2013年4月28日 (日)

奈良交通バスの歌

先日、奈良の大峯をちょびっとだけ縦走してきました。

いわゆる熊野奥駈道の一部です。

近鉄吉野線の下市口から1時間ほどバスに揺られ、天川村で降り、狭い国道を何十分か歩いて「熊渡」というところから入山です。

熊渡・・・・・・。

不吉な名前だ。

僕は、前にも書きましたが、昨年五色ヶ原でツキノワグマに、一昨年大雪山系でヒグマに遭遇しています。

「二度あることは三度ある」つまりまためぐり逢ってしまうかもしれず、「三度目の正直」つまり今度こそ大事になるかもしれないということで、ちゃんとクマよけの鈴を持参してみました。でも、思い返してみれば、ヒグマに遭遇したときも持ってたんですけどね。何の意味もなかったですね。

今回は、クマには出逢いませんでしたが、カモシカを一度見かけました(川をはさんでしばらくガンをとばしあう)。カモシカとかシカって、だいたいやつらが枯れ枝を踏んでポキッと音をたてちゃうんで、気づくんですよね。シカが先にこちらに気づくときもありますが、だまってにげればいいのに、びっくりして「ピッ」などと叫ぶので、ばれてしまいます。ふと見ると、白い尻を見せてにげていくんですが、あのまのぬけた感じがたまらなくかわいいです。

さて。初日のルートは、弥山川コースあるいは双門滝コースと呼ばれている関西屈指のスリリングな好ルートです。いくつもの滝を横目に見ながら、ときには飛び石伝いに、ときには鉄梯子や鉄鎖につかまってひいひい言いながらのぼっていくのが楽しいです。ただテントと寝袋をかついでいたのでとにかく重い。沢の水がいくらでも飲めるんで、飲料水を担がなくてよかった分まだ楽でしたけど。

狼平というところにある避難小屋に着いたのが夕方5時頃でしたか、誰もいなかったのでテントはやめて小屋泊まりにしました。この狼平ちゅうところが、ほんとに綺麗なところなんです。結構清潔な小屋のそばを、おそろしく美しい沢が流れていて。

翌日は大雨でした。これは予想していたので、当初の予定どおり小屋に滞留。びっくりするぐらいごろごろ過ごしました。

夜8時に就寝したにもかかわらず、起床が10時。14時間睡眠ですね。朝食をとって音楽を聴きながら本を読み、1時間半ほど昼寝。また音楽を聴きながら本を読み、ときどき鼻をほじり、ビールを飲んで梅酒のお湯割りを飲んで・・・・・・。実に幸せな1日でした。ちなみに、読んでいたのはフィッツジェラルドの『夜はやさし』。20年以上前に買ったものですが、まったく読んでなかったんです。いざ読みはじめたら一気にのめりこんでしまいました。

とはいえ、日が沈むとまわりが真っ暗で怖いので、さっさと就寝します。前日あれだけ眠ったにもかかわらずきっちり8時間眠り、夜明け前の4時に小屋を出発しました。ほぼ快晴です。

まず八経ヶ岳に登頂。ご存じでない方が多いでしょうが、百名山のひとつで、聞いてください、なんと近畿の最高峰ですぞ。1,900メートル以上あります。ちなみに西日本には2,000メートル以上の山はありません。この山頂近くのテント場で一晩過ごしたとき、夜中に三人ぐらいの女の人の笑い声が聞こえてきて怖かったという経験があります。他に誰もいなかったんですけどね。

結局この日は11時間ぐらい歩いたかな。もう少しはやく目的地に着けそうだったんですが、膝が痛くなってしまって途中からうんと遅くなっちゃったんです。休憩時間入れて12時間行動しました。

登山道が完全に崩落してしまっているところが2箇所ほどありました。雨の激しいところなのでやむをえないんでしょうね。でも怖かった~。わずかな踏み跡を頼りに高巻きするわけですが、あのずるずる滑りそうな感じがたまらなくいやです。

この日は、前鬼という場所の宿坊まで下りて泊まったので(宿坊といっても無人ですが)、結局、テント使用せずで、ただむやみに重たいだけでした。前鬼に来たのは4度目です。沢登りに来るんです。もう、びっくりするぐらい綺麗な沢で、日本有数の美しさじゃないでしょうか。日本が世界に誇れるものは川ぐらいしかないんじゃないかと僕はひそかに思っているんですが、前鬼の沢はそのなかでも屈指です。

宿坊なので布団があります。たとえ2晩でも寝袋で過ごした後の布団はほんとうに素敵です。ただ、鼻が。ハウスダストアレルギーが出ちゃって、辛かったです。辛かったけど、10時間寝ました。われながらよく寝た3日間でした。

さて、実は本題はこれからです。

宿坊から前鬼口というバス停まで2時間半歩きます。で、バスに乗り、下北山村から上北山村、川上村を経て、近鉄の大和上市まで約2時間。このバスの旅がたまらないんです~。

もともと奈良交通が好きなんです。運転手がいい人ばかりなんですよ~。昔、やはり山登りに行くとき、乗り継ぎ時間に不安があって、運転手に聞くと、「あ、それはもしかしたら間に合わないかもしれないよ~、ちょっと待ってね~」と言ってわざわざ公衆電話から乗り継ぎのバスに連絡してくれたことがあります(奈良の山間部は電波状況が劣悪なので携帯があまり使えない)。

これは奈良交通ではありませんが、昔(大学生でした)、丹後半島でバスに乗ったときも運転手が親切で、「きみたちどこにテントはるの~」「◎◎です」「◎◎にテントはれるとこあったかなあ」「まあなんとかします」「ふーん、食べるものはあるの?」「いや、◎◎で何か適当に買おうかなと」「◎◎にお店なんかないよ~」「えっほんとですか」「う~ん、よし」と突然ハンドルを切ってUターン、来た道をしばらく戻るとスーパーの前でバスを止め、「ここで買っておいで」。

衝撃でした。他に乗客がいなかったとはいえ、路線バスがUターン・・・・・・! スーパーに連れて行ってくれる!

さすがにそこまでの経験はそれ以降ありませんが、奈良交通の運転手さんにいい人が多いのは事実です。乗るたびにほっこりしちゃいますね~。特に、自由乗降区間! 山間部はお年寄りが多いのを慮って、バス停以外の場所でも乗り降りできるようになっています。バス停も、もう、だれそれ宅前、という停留所名になってたりするんです。ほんとですよ。

素晴らしすぎるぜ、奈良交通。

というわけで、奈良交通バスに捧げる歌をつくってみました。

◇◆◇

奈良交通バスの歌  作詞:西川和人 作曲:未定 ※阿守孝夫氏(シベリアン・ニュースペーパー総帥)希望

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

お年寄りには席を譲りましょうって言うけれど~(けれど~)

年寄りしか乗っていない~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

みんな運賃払わない~、年寄りばかりだから~(だから~)

代わりにみんな運転手に挨拶~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

乗り降りにすごく時間がかかる~(かかる~)

よっこらしょ~どっこいしょ~ノンステップにしようぜえ

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

みんな好きなところで乗って好きなところで降りる~(降りる~)

自由乗降区間だから~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

バス停がないわけじゃないけれど~(けれど~)

あ~西川宅前~吉田宅前~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

火事の話で盛り上がる婆さんたち~(婆さんたち~)

合いの手入るぞイヤイヤホントだウンウンソウダまるで民謡~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

◇◆◇

奈良交通の方、奈良県山間部在住の方、すみません。

あの、信じてください、ほんとに奈良と奈良交通が好きなんです。

2013年4月15日 (月)

「あるジーサンに線香を」は何のパロディ?

立川志らくはフランスのシラク大統領から来ているみたいですが、何の関係があるのやら。師匠の談志が名付けたらしいので、特に根拠はないのかもしれません。談春や志の輔とはネーミングの基準がちがうようなのはキャラクターによるちがいでしょうか。「笑点」の座布団運びの山田隆夫らがつくっていたグループ名が「ずうとるび」というトホホ系でしたが、フォーク・クルセダーズも『水虫の唄』をズートルビーという別名義で出していました。パロディ系の名前は三流のイメージが強いので、あえてそういう名前にしたのでしょうが、北山修たちだけに、あざとさ感も十分です。

トホホ系と言えば、新人文学賞のペンネームですね。鳥肌ものの名前がずいぶんたくさんあります。美月小路堕天使之介(るなのこうじあくまのすけ)とか炎立(ほむらたつる)とか緋文字アリスとか夜魔死多麻紗亜鬼とか。最終選考まで残ってもおそらく受賞できないようなタイプの名前です。いつか黒歴史として抹殺したくなるときが来るのかなあ。でも、こんなペンネームをつけてしまうような人にはそんなときは来ないような気もしますが。宝塚の「ありえない名前」も、昔は百人一首が出典だったんですね。春日野八千代とか天津乙女とか霧立のぼるとか(古い!)。相撲の親方の名前とおんなじですな。高砂とか尾上とか田子の浦とか。ものまねタレントはその芸と同じく、名前もものまねというかパロディになっている場合があります。アントキの猪木とかニッチローとか。ニッチローなんて、イチローの真似しかしないので、イチローをもじっただけでなく、「ニッチ」をかけているのでしょうね。隙間産業はニッチ産業、限定的市場はニッチマーケットです。佐藤B作だって、佐藤栄作のパロディですね。大河ドラマに出ているときなんか、キャストのところですごい違和感があります。「会津藩家老田中土佐」が「佐藤B作」と書かれていると、なんだかなあ。「でんでん」って書かれるよりましだけど。

