2010年7月14日 (水)

小学生のときに読んだ本

西川が小学生のときに読んだ本で印象に残っているものを紹介する新シリーズスタート!

べつにおすすめというわけではありません! 西川の印象に残っているだけ!

おまけに記憶はあやふや!

本当にシリーズ化できるのかまったく自信なし!!

『セキレイの歌』 小笠原昭夫・ 金尾恵子

これはですね、セキレイという鳥の生態を観察して、絵本にしたものですね。小学校3・4年生向けでしょうか。

物語仕立てになっていて、チビというセキレイが巣立つところから、何度かの子育てをするところまでを描いていたと思います。

絵がなかなかきれいで、いまだにヒヨドリとムクドリの区別もつかない僕ですが、セキレイだけわかるのはこの本のおかげです。

この本が印象に残っているのは、とても悲しい場面があったからだと思います。

チビのヒナがヘビに食べられてしまうのです。するするとヘビが近づいてくるので、チビが果敢にヘビに攻撃をしかけるのですが、残念ながらヒナが一羽呑み込まれてしまいます。

悲しいのは、そのあとです。ヘビが去ったあと、チビとメス鳥(名前は忘れてしまいました)は何事もなかったかのように、ヒナの世話を続けるのです。

数が数えられないので、一羽へってもわからない、という説明が載っていました。

この理不尽な悲しみの正体がわからない、的確に言葉にすることができないため、何だかとても苦しかったのをおぼえています。

単に、ヒナが死んでしまうから悲しいというのではないのです。

で、この記事を書くにあたって、あらためて考えてみました。

そこで思い出したのが、高校生か大学一年のときに読んだ、高橋源一郎さんの『さようなら、ギャングたち』です。

この本の中で、主人公が「キャラウェイ」という名の娘を亡くす場面があります。

確か、何月何日にお宅のお嬢さんは亡くなりますという死亡通知が役所から届き、主人公は、まだ生きている幼いキャラウェイを背負って、子ども用の墓地まで連れて行くのです。そういう決まりというかシステムになっているんです。

おんぶしたキャラウェイとお話をしながらとぼとぼ歩いていくところが悲しくてたまらない。

この場面を思い出しました。一見、全然ちがうんですが、悲しみの感触が似ているような気がします。

これはたぶん、「大切なものの死が適正な重みで受け取られていない」ことに対する悲しみなんじゃないですかね。

ここでさらに思い出すのが、詩人である石原吉郎が書いた「三つの集約」という文章です。

「私は、広島告発の背後に、『一人や二人が死んだのではない。それも一瞬のうちに。』という発想があることに、つよい反発や危惧をもつ。」

「『一人や二人』のその一人こそ広島の原点である。年のひとめぐりを待ちかねて、灯籠を水へ流す人たちは、それぞれに一人の魂の行くえを見とどけようと願う人びとではないのか。」

「一人の死を置きざりにしたこと。いまなお、置きざりにしつづけていること。大量殺戮のなかのひとりの重さを抹殺してきたこと。これが、戦後へ生きのびた私たちの最大の罪である。」

「適正な重み」という僕の表現はもちろん稚拙ですが、こうしてみると、石原吉郎の文章を読んでいたからこそ出てきた言葉のように自分では感じます。

さて。

『セキレイの歌』の場合には、大切なものの死であるにもかかわらず、それが0の重みでしか受け取られていないということが、小学生の僕にとって衝撃だったのだと思います。もちろん誰が悪いというのではなく、自然の摂理としてそうなっているわけです。だから、仕方がないわけです。仕方がないということが、さらに気持ちを重くします。

『さようなら、ギャングたち』の場合には、大切なものの死が(あるいはキャラウェイにとっては自分自身の死が)、受けとめることのできる限界をはるかに超えて重く重くのしかかっています。これは、その社会のシステムがそのようになってしまっているわけです。だから、やはり個人の力でどうにかすることはできません。

昔から人は死んできたわけで、大切なものの死(あるいは自分自身の死)は誰にとっても避けられない事態なのですが、せめて自然な、適正な重みで受けとめることができるべきだと思います。そうできないとき、それが理不尽さとして感じられるような気がします。

と、そこでまたまた思い出しました。

友人の息子さんが教えてくれた絵本ですが、

『わすれられないおくりもの』 スーザン・バーレイ

はその点心あたたまるといいますか、ええ感じの絵本になっていると思います。

(西川)

2010年7月 9日 (金)

