2010年6月 3日 (木)

クウトプーデル

「○」は「マル」ですが、「×」は「バツ」か「ペケ」か、「○×式」は「マルバツ式」なのか「マルペケ式」なのか。「ペケ」は口語っぽいし、やや幼稚な感じがしますね。でも関西人は「ペケ」と言うことが多いような気もします。関西人は幼稚な語感が好きなのかなあ。「△」はもちろん「サンカク」ですが、「三角形」はどう読むのが正しいのでしょう。つまり、「さんかくけい」か「さんかっけい」か、ということです。

話すときにはあまり気にしないし、どっちでもまちがいではないのでしょうが、国語の問題文に出てきて振り仮名をつけなければならないときに困ることがあります。先日も「奪三振」は「だつさんしん」か「だっさんしん」か迷いました。あとにカ行やサ行、タ行、パ行がくるときには「っ」になることがありますが、いつもそうなるとは限らないようです。「三角+形」という意識が強ければ「さんかくけい」だろうし、「三角形」で一つのことばだという感覚が強くなれば「さんかっけい」になるのかもしれません。

では「研究所」はどうでしょう。「けんきゅうしょ」か「けんきゅうじょ」か。「保育所」は、調べてみると、「ほいくじょ」と書いている辞書と「ほいくしょ」としている辞書がありました。これもどちらでもよいのでしょうが、「消防署」などの「署」は「しょ」であり、「じょ」となることはなさそうなので、それにならって「所」も「しょ」と読むことが多いのでしょうか。

にごるかにごらないか、というのはたいしたことではないとも言えるし、反面、大ちがいになることもあります。「か」と「が」は、かな書きなら濁点という「おまけ」をつけるかどうかですが、ローマ字で書けば「ka」と「ga」ですからまったくちがいます。名簿にある「山崎」を「やまざき」と読んだら、「ちがいます。『やまさき』です」とにらまれて、ごめんごめんと謝りながらも心の中では「『やまさき』も『やまざき』もおんなじやないかー」と思ってしまうのは私だけでしょうか。でも当人にしてみれば大ちがいなのですね。「世の中はすむとにごるで大ちがいハケに毛がありハゲに毛がなし」というすばらしい歌もありますし(最近ハゲねたが多いような気もするが、気のせいでしょう)。たしかに「窓ガラス」は「ガラス」ですが、「旅ガラス」は「カラス」ですから大ちがいです。「茨木」「茨城」はどうでしょう。「茨木市」は「いばらき」ですね。でも人名のときには「いばらぎ」と読むこともあります。「茨城県」も「いばらき」なのですが、現地の人は関東なまりがあるので、「おら、いばらぎだっぺー」と発音するのではないでしょうか。「き」のつもりでなまってしまったのか、「ぎ」のつもりなのか、不明です。

また、振り仮名通りに発音しないことばもありますね。「女王」の読み方は「じょおう」のはずですが、その通りに発音しているのを聞いたことがありません。みんな「じょうおう」と発音しています。「十本」は「じっぽん」と書かなければ×(バツなのでしょうかペケなのでしょうか)なのに、みんな「じゅっぽん」と発音します。最近では、発音にあわせて「じゅっぽん」という書き方も認めようという動きも出てきているようです。「言う」は「いう」ですが、「ゆう」と発音します。ただし、「言った」は「ゆった」ではなく「いった」でしょう。「うそをついたことがない」の意味の「うそと坊主の頭はゆったことがない」という言い回しは「うそを言う」と「頭を結う」をかけたシャレなのですが、「ゆった」の形なのでイマイチわかりにくいようです。「行く」は「いく」と「ゆく」のどちらの読み方も認められています。「ゆく」が本来の形だったのだろうということは「逝く」の読み方が「ゆく」であることからもわかります。格調高いのが「ゆく」で、それが口語的にくずれたのが「いく」なのでしょう。このあたり「良い」が「よい」から「いい」になるのと同じ変化だろうと思われます。「よい」は「よかった」「よければ」と活用しますが、「いい」は「いかった」「いければ」とは言いません。「いい」の形で言い切るか、名詞にかかる形で使うか、つまり「いい」の形しかないくせに形容詞になるという、妙なことばです。

では、「よい」と「いい」はどう使い分けるのでしょうか。子どもは耳で聞いてことばを覚えますから、「いい」をまず基本形として覚えるのですね。親の話しことばでは「いい」を使うのがふつうですから。そこで子どもは、自分で書くときにも「…していい」と書きます。ところが、そのうち書き言葉では「…してよい」となっていることに気づいて、改まった文章では「よい」を使わなければならないのだ…というように、自分のことばを修正していきます。そういう学習をしないで話しことばだけの世界に生きているアホタンは、いざ書かなければならないということになったときにも平気で「まあいん電車の中はいやなふいんきだった」と書くのでしょう。ただ、こういうことは昔は大人でも多かったようです。駅や停留所のことを「ステンショ」と言ったのは「ステーション」を耳で聞いて「~ション」を「~所」だと思ったからでしょう。灘の誇るべき卒業生中島らもが書いていましたが、ある店で「シングル」「ダブル」と書かれている次に「サブル」と書かれていたとか。

