小6の諸君に高飛車に告ぐ!
君たちさ、
「『東堂の肩を持つ』頼子に対して陽介がどう思ったか」
という問いにさ、
「~ことに腹が立った。」
というかたちで答えよと指定されているときにさ、
「東堂の肩を持つことに腹が立った。」
と答えたらさ、
バツになるに決まってるじゃん!!
明日から鬼のようにしごくよ。
君たちさ、
「『東堂の肩を持つ』頼子に対して陽介がどう思ったか」
という問いにさ、
「~ことに腹が立った。」
というかたちで答えよと指定されているときにさ、
「東堂の肩を持つことに腹が立った。」
と答えたらさ、
バツになるに決まってるじゃん!!
明日から鬼のようにしごくよ。
一つの文章をどう受け取るかということについては、話の送り手と受け手との間に共通の了解が必要だし、多くの受け手も同じように受け取るのがふつうです。そうでなければ新聞は成り立ちませんよね。「阪神、巨人に快勝」という記事を見て、「巨人が勝った」と思う人はいません。ところが、そういう伝達の次元からさらに一歩踏み込んで、たとえばどういう教訓を導き出すか、というレベルになると個人差が生じます。
ワシントンがさくらの木を切ったことを正直に告白した、という話の内容そのものは、みんな同じように理解できるでしょう。ところが、ここで勝手なことを考えるバカモノが出てきます。カンカンになっていた父親が簡単に許すのはおかしい、きっとワシントンが「オレが切った」と言ったときには、まだ手にオノを持っていたにちがいない、そのオノを見て父親はビビりながら「べつにええよ…」と言ったのだ……。そして、そういう考えをする人はその前提ですべてを理解しようとします。「ワシントンはとんでもない不良なので、きっと将来ろくでもない人間になったにちがいない」と。
一つの可能性しかないと決めつけてしまうのは国語のできない人の典型的なパターンで、家族団欒のシーンの描写で父親が登場しなければ、きっと死んだにちがいないと決めつけてしまうようなアホタンでしょう。でも、こんなまぬけな「解釈」をしない人でも、ひょっとしたらワシントンの話から、「なるほど、そんなに正直な少年だったワシントンも、のちには『政治家』というウソつきになったのか、人間というものはわからんのう」という「教訓」を引き出すかもしれません。これはなかなか鋭い着眼点で、おもしろい解釈なのですが、これしか思いつかないのは「独断と偏見」です。一般的な解釈ができたうえで、「待てよ、しかし、この話はこういう風にも解釈できるのではないか」と考えられたら相当のものです。「独断と偏見」しかできない人は、それが人々の共感や感嘆をかちとる場合には「天才」と呼ばれるでしょうが、ほとんどの場合は単なる「非常識」です。
とはいうものの、詩や俳句となると、内容の理解そのものも難しい。たとえば「古池や」の句でも、「古池」って、どこにあるのですか? 山の中? 荒れ果てたお屋敷の庭の池? 実はどこかのお寺の池であり、池を見つめて句を思案している芭蕉の耳に、近くの隅田川に飛び込んだ蛙の水音が届いたのだ、二つのちがう情景をつなぐために「古池に」ではなく「古池や」の「や」が用いられたのである……という、あっと驚く解釈もあります。では「蛙」は何匹でしょう? 一匹? 二匹? その蛙の種類は? まさか食用ガエルではないでしょうが……。
こんな話もあります。芭蕉の弟子の去来が「岩鼻やここにも一人月の客」という句をつくりました。師匠が、この句はどういう意味だと聞いたら、去来は「月があまりきれいなので見ながら歩いていて、ある岩の突き出た場所までくるとそこにも月見をする風流なひとがいた、というものです」と答えた。すると芭蕉は、「ちがう、この句は、月に浮かれて岩場を歩く人に対して、『ここにも一人月見をする風流人がいますよ』と名乗り出たのだ」と言ったそうな。作者の去来はそれを聞いて、思わず「なるほど」と納得してしまった……というのも変と言えば変です。作者が自分の作った真意を否定されたうえ、別の解釈のほうがよいと感心しているのですから。もっとちがう解釈もできるかもしれません。「私が月を見ていたら岩鼻も月を見ていた。ああ、ここにも月の客がいたんだな」「月を見ているのは岩鼻だけではない。ここにも月を見ている私がいるぞ」「満月だから岩鼻にそれを見に行って、横を見たらもうひとりいたぞ、よく見たらそれはサルだったぞ」……。