授業前の会話

授業開始5分前の予鈴と同時に入室。

ぼく(にやにやしながら)「お、ひさしぶりだねい、諸君」

塾生「先週も会ったやん」

ぼく(怪訝な面持ちで)「・・・・・・え?」

塾生「?」

ぼく「先週、俺休んだじゃん」

塾生「来てたやん」

ぼく(真剣そのもののの表情で)「え? だって先週は実家の南極に帰ってたけどね」

塾生「来てたやん!」「ていうか実家南極?」

ぼく(はっとして)「あっ、くそ、またか!」

塾生「?」

ぼく「あいつや、あいつが現れたんや」

塾生「は? 何の話?」

ぼく「きみたちが先週会ったのはブラック西川や」

塾生「ブラック西川・・・・・・!」「何じゃそりゃ」

ぼく「ブラック西川は俺にそっくりなんや。そして、あっちこっちで俺のふりをして、悪いことやいいことをするんや」

塾生「いいことも?」

ぼく「そうや。いいことも悪いこともするんや」

塾生「先週はふつうに授業しとったで」

ぼく「お、先週はいいことしてんな」

塾生「対比に気をつけなあかん言うてたで」

ぼく「ええこと言うな、ブラックのやつ」

塾生「じゃ、先生はホワイト?」

ぼく「ホワイト? 人のこと歯磨きみたいに言うな」

一週間後。授業開始5分前の予鈴と同時に入室。

ぼく「ごんぬづば」

塾生「先生、今日はブラック? ほんもの?」

ぼく「はあ? ブラック? ほんもの? 何を言うとるんや、ねぼけてんのか」

塾生「何か態度悪いな」「ブラックちゃうか」

ぼく「がたがたうるさい、自習せえ自習」

塾生「ブラックや」「ブラックや」

ぼく「人のことをウイスキーみたいに言うなって言うてもわからんやろうけどとにかくやかましい暴れるぞ、ごるあっ」

塾生「うひょ~、ブラックゥ」

毎日楽しいです。

(西川)

2010年7月 5日 (月)

何の用だ!?

西川先生の「フリ」というか「縦パス」を受けなければいけない、ということで、ここは映画の話をします。

観て気分を悪くする映画といえば、「13日の金曜日」シリーズとか「オーメン」とかが昔は有名でしたね。今ならさしずめ「ザ・ゴーヴ」でしょうか(爆)。

真面目な話にもどすと、観て気分を悪くする映画で思い出したのは、スティープン・スピルバーグの「プライベート・ライアン」です。お勧めの映画です。

いや、「気分が悪くなるからお勧め」ってことではなく、皮肉という訳でもないんですが、「気分を悪くする価値がある」という意味で。

有名な冒頭のシーン。時は第二次世界大戦末期の「D-Day」。いわゆる1944年6月6日ノルマンディー上陸作戦におけるオマハ・ビーチ(血のオマハ)での戦闘シーンです。

冒頭の20分間、とにかく人が死にます。

この映画はこの20分を観るためだけにあるとも思います。冒頭の部分がなくても、ストーリーとしては成り立ちます。単に話題を提供するためという目的で、この戦闘シーンが描かれたのでは決してないと思います。

戦争ほど愚かで恐ろしくて汚くて格好悪くて惨めで悲しくて辛いものはない。

これを実感させてくれる20分なのです。

メカのかっこよさなどに憧れて、つい男の子は戦争の兵器である戦闘機や戦車などに憧憬をいだいてしまいますが、戒めのためにも、この映画を観て欲しいと思いました。

映画は「第七芸術」と呼ばれることがあります。音楽・美術・文学・演劇という他の芸術の要素を包含した総合芸術なので、「芸術の中の芸術」っていう人もいる。

私を含め、映画好きの人に映画を語らせる(いや聞かされる)とき、正直ややうざいと思いませんか。思いませんか、そうですか。アナタは心の広い人ですね。

そもそも芸術自体、自分の趣味や美学を人に披瀝することになっているわけです。

じゃ、平たく言うと芸術って全部自慢だったり押しつけだったりなんでしょうか。

「すべてのエッセイは自慢である」と私は授業でいうことがありますが、芸術の本質はそうでないと思いたい。

じゃ、何のために映画(特に悲劇)があるかってことですが、「カタルシス」もさることながら、やはり「不幸をなくす努力をしないといけないよね」と少しでも思わせてくれるところにあるのではないでしょうか。

2010年6月30日 (水)

姓は安藤、名は慶三

戦時中、英語は敵性語であるとして無理やり日本語に言いかえたという話があります。法律で決めたりしたのではなく、「自主規制」だったということですが、当時のマスコミ(新聞)が相当あおったような気配もあります。そのころもやはり「ヒステリック」になってさけんでいた人がいるのでしょうね。