こういう、和製英語どころか、れっきとした日本語のくせに外国語めいた音にする「遊び」がありました。「オストアンデル」「ヒネルトジャー」なんて、幼稚すぎて笑えます(ちなみに前者は「まんじゅう」、後者は「水道」です)。私が好きなのは「さつまいも」の「クウトプーデル」。平賀源内が発明した蚊を取る機械は「マアストカートル」でした。ハンドルを回すと蚊が取れるんですね。薬の名前で「スグナオール」は、オイオイそれは…と思いますが実在しましたし、「ノドヌール」もあるし、「ケロリン」となると聞いたことがある人も多いでしょう。

反対に、実際にある英語の「ケンネル」が「犬小屋」の意味であることに感動した人もいるのではないでしょうか。そういう人は「トンネル」が「豚小屋」ではないことが納得できなかったのだろうなあ。

2010年5月25日 (火)

その盾、ほんとについてほしい

栗原先生が苦しい中から無理矢理話題を見つけ、西川先生がひとの話題を使って相撲をとり、私は自分自身の書いたものの世界に閉じこもって、一人尻取り式に話題を見つけるという、それぞれのカラーがはっきりしてきました。今回も尻取り式に、「相も変わりませずのお話でございまして……」という感じで。

未来や過去とのかかわりだけでなく、ちょっとした「矛盾」というのはよく起こります。「『クレタ島に住む人間はうそつきだ』とクレタ人が言った」というのは有名ですね。「なるほど、うそつきなのか……でも、それを言っているのはうそつきのクレタ人だから、そのことばはうそ、つまりクレタ人は正直者ということになる。正直者のクレタ人のことばを信じたら、クレタ人はうそつきになる……」ということで、母親殺しのパラドックスと同じことになります。「例外のない規則はない」という規則にも例外があるのか。考えると夜も寝られなくなります。

筒井康隆は「一匹狼の大群がやってきた」というフレーズが好きらしいのですが、これはたしかになんとなくおもしろい。「オレは友だちなんていらない」「オレもいらない」「気が合うな、友だちになろう」という、わけのわからない会話もなかなか味があります。「髪の毛が全然ない人はハゲやねえ?」「うん、ハゲや」「ハゲの人に髪の毛を一本たしてもハゲはハゲやね」「そらハゲやろ」「二本たしてもハゲやね」「うん」「三本たしてもハゲやね」……(中略)……「十万本たしてもハゲやね」「うん」「髪の毛って平均して十万本らしいで。ということは世の中すべての人はハゲやね」「うん」……さて、問題です。この会話の話し手のうち、どちらが奥村先生でしょう?

先生が「来週の月曜から金曜のうちで、抜き打ちテストをする。いつするかおまえたちにはわからんときにするでー」「月曜から金曜いうたら五日間か。できたら最後の金曜にしてほしいな」ところが、来週の木曜の自分を想像してみると、金曜にテストがあるとわかってしまっている、ということに気づきました。それでは抜き打ちテストになりません。ということは、金曜日にはテストはないはずで、月曜から木曜の四日間になります。ところが……木曜のテストもあり得ないのではないでしょうか。水曜までテストがなくて、さらに木曜にテストがなければ、金曜にテストがあると予測できることになりますが、金曜日のテストはありえないということになったはずです。木曜にテストがあると予測できるのだから抜き打ちになりません。ということは、同じように水曜のテストもなくなりそうです。火曜までなければ、木曜と金曜にもないのですから、水曜しかない。抜き打ちではなくなります。ということは火曜のテストもないことになります。つまりテストは月曜にあることがわかりました。あれー? わかってしまえば、抜き打ちにはなりません。ということは、……テストはなしです。ところが! 月曜日にいきなりテストがあったのです。「そんなあほな。『いつするかおまえたちにはわからん』というのはうそやったんか」「うそやないでー。事実、今日テストがあるとわからんかったやないか」……わけがわかりまへん。

