光源氏と重なります。

安倍晴明のライバルの蘆屋道満も芝居の敵役として脚色されて、おそらく実在の人物とは相当ちがうイメージのものになっているのでしょう。小説のイメージや史観の影響で、大物のイメージも相当変わります。足利尊氏や水戸光圀など、その典型です。NHKの『歴史秘話ヒストリア』で信長は超まじめだったというのをやっていました。資料をていねいに読むと、信長は足利義昭に忠義を尽くしたのですが、まじめすぎて融通がきかないために、義昭と対立することになったとか。坂本龍馬だって、みんなが知っている竜馬は司馬遼太郎によってつくられたもので、実際に会ったらいやなやつだったかもしれません。逆に土方は写真を見ても陰険な感じが全くなく、むしろプラスイメージを与えられます。イケメンは得ですよね。沖田総司は醜男だったらしいのに、人々のイメージでは完全に草刈正雄です。剣の腕前も実際はどうだったのでしょうね。居合いの達人は現代でもいて、テレビでやっていました。頭の上にのせたきゅうりを横に切る、なんて、ウィリアムテルかと突っ込みたくなります。時速160キロのボールを真っ二つに切っていました。動体視力がすごいのでしょうね。

宮本武蔵と塚原卜伝はどちらが強かったのか、いろいろな考え方がありそうですが、年齢なども考えて同一条件で戦わないと、なかなか一概には言えません。トラとライオンはどちらが強いか、というのも同じ条件で一対一なら体の大きいトラに歩がありそうです。マングースとハブでは「99対1」の勝率でマングースの圧勝。とはいうものの負けるやつもいるということです。個体差ですかね。へぼいマングースもいるのでしょう。外来生物と日本の在来種ではどうも日本固有のもののほうが弱いようです。外国のものに比べると、どうやら日本の生き物全部がひよわな感じですな。「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の思想が動物にもおよんでいて、闘争することをきらうのでしょうか。

聖徳太子は教科書で厩戸皇子という名に統一するとかしないとかもめていましたが、「定説」というのは意外に変わりやすいものです。鎌倉時代は1192年で「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えたのに、いつのまにやら1185年になっています。健康に関する話も昔と今ではかなり変わっています。運動中に水を飲んではいけなかったのに、今は飲まなくてはいけないと言われます。ウサギ跳びやスクワットもダメと言われるようになりました。コレステロールはダメ、と言っていたのが、悪玉だけでなく善玉もある、とか。何が体によいのか、でさえそうなのですから、時代による価値観の変化はやむをえないのでしょう。明治のころなら、立身出世が多くの人の夢であり、「末は博士か大臣か」という発想もありました。「博士」や「大臣」がえらい人の代名詞だったのですね。この「大臣」ということばも、いかにも古くさい。次官の上なのだから、すべて「長官」に変えてもよいでしょう。「総理」はそのまま残すにしても、「大臣」はつけなくてもよいかもしれません。「大蔵省」も「財務省」になって、由緒ある名前が消えました。これらのことばはなにしろ律令以来ですから。

昔の日本では、だいたいの役所は四つの地位に分けられたようです。四等官が「さかん」で、その上が「じょう」、その上が「すけ」で、トップが「かみ」です。あてる漢字はさまざまで、同じ「かみ」でも「督」であったり「守」であったりします。名字で「目」と書いて「さっか」とよむ人がいます。これは「さかん」にあてられた字だからです。「左官」と書くと「補佐官」という意味になるので、ひょっとするとそこから来ているのかもしれません。木工寮の「さかん」は「属」と書きますが、壁塗りなどもしたはずですから、その仕事はまさに「左官」ということになります。「尉」を「じょう」と読みますが、これは音訓のどちらでしょう。「丞」の字をあてることもあるところから見ると、音読みのようですが…。他の「かみ」「すけ」が和語なのに、「さかん」は意味不明、「じょう」は音読みっぽいのが不思議です。ただ「丞」には助けるという意味があるので、「すけ」「じょう」「さかん」はすべて、「かみ」を助ける役職ということかもしれません。

「左衛門尉」と言えば、有名なのが遠山金四郎景元ですね。本当に名奉行だったわけではなく、「妖怪」こと鳥居耀蔵との対比でつくりあげられたイメージのようです。「検非違使尉」というのもありました。別名「判官」で源義経の役職です。九郎判官義経で、落語『青菜』の中にも出てきます。さるお屋敷の旦那が仕事をしている植木屋に酒をふるまい、青菜を食べさせようと、奥さんに声をかけると、「鞍馬から牛若丸がいでまして、名も九郎判官」と言われます。旦那は「義経」と答えるのですが、「菜は食べてなくなったので、『菜も食ろう』」「よしにしておけ」という隠しことばでした。感心した植木屋は長屋に帰って女房に話しているところに、友達の大工が風呂にさそいに来ます。旦那のまねをしようと、植木屋は酒をすすめ、「ときに植木屋さん、あなたは菜をおあがりか?」「植木屋はおまえや」「菜をおあがりか?」「嫌いや」それでも何とか説得して食べさせることになり、手を叩いて女房を呼ぶと、押入れから汗だくの女房が出てきます。「鞍馬から牛若丸がいでまして、名も九郎判官義経」全部言われてしまうんですね。困った植木屋は、うなった末に「うーん、弁慶」というオチ。義経と言えないから、代わりに「弁慶」と言ったのでしょうが、「立ち往生」というニュアンスもありますし、大阪ではひとにおごってもらうことも「弁慶」と言ったので、それもあるかも。

2019年12月 4日 (水)

バブル時代

最近めっきり音楽を聴かなくなりました。こんなことでは遺憾、「ノーミュージック、ノーライフ」だと思って、久しぶりにウォークマンに(バブル時代に大学生だった私はiPodとかではなく、ウォークマンに思い入れがあるのです)充電し、音楽を聴こうと思ったら、壊れてました。先日、大台ヶ原に登った話を書きましたが、そのときのことです。山小屋で雑魚寝するときにオヤジたちの(わたしもオヤジですが)いびきに苦しめられることがあるので、いびき対策にウォークマンを持っていこうと思ったら壊れてたんです。

