2013年3月22日 (金)

彼は死んだこと

忠臣蔵は何度も映画化されていますが、東映の忠臣蔵の映画で浅野内匠頭を介錯した武士を演じた人のお子さんが、その昔塾生で来られていました。お子さんをお迎えにくるときのお父さんはさすがに芸能人らしく「カッコイイ」印象でしたが、お話しさせていただくと、実に謙虚な感じで、すばらしいお父さんでした。某野球監督のお子さんも塾生として来られていましたが、本人は実は野球よりサッカーが好きとか言うとりましたな。有名人の子供だけではなく、来ていた本人が将来有名人になるということは十分にありえます。各方面で活躍してくれることを期待していますが、東大に行った教え子の某くん、数学者になって本を出したそうです。『4次元以上の空間がなんちゃらかんちゃら』というトポロジーを扱ったものを私のところに送ってきよりました。そんな意味不明の本を送られて、私はどうしたらよいのでしょう。困ったものです。古本市場に持って行ってたたき売ろうとしたら、表紙の裏に「山下先生へ」という献辞があって売ることができませんでした。残念です。

有名小説家の子供や孫で芸能界で活躍するケースもありますね。芥川比呂志は芥川龍之介の友人菊池寛から名前をもらっています。緒形拳が弁慶をやった大河『源義経』では頼朝をやっていました。『春の坂道』の柳生石舟斎はきっと本人はこんなんやったやろなという感じで、印象に残っています。弟の也寸志は作曲家ですね。森雅之は有島武郎の息子で、黒澤明の映画によく出ていました。坪内ミキ子は坪内逍遙の孫だとか。国木田独歩の孫で国木田アコという人もいました。檀ふみと阿川佐和子はそれぞれ檀一雄、阿川弘之の娘で、いっしょにCMに出たりしていましたな。高見恭子は高見順の娘です。吉行和子は吉行エイスケの娘で、兄が吉行淳之介、妹が吉行理恵、母親のあぐりさんをモデルにしたNHK朝ドラもありました。飯星景子は『仁義なき戦い』の飯干晃一、桐島かれんは桐島洋子の娘だし、山村紅葉が山村美紗の娘であることはあまりにも有名。石原良純は作家の息子と言うべきか、政治家の息子と言うべきか。後者なら小泉孝太郎やDAIGOと同じ範疇になってしまいます。夏目房之介はよくテレビにも出ていましたが、芸能人ではないですね。

こういうのは遺伝なのか、家庭環境なのか。作家は自分の思いを書きことばで表現するわけで、孤独な作業です。一方、俳優は他者になりきって、人前で演じ、他の役者と協力して作り上げていく作業なので、両者はちがうといえばちがいます。でも、なんらかのパフォーマンスという点では同じです。ひょっとしたら、作家は才能さえあれば人前で演じたいという気持ちが心の底にあるのかもしれません。むかしは文士劇というのもありましたし。三島由紀夫でさえ映画に出ています。司馬遼太郎原作で岡田以蔵を勝新太郎が演じたものですが、薩摩の田中新兵衛の役で腹を切り、次の年じっさいに割腹自殺を遂げました。作家の中にも俳優の中にもナルシズムのようなものがあって共通しているのかもしれません。そうであるなら、遺伝子の影響もありそうですが、親の作品が映画化されたりして、芸能界とのつながりがあると、小さいころから、そういう世界に対する関心が生まれる可能性もあります。もしそうなら、環境のせいでしょう。両方の要素が結びついているとも考えられます。

国語ができるかどうかは遺伝子もあるかもしれませんが、家庭環境が大きいような気がします。親が国語的なことに関心があれば、自然に子どもも関心を持つようになりそうです。たとえば、ことば数とか常識に関しては親の影響が強いであろうことは容易に想像できます。ことばのもつ微妙なニュアンスを親が使い分けていれば、子どももだんだん気づいてくるでしょう。「興味」と「関心」はどうちがうか、と言われても説明はなかなかできません。「私は国語に関心がある」と「私は国語に興味がある」は同意でしょう。でも、母親が子どもの成績表を見てカリカリきているのに、父親がのんきにテレビで阪神戦を見ていたら、「あんた、子どものことに関心ないの?」と言うはずです。ここでは「興味」はなんか変です。「興」に「おもしろがる」というニュアンスがあるからでしょう。

最近読んだ小説で、妙に落ち着かない感じのものがありました。話の運びが唐突すぎることもあったのですが、たとえば「大学四年の頃に卒業旅行と称して、五島列島を訪ねたときの話をしてくれた」なんて表現が随所に出てくるんですね。「称して」とわざわざ言っているのだから、ほんとうは卒業旅行ではなかったんだな、と思ってその先を読み進んでも、どう見てもふつうの卒業旅行のようです。「称する」というのは、明らかにうその場合にも使います。「病気と称して休む」のように。うそでない場合は、公然と呼ぶとか名付けて呼ぶというニュアンスです。「元服して義経と称する」のような感じです。だから、わざわざ「卒業旅行と称して」と表現したからには、なにか裏があると思わざるをえない。にもかかわらず、そうではないから肩すかしを食ってしまい、読むリズムがこわされるのでしょう。

プロの作家でもそういうことがあるのですから、ふつうの人が「心配」と「不安」の区別がつかなくても、「しかし」と「ところが」のちがいが説明できなくてもしかたがありません。でも、国語の問題で「彼は死んだこと」という形で答えたら、なんか変だなと思う感覚はあるでしょう。「彼が死んだこと」か「彼は死んだということ」ならよいのですね。「彼が言ったこと」と「彼が言ったということ」とでは微妙なちがいがあることに気づけるかどうかです。「こと」を「事実」と解釈すれば、どちらも同意ですが、「こと」を「内容」と解釈することもできることに思いが及べば、書き分けようとするはずです。「説得すること」と「説得させること」では主体が明らかに変わるのに、そういうことをまったく気にしないで書く子どもがいます。その言い方はおかしいよ、と言ってくれる人がいるかどうか、というのは国語の力にかなり大きな影響を与えているような気がします。ことばだけでなく、人は悲しいから泣くとは限らないというような、数学的な論理とはちがう論理が人間にはあるといったようなことも家庭で身につけていく要素が大きいでしょう。もちろん子ども本人が、好奇心とかおもしろがる心を持てるかどうかにもかかわってきますが。

2013年3月15日 (金)

山で聴く音楽

学生のころは、映画や本(マンガふくむ)や音楽の話を友人とよくしたものですが、最近はそういうこともめっきりなくなりました。

だいたい話が合わないですね。

特に音楽はもうほとんど無理ですね。さがせば話の合う人が希学園内にもひょっとするといるのかもしれませんが、可能性は低そうです。仕方がないので、こんなところに八つ当たりのように書いてみる僕なのであった。人の好きな音楽の話なんて、聞いたっておもしろくもなんともないもので、その点夢の話と似ていますよね。それはわかってるんですが、まあ、それはそれとして、たまにはというか、どうせいつもたいした話は書いてないわけだし、べつにいいか、みたいな。

小学生のときには家にクラシック中心のレコード全集があって、今考えてもけっこう節操のない感じのアンソロジーでしたが、それをちょいちょい聴いてました。当時好きだったのはブラームスの『ハンガリー舞曲第五番』。小学生にしてはなかなか良い趣味していますね。ブラームスは今じゃ『ドイツ・レクイエム』が好きですね。荘厳でかっこいいです。映画音楽全集みたいなのもあって、『ある愛の詩』とか『禁じられた遊び』とか聴いてじぃんとしていました。映画は観たことありませんでしたが。好きな音楽を自分で見つけてくる才覚とか強い好奇心はまだなかったので、適当に家にある音楽を聴いていただけですが、今考えてもおかしいのは、なぜかよく『うちの女房にゃ髭がある』という曲を聴いてたことですね。聴くだけでなく歌ってました。「ぱぴぷぺぱぴぷぺぱぴぷぺぽーうちの女房にゃ髭があるぅ」なんて歌いながら歩いていました。変な小学生ですね。

音楽を自覚的に聴き始める、というと大げさですが、いろいろ興味をもって音楽を渉猟しはじめたのは高校生のときです。YMOブームが去ったあとで、なぜかYMOを聴きはじめ、そうすると、いろいろつながっていくんですね。クラフトワーク聴いたり、RCサクセションとかムーンライダーズとか。矢野顕子とか。

阪急茨木駅前に「親指ピアノ」という熱いレンタルレコード店があって、コムデギャルソンみたいな黒ずくめのニューウェイブ系のおねえさんがよく店番をしていましたが、はやっている音楽とか売れているレコードとか関係なく、店員のお気に入りをひたすらプッシュしてました。当然、洋楽、それもパンク・ニューウェイブ系が主で、そこでエルビス・コステロとかシスターズオブマーシーとか、クリスチャン・デスとか、日本のバンドだとローザ・ルクセンブルグとか借りて聴いたんじゃなかったかなと思います。もはや誰も知らないバンドオブアウトサイダーとか、スーイサイドツインズとか。フラ・リッポ・リッピはまだ知っている人もいるかもしれませんね。数少ないこのブログの読者のなかにいらっしゃるとは到底思えませんが。

