2019年11月15日 (金)

きんさんぎんさんどうさん

ゲームの「FFX2」というのは「FFX」の次のもので、この場合の「X」はローマ数字の10です。ということは、「イレブン」のはずだったのに、「X」の続編ということで、あえて「テンツー」にしたらしい。こうなると、無味乾燥な数字にも意味がこめられてきます。でも、国王の名前の「○○何世」というのはやはりイメージがわかない。「ルイ14世」と「ルイ16世」はどうちがうのかと問われても、いまいちピンときません。イギリス国王では「リチャード」「エドワード」「ジョージ」は何世もいるのに「ジョン」だけは一代限りですね。困った王様だったので、その名前を継ぎたくなかったのでしょう。後醍醐天皇は、醍醐天皇にあこがれていて、本来死んでからのおくり名を生きているうちに決めていたくらいですが、日本では「後ナントカ」ぐらいで、何世というのはありません。

有名人やすぐれた人にあやかりたいということで親が子供に命名することがあります。坂本竜馬ファンが「竜馬」と名付けることはよくあります。名前負けとかイメージが強すぎるとかのデメリットがありますが、やはり言霊思想でしょうか。ただ「秀吉」「信長」はインパクトが強いだけでなく、やや古くさい感じなので少ないようです。「家康」もほぼゼロかもしれません。「光秀」は字義としてはよいのですが、イメージ的によくないので避けられるのでしょう。昔は「仁」の字を使うと不敬罪と言われたので、この字も避けられました。

名前に使えない漢字というのは常用漢字・人名用漢字以外のものです。県名の漢字も常用漢字にはいっていないものがあったのですが、「潟」などは改訂ではいりました。「大阪」の「阪」も「坂」と同意だし、「埼玉」の「埼」も「崎」と同意ですが、定着しているので、今さら変えられません。「さいたま市」がかな書きなのはどうかなあと思いますが。県名と県庁所在地の市の名前の不一致についても昔よく言われていました。東北地方に多い理由は明治政府のいやがらせだった、という説です。長い時間がたつと、市町村の合併もあって名前が変わることもあります。「都構想」が実現すると、大阪の地名も変わります。都道府県が合併したり分割したりすることはもうないのでしょうか。地方自治法にはその手続きなどが書かれているらしいので、あっても不思議はないのですが。

井上ひさしの『吉里吉里国』では独立という、とんでもない話になっていましたが、都市レベルの大きさでもシンガポールのように独立した国として認められているところもあります。大阪市が都構想どころか「大阪国」になることも理論上ありえるでしょう。そうなると出入国にはパスポートが必要になってきます。志望校別特訓で学園前教室の生徒が谷九に来る、なんてときにはパスポートがなければ入国を拒否されます。大阪国と兵庫県の人が結婚すれば国際結婚です。でもよく考えたら、阪急電車に乗ったら簡単に密入国できてしまうなあ。ちなみに大阪国の国歌は吉本のテーマソングになるはずです。

これに近い発想として万城目学の『プリンセス・トヨトミ』がありました。映画は綾瀬はるかを見せるためのものになっていましたが…。『本能寺ホテル』も万城目学とトラブルがあったらしく、そのせいかトホホな映画になってしまいました。まあ、安易なタイムスリップもので、見飽きた感満載ですが。NHK大河ドラマの『西郷どん』もトホホでした。慶喜が品川あたりで西郷とうろうろするのも、いかがなものか。途中で脱落してしまいました。ドラマなのでフィクションの部分があって当然ですが、「安易さ」が目立つと『お江』と同じになってしまいます。『お江』は初回で脱落しました。歴史ドラマでフィクションの人物が重要な役割を演じるのは悪くないし、ドラマだから許されるということもあるのですが…。

逆に山田風太郎の明治物などは全体としてのフィクションの中に、実在の人物を巧妙に配していて非常におもしろかった。漱石と一葉の幼い頃の邂逅のシーンは、実際にあったとしても何の不思議もありません。もちろん「弁慶が小野小町に出したラブレター」となったら、これは落語です。志ん生の『火焔太鼓』のくすぐりですね。三谷幸喜の『新撰組』では、龍馬と土方が若いときに知り合いだったという設定になっていました。これもまあないことでしょうが、同じ頃に江戸にいてともに剣術の修行をしていたのなら、すれちがいぐらいあってもおかしくはありません。

思いがけない人物が知り合いだったり、親戚だったりすることがわかるのはおもしろいものです。浮世絵の祖として最近評価の高い岩佐又兵衛は荒木村重の息子ですし、同じく絵師の海北友松も近江の浅井家の三将の一人海北綱親の息子です。貞門俳諧の指導者松永貞徳は父親が松永久秀の甥とか子だという説もあります。やはり画家の酒井抱一は、老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家の出身ですし、歌人の木下長嘯子は、秀吉の正室北政所の甥にあたります。この木下一族の中からは「街をゆき子供のそばを通るとき蜜柑の香せり冬がまた来る」や「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」で有名な木下利玄も出ています。山中鹿之助の子供と言われる新六が鴻池家の祖であることはどれくらい知られているのかなあ。新六は、もともと伊丹で酒づくりをしていたのですが、新六に叱られた手代が腹いせに灰を投げ込んだことから清酒が生まれたという伝説が残っています。安倍首相が岸信介の孫であるということは、当然佐藤栄作は大叔父さんで、これはだれでも知っているでしょう。麻生太郎も吉田茂の孫として有名ですが、吉田茂の奥さんは牧野伸顕の娘なので麻生さんは大久保利通の玄孫にあたります。

先祖が歴史上の人物だったら、なんとなくうれしくなりますが、歴史上の人物のように見えて実在したかどうかわからない人もいます。弁慶でさえフィクションだと言われます。逆に金太郎は実在の人物です。その子の「金平」は架空の人物です。「きんぴらごぼう」の語源にもなっているのですがね。斎藤道三にふたごの姉がいたという説もあります。「どうさん」の姉だけに「きんさんぎんさん」、なんちゃって…という小咄を昔考えたのですが、もう通じなくなっているのだろうなあ。百歳を過ぎても元気だった双子姉妹はどうなったのでしょうね。まだ生きてて、年上の男の人が好みだなんて言っているのかしら。

2019年11月 7日 (木)

もりそばとざるそば   と告知

山下trがざるそばともりそばのちがいは?という話を書いてはりましたが、それで昔のことを思い出しました。

かつて仙台に7年半ほど住んでいたのですが(7年半というのが微妙ですね何があったんでしょー)、そのとき、「仙台市内もりそば食べ歩きツアー」に参加したことがあります。主催したのは、現在、某国立大学の経済学教授で学部長もつとめていらっしゃる(らしい)方で、当時は大学院生でした。「ツアー」とか「主催」とかいうとたいしたことのようですが、まったくたいしたことのない企画で、つまりはただのサークル活動です。

私が通っていた大学iに、文化ゼミナールという高尚なのか低俗なのかわからない名前の自主ゼミといいますか読書サークルみたいなのがあって、そこでマルクスの『資本論』を読んでたんです。『資本論』なんて言っても今じゃ「へーほーふーん」ですが、当時はちょっと「え、左翼? やばいの?」みたいな雰囲気がなきにしもあらずでした。実際のところは、ノンポリ学生の集まりで、なんていったらいいんでしょう、オタクというのではないんですが、地味に、地道に、淡々と、きちんと『資本論』を理解しようとしてがんばっていました。『資本論』は、たぶん知らない人が多いと思いますが、3巻本で、マルクスがきちんと目を通した形で出版されたのは1巻のみ、2巻と3巻はマルクスの草稿にエンゲルスがちゃちゃっと手を入れて出版したものなので(たぶん)、文ゼミでは、1巻だけを読みました。1年かけて1巻だけ読むんです。といっても、国民文庫だと、1巻だけで文庫本3冊です。これを、毎回平均して20~30ページずつですかね、それぞれ予習してきて、担当者がレジメをきってきて、担当者の進行のもと、みんなであーでもないこーでもないと議論するわけです。

結局僕は3年間参加しましたが(つまり、『資本論』の1巻だけ3回読んだことになります)、メンバーは多いときで6人、少ないときで2人でした。

2人のときというのが文ゼミ存続の危機で、現在某大学の法学部准教授をつとめていらっしゃる(らしい)方と、ほそぼそやってました。当時この人は理学部だったはずですが、今じゃ法学部の准教授というのがすごいですね。「頭が良くてしかも変な人」ということではないかと思われます。