有名なところでは野球の用語の言いかえですが、実際はどうだったのでしょう。「ストライク」が「よし」で「ボール」は「だめ」と言ったという話を聞いたこともあるし、「いい球」「悪い球」と言ったという説も聞いたことがあります。「アウト」は「ひけ」だったのでしょうか、それとも「おまえはすでに死んでいる」だったのでしょうか。考えてみれば、「巨人」というチームの名前は変ですね。「阪神」は球団名が「阪神」で「タイガース」は愛称(?)なのでしょうが、続けて「阪神タイガース」と言います。ところが「巨人」は、続けて言うときには「読売ジャイアンツ」なのに漢字だけで言うときには「巨人」になるのは「わがまま」だなあ。たまに「読売巨人軍」と言うアナウンサーもいるし。このあたりが戦時中の影響が残っているところなのでしょうか。これにならえば「阪神タイガース」は「阪神猛虎軍」だし、漢字で言うときには「猛虎」になるはずですが……。

現実には、いくらなんでも英語が禁止になったわけではないでしょうから、皇紀2600年にできた零式戦闘機は「れい戦」ではなく「ゼロ戦」と呼ばれたのでしょう。いや、ひょっとして、これは海軍だからかな。陸軍ではカレーが「辛み入り汁かけ飯」になったのに、海軍は「海軍カレー」でしょ。陸軍に比べて、ちょっとは開明的だったのかもしれない。どっちにしても、サイダーが「噴出水」、コロッケが「油揚げ肉饅頭」になったというのはかなしいし、ほんとかどうかは知らないけど、バイオリンが「ひょうたん型西洋三味線」、サクソフォンが「金属製曲がり尺八」というのはなあ。パールハーバーが「真珠湾」になったのも同じ流れですかね。

ドイツ語はどうだったのでしょうか。同盟を結んでいるのなら「敵性語」になるはずはないのですが、「ドレミ」は「イロハ」になっていますね。これは本来イタリアから来たものでしょう。ま、そんなことを言い出すと、じつは漢字が使えなかったはずなんですが。なにしろ漢字は中国から輸入したものですから、立派な「敵性語」です。そういう理屈が通じないのはやはり「ヒステリック」だったのでしょうね。外来語の中には、日本語で言えないものがたくさんあります。「テレビ」なんかどうなるんでしょう。将来、もしまたアメリカと戦うようなことがあったら、「電気紙芝居」とか言うのかなあ。

固有名詞も変えさせられたようですね。学校名でも「フェリス」が「山手」かなにかに変えさせられたとか聞いたことがあります。芸能人の名前でも、外国風の名前はだめになって、漫才師の「AスケBスケ」という人たちも「英助美助」に変えさせられたとか。ロシア系の大投手スタルヒンも「須田博」に変えさせられましたが、国籍が変わったわけではなかったと思います。

では、現在、外国人が日本国籍をとったら名前の表記はどうなるのでしょうか。漢字かひらがな・カタカナを使うことになるのでしょうが、中国系の人では、使える漢字の制限にひっかかったら自分の元の名前を変えなければならないのかなあ。ギタリストのクロード・チアリは「智有蔵上人」、苗字と名前の順がひっくり返るのですね。ラモスは「ラモス瑠偉」になったようですが、どちらが苗字? だいたい、こういうパターンは「ジョージ秋山」「マイク真木」「アントニオ猪木」(うーん、あげる例が古すぎ)のように、カタカナ部分が名前で先に来て、あとの漢字の部分が苗字ですね。「ジャイアント馬場」は…「ジャイアント」が名前じゃないし、「横山ノック」は…全然ちがうか。「パパイヤ鈴木」「ウド鈴木」「ルー大柴」は? そういえば、むかし「キャロライン洋子」という人がテレビに出てきたときに、どっちも名前やがな、苗字はどこに行ったんじゃい、と思ったことがあります。「マークス寿子」も同じでしょうか?