バブル時代に大学生だったと書きましたが(こんなこと書くと年齢がばれてしまいますね、全然かまいませんが)、私は当時仙台に在住していたこともあって、バブルというのがぴんときていませんでした。なんせ時給500円のうどん屋で出前持ちやってたぐらいです。いや、いくらなんでも、当時の仙台でも時給500円は安かったんですが、そこでずっと働いていた友だちが、確か舞台照明の手伝いか何かで何ヶ月かニューヨークに行ってるあいだ代わりにやってくれと頼まれたんじゃなかったかしら、あまりはっきり覚えていませんが、そんな感じでした。ちなみに、その友だちがニューヨークから帰ってきたとき、盛大に居酒屋で歓迎会的なことをやったのですが、おみやげがひよこまんじゅうだったことに驚愕した記憶があります。それはともかく、そのうどん屋でわたしは納豆が食べられるようになりました。賄いで納豆うどんが出るんです。で、こちらは常に欠食児童状態なので、いやでも食べる。すると結構うまい、というわけです。そのうどん屋は仙台にはめずらしい手打ちうどんの店で本当においしかったんです。そのおかげもあると思います、納豆が食べられるようになったのは。で、何年前でしたか、恩師の古稀のお祝いがあると聞いて仙台まで行ったときに、懐かしくてそのうどん屋を訪ねたら(店は移転していました)、もう手打ちはしてなくて冷凍うどんつかってるんだ、とおっしゃっていました。移転した先の客層に合わせて、ということらしいのですが、何だか少しさびしいような気がしました。この仙台行は震災前でした、とても良い思い出になっています。うどん屋のご夫婦が、わたしのことは覚えていなかったにもかかわらず、わたしの友だちのことは覚えていてくれたので(わたしよりはるかに長く働いていたので)、ああ〇〇ちゃんの友だちなの、ってうどんと親子丼をごちそうしてくださったのもしみじみしましたし、恩師が僕のことを覚えてくださっていたのにはまことに驚愕しました。「西川くんか、西川くんな、きみはとちゅうから演劇にはまってしまって学校にも来なくなってなあ」と言われたんです。学究肌の先生で学生のことなんかあまり眼中にないんだろうと勝手に思いこんでいたのですが、とんでもなく浅はかな見立てだったんだとわかり、自分はほんとうに人のことがわかっていないと恥じ入ると同時に感激しました。その後震災がありました。かつてわたしの女友だちだった人の実家があったあたり、たぶん津波で壊滅したと思います。わたしがよくぼんやりと焚火をしに行っていた海岸のある、閖上という港町も津波で根こそぎ更地のようになりました。その港町でよく行っていた中華料理屋も。

徒然なるままにそこはかとなく書いているとあやしうこそものぐるほしけれですね。

そうそう、バブルの話をしてたのでした。バブル時代に学生だったという話です。「トリップ・トゥー・ワンダーランド マハラジャ」なんてコマーシャルやってたころですが、わたしには関係のない話でした。いや、一度だけ、当時「ディスコ」と呼んでいましたが、行こうとしたことがあります。文ゼミのメンバーとです!(文ゼミについては「もりそばとかけそば」をご参照ください。) そのときわたしは下駄を履いていました。おまけにどてらを着ていました。そして、男ばっかり5、6人でした。そしたら入店拒否されました。当たり前ですね。というわけでバブルとは縁のない日々でしたが、たしかに、企業からの会社案内みたいなのは毎日毎日山盛り配達されていました。そんなものかと思ってましたが、就職活動するでもなく卒業するでもなく、なめくじのような毎日を送っていたら、ある日バブルがはじけ、それっきり企業からの郵便は一切来なくなりました。そして、それからしばらくして、そろそろ就職しようかなと考えるようになりました。もう最悪です。

待てよ、そもそもバブルの話ではなく、音楽の話でしたね。そうなんです、「ノーミュージック、ノーライフ」です。もうすぐ2019年も終わりますが、今年じぶんはどんな音楽を新しく知ったかなと思うとちょっとお寒くなります。中山ラビの「その気になってるわ」ぐらいですかね。うわあ、古い。中山ラビに反応できるのは、希学園国語科では山下正明先生ぐらいです。実はもう希学園国語科で僕より年上なのは、山下正明先生と矢原先生だけなんですね。見た目は若い(客観的に見てそうだと確信しています)僕ですが、実はオヤジだったのです。Y田M平先生より山下T充先生より年上なのです。矢原先生はわたしより年上ですが、中山ラビのことは知りますまい。わたしは自分よりひとまわり上の世代のものが好きなので、けっこういろいろ知っているのですが。

さて、先月末に始まった国語の教育講演会も残すところあと1回となりました。12日(木)の西宮北口プレラホールです(塾生の方用に翌日も西宮北口教室で実施させていただくことになりました)。上本町のたかつガーデン、四条烏丸教室は何とか無事に終えることができました。ありがとうございました。いつもどきどきしながらアンケートを読ませていただいていますが、あたたかいお言葉が多くてほんとに感激してます。そういえばお芝居をやってたころもアンケートをどきどきしながら読んでたなあと思い出します。

ん? 教育講演会? 申し込んだけど忘れてたわ、という方がいらっしゃいましたら、ぜひ申し込まれたときの熱い気持ちを思い出して、めんどうを厭わずお越しいただければ幸いです。

いつもいつもほんとうにありがとうございます。

2019年11月24日 (日)

「これは犯罪以上だ、失策だ」

忘れないように、はじめに告知しておきます!