要するに、人によって細かい部分のイメージは違うのです。でも「古池や」の句では、「静寂」ということは感じられるでしょう。いやいや、静寂を突き破る蛙の水音の力強さに生命というものの偉大さをオレは感じたぞ、なんて人はふつうはいないでしょうね。そのあたりの「常識的解釈」が国語という科目では要求されます。小学生や中学生に独創的解釈を求めようなんて無謀なことは考えていません。詩人や作家を養成するわけでもありません。昔あった「クイズ百人に聞きました」です。大胆な言い方をすれば、いちばん多い答えが正解、というのが国語です。あなたはどう思いますか、とか真実の解釈は何か、とかを尋ねているのではなく、その言い回しや文脈はどう解釈するのが最も自然で常識的か、ということがわかりますか、と聞いているのです。
「詩の問題はきらいだ。人によって感じ方はちがうのが当然なのに、同じ答えを要求するのはけしからん」とねぼけたことを言う人がいますが、「あ、ほんまやー」と思ったあなた、多くの人の感じ方ができず、また理解できないというのは、よほどの天才か、あるいは感覚的に欠陥のある人なのですよ。あなたはどっち?
昨日はエイプリルフールでしたが、みなさん、盛大にウソはつかれましたでしょうか。
私は授業中に日付を板書していて、「お、今日はエイプリルフールではないか」と子どもたちに指摘したものの、何となく気乗りがせず、「ちっ、いちいちウソなんかついてられっかよ」的なすさんだ気持ちでしごくまっとうな授業を展開してしまいました。
一年に一度のチャンスなのに惜しいことをしたぜ。
それはさておき、ここで国語講師らしく辞書などひいてみました。
「うそ」
(広辞苑)真実でないこと。また、そのことば。
(明鏡)事実でないことを本当であるかのようにだまして言うことば。また、事実でないこと。
どうでしょう。やはり広辞苑の説明って不親切ですよね。明鏡の方がはるかに良い。
どこが良いといって、「本当であるかのように」という部分が良い。
広辞苑の説明だけでは、「ウソ」と「皮肉」のちがいがわかりませんものね。
「漢字の征服」で不合格だった子に、僕が
「余裕だねえ、漢字なんかできなくたって公開テストで88点とれるもんねっ!」
これは皮肉です。
しかし、思ってもいないことを言っているんだから、「真実ではない」ことば、つまり「ウソ」ともとれます。
もちろん「皮肉」は「ウソ」の一種であると言ってもいいでしょう。しかし区別は厳然としてある。
ふつう「ウソ」はばれたら意味がない。
けれども、「皮肉」は、それが「ウソ」であるとわかられなければ意味がない。
それが「ウソ」であることに気づくのは、必ずしも「皮肉」を言われた当人でなくてもよくて、それを聞いていた周囲の人でもかまわない場合もあるわけですが、とにかく誰かには気づかれなければならない。
金子光晴の「落下傘」は、表面的には日本という国をほめたたえる内容の詩ですが、よく読むと実際には糞味噌(漢字で書くとおそろしく汚い言葉ですねえ)にけなしています。つまり「皮肉」=「反語」です。
戦時下に書かれたものなので、検閲の目をくぐりぬけるためにそういう書き方になっているんですね。
けれども、検閲の目をくぐりぬけて発表にこぎつけたとしても、読者の誰一人としてこれが皮肉だと気づいてくれなければ、詩としては完全に失敗です。皮肉とはそういうものですよね。
ここが同じ「ウソ」の仲間である「お世辞」とのちがいです。
「奥村先生、今日も輝いてるね!」
おっと、これは「お世辞」でも「皮肉」でもありまへんどしたな。客観的な事実をありのままに述べただけの文でした。
いや、悪口じゃないんです。奥村先生はこういうこと言われると「おいしい」と思うらしいんです。
ただ困ったことに、自分と同じタイプの頭部、といいますか毛髪、の状態の人に出会うと、
「あ、きっとこの人もおいしいと思っているにちがいない」
という迷惑な勘違いをするんですね。それで、わざわざ横にならんで
「わーい、ライト兄弟」
などと失礼なことを言うのがいただけません。
えーと、何の話でしたっけ?