パロディの代表として「替え歌」というのがあります。元の歌詞をいかにうまく生かすかがポイントなのに、最近はメロディだけで元歌とは関係なしというものが多いようです。「噛むとフニャンフニャン」とかいうガムか何かのCMでは、元歌の『狼少年ケン』とはなんの関係もありません。いまどき、だれも知らないような古い歌だけに、なぜ、この歌なんだろう、という違和感をねらったとも思えませんし、不思議です。こういうのは「替え歌」ではないので、なんと呼べばよいのでしょう? パクリ? こっそりやっているわけではないようなので、パクリでもないし、ただ曲を作るがめんどくさかっただけなのでしょうか。もともとインストルメンタルで歌詞がないものに、適当な歌詞をつけるというのはよくありますが、それともちがうので、なにか不快な感じがします。その不快感をあえてねらう、というハイセンスな技なら、たいしたものです。明石家さんまの『からくりナンチャラ』とかいう番組で、「替え歌」をやっていました。今でもやっているのか、番組自体があるのかどうか。今のさんまは劣化した「欽ちゃん」という感じで、痛々しくて見ていられないので、さんまの番組はほとんど知らない。『ひょうきん族』のころはよかったのになあ。まあ、とにかく、その番組の中で替え歌のコーナーがあって、たまたまちらっと見たのですが、元の歌とはまったく関係のない歌詞になってしまっていました。ことば遊びのおもしろさは全くなく、なぜその歌なのか必然性もなんにもありません。つまり、「替え歌」ではないんですね。

その点、嘉門達夫はえらい! まさに替え歌です。「誰も知らない素顔の八代あき」とか「チェーンソーを持たずにジェイソンが出てきた」とか「ツレなぐるマジで」とか、元歌の音や韻を生かしています。嘉門達夫のものでは『あったらこわいセレナーデ』なんてのはイマイチですが、『この中に一人』は、ばかばかしくておもしろい。「この中に一人、武士がおる、おまえやろ」「ちがうでござる」「おまえやー」というやつです。祝賀会の講師劇でもときどき使います。去年も「この中に一人、探偵ナイトスクープの司会やってるやつがおる、おまえやろ」「ちがいます」「ほな、九九の二の段言うてみい」「ににんがし、にさんがろく、にしだとしゆき」「おまえやー」というのをやりました。

タモリがやっていた「ボキャプラ天国」というのもパロディですね。「いぬ、猿が来てキジも家来になった、去年よりずっと家来になった」とか「裏の畑の墓地で泣く」とか「夜の校舎、窓ガラス、磨いてまわった」とか。こういう「ことば遊び」は昔からあるもので、「わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうじ山と人はいふなり」のパロディ「わが庵は都のたつみうまひつじさるとりいぬいねうしとらうじ」のおもしろさは、十二支について説明しておけば、小学生でもわかってくれます。単なる「もじり」ではなく、ワンクッションおいたパロディになっているところがおしゃれです。「長き夜の遠のねぶりのみなめざめ波乗り船の音のよきかな」でも、意味不明の歌ですが、回文になっていると言った途端、子どもたちはおもしろがります。むかし、甲陽の入試で川柳が出ていました。「受験前神や仏に□をつけ」の□に漢字を入れなさい、というやつです。川柳を使って、「およみなさい」とかやってるテレビ番組もありました。「ペケポン川柳」でしたか、あれなんて、じつは国語の勉強に相当役立つのでは? だじゃれになっているものが多いのですが、二つのちがうもので共通する音を見つける、というのは国語のトレーニングになりそうです。まあ、川柳というのは、爆笑はしませんが、「なるほどね、おもろいね」と感心するものか多いようです。「無理させて無理をするなと無理を言い」なんてのは、音がそろってて、うまいなあと思います。「シルバー川柳」というのもありますね。シルバー世代つまり人生の達人たちのことを詠んだ川柳です。「LED使い切るまでない寿命」とか「誕生日ローソク吹いて立ちくらみ」とか「マイケルの真似を発作と間違われ」とかいった自虐ネタがおもしろいのですが、最近やや身につまされるようになってきたところがつらい。ちなみに、私が好きなのは「なあお前はいてるパンツ俺のだが」というやつですが、こういうのが好きな人は長生きできるような気もします。

2013年4月 5日 (金)

西尾維新は回文

どういうところに対して「おもしろがる心」を持てるかが、国語力のちがいにつながります。たとえば金太郎と桃太郎の共通点は何でしょうか。どちらも「×太郎」である、というレベルなら、あっそう、で済んでしまいます。でも、どちらも鬼退治をしているんですよ、と言われたら、ちょっとおもしろくは感じないでしょうか。桃太郎は架空の人物だけど、吉備津彦命がモデルです、と言われても、ああそうですか、です。ところが、吉備津彦命は三人の家来を連れて、いまの岡山のあたり、鬼ノ城というところにいた温羅(うら)という鬼を退治し、その祟りを鎮めるために吉備津神社の釜の下に温羅を封じたということになっています。『雨月物語』の「吉備津の釜」にも、この釜をめぐる神事のことが出てきます。吉備津彦命の三人の家来の中に犬飼健というのがいます。当然、桃太郎が連れて行った犬のモデルですが、五・一五事件で殺された犬養毅首相の祖先です。あの人は、きびだんごをもらって桃太郎についていった犬の子孫だったのですね…。なんて言うと、ちょっとおもしろいなと思いませんか。

金太郎は実在の人物でしたが、息子と言われる坂田金平は江戸時代の浄瑠璃に登場する架空の人物です。怪力の持ち主で、その強さのイメージから、精のつく食べ物であるごぼうと結びついて、「きんぴらごぼう」と呼ぶようになったと言います。金時も金時豆の語源になっているので、親子ともども食べ物の名前と関係があるんですね…。と聞けば、やっぱりちょっとぐらいはおもしろいと思えませんか。こういうものをおもしろがる心があれば国語はのびると思います。

実在するかどうか、と言えば小説の登場人物の名前がひとむかし前と変わってきました。むかしはリアリティを持たせるためだったのか、意外に平凡な名前も多かったようです。井上ひさしの『一週間』という小説には、入江一郎なる人物が登場します。終戦直後、ハバロフスクの捕虜収容所に入れられた主人公が、元軍医・入江一郎の手記をまとめるように命じられ、その際に、表に出したらとんでもないことになるレーニンの手紙を手に入れる、というような話です。で、入江一郎って、どこかで聞いたことのある名前です。実際にはどうか知りませんが、いかにもよくありそうな名前です。長井代助とか野中宗助なんてのも、実在するかどうかはともかく、いかにも平凡な感じの名前です。時任謙作となると、名字にある種のニュアンスがあります。主人公が悩み苦しみから解放されて、時の流れに身を委ねようとする決意を志賀直哉は「時任」という名字にこめたのでしょう。しかし、「時任」という名字そのものは存在します。

ところが、最近の小説、特に推理ものやラノベ系では、架空であることを強調しすぎるような名前がよく登場します。最原最早(さいばらもはや)のように、明らかに違和感ありまくりのものから、病院坂黒猫のように、もはやそれは人の名前ではない、というようなものまで。マンガなら、むしろフィクションであることを意識させるジャンルなので、たとえ竜崎麗華とか白鳥麗子であっても、そんなものだと思っていましたが、小説になると、うーんという感じです。フィクションであることの強調なのか、それとも、実在の人物名にすると、文句を言われるからか。その登場人物は私だと言い出すようなストーカーにつきまとわれたくないということなのか。たしかに、リアルな名前だと、うっかりテスト問題に使えないこともあります。いい役回りならともかく、かたき役とかいじめられ役だったりすると、文句を言われそうです。同姓同名でなく、下の名前が同じだけでも、からかいの対象になったりすることもあるでしょう。

作家の名前自体が「入間人間」とか「日日日」になっていると、あざとすぎていやですね。入間人間の作品そのものは悪くはないのですが。「日日日」は「あきら」らしいですな。「日」を三つ組み合わせれば「晶」だから。って、それは「八十一里喚鶏」を「くくりつつ」と読む万葉仮名よりも、まだパズル度が高いぞ。ペンネームがキラキラネームになっとります。「今鹿」の「なうしか」は言われんとわからん。「龍飛伊」の「ルフィ」は意外に読める? (ちなみに今年の祝賀会のアトラクションは『ワンピース』のパロディでした。あの中の洒落たセンスのギャグはすべて私が考えたものですが、おやじギャグの部分は算数のO方先生の提供です。本人の名誉のためにイニシャルにしますが、「O」は「オー」ではなく「オ」と読みます。)「凸」の「てとり」はテトリスから来たのでしょうか。「黄熊」の「ぷう」とか「金星」の「まぁず」は…。

