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2011年5月16日 (月)

三方一両得

テレビのバラエテイ番組で、こんなときのマナーはどうすりゃいいの、という設定で、バナナをナイフとフォークで食べるにはどうすればよいか、というのをやっていました。マナーの先生がお皿に載った皮付きのバナナの両端をナイフで切り落としたあと、縦に一直線、皮に切れ目を入れて、ナイフとフォークで皮をむき、それから輪切りにするという「マナー」を紹介していました。そのときは「なるほど」と思ったのですが、よく考えると皮付きのバナナ一本を皿に載せて出してくる「料理」なんてありえないのでは?

焼香のマナーというのも、よくわかりません。お香をつまんだあと額のところでおしいただくのかどうか、それは一回でよいのか何回かしなければいけないのか、宗派によってちがうという説もありそうで、ひとのするのを見て真似しようと思うのですが、後ろから見ていると食べているように見えて、TKOのねたは笑いながらも、納得させられます。おくやみもどう言えばよいのやら。はっきりと口跡さわやかに言うものではないのだから、ゴニョゴニョ言えばよいのでしょうが、それでも言うことばに困ります。場合が場合だけにうっかりしたことは言えません。結婚式なら、うっかり「それでは乾杯三唱」とか言いまちがっても笑って許してくれそうですが……。

ひとにものをあげるときのことばも難しい。恩着せがましくなるとまずいし、「つまらないものですが」というのも、相手との間柄次第で、かなり親しいときなど意外に使い勝手が悪い。私は「これやる」とか「持ってけ泥棒」と言って、ごまかします。ホワイトデーのときのフレーズも困りますな。「お返しです」というのもなんか変だし、私はよく「仕返しじゃ」と言って渡していました。最近はチョコレートももらわなくなったので、気が楽です…って、なんかくやしいです。

ちょっとした一言というのは、なんでも結構難しいようです。受験生によく言う「がんばれ」なんか、どうなのでしょう。「がんばれ」は最近ひじょうに評判が悪いようです。人を傷つける「がんばれ」もある、と言われると、うっかり言えなくなりました。「がんばらない」を売りにするのはあざとくていやですけどね。でも、受験生には「がんばれ」と言うしかないでしょう。「がんばるな」と言うわけにはいかない。とくに塾講師は「がんばれ」と言うことが多いようです。最近は聞かなくなりましたが、「勉強しすぎて死んだ奴はおらん」ということばはちょっと抵抗がありますね。「それって本当? ひょっとして一人くらいいてるんとちゃう」と思ってしまうのですが。なんでも「…しすぎ」はあかんでしょう。

ただ国語の勉強はずっと続きます。起きている間すべて、じつは国語の勉強をしてるんですね、本人が気づかないだけで。ものの考え方、生き方、人とのふれ合い……、全部国語の勉強です。世の中にはこんな人がいてるんや、という驚きも、吉本新喜劇を見ていてアハハと笑うことも国語につながります。ひととしゃべるだけで勉強しているわけだし、何か考えるだけでも国語の勉強です。昨日と今日を比べても、格段に国語の力がついているはずです。一年前の自分と比べれば、ことば数は増えているし、経験値は増えているし、いろいろな呪文も覚えているし。ということは、「国語が嫌い」というひとは「生きてるのが嫌い」と言っていることになります。みなさん、今後は「国語が嫌い」と言わないようにしましょうね。

毎年出ているベストエッセイ集のタイトルに「信長嫌い」というのがあったことを思い出しました。藤沢周平の書いた同名のエッセイを本のタイトルにしたものです。信長嫌いの理由は、比叡山延暦寺の焼き討ちや本願寺の弾圧だと書いていました。非戦闘員を大勢殺した信長の残虐性が許せないという内容で、読んだときにはやはり「なるほど」と思いました。書いているのが藤沢周平だけに、「やっぱりこの人はするどい」なんて思ってしまったのですが、それに対する反論を書いている人もいます。いわく、信長はいきなり焼き打ちしたわけではなく、何度も降伏勧告しているし、当時の延暦寺や本願寺はいまのお寺とはちがって武装集団だった。信長は、日本をより良い国にするという目的を持っており、そのためには、宗教勢力の武装解除を行い、多くの利権を剥奪する必要があった。比叡山の焼き討ちは、敵対する武装集団を屈伏させる方法であり、その結果、いまのような「平和」なお寺になったのだ、そういう事実を無視して、「嫌い」と言うのはおかしい……。うーん、なるほど。もしそうであるなら、信長嫌いは「無知のため」ということになりそうです。

とはいうものの、本当のことを知らないで結論を下したり、無知ゆえ毛嫌いしたりするのはよくあることです。逆に、賛美されているために見えなくなるものもあるかもしれません。みんながほめるものにあえて異を唱えるのはへそ曲がりのひねくれ者です。でも、みんながそろってほめるほどすごいものなのか、というとそうとは限らないものもありそうです。大岡越前の「三方一両損」など、名裁判とされていますが、本当にそうでしょうか。三両の落とし主は二両もどってきたので一両の損、拾ったほうは猫ばばしていれば三両の得だったのに、二両になったから一両の損、三両に一両足した大岡越前は一両の損、みんな一両の損ということで納得しろ、というのはあまりかしこくないような気がします。大岡越前は三両を三つに割って、落とし主、拾い主、そして自分が一両ずつとるというお裁きをすべきだったのではないでしょうか。落とし主は三両失っていたところ、一両もどってきたのだから一両の得、拾い主はもともと他人のお金で自分のものではなかったのに一両手にはいったのだから一両の得、大岡越前は裁判にかかわったおかげで一両もらえたのだから一両の得、つまり「三方一両得」のほうがよいに決まっているではありませんか。どうして「損」をわざわざ選んだのでしょう。大岡越前って、評判ほどかしこくなかったのかもしれませんね。

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