もっとシンプルに、「奇数でも偶数でもない数字」なんてのはどうなのでしょうか。「0」はどっち? 調べてみたら「奇数でも偶数でもない」と書いているものと「偶数」と書いているものがありました。これぞ「矛盾」。「はじまりでもあり終わりでもある」という言い回しはどうでしょう。ことば遊び的な表現でなくても、たとえば円をかくときの出発点はあてはまりそうですね。「直線だけで円をつくれ」という問題は、五本の直線を使えば「円」という漢字をつくれます、という国語的発想で逃げられそうです。「紙の表でも裏でもない部分」というのはどうでしょう。紙には分厚さがありますから、たしかにそういう部分は存在しますね。これは矛盾にはならないか。「彼はかさもささずに道を歩いていたが、まったくぬれなかった。いったいなぜか」というクイズも、じつは「晴れていたから」というひどい答えなので矛盾にはなりません。「食ってるとき食わず、食わないとき食うものは何か」も、「釣りをする人の弁当」という答えで、「食う」の主語がちがうのに、わざと省いて混乱させているだけだから、やはり矛盾とは言えそうにありません。「森が動かないかぎりおまえは負けない」というシェークスピアの有名なせりふはどうでしょうか。敵軍は木の枝をかざして森を進んできたので、森が動いているように見えた、というのは苦しいかもしれません。手塚治虫の「バンパイア」は、この「マクベス」から着想を得て「おまえは人間には殺されない、人間以外のものにも殺されない」という予言を受けた間久部緑郎と狼男の少年(テレビでは水谷豊が演じていました)とのたたかいを描いています。吸血鬼がすべての人類を吸血鬼にしてしまって世界征服すればどうなるんでしょうね。だれの血を吸えばよいのでしょうか。これは「矛盾」ですね。

いずれにせよ、世の中には「絶対的矛盾」はそうないようです。数学や論理の世界ならいざしらず、人間世界には。「白か黒か」だけではなく「灰色がある」わけだし、「○か×か」に対して「△がある」というのが世の中であり、国語があつかうのはそういう世界ですね。だから、ややこしいし、反面おもしろいとも言えるのでしょう。

2010年5月20日 (木)

アニメソングといえば

前回ドラえもんの主題歌の話が出てましたね。

アニメソングの話になると黙ってられないな。

特にアニメ好きでもないのに、なぜか学生時代カラオケでアニメソングばかり熱唱していた過去を持つ私。

私にとってドラえもんといえば、「ぼくのドラえもんが♪町を歩けば♪」ですな。「ハア~ドラドラ」の方です。

それにしても、昔から気になっているのだけれど、藤子不二雄アニメの主題歌は、なぜあんなに頭髪の状態にこだわるのかしら?

「ハア~ドラドラ」の歌には、「風切るおつむはつんつるてんだよ」というくだりがあったはず。

Q太郎の歌も「あのねQ太郎はね、頭に毛が3本しかないんだよ」という暴露から始まっている。

名誉毀損でんがな。

あまつさえ「あ、た、ま~のてっぺんに、毛が3本、毛が3本」と反復法まで用いて強調している一節もあり。

謎だ。

もしや、奥村先生と何か関係が・・・・・・?

さて、かつてよくカラオケに行った友人にKという男がいます。

カラオケの、あの、人が歌っているときはひたすら自分が歌う曲をさがしている、という状況にあまりなじめず、今ではすっかり行かなくなってしまいましたが、当時はこのKくんが仕切ってくれて、カラオケはなかなか楽しいひとときでした。

Kくんの仕切りとは?

Kくんは、歌いたい曲を選ばせてくれないのである。

Kくんが、彼の判断で勝手に次々と曲を選択し、この歌はおまえ、この歌はあなた、次の歌はきみ、と指名するのである。

考えようによってはひどい話ですな。

いちばんの被害者はFでしたか。当時彼は自分の思い描いているとおりの人生を歩むことができず、鬱屈を抱えていました。するとKはいつも大沢誉志幸の『そして僕は途方に暮れる』を勝手にリクエストし、Fに歌わせるのである。

また、かつて岸田智史が好きだったとうっかりもらしてしまったMK女史はいつもいつも『きみの朝』を歌わされていたような。悲しげな半笑い顔でしかたなく歌うMKを尻目に、実にうれしそうに「モーニンモーニン」とコーラスを入れていたK。

そのほかにKがセレクトするのが、『怪物くん』『新造人間キャシャーン』『マジンガーZ』『ひょっこりひょうたん島』『バビル2世』『キャンディキャンディ』『魔法使いサリー』『海のトリトン』・・・。