法学部といえば、逆に、国立大学の法学部を出て、べつの国立大学の哲学科の院に進み、今、某大学の哲学教授をしているやつもいます。こいつは、高校のときの同級生で友だちなんで「やつ」とか「こいつ」とか呼んでいいんですが、これも変なやつです。何が変といって、シャツをインするんです。いや、10年以上会っていないので最近は知りませんが、Tシャツのすそをジーパン(ジーパンでいいんでしょうか、今はやはりデニムのパンツとか言わないといけないんでしょうか)にインするんです。いやまあ本人の勝手ですけど。この人はテニスが好きで、今でも土曜日になるとFくんという僕と共通の知り合いとテニスをしているようです。このFくんも高校のときの同級生で、かつ大学の先生です。何の先生だったかな、数年前に会ったとき家族療法がどうとか言ってたような。よくわかりません。いずれにせよなんだか知り合いに大学の先生が多いですね。そういえば、つい先日30年ぷりくらいに会ってごはん食べた友人も大学の先生です。オランダに留学したあと消息不明になっていましたが、数年前に希学園のHPで私を見かけてメールを送ってきてくれたんです。「オランダでベルギー人と結婚して娘が二人いるがオランダはレイシスト(人種差別主義者)が多くてやってられんのでわしは日本に帰る、仕事ないか」とかなんとかいう話でした。その後めでたく日本の某大学に職を得ることができたということで、天満の中華料理屋で旧交をあたためました。「そういえばお前、夜中に、耳なし芳一みたく顔中お経だらけにして訊ねてきたことがあったよなあ」「酔っぱらってうとうとしているあいだに寮の連中に般若心経を書かれたんじゃ」なんて話で盛り上がりましたが、この人こそ極めつきの変人で、とてもここには書けない逸話が山盛りです。おもしろすぎるので人にしゃべりたくてたまらないのですが、良識ある社会人として、ここに書くことはできません。無念です。どうしても聞きたい方がいらっしゃったらこっそり私に話しかけてください。とはいえ塾生諸君には教えられませんが。で、この人が僕に彼の出版した本をくれました。『道元「正法眼蔵」現成公案略解』というのです。「お前、インド学専攻だろうが」「いやいや実はわしはだいぶ前に出家をしておってな」と言ってました。難しそうなので読んでいません。シャツをインする彼も出版した本を送ってくれるのですが、難しそうなので読んでいません。この人は大陸系の西洋哲学を研究しているんですが、僕はどちらかというと英米系の哲学に興味があるということもありその点ウマが合わないのでした。

いまやほとんど何の話をしようとしていたのか見失いつつあります。「そば」でしたね。

そうそう、文ゼミの先輩であったY氏(上述の経済学部教授、この人も変わってました、文ゼミの部室の黒板に『少年老い易く老人死に易し』という謎の格言を書いていましたが、今や彼自身が老境に入りつつあります)が、そば好きだったんです。群馬出身でしたからね。で、特別企画として、仙台市内のそば屋を転々とはしごしながら、『資本論』の勉強会をやろうと。「もりそばならおごってやるぜ!」と豪儀なところを見せてくれたんですね。ところが、そば屋のメニューに「もりそば」ってあまりないんです。でも、その先輩いわく「もりそばを出さない蕎麦屋などない!」。確かに、メニューに書いてなくても「もりそば」とたのむと、だまって出てきます。そしてざるそばより安い。海苔はかかってないし、ざるのうえにものっていませんが、そんなの全然OKですよね。しかしそのころから「ざるそば」と「もりそば」のちがいって何なのか、疑問に思っていました。ネットで検索するといろいろ出てきますが、統一基準がどうもないみたいで、いまだによくわかりません。単価を上げるためにざるに盛り海苔をふりかけて高級感を演出しただけではないかとひそかに睨んでいるのですが、私の勘はよく外れると評判なのであてにはなりません。

さて、告知です。

11月27日(水) 上本町のたかつガーデン
12月3日(火)  四条烏丸教室
12月12日(木) 西宮のプレラにしのみやのプレラホール

で、国語の教育講演会を開催いたします。私ひとりに1時間半もしゃべらせてくれるそうです。燃えるなあ。このHPのイベント情報のところに載っています。塾生保護者様もそうでない方もぜひぜひお誘い合わせのうえお越しください。がんばってパワーポイント作ります。よろしくお願いいたします。

2019年10月20日 (日)

愛される台風

年号も今やいらないという人も多いようです。一つの「くくり」として便利だし、時代のイメージがつくりやすいのですがね。すべて西暦で行くのもなあ。キリスト教に合わせる必然性もないのだから、皇紀で行くのもおもしろそうですが、今更変えるのも変ですし…。神武天皇即位の年が元年ということになっていて、紀元前660年です。仏教伝来の年を「イッチニー、イッチニーとやってきた」と覚えたうちの父親は、今なら552年説で教えられていたわけです。

語呂合わせで「鳴くよウグイス平安京」とか「イチゴパンツ」とか言うのですが、たとえば天正十年と1582年は完全に同じなのでしょうか。当時の日本の暦は太陰暦で、太陽暦とは一ヶ月のズレがあったはずで、安易に当時の年号を西暦にあてはめると、ズレが生じるのではないのでしょうか。明治になって太陽暦に切り替えるときにも、一ヶ月のズレをエイヤッとごまかしました。実は貧乏な明治政府が一ヶ月分の給料をごまかすために太陽暦を積極的に採用したという説もあります。一ヶ月が消えてしまうわけですから混乱はなかったのでしょうか。借金の利息の計算などで、人をだますようなけしからんやつもいたかもしれません。

そのあたりのてんやわんやを題材にした『質屋暦』という志の輔の落語がありました。明治5年12月2日の次の日が 明治6年1月1日になるということが、一ヶ月前に突然発表されます。質屋に借金を返す期限が急に早まってしまい、日数が短くなったのだから返済額を減らすか、返済期間を延ばしてほしいと申し入れるのですが、質屋は聞き入れないというお話。やや理屈っぽいこういう内容の話が東京では受け入れられるんですね。それに比べて上方落語には知的なものが少ないようです。むしろ下品なのも多い。「橋の上からびち○○たれりゃ川のどじょうは玉子とじ」なんて、その極致ですが、こういうのはだれが作ったんでしょうね。狂歌なら宿屋飯盛とか、四方赤良またの名を太田蜀山人という作者名が残っていますが、「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといふて夜もねられず」などはやはりうまいものです。

狂歌を書いた立て札を辻や河原などに立てる「落首」となると、匿名なので当然作者はわかりません。手取川の戦いのときの「上杉に逢うては織田も名取川はねる謙信逃ぐるとぶ長」とか、四国征伐のときの「秀吉が四石の米を買いかねて今日も五斗買い明日も五斗買い」はややマイナー? 「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」は教科書にも載っているレベルです。こういう伝統はマスコミやネットの世界にも引き継がれているようですが、短いことばであることが多いようです。「モリカケ」なんてのはうまくはありませんが、言いやすいことは確かで、定着してしまいました。

「もりそば」は「盛り蕎麦」ですが、正確には「ざる盛り蕎麦」だとか。ということは「ざるそば」「もりそば」は同じものかと思いきや、海苔がかかっているのがざるそばで、海苔がないのがもりそばだと断言する人もいます。いやいや、もともとせいろに入れた「そば切り」をつけ汁で食べていたのが、せっかちな江戸っ子がつゆをそばに直接かけて「ぶっかけそば」として食べるようになったため、区別してそれまでのものを「もりそば」と呼んだのだが、ある店が竹ざるに盛ったそばを出したのが人気になって「ざるそば」が生まれた、と言う人もいます。「かけそば」は「ぶっかけそば」を略したもので、そばの代わりにうどんを使うと「かけうどん」になります。関西では「素うどん」と言いますね。「酢うどん」だと思っている東京人もいるそうですが、何もはいっていないうどんということです。ただ、ネギはさすがにはいっています。これは具材ではなく、薬味という扱いなのでしょうね。「木の葉丼」という、得体のしれないものもありますが、これは何がはいっているのでしょう。「丼」は「どんぶり」と読むのか「どん」と読むのかという問題もあります。「天ぷら丼」のときは「どんぶり」でしょう。これがつまって「天丼」となったら「どん」、「玉子丼」がつまると「ぎょくどん」になりますが、さすがに中身がしょぼくて人気がない。「親子丼」は略しようがありません。これは「どんぶり」と読むのか「どん」と読むのか。カツ丼は「どん」だけですね。どんだけー。