「国語の教え方学び方」というタイトル(確か)で、教育講演会を実施いたします。上本町と四条と西北の3会場だそうです! 西北と四条は定員をオーバーしちゃったようですが、上本町のたかつガーデン(つい「たか〇ガーデン」と言いそうになるのは「たか〇クリニック」のせいですね)はまだ少し残っているようですので、ぜひぜひお越しください。たくさん来てくださるとうれしいです。授業は、保護者の見学があるととても緊張するのですが(毎週土曜日西北で小2最レをやってますし、毎月小1~小3の灘クラブ特訓もやってますが、見学の方が多くていつも結構緊張しています)、正直、はっきり言って、教育講演会はあまり緊張しません。やっぱり子ども相手に授業しつつ、保護者の方にも意識を向けているというのはものすごく神経を使うのです。どちらか一方だけなら、頭の使い方がずいぶん楽です。

告知は終了です。このあとはいつもの与太話ですので、よほど暇な方以外はお読みになると立腹されるかもしれません。悪しからずご了承ください。

教育講演会前に「禊ぎ」といいますか、心身ともに清められようと思い、大台ヶ原に行ってきました。大台ヶ原は有名な観光地ですから、車やバスで上の方まで行けますが、そんなことはしません(ずっと昔にはしました)。大杉谷という峡谷の方から入り、苦労して登りました。そのときの記録です。

*****

6時過ぎ 駅前のコンビニでおにぎりを三つ買い、大阪行きの電車に乗る。炭水化物の塊を三つも買うなんてこんなときでなければできない。登山という良い趣味を持ったセンスの良さに感謝。

6時半過ぎ 環状線に乗る。

7時前 鶴橋駅に到着。JRから近鉄への改札の通り抜け方が謎。他の人のじゃまにならないよう、急ぐ人が通り過ぎたあとで親切そうな駅員さんに訊ねる。前の日に近鉄特急の券を買っておいたから焦らずに行動できたのだと思い、自分の深謀遠慮に感謝。予定より早く着き余裕があったので、駅そばを食べる。いつも思うのだが、月見うどん(あるいはそば)を食べると、生卵が食べにくくて困る。ところが、この駅そば屋には、「かきたまうどん(そば)」なるものがあった。これは良いと思って注文したが、かきたまも特に食べやすくはなかった。卵は栄養価が高いから残らず食べ尽くしたいのだが、生卵だろうがかきたまだろうが結局はひろがってしまい、残らず食べ尽くすためには汁まで飲み干すしかなくなるのだ。

7:11 近鉄特急賢島行きに乗車。窓辺に頬杖をつき、物思いにふける。「どうしたものか・・・」 実は鶴橋駅でトイレに行ったときに、パンツの前後ろを逆に穿いていたことが発覚。ナポレオン麾下で警察大臣を務めたジョゼフ=フーシェの言葉を思い出す。「それは犯罪以上だ、それは失策だ。」 ほんとうは車内でおにぎりをゆっくり味わおうと思っていたのに、かきたまそばを食べたせいで腹が減らないし、パンツの前後ろが反対なのも気になって食べられなかった。まさに千慮の一失だ。が、ついに榊原温泉口の辺りで解決策を見出す。トイレに行って穿き直せば良いのだ。自分の明敏な頭脳に感謝する。しかしさっきかきたまそばを汁まで飲み干したせいで喉が渇く。不覚だった。

8:41 松阪駅着。牛肉食べたい。が、そんな暇はない。

9:16 JR特急南紀一号に乗車。電車を待つあいだのホームがとても寒かった。

9:47 三瀬谷駅到着。どこだここは、どえりゃあ田舎だがね。と思いつつ駅の外に。バス停を発見してひなたぼっこしながら一日に数本の町営バスを待つ。地元民らしいおばあさんが現れる。いわゆる第一村人か(村ではなく町だが)。しばらく談話。自分が通った中学は自分の孫の代が最後、自分たちのときは1学年120人いたのに、とさびしそうに語る。都市と地方の落差を感じる。地方の活力が失われるのはさびしいが、かく言う僕自身都会でなければ生きていけないのは確か。父親は若い頃四国の辺鄙な漁村の漁師だったが、僕は地方で働くためのそうしたスキルを持ち合わせていない。かつて林業に転職できないかと夢想してネットで調べたことがあるが、林業の良いところ=雨が降ったら休めるところ、悪いところ=ちょっと気を抜くと命にかかわるところ、と書いてあるのを読んで諦めた。おばあさんはまた、昨今の高齢者の事故の増加(というより事故の増加の報道の増加?)を受けて免許を返納したとの由。「若い人が心配するから」とさびしそう。こんな田舎で、足腰のよわいお年寄りにとってはほんとうに不便だと思う。

10:20 バス到着。田舎のバスだから乗客はわずかだと思っていたら、ほぼ満員。「わたしは60代やからいちばん若いわ」など謎の会話。予定ではこのバスの中で眠って睡眠不足を解消し快適な山登りをする予定だったがまったく眠れず。荷物を軽くするため無理しておにぎりを三つとも食べ、気持ちが悪くなる。

11:30 大杉(というところ)に到着。さあ、いよいよ登山、というわけにはいかぬ。登山口までここから約2時間かかる。もちろんそんなことは先刻承知である。だからあえて登山靴(イタリアのフィットウェルというメーカーの超おしゃれなやつ)をザックに入れ、ふつうのスニーカーを履いてきたのだ。そう、登山地図のコースタイムどおりだと山小屋に着くのが日没の1時間以上あとになってしまうので、「登山口まで走る」という目からうろこのアイデアを考えてきたのだ。

12:50 登山口。思ったより時間を食ってしまった。フィットウェルのお洒落な登山靴に履き替えて猛然と出発する。

14:00頃 まさに名渓・名瀑の連続。巨大な真っ白の岩とエメラルド・グリーンの水のコントラストが美しい。もしかしたら黒部より美しいかもしれない。

14:30頃 左膝が痛くなる。舗装された道を、底のちびた、へたったスニーカーで1時間以上走ったせいだ。荷物が軽いのでどうってことないだろうと高を括ってストックを持って来なかったことも悔やまれる。いろいろ歩き方を工夫してみるが変化なし。

15:00頃 痛み増す。登りは右足から、下りは左足からを徹底する。とにかくできるだけ膝を曲げないようにするしかない。ほとんど誰とも会わないので「痛いよ痛いよ~」と声に出して弱音を吐きながら歩く。だんだん歌っぽくなってくる。「痛い痛いよ足痛い♪、とっても痛いよ左膝♪♪」 人がいないとどんな恥ずかしいことでもできる。

16:00 桃の木山の家という山小屋に到着。もしかして泊まりは俺ひとりなのではという予想はまったく外れ、二十人近く宿泊者がいた。この山小屋は檜風呂があると聞いて楽しみにしてきたのだが、おじさんたちがうじゃうじゃいて風呂を楽しみにしているのに嫌気がさして(僕も十分おじさんなのだが)、風呂に入るのはやめる。ふつう山小屋には風呂なんてものはなく、山に入ったら基本的に下山するまでは着の身着のままなんだからまったく平気さ、とひとりごちながら、ビールを飲む。