もう次から次へとアニメソングの嵐(ひょっこりひょうたん島はアニメではないが)。そうなると、もうだれの歌とか関係なくて、みんなでひたすら合唱になるのであった。

そして、Kはひどいやつですが、サービス精神も旺盛なので、私が『怪物くん』を熱唱していると、

私「ドラキュラ!」

K「はいざあます」

私「狼男!」

K「うぉーでがんす」

などと必ず合いの手を入れてくれるのでした。

アニメソングの中で曲も歌詞もかっこよかったのは、『新造人間キャシャーン』。

出だしが、

「響けキャシャーン! 叩けキャシャーン! 砕けキャシャーン!」

・・・・・・かっこいいなあ。

トリトンもバビル2世もかっこよかったけど、キャシャーンがいちばんですな。

しかし、今回私が取り上げたいのは、『ガンバの冒険』のラストの歌なのである。

凄いですよ。

ふつう、アニメソングには、逆接の接続詞はあまり使われません。

逆接の接続詞が入ると、そこで流れが変わりますから、一人称で思いをのべたり、ヒーローをたたえたりする歌には、逆接は入れにくいんだと思います。

入っていたとしても、

(-)の内容 → 逆接の接続詞 → (+)の内容

のようになるはずですね。「ああ~悪いやつが悪いことをしそうだぜ~しかし~ぼくたちにはきみがいるゥ~」みたいな。すいません、適当な歌詞で。

ところが、『ガンバの冒険』のエンディングテーマには、何と、逆接の接続詞が2回使われているのだ。

ということは、当然、

(+)の内容 → 逆接 → (-)の内容 → 逆接 → (+)の内容

のような組み立てになるはず。そう思うでしょ?

ところが、ガンバはちがうのである。

(-)の内容 → 逆接 → (+)の内容 → 逆接 → (-)の内容

なのだ。

ありえない!

子どものときは意識していなかったが、大人になってからあらためて歌詞を吟味して驚愕!

これじゃ怖くて来週見られないじゃん!

内容的にはですね、

(-) いかだに乗ったガンバたちが嵐の海で打ちのめされる

    →もう冒険なんか打ち切ろう

逆接

(+) ガンバが島をみつけて指さす

    →カモメの歌、帆柱に朝日

逆接

(-) 夕日がガンバたちの影をうつしだす

    →影はドクロのかたちをしている

主人公たちの「死」を暗示する歌になってしまっている!

それがエンディングテーマとは!

おそるべし!

でも、確かにこのアニメに出てきたガンバたちの敵「白イタチのノロイ」はほんとうに怖かった。

主人公たちと敵たちとの力の差の開き方は、アニメ史上歴代一位だったかもしれません。

もう絶対に勝てないと思ったもん(ちなみにガンバたちはネズミです)。

「白イタチのノロイ」に比べたら、デスラー総統なんてカピバラみたいなもんです。かわいいものですよ。

3年生・4年生の人は、ビデオ借りてきて一度見てもいいんじゃないでしょうか。

力の入った良い出来のアニメです。

子どもだましじゃない、本気でつくられたアニメだなと感じます。

原作もいいですよ。

斉藤惇夫『冒険者たち』『グリックの冒険』『ガンバとカワウソの冒険』

三部作になっています。すべて傑作です。

夏休みの読書感想文はこれで決まり! と言いたい。

話もどって、ちなみにK自身が必ず歌っていたのは、堀江淳『メモリーグラス』。

「水割りをくださ~い」と気持ちの悪い裏声で歌う姿が忘れられません。

今、大学で哲学を教えているはずですが・・・・・・やれやれ。

2010年5月16日 (日)

ドラえもんのうたに関するつぶやき

いつのまにか、ドラえもんのオープニングソングが更新されている。

と書くと誤解を招くそうだ。とっくの昔に今の主題歌になっているらしい。

「あんなこといいな、できたらいな……」がおなじみの歌。

「心のなか いつもいつも えがいてる……」が現行ソング。

中高年の人はもしかしたら

「ぼっくっの ドラえもんがっ まっちっをあるっけば……」

の方が記憶にあるかも(これは日テレ系時代だったような)。

ドラえもんの前の主題歌で気になるのは、

のび太の、ドラえもんに対する「依存心」の強さ。要は甘えすぎていることです。

「みんなみんなみんなっ 叶えてくっれる 不っ思議なポッケで叶えてくーれーる」

というくだりでは、もはやのび太は主体性を失った存在でしかない!

こういう、安直で他力本願的な思想が小学生のうちに刷り込まれ、国際競争力のない日本ができあがってしまったのだっ! 現実逃避だ!

……こんなことを本気で思っている・言っている訳ではないです。

ただ、新しいオープニングソングでは、

「シャララランラ ぼくの 心に いつまでも 輝く夢

 ドラえもん そのポケットで かなえさせてね

と、「かなえてくれる」から大きく進歩して、夢をかなえる主体は一応のび太にあるわけです。

 しかし、何よりも アンアンアンから シャララランラ とは……。

とてもナウいではないか!