研究室の先輩に洋物のポップス大好きな人がいて、この人の情報も貴重でした。スラップハッピー、レッドボックス、ジョン・レンボーン・グループ、プレファブ・スプラウトといったあたりはこの先輩に教えてもらって聴きはじめました。

寮の友人からの情報も有益でした。ひたすらプログレが大好きなやつ、クラシック専門のやつ(と言いつつ、なぜかおニャン子クラブだけは聴く)、中島みゆきラブな人とかいました。中島みゆきは最近のものは全然聴いていませんが、昔の『キツネ狩りの歌』とか『蕎麦屋』とか『傾斜』とか、歌詞が凄かったですね。『傾斜』というのは腰の曲がったおばあさんのことを歌ったものですが、「息子が彼女に邪険にするのは、きっと彼女が女房に似ているのだろう」っていう部分に、「そんな歌詞ありか!」とひっくり返るぐらいびっくりしました。他に歌詞が良かったのはムーンライダーズとかRCですかね。こういうのも歌詞になるし、こういうのも歌えるよって、歌詞の世界を広げてくれました。「検死官と市役所は君が死んだなんて言うのさ」(『ヒッピーに捧ぐ』)なんて今聴いても感涙ものです。ムーンライダーズの歌詞はじつに多彩で、わりと最近(と言ってもかなり前ですが)メンバーの一人がハイジャックに遭ったときのことを歌詞にしていて、そのなかの「年老いたハイジャッカー、今日こそ輝いていたいんだろう」という一節を聴いたときは、面目躍如というか、さすがだなと思いました。いまどきのJポップスの歌詞なんて聴くに堪えませんよ。似たようなフレーズの切り貼りだらけです。え、言い過ぎですか。そうですね。なかには良いものもあったような気もします。でも、ある限定された層(たとえば二十代前後の女性とか)の共感が得られるだけの、その層に特有のある種の気分をすくい取っただけの歌詞は物足りないと思っちゃうんです。そういうのが無意味ということではなくて、それだけで終わっちゃったらつまんないという感じです。でも、そんなのばっかりでしょ? え、やっぱり言い過ぎですか。そうですね。そんなのばっかりじゃありません!

もうひとつ、あまり聴かないというか、ダメなのはジャズです。それでも大学時代は少しは聴きました。ありがちですが、コルトレーンとかソニー・ロリンズとか。でもなんだかダメになっちゃいました。ずっと前にも書いたような気がしますが、ガトー・バルビエリぐらいですかね。日本だと清水靖晃。

ああ、なんだかもう、だれも読んでくれていない気がする・・・。

クラシックも少しは聴きます。宗教曲が多いです、クリスチャンというわけではありませんが。これも前に少し書いた記憶がありますね。好きな宗教曲ばかり集めてプレイリストをつくり、うだるような猛暑の炎天下、マタイ受難曲やらレクイエムやら聴きながら歩いていると、あやしうこそものぐるほしけれというかなんというか頭がくらくらしてきて素敵です。

先日、京都の鳥辺野あたりをグレゴリオ聖歌聴きながらぶらぶらしてみましたが、もうほんとうに頭がぽーっとなってすごく良かったです。異界にトリップしかかっているような変な感じでした。次はパレストリーナ聴きながら蓮台野周辺を歩いてみよう。京都の方以外にはよくわからない地名だったかもしれませんね。鳥辺野(鳥部野、鳥戸野)も蓮台野も、簡単にいうと、昔の風葬場、ありていにいえば、死体が遺棄されていた場所です。京都はおもしろいです、ほんと。

音楽の話にもどります。もっとも好きなのは、にぎやかなアップテンポの曲であれ、静かな曲であれ、やっぱりドライブ感といいますか、どこかに連れて行かれるような感じのする曲です。僕が永遠に宇宙一好きなシベリアン・ニュースペーパーも、聴いてると、とんでもなく遠いところに連れて行ってくれる感じがあります。まさに彼らの曲のタイトルにあるとおり『世界の果てに連れ去られ』ですね。単調な曲のようでも、実はそういう感覚をあたえてくれるという曲はたくさんあります。スティーブ・ライヒの『18人の音楽家のための音楽』やグレツキの『シンフォニー№3』なんて特にそうですね。

まあ、音楽の趣味なんて人それぞれですし、音楽との出会い方も人それぞれなわけですが、どうもよくわからないのは、今売れているものを聴くっていう聴き方ですよね。CD屋さんに売れ筋情報が必ずありますけど、あれは、それをもとにして買う人がたくさんいるから出してるんですよね。不思議。ジャケ買いはよくしましたが、売れ筋情報を参考にしたことはまったくないなあ。僕の好きなシオランが(この人は音楽家ではありません、文筆家です)、自分の好きな音楽について知られることは自分のもっとも深い内面を知られるのに等しい感じがする、といったようなことを書いていたけれど(例によってあやふや)、音楽に対するそういう感受性って今も生きてるんでしょうか。売れ筋情報をもとにCDを買い音楽を聴く人とは無縁の感受性だって気がします。コマーシャルでCDの宣伝をしているのを見たときは、ものすごくびっくりしましたが、びっくりする僕の頭がかたいんでしょうね、きっと。でもやっぱり気持ち悪いなあ。ふと耳にした曲が心に残っていて・・・というのとは少しちがう気がします。ただ、ショップの視聴コーナーで出会った音楽も少しはありますね。パンク・ニューウェイブとボサノバの美しき融合、アート・リンゼイがそうでした。

いずれにせよ、最近はあたらしい音楽にふれることが少なくなりました。好きな音楽を貪欲にさがすということがめっきりなくなりました。数年に一度突然火がついてしまうことはありますけど。シベリアン・ニュースペーパー以外のCDを買ったのって、もう2年前だったような。穂高岳山荘のテント場で雨にふられ一日中寝袋の中でごろごろしていたときに、ラジオで聴いたヒリヤードアンサンブルの合唱があまりにも山の雰囲気にぴったりで、下界にもどってからさっそく買いに行きました。昨年、剱に登って、おりて、五色ヶ原まで歩いたときにはこれとシベリアン・ニュースペーパーをずっと聴きながら歩いていました(そしてツキノワグマにばったり出会ってしまい、絶叫しながら遁走するのであった)。

なんだかまとまりがなくってすみません。どう終わったらいいのかわかんなくなったので、とりあえず一言叫んでしめくくることにします。

音楽ばんざい!

2013年3月 8日 (金)

AKO47

清水次郎長という名前が出てきましたが、この人が死んだのは明治の中頃で、晩年はベッドで寝てたとか。徳川慶喜だって、死んだのは大正の初めですから、江戸時代というのは遠い昔ではありません。一時期、次郎長の養子になっていたのが天田愚庵という人で、正岡子規にも影響を与えた歌人です。次郎長一家には二十八人衆という子分がいたそうで、大政・小政・大瀬の半五郎・法印の大五郎・増川仙右衛門・桶屋の鬼吉・追分の三五郎、この辺までは名前が出てきます。というと、広沢虎造(知らんやろな)に怒られます。忘れちゃいませんか、森の石松がいました。その他は、と聞くと虎造みずから、「あとは一山いくらのがりがり亡者だい」と言っています。しかし吉良の仁吉という人がいて、これも二十八人衆の一人です。この仁吉の血をひくという設定の吉良常という男が出てくるのが、尾崎士郎の『人生劇場』ですが、もうその辺の本屋には置いてないのかなあ。高校生のときに、絵も何もかいてない黄色い表紙の新潮文庫で読みました。なになに篇とか名前がついて十冊ぐらいに分かれていましたが、五木寛之の『青春の門』はこのパロディかなと思っていました。同じ早稲田の後輩だし、「やっちゃん」の出てくる青春小説という点では同じでしたね。

四十七士となるとさすがに覚える気もなく、大石内蔵助・大石主税、堀部安兵衛、以下省略。とはいうものの、よく考えたら何人かはパラパラと出てきます。たとえば大高源五。俳諧をやっていて、宝井其角とも交流がありました。其角は芭蕉の弟子としてはトップで、芭蕉がライバルと目していた井原西鶴とも付き合いのあった大物です。討ち入り前夜、両国橋のたもとで出会ったときに、「西国へ仕官することになった」と言う源五に、「年の瀬や水の流れと人の身は」と其角が詠みかけると、「あした待たるるその宝船」と付けて、仇討ち決行の真意を知るという有名な話があります。