最近は苗字なしで、下の名前のみの芸能人がやたら多くなってきています。桂米助という落語家が「ヨネスケ」と名乗ってひとの家の台所に突撃レポート、とかやっていたことに感動して、鈴木一朗くんが「イチロー」という登録名にした途端、すごい活躍をしはじめたことは有名ですね。ほんまかいなー。ひょっとして、「きたろう」に感動したのだったかな。でも、「イチロー」が活躍したからといって、それにあやかろうとしてよく似た名前をつけると二番煎じになります。なんか、いじましい感じが漂ってかなしくなるのは私だけ? 「○香」とか「○雪」とか「○秋」とか、男でも「瑛○」とか、こういう芸名も、ムッと来るという人がいます。苗字なしということは、「私はどこにも所属しない、一個人としての『○香』よ」ということなのでしょうが、それだけに、「なにィ、○香? どこの○香や、あちこちに○香はおるのに、天下に○香はおのれだけと宣言しとるような偉そうな態度はなんじゃい、おまえは何様や」と思うのでしょう。「サ○カ」とか「イ○ル」などは親が離婚したので、どっちの苗字を名乗るべきかで悩んだのでしょうか? それとも、ひょっとして、めんどくさいだけ? 時の人として「蓮舫」さんがいますが、苗字が「蓮」で名前が「舫」、というわけではないようですね。

苗字なしの名前だけというのは、一見かっこよく思えるのでしょう。たしかに、最初にした人はかっこよかったのでしょうが、真似するとやはりいじましくていけません。要するにペットの犬の名前が「ジョン」というのとおんなじでっか、と言いたくなります。と思ってたら、「ミ○ラ」とか苗字だけという人もいることに気づいてしまいました。消えてしまったけど「は○わ」もそうか。「タ○リ」は? うーん。

2010年6月25日 (金)

映画の話の補足

件の映画ですが、ホラーとしてなら立派なエンターテインメントといえるんじゃないでしょうか。

僕はホラー映画が苦手なので苦痛だったのかもしれませんね。

2010年6月24日 (木)

映画を観てきました

ひさしぶりに映画館で映画を観ました。

暴力描写がえぐくて(実際それで評判になっているみたいです)、一気に心理状態が悪化。

その後昼寝するまで胃の調子が悪かったです。

監督が、情宣活動の中で「エンターテインメントだ」と言っていたけれど、本気でそう思っているのか怪しいものです。かなり悪意に満ちた皮肉なんじゃないか、額面どおりに受け取ったら駄目なんじゃねえかと思いました。

この映画をエンターテインメントとして楽しめる人は、どこか壊れていると思います。

いわゆるエンターテインメント映画には暴力シーンがつきもので、それは幼児向けのアニメや実写のヒーローものにもありますね。

「仮面ライダー」や「なんとかジャー」はもちろん、ポケモンのバトルだって暴力シーンです。

この映画を撮ったK監督は、以前から「痛そうな」暴力シーンを意識的に撮ってきているわけですが、今回はそれをこれでもかこれでもかとやっている感じです。

だから、特に映画の前半部分は観ていて心臓ばくばく、苦しかったです。

でも、それは映画としてむしろ良質なんだと思います。

「暴力シーンが痛そうじゃない」映像ばかり見せられたら、かえっておかしな感性が育つと思いませんか?

ポケモンにしろ、ブルース・リーのカンフー映画にしろ、「かっこいい暴力」を描いているので、観ている方は、無意識に「暴力をふるう側」に立って映画を観てしまい(ましてポケモンなんてペットにたたかわせて自分は見ているだけという残酷さ!)、暴力の「痛さ」がわからないようになっているのですが、この映画は自然と「暴力をふるわれる側」に立って観てしまいます。

観ていて思わず「痛い痛い、痛いがな」とつぶやきたくなる場面の連続です。

また、仮に、暴力をふるう側の立場で観たとしても、あまりカタルシスは得られないんじゃないですかね。暴力をふるう感触の気持ち悪さもたっぷりあったように思います。

本来、「暴力」はそういう視点で、つまり、いつなんどき自分を見舞うかわからないものとしてとらえるべきものです。でも、今の暴力的な映画はそこを表現しないものばかりですね。そうでないとふつうは楽しめないですから興行収入のことなど考えたらやむをえないのかもしれませんし、まあ僕もべつにそれでいいと思ってはいますけど。

すべての映画が同じ考え方をする必要はないですし。

『ゴッドファーザー』という有名な映画がありますね。アル・パチーノがマフィアの親分を演じている、とてもかっこいい、そして文学的な名作です。僕も大好きで、ときどきⅠ~Ⅲまでぶっ通しで観て(9時間ぐらい?)ふらふらになったりしていました。