毀誉褒貶はあるものの、誰もが気になる名作 ドラえもん。

その主題歌ですから、きっとたくさんの人で悩み抜いて作ったのでしょう。

いい歌だと思います。

2010年5月12日 (水)

売らない

安倍晴明の母親は狐だったそうで、だから妙な力があるのかもしれませんが、陰陽道というのは宇宙を陰と陽の二つに分けて、木火土金水の五つの要素との組み合わせで、自然や世の中、あるいは吉凶を説明しようとするものです。当時としては最新の「科学テクノロジー」だったという人もいます。

木火土金水を陽(「兄」と見て「え」と読む)、陰(「弟」と見て「と」と読む)に分けて、「きのえ・きのと・ひのえ・ひのと…」とし、甲乙丙…とあてはめたものが十干で、これと十二支を結びつけると六十通りの組み合わせができます。これでいろいろ説明するのですね。だから「えと」は、ほんとは十二支ではなく十干のほうだったのです。

夏になればよく聞く「土用」ということばも、東西南北という四つの季節に木火土金水という五つをあてはめるとき、土をまん中において別格としたのです。一年360日を四つの季節に分ければ90日ずつ、1月、2月、3月の90日で春なのですが、「土」にも分けてやってよ、ということで各季節の終わり18日を土に提供しました。そこで各季節は90-18で72日、土は18日を各季節からもらって18×4で72日、これで均等です。つまり、昔は各季節ごとに土用があったのですが、いまは夏の土用だけが残っているのですね。

また東の方角は、季節で言えば春、色で言えば青、守り神は「竜」になります。なぜ「青春」というのか、これでわかりますね。東子さんという名前を「はるこ」と読ませることがあるのも、皇太子を意味する「春宮」が「春宮」とも書いて「とうぐう」と読めるのも「東」イコール「春」だからですね。北原白秋の「白秋」も西の方角は秋で白だからです。ちなみに東の青竜に対して西は白虎です。南は朱雀で、南に向かってまっすぐ進む道は朱雀大路です。「石山の石より白し秋の風」という芭蕉の句では、全山が白い石でおおわれている寺の境内で詠まれたものだそうですが、「秋」は「白」だから、「秋の風」も白いのです。

北に十二支の子を置いて、右回りに順にあてはめると南に午が来ます。北と南をつないだ線は子午線です。北東の方角は鬼門とされ、十二支で言えば丑と寅の間で、「うしとら」の方角と言います。鬼に二本のつのがあり、虎の皮のパンツをはいている理由がこんなところにあったのですね。子を夜中の0時と考え、右回りに行くと、昼の0時は午です。これより前が午前、あとが午後です。草木もねむる丑三つ時といえば、方角で言えば鬼門にあたりますから、化け物が出るのでしょう。

いわゆる風水も結局この流れです。当たるも八卦当たらぬも八卦と言いますが、これも共通する要素があります。「春宮」も八卦では東が長男を意味するところから来ているという説もあります。これらすべてをおおざっぱに言ってしまえば「占い」ということになりますが、占いが当たるというのはどういうことでしょうか。

タイムパラドックスという問題があります。タイムマシンで過去にもどって自分を生む前の母親を殺すとどうなるか。自分を生まないうちに死んでしまうのだから、自分は生まれず過去へもどって母親を殺すことはできない。ということは母親はそのまま成長して自分を生む。ということは自分は過去へもどって母親を殺せる。ということは自分は生まれず、母親を殺すことはできない。ということは……。

逆に未来を知ってしまったら、どうなるのでしょう。未来が悲惨な事態になることを知ってしまったら、そうならないように変えることは可能なのでしょうか。知らなければ、そのまま悲惨な未来に突入してしまいます。知ってしまえば、そうならないように努力することはできるでしょう。その結果、悲惨な未来が訪れないということになったら、「未来を知った」のは本当に知ったことになるのでしょうか。また、変えることができたにしても、どういう方向に変わるのかは予想できないのなら、結局未来を知ることはできないということになってしまいます。

うーん、わけがわからん状態になってきましたね。じゃあ、占いで「よくないことが起こる」と言われた場合、どうすればよいのでしょう。受け入れるのか、変えようと努力するのか。…結論。「人を不安にさせる占いはダメ」ですね。恐怖の大魔王は降ってきませんでした。「このままじゃ、あんた死ぬよ」というのは絶対に当たります。死なない人はいないのですから。(ちなみに「明日は雨が降るような天気ではない」も当たります。雨が降らなかったら、「『降るような天気』ではないと言ったでしょう」と言えばよいし、降ったら、「『日は雨が降るような。お天気ではありませんよ』と言ったでしょう」と言えばよいのです。)良心的な占い師は、悩みを持った人がその悩みを人に打ち明けることで、気持ちが安らぎ、事態が好転することがあることを知っているのでしょう。うらないと言いながら、安心感を売っているのですね、という古くさいダジャレで終わるのは心残りですが……。

2010年5月 5日 (水)

私の趣味

みなさま、ゴールデンなウィークはいかがお過ごしだったでしょうか。

聞くところによると山では遭難者がたくさん出ているとのこと。

いやー天気がいいからって山登りなんかせずに灘中の文化祭引率やプレ灘の採点をしていてよかったぜえ、と虚勢を張る今日この頃です。

そういえば、写真下の私の【趣味】が「なし」になっているんですが、山登りじゃないの?という疑問が数名の知人から寄せられました。

いずれブログの中で説明する、と応えてきたのですが、ついにそのときが来たようです。

(そろそろブログ書かなあかんけど書くこと思いつけへんな~という今こそ・・・!)