「丼」と「麺」が共通してつくのは「叉焼」ですが、「丼」と「そば」「うどん」が共通してつくのは「天ぷら」と「山かけ」でしょうか。「飯」と「麺」なら「天津」です。「天津丼」と言うこともあるようです。芙蓉蟹つまり「かに玉」をのせているので、「かに玉丼」と呼ぶ店もあります。では、「天津」というのはどこから来ているのでしょう。天津飯というのは、日本独特のものらしく、中国にはないそうで、どうも由来はよくわからない。「天津甘栗」というのもありますが、これも日本での呼び方で中国ではちがう名前だとか。「天津」経由で日本にはいってきたのでしょうね。これはむくのは簡単ですが、つめが汚れるという難点があります。「むかない甘栗」ということで、前もってむいてくれているものもありますが、「むかないみかん」で「むかん」というのもあります。外の皮をむいた冷凍みかんです。かんづめのみかんの内皮は塩酸でとかしているのだそうな。

「缶」を英語で言うと「can」です。どちらが先なのでしょうか。「台風」と「タイフーン」の関係もどうなっているのでしょう。東南アジアのものなので英語ではもともと言わなかったのかもしれません。英米では「ハリケーン」ですかね。「サイクロン」はインドあたりでしょうか。台風は昔は数字だけでなく、特別大きいものには「伊勢湾台風」「室戸台風」とか名づけていましたが、これだと同じような名前が何度も出てきて、結局数字を使って「第二室戸」のようになってしまいます。ABC順に名前をつけたものでは「ジェーン台風」が有名ですが、災害をもたらすものの名前を女性名に限定するのはいかがなものかという「クレーム」が出て、今は少しシステムが変わったようですが、あまり知られていません。日本語も採用されていて、「Usagi」とか「Koinu」とかあるらしいのですが、ベトナム語やカンボジアなど、なじみのないことばであることにも抵抗があって、結局みんな関心を持たないのでしょう。無味乾燥な数字よりも「愛称」のほうがよいのかもしれませんが、台風を愛称で呼ぶのもなんだかなあ。

2019年10月 6日 (日)

なめとこ山の熊   と告知

ごぶさたしてますー。長いあいださぼってた西川ですー。山下trが書いてくれるからいいやと怠けてました。最後に書いたのは、もうおぼえてないぐらい昔です。今さらですが、少しだけ書いてもよろしいでせうか。

このあいだ小2灘クラブ特訓で宮澤賢治の『なめとこ山の熊』を読みました。宮澤賢治は、同じ小2灘クラブ特訓でふた月前にも『やまなし』をやったし、小2最レでも『月夜のけだもの』と『よだかの星』をやったばかりですが、どれもこれもすごくいい。

『なめとこ山の熊』の中に、「狐けん」というのが出てきます。この「けん」は「じゃんけん」の「けん」で、狐は猟師にやられ、猟師は町の商人にやられ(買いたたかれ)、町の商人は(そう書かれていたわけではないけれどたぶん)狐に化かされるという関係を表しているらしい。『なめとこ山』の主人公である猟師の小十郎は熊捕りの名人だけれど、町の旦那には毛皮や熊の胆をひどく買いたたかれる、町の旦那は山の中になんか行かないから熊に襲われないけど、まあ狐けんと同じだ、というふうに出てきます。

この構造は『よだかの星』に似ています。よだかはたかにいじめられてつらい思いをするんだけれど、その自分もまた虫を食べて生きていることに思いあたり、こういうまあ言ってみれば弱肉強食の世界に絶望して、最後は星になってしまいます。『なめとこ山』の小十郎もそっくりです。撃とうとした熊に、何がほしくて俺を殺すのかと訊かれて、毛皮と胆がいるんだけど、あらためてそうやってお前に訊かれると、もう熊を撃つのなんかやめて、それで食っていけなくなって死んでもいいような気がすると答えます。(わずかなサジェスチョンで『なめとこ山』が『よだかの星』に似ていることに気づいた子がいました、ブラボー!)

実際のところ、『よだかの星』のよだかとたかと虫の関係はじゃんけん的関係ではありません。じゃんけん構造になるためには、たかが虫にやられるという部分が必要なはずですが、それは出てきません。それでかどうかはわかりませんが、『なめとこ山』でも、じゃんけんらしくなるために必要な、町の商人が狐に化かされる或いはクマに襲われるという部分は省かれています。そのため、『よだかの星』との類似がより明らかになっています。

宮澤賢治には、こういう厭世的な、ペシミスティックなところがありますね。小6ベーシックのテキストで妹のトシさんの死を題材にした「無声慟哭」という詩を取り上げているんですが、これもかなり悲痛です。やはり何かのテキストに取り上げた「眼にて云う」という詩は、血を吐き続けて口も利けない状態で仰向けに横たわっている「魂魄なかば体をはなれた」語り手が、手当てをしてくれている医者に、あなたのほうから見たら(血まみれの)惨憺たる景色だろうけれどわたしから見えるのは美しい青空なんだ、という意味のことを「眼にて云う」わけですが、これはほとんど、あの世への憧憬のように読めますよね。

一方で、宮澤賢治の物語は会話がすごくおもしろい。『なめとこ山』の母グマと子グマの会話ものほほんとしていて良いし(そういえば何年か前に我が家に棲息していた高校一年生の女子と八ヶ岳でそっくりの会話をしました、「あれ、あの白いの雪やんな」「え? ちゃうで、この季節あんなところに雪あれへん」「うそ、雪やん、白いもん」「雪ちゃうって」「ほな何やねん?」「ただの白い土やろ、なんか『なめとこ山の熊』みたいやな」「何それ?」みたいな)、『やまなし』に出でくるカニの親子の会話もしみじみおかしい。兄弟の子ガニが話をしていると、こらこら早く寝ないと明日イサドへ連れて行かんぞとかなんとか言いながら父ガニが登場しますが、この父親、そんなふうに子どもをたしなめたわりには、やまなしがトボンと落ちてくると、ああいいにおいだな、何日かするとこれがうまい酒になるんだ、ついていこう、なんて言いながらやまなしをふらふら追いかけていくんです。『セロ弾きのゴーシュ』では、ゴーシュが必死でチェロの練習をしていると猫がやってきて、はい、これおみや(おみやげ)です、なんて言ってトマトを差し出すんですが、ゴーシュは、あ、それ、うちの庭のトマトじゃないか、しかも青いやつもいで来やがってとカンカンになります。こうなると、ほとんどコントですよね。きわめつけは『月夜のけだもの』です。ちょっと紹介しづらいので割愛しますが、獅子と狐と狸の会話は、かつて流行った不条理4コマ(吉田戦車とかの)みたいなおもしろさです。

『なめとこ山』は、熊が輪になって、亡くなった小十郎を見送る静かな場面で終わるのですが、アイヌの儀式にこんなのなかったっけと思って調べてみたら、やはりありました。イオマンテです。これは、人間が殺した熊の魂を神さまのもとに送り返す儀式なんですが、宮澤賢治は熊と人間を入れかえたんですね。とても印象的なシーンですよ。

ところで!

クマといえば登山ですよね。ずっと前にこちらのブログに書いたとおり、北海道で山登りしていてヒグマと接近遭遇したっていうぐらい、とにかくクマと縁があります。

さて!