このかっこいい文学の香り高い映画にも暴力シーンが再々登場しますが、やはりあまり痛そうではありません。

K監督は、今回は文学的な感じじゃない映画にした、といったような発言をどこかでしていましたが、それも皮肉だったんじゃないかと疑っています。

痛いはずの場面がきちんと痛そうに見える、そういうことをきちんと表現することこそが、「映像」の意味なんじゃないか、文学的な映画て何のことですか、みたいな。

それもひとつの見識だと思います。

そういえば、何年か前に灘中学で出題された岩田宏氏の「動物の受難」という詩も、暴力をふるう立場が突然(しかし当然のごとく)暴力をふるわれる立場になってしまう、恐怖の一瞬をえがいたものでした。

この詩をはじめて読んだときも怖かったなー。

まさか灘でこの詩が出題されるとは。でも、なぜか①Nの教材には入れてたんですけど。

映画の話に戻りますが、俳優はみんな素晴らしかったです。椎名桔平は以前から絶対に悪役が似合うと思っていたんですが、ほんとにぴったりでした。個人的に助演男優賞を差し上げたい。大好きな石橋蓮司も良かったです。哀れな感じがたまりませんでした。

もちろん、どの場面も印象深く、ある意味うつくしく、特に黒塗りの車体の深い輝きは、きれいであり、怖ろしくもあり。

もちろん、塾生諸君にはまったくお勧めしません。

大人になってから観てください。

2010年6月18日 (金)

聞きまつがい

日本語と英語の結びつきでは、辞書をディクショナリーと覚えるときに「字引く書なり」と考える、というのがあります。「いま何時ですか(ホワット・タイム・イズ・イット・ナウ)」を「ホッタイモイジクルナ」と覚えるというのもありましたね。テレビで実際にアメリカに行って通じるかどうかやっていましたが、結構通じていました。「ウェストケンジントン」という地名は発音が難しいので「上杉謙信」と言ったほうがかえって通じるというのもありました。まちがって「武田信玄」とさけんでしまったとか。

「聞きなし」というのがあります。動物の鳴き声を人間のことばに当てはめて覚えやすくしたものです。ウグイスの「ホーホケキョー」は「法華経」ですね。ホトトギスの「テッペンカケタカ」も有名ですが、「トッキョキョカキョク」と聞こえると言う人もいるようです。コジュケイの「チョットコイチョットコイ」はまだしも、ホオジロの「一筆啓上つかまつりそうろう」は「うそつけー」と思いますし、サンコウチョウの「月日星ホイホイホイ」はその鳴き声がもとになって、三つの光だから三光鳥という名がついたのだ、というのは、なんだかなあという気がします。「仏法僧」と鳴くから「ブッポウソウ」という名がついたのに、実はそう鳴くのは別の鳥だった、というわけのわからない話もあります。でも、こういう「聞きなし」を知ったうえで聞くと、たしかにそう聞こえなくもないから不思議です。

あるテレビ番組に「空耳アワー」というコーナーがありました。英語の歌詞の一部分が日本語に聞こえてしまうというものです。それとはちょっとちがいますが、日本語の歌の文句を勝手に聞きまちがえてしまうこともありますね。「赤い靴はいてた女の子」は「異人さんにつれられて行っちゃった」なのに「ひいじいさんにつれられて行っちゃった」と思っていました、というやつです。「うさぎ追いしかの山」を「うさぎ、美味しい蚊の山」と思って、うさぎに大量の蚊が吸いついている光景が頭にこびりついて離れない、というのもあります。いちばん有名なのは「巨人の星」のテーマソングでしょう。「思い込んだら」の部分を「重いコンダラ」と聞いてしまい、「画面で星飛雄馬が引っ張っている大きなローラーのことをコンダラというのだと思ってました」というのは定番のネタですね。「なごり雪」の「なごり雪も降る時を知り」の部分は「を知り」の部分のイントネーションからどうしても「振る時お尻」に聞こえてしまい、ふざけてお尻をふってるのだと思いこんだバカな子供はたしかにいたでしょう。「赤鼻のトナカイ」で「でもその年のクリスマスの日」では、「でも」と「その」の間の微妙なつながり具合のせいで「デモッソの年のクリスマスの日」という妙な解釈をしたという人もいるそうです。どうやら「デモッソの年」という特別な年があって、その年のクリスマスの夜はいつもより暗いらしいんですね。「この世界中」が「殺せ怪獣」に聞こえたりすると、前後とつながらなくなるのですが、なんとなく勝手に理屈をつけてしまう。妙なものです。