17:30 夕食。トンカツと海老フライ。美味しい。

19:30 就寝。何十人も雑魚寝できる大部屋。山小屋ではいつもオヤジのいびきに苦しめられるので耳栓持参。自分の先見の明に感謝。

??:?? あまりの寒さに目覚める。ガタガタする。寸法の小さい掛け布団をすきまなく体に巻き付けるようにしてかぶり寒さをしのぐ。

5:30 目覚める。でも起床したくない。みんな起きて、準備をしたり朝ご飯を食べに行ったりしている。でも起床したくない。しばらく布団の中で逡巡したが、他の人々と同じ時刻に出発するのがいやなので、やむなく起床。

6:15 日出ガ岳向けて出発。ますます名渓・名瀑の連続。しかしすぐに左膝が痛くなる。

7:05 コースタイム25分のところに50分かかったことが発覚。これはかなりまずい。3時半までに大台ヶ原バス停に着かないと、今日中に大台ヶ原を脱出することができない。しかしできればもっと早く着いて、カレーライスを食べてビールを飲みたい。

8:00頃 後ろからオヤジが追ってくる。抜かれたくないが膝が痛くてスピードが上がらない。焦っていたら、とんでもない崩壊地のあたりで、直後にまで迫っていたオヤジが歩みを止める。おそらく日出ガ岳に登頂するつもりはなく、峡谷だけ楽しんで下山すると見た。さらばオヤジ。俺はひとり行くぜ。

12:00頃 膝の痛み耐えがたくなり、ついに良いアイデアが思いうかぶ。手頃な枯木を見つけて杖に。ずいぶん楽になる。もっと早く思いついていれば。杖をつきながら歩いていると、ずいぶん昔の映画だが、草刈正雄がオリビア=ハッセー(『ロミオとジュリエット』で一躍大スターになり、なぜか布施明と結婚して後にやはり離婚)と共演して話題になった『復活の日』を思い出す。しばらく、布施明について思いを馳っせ-、「シクラメンのかほり」を歌う。「真綿色したシクラメンほど♪」のところで、「真綿で首を絞める」という慣用句に思いを馳せる。歌詞がわからなくなると、旧かなづかいについて思いを馳せる。

14:00 何とか大台ヶ原駐車場に到着。Y田M平隊長にメールし、味の薄いスパイシーチキンカレーを食べビールを飲む。しあわせ。

2019年11月15日 (金)

きんさんぎんさんどうさん

ゲームの「FFX2」というのは「FFX」の次のもので、この場合の「X」はローマ数字の10です。ということは、「イレブン」のはずだったのに、「X」の続編ということで、あえて「テンツー」にしたらしい。こうなると、無味乾燥な数字にも意味がこめられてきます。でも、国王の名前の「○○何世」というのはやはりイメージがわかない。「ルイ14世」と「ルイ16世」はどうちがうのかと問われても、いまいちピンときません。イギリス国王では「リチャード」「エドワード」「ジョージ」は何世もいるのに「ジョン」だけは一代限りですね。困った王様だったので、その名前を継ぎたくなかったのでしょう。後醍醐天皇は、醍醐天皇にあこがれていて、本来死んでからのおくり名を生きているうちに決めていたくらいですが、日本では「後ナントカ」ぐらいで、何世というのはありません。

有名人やすぐれた人にあやかりたいということで親が子供に命名することがあります。坂本竜馬ファンが「竜馬」と名付けることはよくあります。名前負けとかイメージが強すぎるとかのデメリットがありますが、やはり言霊思想でしょうか。ただ「秀吉」「信長」はインパクトが強いだけでなく、やや古くさい感じなので少ないようです。「家康」もほぼゼロかもしれません。「光秀」は字義としてはよいのですが、イメージ的によくないので避けられるのでしょう。昔は「仁」の字を使うと不敬罪と言われたので、この字も避けられました。

名前に使えない漢字というのは常用漢字・人名用漢字以外のものです。県名の漢字も常用漢字にはいっていないものがあったのですが、「潟」などは改訂ではいりました。「大阪」の「阪」も「坂」と同意だし、「埼玉」の「埼」も「崎」と同意ですが、定着しているので、今さら変えられません。「さいたま市」がかな書きなのはどうかなあと思いますが。県名と県庁所在地の市の名前の不一致についても昔よく言われていました。東北地方に多い理由は明治政府のいやがらせだった、という説です。長い時間がたつと、市町村の合併もあって名前が変わることもあります。「都構想」が実現すると、大阪の地名も変わります。都道府県が合併したり分割したりすることはもうないのでしょうか。地方自治法にはその手続きなどが書かれているらしいので、あっても不思議はないのですが。

井上ひさしの『吉里吉里国』では独立という、とんでもない話になっていましたが、都市レベルの大きさでもシンガポールのように独立した国として認められているところもあります。大阪市が都構想どころか「大阪国」になることも理論上ありえるでしょう。そうなると出入国にはパスポートが必要になってきます。志望校別特訓で学園前教室の生徒が谷九に来る、なんてときにはパスポートがなければ入国を拒否されます。大阪国と兵庫県の人が結婚すれば国際結婚です。でもよく考えたら、阪急電車に乗ったら簡単に密入国できてしまうなあ。ちなみに大阪国の国歌は吉本のテーマソングになるはずです。

これに近い発想として万城目学の『プリンセス・トヨトミ』がありました。映画は綾瀬はるかを見せるためのものになっていましたが…。『本能寺ホテル』も万城目学とトラブルがあったらしく、そのせいかトホホな映画になってしまいました。まあ、安易なタイムスリップもので、見飽きた感満載ですが。NHK大河ドラマの『西郷どん』もトホホでした。慶喜が品川あたりで西郷とうろうろするのも、いかがなものか。途中で脱落してしまいました。ドラマなのでフィクションの部分があって当然ですが、「安易さ」が目立つと『お江』と同じになってしまいます。『お江』は初回で脱落しました。歴史ドラマでフィクションの人物が重要な役割を演じるのは悪くないし、ドラマだから許されるということもあるのですが…。