四十七の上を行くAKB48は何人いるのでしょう。48人ではなく、はじめは半分ぐらいだったそうですが、今はどれだけ? 「AKO47」という新作落語を月亭八方がやっていました。47対1で討ち入りをするのは卑怯なのでセンターを決める選挙を行うという、ばかばかしい設定で、あまりの安易さに結構笑えます。でも、いまの子は当然、赤穂浪士を知らないんですね。私も歌舞伎の大序、鶴ヶ岡社前の場をはじめて見たときに、なるほどねと思いました。口上人形が出てきて配役を紹介するところから、「とーざいー」「とーざいー」という声が聞こえて、柝の音がはいるにつれて幕がしだいに開いても、ずらりと並んだ役者たちはみんな顔を伏せており、役の名を呼ばれてはじめて少しずつ顔を上げていくのですね。人形に魂がはいった、という設定で人形浄瑠璃の名残です。
『仮名手本忠臣蔵』のネーミングもなかなか凝っていて、四十七士をいろは四十七字にかけて「仮名手本」、当然「手本」というのにも、いろはの書き方を習う手本と武士の手本がかけられています。で、さらに「忠臣大石内蔵助」を縮めて「忠臣蔵」、金持ちの蔵はいくつもあるので、いろはの番号をふっていたことをふまえると、前半の「仮名手本」ともつながります。蔵いっぱいにもなるほど多くの忠臣が出てくるというニュアンスもあるでしょう。強引な説としては、塩谷判官が高師直に斬りかかったとき、後ろから抱き止めたのが加古川本蔵という人、この人こそが本当の忠臣だということを、「本蔵」の間に「忠臣」をはさんで暗示したという説さえあります。

実際に斬りかかったのは浅野内匠頭長矩ですが、芝居では塩冶判官高貞になります。塩冶高貞は実在の人物で、『太平記』には、足利尊氏の執事の高師直が塩冶高貞の奥さんに一目惚れをして、恋文を書こうとしたというエピソードが載っています。レベルの高いラブレターを書きたかったのでしょう、都で最もすぐれた名文家をさがせと命じて、連れて来られたのがなんと吉田兼好。ところが、兼好の書いたものを読みもせず、奥さんは手紙を捨ててしまいます。逆上した高師直の讒言によって塩冶高貞は謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれた、ということになっています。芝居では、この話と強引に結びつけて、浅野内匠頭を塩冶高貞にするのですが、「塩冶」は赤穂藩の名産「赤穂の塩」にひっかけていますし、相手側の吉良上野介が高師直になるのは、吉良家が幕府では礼儀作法を教える役目をしており、そういう家を「高家」と呼んでいることとも結びつきます。

実際に起こった事件をそのまま描くと幕政批判と見られかねないので、鎌倉時代などに仮託して描いて、実名を避けたのですね。そのために大石内蔵助も大星由良之助という名前になっています。すぐわかるのですが、一応言い訳にはなります。「織田信長って言うたやろ」と責められたときに、いいえ「小田春永」です。羽柴秀吉か、いいえ真柴久吉です。明智光秀やろ、いいえ武智光秀です。…ばればれです。むかしのインチキ興行で「美空ひばり来る」と看板にあるので見に行ったら「美空いばり」やった、とか「五木ひろし」と思うたら「玉木ひろし」やったとか、「エノケン」と思うたら「エノケソ」やったとかいうのと同じです。榎本健一を略して「エノケン」なのに、「エノケソ」は何の略でしょう。「えのもとけそいち」?

ほかにも加藤清正が佐藤正清になるような、みえみえパターンもありますが、ちょっとわかりにくいのもあります。徳川家康は北条時政になりますし、真田昌幸は佐々木高綱になります。伊達騒動という、仙台藩伊達家で起こったお家騒動があります。悪役とされる原田甲斐を新たな角度から見直したのが山本周五郎の『樅の木は残った』です。読みやすい周五郎作品の中では『ながい坂』と並んで、すらすら読めない作品でした。この原田甲斐が芝居の『伽羅先代萩』では「仁木弾正」となって妖術使いという設定です。仁木氏は高師直が死んだあと、足利家の執事になります。執事はのちの管領につながる役職なので相当の権力を持っています。ところが、大老の酒井雅楽頭は山名宗全、老中の板倉内膳正は細川勝元という名になっています。つまり応仁の乱のころの設定ですが、そのころの仁木氏は見る影もない、しょぼい一族になっているので、仁木弾正というのは架空の人物でしょうね。松永弾正のイメージか、「弾正」という名は悪人っぽいなあ。

2013年3月 1日 (金)

勉強の敵、マンガについて②

※四条烏丸教室Mさんのお母さん、励ましのお言葉ありがとうございます! 「もうやめろ」と生卵を投げつけられないかぎり、ブログ続けます!!

◇◆◇

さて。

前回少年マンガについて熱く語っているうちに私のハートに火が点いてしまいました。

今回は、少女マンガについて熱く語ってもいいでしょうか! いや、ぜひ語らせていただきたい!

ということで、本日は、かつて少女だったすべての方にお送りしたいと思います。趣味が合うかどうかは別にして。

森脇真末味さんというとても絵の上手い少女マンガ家がいらっしゃって、僕の姉がアシスタントをしていたことがあるんです。で、僕が高校生のときに、姉から、自分も手伝った作品が今度『プチフラワー』(だったかな?)に掲載されるから読むように、というお達しがあって、それがたぶん少女マンガの読み始めだったと思います。

少女マンガ全盛といいますか、黄金時代でした。『プチフラワー』とか『ぶ~け』とか。『LaLa』とか『花とゆめ』なんてのもありましたね。『別マ』とかね。今もあるんですか? よく知らないのですが。

森脇さんはほんとうに絵が上手でした。人物のかき分けがすごいんです。タイプのまったく異なるかっこいい(必ずしも美形ではない、美形ではないが男くさくてかっこいい、なんてのもいる)男が何種類も何種類も描けるんですよ。そんな少女マンガ家いないと思うんですけど。顔も、体格も、服装の趣味もかき分けます。そして、そのすべてが登場人物の性格や生い立ちをきちんと反映しています。『ブルームーン』というシリーズでは、顔はそっくりだが性格がまったくちがうイケメンの双子を描き分けていました。表情で描き分けるんです。すごかったなあ。インターネットで森脇ファンの方が、「背の高い男」の体格を、がっちり系、ほっそり系、着やせするけど意外とたくましい系など何種類にもかき分けていた、と激賞されていましたが、まったくそのとおり。とにかくかっこいい男のキャラクターを造型させたら右に出る者がいなかった、もう長くマンガを描いていらっしゃいませんが、少なくともこの点ではいまだに彼女を超える人はいないんじゃないかと思います。話としては結構痛ましいものが多かったですけれど。

実は、姉のツテで、ファンレターを送ったことがあるんです。年賀状をお返事にいただいて感激しました~。キラー・カン※の色紙とならぶ僕の宝物です。

※キラー・カンは辮髪の悪役プロレスラー。得意技はモンゴリアン・チョップ(モンゴル人は辮髪ではなかった気がするが)。ニードロップでアンドレ・ザ・ジャイアントの足を折ったということで有名になった(事実はちょっとちがうらしい)。先輩に、キラー・カンが経営する「スナックカンちゃん」へ連れて行ってもらったことがあり、そこで色紙をもらいました。キラー・カンとならんで写真にうつっているのが自慢。

さて、絵がすごいということでいうと、森脇さんとは全然雰囲気がちがいますが、内田善美さん。主人公の大学生が、生命の宿った日本人形の女の子と暮らす『草迷宮・草空間』、夢のなかで幽霊になる男の話『星の時計のLiddell』である種の頂点をきわめた観がありました。なかなか単行本が出ない! 凝る人だから絵を描きなおしてるんだろうなあ、はやく出ないかなあ、と友だちと話していた覚えがあります。僕は『空の色ににている』という話が好きでした。これは、ぶ~け全盛期のぶ~けコミックスのなかでも白眉だったと思います。観念とか思いとかいったものと物理的な存在とのあいだの、あるいは、ただの物と生命とのあいだのゆらぎを絵とストーリーで表現していくところに、スリリングなおもしろさがあったように思います。

内田つながりで、内田美奈子さん(内田春菊にいくと思われた方もいるかもしれませんが、ちがうんです)。『赤々丸』がおもしろかった! まじめな優等生の生徒会長白井くんが、未来にタイムスリップしてしまう話です。しかし、タイムスリップした白井くんは記憶を失っており、しかもなぜか二人に分裂してしまっています。ひとりは、まじめな白井くんをさらにガチガチにした「白々丸」、もう一人は、うんとワルくなった「赤々丸」です。未来の世界では、宇宙からやって来た、ネコにそっくりの宇宙人であるネコ族の人々が、地球人の差別に耐えかねて反乱を起こします。そのネコ族対地球人の対立に二人がからんでいくという話です。白々丸や赤々丸にからんでくるネコ族のキャラがおもしろくて。昔よくテキストの例文などで「ねこ丸」という名前を使いましたが、実はこの『赤々丸』に、「猫 猫丸」という名前の子が出てくるんですね。そこからとったんです。