錯覚する場合にはそれなりの理由もあるでしょう。自分が知らないものは知っているものに置き換えて安心したいという心理が働くのかもしれません。新聞で見出しに「米朝」と出てきたら、アメリカと北朝鮮でしょうが、熱烈な落語ファンなら「桂米朝」だと思います。何かの事件でつかまった犯人以外に逃亡していた「中島」を含む何人かが逮捕されたときの見出しが「中島らも逮捕」だったのですが、私はてっきり灘の誇る卒業生「中島らも」さんが逮捕されたのだと思いました。なぜそう思ったのでしょうかね。ある模試で、マチルダという女の子が登場する文章を出したことがあります。「マルチダ」と書いている答案がやたら多かったのは、マチルダはややなじみのうすい名前であるのに対して「マルチ」はよく聞くことばだからでしょう。「コスモポリタン」が「コスモポタリン」になるのも同様でしょう。

ただ、カタカナは読みにくいということもありそうです。「パソコン」か「パソコソ」か、ちらっと見ただけでは区別つきませんし。昔のコンピュータで名簿を作ると名前はカタカナでした。読みにくかったです。例の年金問題もそれが原因の一つですね。漢字で書けば、比較的読み間違いが少なくなるのは、漢字が表意文字であり、見た瞬間意味のわかる字だからでしょう。それだけに、その字の持つイメージがあたえる影響は大きくなります。「障害者」の「害」を「碍」にしてほしいという意見もたしかにうなずける部分があります。ただ、こういう書き換えをむやみやたらに認めていくと「言葉狩り」「漢字狩り」につながるおそれもあります。「子供」の「供」はよくないイメージだから「子ども」と書くべきだとか、「婦」はおんなへんに「ほうき」だから女性差別だとか。ひどいのになると、おんなへんの字にはろくな意味のないものが多く、すべて差別だからなくすべきだ、とか……。そんなこと言うと「横」には「横暴」とか「横やり」とか、ろくでもない意味が含まれているから、「横川」という苗字の人は「縦川」と変えなければならなくなってしまいます。むかしのCMで「世の中、バカが多くて疲れません?」というのがありましたが、「バカとはなんだ」とクレームをつける人が出てきて、「世の中、お利口が多くて疲れません?」にさしかえました。しかも、あらかじめ、そっちのバージョンも撮っていたとか。「お見事」のひとことです。

だいたい、こういうことを言う人は「ヒステリック」になりがちなので困ります。主張の根本にあることは正論で、反対できないことが多いのですが、それだけにほかの考えの人の意見に聞く耳を持たず、「私の意見は正しいざます!」と声高に叫び、場合によっては例の過激な環境保護団体のように「暴力」にうったえる人も出てきます。ヒステリックなのはあきまへんなあ。自分の意見が正しいと思っても、ほかの人の意見を認めないのは正しくないざます!

2010年6月13日 (日)

Y田M平クライミングスクール

国語科のY田M平先生(個人情報保護の観点から実名はご容赦ください)は、相当に本格的なクライマーであって、かつて8000メートル峰に2度も挑んだことがあるほどの人です。

私は彼に師事し山登りについて学んでいるのですが、彼、Y田M平にはどうも不審な点がある!

はじめて「これは・・・・・・・!?」と思ったのは、北海道の大千軒岳という1000メートルくらいの山に登ったときでありました。

このときは、雨に祟られたうえ、登山道に入ってすぐにヒグマの糞らしきものを発見してしまったため、全員大変テンションが低い状態に陥っていたのですが、突風の吹き荒れる中何とか登頂し、記念撮影もそこそこにさっそく下山を開始したところ、Y田先生の足取りが妙に鈍く、息が荒い。

やがて「先に行ってください、すぐ追いつきますから。」と苦しく喘ぐ息の下で言ったが最後、Y田先生はずるずると遅れはじめ、待てど暮らせど姿が見えないという状態に。

もしや熊に・・・・・・!?

登山口の駐車場に、疲労困憊よれよれの姿で彼が現れたのは、我々スクール生に遅れること数十分後のことでありました。

その後、「先に行ってください、すぐ追いつきますから」がY田先生の口癖になったわけですが、あれほどのクライマーでありながら、どういうわけか追いついた試しがない。

そう。

輝かしい登山歴に彩られた若き日から長いブランクを経るうちに、いつのまにか彼は、歩くことが嫌いでとにかくできるだけ楽をしたい、ただの運動不足のおっさんになってしまっていたのである!