逆に山田風太郎の明治物などは全体としてのフィクションの中に、実在の人物を巧妙に配していて非常におもしろかった。漱石と一葉の幼い頃の邂逅のシーンは、実際にあったとしても何の不思議もありません。もちろん「弁慶が小野小町に出したラブレター」となったら、これは落語です。志ん生の『火焔太鼓』のくすぐりですね。三谷幸喜の『新撰組』では、龍馬と土方が若いときに知り合いだったという設定になっていました。これもまあないことでしょうが、同じ頃に江戸にいてともに剣術の修行をしていたのなら、すれちがいぐらいあってもおかしくはありません。

思いがけない人物が知り合いだったり、親戚だったりすることがわかるのはおもしろいものです。浮世絵の祖として最近評価の高い岩佐又兵衛は荒木村重の息子ですし、同じく絵師の海北友松も近江の浅井家の三将の一人海北綱親の息子です。貞門俳諧の指導者松永貞徳は父親が松永久秀の甥とか子だという説もあります。やはり画家の酒井抱一は、老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家の出身ですし、歌人の木下長嘯子は、秀吉の正室北政所の甥にあたります。この木下一族の中からは「街をゆき子供のそばを通るとき蜜柑の香せり冬がまた来る」や「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」で有名な木下利玄も出ています。山中鹿之助の子供と言われる新六が鴻池家の祖であることはどれくらい知られているのかなあ。新六は、もともと伊丹で酒づくりをしていたのですが、新六に叱られた手代が腹いせに灰を投げ込んだことから清酒が生まれたという伝説が残っています。安倍首相が岸信介の孫であるということは、当然佐藤栄作は大叔父さんで、これはだれでも知っているでしょう。麻生太郎も吉田茂の孫として有名ですが、吉田茂の奥さんは牧野伸顕の娘なので麻生さんは大久保利通の玄孫にあたります。

先祖が歴史上の人物だったら、なんとなくうれしくなりますが、歴史上の人物のように見えて実在したかどうかわからない人もいます。弁慶でさえフィクションだと言われます。逆に金太郎は実在の人物です。その子の「金平」は架空の人物です。「きんぴらごぼう」の語源にもなっているのですがね。斎藤道三にふたごの姉がいたという説もあります。「どうさん」の姉だけに「きんさんぎんさん」、なんちゃって…という小咄を昔考えたのですが、もう通じなくなっているのだろうなあ。百歳を過ぎても元気だった双子姉妹はどうなったのでしょうね。まだ生きてて、年上の男の人が好みだなんて言っているのかしら。

2019年11月 7日 (木)

もりそばとざるそば   と告知

山下trがざるそばともりそばのちがいは?という話を書いてはりましたが、それで昔のことを思い出しました。

かつて仙台に7年半ほど住んでいたのですが(7年半というのが微妙ですね何があったんでしょー)、そのとき、「仙台市内もりそば食べ歩きツアー」に参加したことがあります。主催したのは、現在、某国立大学の経済学教授で学部長もつとめていらっしゃる(らしい)方で、当時は大学院生でした。「ツアー」とか「主催」とかいうとたいしたことのようですが、まったくたいしたことのない企画で、つまりはただのサークル活動です。

私が通っていた大学iに、文化ゼミナールという高尚なのか低俗なのかわからない名前の自主ゼミといいますか読書サークルみたいなのがあって、そこでマルクスの『資本論』を読んでたんです。『資本論』なんて言っても今じゃ「へーほーふーん」ですが、当時はちょっと「え、左翼? やばいの?」みたいな雰囲気がなきにしもあらずでした。実際のところは、ノンポリ学生の集まりで、なんていったらいいんでしょう、オタクというのではないんですが、地味に、地道に、淡々と、きちんと『資本論』を理解しようとしてがんばっていました。『資本論』は、たぶん知らない人が多いと思いますが、3巻本で、マルクスがきちんと目を通した形で出版されたのは1巻のみ、2巻と3巻はマルクスの草稿にエンゲルスがちゃちゃっと手を入れて出版したものなので(たぶん)、文ゼミでは、1巻だけを読みました。1年かけて1巻だけ読むんです。といっても、国民文庫だと、1巻だけで文庫本3冊です。これを、毎回平均して20~30ページずつですかね、それぞれ予習してきて、担当者がレジメをきってきて、担当者の進行のもと、みんなであーでもないこーでもないと議論するわけです。

結局僕は3年間参加しましたが(つまり、『資本論』の1巻だけ3回読んだことになります)、メンバーは多いときで6人、少ないときで2人でした。

2人のときというのが文ゼミ存続の危機で、現在某大学の法学部准教授をつとめていらっしゃる(らしい)方と、ほそぼそやってました。当時この人は理学部だったはずですが、今じゃ法学部の准教授というのがすごいですね。「頭が良くてしかも変な人」ということではないかと思われます。

法学部といえば、逆に、国立大学の法学部を出て、べつの国立大学の哲学科の院に進み、今、某大学の哲学教授をしているやつもいます。こいつは、高校のときの同級生で友だちなんで「やつ」とか「こいつ」とか呼んでいいんですが、これも変なやつです。何が変といって、シャツをインするんです。いや、10年以上会っていないので最近は知りませんが、Tシャツのすそをジーパン(ジーパンでいいんでしょうか、今はやはりデニムのパンツとか言わないといけないんでしょうか)にインするんです。いやまあ本人の勝手ですけど。この人はテニスが好きで、今でも土曜日になるとFくんという僕と共通の知り合いとテニスをしているようです。このFくんも高校のときの同級生で、かつ大学の先生です。何の先生だったかな、数年前に会ったとき家族療法がどうとか言ってたような。よくわかりません。いずれにせよなんだか知り合いに大学の先生が多いですね。そういえば、つい先日30年ぷりくらいに会ってごはん食べた友人も大学の先生です。オランダに留学したあと消息不明になっていましたが、数年前に希学園のHPで私を見かけてメールを送ってきてくれたんです。「オランダでベルギー人と結婚して娘が二人いるがオランダはレイシスト(人種差別主義者)が多くてやってられんのでわしは日本に帰る、仕事ないか」とかなんとかいう話でした。その後めでたく日本の某大学に職を得ることができたということで、天満の中華料理屋で旧交をあたためました。「そういえばお前、夜中に、耳なし芳一みたく顔中お経だらけにして訊ねてきたことがあったよなあ」「酔っぱらってうとうとしているあいだに寮の連中に般若心経を書かれたんじゃ」なんて話で盛り上がりましたが、この人こそ極めつきの変人で、とてもここには書けない逸話が山盛りです。おもしろすぎるので人にしゃべりたくてたまらないのですが、良識ある社会人として、ここに書くことはできません。無念です。どうしても聞きたい方がいらっしゃったらこっそり私に話しかけてください。とはいえ塾生諸君には教えられませんが。で、この人が僕に彼の出版した本をくれました。『道元「正法眼蔵」現成公案略解』というのです。「お前、インド学専攻だろうが」「いやいや実はわしはだいぶ前に出家をしておってな」と言ってました。難しそうなので読んでいません。シャツをインする彼も出版した本を送ってくれるのですが、難しそうなので読んでいません。この人は大陸系の西洋哲学を研究しているんですが、僕はどちらかというと英米系の哲学に興味があるということもありその点ウマが合わないのでした。