そうそう、「お世辞」と「皮肉」のちがいについてでした。
このあいだブログの中で、合格祝賀会における奥村・三倉コンビの漫才についてコメントしたところ、奥村先生から
「もっといじってほしかった」
というメールが来まして、悪いことしたなあ、もっといろいろ書いてあげればよかったなあと気にかかっていたので、つい。
で、えーと、何の話でしたっけ?
「お世辞」はやはり「ウソ」だとばれてしまうとまずいですよね。
そういう意味では、「皮肉」よりはるかに「ウソ度」が高い。内心はマイナスのことを思っているのにプラスのことを言う「ウソ」です。あるいは実際に思っている以上にプラスのことを言う「ウソ」。相手を喜ばせることによって自分の立場を良くする、というふうに目的もはっきりしています。
「今日のお母さん、きれいだね」
これは、皮肉でしょうか、お世辞でしょうか。ひょっとすると、心からほとばしり出た真実の言葉かもしれませんが、まあ、それはそれとして。ここでは、あえて、あまりそうは思っていないのにそう言っているという状況を想定してみましょう。
すると、要するに、この言葉だけでは何とも判別しがたいわけです。国語的に言うと、ここで、「文脈」という概念が必要になるんですね。
お母さんがばっちり化粧をきめたタイミングで言っているならば、たぶん「お世辞」です。
しかし、寝起きで髪はぼさぼさ目は腫れぼったく・・・・・・という状況でこれを言っていれば、まちがいなく「皮肉」です。
また、そのねらいが小遣いをもらうことにあるならば、お世辞です。
何らかの理由で腹いせをしたいと考えているならば、皮肉です。
このあたりのいわゆる「遠回しな表現」についての話はなかなか奥が深く、子どもにとっては高い壁です。
これからもがんばって授業中ばんばん皮肉を言おうっと!
ダジャレでも「ふとんがふっとんだー」「アルミ缶のうえにある蜜柑」が、悲惨なまでにおもしろくないのはなぜでしょう。笑うどころか、そんなものを聞かされる理不尽さに我が身を呪いたくなります。おそらく作為性が強すぎるのでしょう。ダジャレを言うためにわざわざつくりました、という感じがミエミエでわざとらしいからではないでしょうか。
「あなたはキリストですか」「イエス」というのも同様なのですが、こちらはややバカバカしさがある分おもしろい。「あなたはキリストですか」という質問自体ありえない設定なのですが、わざとらしいというより、まぬけっぽい感じなので許せるような気がするのでしょう。
6年生の講義中、「プライド」ということばが出てきて「意味、わかるよな」と言ったら、「うん、知ってる。ケンタッキープライドチキン」と、にこやかに答えた某君には知性のきらめきを感じたものですが……。でも、「洗濯機」と言われて「センタッキーフライドチキン」と答えるのは、「わざとらしい」のですね。このちがいはどこから来るのでしょうか。
「困ったなあ。どうしょー、どうしょー。どうしょー平八郎の乱」なんてのは、困ったものです。それでも、「しまったしまった島倉千代子」より0.5ポイントぐらい上でしょうか。「よっこいしょ」とかけ声をかけるところを「よっこいしょーいち」(古すぎ!)というのは、おもしろさは皆無なのですがレベル的にはかなり高いのではないでしょうか。「島倉千代子」が「しま」という二音しか共通性がないのに対して、「よっこいしょ」まで同じで、ことばとしては完結してしまっているのに、さらにそのあと「いち」がつくことによって、単なるかけ声から昭和という時代の悲哀を感じさせる名前に持っていく展開には端倪すべからざるものがあるような気がします。やはり意外性というのは大事なのであります。