穂高に行ったときも、上高地に着くまではテンションも高く、あれこれ大きなことを語るのですが、いざ歩き始めようとすると、いつまでもぐずぐずしてなかなか歩き出さない。

我々スクール生はさっさと靴ひも締めザックをかついで、さあ歩いて歩いて歩きまくるぜと燃えているというのに、

「え~、ちょっと一服していいですか」

とタバコをくわえ、ぼんやり。

ついで、ザックの中身の整理をはじめ、あれを出したりこれを出したり、かと思うと、出したばかりのものを、

「これは×××だからしまって・・・・・・」

などとぶつぶつ言いながら元に戻し、いつまでも準備が完了しない。

ようやくザックのひもを締めたかと思うと、

「ちょっとトイレに行ってきます」

戻ってくるとまたザックを開けて何か出したり入れたりしているのです。

それからようやく念入りに靴ひもを締め直し、やっとザックを背負って出発かと思いきや、

「ちょっと一服していいですか」

それを見ているうちに、ああ、これはデジャヴュ? どこかで見たことのある光景だ、これは・・・・・・

勉強中の小学生の姿だ!

というか、いつまでもだらだらしてなかなか勉強をはじめない子どもの姿にそっくりではないか!

自習時間が始まっているのになかなか宿題プリントを用意せず、いつまでもカバンの中をごそごそいじって、何かを出したり入れたりしている子ども。

意味もなくシャーペンを分解し、「いや何かシャーペンの調子が・・・・・・」とぶつぶつ言い訳する子ども。

かと思うと、「先生、鉛筆削っていいですか」と前向きなふりをしつつ、鉛筆を5本も6本も、妙に念入りに削ろうとする子ども。

やたらとトイレに行きたがる子ども。

これでいいのかY田M平!?

いつも塾生に言っていることはどうなるのだ!?

20100528074833

前穂高北尾根5・6のコルより。後方がY田先生、手前を登っているのは別のスクール生。

ちなみにこの記事の投稿者は西川です。

2010年6月 8日 (火)

矛盾

(新美南吉風に)

それは昔、楚という国で、武器を売る商人がいましたよ。

その商人の言うことを聞いてみると、こんなふうでした。

「この盾(たて)を買いなよ。この上がない盾だ。この盾はどんな矛(ほこ)でも突き通せないものだ」

そう言いまして、くだんの盾を、うち振って、往来の人々に見せておりました。

人だかりが、だんだんと、できてきます。

商人の男は、ひげを自慢そうになでつつ、調子に乗ったのでしょうか、こういうことも言いました。

「この矛もすばらしい。この矛で突いたならば、どんなヨロイも盾も、ものの数ではない」

さすがに、自分の言ったことが大げさだと思ったのでしょうか、しばらくもじもじしておりましたが、いっそう声をあらげて、

「さあ買った買った、早く買わないと店じまいだ」

と言う始末。そこに、人だかりの中から意地の悪そうな、切れ長の目をした男がにじり出てきて、

「おい、商人。お前の言うことが本当なら、その立派な盾を、その矛で突いて見せよ。どんな矛でも突き通せぬ盾と、どんなものでも突き通す矛が両方あるなんて。それは矛盾しているというものだぞ。」

痛いところを突かれました。

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さて、「矛盾」という故事ですが、上の話の中にもさらに矛盾があったのがおわかりでしょうか。よく授業でするネタなのですが。

2010年6月 3日 (木)

クウトプーデル

「○」は「マル」ですが、「×」は「バツ」か「ペケ」か、「○×式」は「マルバツ式」なのか「マルペケ式」なのか。「ペケ」は口語っぽいし、やや幼稚な感じがしますね。でも関西人は「ペケ」と言うことが多いような気もします。関西人は幼稚な語感が好きなのかなあ。「△」はもちろん「サンカク」ですが、「三角形」はどう読むのが正しいのでしょう。つまり、「さんかくけい」か「さんかっけい」か、ということです。

話すときにはあまり気にしないし、どっちでもまちがいではないのでしょうが、国語の問題文に出てきて振り仮名をつけなければならないときに困ることがあります。先日も「奪三振」は「だつさんしん」か「だっさんしん」か迷いました。あとにカ行やサ行、タ行、パ行がくるときには「っ」になることがありますが、いつもそうなるとは限らないようです。「三角+形」という意識が強ければ「さんかくけい」だろうし、「三角形」で一つのことばだという感覚が強くなれば「さんかっけい」になるのかもしれません。

では「研究所」はどうでしょう。「けんきゅうしょ」か「けんきゅうじょ」か。「保育所」は、調べてみると、「ほいくじょ」と書いている辞書と「ほいくしょ」としている辞書がありました。これもどちらでもよいのでしょうが、「消防署」などの「署」は「しょ」であり、「じょ」となることはなさそうなので、それにならって「所」も「しょ」と読むことが多いのでしょうか。