いまやほとんど何の話をしようとしていたのか見失いつつあります。「そば」でしたね。

そうそう、文ゼミの先輩であったY氏(上述の経済学部教授、この人も変わってました、文ゼミの部室の黒板に『少年老い易く老人死に易し』という謎の格言を書いていましたが、今や彼自身が老境に入りつつあります)が、そば好きだったんです。群馬出身でしたからね。で、特別企画として、仙台市内のそば屋を転々とはしごしながら、『資本論』の勉強会をやろうと。「もりそばならおごってやるぜ!」と豪儀なところを見せてくれたんですね。ところが、そば屋のメニューに「もりそば」ってあまりないんです。でも、その先輩いわく「もりそばを出さない蕎麦屋などない!」。確かに、メニューに書いてなくても「もりそば」とたのむと、だまって出てきます。そしてざるそばより安い。海苔はかかってないし、ざるのうえにものっていませんが、そんなの全然OKですよね。しかしそのころから「ざるそば」と「もりそば」のちがいって何なのか、疑問に思っていました。ネットで検索するといろいろ出てきますが、統一基準がどうもないみたいで、いまだによくわかりません。単価を上げるためにざるに盛り海苔をふりかけて高級感を演出しただけではないかとひそかに睨んでいるのですが、私の勘はよく外れると評判なのであてにはなりません。

さて、告知です。

11月27日(水) 上本町のたかつガーデン
12月3日(火)  四条烏丸教室
12月12日(木) 西宮のプレラにしのみやのプレラホール

で、国語の教育講演会を開催いたします。私ひとりに1時間半もしゃべらせてくれるそうです。燃えるなあ。このHPのイベント情報のところに載っています。塾生保護者様もそうでない方もぜひぜひお誘い合わせのうえお越しください。がんばってパワーポイント作ります。よろしくお願いいたします。

2019年10月20日 (日)

愛される台風

年号も今やいらないという人も多いようです。一つの「くくり」として便利だし、時代のイメージがつくりやすいのですがね。すべて西暦で行くのもなあ。キリスト教に合わせる必然性もないのだから、皇紀で行くのもおもしろそうですが、今更変えるのも変ですし…。神武天皇即位の年が元年ということになっていて、紀元前660年です。仏教伝来の年を「イッチニー、イッチニーとやってきた」と覚えたうちの父親は、今なら552年説で教えられていたわけです。

語呂合わせで「鳴くよウグイス平安京」とか「イチゴパンツ」とか言うのですが、たとえば天正十年と1582年は完全に同じなのでしょうか。当時の日本の暦は太陰暦で、太陽暦とは一ヶ月のズレがあったはずで、安易に当時の年号を西暦にあてはめると、ズレが生じるのではないのでしょうか。明治になって太陽暦に切り替えるときにも、一ヶ月のズレをエイヤッとごまかしました。実は貧乏な明治政府が一ヶ月分の給料をごまかすために太陽暦を積極的に採用したという説もあります。一ヶ月が消えてしまうわけですから混乱はなかったのでしょうか。借金の利息の計算などで、人をだますようなけしからんやつもいたかもしれません。

そのあたりのてんやわんやを題材にした『質屋暦』という志の輔の落語がありました。明治5年12月2日の次の日が 明治6年1月1日になるということが、一ヶ月前に突然発表されます。質屋に借金を返す期限が急に早まってしまい、日数が短くなったのだから返済額を減らすか、返済期間を延ばしてほしいと申し入れるのですが、質屋は聞き入れないというお話。やや理屈っぽいこういう内容の話が東京では受け入れられるんですね。それに比べて上方落語には知的なものが少ないようです。むしろ下品なのも多い。「橋の上からびち○○たれりゃ川のどじょうは玉子とじ」なんて、その極致ですが、こういうのはだれが作ったんでしょうね。狂歌なら宿屋飯盛とか、四方赤良またの名を太田蜀山人という作者名が残っていますが、「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといふて夜もねられず」などはやはりうまいものです。

狂歌を書いた立て札を辻や河原などに立てる「落首」となると、匿名なので当然作者はわかりません。手取川の戦いのときの「上杉に逢うては織田も名取川はねる謙信逃ぐるとぶ長」とか、四国征伐のときの「秀吉が四石の米を買いかねて今日も五斗買い明日も五斗買い」はややマイナー? 「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」は教科書にも載っているレベルです。こういう伝統はマスコミやネットの世界にも引き継がれているようですが、短いことばであることが多いようです。「モリカケ」なんてのはうまくはありませんが、言いやすいことは確かで、定着してしまいました。

「もりそば」は「盛り蕎麦」ですが、正確には「ざる盛り蕎麦」だとか。ということは「ざるそば」「もりそば」は同じものかと思いきや、海苔がかかっているのがざるそばで、海苔がないのがもりそばだと断言する人もいます。いやいや、もともとせいろに入れた「そば切り」をつけ汁で食べていたのが、せっかちな江戸っ子がつゆをそばに直接かけて「ぶっかけそば」として食べるようになったため、区別してそれまでのものを「もりそば」と呼んだのだが、ある店が竹ざるに盛ったそばを出したのが人気になって「ざるそば」が生まれた、と言う人もいます。「かけそば」は「ぶっかけそば」を略したもので、そばの代わりにうどんを使うと「かけうどん」になります。関西では「素うどん」と言いますね。「酢うどん」だと思っている東京人もいるそうですが、何もはいっていないうどんということです。ただ、ネギはさすがにはいっています。これは具材ではなく、薬味という扱いなのでしょうね。「木の葉丼」という、得体のしれないものもありますが、これは何がはいっているのでしょう。「丼」は「どんぶり」と読むのか「どん」と読むのかという問題もあります。「天ぷら丼」のときは「どんぶり」でしょう。これがつまって「天丼」となったら「どん」、「玉子丼」がつまると「ぎょくどん」になりますが、さすがに中身がしょぼくて人気がない。「親子丼」は略しようがありません。これは「どんぶり」と読むのか「どん」と読むのか。カツ丼は「どん」だけですね。どんだけー。