「北海道はでっけえどー」は三歳以上の人間なら誰でも思いつくのでおもしろくないのでしょう。もちろん、こういうフレーズを嬉々として人前で言う勇気がある人が存在するという事実は非常におもしろいとは思います。本当に自分でおもしろいと思っているとしたら、それはそれでまれな資質の持ち主として評価できますし、他人もおもしろいと感じるだろうと考えて言ったのなら、そういう人でも社会生活を営めるのだという、この世の優しさに感動できます。
新聞で、猫が話題になるとなぜか「捨てられてかなしいニャー」とか、犬なら「こまったものだワン」とか書いてあるのは、本当にかなしいニャー。だいたい新聞は決まり文句、紋切り型のオンパレードです。台風は必ず「つめあとを残す」し、歳末商戦でデパートは「ホクホク顔」だし、バッグをひったくられたおばあさんは「ガックリ肩を落とす」し、つかまった犯人は悪びれた様子も見せず、出されたカツ丼を「ペロリと平らげ」ます。投書欄でも「……と思う今日この頃です」や「……と思うのは私だけでしょうか」でしめくくる文章をよく見ますね。
もちろん新聞記事に斬新な描写、格調高い芸術の香り豊かな表現をされると困るでしょう。「無残に破壊された車体は、破壊されながらもその破壊から超絶していた。もしくは超絶を装っていた。」なんて記事を読まされたら、朝から疲れてしまいます。第一、事実の細かい部分なんて読者は要求していないのです。ほとんどの場合、おおまかな骨組みだけで十分なのであって、ディテールは読者には関係ないのですから。
そういう場合に紋切り型を使うことで、「あのパターンということで、どうかひとつ、胸にお納めを」「なるほど、あのパターンか、朝日屋、おぬしもワルよのう」と、お互いに納得できるですね。いいかげんなようですが、じつはこういうことができないとコミュニケーションというものは成り立ちません。共通のイメージをつくれる紋切り型の威力は絶大なものがあると思う今日この頃です。
昨日、第18期生の合格祝賀会が行われました。
我々講師のこの日の主たる業務は、劇への出演です。
この日のため、全員三國連太郎なみに台本を五千回読み、稽古を積んできました。
しかしいかんせん素人ばかりなので、なんともいえず大根。まずまずいけてるなと思えるのは、私以外はせいぜい能勢先生ぐらいですか。
期待はずれだったのは、ミュージカル好き理科の藤原先生ですね。自分でも言ってましたが、彼女はボケた人なので、ツッコミにはむいてないのでしょう。控え室前の廊下で不肖この私が蜷川幸雄と化してさんざん助言を与えたにもかかわらず、やたらとテンションが高いわりには、「打てば響く」感がなくてねェ。やれやれです。
理科の奥村・三倉コンピは例年どおり漫才を披露したわけですが、奥村先生の台本の完成が祝賀会前夜で、当日の朝まで練習していたとのことです。
奥村先生はまあ自業自得というんですかなんとかの横好きっていうんですか趣味でやってるわけだからいいでしょうよ。言ってみれば幸せ者です。毎年毎年M―1に挑戦しつづけて、はじめのうちこそみんなにがんばれよなんて言われていたものの、最近はすっかり話題にものぼらなくなり、たまに「へえ、まだやってるんだ」とティッシュを丸めて捨てるみたいな言われ方をされるだけになっても諦めきれずに(というか意固地になって)チャレンジしつづけているような人ですから。
かわいそうなのが三倉先生です。毎年祝賀会当日は睡眠不足でふらふらです。「もう寝ないとだめだ・・・・・・」とつぶやきながら漂うように歩いていましたよ。
しかし、さっきから、名前が出てきているの理科講師ばかりですね。
なぜだ?