この4月、残雪の燧ヶ岳に登ってまいりました。え、燧ヶ岳を知らない? そりゃ知らないでせう。登山に興味がある人以外はあまり知らないと思います。尾瀬にある山なんです。尾瀬はご存知ですよね? いやいやご存知じゃなくても全然いいんですが、「夏が来れば思い出す、はるかな尾瀬」とかなんとか歌われた、あの「尾瀬」です。群馬にあります。ちがったっけ? ま、なんせ尾瀬は、尾瀬沼と尾瀬ヶ原の二段階構成になっておりますが、まだどちらも雪で真っ白けでした。尾瀬沼もほぼ氷結してしていて、さくさくと歩いて渡れますし、尾瀬ヶ原も木道はほぼすべて隠れていて、ただの雪原でした。こちらもどまんなかを縦断させていただきました。

そんな状況なので観光客もまだ全然おらず、したがって山小屋もまだ営業を始めておらず、したがって僕はテントを担いで行くことを余儀なくされました。氷結した尾瀬沼のほとりで一泊して、翌日燧ヶ岳に登ったんですが、これが予想外に大変で。とにかく体が雪に沈むんです。ワカンという、足が雪に沈むのを防ぐための履き物があるんですが、そして私も持っているんですが(Y田M平先生にもらった)、Y田先生が「ワカン? いらん」とかなんとかアドバイスしてくれたので持って行かなかったんです。そしたらもう沈む沈む。テント担いで一足ごとに膝下まで雪に沈むとなかなかしんどい。なんていうか、すっごくイライラします。そして泣けてきます。膝下までならまだいいんですが、股下とか腰上まで沈むと脱出するのも一苦労です。経験したことのない人にはわかりにくいんですが、出せないんですよ、足。でかい登山靴にアイゼンつけてますので、出ない。どんなに引っ張っても出ない。どうするのか。ピッケルで掘り出すんです、足を。そんなことをしょっちゅうやっていたために、とうとう目的地(尾瀬ヶ原のテント場)に着く前に日暮れが近くなってしまいました。で、結局、山の中にテントを張りました。許してください、積雪の上なので自然破壊はしてません。それより、付近にどう考えてもクマのものとしか思えない足跡がたくさんあったのが閉口でした。クマは好きだけど会いたくないです。でも、楽しかったな。だれもいない山の中でテント張って。お湯を沸かしてあったかいお酒飲んで。いちばん幸せな瞬間です。

本も読みました。テントのなかで。本は必ず持って行きます。今回は、鈴木牧之の『北越雪譜』。江戸時代の越後の豊かな商人?豪農?である鈴木牧之が、雪国のことを知らない江戸の人に向けて、雪国暮らしの実情を紹介した本です。古文といっても江戸時代のものなので読みやすいし、風土的にも残雪期の山で読むにはぴったりです。というわけで、最後に、私が驚嘆した話を紹介して終わりにしましょう。

大晦日の晩、鈴木牧之が知り合いの家で歓談していると、突然、往来に面した窓から、だだっと人が飛び込んできます。雪国のこととて、雪かきした雪を往来の真ん中に盛り上げていて、そのうえを歩くようになっているんですが、件の人は、按摩とりの座頭、すなわちいわゆる盲人で、足をすべらせてしまう。で、窓を破って部屋の中に転落してしまうんです。もう、家のおかみさんはカンカンです。こんな日に、しかも今年の吉方(えほう)に向いた窓から落ちてくるなんて。とっとと帰れ、と。すると、この福一という按摩とり、しばらく思案していたかと思うと、

吉方から福一というこめくらが入りてしりもちつくはめでたし

という歌をよむんです。もちろん、こめくら=小盲=米倉、しりもちつく→餅をつく、ですし、そもそも福一という名前もめでたい。この頭の回転の速さ。福一はその後江戸に出て、出世したとのことです。

ではまた~。

いやいや「ではまた~」ではありませんでした。私が久々に記事を書いたのは、福一の話がしたかったからではなく、告知したかったからでした。

11月の終わりから12月のはじめにかけて、国語の教育講演会があります。ひさしぶりです。タイトルは、他に思いつかなければ数年前と同じ『国語の学び方・教え方』になるでしょう。内容はたぶん結構リニューアルします。よろしければお誘い合わせのうえ、おこしください。会場は、西宮北口のプレラホール、上本町の高津なんとか、そして四条烏丸教室です。そのうちHPなどでも告知されるはずです、希学園の関係部署の方に私が嫌われていなければ! 自信なし!

2019年9月22日 (日)

柏鵬時代

前回「日本料理」と書きましたが、これは「和食」とどうちがうのでしょう。「洋食」が実は「日本化した西洋風料理」をさすこともあるように、「和食」は「日本料理」とはジャンルがちがうようです。うどんは「和食」で、割烹はどちらかといえば「日本料理」という感じです。では、ラーメンはどうでしょう。「和食」なのか「中華」なのか。さらに言えば「中華料理」と「中国料理」もちがうようです。「中華」はやはり「日本化した中国の料理」をさすことが多いようです。ただ、ラーメンは欧米の人から見たら日本独特のものなので「和食」ととらえられても不思議はありません。トンカツやカレーライスも、そういう意味では「和食」かもしれません。とにかく日本は外国のものをとり入れたあと、どんどん自分たちの好みのものに変えていくので、原形がわからなくなることもあります。

以前に書いた東大寺三月堂の火祭りにしても、韃靼やペルシャから来た感じで、ゾロアスター教の影響がありそうですが、はっきりしたところはわかりません。「ゾロアスター」と言うと、いかにも異国風ですが、別の発音にすれば「ツァラトゥストラ」になります。ニーチェを翻訳するときに「ゾロアスター」にしなかったのは、何か考えがあったのでしょうか。同じことばでも、国によって発音がちがうので、一見別のことばのように思うことがあります。古代ローマの学校を「ウニベルシタス」と言った、と教科書に書かれていたときに、変なことばだと思いましたが、よく考えてみたら「ユニバーシティ」のことなので、なんの不思議もありません。ラテン語がルーツになっていることばは意外にたくさんあるのかもしれません。

旧制高校の人たちはラテン語が好きで、よく気取って使っていましたが、今はふつうのヨーロッパ人にとっても縁遠いことばなのでしょうか。ハリーポッターの呪文に使われていますね。身近なことばであれば、呪文の効果もうすれます。ラテン語は学名にも使われています。朱鷺の学名が「ニッポニア・ニッポン」であることは有名です。北京原人を「シナントロプス・ペキネンシス」と言ったのと似ています。今は「ホモ・エレクトス・ペキネンシス」に変わったらしいのですが。ジャワ原人も「ジャワントロプス・エレクトス」だったか「ピテカントロプス・エレクトス」だったか、これもたしか今は「ホモ・エレクトス・エレクトス」に変わったような。いずれにせよ、こういうのは英語ではありがたみがなさそうです。英語がメジャーすぎるというのもよしあしですね。

スペイン語の「カサブランカ」は地名にもなっていますが、「カサ」は「家」、「ブランカ」は英語の「ブランク」とも結びつくことばで、「空白」の「白」という意味です。ということは「ホワイトハウス」と同意です。モロッコあたりは、たしかにそういう家が多い。大統領官邸とは関係がありません。フランス語で「モンブラン」の「モン」は英語の「マウント」つまり「山」で、「ブラン」はやはり「白」ですが、日本の「白山」と同じ発想でしょう。喫茶店の「青山」は「ブルーマウンテン」の意味かもしれません。「モン」には「私の」の意味もあります。「マ」も「私の」で、あとに来る名詞が男性名詞か女性名詞かによって使い分けます。「ムッシュ」は「わが主」の意味の「モンシュール」がなまったものです。「私たちの」は「ノートル」なので「私の貴婦人」なら「マダム」、「私たちの貴婦人」なら「ノートルダム」で、マリアのことです。「ノートルダム大聖堂」とか学校の名前で聞くことがありますので、キリスト教関係であることはわかりやすいでしょう。漢字表記になっている「被昇天」なども字のイメージからキリスト教系の学校であることはわかりますが、キリスト教や聖書から出たことばは西洋ではよく引用されます。「酒は敵だ。しかし聖書にある、『汝の敵を愛せよ』」と言って酒を飲み続ける人もいますが、聖書の文句だと知らないで使っていることばも多いようです。「目からうろこ」とか「豚に真珠」とか「狭き門」とか。「人はパンのみにて生くるにあらず」はいかにも聖書らしい。

これとはちょっとちがいますが、古い歌の歌詞であることを知らずに、何か出典があるのだろう、ぐらいに思って使うこともあります。「どこまで続くぬかるみぞ」とか「何をこしゃくな群雀」とか「戦い済んで日が暮れて」とか「敵は幾万ありとても」なんて、昔はよく聞くことばでした。さすがに今はめったにお目にかかれません。中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句も「明治は遠くなりにけり」だけ取り出して使われていました。この句は昭和の初めに東大生だった草田男が昔通っていた小学校を訪れたときに詠んだ句と言われています。最近は「昭和は遠くなりにけり」と言われることもあったのですが、もはや「平成」も終わってしまいました。昭和生まれが古いと言われたように、平成生まれもそう言われる日が近づいています。