しかし、むかしの作家も、「くたばってしまえ」をもじったと言われる二葉亭四迷なんかはペンネームというより雅号で、こういうのはおふざけが前提の場合もあるのでしょう。直木三十五にしたって、三十一歳のときに「三十一」と名乗って、毎年増やしていき、三十五でめんどくさくなってやめたということですから、じつはいい加減と言えばいい加減です。小松左京は京大時代に京都の左京区に済んでいたからでしょう。『相棒』の「杉下右京」は「小松左京」のパクリなのかなあ。亀山薫も神戸 尊も甲斐享も「か」で始まって「る」で終わったりしていて、名前には凝っているようなので、ちょっと思いつきですが、書いてみました。筒井康隆は本名のようですが、筒井道隆とは無関係ですね。司馬遼太郎も「司馬遷にはるかにおよばない」からつけたものだし、「阿久悠」は「悪友」ですから、いい加減な名前に分類できるかもしれません。江戸川乱歩は本名が平井太郎ですから、そのままではあの作品は書けません。『お勢登場』とか『押絵と旅する男』なんて、平井太郎では読む気が起こりません。エドガー・アラン・ポオのもじりであることはあまりにも有名ですが、乱歩の作品の中に「御納戸色」という名前の作家が登場します。コナンドイルのもじりですね。外国人の名前を日本風にもじるのはよくあります。谷啓はダニーケイだし、益田喜頓はバスター・キートン、久石譲はクインシー・ジョーンズ、松任谷由実が別の人に曲を提供するときの呉田軽穂はグレタ・ガルボですね。その友達の女優、藤真利子は作家の藤原審爾の娘ですが、微美杏里とも名乗っております。ビビアン・リーですな。「私、エリザベスよ」と言ってたのは山田花子です。

2013年3月29日 (金)

いろいろ

灘コースの国語を担当していますが、実は低学年が好きです。今年は小4の授業を担当させてもらっています。毎週楽しみです。

小4なんて人間の仲間入りをして年数が浅いですから、子どもによっては相当アニマルです。当然のことながら休み時間と授業時間のけじめがなかなかつけられないような子もいます。先日、さあ、新年度が始まってだいぶたったことだし、ここらへんでそろそろひとつびしっと言うてやらねばなるまいと思い、キリッとした顔つきで注意してみました。

「◎◎くん、チャイム鳴ったやろ、もう授業開始やで。わかってるか?」

「はい、わかってマスタード」

「いや、ほんまにわかってるか?」

「わかってマスタード」

「わかってないと思う」

「わかってマスタード!」

なんだか頭がくらくらしてしまいました。

う~ん、小4。

たまらないぜ。

 ◇

◆◇◆

  ◇

先日、希学園21期生の合格祝賀会があり、例によって講師劇を上演しました。

21期生のみなさんが格調高いピアノ演奏を聴いていらっしゃるころ、舞台裏で、舞台衣装に着替え、セリフや動きのチェックをしている我々なのでありました。

では、私が携帯で撮った写真を。まずは主役の学園長。(携帯が古いうえに腕が悪いのでかなり画像が粗いです。)

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つづいて、何の役だか私も知りませんがなぜかにこやかな平野tr。幸せそうな笑顔ですね。平野trはここ2、3年幸せつづきでね。いつまで続くかな~。

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次は帽子が似合う男大澤健trと、いつも浮かれポンチなY田M平trです。

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そして、ラスト。ラストを飾るのは、国語科でもっとも真面目そうに見える矢原trであります。そう、「見える」だけであります。

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僕はこれといった衣装もメイクも必要なくて、いまひとつ盛り上がりませんでした。

来年はぜひ!

2013年3月22日 (金)

彼は死んだこと

忠臣蔵は何度も映画化されていますが、東映の忠臣蔵の映画で浅野内匠頭を介錯した武士を演じた人のお子さんが、その昔塾生で来られていました。お子さんをお迎えにくるときのお父さんはさすがに芸能人らしく「カッコイイ」印象でしたが、お話しさせていただくと、実に謙虚な感じで、すばらしいお父さんでした。某野球監督のお子さんも塾生として来られていましたが、本人は実は野球よりサッカーが好きとか言うとりましたな。有名人の子供だけではなく、来ていた本人が将来有名人になるということは十分にありえます。各方面で活躍してくれることを期待していますが、東大に行った教え子の某くん、数学者になって本を出したそうです。『4次元以上の空間がなんちゃらかんちゃら』というトポロジーを扱ったものを私のところに送ってきよりました。そんな意味不明の本を送られて、私はどうしたらよいのでしょう。困ったものです。古本市場に持って行ってたたき売ろうとしたら、表紙の裏に「山下先生へ」という献辞があって売ることができませんでした。残念です。

有名小説家の子供や孫で芸能界で活躍するケースもありますね。芥川比呂志は芥川龍之介の友人菊池寛から名前をもらっています。緒形拳が弁慶をやった大河『源義経』では頼朝をやっていました。『春の坂道』の柳生石舟斎はきっと本人はこんなんやったやろなという感じで、印象に残っています。弟の也寸志は作曲家ですね。森雅之は有島武郎の息子で、黒澤明の映画によく出ていました。坪内ミキ子は坪内逍遙の孫だとか。国木田独歩の孫で国木田アコという人もいました。檀ふみと阿川佐和子はそれぞれ檀一雄、阿川弘之の娘で、いっしょにCMに出たりしていましたな。高見恭子は高見順の娘です。吉行和子は吉行エイスケの娘で、兄が吉行淳之介、妹が吉行理恵、母親のあぐりさんをモデルにしたNHK朝ドラもありました。飯星景子は『仁義なき戦い』の飯干晃一、桐島かれんは桐島洋子の娘だし、山村紅葉が山村美紗の娘であることはあまりにも有名。石原良純は作家の息子と言うべきか、政治家の息子と言うべきか。後者なら小泉孝太郎やDAIGOと同じ範疇になってしまいます。夏目房之介はよくテレビにも出ていましたが、芸能人ではないですね。

こういうのは遺伝なのか、家庭環境なのか。作家は自分の思いを書きことばで表現するわけで、孤独な作業です。一方、俳優は他者になりきって、人前で演じ、他の役者と協力して作り上げていく作業なので、両者はちがうといえばちがいます。でも、なんらかのパフォーマンスという点では同じです。ひょっとしたら、作家は才能さえあれば人前で演じたいという気持ちが心の底にあるのかもしれません。むかしは文士劇というのもありましたし。三島由紀夫でさえ映画に出ています。司馬遼太郎原作で岡田以蔵を勝新太郎が演じたものですが、薩摩の田中新兵衛の役で腹を切り、次の年じっさいに割腹自殺を遂げました。作家の中にも俳優の中にもナルシズムのようなものがあって共通しているのかもしれません。そうであるなら、遺伝子の影響もありそうですが、親の作品が映画化されたりして、芸能界とのつながりがあると、小さいころから、そういう世界に対する関心が生まれる可能性もあります。もしそうなら、環境のせいでしょう。両方の要素が結びついているとも考えられます。

国語ができるかどうかは遺伝子もあるかもしれませんが、家庭環境が大きいような気がします。親が国語的なことに関心があれば、自然に子どもも関心を持つようになりそうです。たとえば、ことば数とか常識に関しては親の影響が強いであろうことは容易に想像できます。ことばのもつ微妙なニュアンスを親が使い分けていれば、子どももだんだん気づいてくるでしょう。「興味」と「関心」はどうちがうか、と言われても説明はなかなかできません。「私は国語に関心がある」と「私は国語に興味がある」は同意でしょう。でも、母親が子どもの成績表を見てカリカリきているのに、父親がのんきにテレビで阪神戦を見ていたら、「あんた、子どものことに関心ないの?」と言うはずです。ここでは「興味」はなんか変です。「興」に「おもしろがる」というニュアンスがあるからでしょう。

最近読んだ小説で、妙に落ち着かない感じのものがありました。話の運びが唐突すぎることもあったのですが、たとえば「大学四年の頃に卒業旅行と称して、五島列島を訪ねたときの話をしてくれた」なんて表現が随所に出てくるんですね。「称して」とわざわざ言っているのだから、ほんとうは卒業旅行ではなかったんだな、と思ってその先を読み進んでも、どう見てもふつうの卒業旅行のようです。「称する」というのは、明らかにうその場合にも使います。「病気と称して休む」のように。うそでない場合は、公然と呼ぶとか名付けて呼ぶというニュアンスです。「元服して義経と称する」のような感じです。だから、わざわざ「卒業旅行と称して」と表現したからには、なにか裏があると思わざるをえない。にもかかわらず、そうではないから肩すかしを食ってしまい、読むリズムがこわされるのでしょう。

プロの作家でもそういうことがあるのですから、ふつうの人が「心配」と「不安」の区別がつかなくても、「しかし」と「ところが」のちがいが説明できなくてもしかたがありません。でも、国語の問題で「彼は死んだこと」という形で答えたら、なんか変だなと思う感覚はあるでしょう。「彼が死んだこと」か「彼は死んだということ」ならよいのですね。「彼が言ったこと」と「彼が言ったということ」とでは微妙なちがいがあることに気づけるかどうかです。「こと」を「事実」と解釈すれば、どちらも同意ですが、「こと」を「内容」と解釈することもできることに思いが及べば、書き分けようとするはずです。「説得すること」と「説得させること」では主体が明らかに変わるのに、そういうことをまったく気にしないで書く子どもがいます。その言い方はおかしいよ、と言ってくれる人がいるかどうか、というのは国語の力にかなり大きな影響を与えているような気がします。ことばだけでなく、人は悲しいから泣くとは限らないというような、数学的な論理とはちがう論理が人間にはあるといったようなことも家庭で身につけていく要素が大きいでしょう。もちろん子ども本人が、好奇心とかおもしろがる心を持てるかどうかにもかかわってきますが。