『事件屋稼業』(関川夏央・谷口ジロー)の主人公を見習って、私はこう応えたい。

「登山は趣味じゃない。登山とは生き方のことさ」

う~ん、きまった。

(ちなみに下の写真は、奥穂高下山中の国語科・吉田先生。このあと山小屋の人に、ずいぶん時間かかりましたねえと言われて恥じ入る吉田・西川であった)

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2010年4月29日 (木)

蛙はぺっちゃんこか

前回の桃太郎を中心とした無限ループから抜け出さなければなりません。……浦島太郎のお話です(抜け出せるのだろうか)。

浦島太郎が竜宮城で過ごした時間と人間世界での時間の流れるスピードがちがっていたのはなぜでしょう。光速より速く動けば年をとらないとかいう「ウラシマ効果」を昔の人は知っていた? カメは本物のカメではなく、光速を超えるカメ型ロケットで、竜宮城は高度な文明を持つ宇宙人の星だったという解釈もよくあるようです。いや、SF小説ではなく、ひょっとしてエイリアンが古代の地球人とコンタクトをとっていたという事実があるのかもしれません。その証拠に(証拠になるかどうかわかりませんが)、ウラシマ系の伝説は日本以外にもたくさんあるようです。リップ・ヴァン・ウィンクルの話もそうですね。

リップ・ヴァン・ウィンクルといえば、思い出す映画があります。『野獣死すべし』という古い映画です。狂気を宿した目つきの松田優作が室田日出男演じる刑事の頭にロシアン・ルーレットの拳銃をつきつけながら、えんえんとリップ・ヴァン・ウィンクルの話をする場面がありました。撃鉄を上げ、引き金を引く。カチャリと音が鳴るが、弾倉には弾がはいっていない。うれしそうに笑いながら、優作が「あんた、運がいい!」と叫ぶシーンが印象的でした。……栗原先生のテリトリー侵してしまいました。

竹取物語は日本最古のSF小説と言われることがあります。主人公は月世界の住人で、最後には月から迎えの船がやってくるのですから。科学の発達したどこかの星で、なんらかの事情でその星を捨てて、別の星に移民することになり、全住民が宇宙船に乗りこむのですが、そのために縮小光線みたいなのをかけて、体を小さくして金属製のカプセルで人工冬眠します。ところが手ちがいで、一つのカプセルがこぼれ、それが地球の日本というところにやってきて、地面につきささります。一人のじいさんが、竹やぶの中でピカピカ光るカプセルを持って帰りますが、中に小さな人がはいっている。すぐに縮小光線がとけて、あっという間に成人した女性になったのを、宇宙船がさがしに来る、というストーリーにしたSF小説もありました。映画でも、迎えの船を明らかにUFO的な宇宙船として描いているものがありました。かぐや姫は沢口靖子で、竹取の翁がなんと三船敏郎でした。たしか、金髪豚野郎になる前の春風亭小朝も出ていたような……。またまたテリトリーを侵してしまいました。

島崎藤村の『夜明け前』の最初のほうでUF0らしきものの記述があることを山田風太郎が指摘していましたが、さすがにSF小説ではないので、それ以上の発展はありません。古典では、「松浦宮物語」や「浜松中納言物語」が輪廻転生を扱っており、三島由紀夫の『豊饒の海』のモチーフにもなりましたが、いまならSFで扱うテーマでしょう。

日本のSF小説で塾生がよく読んでいるのはやはり星新一ですかね。ショートショートは読みやすいということもあるでしょう。小松左京は最近どうなのでしょうか。おすすめは『御先祖様万歳』という作品で、小学校低学年のときに雑誌に載っていたのを読んだ記憶があります。タイムトンネルものの走りでしょう。また、特に印象に残っているのは『くだんの母』という作品で、タイトルからしてダブルミーニングで技巧的です。オチの一行の不気味さも「ホラー」だけではなく、社会情勢を暗示する別の意味での不気味さでもあるのがなかなかのものでした。『日本沈没』『復活の日』のようなスケールの大きいものもありますが、ハチャメチャな設定の短編にも捨てがたいものが数多くあります。日本列島は海に眠る大ナマズの上にふりつもった土でできていたというのもあります。地震の正体は大ナマズの身じろきだったという、ばかばかしい話です。