平成の次は令和になりました。いろいろな予想が出て大騒ぎでしたが、二字でなければならないというルールはあるのでしょうか。漢字三字というのはたしかに落ち着かない。「八百屋二年」とか「貧乏神三年」というのはいやですが、四字というのは実在しました。「天平神護」とか「神護慶雲」とか。これはなぜかかっこいい。年号は「大化」から始まるとよく言われますが、「白雉」と続いたあとは少しあいて「朱鳥」、そしてそのあと再び使われない時期があります。なぜブランクがあったのでしょうか。そもそも音読みの「タイカ」「ハクチ」のあと「シュチョウ」以外に「あけみどり」とか訓読みで読んだりすることもある年号が続くのも変といえば変です。またまた古田武彦説によると、九州王朝はずっと年号が続いていたそうな。中には「兄弟」なんて変なのもありますが、一部地域でそういう年号が使われていたことはまちがいないようで、これを「私年号」と言います。ただし、それは「大和朝廷」が「公」であるという前提なので、「九州王朝」こそ「公」であるなら、中途半端な「大化」以降の年号こそ私年号だ、と言うのです。後の時代の坊主が頭の中でこしらえただけのしろものだと言う人もいるのですが、「法興」というのはいくつかの史料にも明記されています。「白鳳」とか「朱雀」は「白雉」「朱鳥」からの派生とも言われますが、どうしてこれらだけそういう異称があるのか不思議です。「白鳳文化」なんて、堂々と名づけてよかったのかなあ。

2019年9月 8日 (日)

盗まれた神話

前回のつづきで、古田武彦説です。中国側の史書には、倭国の使者に尋ねたところ、国王には阿毎という姓があり、名前は多利思北孤、皇后もいると言ったと書かれています。ところが、当時の大和朝廷の天皇は推古ですから女性であり、つじつまがあいません。近畿の天皇家つまり大和王朝は九州王朝の分派で、そのころはまだまだしょぼい国だったのです。最初の遣隋使がやってきた年についても、中国側の史書と日本書紀では何年かのずれがあり、最後の遣隋使のやってきた年にも食い違いが見られます。第一回の遣隋使は「日本書紀」には書かれておらず、「隋書」にだけ書かれています。しかも、「日本書紀」には「隋」ではなく「大唐国」に遣いを出したとあります。有名な小野妹子の返書紛失事件も「日本書紀」にはあるけれど、「隋書」にはありません。そもそも「隋書」には小野妹子の名前そのものが出てこないらしい。

「旧唐書」には、「日本国は倭国の別種」とか「日本はもとは小国で倭国の地をあわせた」などと書かれているそうな。倭国すなわち九州王朝は、7世紀末の持統天皇のころまでは続いていたのだが、「倭の五王」のときに出兵を繰り返して弱っていき、白村江での敗戦が決定的要因となって、ついに滅亡したのですね。それ以降、大和政権は自分たちこそ日本の王朝であると主張し、倭国の歴史を日本国のものとして取り込み、歴史を「歪曲」した…というのが古田説の骨子です。磐井の乱にしても、地方豪族による中央政権への反乱どころか、磐井のほうこそ九州王朝の王者だったと言うのです。こういう強烈な説に対して、まともに反論をしているのは安本美典さんぐらいです。ほとんどの人が、異端の説は無視する、という態度をとっているのですが、たまに何か発掘されりすると、「これで古田説は崩れた」なんて言ってましたから、内心は困ったなあと思っていたのかもしれません。

日本の中心は青森だったという説もあります。「日本中央」と記した石碑もあります。鎌倉時代の本に、「つぼのいしぶみ」というものが東北の「つぼ」という土地にあり、坂上田村麻呂が字を彫ったと書かれています。「つぼのいしぶみ」は多くの歌人によって歌われているのですが、どこにあるのか長い間わかりませんでした。明治天皇もさがすように命令を出したそうですが、見つからなかったそうです。ところが、戦後になって土地の人が谷底に落ちていた巨石をひっくり返してみたところ、「日本中央」と彫られていたとか。本物かどうかはまだわかっていないようですが、東北で「日本中央」というのはおかしいと話題になりました。日本地図をながめた結果、千島列島を入れれば問題は解決すると言った人もいます。でも、蝦夷の土地を「日本」と言うこともあったようで、蝦夷の土地の中央なら「日本中央」もおかしくありません。豊臣秀吉の手紙でも、奥州を「日本」と表現した例があるようです。古田武彦説とも結びつきそうですが、日本の国号は、はじめは「倭」または「大和」であり、蝦夷地を「日本」と呼んだのかもしれません。

古史古伝というのは、ややうさんくさい史書や言い伝えですが、実は古代の東北は「田舎」どころか非常に栄えていたというのですね。藤原三代のことを考えても、ただの僻地とは言えません。安倍首相の遠い先祖であるらしい安倍氏が東北に君臨していたころからかなり栄えていたようです。鎌倉期から室町時代にかけて青森の十三湊を拠点とした安東氏も安倍氏の子孫ということになっていますが、やはり日之本将軍を名乗っています。安倍貞任・宗任兄弟が登場する小説はめったにありませんが、その時代を描いた作品が『炎立つ』で、大河ドラマにもなりました。藤原経清・泰衡の二役を渡辺謙、八幡太郎源義家を佐藤浩市が演じていました。

源義家は頼義の長男なので「太郎」というのはわかるのですが、「八幡」が上につくのは石清水八幡宮で元服したからです。「八幡神」は武芸の神で、応神天皇の神霊ですが、「南無弓矢八幡大菩薩」と唱えることもあるように仏教との結びつきも強いし、なにやら渡来系の神のイメージがあります。義家の弟、新羅三郎義光は武田家の祖先ですが、なぜ「新羅」なのか。近江の新羅明神で元服したとのことですが、実は清和源氏のルーツは渡来人ではないかという人もいます。清和源氏というからには清和天皇から出たことになっているのですが、本当はその子の陽成天皇から出たと見るのが正しいという人もいます。陽成天皇がちょっと「変」な人だったので、それをいやがって父親から出たことにしたのだとか。いずれにせよルーツはあいまいなのかもしれません。

清盛のところの平氏は桓武天皇から出たことになっています。在原氏も父は阿保親王、祖父は平城天皇ですから、元は皇族です。四大姓と言われる「源平藤橘」のうち、源氏、平氏は天皇家にさかのぼれ、藤原氏は鎌足からの家系ですが、「橘」はどうなのでしょう。敏達天皇から出たと言われ、諸兄や奈良麻呂が有名ですが、「四大姓」の中に入れるほど勢力があったとは思えません。ただ「橘」を家紋にする家は多いようで、私のところも「丸に橘」です。家紋にもいろいろあって、平将門の子孫とされる相馬家の家紋など、なかなかおしゃれです。泡坂妻夫という作家がいました。この名前はアナグラムで本名の「厚井昌男」を入れ替えたものです。この人の本職が「紋章上絵師」でした。どんな仕事なんでしょうね。着物に家紋を描くのでしょうが、オリジナルの家紋を作るということもあるのでしょうか。なんだか需要のなさそうな商売ですが、これ一本で生活できるのでしょうか。

需要があれば競争相手も多くなりますが、東京や大阪ならともかく地方の小さな町で、たとえばブータン料理の店を出しても、悪いけどだれが行くのでしょう。ブータンの悪口を言うつもりではありませんが、お客がどんどこ押し寄せるとは思えません。その町に住んでる人だって、しょっちゅう行くわけでもないでしょうし。フランス料理やイタリア料理に比べて、ロシア料理、ウクライナ料理になると店は多くありません。イギリス料理、ドイツ料理となると、あまりおいしそうなイメージもないので、店を出してもはやらないかのかもしれません。日本料理の中でも地名のつくものがあります。京料理は別格としても、加賀料理、土佐料理、沖縄料理の店はよく見かけるのに、なにわ料理とか江戸料理と書いている店はあまり多くないようです。大阪は食い倒れと言われるのに不思議です…。

2019年8月25日 (日)

あっと驚くタメゴロー

日本の戦艦は旧国名をつけましたが、巡洋艦は山や川の名をつけていました。空母では「鶴」「鳳」「龍」を使って大きなイメージを表しています。戦闘機は、ゼロ戦は別格として「隼」「飛燕」のような鳥の名を使うのは当然でしょう。「雷電」「紫電」のような「カミナリ系」もあります。「紫電」は改良型の「紫電改」も有名です。潜水艦は目立ってはだめなので、あえて名前をつけなかったのでしょうか。大きさによって伊号・呂号・波号と名づけ、「伊400」のように番号で呼んでいたようですが、あまりにもさびしすぎです。