2013年3月15日 (金)

山で聴く音楽

学生のころは、映画や本(マンガふくむ)や音楽の話を友人とよくしたものですが、最近はそういうこともめっきりなくなりました。

だいたい話が合わないですね。

特に音楽はもうほとんど無理ですね。さがせば話の合う人が希学園内にもひょっとするといるのかもしれませんが、可能性は低そうです。仕方がないので、こんなところに八つ当たりのように書いてみる僕なのであった。人の好きな音楽の話なんて、聞いたっておもしろくもなんともないもので、その点夢の話と似ていますよね。それはわかってるんですが、まあ、それはそれとして、たまにはというか、どうせいつもたいした話は書いてないわけだし、べつにいいか、みたいな。

小学生のときには家にクラシック中心のレコード全集があって、今考えてもけっこう節操のない感じのアンソロジーでしたが、それをちょいちょい聴いてました。当時好きだったのはブラームスの『ハンガリー舞曲第五番』。小学生にしてはなかなか良い趣味していますね。ブラームスは今じゃ『ドイツ・レクイエム』が好きですね。荘厳でかっこいいです。映画音楽全集みたいなのもあって、『ある愛の詩』とか『禁じられた遊び』とか聴いてじぃんとしていました。映画は観たことありませんでしたが。好きな音楽を自分で見つけてくる才覚とか強い好奇心はまだなかったので、適当に家にある音楽を聴いていただけですが、今考えてもおかしいのは、なぜかよく『うちの女房にゃ髭がある』という曲を聴いてたことですね。聴くだけでなく歌ってました。「ぱぴぷぺぱぴぷぺぱぴぷぺぽーうちの女房にゃ髭があるぅ」なんて歌いながら歩いていました。変な小学生ですね。

音楽を自覚的に聴き始める、というと大げさですが、いろいろ興味をもって音楽を渉猟しはじめたのは高校生のときです。YMOブームが去ったあとで、なぜかYMOを聴きはじめ、そうすると、いろいろつながっていくんですね。クラフトワーク聴いたり、RCサクセションとかムーンライダーズとか。矢野顕子とか。

阪急茨木駅前に「親指ピアノ」という熱いレンタルレコード店があって、コムデギャルソンみたいな黒ずくめのニューウェイブ系のおねえさんがよく店番をしていましたが、はやっている音楽とか売れているレコードとか関係なく、店員のお気に入りをひたすらプッシュしてました。当然、洋楽、それもパンク・ニューウェイブ系が主で、そこでエルビス・コステロとかシスターズオブマーシーとか、クリスチャン・デスとか、日本のバンドだとローザ・ルクセンブルグとか借りて聴いたんじゃなかったかなと思います。もはや誰も知らないバンドオブアウトサイダーとか、スーイサイドツインズとか。フラ・リッポ・リッピはまだ知っている人もいるかもしれませんね。数少ないこのブログの読者のなかにいらっしゃるとは到底思えませんが。

研究室の先輩に洋物のポップス大好きな人がいて、この人の情報も貴重でした。スラップハッピー、レッドボックス、ジョン・レンボーン・グループ、プレファブ・スプラウトといったあたりはこの先輩に教えてもらって聴きはじめました。

寮の友人からの情報も有益でした。ひたすらプログレが大好きなやつ、クラシック専門のやつ(と言いつつ、なぜかおニャン子クラブだけは聴く)、中島みゆきラブな人とかいました。中島みゆきは最近のものは全然聴いていませんが、昔の『キツネ狩りの歌』とか『蕎麦屋』とか『傾斜』とか、歌詞が凄かったですね。『傾斜』というのは腰の曲がったおばあさんのことを歌ったものですが、「息子が彼女に邪険にするのは、きっと彼女が女房に似ているのだろう」っていう部分に、「そんな歌詞ありか!」とひっくり返るぐらいびっくりしました。他に歌詞が良かったのはムーンライダーズとかRCですかね。こういうのも歌詞になるし、こういうのも歌えるよって、歌詞の世界を広げてくれました。「検死官と市役所は君が死んだなんて言うのさ」(『ヒッピーに捧ぐ』)なんて今聴いても感涙ものです。ムーンライダーズの歌詞はじつに多彩で、わりと最近(と言ってもかなり前ですが)メンバーの一人がハイジャックに遭ったときのことを歌詞にしていて、そのなかの「年老いたハイジャッカー、今日こそ輝いていたいんだろう」という一節を聴いたときは、面目躍如というか、さすがだなと思いました。いまどきのJポップスの歌詞なんて聴くに堪えませんよ。似たようなフレーズの切り貼りだらけです。え、言い過ぎですか。そうですね。なかには良いものもあったような気もします。でも、ある限定された層(たとえば二十代前後の女性とか)の共感が得られるだけの、その層に特有のある種の気分をすくい取っただけの歌詞は物足りないと思っちゃうんです。そういうのが無意味ということではなくて、それだけで終わっちゃったらつまんないという感じです。でも、そんなのばっかりでしょ? え、やっぱり言い過ぎですか。そうですね。そんなのばっかりじゃありません!

もうひとつ、あまり聴かないというか、ダメなのはジャズです。それでも大学時代は少しは聴きました。ありがちですが、コルトレーンとかソニー・ロリンズとか。でもなんだかダメになっちゃいました。ずっと前にも書いたような気がしますが、ガトー・バルビエリぐらいですかね。日本だと清水靖晃。

ああ、なんだかもう、だれも読んでくれていない気がする・・・。

クラシックも少しは聴きます。宗教曲が多いです、クリスチャンというわけではありませんが。これも前に少し書いた記憶がありますね。好きな宗教曲ばかり集めてプレイリストをつくり、うだるような猛暑の炎天下、マタイ受難曲やらレクイエムやら聴きながら歩いていると、あやしうこそものぐるほしけれというかなんというか頭がくらくらしてきて素敵です。

先日、京都の鳥辺野あたりをグレゴリオ聖歌聴きながらぶらぶらしてみましたが、もうほんとうに頭がぽーっとなってすごく良かったです。異界にトリップしかかっているような変な感じでした。次はパレストリーナ聴きながら蓮台野周辺を歩いてみよう。京都の方以外にはよくわからない地名だったかもしれませんね。鳥辺野(鳥部野、鳥戸野)も蓮台野も、簡単にいうと、昔の風葬場、ありていにいえば、死体が遺棄されていた場所です。京都はおもしろいです、ほんと。

音楽の話にもどります。もっとも好きなのは、にぎやかなアップテンポの曲であれ、静かな曲であれ、やっぱりドライブ感といいますか、どこかに連れて行かれるような感じのする曲です。僕が永遠に宇宙一好きなシベリアン・ニュースペーパーも、聴いてると、とんでもなく遠いところに連れて行ってくれる感じがあります。まさに彼らの曲のタイトルにあるとおり『世界の果てに連れ去られ』ですね。単調な曲のようでも、実はそういう感覚をあたえてくれるという曲はたくさんあります。スティーブ・ライヒの『18人の音楽家のための音楽』やグレツキの『シンフォニー№3』なんて特にそうですね。

まあ、音楽の趣味なんて人それぞれですし、音楽との出会い方も人それぞれなわけですが、どうもよくわからないのは、今売れているものを聴くっていう聴き方ですよね。CD屋さんに売れ筋情報が必ずありますけど、あれは、それをもとにして買う人がたくさんいるから出してるんですよね。不思議。ジャケ買いはよくしましたが、売れ筋情報を参考にしたことはまったくないなあ。僕の好きなシオランが(この人は音楽家ではありません、文筆家です)、自分の好きな音楽について知られることは自分のもっとも深い内面を知られるのに等しい感じがする、といったようなことを書いていたけれど(例によってあやふや)、音楽に対するそういう感受性って今も生きてるんでしょうか。売れ筋情報をもとにCDを買い音楽を聴く人とは無縁の感受性だって気がします。コマーシャルでCDの宣伝をしているのを見たときは、ものすごくびっくりしましたが、びっくりする僕の頭がかたいんでしょうね、きっと。でもやっぱり気持ち悪いなあ。ふと耳にした曲が心に残っていて・・・というのとは少しちがう気がします。ただ、ショップの視聴コーナーで出会った音楽も少しはありますね。パンク・ニューウェイブとボサノバの美しき融合、アート・リンゼイがそうでした。

いずれにせよ、最近はあたらしい音楽にふれることが少なくなりました。好きな音楽を貪欲にさがすということがめっきりなくなりました。数年に一度突然火がついてしまうことはありますけど。シベリアン・ニュースペーパー以外のCDを買ったのって、もう2年前だったような。穂高岳山荘のテント場で雨にふられ一日中寝袋の中でごろごろしていたときに、ラジオで聴いたヒリヤードアンサンブルの合唱があまりにも山の雰囲気にぴったりで、下界にもどってからさっそく買いに行きました。昨年、剱に登って、おりて、五色ヶ原まで歩いたときにはこれとシベリアン・ニュースペーパーをずっと聴きながら歩いていました(そしてツキノワグマにばったり出会ってしまい、絶叫しながら遁走するのであった)。

なんだかまとまりがなくってすみません。どう終わったらいいのかわかんなくなったので、とりあえず一言叫んでしめくくることにします。

音楽ばんざい!