ま、とにかく祝賀会も終わり、いよいよほんとうに第18期生をおくりだすことができました。
*
入試が済んで二か月近くたってこの祝賀会を行うわけですが、我々講師にとっても祝賀会は決意を新たにする場です。
久しぶりに子どもたちに会い笑顔を見て単純にうれしかったのはもちろんですが、その一方で、たとえば今日こうやって昨日のことを思い出しながら考えてしまうのは、塾生全員を第1志望の学校に合格させてあげることはできなかったな、ということです。
ほんとうに僕たちにとってそれがいちばんの夢です。どの学校に何人通すということではありません。チラシやポスターに何とかいてあるかは関係ありません。
僕は6年ほど前に希学園に転職してきましたが、そのときびっくりしたことのひとつに、合格発表の現場に講師が居合わせる、ということがあります。僕は希学園に来た年からずっと①Nコースを担当しているので、灘の発表の日は、半日、あの体育館で過ごします。
前の塾ではそういうことはありませんでした。保護者や塾生に顔を知られていない者がこっそり見に行って、合否を確認するだけです(そうやってすぐに数を確認しているわりには実績の発表はすごく遅い。問い合わせがあったら「今集計中です」と言っておけという指示が毎年出されていました)。
ほんとうに合格発表の日は、一年のうちで最も緊張し、気が重い日です。
番号のなかった子をうながして事務所まで点数をもらいに行き(灘中は受験者に点数を教えてくれます)、繰り上げ合格がきそうな点数かどうかをいっしょに見るんです。もちろん、合格できなかった子や保護者の方の無念さにくらべると、我々の心苦しさなど何ほどのものでもないのでしょうけれど・・・・・・。
*
もう何年も前の話ですが、合格確実だと思われていた子が不合格になってしまったときのこと(残念ながらそういうことは時折経験します)を思い出します。
その子は発表を自分で見には来なかったのだったかどうだったか、いずれにせよ、その場でその子に会うことができず、家に電話をかけました。灘の発表の日、ということは洛南の入試の日で、つまりまだ行くべき学校が確保できていない状況ですから、その次の日も別の学校の入学試験を受けなければいけないわけです。
何と言って慰め励ましたらいいのか、頭の中でいろいろな言葉が(どれもぴったりこない)ぐるぐるまわっている状態で体育館の横のだれもいないところに行って電話をかけました。
保護者の方と今後の予定を簡単に話したあとで本人にかわっていただいたんですが・・・・・・。
電話に出てきたその子が、
「すみませんでした」
と言ったんです。
ちょっとまいりました。
講師が泣いてはいけない、あるいはむしろ泣く資格はないと思っているんですが、そのときはちょっとだめで、しばらく声が出ませんでした。
*
だからやはり、絶対に合格させなければいけないんです。
もちろん、全員合格させるなんてほんとうに可能だと思っているのか、口だけならなんとでも言えるぞ、と問い詰められれば、うまく言い返せないかもしれませんが、でも、少なくともそういうことを、合格発表の場にいつづけて子どもたちといっしょに喜んだり悲しんだりしていないよその塾の講師には言われたくありません(言われたことないですけどね)。
というわけで、来年の入試に向けて、みんな決意を新たにしているところです。
新6年の塾生諸君、がんばろね。
授業を終えて帰途につくと、駅のホームで、あるいは電車の中で、「お、この人は塾講師ではあるまいか」と思われる男性を目撃することがあります。
見覚えがあるとか、特殊なバッグを持っているとか(おっと、これは子どもか)いった理由によるものではなく、あくまで「なんとなく」です。
昔からよく話題にのぼるのですが、なんだか、塾講師って・・・・・・わかるような気がする。
(あ、同業者の匂いがする!)
みたいな。
それはいったいなぜなのか?
塾講師的雰囲気とはいったいどのようなものなのか?