もう昔のことなので例によって記憶があいまいですが、高校生から大学の教養課程にかけて他によく読んでたのは、まず小椋冬美さん、それから岩館真理子さん。おお、こんなデリケートな感性の世界があったのか! と粗雑な人間性が売りだった僕はとてもびっくりし、かつ、うっとりしました。男の子でもとっつきやすかったのは、川原泉さんとか松苗あけみさんじゃないですかね。川原泉さんはなかなか異彩をはなっていました。『ゲートボール殺人事件』とか『甲子園の空に笑え!』とか、他の少女マンガとはちがう雰囲気でおもしろかったです。松苗さんは、生き生きとしたキャラがたくさん出てきて、ドタバタしていて、テンポがよくて、ちょっと高橋留美子さんに似ているような気がします。『純情クレイジーフルーツ』とか読んで、女の子ってこんなふうに思うんだね~、わしらとは全然ちがうのう、なんて勉強していました。

少年マンガのテーマが『たたかい』だとしたら、少女マンガの主要テーマはやはり『恋愛』でしょうか。それこそ、川原泉さんなんてあまりそういう要素が強くなかったし、いちがいにそうとは言いきれないものの、ポップスの世界と同じで、やはり定番は『恋愛』ですよね。恋愛マンガの王道だと僕が思っていたのは、なんといっても、くらもちふさこさんであります。とにかくストーリー作りがうまいです。『たたかい』は、どう勝つかが見せ所になりますが、『恋愛』もやはりどう障害を乗りこえるかが見せ所で、もっと言うと、どんな障害を設定するかによっておもしろさが変わります。ロミオとジュリエットであれば、家同士の対立というのが障害でした。

しかし、そんな古風な障害では、現代の若者にはリアリティーがない。多いのは、自分の相手に対する評価(あるいは相手の自分に対する評価)が最も大きな障害になっているというパターンですね。その障害が乗りこえられる、というか、障害でなくなっていく過程がおもしろいです。簡単にいうと、いやなやつだと思っていたら、意外といいところを発見してしまい・・・・・・的なパターンですね。その「発見」をどう見せるか、そこが勝負です。雨の降る公園で捨て猫を抱き上げているのを目撃、なんてのではダメだちゅうことです。

いろいろ変わった障害を設定してくれたのは川原泉さんですね。恋愛というところまでいかないんですが、でもはじめに障害ありきです。たとえば、笑ったり泣いたりするとどこからともなく花が出現してしまう女の子、というのがありました。この突拍子もない設定自体が少女マンガに対するパロディーになっているわけですが(少女マンガの背景って意味もなく花が咲き乱れていることが多かったですからね)、それが物語においてひとつの障害として機能しています。具体的にいうと、その女の子は気味悪がられるのが怖いので、親しい人の前以外笑わないようにしているわけです。それで、彼女の家庭教師をしている大学生の男の子は、自分はきらわれているのではないだろうかと悩み、必死で彼女の前でギャグを連発します。しかし、彼女は決して笑わずむすっとしているわけです。これが障害です。なかなかおもしろそうでしょ?

しかし、少女マンガにおける恋愛モノで僕が個人的にいちばん好きだったのは、王道中の王道でありますが、やはりくらもちふさこさんです。そのなかでも私は『Kiss+πr²』を強く推したい!

どうなんでしょう? やはりくらもちふさこ作品で有名なのは、『いつもポケットにショパン』とか『アンコールが3回』とか『天然コケッコー』とかなんでしょうか。うんうん、たしかにどれもおもしろいね。

しかし、やはり『Kiss+πr²』が僕にとってはいちばんですね。たぶん、僕が男だからでしょうね。というのも、この作品は、主人公が高校生の男の子で、しかも男同士の友情が、少女マンガにはありえないほど上手く描かれているんです。

さあ、あてにならない記憶を頼りにどんな話だったか復元してみましょう。

主人公の男の子は、幼いころに母が家出をしたという過去を持っており、現在はアルバイトをしながらひとりで暮らしています。将来はロックミュージック系のライターになりたいという夢がありますが、クラスのなかでもわりと目立たない、大人しい男子です。自分は基本的に運の悪い人間だと思っていますが、かといってそれを不満に思うのでもなく、ただ淡々と毎日を送っているような、今でいう草食系の男子です。それがひとつ年上の「葵さん」という女の子に好かれたことから運命が変わっていきます。主人公にとって「葵さん」は幸運の女神だったわけですが、その「葵さん」に対する主人公の見方の変わっていくところが、すごく良かった。単に幸運をくれるからというだけではなく惹かれていく、その感じがとてもよく描けていたように思います。

たとえば、「葵さん」の家におよばれしたときに、「葵さん」の家族がみんな主人公にぶしつけなくらい興味しんしんの態度をとりますが、主人公は、戸惑いながらも「葵さんがふだん自分のことをどんなふうに家族に語ってくれているのかわかる」と感じます。また、お好み焼きか何かごちそうになるんですが、「葵さん」のお母さんがこれをつけるとおいしいよと言って出してくれたマヨネーズについても、マヨネーズなんて自分も持っているけどと思いつつ、言われたとおりにマヨネーズをつけて(あれ? ほんとうにすごくおいしくなる)と感じます。そして、「これをつけるとおいしいよ」という、その言葉こそが大きかったんだと気づきます。

人を好きになる過程をこんなにもさりげなくというか遠回しにというかいろんなクッションを利用してつつましく描いているのがすごいなあと。

そして男の友人。ひとりは古くからの友人の「青沼」。高校生なのに、すでに体型は中年で、黒縁の眼鏡をしていて、ゲームが好きなオタクっぽい子です。もう完全にもてない系ですね。もうひとり、新しく友だちになる「ポパイ」。「青沼」とは対照的にわりと美形です。ヘアスタイルもソバージュみたいにしていておしゃれです。ただし、やはりこの人もオタク系です。「怪談オタク」で、すぐに百物語をしたがる子です。男同士の友情にもきちんと嫉妬がうまれることなど、よくわかっていてリアルに描けていたと思います。

卒塾生で興味のある方はぜひ一読してみてください。いま書店で入手できるのかどうかは知りませんが。もし、入手できないがどうしても読みたいという方がいらっしゃればお貸ししますぜ。・・・・・・家捜しすれば見つかるはずなので。

少女マンガについて語ると言いつつ、きわめて偏った話しかしていませんが、どうしても一度『Kiss+πr²』について語りたかったという、実はそれだけだったのです。しかし、いざ語りはじめてみると、意外と細かいところをおぼえておらず・・・・・・うう。

失礼しました。

◇◆◇

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2013年2月20日 (水)

勉強の敵、マンガについて

新年度がはじまってはやくも三週間がたとうとしていますね。

3月には合格祝賀会も行われます。

『Royal Nozomi Theatre』の座付き作者M.Yamashitaに合格祝賀会の劇は今年は何をやるんですかと訊くと、あの大ヒットアニメを下敷きにするということでした。海賊が主人公のやつですね。

フランスあたりだと、忍者が主人公の『ナルト』の方が人気があるそうですね。やはり忍者モノは堅いということでしょうか。しかし、僕にとって忍者といえば白土三平の「サスケ」「カムイ」なので、「ナルト」はなんだかなあ。あれが忍者?って感じです。日本史の教授も『サスケ』は良いと言ってましたよ。「中世特有の暗い雰囲気がよく出とる」。ちなみに『サスケ』のラストはご存じですか? めちゃくちゃ暗いんですよ。いや、サスケが死ぬわけではないんですが、なんともいえず痛切な気持ちになるラストでした。

さて。

僕が少年マンガを読んでいたのは大学生のときまでで、あとはほとんど読まなくなりましたが、たまにテレビで『●ンピース』や『ナルト』をなんとなはなしに見ていることはあります(最初から最後まで見る気にはさすがになれませんが)。そうすると、これは確かに少年マンガの王道であって、高校生ぐらいまでの子どもが見るのはよくわかるなあとは思うけれど、けっこうな大人がはまっているという話をきくと不思議です。

昔、『サルでもかけるマンガ教室』のなかで、少年マンガというのは結局「たたかい」をどう描くかにつきるのだと書かれていました。問題はその「たたかい」をどう描くかというところで、そこに作者の力量が出るわけです。僕がいちばんダメだなあと思うのは、「火事場のくそ力」パターン。敵にやられてやられて危機に陥った主人公がそこで「ぬおーっ」なんて叫んで「負けるわけにはいかねえんだ」などと吠えると、なぜか突然妙ちきりんな力が湧いてきて、敵を倒してしまうというパターンです。説得力がないでしょ? だったらはじめから「ぬおーっ」と言え、「ぬおーっ」と。『ワンピー●』はこれですね。本宮ひろしの『男一匹ガキ大将』なんかもそんな感じでした。でも、本宮ひろしのえらいところは、『硬派銀次郎』は最後にケンカに負けるんですよね。負けることで、はじめて大人になるんです。そういうことをかけるところが、本宮ひろしの天才的なところでした。一瞬の輝きでしたけど。