2013年3月 8日 (金)

AKO47

清水次郎長という名前が出てきましたが、この人が死んだのは明治の中頃で、晩年はベッドで寝てたとか。徳川慶喜だって、死んだのは大正の初めですから、江戸時代というのは遠い昔ではありません。一時期、次郎長の養子になっていたのが天田愚庵という人で、正岡子規にも影響を与えた歌人です。次郎長一家には二十八人衆という子分がいたそうで、大政・小政・大瀬の半五郎・法印の大五郎・増川仙右衛門・桶屋の鬼吉・追分の三五郎、この辺までは名前が出てきます。というと、広沢虎造(知らんやろな)に怒られます。忘れちゃいませんか、森の石松がいました。その他は、と聞くと虎造みずから、「あとは一山いくらのがりがり亡者だい」と言っています。しかし吉良の仁吉という人がいて、これも二十八人衆の一人です。この仁吉の血をひくという設定の吉良常という男が出てくるのが、尾崎士郎の『人生劇場』ですが、もうその辺の本屋には置いてないのかなあ。高校生のときに、絵も何もかいてない黄色い表紙の新潮文庫で読みました。なになに篇とか名前がついて十冊ぐらいに分かれていましたが、五木寛之の『青春の門』はこのパロディかなと思っていました。同じ早稲田の後輩だし、「やっちゃん」の出てくる青春小説という点では同じでしたね。

四十七士となるとさすがに覚える気もなく、大石内蔵助・大石主税、堀部安兵衛、以下省略。とはいうものの、よく考えたら何人かはパラパラと出てきます。たとえば大高源五。俳諧をやっていて、宝井其角とも交流がありました。其角は芭蕉の弟子としてはトップで、芭蕉がライバルと目していた井原西鶴とも付き合いのあった大物です。討ち入り前夜、両国橋のたもとで出会ったときに、「西国へ仕官することになった」と言う源五に、「年の瀬や水の流れと人の身は」と其角が詠みかけると、「あした待たるるその宝船」と付けて、仇討ち決行の真意を知るという有名な話があります。

四十七の上を行くAKB48は何人いるのでしょう。48人ではなく、はじめは半分ぐらいだったそうですが、今はどれだけ? 「AKO47」という新作落語を月亭八方がやっていました。47対1で討ち入りをするのは卑怯なのでセンターを決める選挙を行うという、ばかばかしい設定で、あまりの安易さに結構笑えます。でも、いまの子は当然、赤穂浪士を知らないんですね。私も歌舞伎の大序、鶴ヶ岡社前の場をはじめて見たときに、なるほどねと思いました。口上人形が出てきて配役を紹介するところから、「とーざいー」「とーざいー」という声が聞こえて、柝の音がはいるにつれて幕がしだいに開いても、ずらりと並んだ役者たちはみんな顔を伏せており、役の名を呼ばれてはじめて少しずつ顔を上げていくのですね。人形に魂がはいった、という設定で人形浄瑠璃の名残です。
『仮名手本忠臣蔵』のネーミングもなかなか凝っていて、四十七士をいろは四十七字にかけて「仮名手本」、当然「手本」というのにも、いろはの書き方を習う手本と武士の手本がかけられています。で、さらに「忠臣大石内蔵助」を縮めて「忠臣蔵」、金持ちの蔵はいくつもあるので、いろはの番号をふっていたことをふまえると、前半の「仮名手本」ともつながります。蔵いっぱいにもなるほど多くの忠臣が出てくるというニュアンスもあるでしょう。強引な説としては、塩谷判官が高師直に斬りかかったとき、後ろから抱き止めたのが加古川本蔵という人、この人こそが本当の忠臣だということを、「本蔵」の間に「忠臣」をはさんで暗示したという説さえあります。

実際に斬りかかったのは浅野内匠頭長矩ですが、芝居では塩冶判官高貞になります。塩冶高貞は実在の人物で、『太平記』には、足利尊氏の執事の高師直が塩冶高貞の奥さんに一目惚れをして、恋文を書こうとしたというエピソードが載っています。レベルの高いラブレターを書きたかったのでしょう、都で最もすぐれた名文家をさがせと命じて、連れて来られたのがなんと吉田兼好。ところが、兼好の書いたものを読みもせず、奥さんは手紙を捨ててしまいます。逆上した高師直の讒言によって塩冶高貞は謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれた、ということになっています。芝居では、この話と強引に結びつけて、浅野内匠頭を塩冶高貞にするのですが、「塩冶」は赤穂藩の名産「赤穂の塩」にひっかけていますし、相手側の吉良上野介が高師直になるのは、吉良家が幕府では礼儀作法を教える役目をしており、そういう家を「高家」と呼んでいることとも結びつきます。

実際に起こった事件をそのまま描くと幕政批判と見られかねないので、鎌倉時代などに仮託して描いて、実名を避けたのですね。そのために大石内蔵助も大星由良之助という名前になっています。すぐわかるのですが、一応言い訳にはなります。「織田信長って言うたやろ」と責められたときに、いいえ「小田春永」です。羽柴秀吉か、いいえ真柴久吉です。明智光秀やろ、いいえ武智光秀です。…ばればれです。むかしのインチキ興行で「美空ひばり来る」と看板にあるので見に行ったら「美空いばり」やった、とか「五木ひろし」と思うたら「玉木ひろし」やったとか、「エノケン」と思うたら「エノケソ」やったとかいうのと同じです。榎本健一を略して「エノケン」なのに、「エノケソ」は何の略でしょう。「えのもとけそいち」?

ほかにも加藤清正が佐藤正清になるような、みえみえパターンもありますが、ちょっとわかりにくいのもあります。徳川家康は北条時政になりますし、真田昌幸は佐々木高綱になります。伊達騒動という、仙台藩伊達家で起こったお家騒動があります。悪役とされる原田甲斐を新たな角度から見直したのが山本周五郎の『樅の木は残った』です。読みやすい周五郎作品の中では『ながい坂』と並んで、すらすら読めない作品でした。この原田甲斐が芝居の『伽羅先代萩』では「仁木弾正」となって妖術使いという設定です。仁木氏は高師直が死んだあと、足利家の執事になります。執事はのちの管領につながる役職なので相当の権力を持っています。ところが、大老の酒井雅楽頭は山名宗全、老中の板倉内膳正は細川勝元という名になっています。つまり応仁の乱のころの設定ですが、そのころの仁木氏は見る影もない、しょぼい一族になっているので、仁木弾正というのは架空の人物でしょうね。松永弾正のイメージか、「弾正」という名は悪人っぽいなあ。

2013年3月 1日 (金)

勉強の敵、マンガについて②

※四条烏丸教室Mさんのお母さん、励ましのお言葉ありがとうございます! 「もうやめろ」と生卵を投げつけられないかぎり、ブログ続けます!!

◇◆◇

さて。

前回少年マンガについて熱く語っているうちに私のハートに火が点いてしまいました。

今回は、少女マンガについて熱く語ってもいいでしょうか! いや、ぜひ語らせていただきたい!

ということで、本日は、かつて少女だったすべての方にお送りしたいと思います。趣味が合うかどうかは別にして。

森脇真末味さんというとても絵の上手い少女マンガ家がいらっしゃって、僕の姉がアシスタントをしていたことがあるんです。で、僕が高校生のときに、姉から、自分も手伝った作品が今度『プチフラワー』(だったかな?)に掲載されるから読むように、というお達しがあって、それがたぶん少女マンガの読み始めだったと思います。

少女マンガ全盛といいますか、黄金時代でした。『プチフラワー』とか『ぶ~け』とか。『LaLa』とか『花とゆめ』なんてのもありましたね。『別マ』とかね。今もあるんですか? よく知らないのですが。

森脇さんはほんとうに絵が上手でした。人物のかき分けがすごいんです。タイプのまったく異なるかっこいい(必ずしも美形ではない、美形ではないが男くさくてかっこいい、なんてのもいる)男が何種類も何種類も描けるんですよ。そんな少女マンガ家いないと思うんですけど。顔も、体格も、服装の趣味もかき分けます。そして、そのすべてが登場人物の性格や生い立ちをきちんと反映しています。『ブルームーン』というシリーズでは、顔はそっくりだが性格がまったくちがうイケメンの双子を描き分けていました。表情で描き分けるんです。すごかったなあ。インターネットで森脇ファンの方が、「背の高い男」の体格を、がっちり系、ほっそり系、着やせするけど意外とたくましい系など何種類にもかき分けていた、と激賞されていましたが、まったくそのとおり。とにかくかっこいい男のキャラクターを造型させたら右に出る者がいなかった、もう長くマンガを描いていらっしゃいませんが、少なくともこの点ではいまだに彼女を超える人はいないんじゃないかと思います。話としては結構痛ましいものが多かったですけれど。

