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2012年2月 4日 (土)

エジソンの父は発明の父の父

毎年恒例で、入試があったことも関係ないかのように前回のつづきです。わらじは「一足」「二足」と数えるのですね。つまり、はきものの場合の助数詞は「足」ということになります。では、手袋はどうなるんでしょう。「一手」「二手」とは言わない。昔から言わん、いまだに言わん、これ一つの不思議、なんの不思議なことがあるかい、橋無い川は渡れん、渡るに渡れんことはない、船で渡るか泳いで渡るか、それではことが大胆な、ほたら一体どうせぇっちゅうねん、というのは「池田の猪買い」という落語です。ここで橋のことを言ったのは脱線ではなく伏線なのですが……。まあ手袋の場合も「一足」ということがあるようですが、なにか変なので無難なところでは「一組」とか「一対」なのでしょう。

だいたい助数詞というのは難しいようです。ひらたいものは「一枚」「二枚」ですが、新聞となると、「部」や「紙」という助数詞も登場し、日本語を習いたての外国人は使い分けに悩むところでしょう。細長いものは「本」ですが、へびは「一本」「二本」とは言いません。細長くないくせに電話や映画でも「一本」ということがあります。むかしの手紙は細長いと見ることもできそうなので、手紙なら「本」はなんとなく納得です。電話も、その関連から来ているのかもしれません。お金で「一本」というのは何でしょう。「報酬はいくらだ」「まず一本というところだな」なんてドラマでもよく見るシーンですが、これはいくらでしょうか。むかし九十六文の穴を通してまとめると百文として使えたというところから来ているのなら「百」ということかもしれません。ということは百万か。いまの時代なら一けた上がって一千万円でしょうか。ひょっとして「一本」は指一本のことかもしれない。そうすると、一万円? 「一本」とは言うけど「二本」とか「三本」とか言っている場面は見たことがないので、助数詞ではないのかも?

いずれにせよ「本」というのは不思議な助数詞です。書物の「本」を「一本」「二本」と数えないのも不思議ですが、上に来る数字によって読み方が「ほん」「ぼん」「ぽん」と変わるのも外国人泣かせでしょう。二・四・五・七・八・九は「ほん」、三は「ぼん」一・六・十は「ぽん」です。促音便の「っ」になると「ぽん」になるのはわかります。「八」も「はっ」となれば「ぽん」です。ところが、「さん」のときは「ぼん」なのに「よん」は「ほん」になるのは変です。「三」はsanではなく古くはsamと発音していたようなので「三位」は「さんみ」になりますが、「よん」は新しい音で、yonなのかもしれません。そのちがいでしょう、たぶん。京都には「橋」があるが大阪には「橋」がないという話があります。ここで伏線が生きてきた。三条大橋や四条大橋は「おおはし」ですが、天満橋、天神橋、心斎橋、戎橋は「はし」ではなく「ばし」だという、しょうもない話です。「八百八橋」というのも「ばし」です。

話を助数詞に戻すと、蝶々を「一頭」「二頭」と言うのはいやですね。魚や鳥以外の動物は「頭」と言うのだという考え方もあるようですが、一般的には小さな動物は「匹」です。一説には、蝶々の愛好家が自分たちのあがめる蝶々は他の凡百の昆虫とはちがうのだから差をつけようとして「頭」と数えることを主張したとか。兎が「一羽」になり、いかやたこが「一杯」となったりするのも面倒です。いっそのこと、名前を助数詞とするのはどうでしょうか。一ゴリラ、二ゴリラとか。でも一アフリカイボイノシシ、二アフリカイボイノシシなんてなるとつらい。リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシっていうのもありましたが、あれは植物でしたか。あまり長いと不便です。寿限無になってしまいます。逆になんでもかんでも「個」にしてしまうのもどうかと思います。「年が一個上」なんて言い方はちょっとなあ。

人は「ひとり」「ふたり」でそれ以上になると「三人」「四人」です。ところが死ぬと「体」になるのはおもしろい、というのは不謹慎でしょうか。死体は「一体」「二体」です。では幽霊はどう数えるのでしょうか。知り合いの専門家(?)は「あんたの家の向いの二階の窓に五体浮かんでる」と言っていましたが、やはり「体」なのでしょうか。神様になると「柱」ですが、唯一絶対神の場合はどうなのでしょう。唯一なのだから助数詞は必要ない? 日本の神はよく「八百万」と言います。つまり、「やおよろずばしら」の神がいることになります。ほぼ大阪府の人口に等しく、東京都の人口の三分の二ぐらいですね。ということは、八百万の神がすべて東京に住んでいる(住んでいるというのも変ですが)とするならば、三人に一人は神様ということになります。歩いている人に「おまえ、神様?」と尋ねたら、三人に一人は「うん、おれ神様。おたくも?」ということになります。

日本の神様がどれぐらい多いか、こういう風に言われると理解しやすい。よくあるのが、「東京ドームにたとえると」というやつです。テレビでよくやっていますね、大きさや広さを感覚的にわかってもらうために。関西人にはいまいちピンと来ないのが残念です。「甲子園にたとえると」と言われたら一発です。この前テレビでやっていたのは、外国に取材に行って、日本人のレポーターが「広さを東京ドームにたとえるとどうなりますか」と聞いたら、現地の人が「東京ドームなんて知らない」と言ってました。ザマミロと思いましたね。「このステーキ、一万円」と言われると、高いなあとは思うけど、どれぐらい高いかは感覚的にはわかりにくい。ナイフで切って、一切れ千円、一かみ五百円、なんて思うとよくわかる。山下清の「兵隊の位で言うと」というのも、どれぐらいのレベルのものなのか、わかりやすくなります。ただし、兵隊の位を知らないとどうしようもありませんが。「東洋のパリ」とか「だれだれ二世」というのも、元のものにたとえてよく似ているか同じくらいのレベルにあるという意味なのでしょう。ただ、実際にはみんなレベルダウンしてしまっているのがかなしい。「発明の父」というようなたとえもよくあります。では、「発明の父の息子」は「発明」なのか、という屁理屈をこねる人もよくあります。

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