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2010年7月24日 (土)

小学生のときに読んだ本②

ダーウィンの伝記

出版社はおろか、もはや筆者の名前も正確な書名すらも忘れてしまいましたが、とにかくダーウィンの伝記です。けっこう字も小さくて中学生の読書にも耐えられるレベルだったような。 

これは個人的に影響が大きかったです。

大学生のとき、文学部にもかかわらずダーウィンの『種の起源』を読んでいたのは、小学生のときにこの伝記と出会っていたからですね。

『種の起源』の感動的なところは、ダーウィンが自説の弱点を包み隠さずに述べている点です。 これについては今のところ根拠がない、かくかくしかじかの化石が見つかれば・・・・・・というふうにごまかしのない誠実な書き方をしています。

当時、スティーヴン・J・グールドの、進化論についてのエッセイが流行って、僕も『ダーウィン以来』とか『パンダの親指』とかいくつか読みました。

ダーウィンの時代の人々にとって進化論(ダーウィンはこの言葉を使っていないようですが)がいかにも容認しがたい説と映ったのは、人間の祖先がサルであるなどと非常識なことを述べているから、ということではなく(そもそも『種の起源』ではそのへんには踏み込んでいない)、進化論が「唯物論」だったから・・・・・・と書かれていたように記憶しています。

また、グールドのエッセイによると、実際ダーウィンが発表を禁じたノートには、神というのは人間の脳髄が生み出したものだ・・・・・・と書かれていたとか。

まさに唯物論の時代だったんですねぇ。マルクス、ダーウィン、フロイト、みんなそうです。

「進化論」だけでなく「遺伝学」にも興味がわいて、医学部の友人から「遺伝学概説」みたいなテキストを借りて読んだりもしました。何かに役立てようという気持ちがまったくないですから、まさに純粋な興味、純粋な好奇心です。かっこよくいえば「知的好奇心」ですな。うひょー。

今でも、ときどき「進化論」関係の本を読みますが、何がおもしろいのかと訊かれてもうまく説明できません。小学生のときに植え付けられたんですね。

小学生のときは、ダーウィンに限らず伝記をよく読みました。他に印象に残っているのは、エジソン、源義経、野口英世といったあたりでしょうか。

エジソンは偉さが小学生にわかりやすいですね。その点、友人の読んでいた「良寛」は何が偉いのかよくわかりませんでした。いい歳した大人が子どもと遊んでばかりいてよう、なんて思ってました。

「源義経」は軍事的天才の華々しさみたいなものが小学生男子のハートをつかんだんでしょうね。後々、司馬遼太郎の『義経』を読むと、軍事的天才とは裏腹の政治的無能ぶりがえがかれていて、それはそれで面白かったですけど。その頃には源氏より平氏びいきになっていました。

源氏は兄弟で殺し合ったりしてちょっと陰惨過ぎる気がします。

平家物語なんて読むと、平知盛の最期の場面とかかっこいいですよね。「見るべきほどのことは見つ」なんて言っちゃってね。

自分というものを知らず、政治状況も理解しないまま、右往左往して滅びていく義経と比べると、何もかもわかったうえで滅びへと身を投じていく知盛は、やはりかっこいいですな。そういえば山崎正和でしたか、ギリシャ悲劇的な意味合いで真に「悲劇的」にえがかれた人物は日本では平家物語の平知盛だけと述べていましたね。

伝記の話でした。

野口英世は、今となっては業績のほとんどが否定されていて悲しい気持ちになります。昔、小室直樹が、「日本人は成り上がり者が嫌い」と言っていたけれど、野口英世の人生にもその悲哀を感じますね。一度はもてはやしますけれど、決してほんとうには成り上がり者を受け入れることはしないのが日本人だと思います。

もちろん、野口英世の業績が否定されているのはそのせいではありませんが、逆に、日本で受け入れてもらえないから、結果を出さなければいけないと焦ってしまったのかな、と思います。

伝記はおもしろいです。今でもたまに読みます。

比較的最近になって読んだのは、尾形亀之助という詩人の伝記ですが、この人はもう・・・・・・何といえばいいのか。野口英世とは逆に大金持ちの家に生まれ、はじめは画家を、次に詩人を志しますが、詩人として成功しようという気持ちをいつからかなくしてしまいます。そして、そのころには、実家も膨大な借金を背負って逼迫しているのです。

最後の詩集である『障子のある家』には次のような序文が載せられています。

自序

 何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次へ。
 私がこゝに最近二ケ年間の作品を随処に加筆し又二三は改題をしたりしてまとめたのは、作品として読んでもらうためにではない。私の二人の子がもし君の父はと問はれて、それに答へなければならないことしか知らない場合、それは如何にも気の毒なことであるから、その時の参考に。同じ意味で父と母へ。もう一つに、色々と友情を示して呉れた友人へ、しやうのない奴だと思つてもらつてしもうために。(すべて原文ママ)

これは相当に風変わりな人ですよね。なんといったらいいのか・・・・・・変です。

僕自身は、「それに答へなければならないことしか知らない場合」という部分が好きです。突き放すようで突き放しきれない感じが、なんともいえず優しく、哀しくて。

そんなふうに思うのは僕だけですかね?

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