筒井康隆はそういう意味で徹底的にハチャメチャ度を高めていておもしろいのですが、好きな作品は「おすすめ」できないものばかりです。ざんねん。『戦国自衛隊』で有名な半村良の伝奇ロマンもおもしろい。『石の血脈』『産霊山秘録』など、いわば竹取物語系の小説をこの人が書いたおかげで、いわゆる「荒唐無稽」なものでもすべてSFとして扱っていいんだということになって、いろいろな小説が出てきたと言ってもよいぐらいです。安倍晴明を主人公としたものも、SF的に描いたものがうんざりするほど出てきました。小説だけでなく、漫画もあります。
たしかに、陰陽道というのは、伝奇SF的だし、絵になるのですね。安倍晴明に若い貴族や僧たちが、「式神を使って人を殺したりできるのか」とたずねたところ、「できなくはないが、生き返らせることはできないので、無益なことだ」と言った。「では、あの蛙なら殺せるか」と言うので、草の葉を摘みとり、呪文を唱えて蛙の上に投げかけると、蛙がぺちゃんこになってつぶれてしまった。僧たちは、真っ青になってふるえおののいた、なんて話……、やっぱりオモロイでんな。

2010年4月25日 (日)

まだ10代なんで

阪急電車のドアに、ビール酒造組合のシール広告が貼られています。

それを見て、にまあと笑う僕。

流されない人ってカッコいい。

すすめられたらキッパリ言おう。

「まだ10代なんで」

・・・・・・いいですねえ。

にやけてきませんか?

だって、全然キッパリ言ってないじゃないですか。

キッパリっていうのは、

「いいえ、私は飲みません。まだ10代ですから。」

みたいな発言じゃないですかね?

肝心の「飲みません」の部分は省略してるじゃないですか。

相手に「そこは言わなくてもわかるっしょ? ね、ね?」とボールを投げておきながら、

「キッパリ」とは・・・・・・!

「キッパリ」どころか、きわめて日本人的な、伝統的な、遠回しな表現なのでは?

これが、じゅうぶんに「キッパリ」だと思っているところが何だかいいです。

いや、悪くないですね。僕は好きです。

こういうコピーひとつにも日本人的な感覚が色濃く反映しているような気がします。

少なくとも日本人にとってはじゅうぶんに「キッパリ」なんですよね。

たいていの人はこの広告を見て違和感持たなかったでしょうからね。

というわけで日々きょろきょろとしみじみ笑える表現をさがす私でありました。

2010年4月21日 (水)

納得いかない文章

 前回、山下先生が「話の送り手と受け手との間に共通の了解が必要」ということを書かれました。

 どんな文章を理解するにせよ、「前提となる知識」は不可欠です。何の知識もなしに読める文章というのはほとんどありません。

 接続語の授業でときどきする話。

今日の夕食はカレーだった。

だから、全部たべておかわりもした。

 この文章を、何の違和感というか引っかかりもなく読める、というアナタは、ご自分が意識していない「カレーというものは万人が好きな食物である」という前提でこの文章を読んでいたはずです。

今日の夕食はカレーだった。

しかし、全部たべておかわりもした。

 こちらの文章が変だ、成立していない、接続語をまちがっている、と感じたアナタは、先ほどの「カレーというものは万人が好きな食物である」という前提がかなり強固なもの、もはや「一般常識」となっているのではないでしょうか。

 後者の、「しかし」で結ばれた二文を読んで、「あ、そういう人もいるよな」と感じたアナタは、その際に色々なことを感じられたはずです。

・後者の文章は、「カレーをきらいな人」が書いたのだな。

・それなら、「カレーがきらい」ということを文章に入れるべきじゃないかな。

・どうも、ひとりよがりというか、「自分」の強い文だなあ。

 上のような感想をお持ちになったかもしれません。

先生が来たので、教室は静かになった。

 これも、何の違和感もなく読める文章で、「前提となる知識」など、いらないように思います。

しかし、

先生が来たので、教室は騒然となった。

 という文だって成り立つわけです。ただしちょっとだけ理解するのに「推測」が必要になります。

「先生」と「教室内の静かさ」は、親和性が高い二つの事柄だという認識が普通でしょう。

 それなのに、先生が来たことによって静かさが失われた、ということは何があったのか。

 もしかしたら、すごく人気のある先生なのだろうか。それとも、先生が変な髪型になっていたのだろうか。寝グセとか。いやいや逆に、すごく統率力のない先生なのか。

 などと考えて、その疑問を解消すべく、さらに前後の部分を読もうとしたり、自分の持っている知識を総動員して考えるでしょう。

 こういう「すぐに納得できない文や文章」の方が、読みを深める練習になるのかもしれないな。などと今考えています。もしかしたら読解力をつけるテキストのヒントになるかも。