実は、姉のツテで、ファンレターを送ったことがあるんです。年賀状をお返事にいただいて感激しました~。キラー・カン※の色紙とならぶ僕の宝物です。

※キラー・カンは辮髪の悪役プロレスラー。得意技はモンゴリアン・チョップ(モンゴル人は辮髪ではなかった気がするが)。ニードロップでアンドレ・ザ・ジャイアントの足を折ったということで有名になった(事実はちょっとちがうらしい)。先輩に、キラー・カンが経営する「スナックカンちゃん」へ連れて行ってもらったことがあり、そこで色紙をもらいました。キラー・カンとならんで写真にうつっているのが自慢。

さて、絵がすごいということでいうと、森脇さんとは全然雰囲気がちがいますが、内田善美さん。主人公の大学生が、生命の宿った日本人形の女の子と暮らす『草迷宮・草空間』、夢のなかで幽霊になる男の話『星の時計のLiddell』である種の頂点をきわめた観がありました。なかなか単行本が出ない! 凝る人だから絵を描きなおしてるんだろうなあ、はやく出ないかなあ、と友だちと話していた覚えがあります。僕は『空の色ににている』という話が好きでした。これは、ぶ~け全盛期のぶ~けコミックスのなかでも白眉だったと思います。観念とか思いとかいったものと物理的な存在とのあいだの、あるいは、ただの物と生命とのあいだのゆらぎを絵とストーリーで表現していくところに、スリリングなおもしろさがあったように思います。

内田つながりで、内田美奈子さん(内田春菊にいくと思われた方もいるかもしれませんが、ちがうんです)。『赤々丸』がおもしろかった! まじめな優等生の生徒会長白井くんが、未来にタイムスリップしてしまう話です。しかし、タイムスリップした白井くんは記憶を失っており、しかもなぜか二人に分裂してしまっています。ひとりは、まじめな白井くんをさらにガチガチにした「白々丸」、もう一人は、うんとワルくなった「赤々丸」です。未来の世界では、宇宙からやって来た、ネコにそっくりの宇宙人であるネコ族の人々が、地球人の差別に耐えかねて反乱を起こします。そのネコ族対地球人の対立に二人がからんでいくという話です。白々丸や赤々丸にからんでくるネコ族のキャラがおもしろくて。昔よくテキストの例文などで「ねこ丸」という名前を使いましたが、実はこの『赤々丸』に、「猫 猫丸」という名前の子が出てくるんですね。そこからとったんです。

もう昔のことなので例によって記憶があいまいですが、高校生から大学の教養課程にかけて他によく読んでたのは、まず小椋冬美さん、それから岩館真理子さん。おお、こんなデリケートな感性の世界があったのか! と粗雑な人間性が売りだった僕はとてもびっくりし、かつ、うっとりしました。男の子でもとっつきやすかったのは、川原泉さんとか松苗あけみさんじゃないですかね。川原泉さんはなかなか異彩をはなっていました。『ゲートボール殺人事件』とか『甲子園の空に笑え!』とか、他の少女マンガとはちがう雰囲気でおもしろかったです。松苗さんは、生き生きとしたキャラがたくさん出てきて、ドタバタしていて、テンポがよくて、ちょっと高橋留美子さんに似ているような気がします。『純情クレイジーフルーツ』とか読んで、女の子ってこんなふうに思うんだね~、わしらとは全然ちがうのう、なんて勉強していました。

少年マンガのテーマが『たたかい』だとしたら、少女マンガの主要テーマはやはり『恋愛』でしょうか。それこそ、川原泉さんなんてあまりそういう要素が強くなかったし、いちがいにそうとは言いきれないものの、ポップスの世界と同じで、やはり定番は『恋愛』ですよね。恋愛マンガの王道だと僕が思っていたのは、なんといっても、くらもちふさこさんであります。とにかくストーリー作りがうまいです。『たたかい』は、どう勝つかが見せ所になりますが、『恋愛』もやはりどう障害を乗りこえるかが見せ所で、もっと言うと、どんな障害を設定するかによっておもしろさが変わります。ロミオとジュリエットであれば、家同士の対立というのが障害でした。

しかし、そんな古風な障害では、現代の若者にはリアリティーがない。多いのは、自分の相手に対する評価(あるいは相手の自分に対する評価)が最も大きな障害になっているというパターンですね。その障害が乗りこえられる、というか、障害でなくなっていく過程がおもしろいです。簡単にいうと、いやなやつだと思っていたら、意外といいところを発見してしまい・・・・・・的なパターンですね。その「発見」をどう見せるか、そこが勝負です。雨の降る公園で捨て猫を抱き上げているのを目撃、なんてのではダメだちゅうことです。

いろいろ変わった障害を設定してくれたのは川原泉さんですね。恋愛というところまでいかないんですが、でもはじめに障害ありきです。たとえば、笑ったり泣いたりするとどこからともなく花が出現してしまう女の子、というのがありました。この突拍子もない設定自体が少女マンガに対するパロディーになっているわけですが(少女マンガの背景って意味もなく花が咲き乱れていることが多かったですからね)、それが物語においてひとつの障害として機能しています。具体的にいうと、その女の子は気味悪がられるのが怖いので、親しい人の前以外笑わないようにしているわけです。それで、彼女の家庭教師をしている大学生の男の子は、自分はきらわれているのではないだろうかと悩み、必死で彼女の前でギャグを連発します。しかし、彼女は決して笑わずむすっとしているわけです。これが障害です。なかなかおもしろそうでしょ?

しかし、少女マンガにおける恋愛モノで僕が個人的にいちばん好きだったのは、王道中の王道でありますが、やはりくらもちふさこさんです。そのなかでも私は『Kiss+πr²』を強く推したい!

どうなんでしょう? やはりくらもちふさこ作品で有名なのは、『いつもポケットにショパン』とか『アンコールが3回』とか『天然コケッコー』とかなんでしょうか。うんうん、たしかにどれもおもしろいね。

しかし、やはり『Kiss+πr²』が僕にとってはいちばんですね。たぶん、僕が男だからでしょうね。というのも、この作品は、主人公が高校生の男の子で、しかも男同士の友情が、少女マンガにはありえないほど上手く描かれているんです。

さあ、あてにならない記憶を頼りにどんな話だったか復元してみましょう。

主人公の男の子は、幼いころに母が家出をしたという過去を持っており、現在はアルバイトをしながらひとりで暮らしています。将来はロックミュージック系のライターになりたいという夢がありますが、クラスのなかでもわりと目立たない、大人しい男子です。自分は基本的に運の悪い人間だと思っていますが、かといってそれを不満に思うのでもなく、ただ淡々と毎日を送っているような、今でいう草食系の男子です。それがひとつ年上の「葵さん」という女の子に好かれたことから運命が変わっていきます。主人公にとって「葵さん」は幸運の女神だったわけですが、その「葵さん」に対する主人公の見方の変わっていくところが、すごく良かった。単に幸運をくれるからというだけではなく惹かれていく、その感じがとてもよく描けていたように思います。

たとえば、「葵さん」の家におよばれしたときに、「葵さん」の家族がみんな主人公にぶしつけなくらい興味しんしんの態度をとりますが、主人公は、戸惑いながらも「葵さんがふだん自分のことをどんなふうに家族に語ってくれているのかわかる」と感じます。また、お好み焼きか何かごちそうになるんですが、「葵さん」のお母さんがこれをつけるとおいしいよと言って出してくれたマヨネーズについても、マヨネーズなんて自分も持っているけどと思いつつ、言われたとおりにマヨネーズをつけて(あれ? ほんとうにすごくおいしくなる)と感じます。そして、「これをつけるとおいしいよ」という、その言葉こそが大きかったんだと気づきます。

人を好きになる過程をこんなにもさりげなくというか遠回しにというかいろんなクッションを利用してつつましく描いているのがすごいなあと。

そして男の友人。ひとりは古くからの友人の「青沼」。高校生なのに、すでに体型は中年で、黒縁の眼鏡をしていて、ゲームが好きなオタクっぽい子です。もう完全にもてない系ですね。もうひとり、新しく友だちになる「ポパイ」。「青沼」とは対照的にわりと美形です。ヘアスタイルもソバージュみたいにしていておしゃれです。ただし、やはりこの人もオタク系です。「怪談オタク」で、すぐに百物語をしたがる子です。男同士の友情にもきちんと嫉妬がうまれることなど、よくわかっていてリアルに描けていたと思います。

卒塾生で興味のある方はぜひ一読してみてください。いま書店で入手できるのかどうかは知りませんが。もし、入手できないがどうしても読みたいという方がいらっしゃればお貸ししますぜ。・・・・・・家捜しすれば見つかるはずなので。

少女マンガについて語ると言いつつ、きわめて偏った話しかしていませんが、どうしても一度『Kiss+πr²』について語りたかったという、実はそれだけだったのです。しかし、いざ語りはじめてみると、意外と細かいところをおぼえておらず・・・・・・うう。

失礼しました。

◇◆◇

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2013年2月20日 (水)

勉強の敵、マンガについて

新年度がはじまってはやくも三週間がたとうとしていますね。

3月には合格祝賀会も行われます。

『Royal Nozomi Theatre』の座付き作者M.Yamashitaに合格祝賀会の劇は今年は何をやるんですかと訊くと、あの大ヒットアニメを下敷きにするということでした。海賊が主人公のやつですね。