にごるかにごらないか、というのはたいしたことではないとも言えるし、反面、大ちがいになることもあります。「か」と「が」は、かな書きなら濁点という「おまけ」をつけるかどうかですが、ローマ字で書けば「ka」と「ga」ですからまったくちがいます。名簿にある「山崎」を「やまざき」と読んだら、「ちがいます。『やまさき』です」とにらまれて、ごめんごめんと謝りながらも心の中では「『やまさき』も『やまざき』もおんなじやないかー」と思ってしまうのは私だけでしょうか。でも当人にしてみれば大ちがいなのですね。「世の中はすむとにごるで大ちがいハケに毛がありハゲに毛がなし」というすばらしい歌もありますし(最近ハゲねたが多いような気もするが、気のせいでしょう)。たしかに「窓ガラス」は「ガラス」ですが、「旅ガラス」は「カラス」ですから大ちがいです。「茨木」「茨城」はどうでしょう。「茨木市」は「いばらき」ですね。でも人名のときには「いばらぎ」と読むこともあります。「茨城県」も「いばらき」なのですが、現地の人は関東なまりがあるので、「おら、いばらぎだっぺー」と発音するのではないでしょうか。「き」のつもりでなまってしまったのか、「ぎ」のつもりなのか、不明です。

また、振り仮名通りに発音しないことばもありますね。「女王」の読み方は「じょおう」のはずですが、その通りに発音しているのを聞いたことがありません。みんな「じょうおう」と発音しています。「十本」は「じっぽん」と書かなければ×(バツなのでしょうかペケなのでしょうか)なのに、みんな「じゅっぽん」と発音します。最近では、発音にあわせて「じゅっぽん」という書き方も認めようという動きも出てきているようです。「言う」は「いう」ですが、「ゆう」と発音します。ただし、「言った」は「ゆった」ではなく「いった」でしょう。「うそをついたことがない」の意味の「うそと坊主の頭はゆったことがない」という言い回しは「うそを言う」と「頭を結う」をかけたシャレなのですが、「ゆった」の形なのでイマイチわかりにくいようです。「行く」は「いく」と「ゆく」のどちらの読み方も認められています。「ゆく」が本来の形だったのだろうということは「逝く」の読み方が「ゆく」であることからもわかります。格調高いのが「ゆく」で、それが口語的にくずれたのが「いく」なのでしょう。このあたり「良い」が「よい」から「いい」になるのと同じ変化だろうと思われます。「よい」は「よかった」「よければ」と活用しますが、「いい」は「いかった」「いければ」とは言いません。「いい」の形で言い切るか、名詞にかかる形で使うか、つまり「いい」の形しかないくせに形容詞になるという、妙なことばです。

では、「よい」と「いい」はどう使い分けるのでしょうか。子どもは耳で聞いてことばを覚えますから、「いい」をまず基本形として覚えるのですね。親の話しことばでは「いい」を使うのがふつうですから。そこで子どもは、自分で書くときにも「…していい」と書きます。ところが、そのうち書き言葉では「…してよい」となっていることに気づいて、改まった文章では「よい」を使わなければならないのだ…というように、自分のことばを修正していきます。そういう学習をしないで話しことばだけの世界に生きているアホタンは、いざ書かなければならないということになったときにも平気で「まあいん電車の中はいやなふいんきだった」と書くのでしょう。ただ、こういうことは昔は大人でも多かったようです。駅や停留所のことを「ステンショ」と言ったのは「ステーション」を耳で聞いて「~ション」を「~所」だと思ったからでしょう。灘の誇るべき卒業生中島らもが書いていましたが、ある店で「シングル」「ダブル」と書かれている次に「サブル」と書かれていたとか。

こういう、和製英語どころか、れっきとした日本語のくせに外国語めいた音にする「遊び」がありました。「オストアンデル」「ヒネルトジャー」なんて、幼稚すぎて笑えます(ちなみに前者は「まんじゅう」、後者は「水道」です)。私が好きなのは「さつまいも」の「クウトプーデル」。平賀源内が発明した蚊を取る機械は「マアストカートル」でした。ハンドルを回すと蚊が取れるんですね。薬の名前で「スグナオール」は、オイオイそれは…と思いますが実在しましたし、「ノドヌール」もあるし、「ケロリン」となると聞いたことがある人も多いでしょう。

反対に、実際にある英語の「ケンネル」が「犬小屋」の意味であることに感動した人もいるのではないでしょうか。そういう人は「トンネル」が「豚小屋」ではないことが納得できなかったのだろうなあ。

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