「丼」と「麺」が共通してつくのは「叉焼」ですが、「丼」と「そば」「うどん」が共通してつくのは「天ぷら」と「山かけ」でしょうか。「飯」と「麺」なら「天津」です。「天津丼」と言うこともあるようです。芙蓉蟹つまり「かに玉」をのせているので、「かに玉丼」と呼ぶ店もあります。では、「天津」というのはどこから来ているのでしょう。天津飯というのは、日本独特のものらしく、中国にはないそうで、どうも由来はよくわからない。「天津甘栗」というのもありますが、これも日本での呼び方で中国ではちがう名前だとか。「天津」経由で日本にはいってきたのでしょうね。これはむくのは簡単ですが、つめが汚れるという難点があります。「むかない甘栗」ということで、前もってむいてくれているものもありますが、「むかないみかん」で「むかん」というのもあります。外の皮をむいた冷凍みかんです。かんづめのみかんの内皮は塩酸でとかしているのだそうな。

「缶」を英語で言うと「can」です。どちらが先なのでしょうか。「台風」と「タイフーン」の関係もどうなっているのでしょう。東南アジアのものなので英語ではもともと言わなかったのかもしれません。英米では「ハリケーン」ですかね。「サイクロン」はインドあたりでしょうか。台風は昔は数字だけでなく、特別大きいものには「伊勢湾台風」「室戸台風」とか名づけていましたが、これだと同じような名前が何度も出てきて、結局数字を使って「第二室戸」のようになってしまいます。ABC順に名前をつけたものでは「ジェーン台風」が有名ですが、災害をもたらすものの名前を女性名に限定するのはいかがなものかという「クレーム」が出て、今は少しシステムが変わったようですが、あまり知られていません。日本語も採用されていて、「Usagi」とか「Koinu」とかあるらしいのですが、ベトナム語やカンボジアなど、なじみのないことばであることにも抵抗があって、結局みんな関心を持たないのでしょう。無味乾燥な数字よりも「愛称」のほうがよいのかもしれませんが、台風を愛称で呼ぶのもなんだかなあ。

2019年10月 6日 (日)

なめとこ山の熊   と告知

ごぶさたしてますー。長いあいださぼってた西川ですー。山下trが書いてくれるからいいやと怠けてました。最後に書いたのは、もうおぼえてないぐらい昔です。今さらですが、少しだけ書いてもよろしいでせうか。

このあいだ小2灘クラブ特訓で宮澤賢治の『なめとこ山の熊』を読みました。宮澤賢治は、同じ小2灘クラブ特訓でふた月前にも『やまなし』をやったし、小2最レでも『月夜のけだもの』と『よだかの星』をやったばかりですが、どれもこれもすごくいい。

『なめとこ山の熊』の中に、「狐けん」というのが出てきます。この「けん」は「じゃんけん」の「けん」で、狐は猟師にやられ、猟師は町の商人にやられ(買いたたかれ)、町の商人は(そう書かれていたわけではないけれどたぶん)狐に化かされるという関係を表しているらしい。『なめとこ山』の主人公である猟師の小十郎は熊捕りの名人だけれど、町の旦那には毛皮や熊の胆をひどく買いたたかれる、町の旦那は山の中になんか行かないから熊に襲われないけど、まあ狐けんと同じだ、というふうに出てきます。

この構造は『よだかの星』に似ています。よだかはたかにいじめられてつらい思いをするんだけれど、その自分もまた虫を食べて生きていることに思いあたり、こういうまあ言ってみれば弱肉強食の世界に絶望して、最後は星になってしまいます。『なめとこ山』の小十郎もそっくりです。撃とうとした熊に、何がほしくて俺を殺すのかと訊かれて、毛皮と胆がいるんだけど、あらためてそうやってお前に訊かれると、もう熊を撃つのなんかやめて、それで食っていけなくなって死んでもいいような気がすると答えます。(わずかなサジェスチョンで『なめとこ山』が『よだかの星』に似ていることに気づいた子がいました、ブラボー!)

実際のところ、『よだかの星』のよだかとたかと虫の関係はじゃんけん的関係ではありません。じゃんけん構造になるためには、たかが虫にやられるという部分が必要なはずですが、それは出てきません。それでかどうかはわかりませんが、『なめとこ山』でも、じゃんけんらしくなるために必要な、町の商人が狐に化かされる或いはクマに襲われるという部分は省かれています。そのため、『よだかの星』との類似がより明らかになっています。

宮澤賢治には、こういう厭世的な、ペシミスティックなところがありますね。小6ベーシックのテキストで妹のトシさんの死を題材にした「無声慟哭」という詩を取り上げているんですが、これもかなり悲痛です。やはり何かのテキストに取り上げた「眼にて云う」という詩は、血を吐き続けて口も利けない状態で仰向けに横たわっている「魂魄なかば体をはなれた」語り手が、手当てをしてくれている医者に、あなたのほうから見たら(血まみれの)惨憺たる景色だろうけれどわたしから見えるのは美しい青空なんだ、という意味のことを「眼にて云う」わけですが、これはほとんど、あの世への憧憬のように読めますよね。

