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2011年2月 8日 (火)

ポイントは三つある

かなりのブランクがありますが、何事もなかったかのように、前回のつづきです。プロの話でした。

話術のプロといえば、芸人ばかりではなく、塾の講師もそうです。というより、芸人みたいな講師も多い。中にはM-1グランプリに出てる講師もいるそうです、よく知りませんが。M-1が終わって、どうするんでしょうね。心なしか、頭のかがやきも寂しげです。頭のつながりで思い出しました。坊さんにも上手な人が多いようですね。一般庶民に仏の道を説くためにおもしろおかしく話をする必要があったのでしょう。「説経」が落語などの話芸のルーツだそうです。でも、落語家といっても上手下手があります。はっきり言って、下手なやつは下手。ネタは同じなのになぜあんなにちがってくるのでしょう。師匠の話すことばを完全にコピーしても、何かがちがうのですね。月亭八光が言っていました。笑福亭仁鶴のテープで話をおぼえたものの、テープの中で笑いがドッカンドッカン出ているのに、八光が同じところをやっても、客席はクスリともしないとか。

アナウンサーは原稿を読むことについては最高のプロです。だからといって文学作品を朗読しても魅力的とはかぎらない。俳優の朗読のほうがむしろ魅力的なことがあります。何がちがうのでしょうか。たとえば、稲川淳二というタレントがいます。夏になるとよく出てきて怪談を聞かせてくれる人です。あの人、はっきり言って滑舌はかなり悪い。それなのに「聞かせる」のですね。内容・間・リズムなど、独特の魅力があります。「やだな、やだな」なんて、物真似されています。笑福亭鶴瓶も声は悪いのですが、「聞かせ」ます。内容に意外な展開が多いのですが、じつは話の組み立て方がうまいのですね。武田鉄矢も上手です。この人の場合は声の質が心地よいのですが、若い頃はやや甲高い早口のトークでした。ところが、映画で共演した高倉健の影響を強く受けたらしく、意識して、ゆっくりめの低い声で話すようになってきました。聞いていて、安心感を与えるような話し方というのも魅力的なようです。でも、それはなかなか模倣できない。

「魅力」というのは「花」のことでしょうか。もって生まれた「花」もありますし、ふとしたきっかけで開花するものもあります。訓練したからといって、すぐに魅力的になるとはかぎらないのがつらいところです。テクニック的なものは訓練できるでしょう。「弁論術」みたいなものはとくに西欧では訓練するみたいです。彼らは相手を説得するということに大きな価値を見いだしてきました。場合によっては「詭弁」であっても、相手が反論できなければ評価されるのですね。「自分がされていやなことは、ひとにもするな」「ほなら自分がされていやでなければ、ひとにしてもええんやね」……、「××くんの秘密を知っているか」「秘密なら知ってるわけないやないか」……、「お金こそ最も価値あるものだ」「そしたら、なんでお金を物にかえてしまうねん」……、「チョコレートを毎回半分食べてれば一生なくならへん」……、アホです。

こんな話もあります。弁論術がうまくなったら礼金を払うという約束で弟子入りした男が、習い終わったあとも礼金を払わなかったので裁判になった。師匠が「おまえがこの裁判に負けたなら、判決どおり礼金を払え。裁判に勝ったなら、弁論術がうまくなった証拠だから、約束どおり礼金を払え」、そうすると男は、「おれが裁判に負けたなら、弁論術がうまくならなかったのだから、礼金を払う必要はない。裁判に勝ったなら、判決どおり礼金を払う必要はない」……、西洋の人はこんなのが好きなんですね。

ディベートというのも変なものです。「カレーとラーメンとどちらがおいしいか」というテーマで、自分はカレーだと思っていても、ラーメン派に入れられたら、無理矢理でも理屈をつけていくわけですね。こういうものが成立するということは、「どんな意見でも反論される。世の中に唯一絶対の理屈や意見はない」という前提に立っているということですよね。要するに「自分の意見は必ずしも正しくない」ということになります。なんだか論争すること自体、無意味になってしまいそうです。「理屈と膏薬はどこへでもつく」というすばらしいことわざを西洋の人におくってやりたいなあ。

詭弁ではないのですが、すごくいやみに感じるのが「ポイントは三つある」とか言って、「一つは……」とやり出す話し方です。アメリカの映画などで主人公がよくやります。自分はすでにそれだけの分析ができていると言わんばかりなのが、鼻につきますね、いかにも自信満々で、しかも説得力がありそうなのがむかつきます。ところが、「三つあるのだ」と言って、相手をびびらしておきながら、実は二つしか思いついていないらしい。そうやって、相手を恐れ入らせるのが目的なので、言いながら三つ目を考えていることが多いそうです。日本人には思いつかない発想ですね。

西洋の人がよくやる(本当にやるかどうかわからない、映画や小説でよく見るだけです。単なるアメリカンジョーク?)「グッドニュース、バッドニュース」というのもあざとくて、いやみです。医者と患者の会話。「いい知らせと悪い知らせがあります。悪い知らせですが、あなたの心臓とまちがえて、肺のほうを手術してしまいました」「なんですって。じゃあ、いい知らせというのは?」「あなたの心臓は正常で、手術の必要はありませんでした」みたいなやつです。これなんかも、日本的ではなさそうです。一つの物事には両面があるとか、見方によって真実はかわるなんて、むしろ、日本では当然すぎて「笑い」にならなかったのかもしれません。

では、なぜアメリカ人の「二分法」が日本で生まれなかったのでしょうか。私が思うに、そのポイントは三つあるのです。一つは……。

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