外国では「サンタマリア号」とか「クイーン・エリザベス」「エカチェリーナ2世」「ジャンヌ・ダルク」のように人名をつけることもよくあります。船は女性名詞なので、女性の名前になることが多いのですね。「プリンス・オブ・ウェールズ」なんてのもありますが…。船を人になぞらえることで、より愛着を感じられるのでしょうが、日本でも「~丸」とするのは同じような意識かもしれません。もっとも「丸」は、「おまる」と関係があると言う人もいます。悪運を払うためにわざと不吉な名前、ひどい名前をつけるという風習はたしかに世界中にあります。子供の名前に「丸」もつけたのも、その意味がありそうです。そういういわれが忘れられると、「なんとか丸」は、いかにも愛称という感じがします。刀でも、「鬼丸国綱」とか「数珠丸」「膝丸」「石切丸」のように「丸」がつくものがたくさんあります。犬の名前にも「丸」がつけられることがありました。枕草子には「翁丸」という犬が出てきます。最近も和風の名前が流行のようで、「茶々丸」とか「力丸」「菊丸」と名付けられている犬がいます。

聖徳太子のペットの犬の名前も「雪丸」だそうですが、本来は「ゆきまろ」と読むのでしょうか。王寺町のマスコットキャラクターにもなっています。聖徳太子が飼っていただけあって、雪丸もただ者ではありません。人間と話をしたり、お経を唱えたりできたそうな。自分の死期を悟って、達磨寺という寺に葬ってほしいと聖徳太子にうったえたということです。達磨寺というのは、聖徳太子が片岡山を通りかかったときに、飢えと寒さで死にかけている異人と出会ったという伝説から生まれた寺です。太子はその異人に食物や衣服を与えましたが、異人はそのかいもなく死んでしまいます。あわれに思った太子は遺体を丁重に葬りました。後日、墓を見に行ったところ、遺体は消えており、棺の上には太子が与えた衣服がたたまれて残っていました。人々はその異人を達磨の化身と信じ、その地に建てた寺が達磨寺だということになっています。

雪丸が実在したのなら、聖徳太子も実在したのでしょうか。「うまやどの皇子」は実在したが、「聖徳太子」は抽象概念だ、と言う人もいます。たしかに名前からして抽象的です。梅原猛説によると、こういう聖なる名前、「徳」の字をおくられた天皇は非業の死を遂げているそうで、「崇徳」「安徳」はたしかにあてはまります。怨霊を鎮めるために、そういう名をおくったというのですが、それなら「仁徳」は、というつっこみが入りそうです。ただ、「太子」という称号は変と言えば変で、他に「太子」と呼ばれている人はいないのではないでしょうか。「太子」は「皇太子」ということなので、そう呼ばれる人が他にもあってしかるべきなのに、そうではないのですね。

モンゴルのフビライ(これも今は「クビライ」になっているみたいです)はフビライ汗と呼ばれることもあり、この「汗」は一種の称号で、ジンギス汗以来のものだと言います。ところが、フビライは「汗」なしで呼ぶことのほうが多いぐらいなのに、「ジンギス汗」は「ジンギス」とは呼ばれません。これはなぜでしょうか? 「源義経」つまり「ゲンギケイ」の変化で「ジンギスカン」になったから「ジンギス」とだけ呼ぶのはおかしいのだと言って、義経ジンギスカン説を補強する証拠だとする人もいますが、どんなものやら。

梅原猛の「聖徳太子怨霊説」や「柿本人麻呂溺死説」などはなかなか説得力がありました。前者は、法隆寺が太子の造ったものではなく、その死後に鎮魂のために造られたとする説で、『隠された十字架』という本は500ページ近くある分厚いものですが、推理小説を読むようにおもしろい。人麻呂の話は『水底の歌』という本です。人麻呂の正体は柿本佐留として史書に残っている人で、猿丸太夫のことだとか。和気清麻呂が称徳天皇の怒りを買い、別部穢麻呂と改名させられて流罪になったように、人麻呂つまり人丸が猿丸と改名させられて流罪になったのだ、という説です。これも「あっと驚くタメゴロー(もはや知る人はほぼいない)」的な推理でグイグイ読ませます。

梅原さんは歴史学者ではなく哲学者なので、史料に基づいた推論というより、直感を大切にしているようです。そのせいか、専門の学者には無視されたらしく、その説はいまだに認められていないのではないでしょうか。何回か触れた古田武彦は、『邪馬台国はなかった』から「九州王朝」説に発展し、大和朝廷によって神話が盗まれた、というスケールの大きい話になっていきます。さらには、日本と倭は別の国だったという驚天動地の展開になります。この人の立場は残された史料を先入観なしに素直に読むというもので、かなり論理的だと思うのですが、出てきた結論はあまりにも大胆すぎて、やはり学会からは無視されたようです。

古田説によると、博多湾の志賀島で発見された「漢委奴国王」という金印は、漢が倭奴国の王に与えたもので、この倭奴国が倭国になりました。邪馬台国は邪馬一国であり、博多湾岸あたりにありました。いわゆる「倭の五王」も大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の王であり、五王に関する記述が記紀にないのは、そのせいだと言うのですね。大和朝廷の天皇に比定しようとして、いろいろ無理をしても、うまくあてはまらないのは当然です。高句麗が戦った相手も北九州の倭国です。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」という国書を送ったのは聖徳太子ということになっているが、じつはそのあたり矛盾だらけ、というのは有名な話です。

2019年8月10日 (土)

「どあほ」の「ど」は「弩」ではない

純粋な和語なのに外来語のように思われていることばもあります。「すばる」なんて「統ばる」ですね。「プレアデス星団」と言うと近代的ですが、「むつらぼし」と読む「六連星」という言い方も昔から使われています。星の名には古いものがあり、「北斗」なんて『曽根崎心中』にも出てきます。「北斗はさえて影うつる星の妹背の天の河」というフレーズですね。千葉周作は北辰一刀流の始祖ですが、「北辰」も北極星のことです。道教では、北辰は天帝と見なされました。さらに、仏教と結びついて、「妙見菩薩」とも呼ばれます。「妙見」というのは、「善悪や真理を見通す」という意味でしょう。千葉氏は妙見菩薩を一族の守り神としていたそうです。シリウスが「天狼星」と呼ばれるのは、おおいぬ座にあることを踏まえての命名なのでしょうか。中国経由のことばも多く、星座の発想も外来のものでしょうが、陰陽師の記録に、天体観測の細かい報告をしたものがあり、そういう名前が出てきます。中には、中国にはない日本独特の命名をしたものもあるようですが、昔から日本人は外来のものをとりいれるのに、あまり抵抗がなかったのでしょう。

ただ、そのままではなく、日本風にアレンジすることもよくあるわけで、カレーライスなんて外国にはなかったものですね。「洋食」と言いながら、トンカツとかオムライスとか、日本独特のものです。洋服はさすがに定着しましたが、最近ネクタイが消えつつあるようです。希の講師もクールビズということで、なんと5月から10月まで半年もネクタイなしです。この「ネクタイ」ということばは「ネック・タイ」と分解できます。「ネック」は「首」、「タイ」は「タイ・アップ」の「タイ」で「結ぶ」ということでしょう。こんな風に、一単語に見えるものでも、分解すると語源のわかるものがあります。虹を表す「レインボー」も「レイン・ボウ」で「雨の弓」と考えると、なるほどと思います。「パラソル」も「ソル」はフランス語の「ソレイユ」につながることば、つまり「太陽」で「パラ」は「防ぐ」という意味です。「パラサイト」とか「パラリーガル」の「パラ」は何なのかな。