一方で、宮澤賢治の物語は会話がすごくおもしろい。『なめとこ山』の母グマと子グマの会話ものほほんとしていて良いし(そういえば何年か前に我が家に棲息していた高校一年生の女子と八ヶ岳でそっくりの会話をしました、「あれ、あの白いの雪やんな」「え? ちゃうで、この季節あんなところに雪あれへん」「うそ、雪やん、白いもん」「雪ちゃうって」「ほな何やねん?」「ただの白い土やろ、なんか『なめとこ山の熊』みたいやな」「何それ?」みたいな)、『やまなし』に出でくるカニの親子の会話もしみじみおかしい。兄弟の子ガニが話をしていると、こらこら早く寝ないと明日イサドへ連れて行かんぞとかなんとか言いながら父ガニが登場しますが、この父親、そんなふうに子どもをたしなめたわりには、やまなしがトボンと落ちてくると、ああいいにおいだな、何日かするとこれがうまい酒になるんだ、ついていこう、なんて言いながらやまなしをふらふら追いかけていくんです。『セロ弾きのゴーシュ』では、ゴーシュが必死でチェロの練習をしていると猫がやってきて、はい、これおみや(おみやげ)です、なんて言ってトマトを差し出すんですが、ゴーシュは、あ、それ、うちの庭のトマトじゃないか、しかも青いやつもいで来やがってとカンカンになります。こうなると、ほとんどコントですよね。きわめつけは『月夜のけだもの』です。ちょっと紹介しづらいので割愛しますが、獅子と狐と狸の会話は、かつて流行った不条理4コマ(吉田戦車とかの)みたいなおもしろさです。

『なめとこ山』は、熊が輪になって、亡くなった小十郎を見送る静かな場面で終わるのですが、アイヌの儀式にこんなのなかったっけと思って調べてみたら、やはりありました。イオマンテです。これは、人間が殺した熊の魂を神さまのもとに送り返す儀式なんですが、宮澤賢治は熊と人間を入れかえたんですね。とても印象的なシーンですよ。

ところで!

クマといえば登山ですよね。ずっと前にこちらのブログに書いたとおり、北海道で山登りしていてヒグマと接近遭遇したっていうぐらい、とにかくクマと縁があります。

さて!

この4月、残雪の燧ヶ岳に登ってまいりました。え、燧ヶ岳を知らない? そりゃ知らないでせう。登山に興味がある人以外はあまり知らないと思います。尾瀬にある山なんです。尾瀬はご存知ですよね? いやいやご存知じゃなくても全然いいんですが、「夏が来れば思い出す、はるかな尾瀬」とかなんとか歌われた、あの「尾瀬」です。群馬にあります。ちがったっけ? ま、なんせ尾瀬は、尾瀬沼と尾瀬ヶ原の二段階構成になっておりますが、まだどちらも雪で真っ白けでした。尾瀬沼もほぼ氷結してしていて、さくさくと歩いて渡れますし、尾瀬ヶ原も木道はほぼすべて隠れていて、ただの雪原でした。こちらもどまんなかを縦断させていただきました。

そんな状況なので観光客もまだ全然おらず、したがって山小屋もまだ営業を始めておらず、したがって僕はテントを担いで行くことを余儀なくされました。氷結した尾瀬沼のほとりで一泊して、翌日燧ヶ岳に登ったんですが、これが予想外に大変で。とにかく体が雪に沈むんです。ワカンという、足が雪に沈むのを防ぐための履き物があるんですが、そして私も持っているんですが(Y田M平先生にもらった)、Y田先生が「ワカン? いらん」とかなんとかアドバイスしてくれたので持って行かなかったんです。そしたらもう沈む沈む。テント担いで一足ごとに膝下まで雪に沈むとなかなかしんどい。なんていうか、すっごくイライラします。そして泣けてきます。膝下までならまだいいんですが、股下とか腰上まで沈むと脱出するのも一苦労です。経験したことのない人にはわかりにくいんですが、出せないんですよ、足。でかい登山靴にアイゼンつけてますので、出ない。どんなに引っ張っても出ない。どうするのか。ピッケルで掘り出すんです、足を。そんなことをしょっちゅうやっていたために、とうとう目的地(尾瀬ヶ原のテント場)に着く前に日暮れが近くなってしまいました。で、結局、山の中にテントを張りました。許してください、積雪の上なので自然破壊はしてません。それより、付近にどう考えてもクマのものとしか思えない足跡がたくさんあったのが閉口でした。クマは好きだけど会いたくないです。でも、楽しかったな。だれもいない山の中でテント張って。お湯を沸かしてあったかいお酒飲んで。いちばん幸せな瞬間です。

本も読みました。テントのなかで。本は必ず持って行きます。今回は、鈴木牧之の『北越雪譜』。江戸時代の越後の豊かな商人?豪農?である鈴木牧之が、雪国のことを知らない江戸の人に向けて、雪国暮らしの実情を紹介した本です。古文といっても江戸時代のものなので読みやすいし、風土的にも残雪期の山で読むにはぴったりです。というわけで、最後に、私が驚嘆した話を紹介して終わりにしましょう。

大晦日の晩、鈴木牧之が知り合いの家で歓談していると、突然、往来に面した窓から、だだっと人が飛び込んできます。雪国のこととて、雪かきした雪を往来の真ん中に盛り上げていて、そのうえを歩くようになっているんですが、件の人は、按摩とりの座頭、すなわちいわゆる盲人で、足をすべらせてしまう。で、窓を破って部屋の中に転落してしまうんです。もう、家のおかみさんはカンカンです。こんな日に、しかも今年の吉方(えほう)に向いた窓から落ちてくるなんて。とっとと帰れ、と。すると、この福一という按摩とり、しばらく思案していたかと思うと、

吉方から福一というこめくらが入りてしりもちつくはめでたし

という歌をよむんです。もちろん、こめくら=小盲=米倉、しりもちつく→餅をつく、ですし、そもそも福一という名前もめでたい。この頭の回転の速さ。福一はその後江戸に出て、出世したとのことです。

ではまた~。

いやいや「ではまた~」ではありませんでした。私が久々に記事を書いたのは、福一の話がしたかったからではなく、告知したかったからでした。

11月の終わりから12月のはじめにかけて、国語の教育講演会があります。ひさしぶりです。タイトルは、他に思いつかなければ数年前と同じ『国語の学び方・教え方』になるでしょう。内容はたぶん結構リニューアルします。よろしければお誘い合わせのうえ、おこしください。会場は、西宮北口のプレラホール、上本町の高津なんとか、そして四条烏丸教室です。そのうちHPなどでも告知されるはずです、希学園の関係部署の方に私が嫌われていなければ! 自信なし!

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