もうひとつありがちなのは、「特訓」ですね。これも『サルまん』に書かれていました。『ナルト』はこっちですね。がんばって特訓して勝利をおさめます。少なくとも勝つ根拠は示されているわけです。ただ、たたかい→敗北→特訓→勝利というプロセスをひたすらくり返すかたちになるので、飽きますし、いわゆる「ライバルのインフレ現象」を起こしやすくなります。『侍ジャイアンツ』なんて典型的なこれでした。特訓しては魔球を開発する、のくり返しです。ハイジャンプ魔球、エビぞりハイジャンプ、大回転魔球、分身魔球などなど、最後にはエビぞりハイジャンプ大回転分身魔球みたいなよくわからないワザを繰り出していましたが、さすがに当時の小学生のあいだでも、「あれってボークじゃね?」などという疑問が口にされていました。『ドラゴンボール』もそうでした。はじめはのほほんとした宝探し的なお話だったのに、とちゅうからはひたすら特訓してはたたかう話になっちゃいましたね。ああなるとつまんないです。ジャンプ系はどうしてもそうなりやすいようですね。『キン肉マン』だって、はじめはとにかく肩の力の抜けたギャグマンガでした。「屁のつっぱりはいらんですよ」という何が言いたいのかよくわからないギャグもよかった。それが、とちゅうから友情とたたかいのマンガになっちゃって。ただ、ジャンプはデザイン的な点で優れているマンガが多い気がします。『ストップ!! ひばりくん!』以来の伝統ですかね。鳥山明の絵も1コマ1コマがそのままイラストになりそうなぐらい美麗ですよね。『ワンピース』もその伝統を感じさせます。キャラクターが魅力的なのも人気の秘密でしょうね。はじめ、『ルパン三世』みたいだなと思いました。刀持ったやつと黒スーツのやつがいて。でも「たたかい」の描き方はいけてないと思います。 

必殺パターンは他にもあります。「覚醒」です。主人公は特に努力しないのですが、危機に陥ると突然「覚醒」し強くなってしまいます。なぜそんなに都合良く覚醒できるのか? その解答が「血統」です。主人公はなぜ敵に勝てたのか? こたえ:血統がいいから。というパターンです。そんなバカな!と思われるかもしれませんが、このパターンは実は多くて侮れないです。マンガではありませんが、ハリーポッターってこれですよね。『セーラームーン』も『プリキュア』もこれに近い。前世からの因縁というのも「血統」の一種といっていいですね。『仮面ライダー』の覚醒はたまたま変身ベルトを手に入れてしまうことによって起こることが多いみたいです。オーズは典型的にそうでした。主人公はプータローでしたもんね。まあ、内面に焦点が合わせられていてべつのおもしろさを追求していましたけど。『ナルト』は「血統」を前提とした「特訓」パターンと言っていいかもしれません。

この「血統」のバリエーションといえるのが、「家元」パターンです。「家元」という言い方はあまり適切ではありませんが、たとえば『北斗の拳』です。ケンシロウはなぜ勝つのか? 一子相伝の北斗神拳の正統だからです。『修羅の門』もこのパターンですね。なぜ主人公(名前は忘れました)は勝つのか? 陸奥円明流(だったっけ?)の継承者だからです。だから、陸奥円明流の分家にあたる不破円明流の継承者とたたかったときにも、最後には、陸奥円明流だけに伝わるヘンテコなというか反則な感じの必殺技を繰り出して勝利を収めてしまいます。

結局、これらのパターンに頼って「たたかい」が描かれてしまうのは、そういった勝利の理由付けが読者に対して説得力を持っていると、作者あるいは編集者が信じているからなんでしょうね。そして実際にそれでおもしろいと感じてくれる読者が多いからでしょうね。だから、冒頭に書いたように、子どもがおもしろがるのはわかるし、そもそも子ども対象だからってことで割り切れば文句なんかありません。ただ、なんで大人がおもしろがるかな~と思うだけです。少なくとも僕はつまんない。

この点、革命的だったのが最近大人気の『ジョジョの奇妙な冒険』ですね! 大学時代一緒に暮らしていた友人が荒木飛呂彦さんの大ファンだったので、連載一回めから週刊誌で読みました。『ジョジョ』も第1部は「特訓」あり「火事場のくそ力」ありで、少年マンガの王道をいってたわけですが、第2部あたりから様子が変わってきます。第2部の主人公はまだ特訓もしますし、血筋もいいのですが、それは勝利の主たる要因とはなりません。巧みな話術とはったりの上手さで危機をしのぎ勝ちをおさめるのです。これは新しかった。第3部にいたっては、特訓もなくなります。代わりにその後、「進化する悪役」というきわめて斬新な、衝撃的なアイデアが出現します。悪役なのに努力するんです。悪役なのに「恐怖を克服しなければならない」などと考えて誠実に努力し成長しちゃうんです。そんなのありか?と思いました。ではそんな人間的にも超一流の(?)悪役に主人公はどうやって勝利するのか? 基本的には「工夫」です。知恵をしぼって工夫して勝ちをおさめるのです。作者は苦しいだろうなあと思います。ハードルが高いでしょう? 「ぬおーっ」と唸って、「仲間がなんたらかんたら」と叫べば勝てるなんて簡単な筋立てじゃないんです。ほんとうによくがんばっているなあと思います。

たたかいのドラマは悪役が魅力的じゃないとつまらないですよね。かっこいい敵役といえば『ガンダム』の「シャア」が頂点になるんでしょうか。僕はあまり知らないのですが。その点、『ジョジョ』の努力する悪役、というのは実に良い目のつけどころでした。『バビル2世』の悪役ヨミもなかなか魅力的でした。あと一歩でバビル2世を倒せるというところまで追いつめておきながら、部下を守るために撤退する場面があって、横山光輝ってすげえな!と感心したものです。そうですよね、そんな上司でなかったら、部下が命がけでついてくるはずがありません。その点、悪の描き方にはまだまだ開発の余地がありそうです。

などと、少年マンガについて熱く語っておきながらこんなことを言うのはなんですが、やはり、「マンガ」と「勉強」は両立するか?という問題について考察せねばなりますまい。ここでは、歴史マンガやことわざマンガなど、蘊蓄系マンガは考察の対象から外します。

文章読解の力をつけるうえで、マンガはプラスかマイナスか?

プラスであるにせよマイナスであるにせよ、文章読解にマンガが影響するとすれば、『イメージ化』の領域のはずです。

読解問題を解く、というのは、本来、【文章を読む】→【頭のなかにイメージを作る】→【イメージを言語化する】という過程のはずです。イメージを作らずに、文章をよく理解できないまま本文中の表現を加工して答えを作る場合(作れる場合)もありますが、そういう機械的な編集作業では答えられない問題も入試では多多出題されます。いわゆる難関と呼ばれる学校ほど、そういう良問を用意してきます。今年の灘中学校2日目の詩の問題なんてその典型です。ですから、今年から新しくなった希学園の小4カリキュラムでは、この「イメージ化」が1年間の中心課題の一つとして前面に据えられています。

さて、子どもたちが「イメージ化」に取り組むときの最大の難点は、さまざまな文章で描かれている情景や状況等についての知識が十分でないということです。海を知らない人に、言葉だけを用いて海がどういうものかイメージさせることがどれだけ難しいか想像してみてください。子どもたちはそういうポジションに置かれているわけです。

僕が「イメージ化」というときの「イメージ」とは、視覚的なイメージに限りません。音声イメージや空気感など、心的に表示したり感覚したりすることのできる表象いっさいをふくみますが、たぶん視覚的イメージを例にとって話すのがいちばんわかりやすいと思うので、そういうつもりで話をつづけます。

子どもたちが文章からイメージを形成するためには、予備知識が必要です。その予備知識はどのようにして身につけるのか? これは実際に見るのがいちばん良いわけです。ですから、幼いころからどんどん外で遊んだり旅行に連れて行ってもらったりすることはとても大切だと思います。実物を見られない場合は、その映像を見ます。ニュースや、BSの美麗なドキュメンタリーを見る。そうすることで、イメージ化するためのベースとなる視覚イメージの蓄積ができます。そういう観点に立てば、マンガを読むことも、イメージのベースを作る一助となりうるはずです。そういう意味で、マンガにはプラスの面があると考えます。ただし、絵が上手でないとダメですが。今どきの少女マンガは絵が壊滅しているものが多くて、とてもおすすめできませんね。顔のアップばかりです。良いマンガ家というのは、1コマで状況全体の表示ができるようなそんな絵をかける人です。

一方、マイナスの面もあります。マンガを読むときに、いわゆる吹き出しの部分が主たる言語情報になりますが、絵に頼ってすべてを理解しようとするばかりだと、言語情報からイメージを作るトレーニングにはなりません。トレーニングにならないだけならまだしも、そういったイメージ化の作業自体を自分の身に引き受けようとしない、省エネの読み方が癖になってしまう危険もあるかもしれません。

そういった危険性もふまえたうえで、テレビを観ること、映画を観ること、ときにはマンガを読むことも、文章読解の力をつける役に立ちうると言ってもいいのではないかと僕は思っています。ただし、あまり非現実的な設定のものは役に立ちません。常識的なイメージを作る役に立たないからです。

せっかくなので、ひとつだけ、以上のような点をふまえたうえでおすすめできそうなマンガを紹介してみましょう。

藤子不二雄Ⓐ『まんが道』です。

少年の夢、挫折、友情、葛藤という入試に出そうなテーマが満載です。人情の機微がわからない系の子には特に良いかもしれません(^_^)。

なお、念のために書き足しておきますが、小6生は、どんなマンガであれ読んでるバヤイではありません。必死のぱっちで宿題をしてください。

大事なことを忘れていました! 