管見では、それは「一種独特な崩れ方」とでもいったものではあるまいか、と。
「だらしない」というわけではないんですが、なんとなくふつうのサラリーマンとはちがう感じ。
もちろんそうでない人もいます。
たとえば、社会科のあの先生なんて、ごくふつうの男前のサラリーマンでとおりそうです。
そういえば前職の上司が、
「塾講師なんて、能力ないか常識ないかのどっちかだよな」
と言ってました。
当時職場を見まわして、確かにそのとおりだな、と。
さて、俺はどっちだろう?なんて考えたりして。
その後、希に入社したとき、「少なくとも前者のタイプはいないな」と感心したものです。
となると、問題は後者のタイプか。
っていうか、俺か。
うう。
「麿」つまり「まろ」は「丸」と書いてもかまいません。「からたちも秋はみのるよ まろいまろい金の玉だよ」です。「まろ」も「まる」も同じです。
名前の下に「丸」とつくのは幼名に多いようですね。実は名前の本体ではなく、愛称つまり「~ちゃん」というニュアンスなのでしょう。自分のことを麿というのも「ボクちゃん」という感じです。だから親は「牛若丸」と呼ばずに「牛若」とよぶこともあったでしょう。秀吉の幼名が「日吉丸」なんてはずはなく、きっと「サル」とでも呼ばれていたにちがいありません。でも、のちの伝記作者たちはかりにも関白の幼名を「サル」とするわけにはいかず、サルをおつかいとするのは比叡山の日枝(ひえ)大明神、日枝は「日吉」とも書くから「日吉丸」でいこうとでっちあげたのだそうです。藤原四兄弟の末っ子の名が「麻呂」なのは、親や年の離れた兄貴たちから甘やかされて「まろ、まろ」つまり「ボクちゃん、ボクちゃん」と呼ばれていたからだという説もあります。
ということは柿本人麻呂の「人麻呂」は「人ちゃん」ですね。万葉歌人には高橋虫麻呂という人もいたので、これは「虫ちゃん」です。この「人麻呂」に無実の罪を着せて名前まで「人」を「猿」に変えておとしめたのが「猿丸大夫」の正体だと言った人もいました。たしかに猿丸大夫は三十六歌仙の一人で、歌の名人ということになっているのに、猿丸名義の歌が残っていないのは不思議です。「もみじ」といえば「鹿」、という取り合わせの元になったとまでいわれる「奥山に…」の歌にしても猿丸作という確証はないそうな。梅原猛『水底の歌』は推理小説を読むようでたいへんおもしろいものです。
梅原説によると人麻呂は流罪になって恨みを飲んで死んだので、たたりをおそれてまつるために神として扱ったということです。菅原道真同様、たたりそうなやつは神様にしてうらみを忘れてもらおうという発想です。怨霊となったと言われる崇徳院の「王を民とし、民を王としてやる」という誓願によって武士の時代が到来したと、朝廷の人々は信じていたのでしょうか、何百年もたって王政復古の時が来たとき、明治天皇が真っ先にしたことは崇徳院をまつる神社に参拝することだったそうです。怨霊をまつる神社の威力はすごいものがあります。
人麻呂の場合は、柿本神社というのもありますが、人丸神社というのもあります。歌の名人の人麻呂をまつっているのに、なぜか火事を防ぐ神様、安産の神様になっています。理由は「火止まる」「人産まる」。あとのほうはちょっと苦しい。要するにダジャレですね。神様の御利益をダジャレで決めてしまうのもどうかと思いますが……。なにせ「駄」ですからね。
でも、そういうダジャレを好む人が世の中に多いのもたしかです。とくに「親父」には多いようです。年をとるにしたがって、頭の中でダジャレ菌が繁殖してくるのでしょうか。「親父」系のダジャレの中は全くおもしろくないものが圧倒的に多いのですが、おもしろいものもないわけではありません。ちょっと苦しいぐらいのものがばかばかしくて笑えることがあります。「へびが車にひかれて血が出ちゃったよ。ヘービーチーデー」なんて、むっとする人もいるかもしれませんが、志ん生の口調で言われると笑ってしまいます。
考えてみれば「音が似ている」だけなのに、なぜおもしろいのでしょうか。笑いの理由を説明するのは難しいのですが、どうも「まったくちがうもののはずなのになぜか似ている」ということが笑いを呼ぶようです。TVでよくやる「そっくりさん」がそうですね。「そっくりさん」、知ってますよね。紙に「あいうえお」とか「はい」「いいえ」と書くやつではありません。それは「こっくりさん」ですから。いま言っているのは「そっくりさん」。けっして「おもしろい」顔ではない人がだれかに似ていると思った瞬間、笑える顔になります。単体として見た場合にはそれなりに独立しており、決して笑いの対象にはならないはずのものが、何らかの、特にある種の権威あるものと比べて似ている、となったとき「もどき」の位置に転落することから生まれるおかしみでしょう。要するに、「もどき」は滑稽なのです。世の中には「人間もどき」も多いようですが……。
おかげさまで入試分析会はすべての日程を終了いたしました。ご来場くださったみなさま、ありがとうございました。
結局私は奈良西部会館以外すべての会場で大幅に予定時間をオーバーしてしまい、ひたすら顰蹙を買う日々でした。
来年こそ!