フランスあたりだと、忍者が主人公の『ナルト』の方が人気があるそうですね。やはり忍者モノは堅いということでしょうか。しかし、僕にとって忍者といえば白土三平の「サスケ」「カムイ」なので、「ナルト」はなんだかなあ。あれが忍者?って感じです。日本史の教授も『サスケ』は良いと言ってましたよ。「中世特有の暗い雰囲気がよく出とる」。ちなみに『サスケ』のラストはご存じですか? めちゃくちゃ暗いんですよ。いや、サスケが死ぬわけではないんですが、なんともいえず痛切な気持ちになるラストでした。

さて。

僕が少年マンガを読んでいたのは大学生のときまでで、あとはほとんど読まなくなりましたが、たまにテレビで『●ンピース』や『ナルト』をなんとなはなしに見ていることはあります(最初から最後まで見る気にはさすがになれませんが)。そうすると、これは確かに少年マンガの王道であって、高校生ぐらいまでの子どもが見るのはよくわかるなあとは思うけれど、けっこうな大人がはまっているという話をきくと不思議です。

昔、『サルでもかけるマンガ教室』のなかで、少年マンガというのは結局「たたかい」をどう描くかにつきるのだと書かれていました。問題はその「たたかい」をどう描くかというところで、そこに作者の力量が出るわけです。僕がいちばんダメだなあと思うのは、「火事場のくそ力」パターン。敵にやられてやられて危機に陥った主人公がそこで「ぬおーっ」なんて叫んで「負けるわけにはいかねえんだ」などと吠えると、なぜか突然妙ちきりんな力が湧いてきて、敵を倒してしまうというパターンです。説得力がないでしょ? だったらはじめから「ぬおーっ」と言え、「ぬおーっ」と。『ワンピー●』はこれですね。本宮ひろしの『男一匹ガキ大将』なんかもそんな感じでした。でも、本宮ひろしのえらいところは、『硬派銀次郎』は最後にケンカに負けるんですよね。負けることで、はじめて大人になるんです。そういうことをかけるところが、本宮ひろしの天才的なところでした。一瞬の輝きでしたけど。

もうひとつありがちなのは、「特訓」ですね。これも『サルまん』に書かれていました。『ナルト』はこっちですね。がんばって特訓して勝利をおさめます。少なくとも勝つ根拠は示されているわけです。ただ、たたかい→敗北→特訓→勝利というプロセスをひたすらくり返すかたちになるので、飽きますし、いわゆる「ライバルのインフレ現象」を起こしやすくなります。『侍ジャイアンツ』なんて典型的なこれでした。特訓しては魔球を開発する、のくり返しです。ハイジャンプ魔球、エビぞりハイジャンプ、大回転魔球、分身魔球などなど、最後にはエビぞりハイジャンプ大回転分身魔球みたいなよくわからないワザを繰り出していましたが、さすがに当時の小学生のあいだでも、「あれってボークじゃね?」などという疑問が口にされていました。『ドラゴンボール』もそうでした。はじめはのほほんとした宝探し的なお話だったのに、とちゅうからはひたすら特訓してはたたかう話になっちゃいましたね。ああなるとつまんないです。ジャンプ系はどうしてもそうなりやすいようですね。『キン肉マン』だって、はじめはとにかく肩の力の抜けたギャグマンガでした。「屁のつっぱりはいらんですよ」という何が言いたいのかよくわからないギャグもよかった。それが、とちゅうから友情とたたかいのマンガになっちゃって。ただ、ジャンプはデザイン的な点で優れているマンガが多い気がします。『ストップ!! ひばりくん!』以来の伝統ですかね。鳥山明の絵も1コマ1コマがそのままイラストになりそうなぐらい美麗ですよね。『ワンピース』もその伝統を感じさせます。キャラクターが魅力的なのも人気の秘密でしょうね。はじめ、『ルパン三世』みたいだなと思いました。刀持ったやつと黒スーツのやつがいて。でも「たたかい」の描き方はいけてないと思います。 

必殺パターンは他にもあります。「覚醒」です。主人公は特に努力しないのですが、危機に陥ると突然「覚醒」し強くなってしまいます。なぜそんなに都合良く覚醒できるのか? その解答が「血統」です。主人公はなぜ敵に勝てたのか? こたえ:血統がいいから。というパターンです。そんなバカな!と思われるかもしれませんが、このパターンは実は多くて侮れないです。マンガではありませんが、ハリーポッターってこれですよね。『セーラームーン』も『プリキュア』もこれに近い。前世からの因縁というのも「血統」の一種といっていいですね。『仮面ライダー』の覚醒はたまたま変身ベルトを手に入れてしまうことによって起こることが多いみたいです。オーズは典型的にそうでした。主人公はプータローでしたもんね。まあ、内面に焦点が合わせられていてべつのおもしろさを追求していましたけど。『ナルト』は「血統」を前提とした「特訓」パターンと言っていいかもしれません。

この「血統」のバリエーションといえるのが、「家元」パターンです。「家元」という言い方はあまり適切ではありませんが、たとえば『北斗の拳』です。ケンシロウはなぜ勝つのか? 一子相伝の北斗神拳の正統だからです。『修羅の門』もこのパターンですね。なぜ主人公(名前は忘れました)は勝つのか? 陸奥円明流(だったっけ?)の継承者だからです。だから、陸奥円明流の分家にあたる不破円明流の継承者とたたかったときにも、最後には、陸奥円明流だけに伝わるヘンテコなというか反則な感じの必殺技を繰り出して勝利を収めてしまいます。

結局、これらのパターンに頼って「たたかい」が描かれてしまうのは、そういった勝利の理由付けが読者に対して説得力を持っていると、作者あるいは編集者が信じているからなんでしょうね。そして実際にそれでおもしろいと感じてくれる読者が多いからでしょうね。だから、冒頭に書いたように、子どもがおもしろがるのはわかるし、そもそも子ども対象だからってことで割り切れば文句なんかありません。ただ、なんで大人がおもしろがるかな~と思うだけです。少なくとも僕はつまんない。

この点、革命的だったのが最近大人気の『ジョジョの奇妙な冒険』ですね! 大学時代一緒に暮らしていた友人が荒木飛呂彦さんの大ファンだったので、連載一回めから週刊誌で読みました。『ジョジョ』も第1部は「特訓」あり「火事場のくそ力」ありで、少年マンガの王道をいってたわけですが、第2部あたりから様子が変わってきます。第2部の主人公はまだ特訓もしますし、血筋もいいのですが、それは勝利の主たる要因とはなりません。巧みな話術とはったりの上手さで危機をしのぎ勝ちをおさめるのです。これは新しかった。第3部にいたっては、特訓もなくなります。代わりにその後、「進化する悪役」というきわめて斬新な、衝撃的なアイデアが出現します。悪役なのに努力するんです。悪役なのに「恐怖を克服しなければならない」などと考えて誠実に努力し成長しちゃうんです。そんなのありか?と思いました。ではそんな人間的にも超一流の(?)悪役に主人公はどうやって勝利するのか? 基本的には「工夫」です。知恵をしぼって工夫して勝ちをおさめるのです。作者は苦しいだろうなあと思います。ハードルが高いでしょう? 「ぬおーっ」と唸って、「仲間がなんたらかんたら」と叫べば勝てるなんて簡単な筋立てじゃないんです。ほんとうによくがんばっているなあと思います。

たたかいのドラマは悪役が魅力的じゃないとつまらないですよね。かっこいい敵役といえば『ガンダム』の「シャア」が頂点になるんでしょうか。僕はあまり知らないのですが。その点、『ジョジョ』の努力する悪役、というのは実に良い目のつけどころでした。『バビル2世』の悪役ヨミもなかなか魅力的でした。あと一歩でバビル2世を倒せるというところまで追いつめておきながら、部下を守るために撤退する場面があって、横山光輝ってすげえな!と感心したものです。そうですよね、そんな上司でなかったら、部下が命がけでついてくるはずがありません。その点、悪の描き方にはまだまだ開発の余地がありそうです。

などと、少年マンガについて熱く語っておきながらこんなことを言うのはなんですが、やはり、「マンガ」と「勉強」は両立するか?という問題について考察せねばなりますまい。ここでは、歴史マンガやことわざマンガなど、蘊蓄系マンガは考察の対象から外します。

文章読解の力をつけるうえで、マンガはプラスかマイナスか?