入試分析会、やります!!

3月5日~3月8日の4日間連続です!

ぜひぜひお誘い合わせのうえお越しください!

今年もまた、どこの塾にも負けない分析をご用意いたします!

現在、そのために日々、粉骨砕身、えーと構想を練っています。

明後日あたり、実際に粉骨して砕身する予定です。トホホ。

2013年2月12日 (火)

四天王は知ってんのう

プレステと並んで売れていたセガサターンというゲーム機のCMで、姿三四郎をもじって、「せがたさんしろう」と名乗り、「セガサターン、シロ!」とさけぶのを「藤岡弘、」(たしか今は最後に読点をつけて芸名としていたような)がやっていましたが、当時でさえ、もとネタを知らない人が多かったのだろうな…と言いつつ、さりげなく続けていきます。

頼光四天王と言えば、「渡辺綱・碓井貞光・卜部季武・坂田公時」で、結構有名です。羅生門の酒呑童子を退治しにいったメンバーですな。渡辺綱は源氏の中でも一字名乗りなので嵯峨源氏、源融の子孫になります。源融は光源氏のモデルの一人とも言われる人で、梅田の太融寺は融ゆかりのお寺だそうですな。綱は羅生門だけでなく、一条戻り橋で鬼の腕を切り落としたとも言われています。そのときの刀が罪人を試し切りしたときに髭まで切れたことから名付けられたという「髭切」です。鬼はそのあと乳母の姿に化けて腕を取り戻しにくるという、有名な話です。相続税が払えないために取り壊しにするとかしないとかで、三国の渡辺邸が去年話題になっていましたが、渡辺綱の子孫の屋敷です。天正十年に死んだ人が建てたとか言っていましたから、信長が死んだ年ですね。大阪落城よりずっと前からあったという、すごい家が結局取り壊されてしまいました。

渡辺綱は「わたなべつな」ではなく、「わたなべのつな」と読みますが、「渡辺」はいわゆる「姓」ではなく、名字なので「の」ははいらないはずです。「源義経」は姓なので「みなもとの」ですし、「平清盛」も「たいらの」です。でも、「足利尊氏」は「あしかがの」ではないし、「徳川家康」も「とくがわの」にはならない。この時代には、まだ名字というほどの感覚はなく、「渡辺の住人」ぐらいの意味だったのでしょうね。今年の洛南入試の集合場所は六孫王神社でした。「六孫王」というのは、源経基のことで、清和天皇の六番目の子貞純親王の息子であり、天皇の孫であるということで、そう呼ばれました。その子が源満仲で、多田満仲とも言います。「ただのみつなか」という人もいますが、私は「ただのまんじゅう」という呼び方が好きです。なにか連想が働いて、いい感じなので。これも川西の多田の住人ということでしょう。でも、碓井貞光は「うすい・さだみつ」、卜部季武は「うらべの・すえたけ」と読みたいので、「の」がはいるかどうかは単なる口調かもしれません。鹿ケ谷の事件で平清盛に密告した多田行綱は満仲の子孫ですが、「ただゆきつな」と読むのが普通です。この時代には名字になっているのでしょうね。でも、これも「多田蔵人行綱」と言うときには「ただのくろうどゆきつな」になりそうな。時代が下がっても、清水次郎長が「しみずのじろちょう」になるのは、明らかに「清水の住人」ですね。豊臣秀吉は「豊臣」という「姓」なので、「とよとみのひでよし」が正しいことになります。豊臣朝臣羽柴藤吉郎秀吉が正式な名乗りで、厳密に言うと羽柴から豊臣に変わったわけではないことになります。でも、まあ普通は「とよとみのひでよし」とは言わんよなあ。「の」問題はなかなか難しいようですが、坂田公時の「坂田」は名字ではなく姓なので、「さかたのきんとき」でOKでしょう。公時は「金時」とも書き、金太郎の成長後の名前です。桃太郎も金太郎も鬼退治をしているのですね。

源義経の四天王として「亀井片岡伊勢駿河」とよく言われますが、亀井六郎、片岡八郎、伊勢三郎、駿河次郎のほかに、佐藤継信、忠信兄弟と鎌田盛政、光政兄弟の組み合わせとか、佐藤兄弟に伊勢三郎、武蔵坊弁慶を加えたものとかいろいろあります。徳川四天王は「酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政」、さらに十二人を加えた徳川十六神将というのもありますな。ものまね四天王と言えば、「コロッケ・清水アキラ・栗田貫一・ビジーフォー」でした。こうして見ると、四天王というのはかなりあります。授業をしていて、「四人のすぐれた人を何と言うか」と聞いても「四天王」は出てきます。ところが「三人のすぐれた人」は出ない。「三羽烏」は死語なのでしょう。「三傑」というのもありますが、こちらは格調が高すぎる。蕭何・張良・韓信は「漢の三傑」、諸葛亮・関羽・張飛は「蜀の三傑」です。日本では、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が「三英傑」と呼ばれますし、「維新三傑」は西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允です。でも、具体的に「三羽烏」と言われても、じつは有名なものはあまりなさそうです。上原謙、佐分利信、佐野周二を「松竹三羽烏」と言いましたが、いまどきだれが知ってる?

では、二人はどうでしょうか。「聯璧」「連璧」というのもありますが、日本語の文脈ではあまり出てこない。でも、「双璧」はよく使います。「松下村塾の双璧」と言われたのは高杉晋作・久坂玄瑞です。二つというのは選びやすいので、織田信長の家来の双璧なら、柴田勝家・丹羽長秀、秀吉の双璧なら竹中半兵衛・黒田官兵衛、ややマイナーなところでは、大友家の双璧が立花道雪・高橋紹運、伊達家の双璧が片倉景綱・伊達成実、ひとむかし前のアイドルの双璧は松田聖子・中森明菜、怪獣の双璧ならゴジラとガメラ、特撮ヒーローの双璧はウルトラマン・仮面ライダー、RPGの双璧はドラゴンクエスト・ファイナルファンタジー、私大の双璧、早稲田と慶應…。では、一人は? これはありません。よく考えたらわざわざ言う必要はないんですね。

逆に多くなると覚えきれません。「賤ヶ岳七本槍」と言われても、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治、うーん、あと二人は? 真田十勇士は言えます。猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊三入道・海野六郎・望月六郎・根津甚八・筧十蔵・穴山小助・由利鎌之助。忍者系二人、坊主系二人、数字のはいったのが六・六・八・十、あとは「助」がつくのが二人です。「こんなん覚えて何になるねん」と言われればたしかにね。でも、昔は歴代天皇を覚えさせられたのです。「じんむ・すいぜい・あんねい・いとく…」というやつで、私は十七、八代目であやふやになります。四代連続なら、だれでも言えます。「明治・大正・昭和・平成」。ただし、「平成天皇」という言い方はまだ存在していないので「今上天皇」と言わないとだめかも…。

2013年2月 4日 (月)

四条烏丸教室のMさん合格おめでとう、ブログ更新したよ!

今日は立春でしたね。さっき、ひさしぶりに体重計にのってみたら、やはり、やはり、体重が増えていました。冬はどうしても、何をしてもふとる! たしかに毎日チョコを食べていた、それは認めよう、しかし、全体として1日のカロリーはそれなりに抑えていたはずなのに! 今月は誕生月だから、ケーキ食べちゃうだろうなあ。もともと甘党だからなあ。あーやだやだ。はやく夏になってほしいです。毎日だらだら汗を流したいんだ、僕は!