 

2010年4月16日 (金)

無限ループ

話の送り手が、どういう考えのもとにそういう表現をとったのか、つきつめて考えていくと、その人の心理的状態だけでなく、もろもろの事実まで感じ取れることもあるようです。外国の小説に、「九マイルは遠すぎる。まして雨の中ではたいへんだ」ということばだけで、発言した人が犯罪者であることを推理する、という「そんなアホな」みたいなものがありました。

横溝正史の『獄門島』では、犯人のつぶやき「きちがいじゃが、仕方がない」というのが人気の高いフレーズですね。「きちがい」は「季ちがい」です。俳句に見立てた殺人事件だったのですが、季節ちがいになってしまったので思わずつぶやいたことばでした。おまけに被害者の周辺には精神に異常をきたした人がいます。古い時代の小説なので差別云々という意識はなかったころですが、のちにテレビドラマ化したときも、このくだりはさすがにカットせずにやっていました。ここは、読者や視聴者の目をまちがった方向にもっていくミスディレクションであるとともに、犯人を特定する伏線になっているキモの部分ですからね。そして金田一耕助が疑問を持つのが「じゃが」という逆接でした。このことばの発言者は犯人を知っていてかばっているのではないか、その犯人は「き×がい」の人ではないか、と最初に思った名探偵は、思い直して、それなら「き×がいだから仕方がない」となるはずだ、なぜ逆接なんだ、と考えて真相に迫っていきます。このあたりは読んでいてワクワクするところです。

こんな風に、ちょっとした言い回しのちがいが相手に与える影響は大きいのですね。たとえば叱り方一つとってもそうでしょう。「なんだ、これは! こんなミスをしていいと思っているのか。君みたいなやつは死んでしまえ」とか言われたら、叱られたほうは、そこまで言うかと、反省どころか反感を持つことにもなりかねません。「君ともあろう者がどうしてこんなミスをしたんだ」と言われたら、あ、この人はオレをそういう風に評価してくれていたんだ、と思って素直に叱責を受け入れるかもしれません。単に、「アホ、バカ、マヌケ」という罵倒語を羅列しても、感情的になって人格否定をしようとしているようにしか聞こえません。「怒る」と「叱る」はちがうのに。「アホいうやつがアホじゃ」という古典的反論をしたくなります。あるいは「アホ」と「バカ」はどうちがうの、なんて内心で冷笑しているかもしれません。

たしかに「アホ」と「バカ」は少しちがうようですね。「バカ正直」とは言いますが、「アホ正直」とは言いません。「学者バカ」「親バカ」はいますが、「学者アホ」「親アホ」はいません。「バカうま」はあっても「アホうま」はなく、言うなら「アホほどうまい」になりますね。「アホ」は阿房宮から、「バカ」は「鹿をさして馬となす」から来たという説があり、前者は秦の始皇帝、後者は二世皇帝にちなむことなので、もしそうならどちらも歴史の古いことばということになりますが、どうでしょう。

「男どアホウ甲子園」「空手バカ一代」というときの「アホ」「バカ」はプラスイメージでしょうか。もともと関西では「アホ」は必ずしも悪いイメージではないようです。「踊る阿呆に見る阿呆」は「アホウ」だから許されるのでしょう。場合によっては「ほめことば」になることさえあります。「バカじゃないの」はきついことばですが、「アホちゃう」というのは「かわいい」感じがあります。「こいつバカだぜ」と言われるとムッとしそうですが、「こいつアホやねん」と言われると、「うん、オレ、アホやねん」と自然に出てきます。「アホ」は「売り」になるのです。

結局この二つはどうちがうんでしょうかね。関西と関東のちがいもあるようですが。「アホとバカの境目はどこらあたり?」というマヌケな投書を取り上げたTV番組では、「天下分け目の関ヶ原というから、きっとそのあたりだろう」と言って関ヶ原のとある家に飛び込み、「お宅ではどう言いますか」「ウチは『アホ』と言います」道路を隔てた向かいの家に行くと、「うちは『バカ』です」と言われ、「では、この道が境目」、というばかばかしい結論を出しました。ところが、これがやたら反響があり、そのうち「名古屋では『タワケ』と言うぞ」という声もあがり、アホ・バカ・タワケの三つの文化圏が勢力争いをするという三国志的様相を呈してきたのを、番組ではちゃっかり本にしてまとめました。『全国アホ・バカ分布考』(新潮文庫でも出ています)というものですが、なんと、それが「民俗学」として評価されたのですね。アホ・バカの研究も立派な民俗学なのです。柳田国男も『桃太郎の誕生』で民俗学というものを世に知らしめました。「桃太郎」といえばだれでも知っている話ですが、では三十字で要約するとどうなるでしょうか……(いちばんはじめの投稿にもどる)。

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