はじめからたくさん時間をもらえるよう交渉してみよう。
入試分析会がつづいています。
明日は奈良の西部会館で、男子は灘・東大寺・西大和、女子は洛南・四天王寺・帝塚山の分析ということになります。
明日こそ時間延長は許されない!
西宮のプレラ、四条烏丸教室、谷九教室とすべて大幅に時間を延長してしまいました。
はじめのうちは「すみません」と他の先生に謝っていた私ですが、3回目ともなると謝る気もせず、何だか逆ギレ気味に憮然としてしまうのであった。
しかし明日こそは・・・・・・!
みなさまのお越しをお待ちしております。みなさまのお役に立つ分析を心がけてまいります。
「ひよどり」や「ひよこ」のように、擬声語・擬態語がもとになったことばは意外に多そうですが、英語などではどうでしょう。「st」は「ストッ」という音の感じで、固いもの、しっかりしているもの、動かないものというイメージがあります。「ストーン」「スタンド」「ストップ」などがあてはまりそうです。「sl」は「スルッ」なので、なめらかなもの、流動的なもの、すべるもの、という感じです。「スリップ」「スライド」などはまさしくその通りですし、「ずるい」という意味の「スライ」ということばも、うまくすりぬけてごまかす感じから来たものでしょう。「カッコー」と鳴く鳥の名前はどの国のことばでもよく似ているらしいのですが、これは当然鳴き声からつけられた名前だからです。
でも、日本語と英語で擬声語・擬態語が異なるというのも、よく話題になります。「ワンワン」が「バウバウ」、「コケコッコー」が「クックドゥードゥルドゥー」、「キラキラ」が「ツィンクルツィンクル」……。
日本では「幼児語」(というより「幼児に対して使う語」)として擬声語・擬態語を利用することがよくあります。犬を指さして、「ほら、ワンワンちゃんよ」とか。「ブーブーに乗ってお出かけしましょ」と言えば、たぶん自動車でしょう。場合によっては「お母さん」におんぶするのかもしれませんが……。こういうのは外国にもあるのでしょうか。幼児語そのものはあるのでしょうが。
日本人はどうも子どもにあまいというか、子ども中心というか、子どもを基準にすることが多いようです。家庭内での呼び名も、夫婦だけのときには「あなた」と呼ばれていた夫が、子どもができると「お父さん」と妻から呼ばれます。その子が結婚して孫が生まれたらめでたく「おじいちゃん」に昇格します。妻にとっての「おじいちゃん」ではなく、孫を視点の基準としているのですね。つまり家庭内の一番幼い者が座標軸の原点になります。欧米では、原点に自分を置くのでしょう。そしてそれは確固不動のものなので、だれが相手でも、自分は「I」です。ところが、日本人は相手がだれであるかによって、「ボク」「わたし」「わたくし」「オレ」「お父さん」「おじいちゃん」と使い分けます。「拙者」「吾輩」「小生」なんてのもあります。
古くは、自分は「わ」、相手は「な」、第三者は「か」、わからないやつは「た」でした。中国に行った使者が、「おまえの国の名は?」と聞かれて、「えっ、オレ?」と聞き返したときの「わ」が「倭」になったのです。断定したらだめですが……。でも、やはり「わ」は紛らわしいのでしょう。なぜか「れ」がついて「われ」「なれ」「かれ」「たれ」となりました。「たれ」は「だれ」と濁り、「なれ」は消えましたが「われ」「かれ」は残っています。そして「われ」は「をれ」になり「おれ」になったり「おら」になったりしたのでしょう。
ところで、塾生相手に講師は自分のことをどう表現しているのでしょうか。「いいか、先生はだな……」というように「先生」と言う人も結構いそうですが、どうでしょう。「ボク」は幼稚だし、「私」もかたすぎる感じがあるし、「俺」も品性を疑われそうだし、「わし」といえば、じじい丸出しだし、「拙者」というと「なに時代や」とつっこみがはいりそうだし、「オラ」というとバカにされそうだし……。たとえば「麿の言うことを聞かへんと入試には通らへんのでおじゃるよ、ホッホッホ」なんて言いたいのですが、だめでしょうか。
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