今日は立春であると同時にベーシックの開講日でした。僕は小6Pの授業で烏丸へ。初回なので理想の授業について語ってみました。

「みんな聞いてくれ、僕には『理想の授業像』というものがあるんだ。

ほんと言うと僕はさ、文章を読み終わってから、対比が出てきたね、何と何が対比されていた? みたいな授業はいやなの。

じゃあ筆者の主張をまとめてみよう、筆者の主張がもっともまとめて述べられていた段落はどこだったかな? みたいなのもいやなんだ。

理想の授業はさ、ほら、まず文章を読むだろう? そこで僕がひとこと、漠然と『どう?』なんて訊くわけだ。するときみたちが、『先生、ここはひとつ対比に注目でんな』『並列も見落とせまへんで』なんて言ってくるの。そういうのが理想なんだ~」

「それって、先生は何もしてないのでは?」

「いやあ、じつにそうなのよ。でも、入試のときはきみたち、完全に自力で、自分だけの力で文章を理解しないといけないんだぜ、どこに注目するべきか、どんなふうに文章を整理したらいいか、だれも教えてくれないんだぜ」

「なるほど~」

「よしよし」

といった感じでした。なんとか入試前には理想の授業を実現したいものです。

さて。例によってとりとめがなくて申し訳ありませんが、先日、梅田の古書街に行って、昨年から目をつけていた本を買いました。

三浦つとむの『認識と言語の理論』という古~い本です。第1版第1刷は私の生まれた年に発行されました。第1部から第3部まで全3冊あり、新装版も出ているんですが、一冊5000円近くもするんですよ! ひどい! 三浦つとむを読むなんて絶対にマニアだから高くしても売れるという計算にちがいない、お~の~れ~、と思っていたら、古書街で第1部と第2部が1冊1000円で売られてたんです。買わいでか! というわけで、最近、電車の中でせっせと読んでいます。

以前に、読解力を養うために「モニタリング」が必要という話を書きましたが、そのあたりにもからんできそうな内容です。読んでいて、まず「なるほど」と思ったのは、

人間は観念的な自己分裂のために必要な道具をつくり出している。・・・・・・鏡を使って行われるこの観念的な自己分裂は、単に自己の姿を客観的な位置において見るにとどまらない。鏡のこちら側に位置づけられている観念的な自己は、さらに恋人や入社試験の試験官などに観念的に転換することができる。・・・・・・この種の実践が自己についての認識の発展であり・・・・・・

というくだり。これだけ引用されても何がなんだかわかんないかもしれませんが、とにかくおもしろいのです。今すぐ授業での指導にいかせるわけではありませんが、文章を読むことと、どこかでつながってくるぞ、という予感があります。日々勉強でんな。

国語の講師をやっていて何がおもしろいって、国語の教え方が他教科ほどには確立されていないというところがいちばんおもしろいです。そりゃどんな教科だって良い授業悪い授業はあるし、教え方の巧拙もありますが、国語の場合、まず、「国語の授業として成立していない」というレベルのものがありますね。「下手」じゃなくて「不成立」。学校の国語の授業なんてほとんどこれだと思います。

簡単にいうと、ある文章を理解させるだけに終わっている授業は不成立なんです。ここに書いてあるのはこういう意味ですよ、このときの主人公はどんな気持ちですか? ポチがいなくなって悲しんでいるんですね~、なんてのは、その文章を説明しているだけなんで、それでは読み方の指導になっとらん、したがって授業になっとらん、ということです。

希学園の国語科新年度研修で使用した門外不出の冊子『希の国語2013』では、この「成立/不成立」という問題だけに20ページ近くを費やしています。そのぐらいこの問題は奥が深いです。こんなこと考えたこともない国語の先生が世の中にはあふれかえっているみたいですけどね。たぶん、そういう人は、「不成立」とか言われても、ぴんと来ないんだろうなあ。

なんだか今日は辛口になってしまいました。体重計にのったせいです(>_<)。

2012年12月18日 (火)

もうすぐ冬至ですね。

もうすぐ冬至ですね。

小6諸君は今週でベーシック・レベル系の授業が終了し、23日からは入試対策第Ⅰ期ということになります。いよいよ臨戦態勢ですね。なんせ一部の学校ではもう入試が始まっています。

最近、小6ベーシックの授業のときは、食事休憩中も教室にいるようにしています。で、いっしょにご飯食べています。先週は、烏丸の地下の進々堂で買ったガーリックフランス食べてました。そのときは一部の子どもたちの羨望のまなざしが心地よかったものですが(みんなガーリックが好き)、昨日は雑穀米とちくわだけという質素な食事だったため、哀れみのまなざしで見られました。

そういえば昔、お弁当にたこ焼き60コ持ってきてる男の子がいてました。「たこ焼き好きなの?」と訊くと、「べつに」。

「じゃどうして?」

「お母さんのいやがらせ」

なんてことがありました。

弁当箱あけた瞬間にさっと顔色を変えて家に電話してる子もいました。「お母さん! フルーツ入ってへんやん!」と半泣きで叫んでいたその子はさっそく「フルーツ」というあだ名をつけられていましたが、卒業半年後にばったり会ったら、すごくしっかりした口調で「先生、こんにちは!」と挨拶してくれて、半年で変わるもんだなあとびっくりしました。ちなみに洛南です。さすが。

休み時間、教室にいて子どもたちと何だかんだやりとりするのはけっこう楽しいです。烏丸小5Pの子どもたちは、なぜかよく肩や背中をマッサージをしてくれます。べつに頼んだわけじゃなくて、一度もそんなこと言ってないんですが、入れかわり立ち替わりいろんな子が教卓のところに来てマッサージしてくれるんです。そして、みんな妙にうまい。「いつもお母さんにやってるんだー」とか言ってる子のマッサージなんて絶品です。なかにはだんだん悪ふざけが入ってきて、最後はサンドバック代わりにどついているだけという子もいますが。

などとのんきなことをしてられないのが小6です。僕も、小5生に対するのとはうってかわって、「休み時間なんてないゾ! 勉強しろ勉強! ・・・・・・おい、そこ! 男同士で微笑みを交わすな!」とはっぱをかけています。

入試対策第Ⅰ期に突入したら、講師はもっとべったり小6生にはりつきます。そして、入試までまさに「伴走」していくことになります。

ブログの更新も滞りがちになりますが、いやすでに滞りがちですが、ご容赦ください。

2012年12月 1日 (土)

S君のお母さん、今回のおすすめ本はこれ

「トライ」や「トリ」は3を表すので、「トライアングル」は三つの角という意味になります。三角というのはつりあいもとれて落ち着くせいでしょうか、世の中には三つにまとめるのがよくあります。「御三家」と言えば、紀伊・尾張・水戸。このうち水戸はワンランク落ちて、大納言ではなく中納言です。中納言にあたる役職が中国では黄門侍郎と言ったので、水戸のご老公、さきの中納言は水戸黄門と呼ばれるわけですな。香川照之改め市川中車が山岡鉄舟に扮して、真山青果の新歌舞伎『将軍江戸を去る』をやってましたが、その中で團十郎扮する徳川慶喜が、幕府と朝廷が戦うときには、水戸家は朝廷方につく家として設置されたのだと言ってました。御三家は将軍のスペアを用意する家ではなかったのですね。七代将軍家継が急死したとき、次の将軍候補は尾州の継友と紀州の吉宗。尾州侯継友が評定のために登城する途中、鍛冶屋が槌を打つ「トンテンカン、トンテンカン」という音が「テンカトル、テンカトル」に聞こえて、内心喜びながらも評定の席では、「余は徳薄く」といったん辞退します。「いやいや、そう言わずに」と言ってくれることを期待する、というイヤラシイ手法ですね。ところが、紀州侯吉宗も、「余は徳薄く」と言ったあと、「さりながらかたくなに辞退するは御三家の身としてよろしからず、天下万人のため」とか言ってあっさり引き受けてしまう。がっかりした尾州侯が帰る途中、また「テンカトル、テンカトル」と聞こえてきたので、「紀州は、いったん引き受けたあと辞退するんだ、天下はやはり尾州のものだ」と思ってほくそえむ。そのとき、鍛冶屋の親方が焼けた鉄を水に入れると音がした、キシュー。…しょうもない話です。

御三家と言えば「橋・舟木・西郷」、と言っても知らない人が多くなっているでしょうし、「郷・野口・西城」でさえ知らない? 「たのきんトリオ」というのも今となってはお笑いのネーミングですね。今は芸能界の御三家というのはないようです。三バカ大将なら、今でもいてるのかな。「寛政の三奇人」というのもありましたが、これはほめことばなのでしょうか。「奇」には、優れているという意味もあるので微妙ですが、林子平はともかく、蒲生君平はそのころだれも見向きもせず放置されていた天皇陵の調査をしたりしていて、なんか変です。蒲生氏郷の子孫らしいのですが、林子平と喧嘩したという話もありますし。高山彦九郎となると、さらに変です。三条京阪の駅前の銅像ですな。皇居に向かって「土下座」してます。「早すぎた尊皇の志士」とでも言えばいいのでしょうか。坂本龍馬よりも百年以上前の幕府全盛期に王政復古を唱えている人です。高校のとき、友達同士で日本史の教科書に出ていないカルト問題の出し合いをしている中で、「寛政の三奇人」はよく出題されました。

「三大××」というのもありますが、無理矢理三つ作るので、だいたい三つ目はしょぼいものになります。「三大ジャパン」が、「なでしこジャパン・侍ジャパン・あやまんジャパン」。三つ目、しょぼすぎます。日本三大がっかり名所は、「札幌の時計台・高知のはりまや橋」の二つはよく聞くのですが、三つ目は何でしょう? 「がっかり」に入れるには「しょぼすぎる」ということになると、はいらないことが名誉なのかも。「三大随筆」は方丈記がぬけると、枕草子・徒然草で「二大随筆」になります。「三大歌集」も、新古今の評価が低いようです。丸谷才一は新古今を高く評価していたようですが。今年亡くなった人、ということで丸谷才一の文章は来年度の灘の入試に出てもおかしくないのだけれど、どうかなあ。「江戸期三大俳人」では天才芭蕉、秀才蕪村、そして「鍛えられた凡才」として強引に一茶を入れます。「鍛えられた凡才」は苦しすぎる。「三大大声」というのは秀吉しか聞いたことがありません。ほかの二人はいないのではないかしら。きつとゐないのであらうね。…丸谷才一の口調になってしまいました。