「パラリーガル」なんてことばはあまり聞きませんでしたが、弁護士もののドラマではよく出てきて、定着したことばになりつつあります。弁護士の仕事に関する付帯業務をする人のことですね。ということは、「パラ」は「補助的」、「リーガル」は「法律に関する」という意味でしょう。『リーガルハイ』というドラマがありましたが、「ランナーズハイ」みたいに「陶酔状態にある法律家」みたいな意味の造語だったようです。最近、こういう「職業ドラマ」が盛んで、「校閲」のような地味な仕事さえ取り上げられました。この手のドラマの走りはきっと『スチュワーデス物語』ですね。「ドジでノロマな亀」という流行語が生まれました。ただし、今では「スチュワーデス」とは言わなくなりました。「キャビン・アテンダント」とわざわざ言い換えるのは「ことば狩り」のせいでしょうか。知らない間に名前が変わってしまったものもたくさんあります。特に服装、ファッション関係に多い。昔「チョッキ」と言っていたものが、いつのまにか「ベスト」になってしまい、最近では「ジレ」と言うそうな。そのくせ「防弾チョッキ」はそのままです。まあ、これはファッションではありませんが…。ことばそのものは変わらなくても、「パンツ」は昔は下着だったのに、今は「ズボン」のことです。ただし、アクセントのちがいはありますな。「パ」を強く発音してはいけません。

「縄文式土器」の「式」はなぜ消えたのでしょうか? たしかに「式」を入れる必要はなそうですが、そのせいで嘉門達夫の「東京ブギウギ」の替え歌も成り立たなくなりました。元歌は「とう・きょう・ブキ・ウギ、リズム・ウキ・ウキ、こころ・ドキ・ドキ・ワク・ワク」で、これが「じょー・もん・しき・どき、やよい・しき・どき、埴輪、勾玉、土偶土偶」になるのですが…。替え歌がおもしろいのは、元歌の歌詞を知っていて、それがどう変わるかというところにあります。メロディだけを借りてきて、元の歌詞と何も重なる部分がなければ替え歌になりません。その点、昔の歌は歌詞が覚えやすく替え歌も作りやすかったのでしょう。今の歌は歌詞を覚えにくいようです。歌詞カードなしで最後までまちがえずに歌いきったら百万円、とかいう番組がありましたが、初期のテレビなら思いつきもしなかった番組です。いわゆる「昭和歌謡」なら歌えて当然なので、まぬけな企画としてボツになっていたでしょう。

覚えやすかったのは七五調の歌詞が多かったということもあります。考えてみれば国歌の「君が代」は短歌ですし、古い童謡も七五調、五七調ばかりです。「さくら」の歌詞は七五調がベースですが、歌い出しの「さくらさくら」の部分は六音になっていて変則的です。この歌の歌詞は古いバージョンでは「さくらさくら やよいの空は 見わたす限り かすみか雲か 匂いぞ出ずる いざやいざや  見にゆかん」だったのが「さくらさくら 野山も里も 見わたす限り かすみか雲か 朝日ににおう さくらさくら 花ざかり」に変えられています。「春の小川」も「春の小川はさらさら流る 岸のすみれやれんげの花に 匂いめでたく色うつくしく 咲けよ咲けよとささやくごとく」から「春の小川はさらさら行くよ 岸のすみれやれんげの花に すがたやさしく色うつくしく 咲いているねとささやきながら」と変わり、さらに最後の部分が「咲けよ咲けよとささやきながら」になりました。古いことばはわかりにくい、ということなのでしょうが、二つめから三つめの改変が意味不明です。

昔のものはわかりにくい、ということで「ちはやふる」という歌を無理やり解釈する落語があります。その中で「竜田川」は相撲取りの名だというのですね。力士の名前はたしかに地名から来たものが多かったようです。日本の軍艦も地名がつけられていました。「大和」や「武蔵」が超弩級の戦艦につけられています。「超弩級」というのは、桁違いに大きいことを意味しますが、「弩」というのは「ドレッドノート」というイギリスの軍艦の漢字表記の頭文字です。「ドレッドノート」とは「こわいものなし」という意味らしい。アメリカの戦艦は州名をつけていますが、空母は古戦場の名前や、湾や海峡の名前、巡洋艦は都市名、駆逐艦は人名というように基準があるようです。日本では明治天皇が「沈んだときのことを考えたら人名はだめ」と言ったので、国名を採用したとか。古くは、それぞれの国にランクがあり、上位の国の名が大きな戦艦につけられたのでしょう。

2019年7月21日 (日)

和製和語

「歴史」と見るにはあまりにも「トンデモ」な話は結構あります。でも、「トンデモ歴史」はおもしろい。インドの「アスカ」という土地に住んでいた人々が日本にやってきて、「飛鳥」という土地に住み着き、新しい文明を築いたあと、この人たちはさらに北上し、「アラスカ」を経由してアメリカ大陸へ渡ります。そして、メキシコあたりで「アステカ」文明を築き、さらにペルーの「ナスカ」でまたもやすごい文明を築きます。「ナスカ」という名前は、打ち消しを表す「N」をアスカに付けて、もはやアスカではないと宣言したのだ、という「説」は、単なるだじゃれとは思えないぐらいの「出来」です。義経ジンギスカン説も、かなり無理があるものの非常に魅力的です。光秀天海説も荒唐無稽とかたづけるにはしのびない。「蘇我氏はローマ人」とか「平家はペルシャ人」となると、さすがにどうかなと思いますが、夢があることはたしかです。古田武彦の「邪馬台国はなかった」は、本当になかったと言っているのではなく、「台」の字についての「つっこみ」です。「台」は「臺」の略字ですが、「壱」の旧字体(「匕」の部分が「豆」になっているやつです)を使っているので「ヤマタイ」ではなく「ヤマイチ」のはず、という説です。

そういえば、教科書に載っている志賀島の金印の実物を見ました。百姓の甚兵衛さんが発見したやつですね。いやー、実物は小さかった。金印を中国からもらうのは、国の評価としてはかなり高いはずで、奴国というのは一目置かれていたのでしょうが、それにしても小さい。展覧会では人が多すぎて近くで見られませんでした。列が二種類あって、早く見られるコースとじっくり見られるコースがあるのですね。後者は展示されている金印のそばまで行って見られるのですが、当然回転が悪いので、行列がなかなか進まず、時間がかかる。前者は早く見られる代わりに遠目で見るというコースでした。それでも、見たという満足感はあるのですね。見に来ているおばちゃんたち、歴史に興味がありそうでもなく、話のタネに見に来たという感じでしたが、この満足感はテレビでは得られないのですね。テレビならアップで細かいところまで、しかもいろんな角度で見せてくれます。おまけにくわしい解説付きです。でも、実物にはかなわない。

野球はどうでしょう。テレビで見るほうが圧倒的に情報量は多いし、スローモーションまで見せてくれます。でも、わざわざ甲子園にまで行くのですね、おろか者どもは。たまにラジオを聴きながら観戦している人がいて、この人の心理はわかります。目の前でリアルに見ているものを耳から実況中継で解説してもらえるのですから、こんなありがたいことはない。でも、歴史に残る名シーンに現場で出くわすチャンスは滅多にないので、どうしてもテレビで見たものに限定されてしまいます。伝説のバックスクリーン三連発(実は掛布のはバックスクリーンではなかったらしいのですが)もなかなかのものですが、オールスターでの9連続奪三振というのは見てて興奮しましたね。3イニングしか投げられないわけですから、この記録は破られることがないわけです。しかも、江夏は前もっての新聞取材で、9連続奪三振を予告していたらしい。その江夏が日本シリーズでやったスクイズ外しもすごかった。本にもなっているぐらいです。山際淳司の『江夏の21球』ですね。見ているときから、これはすごいと思ったわけですが、後の時代からふり返ってみれば歴史的大事件なのに、その当事者であるときには、そんな風に感じていなかったこともあるかもしれません。秀吉が中国大返しをしているときの下っ端の家来たちは、なんだかわからないままに走っていたでしょう。でも、実は「その時歴史が動いた」だったわけで、神ならぬ身の知るよしもなかった、というやつです。

この「神ならぬ身の知るよしもなかった」というような定型のことばもよく見ますね。感動モノのアメリカ映画は必ず「全米が泣いた」、「上映中」の上には必ず「絶賛」が付きます。「絶賛○○中」は、いろんな場面で使われます。「絶賛発売中」なら、なんということもないのですが、講師に注意を受けている生徒を見て、友達が「絶賛しかられ中」と報告したのは、なかなかオサレでした。こういう「定型」はよく「ステレオタイプ」と言いますが、これは「ステロタイプ」が正しいという人がいます。たしかに「ステレオ」では両方から音が出てくる感じがします。「ステロ」は「固定した」という意味であるらしく、それならば「スチール写真」の「スチール」とも関係があるかもしれません。動画のビデオカメラに対して、静的なカメラは「スチールカメラ」になります。

