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2019年4月14日 (日)

連歌師は忍者

仏教伝来は538年と552年の二つの説がありますが、公式な伝来ならそうかもしれません。しかし、それ以前に日本は朝鮮半島に攻め込んだりしていたのだから、仏教の存在は知っていたのではないでしょうか。客観的事実でさえ、いくつかの説があるわけで、定説とは真実ではなく、あくまでも「説」なんですね。歴史で学ぶことも、事実なのか解釈なのか、どっちでしょう。平安遷都の理由はいろいろ説明されますが、単に桓武天皇が弟である早良親王の怨霊を怖れただけかもしれません。

最近、応仁の乱が人気ですが、もともとはいまいち盛り上がらない、ダラダラした戦いのイメージがありました。大河ドラマの『花の乱』は、ワースト視聴率でした。実は意外におもしろかったのですが。「トゥギャザーしようぜ」で有名(?)なルー大柴が「骨皮道賢」の役で出ていました。もともと盗賊逮捕の仕事をしていたようで、そのうち都のあぶれ者をまとめる頭目のような存在になり、東軍に雇われて戦うことになりました。伏見稲荷大社をねじろとして、放火や略奪など、相当むちゃなことをやったようです。結局、西軍方に取り囲まれ、女装をして逃げようとするのですが、その女装があまりにもばればれだったらしく、すぐに取り押さえられ、打ち首になります。垣根涼介の『室町無頼』という作品には、この骨皮道賢がなかなかしぶい人物として登場します。

室町時代は後半の戦国時代ばかりが注目されますが、結構おもしろい人物もいるのですね。独特の美意識をもつ「ばさら大名」として有名な佐々木道誉など、かなり魅力的です。大河の『太平記』では陣内孝則が演じていました。あるとき、お寺の紅葉の美しさにひかれ、一本折りとったところを咎められ、怒った道誉はそのお寺を焼き払ってしまいます。その寺は延暦寺につながる由緒ある寺だったので、幕府に処罰され、島流しになるのですが、その行列はうちひしがれるどころか、陽気で盛大なもので、しかも一行は比叡山のつかいである猿の皮を腰あてにしていたとか。山門延暦寺への面当てであり、少しもへこんでいません。一年後には幕政に復帰しているので、形式的な処罰だったのでしょう。また、南朝方が都に攻め込んできて、二代将軍義詮が天皇を奉じて逃れることがありました。道誉も都を離れることになったのですが、あえて自分の屋敷を飾り立てておいたと言います。そのあと、道誉の屋敷にはいった南朝方の武将は楠木正儀、正成の三男です。道誉のスマートさに感じ入った正儀は、やがて都を去るのですが、そのとき楠木家伝来の鎧と太刀を残していったと言います。

足利義教はくじ引きで六代将軍になりました。「くじ引き」というと軽いイメージになってしまいますが、石清水八幡宮でのくじ引きなので、神意を問うものでしょう。義教は将軍の権威を取り戻そうとし、かなり強硬な政治をします。「万人恐怖」と日記に書いた者もあり、「悪御所」とも呼ばれました。この「悪」は「悪源太義平」と同じ使い方かもしれませんが、やはりマイナスの評価でしょう。癇癪持ちであったことはたしかで、ささいなことで周りの人にむごい仕打ちをしています。後小松上皇とも対立しますが、この上皇は実は足利義満の子供だという説もあり、一休さんの実父だという説もあります。ちなみに、アニメの『一休さん』に出てくる蜷川新右衛門は実在の人物で、格闘家の武蔵はその子孫らしいのですが、それは余談。義教の時代、関東の結城氏との間で起きた「結城合戦」に参加した里見義実が、戦いに敗れて安房に逃げ延びた、というところから『南総里見八犬伝』が始まりますが、これも余談。義教は比叡山とも対立しているし、「魔王」とよばれ、最後は赤松満祐に暗殺されていますから、信長と重なる部分も多く、井沢元彦は『逆説の日本史』の中で義教を高く評価しています。

細川政元なんて、今川氏真、大内義隆とともに戦国三大愚人の一人と言われます。幼名は「聡明丸」だったのに、どこでおかしくなったのでしょうか。応仁の乱の一方の旗頭細川勝元の嫡男です。管領という身分でありながら、修験道にのめりこんで、天狗になって空を飛ぶ法を身につけようとしていたというから、なかなかのものです。その関係で結婚せず、三人の養子をとったために跡継ぎのことで揉めて、この人も暗殺されます。天狗になろうとしただけでなく、なんとこの人は飯綱使いです。荼枳尼天をまつり、管狐(くだぎつね)を使って術を行うのですよ。管狐とは、その名の通り竹筒の中にはいってしまうぐらいの大きさなのですが、実際の動物というより憑き物の一種と見たほうがよいでしょうか。飯綱使いは、管狐を操って、予言や占いをしたり、依頼されると管狐を飛ばしてその人が恨んでいる人にとり憑かせて病気にしたりするのですな。

いわゆる「忍者」も、出自の一つとして飯綱使いが考えられます。忍者が妖しい術を使うイメージはこの管狐から生まれたものかもしれません。飯綱使いは、修験道が底にあります。修験道は、日本古来の山岳信仰に道教や仏教が融合した民間宗教とでも言うべきものです。修験者が山伏と呼ばれるのは、山中で修行することで呪術の力を得るとされているからで、病気の治療や、祈祷を仕事としました。修験道の開祖は有名な役小角(えんのおづぬ)です。忍者の始祖は、聖徳太子に仕えた大伴細人と言われていますが、ほんとかどうかわかりません。忍者は、修験者が用いた九字護身法を使うだけでなく、毒や薬を使ったりしますが、薬は山で修行する山伏と密接な関係がありそうです。

楠木正成は「悪党」と呼ばれました。これは「既存の支配体系に対抗する者」という意味合いで、この場合の「悪」は、強さにつながるプラスイメージもありながら、「命令や規則に従わない」という要素もあるようです。寺院や貴族の荘園に対して、もともとその土地に住み着いていた土豪のような人たちが反抗的な行動をとることもあり、「悪党」と呼ばれたのでしょう。そういう人たちは、奇襲や撹乱などの戦法を得意としたようです。楠木正成はまさにそうですね。忍者の本場、伊賀のあたりには深い山も多く、修験者が活動しやすい場所だったので、伊賀の悪党の中には、修験者の技を学び、ともに諸国をめぐって情報収集を行う者もいたようです。修験者はいわば境界を監視するような役割を持つ人であり、いろいろな階層の人たちと接触できる立場にありました。諜報活動は忍者の基本です。松尾芭蕉のように、諸国を旅する俳諧連歌の師匠も諜報活動に適していたのですね。

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