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2019年3月の2件の記事

2019年3月27日 (水)

聖徳太子の地球儀

前回、日本語のルーツがシュメール語という「トンデモ説」を書きましたが、モンゴル語と日本語は文法が似ているので、単語さえ覚えればなんとかなると司馬遼太郎が言っていました。司馬遼太郎は今の大阪大学のモンゴル語学科で学んだので、ある程度真実でしょう。モンゴル語なら「トンデモ説」にならないかもしれません。ただ、文法や語順が似ているからと言って、ルーツと言えるかどうかは疑問です。日ユ同祖論というのもあります。「ユ」はユダヤですね。これは「トンデモ説」ですかね。

大阪城の博物館にある屏風絵に長篠合戦を描いたものがあり、信長の家来の中に六芒星の紋の入った羽織を着ているものが何人かいます。安倍晴明の家紋は五芒星で有名ですが、六芒星は晴明のライバル蘆屋道満の家紋です。晴明との術比べに敗れたあと、道満は在野の陰陽師となったらしい。その子孫として土師氏などがあり、それらが信長の家来になったと思われます。戦場に出ているのは、「気象士」としての役割だったのかもしれません。一方の信長は、源平交替思想で、清盛の平氏、頼朝の源氏、平氏である北条氏、源氏の足利のあとを継ぐために平氏を名乗ったようですが、元は越前の織田剣神社の神官の家系で、越前守護の斯波氏の守護代になりました。尾張も斯波氏が支配していた関係で織田氏も尾張に移ったのでしょう。本来は藤原氏か忌部氏だと言われています。忌部氏であるなら、朝廷の祭祀を担った一族なので、陰陽師とのつながりもありそうです。ところが、なんとこの忌部氏が実はユダヤ系だという「トンデモ説」があるのですね。で、ユダヤの王家の紋章が六芒星です。ダビデの星として今のイスラエルの国旗にも描かれています。ここで、信長の家来に六芒星軍団がいることとつながってしまうのです。

日ユ同祖論というのは、古代イスラエルの十二支族のうち、十支族が消えてしまったのですが、そのうちの一つが日本にやってきた、というやつです。秦氏の正体だという説もあります。今の京都のあたりをねじろにした一族で、その本拠地が「太秦」と書いて「うずまさ」と呼ぶところです。東映の撮影所のあったところで、今は映画村になっています。中国経由で秦の始皇帝の子孫というふれこみでやってきたらしいのですが、もっと西の方のにおいがします。秦氏の基を築いたのは「弓月臣」と言われていますが、中央アジアには「弓月国」がありました。秦氏の氏寺である広隆寺にある井戸が「いさら井」と言うのは「イスラエル」の音と似ています。八坂神社も古くは祇園社と言いましたが、ユダヤの民にとっての聖地「シオン」に「祇園精舎」の「祇園」の字をあてたのではないか、とも言われています。祇園祭が国際色豊かなのも、そのこととなんらかのかかわりがあるのかもしれません。

さらに諏訪の地にまでユダヤの民族が行き着いたということで、諏訪の祭りとユダヤ教の神事との類似点が指摘されます。ユダヤでは羊を生け贄として神にささげたのですが、日本には羊がいないためなのか、諏訪では鹿の頭をささげます。ご神体が守屋山でそれをまつっていたのが守矢氏、聖書でアブラハムが行ったのはモリヤ山。七年に一度の大祭、御柱祭りは、樹齢百年以上のモミの大木に人々がまたがって、急斜面をすべりおりてくるやつですね。けが人は言うまでもなく、死者さえ出すことがある、危険きわまりない奇祭ですが、これもソロモン王が神殿を建てたときの故事と結びつくとか。ただ、「似ている」というのは根拠としては実は弱い。英語の単語のいくつかに日本語と似ているものがあったからと言って、同じ起源をもつものとは言えません。

聖徳太子もキリスト教との類似がよく言われます。馬小屋で生まれたとされるキリストに対して、うまやどの皇子という名もあやしいといえばあやしいし、どちらも「復活」しています。太子の母は、救世観音が口から胎内にはいって、太子を身ごもったという話もありますが、これはキリスト誕生なのか、お釈迦様なのか。摩耶夫人も白い象が胎内にはいる夢を見て懐妊したとか。むかしの聖人には、そういう伝説がくっついてくるのでしょうか。そういえば、キリストも若いころの十何年間は、何をしていたかわからない空白の時期とされていますが、なんとその間、キリストは仏教の僧になって修行していたという、大胆きわまりない説もあります。キリストが誕生したときにやってきた東方の三博士も、実は仏教の僧だったとか。そこまでいかなくても、聖徳太子はむしろお釈迦様とのダブルイメージがあると言っていたのは梅原猛です。