「スチール」は「鋼鉄」の意味もありますが、綴りはちがいますね。「ホームスチール」の「スチール」は「盗む」意味になります。「ステマ」は「ステルスマーケティング」の略ですが、「ステルス」は「隠密」とか「こっそり行うこと」という意味なので、「スチールカメラ」と関係がありそうですが、無関係なのでしょうね。「ステルスマーケティング」は、企業の人間が第三者のふりをして、自社の商品などを宣伝することで、「ステルス戦闘機」はレーダーに捕捉されず、敵に気づかれにくいということですが、「ステルス値上げ」ということばもあります。いつのまにか昔に比べて小さくなっているのに、同じ値段だったりするのは、ステルス値上げです。誰も気づかないうちに、こっそりと値上げしてしまうという、とんでもない代物です。

「ステマ」は省略形というせいもあって、耳で聞くと外来語という感じがしません。外来語と知らないで使っていることばも結構あります。「さぼる」とか「だぶる」などがそうですが、反対に外来語だと思っているものが、実は「外来」ではない「和製英語」ということもあります。野球用語などはほとんど和製らしい。「トランプ」は切り札であって、あのカード全体をさすのではないということは有名ですね。アメリカの大統領も、自分は切り札だと思っているのでしょう。「ジェットコースター」も何か噴射して加速していく、というイメージの造語であり、海外では通じません。「ノートパソコン」は「ラップトップ」でしょうね。だいたい「パソコン」ということば自体が和製英語だから、海外では通じないでしょう。和製英語は「コンセント」のような一単語のものもありますが、「アットホーム」「アフターサービス」「オーダーメイド」「スキンシップ」のような二単語のものが多いようです。「クウトプーデル」は和製和語ですかね。

2019年7月 7日 (日)

なつかしの大映ドラマ

前回のタイトルの『聊斎志異』は中国清代、蒲松齢の短編小説集です。私は高校生のころに、柴田天馬という人が訳した角川文庫版で読みました。何巻かあったと思いますが、表紙がなかなか味のある絵で、雰囲気を出していましたねぇ。芥川龍之介の『酒虫』は『聊斎志異』が元ネタになっています。ある金持ちが大酒飲みなのに、全く酔うことがない。一人の僧に、酒虫が体の中にいるせいだと言われます。退治を頼まれた僧は、水の中に酒虫を入れるとうまい酒になると言って、酒虫をもらって帰ります。一方の金持ちは酒が嫌いになったが、やがて痩せおとろえ、貧乏になった。という話。太宰治も書いています。菊の精が登場する『清貧譚』はラサールの入試にも出ました。『竹青』という、カラスと結婚する話もあります。圓生の「水神」という話は、菊田一夫が書いたものですが、やはりカラスの嫁さんをもらう話で、日本が舞台ではあるものの『聊斎志異』に元ネタがあってもおかしくないようなストーリーでした。

国枝史郎に話をもどすと、題名だけは知っていたのですが、ある時期まで入手困難でした。大正の終わりごろの作品ですから、こういう系統のものはなかなか復刊されなかったのですね。それが五十年ぐらい前に復刊されて、三島由紀夫あたりから大絶賛を受けます。それをきっかけとして、小栗虫太郎、夢野久作、久生十蘭らの「怪奇幻想もの」ブームが起こることになります。『神州纐纈城』は、青空文庫でも読めるはずです。大風呂敷を広げすぎて、未完になっていますが…。ちなみに、『銀河英雄伝説』シリーズで名高い田中芳樹にも『纐纈城綺譚』という作品があります。「宇治拾遺物語」に、慈覚大師円仁が、中国の纐纈城に行くという話があって、その後日談として書かれたものです。国枝が「神州」としたのは、「神の国」つまり「日本」にもあった纐纈城という意味にしたのでしょう。この『神州纐纈城』のようなものを書きたかったのが、SF作家とされる半村良です。

半村良の代表作と言えば、なんといっても『産霊山秘録』でしょう。主人公は「ヒ」と呼ばれる一族です。天地が開けたときに現れた三神のうちのタカミムスビの直系ということになっています。「ムスビ(産霊)」は生成を意味するので、「創造」を神格化した神と言えます。つねに皇室の危機を救ってきた一族で、室町時代には「日野家」の支配下に置かれ、やがて山科家の元で忍びの者として暗躍していきます。SF的なのは、この一族が一種のテレポーテーションの力を持っているということで、神籬をつないで飛べるんですね。神籬は「ひもろぎ」と読みます。「ひ・もろぎ」で、「ひ」は「ムス・ヒ」の「ヒ」ですね。のちには、神社で神様を祀るのですが、それ以前の、山や海、樹木や岩など自然の万物に神が宿ると信じていたころ、神が降臨するための依り代となるものが「神籬」です。

戦国末期、足利家の力が弱まり、皇室に災いが降りかからないようにするため、織田信長に天下をとらせようとして「ヒ」が動きはじめます。明智光秀は一族なんですね。ところが信長は比叡山焼き打ちという挙に出ます。「比叡」は「ヒ」にとっては最も神聖な土地だということになっています。光秀たちは、ヒが歴史に干渉しすぎたために、その反動である「ネ」という力が働いたと考えます。自分たちが支援しようとした信長をこのままにしておいては皇室にあだなすことになる、と見た光秀はやむをえず信長を殺すことになりました。光秀と兄弟である天海はヒの一族の長であり、徳川家康を補佐していきます。神籬ネットワークの中心になる「芯の山」を作ろうとして天海が選んだのが二荒山日光です。

『産霊山秘録』はさらに江戸時代に話が広がっていきます。鼠小僧もヒの一族だし、光秀の子孫である坂本龍馬も、なんと新撰組までもがヒの末裔として登場してきます。そして、昭和20年3月10日、東京大空襲のさなか、ヒの一族の若者が400年前の世界から飛んでくる…、という、最後はもう何がなんだかわけがわからない展開になってしまいます。『妖星伝』も大長編で、時は江戸時代中ごろ、田沼意次の時代です。土着的な信仰であった「鬼道」が仏教に排斥され、その怨みを晴らそうとして世を乱す、というような設定で始まるのですが、人は何のために生まれて来たのかという「哲学」的内容になっていって、その答えがなかなかひどい。これもやりたい放題やって収拾がつかなくなったという作品です。『黄金伝説』は、遮光器土偶や火焔土器を手がかりとして、政財界の黒幕の秘密をさぐっていく話ですが、十和田湖畔の大洞窟にたどりつき、そこに眠る黄金の山を発見します。そこに、キリストの墓伝説などもからんでくるのですね。

「竹内古文書」というものがあって、そこに「イスキリス・クリスマス」という名前が出てくるらしい。ゴルゴダの丘の十字架上で死んだのは弟のイスキリであり、兄は日本に逃げてきたそうですな。で、その墓を竹内巨麿が青森県の戸来村で発見したということです。「竹内古文書」には、ほかにもムー大陸やアトランティス大陸を思わせる記述もあり、太古の昔、空飛ぶ船に天皇が乗って世界中を巡行した、なんてことも書かれているそうで、完全にSFに分類できそうです。

両面宿儺(「りょうめんすくな」と読みます)は、SF作家豊田有恒の『両面宿儺』という小説にも登場しますが、もともとは日本書紀に出てきます。仁徳天皇の時代に飛騨に現れた鬼として描かれています。身の丈六尺、一つの胴体に、それぞれ反対側を向いている二つの顔があり、手足が4本あったと言います。いかにもSF的です。ただ、合理的に考えるなら、いわゆる「シャム双生児」だったのかもしれませんし、そこまでいかなくても、ふたごの頭領をいただく武装集団で、朝廷にしたがわない豪族だったのかもしれません。アテルイやシャクシャインのような存在だった可能性もありますが、ローマ神話のヤヌスに似ています。ヤヌスは一年の終わりと始まりの境界に位置し、両方を見るために顔が前後に二つあります。入り口の神、物事の始まりの神でもあるので、1月の守護神になりました。英語のJanuaryは「ヤヌスの月」ということを意味します。『ヤヌスの鏡』という漫画原作のドラマは、まじめな優等生の少女の中に隠れていた別人格が登場してくるという話でした。二つの顔が交互に現れ、不良少女が暴走族相手に大暴れしたりするのは、いかにも「大映ドラマ」でしたな。

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