授業で「同じジャンルで四人のすぐれた人をなんと言うか知ってるか」と聞くと、「四天王」ということばがちゃんと出ましたが、「じゃあ具体的に四天王って何々?」と聞いたら、さすがにこれは出ませんでした。持国天・増長天・広目天・多聞天、多聞天はサンスクリットの音から毘沙門天とも言います。なぜか、これだけ七福神に仲間入りしており、北方の守護神、戦勝を祈願する神として上杉謙信があつく敬っていますね。自分は毘沙門天の生まれ変わりだと言って、軍旗にも「毘」の字を書いてます。「霊が見える」と言ってた知り合いは広目天がついていて、あれこれ教えてくれると言っていましたが、「広目」は、いろいろなものが見えるということでしょうね。蘇我馬子と物部守屋の戦いで聖徳太子が四天王に祈って勝ったことから建立したのが四天王寺ですから、四天王寺志望の女の子なら四天王の名前を知っとくべきです。とはいうものの、灘志望者でも嘉納治五郎を知らない者がほとんどなので、しかたありませんね。

嘉納治五郎の講道館にも四天王がいたのですが、知らんやろなー。山下義韶(私とはなんの関係もありません)、横山作次郎、富田常次郎、西郷四郎ですね。富田常次郎の息子が直木賞作家の富田常雄です。NHK大河ドラマが近現代ものをつづけてやっていたころ、別の曜日に役所広司の『宮本武蔵』とか、「大河風ドラマ」をやっていました。池波正太郎の『真田太平記』は渡瀬恒彦が主演で、これはおもしろかったなあ。父親の真田昌幸は丹波哲郎で、弟の幸村は草刈正雄でした。中村吉右衛門が武蔵坊弁慶をやったのが富田常雄原作のものです。義経が川野太郎で頼朝が、な、な、なんと菅原文太、藤原秀衡は錦之介という、いま思えばすごい配役でした。画面に「原作 富田常雄」と出たときに、この人って柔道小説以外にも書いてるんやと思ったことを覚えています。美空ひばりが主題歌をうたった『柔』の原作もそうですが、なんといっても『姿三四郎』です。このモデルが西郷四郎ですね。会津藩士の息子で、家老の西郷頼母の養子になります。じつは頼母は会津に伝わる特殊な柔術を受け継いでおり、柔術の手ほどきは頼母から受けたらしい。このあたりは夢枕獏の『東天の獅子』にくわしく書かれています。来年の大河ドラマは、藤本ひとみの『幕末銃姫伝』の主人公がヒロインになるそうで、この本も結構おもしろうございました。ドラマでは当然西郷頼母は出るでしょうが、西郷四郎も出るのなら見てもよいかなあ。サブローシローやったら、いらんなあ。こんなん知らんやろなー。

2012年11月20日 (火)

バミューダトライアングル

K-1か何かの選手入場コールの巻き舌もなかなかおもしろかったですね。「黒田」が「くるぅぅぅぅぅおぉぉぉぉどぁーーーーーー!!!」みたいになるやつです。そこまでせんでもええやろという、派手派手な言い方で、なかなかよかった。真似をするアホも多かったのですが、やっぱり巻き舌のできないやつもいました。舌がつるんですね。志ん生の『火焔太鼓』でも出てくるフレーズです。嫁さんに「肝心なときに舌がつるんだから」と言われるやつです。

巻き舌ではありませんが、その言語独特の発音というのもあります。フランス語の鼻母音も難しい。音を鼻にかける母音ということでしょう。しかし、鼻から息を出しながら発音するというのは意外に難しい。いかにもフランス語に聞こえるポイントになる音で、これが発音できんとだめだと教師が言うのですが、「今日は、風邪ひいてて無理」と言って、発音してくれませんでした。その後、いつも「今日は風邪ひいてて」と言い続けて、その先生は最後まで風邪をひいてましたね。西洋人が妙な発音で「ワターシ、アナータ、道オシエテクラハーイ」とか言っても、なんとか理解できます。竹村健一という、「だいたいやねー」という口癖で有名な人の英語はどう聞いても関西弁の訛りがありました。インド人の英語は「th」の発音が「t」になるようです。しかも巻き舌なので、「ワン、ツー、スリー」が「ワン、ツー、トゥルルルルルリー」になりますが、それでも通じるようです。ジョン万次郎の「ホッタイモイジクルナ」でも通じるらしいので、鼻母音ができない、なんとなくの発音でも、フランス人もいちおうはわかってくれると思うのですが。ただ、遠藤周作がむかし書いてた「ウンコタレブー」や「ケツクセ」はだめでしょうね。漱石かだれかが「Do you see the boy?」が「図々しいぜ、おい」に聞こえる、と書いていましたが、これも通じないでしょう。どこで線が引かれるのかは微妙ですがね。

タモリもプレスリーの「You ain't nothin' but a hound dog」というフレーズを「ユエンナツバラ」と聞き取って、「湯煙のたつ夏の野原」というイメージでとらえていたと言ってました。まあ、ネタでしょう。「バナナ・ボート」という歌の「Daylight come and me wan' go home」を「寺井さんちのゴムホース」と歌ったり、「パフ」の「Puff, the magic dragon」を「ぱふ、ざ、まぜこぜどらえもん」と歌ったりしてました。歌ではありませんが、「You might or more head,today's hot fish」ということば遊びもありました。明治ごろからあったと思われるような古くさいだじゃれですな。「言うまいと思えど今日の暑さかな」で、「hot」が「some」になれば「寒さかな」になります。「book to a little friend did not know the ring」は、「ほんとう、ちいとも知らなかったわ」、「Oh,my son,near her gay girl」は「お前さんにゃハゲがある」ですな。最後のは算数のO方先生が書け、と言ったので書きました。

まあ、英語を習いたてのころには、こういう遊びがおもしろかったのです。自分の名前を英語で言うと、という馬鹿なことも、はやりましたね。私の場合は「Undermountain rightlight」です。外国語の音が楽しかったのでしょうね。聞いておもしろいのは「五リラ」みたいなやつです。イタリアのお金の単位が「リラ」だったので、たまたま「ゴリラ」と同じ発音になる。ギリシャやトルコではレストランが「タベルナ」になるのは「食べるな」という意味と重なっておもしろいし、スイカはペルシャ語で「ヘンダワネ」になるのも有名です。地名では「スケベニンゲン」とか「エロマンガ島」が子供たちの間では人気です。銀座に「スケベニンゲン」というイタリア料理の店があって、電話をかけると高らかに、「はい、スケベニンゲンです」と言ってくれるとか。

古い時代には「トラホーメ」「ステンショ」などのこじつけもあったそうですが、これは心理的な原因が納得できます。目の病気だから「トラホーム」が「トラホーメ」になるわけだし、「ステーション」は「停留所」みたいなものだから「ステンショ」になります。これも、知ってることばに結びつけて安心したい心理のあらわれでしょうね。アナウンスする人はアナウンサー、キャッチする人はキャッチャー、ということぐらいは知ってる六年生でも「ボクシングをする人」を問題にして出すとできません。ボクシングそのものの人気がなくなっていることも原因でしょうが、ほかのことばにつられて「ボクシンガー」と答える者が多い。「Z」と続ければ知ってることばがあるからかもしれません。

子供たちがよく書きまちがえることばとして、「シミュレーション」「コミュニケーション」があります。このミスは発音の問題ですね。「シュミレーション」「コミニュケーション」のほうが発音しやすい。「シュ」や「ニュ」に比べて「ミュ」は発音しにくいのです。本来の日本語、つまり和語の中に「ミュ」の発音はありません。小学校の低学年で一生懸命発音の練習をして、「みゃ、みゅ、みょ」と大声で言わせられます。しかし、「みゅ」の音を実際に使う日本語は本来ありません。金田一春彦説によると、「大豆生田さん」という家族がいるらしい。「おおまめうだ」がなまって「おおまみゅうだ」と言うそうで、「みゅ」の音を習うのは、この人たちの名前を呼ぶためだそうです。
ただし、外来語にはもちろん「ミュ」の音はあります。「ミュージック」などのように。あ、ということは、最近なくなった桑名正博、この人の息子は「ミュージック」をもじって「美勇士」で「みゅうじ」と読ませていますから、「みゅ」の発音を習うのは大豆生田一家以外に、この人のためでもあったのです。「バミューダトライアングル」というのもありました。「魔の三角海域」ですね。船とか飛行機が消えてしまうと言われてるところです。希学園の中にもあります。教室内の三人の「たちの悪い生徒」を私はひそかに「バミューダトライアングル」と呼んでおそれています。なぜか、しょうもないことを言うやつ、人にちょっかいを出すやつ、居眠りをするやつらが三角形をなしてすわっていることが多い。その三角の中にいる者も影響を受けて、たちが悪くなるという、恐ろしい三角形です。

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