ただ、この時代、ネストリウス派のキリスト教が中国にやってきているわけですから、小野妹子がキリスト伝説をもってきていても不思議はありません。斉明天皇となると、キリスト教どころか、ゾロアスター教の影響を受けていたのではないか…というのが松本清張説です。『火の路』という小説仕立てにしていますが、説得力がないわけでもない。飛鳥にはいくつか妙な石造遺物が残っています。酒船石とか、亀石とか猿石とか。益田磐船というのもあって、これはゾロアスター教の拝火壇なのだとか。『続日本紀』には「波斯人」が日本に来たという記述もあり、これはペルシャ人のことなので、ゾロアスター教が伝わっていてもおかしくないのだそうな。これはNHKでドラマ化されました。主役は栗原小巻で、芦田伸介も重要な役どころでした。

東大寺二月堂のお水取りもゾロアスター教とのかかわりを言う人がいます。正倉院にはペルシャ由来の文物も数多くあるのですから、これも可能性なしとは言えません。松明が燃えさかる光景がよくニュースで流れますが、東大寺修二会というのは、火と水の儀式であり、火だけでなく、水や土を大事にするゾロアスター教と結びつきそうです。伎楽だって、古くは「くれのうたまい」と言いましたが、外国の代表として「呉」と言っているだけで、むしろ「胡」でしょう。インドかペルシャあたりのものが中国経由でやってきたと考えられます。そもそも唐自体がシルクロードを通じてペルシアのあたりとつながっているのですから、影響があってあたりまえです。オーパーツより可能性が高い。これは「時代錯誤の遺物」「場違いな工芸品」と訳すのでしょうか。なぜ存在するのか、どのようにして作ったのかわからない遺物で、未知の超古代文明の証拠とかいわれます。ムー大陸が描かれている地球儀なんて、いかにもうさんくさいでしょ。

2019年3月10日 (日)

シュメールいやさか

「死神」の「さげ」の部分、やっぱり書いておきます。じつは、やる人によっていろいろなんですね。「ああ、消える」と言うか、無言のままで演者が高座で体を倒すというのが基本形のようで、「昭和元禄落語心中」の「有楽亭八雲」もこの型でやっていますが、成功させるパターンもあります。人間国宝柳家小三治は、いったん成功させておきながら、男は風邪を引いており、喜んでいるときにくしゃみが出てロウソクが消えるというやり方をしました。立川志の輔も、成功してそのロウソクの明かりで洞窟を出て行き、外に出たところで、死神に「もう明るいところに出た」と言われて自分で消してしまうという形を作りました。千原ジュニアもこの落語に挑戦しています。ジュニアは、男がロウソクを持って帰宅するのですが、妻に「昼間からロウソクつけて、もったいない」と吹き消されるという落ちにしました。いちばん好きなのは、立川志らくのさげです。成功したあと、死神に「今日がおまえの新しい誕生日だ。ハッピバースデートゥーユー」と歌われて、男が思わず火を吹き消す、というさげです。

で、呪文の話の続きです。「アジャラカモクレン、キューライソ、テケレッツのパー」同様、脱力感きわまりないことばとしては、「ラメちゃんたら、ギッチョンチョンで、パイノパイノパイ、パリコトパナナで、フライフライフライ」というのもあります。これは呪文ではなく、「東京節」という歌の文句です。明治のころの「演歌師」添田唖禅坊という人の息子が古いアメリカの曲に歌詞をつけたものです。添田唖禅坊はフォークシンガーの走りということで、高石ともやとか高田渡、加川良などがカバーしていましたし、「東京節」もなぎら健壱が歌っています。ドリフターズも歌っていたと思います。「ラメちゃんたら…」は意味がわかるようでわからないのですが、要するにスキャットみたいなものでしょう。あるいは吉本のギャグ、たとえば「インガスンガスン」のような。ただ、喜劇映画などでは呪文として使われることもあったようです。もちろん観客には有名な歌のフレーズであることはわかっているわけで、結局はギャグの扱いになるわけですが。