プラスであるにせよマイナスであるにせよ、文章読解にマンガが影響するとすれば、『イメージ化』の領域のはずです。

読解問題を解く、というのは、本来、【文章を読む】→【頭のなかにイメージを作る】→【イメージを言語化する】という過程のはずです。イメージを作らずに、文章をよく理解できないまま本文中の表現を加工して答えを作る場合(作れる場合)もありますが、そういう機械的な編集作業では答えられない問題も入試では多多出題されます。いわゆる難関と呼ばれる学校ほど、そういう良問を用意してきます。今年の灘中学校2日目の詩の問題なんてその典型です。ですから、今年から新しくなった希学園の小4カリキュラムでは、この「イメージ化」が1年間の中心課題の一つとして前面に据えられています。

さて、子どもたちが「イメージ化」に取り組むときの最大の難点は、さまざまな文章で描かれている情景や状況等についての知識が十分でないということです。海を知らない人に、言葉だけを用いて海がどういうものかイメージさせることがどれだけ難しいか想像してみてください。子どもたちはそういうポジションに置かれているわけです。

僕が「イメージ化」というときの「イメージ」とは、視覚的なイメージに限りません。音声イメージや空気感など、心的に表示したり感覚したりすることのできる表象いっさいをふくみますが、たぶん視覚的イメージを例にとって話すのがいちばんわかりやすいと思うので、そういうつもりで話をつづけます。

子どもたちが文章からイメージを形成するためには、予備知識が必要です。その予備知識はどのようにして身につけるのか? これは実際に見るのがいちばん良いわけです。ですから、幼いころからどんどん外で遊んだり旅行に連れて行ってもらったりすることはとても大切だと思います。実物を見られない場合は、その映像を見ます。ニュースや、BSの美麗なドキュメンタリーを見る。そうすることで、イメージ化するためのベースとなる視覚イメージの蓄積ができます。そういう観点に立てば、マンガを読むことも、イメージのベースを作る一助となりうるはずです。そういう意味で、マンガにはプラスの面があると考えます。ただし、絵が上手でないとダメですが。今どきの少女マンガは絵が壊滅しているものが多くて、とてもおすすめできませんね。顔のアップばかりです。良いマンガ家というのは、1コマで状況全体の表示ができるようなそんな絵をかける人です。

一方、マイナスの面もあります。マンガを読むときに、いわゆる吹き出しの部分が主たる言語情報になりますが、絵に頼ってすべてを理解しようとするばかりだと、言語情報からイメージを作るトレーニングにはなりません。トレーニングにならないだけならまだしも、そういったイメージ化の作業自体を自分の身に引き受けようとしない、省エネの読み方が癖になってしまう危険もあるかもしれません。

そういった危険性もふまえたうえで、テレビを観ること、映画を観ること、ときにはマンガを読むことも、文章読解の力をつける役に立ちうると言ってもいいのではないかと僕は思っています。ただし、あまり非現実的な設定のものは役に立ちません。常識的なイメージを作る役に立たないからです。

せっかくなので、ひとつだけ、以上のような点をふまえたうえでおすすめできそうなマンガを紹介してみましょう。

藤子不二雄Ⓐ『まんが道』です。

少年の夢、挫折、友情、葛藤という入試に出そうなテーマが満載です。人情の機微がわからない系の子には特に良いかもしれません(^_^)。

なお、念のために書き足しておきますが、小6生は、どんなマンガであれ読んでるバヤイではありません。必死のぱっちで宿題をしてください。

大事なことを忘れていました! 

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現在、そのために日々、粉骨砕身、えーと構想を練っています。

明後日あたり、実際に粉骨して砕身する予定です。トホホ。

2013年2月12日 (火)

四天王は知ってんのう

プレステと並んで売れていたセガサターンというゲーム機のCMで、姿三四郎をもじって、「せがたさんしろう」と名乗り、「セガサターン、シロ!」とさけぶのを「藤岡弘、」(たしか今は最後に読点をつけて芸名としていたような)がやっていましたが、当時でさえ、もとネタを知らない人が多かったのだろうな…と言いつつ、さりげなく続けていきます。

頼光四天王と言えば、「渡辺綱・碓井貞光・卜部季武・坂田公時」で、結構有名です。羅生門の酒呑童子を退治しにいったメンバーですな。渡辺綱は源氏の中でも一字名乗りなので嵯峨源氏、源融の子孫になります。源融は光源氏のモデルの一人とも言われる人で、梅田の太融寺は融ゆかりのお寺だそうですな。綱は羅生門だけでなく、一条戻り橋で鬼の腕を切り落としたとも言われています。そのときの刀が罪人を試し切りしたときに髭まで切れたことから名付けられたという「髭切」です。鬼はそのあと乳母の姿に化けて腕を取り戻しにくるという、有名な話です。相続税が払えないために取り壊しにするとかしないとかで、三国の渡辺邸が去年話題になっていましたが、渡辺綱の子孫の屋敷です。天正十年に死んだ人が建てたとか言っていましたから、信長が死んだ年ですね。大阪落城よりずっと前からあったという、すごい家が結局取り壊されてしまいました。

渡辺綱は「わたなべつな」ではなく、「わたなべのつな」と読みますが、「渡辺」はいわゆる「姓」ではなく、名字なので「の」ははいらないはずです。「源義経」は姓なので「みなもとの」ですし、「平清盛」も「たいらの」です。でも、「足利尊氏」は「あしかがの」ではないし、「徳川家康」も「とくがわの」にはならない。この時代には、まだ名字というほどの感覚はなく、「渡辺の住人」ぐらいの意味だったのでしょうね。今年の洛南入試の集合場所は六孫王神社でした。「六孫王」というのは、源経基のことで、清和天皇の六番目の子貞純親王の息子であり、天皇の孫であるということで、そう呼ばれました。その子が源満仲で、多田満仲とも言います。「ただのみつなか」という人もいますが、私は「ただのまんじゅう」という呼び方が好きです。なにか連想が働いて、いい感じなので。これも川西の多田の住人ということでしょう。でも、碓井貞光は「うすい・さだみつ」、卜部季武は「うらべの・すえたけ」と読みたいので、「の」がはいるかどうかは単なる口調かもしれません。鹿ケ谷の事件で平清盛に密告した多田行綱は満仲の子孫ですが、「ただゆきつな」と読むのが普通です。この時代には名字になっているのでしょうね。でも、これも「多田蔵人行綱」と言うときには「ただのくろうどゆきつな」になりそうな。時代が下がっても、清水次郎長が「しみずのじろちょう」になるのは、明らかに「清水の住人」ですね。豊臣秀吉は「豊臣」という「姓」なので、「とよとみのひでよし」が正しいことになります。豊臣朝臣羽柴藤吉郎秀吉が正式な名乗りで、厳密に言うと羽柴から豊臣に変わったわけではないことになります。でも、まあ普通は「とよとみのひでよし」とは言わんよなあ。「の」問題はなかなか難しいようですが、坂田公時の「坂田」は名字ではなく姓なので、「さかたのきんとき」でOKでしょう。公時は「金時」とも書き、金太郎の成長後の名前です。桃太郎も金太郎も鬼退治をしているのですね。

源義経の四天王として「亀井片岡伊勢駿河」とよく言われますが、亀井六郎、片岡八郎、伊勢三郎、駿河次郎のほかに、佐藤継信、忠信兄弟と鎌田盛政、光政兄弟の組み合わせとか、佐藤兄弟に伊勢三郎、武蔵坊弁慶を加えたものとかいろいろあります。徳川四天王は「酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政」、さらに十二人を加えた徳川十六神将というのもありますな。ものまね四天王と言えば、「コロッケ・清水アキラ・栗田貫一・ビジーフォー」でした。こうして見ると、四天王というのはかなりあります。授業をしていて、「四人のすぐれた人を何と言うか」と聞いても「四天王」は出てきます。ところが「三人のすぐれた人」は出ない。「三羽烏」は死語なのでしょう。「三傑」というのもありますが、こちらは格調が高すぎる。蕭何・張良・韓信は「漢の三傑」、諸葛亮・関羽・張飛は「蜀の三傑」です。日本では、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が「三英傑」と呼ばれますし、「維新三傑」は西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允です。でも、具体的に「三羽烏」と言われても、じつは有名なものはあまりなさそうです。上原謙、佐分利信、佐野周二を「松竹三羽烏」と言いましたが、いまどきだれが知ってる?

では、二人はどうでしょうか。「聯璧」「連璧」というのもありますが、日本語の文脈ではあまり出てこない。でも、「双璧」はよく使います。「松下村塾の双璧」と言われたのは高杉晋作・久坂玄瑞です。二つというのは選びやすいので、織田信長の家来の双璧なら、柴田勝家・丹羽長秀、秀吉の双璧なら竹中半兵衛・黒田官兵衛、ややマイナーなところでは、大友家の双璧が立花道雪・高橋紹運、伊達家の双璧が片倉景綱・伊達成実、ひとむかし前のアイドルの双璧は松田聖子・中森明菜、怪獣の双璧ならゴジラとガメラ、特撮ヒーローの双璧はウルトラマン・仮面ライダー、RPGの双璧はドラゴンクエスト・ファイナルファンタジー、私大の双璧、早稲田と慶應…。では、一人は? これはありません。よく考えたらわざわざ言う必要はないんですね。

逆に多くなると覚えきれません。「賤ヶ岳七本槍」と言われても、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治、うーん、あと二人は? 真田十勇士は言えます。猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊三入道・海野六郎・望月六郎・根津甚八・筧十蔵・穴山小助・由利鎌之助。忍者系二人、坊主系二人、数字のはいったのが六・六・八・十、あとは「助」がつくのが二人です。「こんなん覚えて何になるねん」と言われればたしかにね。でも、昔は歴代天皇を覚えさせられたのです。「じんむ・すいぜい・あんねい・いとく…」というやつで、私は十七、八代目であやふやになります。四代連続なら、だれでも言えます。「明治・大正・昭和・平成」。ただし、「平成天皇」という言い方はまだ存在していないので「今上天皇」と言わないとだめかも…。

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