ディズニーの「シンデレラ」の中で、魔法使いがカボチャを馬車にかえるときに歌う「サラガドゥーラ、メチカブーラ、ビビディバビディブー」というのもありました。ルイ・アームストロングが歌ったものが何かのCMでも使われていました。これも意味不明のことばを呪文として使ってます。「ラメちゃんたら…」に比べると、「ビビテバビデブー」はまだなんとなく効き目がありそうです。「アリババと40人の盗賊」に出てくる「オープン・ザ・セサミ」は有名すぎて、すっかり陳腐化してしまいました。いまどき「開け、ごま」なんて言う人はいないでしょうが、何の番組だったか、愛川欽也がよくさけんでいました。口裂け女はポマードが大きらいで、「ポマード、ポマード、ポマード」とさけぶとひるんでしまうとか。そのすきに逃げればよいという「都市伝説」がありましたが、効き目があったのでしょうか。ポマードも最近はにおいがきらわれて整髪料としてのニーズは少なくなっているようですが、ドラキュラがにんにくをきらうように、においで悪鬼を退散させるというのは、ひいらぎにいわしの頭をさす節分の風習ともつながりそうです。洋の東西を問わず魔物は強いにおいを嫌うと考えられてきたのか、それとも一つのルーツから派生してきたのか。いずれにせよ、においをきらうのであって、ことばそのものをおそれるわけではないでしょう。ドラキュラに向かって、「にんにく、にんにく」とさけんでも意味はないはずです。ただ、日本の場合にはやはり言霊信仰があるのかもしれません。

西欧だって、ことばの力は認めています。なにしろ「はじめにことばありき」ですから。「さよなら」の「グッドバイ」も、もともとは「ゴッドバイ」で、「神が汝とともにましますように」という意味だと言われます。ちなみに「ゴッド・アンド・デス」(これはカタカナ読みではなく、英語風に発音しなければならない)は「ありがとう」の意味だと相撲取りが言っていたとかいないとか。英語のルーツはよくわからないらしいですが、ゲルマン族のうちのアングル人やサクソン人のことばが元になっているようです。「イングリッシュ」とは「アングル人のことば」という意味だそうですな。ただ、その後バイキングのことばもまじり、さらにはフランスからやってきたノルマン人に占領されます。ノルマン・コンクェストというやつです。支配階級はフランス語、一般庶民は英語を話すことになります。イギリス人が大好きなリチャード獅子心王はフランス語しか話さなかったわけですが、やはり英語全体にもフランス語の語彙がはいっていきます。牛がカウなのに、牛肉がビーフになるのは、前者が英語系、後者はフランス語系であるかららしい。ビッグとポーク、シープとマトンも同様で、要するに支配階級の食べる肉を庶民が生産していたことがわかる対応になっているわけです。さらに、大英帝国として世界中を支配していくうちに現地のことばも取り込んで、今の英語になったようです。

日本語のルーツはシュメール語だという、トンデモ説があります。まあ、これは神代文字と同じレベルのうそでしょう。ただ、おもしろいことはおもしろい。シュメール語は膠着語だったそうです。中国語は意味を持つ漢字を単純に並べて文を作る「孤立語」と呼ばれ、ヨーロッパのことばは、単語が人称や時制などに応じて複雑に変化するので「屈折語」と呼ばれます。それに対して、日本語のように、一つの意味を持つ単語を助詞や助動詞でつなぎ合わせて文を作るものを「膠着語」と言います。「膠」はニカワ、つまり接着剤ですね。この特徴が似ているのなら、二つの言語は多少の近縁関係にあるかもしれません。シュメール文明というのは、チグリス・ユーフラテス川の下流、つまりはメソポタミアですな、そこで始まった「世界最古」の文明ということになっています。シュメール人は、突然この地に姿を現し、それまで何もなかったところに最初の文明を築き、突然姿を消したらしい。その「神話」では、宇宙のある星からやってきた人々が人類をつくったとか。つまり「天孫降臨」です。シュメールの王家の紋章がなんと十六菊花紋だと言います。それが本当なら、日本の皇室と同じです。古代の天皇がスメラギとかスメラミコトとかいうときの「スメラ」は「シュメール」のなまったものだとしたら…。「スメラ」は「統べる」と関係があるという説が後付けの解釈だとするなら、天皇はシュメール人?

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